安政5年(1858年)西郷吉兵衛32歳、年初より西郷は篤子(天璋院)に働きかけ、水戸の一橋慶喜を将軍世子とする運動を推進し、3月に入ると篤子からの近衛忠熙(このえただひろ)に送る書簡を携えて江戸を出立。京都にて月照・村岡(近衛家老女)らの援けを受け内勅降下をはかった。
4月23日、江戸で彦根藩主井伊直弼(なおすけ)が大老に就任、5月、西郷は薩摩の島津斉彬に書を送り、井伊が大老となったことにより形勢が一変し、一橋慶喜の将軍世子実現が危うくなった旨を知らせた。
7月10日、西郷は大坂より吉井友実とともに入京、梁川星巌、春日潜庵らと面会し関東の形勢をつかみ、京と大坂を行き来する。宿は薩摩藩定宿の鍵屋であった。
この直後(7月16日)薩摩藩主島津斉彬が死去、7月27日に斉彬の計報を受けた西郷は失望し、帰藩して殉死の決意を固める。この間、月照の慰撫を受け帰藩を取りやめ、斉彬の遺志を継ぎ、国事に尽力する決意を固くした。
9月7日、有馬新七が江戸より入京し鍵屋を訪れる。有村俊斎・伊知地正治もまじえて鍵屋で会合。
同日、梅田雲浜が逮捕され、安政の大獄が始まる。9月9日、月照が来訪し梅田雲浜の捕縛を西郷らに伝える。
この間の西郷と月照の二人にスポットを当てた織田作之助の小説「月照」より、その動きを追ってみる。
<<柳の馬場の薩摩の定宿、鍵屋へ西郷吉兵衛(*西郷吉之助)が帰って行くと、雨だった。が、月照はすぐ支度して、陽明殿へ駕籠を走らせた。近衛左大臣は参内(さんだい)して、留守だった。それで、老女村岡に面会して、西郷より預った将軍家御台所篤姫の手紙を近衛公に渡してくれるように頼み、「事情が切迫いたして居りますから、火急篤姫(あつひめ*天璋院)様への御返書がいただけるようにお頼み申し上げて下さい」と、つけ加えた。(略)>>

柳馬場通錦上ル東側。奥に錦通アーケード、左側が東側。順次左側の写真を北向き(蛸薬師通方向)
に並べてみる。


この3枚のどこかに薩摩藩の定宿鍵屋が存在していたが、物語の6年後の元治元年(1864年)7月19日の禁門の変を端緒とする兵火(どんどん焼け)で御所南方の広範囲が灰燼に帰している。鍵屋も巻き込まれ焼失したろう。対長州藩の薩摩軍指揮者は西郷吉之助であった。
<<庭の菊に暫らく充血した眼を向けていたが、やがて、
「支度を頼みます。鍵屋へ行くから・・・」と、月照は沈んだ声で言った。
月照が鍵屋へついた時、西郷、有馬、有村、伊知地等は丁度朝食をたべ終った時だったが、雲浜(うんぴん)の逮捕を未だ知らなかったらしく、きくなり、有村は苦しそうに部屋の外へ出て行った。
暫らくすると、有村は戻って来て、
「見苦しいところをお眼にかけて、恐縮した。実は吐き気がしたので・・・」と、言った。
「コロリじやなかろうな」と西郷が心配してきいた。>>
撮影2011年4月。
「月照」1942年(昭和17年)7月全国書房刊行
「織田作之助全集3」1970年講談社に収録
参考 「西郷隆盛全集第6巻」1980年大和書房
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