2018年05月31日

神戸 大輪田泊・平清盛の経の島築造 「平家物語」より

保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)を経て源氏勢力を一掃し、権力を掌中にした平清盛とその一門が、国家経営の一環として西海(瀬戸内海)交通の整備開発に乗り出す。福原における従来からの舟泊り大輪田泊の拡大、人工島の築造(海岸線埋立)が計画され、日宋(南宋)貿易の一大拠点化を目指す。その人工島が「経の島」と呼称される由縁も「平家物語」に語られている。現在、この地には築島寺(俗称)・築島橋と人工島築造を伝える名称が残され、築島寺(来迎寺)には経の島築造にまつわる松王小児入海之碑(人柱となった17歳の松王丸供養碑)が建っている。
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「経の島」付近(推定)の運河。右手の運河の向うに(建物の影)築島寺・築島橋がある。

「平家物語」(百二十句本)巻第六・第五十五句より抜萃。
<<また、何事よりも、福原の経の島築いて、今の世にいたるまで上下行き来(き)の船にわづらひなきこそ(*航行の不安を解消したこと)めでたけれ。かの島は、去(さ)んぬる応保元年(*1161年)二月上旬、築きはじめられたりけるが、同じき八月ににはかに大風吹き、大波たちて、揺り失ひてき(*崩し去る)。同じき三年三月下旬に、阿波の民部成能(みんぶしげよし*阿波豪族田口氏、壇ノ浦合戦で投降するが処刑)を奉行にて、築かせられけるが、「人柱たつべし(*人柱をたてるが良策)」なんど、公卿僉議(せんぎ)ありしかども、「それは罪業なり」とて、石の面(おもて)に一切経(*大蔵経)を書きて築かれたりけるゆゑにこそ、「経の島」とは名づけられけれ。>>
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築島寺(来迎寺)本堂。右手に松王小児入海之碑が見える。
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松王丸供養碑。清盛の侍童で民部の嫡男松王17歳は、多くの人柱(20人)の身代りを申し出、千僧読経のうちに海底に沈んだ。二条天皇(後白河院政)は松王を弔うため築島寺(俗称)を建立。開基は平清盛。
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発見当初は経の島の礎石と考えられたが、平安初期〜中期の大輪田泊(おおわだのとまり)の築堤用石材と判明した。花崗岩の石椋(いしぐら*築堤石)。上の運河の写真(堤防)に小さく写っている。 

「平家物語」新潮日本古典集成1980年新潮社刊より抜萃。
撮影は2016年2月。
posted by t.z at 23:29| Comment(0) | 関西kansai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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