源頼朝の要求によって義経・行家の追討の院宣が下った後の文治元年十一月大(1185年11月)のくだりから。現在の暦では使われることが無くなったが、「吾妻鏡」には月の後ろに「大」「小」の表示が付けられている。説明は別の機会に。
<<三日 壬午 前備前守行家・伊予守義経等、西海に赴く。まづ使者を仙洞に進じて、申して云はく、鎌倉の譴責(けんせき)を遁(のが)れんがために鎮西に零落す。最後に参拝すべしといへども、行粧異體(体)の間、すでにもつて首途(かどで)すと云々。前中将(平)時實(実)・侍従(一條)良成・伊豆右衛門(源)有綱・掘弥太郎景光・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘経・辨慶法師己下相従ふ。かれこれの勢二百騎かと云々。(略)>>
義経が少人数の供廻りを伴って西国に落ちてゆく段である。従者に辨慶法師の名がある。
<<六日 乙酉 行家・義経、大物(だいもつ)の濱において乗船の刻、疾風にはかに起りて、逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止め、伴類分散して、予州(*義経)に相従ふの輩わづかに四人、いはゆる伊豆右衛門尉(*源有綱)・掘弥太郎(*堀景光)・武蔵房辨慶ならびに妾女(字は静)一人なり。(略)>>
その逃亡劇も暴風雨のためにあえなく挫折、主従ちりぢりとなる段である。吉野山で愛人静(しずか)が義経と別れ、捕らえられた後、鎌倉に護送される前段である。わずかな義経の従者のひとりに武蔵房辨慶が記されている。
弁慶伝説が垣間見える比叡山延暦寺。延暦寺の堂宇は霧にけぶり、伝承もまた霧中に幻と化している。
歴史小説家のなかで最もエールを送くり、またその作品を愛読する海音寺潮五郎の小説「武将列伝 源義経」から抜粋。
<<さらにぼくは、弁慶もこの頃やはり陸奥で郎党となったと推理している。一体、弁慶という人物は、平家物語や源平盛衰記には武蔵坊弁慶という名で出て来、吾妻鏡(あずまかがみ)の文治元年十一月三日の条に弁慶法師、同六日の条に武蔵坊弁慶という名で出て来るから、実在の人物であることは確かであるが、素姓はまるでわからない。義経記には、熊野別当弁せう(原文のママ)が、参詣に来た二位大納言其(なにがし)の姫君に横恋慕して奪い取って子を生ませた。鬼若と名づけたが、相貌あまりにも猛悪であったので、僧にするために比叡山に入れ、西塔(さいとう)の桜本(さくらもと)の僧正に弟子入りさせた。学問はよく出来たが、乱暴もので問題ばかりおこして皆にきらわれ、居るに居られなくなったので、自ら髪を剃って 「西塔の武蔵坊弁慶」と名をつけて山を出、播州書写山(*姫路)に入ったが、ここでもまた喧嘩して寺に火をかけて焼きはらい、京に出て、千腰の太刀をそろえようと、夜な夜な辻に立って人の太刀を奪い、九百九十九腰をそろえて、千腰目に牛若丸に逢って、うちまけて家来になったとある。
しかし、義経記は小説だからよほど用心してかかる必要がある。第一、熊野別当代々記には弁せうなどという人物の名は見えない。せめて西塔の武蔵坊弁慶という名のりが信用の出来る書物に出ていれば、比叡山の西塔にいたことがあるというだけでもわかるのだが、上記の通り、武蔵坊弁慶または弁慶法師としか出ていないのだから、比叡山にいたということもあやしい。>>
弁慶伝説が伝えられる延暦寺西塔の<にない堂>。常行堂が苔むした坂の奥に佇む。
<にない堂>とは、近年に重要文化財に指定された法華堂(右)と常行堂(左)の両堂のことである。
<にない堂>の<にない>とは、荷物を担ぐときに使用する<にない棒>からきている。形が似る宝形造り・栩葺(とちぶき)の両堂をつなぐ廊下が<にない棒>にみえることからの呼称である。
<<弁慶の名がはじめて相当信用してよい文献に出て来るのは、盛衰記(*源平盛衰記)の宇治川合戦の数日前に尾張熱田で源氏勢が勢ぞろえ(*頼朝の生家は熱田神宮)した時のくだりである。だから、弁慶が義経の郎党になったのはそれ以前でなければならないが、もし比叡山の坊主上りで京住いしていたとすれば、その時期がない。
義経が未だ鞍馬にいた頃とすれば、奥州下りについて行かないのが不思議であり、平治物語に全然出ていないのもいぷかしい話だ。(略)>>
京都市中京区弁慶石町に残置されている<辨慶石>についての多々の異説・怪説について。
享徳3年(1454年)、奥州高館付近にあった弁慶石が、天台宗延暦寺に属す京極寺(中京区弁慶石町)に移されたと伝承にある。奥州において弁慶が愛した石と謂われ、また弁慶が衣川合戦でこの石に立ったまま死んだとも伝わる。これも伝承だが、弁慶は幼少の頃この京極寺に住んだという。弁慶を追慕する後世の人によって作られたものともいう。京極寺は応仁の兵火で焼かれ、上御霊神社の西に移転、近年(大正12年)に至り、烏丸通拡張工事のために京都市北区に移転している。また別の説では、東京外濠の弁慶橋を造った棟梁弁慶仁右衛門の庭先にあったものとも謂われる。すべて確証のない伝承ばかりである。弁慶石が置かれている場所には、かっては三和モータープール(駐車場)が存在していたが、現在は「よーじや三条店」の敷地内となっている。石の形状は異なるが、洛中洛外図屏風(1570年頃成立)には粟田口近くの松の下に<へんけい石>(墨書付き)なるものが描かれている。
「よーじや三条店」のエントランス脇に置かれている<辨慶石>。
ルビは原文に無いものも適宜振ってあり、注釈(*)は本文にはありません。
主な参考文献
「筑摩現代文学大系 海音寺潮五郎集」1977年筑摩書房
「全譯 吾妻鏡第一巻」1951年新人物往来社
「京都史跡事典」2001年新人物往来社
延暦寺西塔HP https://www.hieizan.or.jp/keidai/saitou
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