2017年03月20日

難司ケ谷 夏目漱石墓改葬式典 井伏鱒二「五十何年前のこと」から

井伏鱒二のエッセイ「五十何年前のこと」に、たまたま散歩中に遭遇した夏目漱石の墓の改葬式典の模様がリポートされている。漱石の弟子筋の久米正雄や芥川龍之介らの参列がチェックされている。漱石の娘筆子の姿には筆が及んでいない。参列していないはずはない。筆子と久米正雄のスキャンダラスな恋愛事件を井伏鱒二は気にとめる様子はない。

井伏鱒二「五十何年前のこと」から。
<<難司ケ谷墓地の漱石の墓は、私が上京當時には西側の大きな銀杏の木のそばにあつた。
高さ一丈ぐらゐ、六寸角の白木の墓標に「夏目金之助墓」と書かれてゐた。土を少し盛りあげて立て、太い竹筒の花立が打ちこんであつた。いつ見ても清掃が行きとどき、花立には新しい榊が供へてあつた。たぶん清掃は、西側出入ロのわきにあつた花屋が受持つてゐたのではないかと思ふ。
そのころ私は難司ケ谷墓地を自分の散歩区域に入れてゐた。>>
zoshigayasoseki01.jpg
(写真)井伏鱒二の散歩道、難司ケ谷墓地。2007年撮影。

<<それから間もなく、大正七年か八年か確かなことは覺(おぼ)えないが、現在の漱石の墓が出來た。ある日、私が西側の出入ロから墓地に入つて行くと、漱石の墓標のあつたところが掘り返されて赤土が乱雑に盛りあがつてゐた。何ごとかと思つて見廻すと、西側出入口から正面につづく道に二十人あまりの人が一團(いちだん)になつて、そのほとりに四十人あまりの人がゐた。私はその場へ行つて、今日は漱石の墓が改葬される日だといふことに氣がついた。四十人あまりの人は主に女子大學生や漱石の愛讀者ではなかつたかと思ふ。嚴粛にして立つてゐた。私も脱帽してその人たちの群れに入つた。二十人あまりの人の一團は改葬の式に参列した人たちである。そのなかに寫眞(しゃしん)で私の知つてゐる人たちがゐた。
久米さんと芥川さんはすぐ分つた。久米さんは焼香しに進み出るとき、上體(*上体)を前にちよつと突きだすやうにして大胯(おおまた)に歩を運んだ。>>
    zoshigayasoseki02.jpg
(写真)六寸角の白木の墓標の「夏目金之助墓」から正式墓に改葬された「夏目漱石墓」。

<<私は漱石の作品に魅力を感じてゐた。今でもさう思ふが漱石は見上げるやうな大作家であると思つてゐた。私が初めて漱石の作品を讀んだのは、中學の二年生か三年生ごろの春休みのときであつた。「彼岸過迄」であつたか「門」であつたか忘れたが、大阪朝日新聞の連載を讀んでゐると、同じ文章のものが二日つづけて出た。どうも不思議だと思つたので、近所のうちへ春休みで歸省中の學校先生のところへ質問に行つた。すると先生は、自分もその連載は毎日愛讀してゐるが、昨日と今日と同じものだとは気がつかなかつたと云つて新聞を出して來た。見ると、矢張り二日とも同じ文章である。先生は不思議さうにして、「どうして気がつかなかつたらう。しかし、何度でも讀める文章だからな」と云つた。(以下、略)>>
    zoshigayasoseki03.jpg
   (写真)墓石正面。
    zoshigayasoseki04.jpg
   (写真)墓石陰面。
*ふり仮名は原文には無い。新旧字体混在(理由:変換が大変なので)。
「五十何年前のこと」「漱石全集 月報一」昭和40年12月初出
井伏鱒二「文士の風貌」福武書店1991年刊に収録
posted by y.s at 16:12| Comment(0) | 大久保・高田馬場・目白 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月18日

目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」より

昭和38年(1963年)4月、谷崎は、あれほど気に入っていた熱海伊豆山の山荘(雪後庵と命名、「細雪」の印税で購入したことに由来する)を売却し、湯河原に新たな土地を取得し移住を決める。完成までの間、とりあえず熱海市西山町の故・吉川栄治別荘に身を移すが、同年10月には都心に仕事場を兼ね備えた新たな仮住まいを探し出す。ここで翌年(昭和39年)早々からライフワークとも位置付けられる「源氏物語」(新々訳)にとりかかり、湯河原の邸の完成を待つ。昭和39年7月に湯河原町吉浜蓬ヶ平に新邸が完成し、文京区関口町の目白台アパートでの仮住まいは終る。
目白台アパートの6階に住んでいた瀬戸内寂聴のエッセイによれば、「地下に大きな部屋を二つ借りられ、六階に仕事部屋を一つ持たれている」という。驚きの同階エピソードを読むと微笑ましく、笑ってもしまう。

谷崎潤一郎の愛妻谷崎松子のエッセイ「倚松庵の夢」から。
*倚松庵(いしょうあん)とは谷崎が名付けた関西時代(東灘区)の住居名で、「松」は、松子の一字で、松子に倚(よ)るの意。
<<上田教授は二年目位に再発があるかも知れない、その時には生命の危険があると私に話された。怖れた二年目は無事に過ぎ、三年目の夏から、又も軽微な発作に襲われ、検査を受ける為にもと、心臓研究所の附属病院に入院、一カ月以内で退院を許され、生命を脅かされることもなく過ぎたが、あくる年の一月、目白台アパートに仮住居していた頃、発作頻々、再び心研へ入院、此の時は二時間にわたる大発作があり、心電図もSTが逆転と云う変化が起り、先生方も首をかしげられた。薄氷を踏む思いの目がつゞきはじめた。三月に入って東京の空にも春色がおぼめき出し始めると、先生が何と云われても退院すると聞き入れなかった。幸い心電図も安定したので退院した。日に三十分位の散歩は心臓の為にもよく頭も呆けない、と云われたので毎日散歩を欠かすことなく、よく江戸川公園や、元細川邸祉の新江戸川公園へ同じ目白台アパートにいた観世の孫を誘って出懸けた。>>
mejirodaitanizaki03.jpg
(写真)目白台アパートから坂を下り、杖を携えた谷崎がゆったりとした足取りで散策した姿が思い浮かんでくる。退院直後には川沿いの桜並木は満開を迎えていたであろう、桜花を愛(め)でた谷崎には、病院のベッドにいることは耐え難かったのだろう。 
mejirodaitanizaki04.jpg

江戸川公園を川沿いに遡ると、芭蕉庵(芭蕉が河川工事を督していた期間、庵を結んだ)・水神社と過ぎ、やがて新江戸川公園があらわれる。細川家下屋敷(抱え屋敷)跡が公園として整備され、庭園・建物が一般開放されている。 
mejirodaitanizaki05.jpg
(写真)新江戸川公園。

同じ屋根の下というか、おとなりさんであった瀬戸内寂聴の谷崎潤一郎観察記を紹介。
<<私が現実に谷崎さんの実物に逢ったのは、昭和三十九年(一九六四)の正月一日だった。その頃私は東京の文京区関口台町の目白台アパートに住んでいた。椿山荘の近くにあり、その頃はやりだしたマンションのはしりだった。入ってみたら、芸能人や、銀座のバーのマダムなども住んでいて、作家たちの仕事場にもされていた。そこへ谷崎さん一家が越してこられたのだった。>>
mejirodaitanizaki01.jpg
<<最後のお住いになる家を湯河原に建てている間、臨時に住まわれたというわけらしい。アパートのエレベーターに急に若い美しい娘さんが多くなったと思ったら、その人たちは谷崎さんの『台所太平記』に出てくるお手伝いさんたちであった。松子夫人と妹の渡辺重子(*しげこ)さんも御一緒だった。地下に大きな部屋を二つ借りられ、六階に仕事部屋を一つ持たれている様子。私の部屋も六階で、エレベーターを降りると、谷崎さんの仕事部屋の前を通らなければ、自分の部屋に辿りつけない。私はそのドアの前を、足音をしのばせて息をつめて通りすぎていた。時たま、「あやかりますように」とドアを撫で、その掌で自分の頭を撫でていた。>>
mejirodaitanizaki02.jpg
<<お手伝いはよく見かけるが、谷崎夫妻には出逢ったことがなかった。
三十八年も暮れて、三十九年の新春を迎えた時、ふと窓から外を見ていると、アパートの入口で車を降りる舟橋聖一さんの姿が見えた。私はたちまち身をひるがえして廊下を走り、エレベーターで階下にとんでいった。
「先生! おめでとうございます。谷崎先生のところにいらっしゃるんでしょう。私もつれてって下さいませんか」舟橋さんは呆れたように私の顔を見たが、
「谷崎先生に伺ってからでないと。あなたの部屋は何番ですか」
と、言い捨てたまま、さっさと地下へ降りていった。
「先生がお逢い下さるそうですから、すぐ来なさい」
電話が部屋にかかり、舟橋さんの声でそう言われた時、自分で頼んでおきながら、夢ではないかと思った。廊下を走り、エレベーターに飛び乗り、地下まで降り、谷崎さんの部屋に行きつくまで雲の上を歩いているような気持だった。ドアをあけると、広いリビングに大きな応接セットがあり、右側の椅子に埋められたように小さな老人がかけていた。(略)>>
瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」日経新聞出版社2008年刊より抜粋。

参考 年譜「谷崎潤一郎全集第26巻」中央公論社1983年刊

谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
posted by y.s at 15:17| Comment(0) | 大久保・高田馬場・目白 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月03日

目白台 関口フランスパン 小津安二郎の「日記」から

名匠・小津安二郎監督の「日記」から抜粋
<<1959年(昭和34年)5月31日(日)宿酔 板尾君運転にて 椿山荘に赴く 山本富士子招宴 山本母君 佐野 厚田 山内 富二 款談 関口パンにより銀座おた幸 厚田 清水を送り車にて鎌倉に帰る>>P574
前日の5月30日(土曜)、小津は昼前に大映本社を訪れ、重役と面談して次回監督作品「浮草」の制作を決定している。祝宴が続き、夜は田園調布の佐田夫妻邸に宿泊。翌日、宿酔を抱えたまま、上記のように車に揺られて椿山荘に招かれている。宿酔は、北鎌倉の自宅に戻ってからも「終日在宅 宿酔去りやらず」と6月1日の日記に記されているように、連日の深酒だったようだ。
椿山荘での宴席の後、小津一行は、目白坂を南下した大通り沿いに店を出す国内初の本格的フランスパンを製造した「関口パン」に寄ったようだ。パンを買うためだけに立ち寄ったと思える文脈だ。
*山本富士子=「彼岸花」松竹大船1958年公開の主演女優 
*厚田雄春=小津組撮影監督
*「浮草」=小津の初となる大映作品1959年公開 出演は京マチ子・若尾文子・中村鴈治郎・笠智衆ら
*佐田夫妻=俳優・佐田啓二(37歳で交通事故死 墓は小津や田中絹代と同じ北鎌倉の円覚寺) 実子に俳優の中井貴一・中井貴惠
sekiguchip01.jpg  sekiguchip02.jpg
目白坂の関口フランスパン店LE PAIN FRANCE SEKIGUCHI DEPUIS1888(創業1888年明治21年)
sekiguchip03.jpg  sekiguchip04.jpg
目白坂側にエントランスがある 販売コーナーを奥に進むと喫茶室 緑に囲まれた日差しが溢れるテラス席も設けている(喫煙可)
sekiguchip05.jpg   sekiguchip06.jpg
デニッシュにポテトをのせた「スイートポテト」158円 カスタードクリームとレモンジャムをスイートロール生地でくるんだ「クリームレモンパン」168円 コーヒー350円
sekiguchip07.jpg sekiguchip08.jpg
(地図)関口パンの下側(南側)の永泉寺は 太宰治とともに三鷹の玉川上水に入水した山崎富栄の菩提寺 (右写真)「全日記 小津安二郎」(フィルムアート社)の表紙帯紙

関口フランスパンHP http://www.sekiguchipan.co.jp/
posted by y.s at 23:54| Comment(0) | 大久保・高田馬場・目白 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする