39歳で散華した高橋和巳の墓は、富士山を近くに望む広大な冨士霊園の一画にある。
高橋たか子「高橋和巳の思い出」1977年初版・構想社より抜萃。
<<主人は要するに自閉症の狂人であった。私がこう書いて、驚く人があれば、その人の洞察力がにぷいのである。私との関係では、私に甘える気持から、それがはっきりした形をとり、他の人々との関係では薄らいで表われたにすぎない。主人をあたたかい人と言う人もあり、反対に冷たい人と言う人もある。どちらの言葉も当っていない。自分の想念を撫でさすってくれるものに出会った時にたまたまあたたかい顔をしたのであり、自分の想念とは異質なものに出会った時にたまたま冷たい顔をしたのである。(略)主人は閉ざされた宇宙のなかで観念の積木遊びをしていたのだ。一つ、二つ、三つ、と観念を積んでいき、黙々と、ただ一人で、積んでいく。僅かの積木ではまとまった形をつくることがむつかしいらしい。短篇は向かないのだ。おびただしい積木を巨大な形に積みあげていくのが性に合っている。或る凹みに一つ加え、それがきっかけで、そこにもう一つ加え、そうすると、そこから次々と形が思いつかれてきて、さらに膨れあがり、どこまでも膨れあがって、大長篇になる。>> 「かわいそうな人だといつも思ったこと」より
<<昭和四十四年の夏休みに、主人は鎌倉の自宅で腹部の痛みをおぼえるようになった。休み明けに、痛みをおして緊急の仕事のために京都へ行った。そのまま京都の下宿にいて、京大での講義に出ていた。十月、京都の石野外科で、胆嚢がわるいための痛みと診断されて手術と決ったので、私が出かけていった。だが再検査の結果、胆嚢に異常がないとわかり、それでも痛みがあるので、徹底的に精密検査をすることに決めた。キリスト教関係の病院に入りたいと主人が言うので、東京の聖路加病院に入院させた。そこでの検査の結果、どこにも異常は発見されなかった。しかしその後も痛みがとまらず、鎌倉の自宅で療養し、近所の内科医には時々往診してもらっていた。昭和四十五年三月に京大退職。四月中旬に痛みが激烈になり腹の一部が膨れたので、近所の内科医が外科医を連れてきて、外科医の限局性腹膜炎という診断のもとに、東京の綜合病院での手術をすすめられた。坂本一亀氏の紹介で、四月三十日に東京女子医大消化器病センターに入院。その翌日、レソトゲソ検査によって結腸に癌ができていると判明したことを、私だけが主治医から知らされた。この衝撃的な事実を自分の心にがっちり受けとめるまでは誰にも言うまい、と私は思い、二日間黙りこんだ。その沈黙の底から浮かびあがってきたのは、宿命という言葉であった。主人は癌で死ぬべき人なのだ。その性格からもその文学からも、そういう宿命が匂っている。二日間かかってそのように納得がいった後、極秘という約束で坂本氏に知らせた。>>「臨床日記」より
夫人高橋たか子は、2013年7月12日に心不全で逝去。81歳。代表作は「空の果てまで」(田村俊子賞)「ロンリー・ウーマン」(女流文学賞)。
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