中江兆民の中央政府との関わりは、1871年(明治4年)11月(12日横浜出発)、政府派遣の岩倉使節団に司法省の下等役人として出仕したことに始まる。1873年(明治6年)9月、岩倉大使らが帰国した翌10月、明治政府内の征韓派が敗北し、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが参議を一斉に辞職、下野。翌年1月、副島、板垣らは民選議院設立建白書(国会設立等)を左院(明治4年7月設置)に提出。時期尚早と反論する加藤弘之らとの間で論争が行われる。この建白書提出が自由民権運動の始まりとされている。大久保利通、木戸孝允(旧姓・桂小五郎)、板垣退助らで開かれた大阪会議(大阪北浜)の1年前にあたり、西南戦争勃発の3年も前のことだ。1875年(明治8年)に中江兆民は東京外国語学校校長として赴任(現在の竹橋・毎日新聞社を含む広大な敷地)するが教育方針をめぐって文部省(明治5年8月学制制定により設置)と対立し辞任。大阪会議で発議、のちに設置された元老院において中江は書記官に任命されることになる。これ以降は、大逆事件首謀者として抹殺された弟子の幸徳秋水の「兆民先生」 に依りたいのだが、なにせ長文なので、生誕と終焉のみを概略に置き換える形て抜萃してみる。
幸徳秋水「兆民先生」明治35年5月記より。「現代日本文学大系22」1972年筑摩書房刊に収録。
<<中江兆民先生は、弘化四年高知城下新町に生る。幼名は竹馬(たけま)。長じて篤介(とくすけ)と改む。兆民は号。別に青陵(せいりょう)、秋水(*弟子幸徳伝次郎の号となる)、南海仙漁、木強生(ぼくきょうせい)等の号あり。考(こう*亡父の意)は卓介、妣(ひ*亡母の意)は柳子(りゅうこ)。一弟あり、虎馬(とらま)と云ふ、不幸短命にして逝けり。先生年十三にして、卓介君卒(しゅっ)す。家甚だ貧、而(しか)も母堂貞烈にして気胆あり、紡織(ぼうしょく)自ら給し、其(その)二児を訓誨(くんかい)する極めて厳、人皆な其賢(けん)を称せりと云ふ。予亦(また)後年先生の家に在りて、親しく母堂の薫陶(くんとう)を受くるを得て、其真(まこと)に先生の母たるに恥ぢざるの人なることを知れりき。(略)>>

青山霊園の中江家墓地。右端が母・柳子の墓。
<<「終(つい)に行く道とは兼て知りながら、昨日今日とは思はざりしを」先生、明治三十四年十二月(*1901年12月13日)を以て、小石川武島町の自邸に没す、享年五十有五(*数え年)。其(その)初めて余命一年有半の宣告を受けてより、未九ケ月に充たず。天下知ると知らざると、皆な悼惜(とうせき)せざるなし、哀哉(かなしいかな)。(略)
越(こえ)て二日、葬儀を青山に行ふ。先生の遺教に従ふて、又一切宗教上の儀式を用ゐず。式は板垣退助(*旧土佐藩)君の弔文朗読に始まり、大石正巳君一場の演説を為し、野村泰享(たいきょう)君又弔文を朗読し、土居通予君輓詩(ばんし)一律(いちりつ)を吟じ、他二三の諸君追悼の詞を朗読し、皆枢前(きゅうぜん)に敬礼して散ぜり。此日(このひ)会する者五百余名。(略)>>

*撮影は2012年。
*ルビは原文にないものも適宜振ってあります。(*注釈)は原文に無し。
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