聖武天皇の勅願により建立された東大寺は、天平19年(747年)12月にその寺名が初見される。天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760年)7月東大寺の造寺はほぼ終了する。
造寺150余年後(延喜17年12月)に講堂は最初の火災に見舞われ焼失する。西室より出火した炎は、講堂・三面僧房などを焼き尽くしたが、20年を待たずに講堂は再建される。承平4年(935年)5月、千僧を請じて講堂の落慶供養が営まれている。
講堂の次の厄難は治承4年(1180年)12月に訪れる。平清盛の命により南都に押し寄せた平重衡(しげひら)の軍兵により、東大寺・興福寺・元興寺の諸堂は、折からの北風に煽られ焼亡する。大仏が熔解する中、講堂も灰燼に帰す。平氏滅亡後、鎌倉幕府の援けを受け、東大寺は再興、喜禎3年(1237年)4月に講堂の上棟式が行われている。下に抜粋した白洲正子のエッセイでは、その後「再び建立されることはなかった」と結論が下されているが、それは間違い。
さらに時代が下った文安3年(1446年)1月2日に講堂のすぐ南西に配されている戒壇院が炎上する。大火災となり、授戒堂・講堂・長老坊などが類焼している。その後、今度は講堂自らが出火(永正5年=1508年3月)し、講堂の炎は三面僧坊に飛び火し、あたりは焼滅。この火災のあとに講堂が再建されることはなく、現在に至っている。
東大寺講堂址kodou-historic ruins。礎石が残されているのみ。鹿が集団で睨み付けるので
怖くて近寄れない(超ビビり)。
東大寺大仏殿の北裏門。振り返ると真後ろが講堂址。
「東大寺の講堂跡」(初出不詳)より抜粋。
<<東大寺の大仏殿は、四六時中観光客で賑わっているが、そこから裏側へ回って行くと、まるで別世界のように静かな一廓がある。もと講堂が建っていたところで、松林の間に礎石が点々と遺っているだけのガランとした風景だが、ここへ来ると私はほっとした気分になる。講堂というのは、古い寺ならどこにでもあるが、私たちはあまり注意したことはない。いつも金堂のうしろにひそかに建っており、たいていは横目で見て通りすぎてしまう。が、寺院の生活にとっては、経典を講読したり、説教を勧めたり、さまざまの儀式を行う重要な建物であった。平安時代にはそれも次第に省略されてしまうが、東大寺が建立された頃は、僧侶たちが修行する私的な場であり、実質的にはそこが中心の核となって毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)の信仰が津々浦々へ波及して行ったにちがいない。
かつてこの講堂には、二丈五尺(約七・六メートル)に及ぶ乾漆の千手観音(せんじゆかんのん)が鎮座していたという。大仏と同じく聖武天皇の勅願によるもので、大仏開眼より三年後の天平勝宝七年(七五五)に完成し、周囲には多くの僧坊がひしめいていた。が、平安初期の火災でことごとく焼失し、間もなく再建されたが、治承四年(一一八〇)平重衡(たいらのしげひら)の兵火に焼かれた後は、再び建立されることはなかった。
そこに遺る大きな礎石を眺めながら、松風に吹かれていると、しきりに「諸行無常」ということが想われる。だからといって、けっして昔の盛観をなつかしんでいるわけではない。むしろ、何もないことの有難さを噛みしめているといったほうがいいかも知れない。(略)>>
白洲正子エッセイ集「名人は危うきに遊ぶ」1995年新潮社に収録。
参考:「古寺巡礼奈良 東大寺」1980年淡交社刊
「日本史年表」1966年岩波書店

