2018年06月30日

日本橋小網町 西郷隆盛の屋敷跡

西郷吉之助がいつ東京日本橋小網町に私邸を構えたか、おおよそのことしか分らない。明治4年(1871年)正月、西郷は鹿児島を出帆し、1月中旬に土佐高知に立ち寄り、大久保利通・木戸孝允らと合流し、1月23日に大阪着、2月1日には横浜港に上陸、同月2日に東京に到着。この後の2週間ほどの間に屋敷を定めたか、それとも、一旦親兵徴集のため鹿児島に帰り、4月21日に薩摩藩主島津忠義とともに兵四大隊を率い再上京した後だったのか、確定できないが、この頃のことであったろう。
日本橋小網町の西郷邸は、現在の日本橋人形町1丁目1〜日本橋小網町14番〜日本橋牡蠣殻町1丁目10〜13番地にかけての広大な土地(2633坪)に建てられることになった。
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日本橋小網町の西郷邸跡。屋敷内の長屋には15人ほどの書生が住み込み、下僕を7人(熊吉ら)、猟犬は数頭を飼っていたと伝わる。

この年の6月、大久保利通に説得され西郷は参議になることを承諾する。6月25日に平隆盛の名で参議の辞令をうけ、正三位に叙されている。隆盛の名が初めて使われたのは、明治2年(1869年)12月25日に藩主島津忠義の名代で位記返上願いの案文を書いた時だ。この中で初めて「隆盛」の名が使われている。
翌月(明治4年7月)、勅許により委任状が与えられ、制度取調会で廃藩置県が審議され、9日に西郷は、木戸邸(現・靖国神社裏)で廃藩置県について密議。13日参朝し、朝議にて翌日の廃藩置県を決定している。封建制の廃絶という大仕事を主導したのだ。
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日本橋小学校付近一帯が西郷隆盛邸跡。

明治6年(1873年)西郷隆盛47歳、この年の10月23日、朝鮮派遣使節の中止が決まり、西郷は胸痛を理由として陸軍大将兼参議・近衛都督の辞表を提出、位記返上も申し出ている。即座に従者小牧新次郎と家僕熊吉を伴って、日本橋小網町の自邸を出立、小梅村の庄内藩御用達米問屋越後屋の別業に身を寄せる。翌々日には、副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平らの参議が一斉に辞職。28日、西郷は横浜から鹿児島に向けて出帆、以降二度と東京の地を踏むことはなかった。

参考 「西郷隆盛全集第6巻」1980年大和書房
   都中央区教育委員会の西郷屋敷説明版
西郷隆盛リンク
京都 薩摩藩定宿鍵屋跡 織田作之助「月照」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/460256257.html

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posted by t.z at 23:57| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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