平家諸本においても年次、刑場場所などがまちまちで異説が多いが、正治元年説・逗子刑場説をもって仮定する。
平家物語巻第十二(新潮日本古典集成「平家物語 」新潮社)より抜萃。
<<(文治元年のこと)都の守護に上られける北条(*時政)がもとへ、源二位殿(*頼朝)、言ひ上せられけるは、「平家の子孫さだめて多かるらん。尋ね出だし、失ひ給へ(*殺せ)」とのたまひければ、(北条時政が)「平家の子孫尋ね出だしたらん人は、何どとも望みのままたるべし」と、披露しければ、京の者、案内は知りたり、尋ねもとめけるこそうたてけれ。(略)
そのなかに、「小松の三位(さんみ)中将椎盛(これもり)の子息(*長男)、六代御前とて年もおとなしくおはするうへ(*大きくなっている)、平家嫡々の正統なり。これを失はれよ」と、鎌倉よりのたまひ上せられければ、北条、(六代を)尋ねかねて、すでに下らんとするところに、ある女房、六波羅(*かっての平家根拠地跡に置かれた時政の舘)へ来たりて申しけるは、「これより西、遍照寺(*嵯峨野大覚寺の別院)の奥、小倉山のふもと、大覚寺と申すところに、小松の三位の中将殿の北の方、若君、姫君あひ具してこの三年(みとせ)住み給ふぞ」と、教へけるほどに、北条、やがて人をつかはして見せられければ、使、この房中に入り、人を尋ぬるよしにて、籬(まがき)のひまより見入れたれば、をりふし、白き狗(ゑ)の子(*白い子犬)の走り出でたるを取らんと、いつくしげなる若君の走り出で給ひたるを、乳母かとおぼしき女房の、あわてて続いて出で、「あな、あさましや。人もこそ見候ふらめ(*誰がみているかわからないでしょうに)」とて、急ぎ入れたてまつる。>>
六代御前捕縛に六波羅北条勢が押し寄せた京・嵯峨野の大覚寺
<<「一定(いちぢょう)こめ人なるぺし」と心得て、使、帰りて申せば、北条五百騎ばかり、大覚寺へ押し寄せ、打ちかこめて、「これに小松の三位の中将殿の若君のましますなる。北条と申す者、御迎へに参りて候」と、人を入れて言はせければ、母御前、「ただわれを先にうしなへ(*殺してください)」とてぞ泣かれける。(略)>>
京・北条六波羅亭跡付近、六波羅裏門通(平家六波羅の池亭を占拠し北条時政亭を建設)
<<北条、駒の足を早めけるほどに(*東下)、駿河の国千本の松原にもかかり給ふ。ここにて輿(こし)かき据ゑ(*輿を下し)、敷皮しき、若君をおろしたてまつる。(いよいよ千本松原で処刑かというところへ頼朝からの御教書が届く。)
小松の三位の中将維盛の子息、尋ね出だして候ふなるを、
高雄の聖のしきりに申さるるの条、預け申すべし。
北条の四郎殿へ 頼朝
とぞ書かれたる。御自筆なり。御在判なり。>>
(かねてより命ごいを行っていた高雄山神護寺の文覚上人に預けよという頼朝直々の命令書であった。)
(文治2年1月、文覚は六代を伴い、京へ戻る。大内裏の東南、二条猪熊の「岩上」というところの里坊に入る。)
逗子田越川、左手の小高い森の中で処刑(伝)
<<正治元年正月十三日に、鎌倉殿五十三(*頼朝53歳で)と申すに、失せ(*死去)給ひてのち、文覚(もんがく)、この事(*二の宮擁立)とり企てけるほどに、たちまちに聞こえて、文覚召し出だされ、年八十にあまりて、隠岐(おき)の国へぞ流されける。上皇(*後鳥羽)、あまりに手毯(てまり)を好ませましましければ、文覚、追立(おつたて)の庁使(*流罪人を護送する検非違使庁の役人)、領送使に具せられて、都を出でしときも様々の悪口ども申して下りけり。(略)
六代御前は、三位禅師とて行ひ(*修行)すましておはせしを、文覚流されてのち、「さる人の弟子、さる人の子なり、孫なり。髪は剃りたりとも、心はよも剃らじ(*心は出家していない)」とて、宮人資兼(すけかね)に仰せて、鎌倉へ召し下さる。このたびは、駿河の国の住人、岡部の三郎大夫(*岡部泰綱)、うけたまはつて、鎌倉の六浦坂(むつらざか*三浦半島六浦から朝比奈切通を経て鎌倉口に至る上り坂。諸説あり処刑地は定まらず。逗子田越川説には跡碑あり)にて斬られけり。十二歳より三十二まで保ちける(*命を永らえた)は、長谷(はせ)の観音の御利生とこそおぼえたれ。それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけれ。>>
逗子田越川河畔の処刑地に建つ六代御前墓碑
「平家物語」巻末の六代処刑までの経緯(千本松原の六代と文覚上人の故事)の一部が、谷崎潤一郎の中編「羹」(あつもの)に旅の車窓からの風景にからめて取り上げらている。
<<「沼津は海岸よりも却つてあの邊(*辺)の街の方が面白いぢやないか。空が如何にも青々として居て、まるで廣重の五十三次の繪(え)を見るやうだ。先づ東海道では彼處邊が一番だな。」
「へえ、そんなに好い景色なの。」と、お品は夫と忰の顔を見廻して、合槌(あいづち)を打つたが、宗兵衛はそんな事に頓着なく、夢中になつて話を続けた。
「あの千本松原で、六代御前が頼朝の使に首を切られさうになつたのを、文覺上人(もんがくしょうにん)が命乞ひに駈け着けたといふんだ。あんな所で殺されたら、死ぬにしても好い氣持だらう。たしか高山樗牛と云ふ文學博士の墓も、江尻か何處かにあつたぢやないか。」
「えゝ」と云つて、宗一はちよいと意外の感に打たれた。六代は兎に角として、父が高山樗牛を知つて居るのは可笑しいと思つた。
「六代御前と云ふのは誰のこと?」
と、お品は團扇(うちわ)の手を止めて、宗兵衛の方を向いた。
「六代と云ふのは、平維盛(これもり)卿の子供よ。義太夫の「餅屋(すしや)」の文句にあるだらう、「内侍は高野の文覚に、六代が事頼まれよ。」ッてえの彼(あ)れのことだ。浄瑠璃と云ふものも、満更(まんざら)嘘は書かなかつたんだな。」汽車が嫌ひで、生れてから一寸も東京の地を離れないお品は、旅行談になるといつも手持無沙汰で困る代りに、芝居の事なら一番の物識であつた。(略)>>
谷崎潤一郎「羹」 明治45年7月〜大正元年11月、東京日日新聞(*戦後大阪毎日と合併し毎日新聞に)連載。「谷崎潤一郎全集第一巻」中央公論社に収録。
*注釈・ルビは本文に無いものも含まれています。
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