上田敏(うえだびん)の訳詞集「海潮音」に散りばめられた文字のひとつひとつに皮膚が反応し、ぴりぴりと電流がはしりまわり続けた。ヴェルレーヌと上田敏が同化し一体となって脳内に流れ入り、忽ち溢れんばかりに煌めく言葉で埋めつくされてしまった。ヴェルレーヌ、ランボー、行きついたところは鮮烈な映像作家ゴダール。19歳の体内はこの3人で満たされ、ゴダールの愛した女アンナ・カリーナとアンヌ・ヴィアゼムスキーに似た表情と雰囲気を持つ女を探し求めるまでになっていた。
菊池寛(後に文藝春秋社創設)の追悼文「上田敏先生の事」より抜粋。
<<(略) 自分は先生の新婚当時の写真を見たが、豊頬明眸都会的な理智的な何とも云はれぬ感じのいゝ顔を持つて居られた、晩年は病気の故で顔色も悪かつたが眸丈(ひとみだけ)は尚(なお)先生の若き日の凡てを暗示して居た。「文學界」時代には官立の高等学校生である上に、晴やかな美貌を持つて居られたので羨望の的であつたと云ふ話である。先生は明治四十年頃迄は得意の時代であつたがそれから以後はやゝ、失意であつたと云ひ得る、大學教授たり文學博士たることによつて先生が満足して居たと観ずるものはあまりに先生を知らないものである。先生は採点なども頗(すこぶ)る寛大で七十五点より下などは決して付られなかつた。凡てに於てリベラルであつた。自分は三年の京都生活を終つて上京せんとして七條(*当時の京都駅・七条停車場)へ急ぐ途中先生の訃に接したのである。滊車の中で先生の事ばかりを思つて居た。>>
左に上田家合祀墓、右に上田敏単独墓。
<<先生は今の日本人でかけ換へのない人と云つてよかつた。京都(*京都帝大)の英文科は先生を失うて存在の理由の大部分を失くした。日本人では一寸後継者が見当らないとの事である。英文科を教員養成所のやうに扱ふのなれば候補者が幾何(いくら)でもあるだらうが。先生はあまりに聡明で理智的であつたから創作の方面には僅に一指を触れられたのに過ぎなかつた。あれほど愛せられた詩も自分で作られたのは啄木氏の「あこがれ」に対する序詩と外一阜とである。文壇の平凡な民主化に対し先生は不満であられたが之を其向から攻撃せられることなどは決してなかつた。太陽の文芸時評を受け持たれた時などは絶好の機会であつたが、「そんな事をするとうるさいですからね」と云つて居られた、人を批難攻撃することは下品であると思はれたからだと思ふ。先生は酔余ある文學博士に真向から「君は何もロクな事をして居ないのによく博士になれたな」と浴びせかけたと云ふ話を聞いたが自分はその偽りであることを確信して疑はない。先生に対する世評若(も)しくは他人の批評は知らない。自分は先生を気障だと思つたことも不快だと思つたことも、嫌ひだと思つたこともない。自分は先生が好きであつた、先生はシュニッラアの戯曲を読むが如き感じの人であつた。終りに先生の御遺族の幸福を析つて置かう。(五、七、二十二。)(*大正5年7月22日)>>
向って右側に設けられた上田敏単独墓(上下写真とも)。側面に生年(明治7年10月30日)と
死没(大正5年7月9日)の日付が並刻されている。
「上田敏先生の事」1916年(大正5年)8月「新思潮」初出。
「菊池寛全集補巻」1999年文藝春秋・武蔵野書房刊に収録。
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