若き鷹匠・図書之助(ずしょのすけ)は大殿の放った鷹を追い、天守最上階へ上り、富姫と相まみえる。互いに許されるはずのない恋心を抱き始めるのだが・・・・
夫人 (間)誰(たれ)。
図書 はつ。(と思はず膝を支く)某(それがし)。
夫人 (面のみ振向く、無言)
図書 私は、当城の大守(たいしゅ)に仕(つか)ふる、武士の一人でございます。
夫人 何しに見えた。
図書 百年以来、二重三重(*本丸天守閣)までは格別、当お天守五重までは、生(しょう)あるものゝ参つ
た例(ためし)はありませぬ。今宵、大殿の仰せに依つて、私、見届けに参りました。
夫人 それだけの事か。
図書 且(か)つ又、大殿様、御秘蔵の、日本一の鷹がそれまして、お天守の此のあたりへ隠れました。
行方を求めよとの御意(ぎょい)でございます。
夫人 翼あるものは、人間ほど不自由ではない。千里、五百里、勝手な処へ飛ぶ、とお言ひなさるが可
(よ)い。用はそれだけか。
図書 御天守の三階中壇(ちゅうだん)まで戻りますと、鳶(とび)ばかり大(おおき)さの、野衾
(のぶすま*コウモリ・ムササビのような妖怪)かと存じます、大蝙蝠(こうもり)の黒い翼に、
灯を煽(あお)ぎ消されまして、いかにとも、進退度を失ひましたにより、灯を頂きに参りました。
夫人 たゞそれだけの事に。・・・・二度とおいでゝないと申した、私の言葉を忘れましたか。
図書 針ばかり片割月(かたわれづき)の影もさゝず、下に向へば真の暗黒、男が、足を踏みはづし、
壇(だん)を転がり落ちまして、不具(かたわ)になどなりましては、生効(いきがい)もないと
存じます。
上を見れば五重の此処より、幽(かすか)にお灯がさしました。お咎(とが)めを以つて生命を
めされうとも、男といたし、階子(はしご)から落ちて怪我をするよりはと存じ、御戒(おんいま
しめ)をも憚らず推参(すいさん)いたしてございます。
夫人 あゝ、爽(さわや)かなお心、そして、貴方はお勇しい。灯を点けて上げませうね。(座を寄す)
図書 いや、お手づからは恐(おそれ)多い。私が。
夫人 否々(いえいえ)、此の灯は、明星、北斗星、竜の灯(りゅうのともしび)、玉の光もおなじこと、
お前の手では、蠟燭(ろうそく)には点きません。
図書 はゝツ。
夫人、世話めかしく、雪洞(ぼんぼり)の蠟(ろう)を抜き、短檠(たんけい)の灯を移す。
燭(しょく)をとつて、熟(じつ)と図書の面(おもて)を視る。恍惚(うっとり)とす。
夫人 (蠟燭を手にしたるまゝ)帰したくなく成つた、もう帰すまいと私は思ふ。
姫路城天守最上層の木組み。富姫、亀姫、侍女たち、女の童、禿(かむろ)ら妖怪が集い、さんざめく「天守物語」の異様な物語がこの空間で展開する。天守最上層の広さは、登場人物らの配置、動きに過不足なくぴったりと収まる。狭い回廊の端に黒蝙蝠(こうもり)のように張り付いて人物の動きにしばし想いをめぐらすのも興がある。
しかし、のんびりと天守に滞まることは許されない。観光客がひっきりなしに上ってきて人熱(ひといき)れするほどの混雑が続く。最上層の板張りを撮影しようにも無数の足が入り込むだけ。よってまともな写真は天井だけになってしまった。
泉鏡花「天守物語」新小説大正6年9月初出
「鏡花幻想譚5」(天守物語の巻)1995年4月河出書房新社刊より抜粋
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