「経の島」付近(推定)の運河。右手の運河の向うに(建物の影)築島寺・築島橋がある。
「平家物語」(百二十句本)巻第六・第五十五句より抜萃。
<<また、何事よりも、福原の経の島築いて、今の世にいたるまで上下行き来(き)の船にわづらひなきこそ(*航行の不安を解消したこと)めでたけれ。かの島は、去(さ)んぬる応保元年(*1161年)二月上旬、築きはじめられたりけるが、同じき八月ににはかに大風吹き、大波たちて、揺り失ひてき(*崩し去る)。同じき三年三月下旬に、阿波の民部成能(みんぶしげよし*阿波豪族田口氏、壇ノ浦合戦で投降するが処刑)を奉行にて、築かせられけるが、「人柱たつべし(*人柱をたてるが良策)」なんど、公卿僉議(せんぎ)ありしかども、「それは罪業なり」とて、石の面(おもて)に一切経(*大蔵経)を書きて築かれたりけるゆゑにこそ、「経の島」とは名づけられけれ。>>
築島寺(来迎寺)本堂。右手に松王小児入海之碑が見える。
松王丸供養碑。清盛の侍童で民部の嫡男松王17歳は、多くの人柱(20人)の身代りを申し出、千僧読経のうちに海底に沈んだ。二条天皇(後白河院政)は松王を弔うため築島寺(俗称)を建立。開基は平清盛。
発見当初は経の島の礎石と考えられたが、平安初期〜中期の大輪田泊(おおわだのとまり)の築堤用石材と判明した。花崗岩の石椋(いしぐら*築堤石)。上の運河の写真(堤防)に小さく写っている。
「平家物語」新潮日本古典集成1980年新潮社刊より抜萃。
撮影は2016年2月。

