移転して間もないある夜、さっそく(!)未だ独身の明智小五郎は不可解な事件に巻き込まれる。開化アパートの明智事務所の窓ガラスが突然音を立てて砕けたのだ。それは明智を狙った一発の銃弾によるものであった。
文化アパートは、関東大震災復興の早い時期(大正14年竣工)に米建築家W・M・ヴォーリスの設計で建てられた最先端の仕様が施されたアパートメント(エレベーター・地下車庫完備)。戦後、戦災を免れた建物は連合軍に接収、その後旺文社によって買収されて学生の宿泊施設(日本学生会館)となっていた。1986年に解体され現存しない。
もう一つ、明智探偵事務所の帰趨と奇妙に符号する歴史的事実がある。あのゾルゲ事件(帝国を揺るがすソ連邦の諜報団事件)の中心メンバーの1人Mクラウゼンが、明智事務所が移転した後の昭和11年1月上旬にフィンランド人の妻(アンナ)を伴い文化アパートに入居、3月初旬に明智事務所の後を追うように六本木竜土町に転じている。竜土町の一軒家の南向き2階室内は無線送受信用のアンテナが張巡らされており、その2階窓からは明智事務所の屋根が望めたはずだ(距離は約150m)。2年後、クラウゼン夫妻は逮捕現場となった広尾町へ移転する。また諜報団の日本人メンバーでジョウこと画家の宮城与徳も明智竜土町事務所から100m以内に隠れ家(銭湯の横)を持っていた。
画面右側に明智事務所(2階)が入居した開化アパートがあった。奥(水道橋方向)からやって来た自動車から明智小五郎は狙撃される。左側は深く掘り下げられた江戸城外濠。
「黄金仮面」(「江戸川乱歩全集」第6巻1979年講談社刊に収録)より「開化アパート」の記述がある部分を抜粋。
<<二美人の惨死。国宝にも比すべき古美術品の盗難。だが怪物黄金仮面の正体はもちろん、その配下の行方さえ、名探偵明智小五郎の手腕をもってしても、ついにつきとめることができなかった。それはとにかく、本ものの黄金仮面が、三度目の犯罪を企てていることがわかったのは、四月の終りに近いある日のことであった。それは、どんより曇った、へんにむしむしする、なんとなくおさえつけられるような夕方であったが、明智の部屋借りをしている、お茶の水の開化アパートの一室へ、妙な客が訪ねて来た。
われわれの主人公明智小五郎の住居についてしるすのは、これがはじめてだから、少々説明しなければなるまい。彼は「蜘蛛男」の事件を解決してまもなく、不経済なホテル住まいをよして、ここのアパートへ移ったのだが、独身者の彼には、一家をかまえるよりも、この方が気楽であり便利でもあった。借りているのは表に面した二階の二(*ふ)た部屋、一方は七坪ほどの手広い客間兼書斎、一方は小ぢんまりした寝室になっている。(略)>>
<<自室にとじこもった彼は、昼も夜も読書に余念がなかった。彼の室は、アパートの二階の表に面したがわにあったので、夜は用心深くしめきったガラス窓と黄色のブラインドを通して、彼の読書する影が、表通りから眺められた。机が窓ぎわに置いてあったために、彼の影は毎晩同じ窓に同じ形で映っていた。時々廻転椅子の向きをかえたり、姿勢をくずしたりする様子が、ハッキリした影絵になって、まざまざと眺められた。夜の読書は八時から十時までと判で押したようにきまっていた。十時がうつと、電燈を消して彼は寝室へしりぞくのだ。(略)
それは賊の迫害がはじまってから、ちょうど一週間目の夜であった。
いつも明智が窓際の読書から寝室にしりぞく十時に五分前というきわどい時刻、さすがの名探偵も、全く予想しなかったであろうような、思いがけぬ方角から、賊の最後の非常攻撃がおこなわれ、しかもそれがまんまと功を奏したのである。十時五分前、一台のありふれた型の自動車が、水道橋の方から、開化アパート前の電車通りを、フル・スピードで走ってきた。見たところどこといって変った様子もなかった。ただテイルの番号標の白い数字に、泥がかかって、半分ほど全く見えなくなっていたけれど、ゴー・ストップのお巡りさんも、まさかそれが、番号を隠すために故意に泥をぬったものとは気づかず、なにげなく見逃してしまったほどであった。(略)
車はフル・スピードのまま、開化アパートの前にさしかかった。車上の射手は、すわとばかり狙いをさだめた。銃口の向かうところは、ああ、アパートの二階の明智の部屋だ。そこの窓に映った名探偵の黒い影だ。この日頃の習慣といい、モジャモジャ頭をはじめ全身の恰好といい、人違いをする気づかいはない。アッと思うまに、深夜の大気をゆるがして、一発の銃声。だが、誰もおどろくものはない。まさかそんなところで鳥打ちをはじめるやつもないからだ。自動車のタイヤがパンクしたんだなと、そのまま聞きすごしてしまった。ただ、アパートの隣室の人々が、ちょっとおどろかされた。というのは、明智の部屋の窓ガラスがひどい音を立てて割れたからだ。(略)
開化アパートの前は、電車通りとはいえ、一方川(*外堀=神田川)に面した寂しい場所だが、午後十時ごろには、まだかなりの通行者があったはずである。犯人はいかにして、通行者の眼をくらまして、この兇行を演じえたかが、非常な疑問とされているが、当時アパートの前を徒歩で通りかかったという同区S町○○番地大工職Dの申したてによると、ちょうどその瞬間にはチラホラ徒歩の通行人があったばかりで、電車(*市電=路面電車)も自動車も見えなかったが、そこへ水道橋の方角から、一台の自動車が、非常な速力で走ってきて、みるみるアパートの向こう横町へ曲って行った。その自動車が、アパートの正面にさしかかった時、とつぜん、パンクでもしたようなひどい音がしたかと思うと、自動車の窓からバッと白い煙が吹きだすのが見えたというのである。>>
地図(昭和8年当時)。最近までは文化アパートの位置には、順天堂大学10・11号館(=アパート正面玄関)が建っていた。
参考:「ヴォーリズ建築の100年」2008年創元社
「現代史資料24」1971年みすず書房刊(ゾルゲ事件第二回被疑者訊問調書)
江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
浅草木馬館 回転木馬の心酔者江戸川乱歩と萩原朔太郎 「探偵小説十年」より http://zassha.seesaa.net/article/455118303.html
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