旧制静岡高校跡地(戦後、新制静岡大学文理学部キャンパスとして継承、現在は市立城北公園)。
「焔の中」群像1955年4月号初出、単行本「焔の中」1956年12月新潮社に収録。
<<昭和十九年の初春に徴兵検査を受けた僕ならびに友人たちは、翌年の春までのほぼ一カ年のうちに次々と入営の令状を受取った。令状を受取る時期は、全く予測できなかった。一時間後に舞い込むかもしれないし、あるいは一カ年後まで学生生活を続けられるかもしれない。僕たちの大部分は、令状が届くのが一日でも遅いことを願っていた。といって、学生生活が楽しかったわけでもない。飲酒退校、喫煙停学、という校則がことごとしく設けられていたし、一挙手一投足が監視され口喧しく指図されていた。そうなると、一つ一つ僕たちは相手が静め込もうとする枠からはみ出した行動をしたくなってしまう。そして、その結果として不愉快な苛立たしい気分に陥ることになるのだ。そういう気持を、毎日繰返しているのが、僕たちの仲間の学生生活だった。しかし、それは一つには反抗する余地があるから、そういうことにもなるのである。反抗すれば死刑、という動かぬ規則があれば、事情は余程違ってくる筈だ。なまじ僅かながら自由のようなものが残されているから、かえって煩わしいことになってしまうのだ、と、
「これで、かえってサッパリしたよ」
と入営令状を手にして言う友人も、稀にはあった。一種、自暴自棄の状態ということができよう。僕に令状が届いたのは、八月中旬だった。九月一日に0市の連隊に入営せよ、という通知である。友人たちの一人も、同じ月に別の連隊に入営することになった。(略)
0市(*岡山市)へ向って出発する時には、友人たちは駅まで見送ってくれた。僕を乗せた汽車が遠ざかって行けば、それっきり僕と友人たちと会う日は来ない筈なのだ。なにしろ、僕は甲種合格の現役兵として入営するのである。特殊な部隊へ入れられて、危険な戦線へ向けられることは、確実といってよい。友人たちは、惜しみなく別離の情をそそいでくれた。果して、僕の所属した歩兵部隊は「突部隊」という名称で、数カ月の猛訓練ののち現地へ派遣されるという話であった。>>
かっての正門脇に設置された留魂記に刻れているように旧制静岡高等学校の創立は1922年8月。廃絶は1950年(1949年5月新制静岡大学発足により学部包括)。その後、国立静岡大学は1968年に同市駿河区大谷に全面移転。跡地は整備され、静岡市立城北公園として1985年に市民に開放された。
「焔の中」続き。
<<「風邪をひいた、とおもうのであります」
「カゼだと、ふん緊張が足らんから風邪などひくのだ。」
医務室の軍医も、咎(とが)めるような鋭い口調で言った。
「どこの学校だ」
「S高であります」
「何年生だ」
「二年です」
「あと半年で、大学へ進むところだったんだな」
会話の途中で、不意に軍医の語調から巌しさが消えた。
その変化は、驚くほど際立っていた。
S高に、軍医が個人的因縁を持っているのかもしれぬ、と僕は考えた。
「ともかく診てみよう」
と軍医は気軽な調子で言った。僕はほっとしてシャツを脱いだ。この按配では、一日ほど寝ていることができるかもしれない、と聴診器の先がヒヤリと皮膚に当るのを感じながら、大きな呼吸を繰返した。その度に、気管支でかすかに鳴る音が聞えるようだ。もっと大きな音で鳴れ、と僕は一層深く息を吸い込んだ。
軍医は聴診器を耳から外し、隣の椅子に坐っているもう一人の軍医の方を向いて、低い声で話しかけた。その囁くような声は、僕の耳に届いた。それはまったく思いもかけぬ、夢想さえすることのできなかった内容なのだ。
「これは、気管支ゼンソクですな。隊は『突部隊』ですから、ちょっとムリでしょう。どうしましょう、帰しますか」
喘息という病気の名前は知っていたが、それに関する知識は皆無だった。その病気と僕とは、無関係だとおもっていたからだ。しかし、そのことよりも遥かに衝撃を受けたのは、即日帰郷になるかもしれぬ、ということだ。表情が変りそうになるのを、辛うじて押しとどめた。軍医は、僕の方に向き直って訊ねた。
「おまえは、自分がゼンソクだということを知っていたか」
「知りませんでした」
「呼吸が苦しくなるときには、吸う息が苦しいか、それとも吐く息が苦しいか」
「たぶん、吸う息です」
すると、軍医はちょっと首を傾げ、ふたたび隣の椅子の軍医の方へ顔を寄せて、相談をはじめた。二人の軍医の囁き交す声は、今度は僕には聞き取ることができないのだ。
やがて、軍医は僕の眼を覗き込むようにしながら、言った。
「おまえは気管支ゼンソクだからな、帰すことにする。隊へ戻って、命令の出るのを待機しておれ」
すこしも表情を変えることなく、僕は隊の方へ歩いて行った。しかし、堅い筈の地面を踏む足に、ひどくふわふわしたものを踏みつけている感触が伝わってくるのだ。兵舎へ戻ると、軍服を脱いで学生服に着替え、自分の寝る場所の上に正坐した。(略)
軍医の診断を受けてから、一昼夜経って、やっと命令が届いた。兵営の広い庭を横切りながら営門へ向って歩いていると、どこからともなく兵長が再び姿をあらわして、僕の耳に囁いた。
「しっかりがんばれよ。ヤマモトさんに伝えておくぞ。しつかりした同志に会ったとな」
兵営の門を通り抜けて、振向くと、兵長の小さな姿が大きく手を振って別れを告げているのだ。営門から0市まで約四千メートルの道を、僕は急ぎ足に歩いて行った。このときはじめて、嬉しさが爆発したように、胸の中に渦巻いた。途方もなく大きな声で、やたらに叫びたい気持だった。僕はあたりに人影のないのを見定めて、ケ、ケ、ケ、一ケッ。と、わざとはっきり発音して、笑い声とも叫び声ともつかぬ声を出しつづけながら、前のめりになって歩いた。(略)>>
抜粋は「吉行淳之介全集第5巻」1998年新潮社より。
吉行淳之介は旧制高校時代のエピソードを様々な角度からエッセイ等で描写している。
<<私の入学したのは静岡高校で、市のはずれの賤機(しずはた)山の麓のところに校舎があった。旧制度では中学が五年まであったから、高校一年生の年齢は現在の制度の大学一年生とほぼ同じに当る。
静岡高校の場合、一学年の総数は文科三クラス理科二クラス合わせて二百人、一年生は六つの寮に入って、寮生活を送ることになっていた。校庭に出て、校舎を背にすると、真正面に富士山がある。視野いっぱいになるほどの大きさで眼の前にあり、富士山は日常生活の中に入ってしまった。その上、その富士山に厭な色の膜がかかるようになってきた。
私の静高在学は、昭和十七年四月から二十年の三月、つまり太平洋戦争の期間にほぼ等しい。高校生括にも軍国主義は這入り込んできていた。毎朝、校庭に集団で富士山へ向って整列した。体操をさせられて、軍事教練の教官が指導に当っていた。生徒が代表になって、手本を示したこともあったような気がする。整列した私たちの前に台が置かれ、その上に選ばれた生徒が立って、威勢のよい号令とともに体操の手本を示す。その向うに富士山がある。厭な光景だった。旧制高校に入学すれば、一人前の大人と見倣された時代がつづいていた。生徒が体罰を受けることは有り得ない。しかし、時代は変ってきた。心理学の教授が、授業中に一人の生徒を殴った。講義を聞かずにぼんやり窓の外を眺めていたという理由である。その生徒ほ憮然とした表情のままでいたので、その教授は気が狂ったように殴りつづけた。
二学期になって、現役の陸軍大佐が教練の教官として配属された。この大佐は、軍服姿で校内を歩きまわり、しばしば生徒を殴るのである。入学してからの一年間、私はほとんど毎日のように街に出て、映画を見たり酒を飲んだりした。東京よりはかなり物資が豊かであったが、それでも酒は一人につき銚子二本まで、ときめられていた。そこで馴染みの飲屋をようやく四軒つくり、都合八合、あとは酸っばい葡萄酒を飲ませる店を見つけて、そこで仕上げをした。自分では酒に強いつもりでいたが、それらの酒はかなりの水で薄めてあった筈だ、ということに後年気づいた。静岡は城下町で、町はずれの寮から濠端を歩いて街まで往復する。燈火を暗くするきまりの時代だったので、濠端の道は真暗だった。(略)>>
「富士山」群像昭和56年10月号初出。吉行淳之介エッセイ集「犬が育てた猫」1987年潮出版から抜粋。
かっての旧制静岡高等学校の広大な敷地には、曇天から雨に変わるのか、グレーの靄がかかり始め、見通しがきかない。「富士山へ向って整列した」光景も求めようがない。
徴兵を免れた吉行淳之介は敗戦の年の4月、東京帝国大学文学部英文科に進学する。翌月25日の東京山ノ手大空襲で市ヶ谷新坂の実家(吉行あぐり家)一帯は全焼、焔の中を逃げ回る。小説「焔の中」にこの間の詳細が語られている。
参考:吉行淳之介随筆集「街角の煙草屋までの旅」講談社文庫収録の年譜。
吉行淳之介リンク
岡山 作家・吉行淳之介の墓http://zassha.seesaa.net/article/346550974.html
北青山 特法寺 吉行家の墓地http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html
世田谷 作家・吉行淳之介 終焉の地http://zassha.seesaa.net/article/387061049.html
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