2018年06月02日

元赤坂  紀の國坂 小泉八雲 「怪談」(「むじな」)より

外堀(弁慶濠)と仮皇居(*明治初期は明治帝の仮御所、旧・紀伊和歌山藩徳川邸跡地)の間の坂道を紀の國坂(紀之国坂)と呼ぶ。現在でも人通りは少なく車だけが行きかう寂しい坂だ。夜などゾッとして歩けたものでない。小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)はこの坂道に材を求め、「耳なし芳一のはなし」「お貞のはなし」「食人鬼」等と並べて「むじな」を「怪談kwaidan」(1904年) の一篇とした。 
 
<<東京の赤坂に紀の國坂という坂がある。紀の國坂とは、紀伊の國の坂という意味である。なぜこの坂が紀伊の國の坂といわれるのか、わたくしはその故を知らない。この紀の國坂の片側には、古くから大きな深い濠があって、濠の上には青草のはえた高い土手がそそり立っており、その土手の上は、なんとかいう公園になっている。坂の一方は、御所の、長い、見上げるような高い土塀がずっとつづいている。まだ街燈や人力車なんぞのなかった時代には、このへんは夜になると、人っ子ひとり通らない、ごく寂しいところであった。日の暮れ過ぎ、遅くなってひとりで通る通行人は、この紀の國坂は通らずに、何町もまわり道をしたものであった。なぜそんなことをしたかというと、あのへんは、よくむじな(*タヌキ)が出たからなのである。
ごく近年、あすこのむじなを見たという人は、京橋へんのさる年配の商人であった。この人は、もう三十年ほども前に物故してしまったが、その人の語った話というのは、こうである。(略)>>
・・・・このあと、紀の國坂に眼や鼻や口のないのっぺらぼうの女がぬっとでてくる。商人は恐怖から逃れようと必死に紀の國坂を駆け上がる。坂上の闇のなかに蛍火のような灯が見える。蕎麦売りの灯であった。濠っぺたに出たのっぺらぼうの女の事を息も絶え絶えに話すが、むこうを向いたままの蕎麦売りはつっけんどんだ。蕎麦売りは顔をぺろりと撫でて、「その女の顔はこんなふうでなかったかい」と振り向く。「ぎゃああああああ」・・・・怖いので、だめ、ここまで。
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のっぺらぼう女が出たのはこの辺り。右の長塀内側が広大な仮皇居(現赤坂御用地)。
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紀の國坂上の喰違見附から弁慶濠(外堀)と首都高4号線を眺める。首都高の向う側の桜の木の下が紀の國坂。奥のビル群は赤坂の街。

「小泉八雲 明治文学全集」1989年筑摩書房収録の「怪談」より抜萃。
小泉八雲 リンク
姫路 おきく井戸 小泉八雲「日本瞥見記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/459682995.html
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posted by t.z at 01:44| Comment(0) | 東京北西部tokyo-northwest | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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