2017年02月25日

上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より

昭和6年初頭から雑誌連載が始まった長編「盲獣」「白髪鬼」の2作品を抱えながら、3月に「目羅博士」を執筆発表、同月には「中将姫」も書き上げている。
乱歩氏38歳、東京市外戸塚町で経営する旅館緑舘の2階西側6畳間で髪振り乱して大忙しである。
このころ、振り乱すほど髪は生えていなかったか。
乱歩氏の6畳間は、客室とは独立しており、旅館玄関とは別に出入口が設(しつら)えてあった。この専用玄関に昼夜を問わず原稿催促の編集人が押しかけており、「目羅博士」のプロローグに、その催促からの逃避の心情が書かれている。書斎兼居室の西側窓は目隠しで覆っており、執筆に集中していたようだ。執筆当時、旅館緑舘は営業中で、閉鎖するのは、9ケ月後の11月であった。
雑誌「文藝倶楽部」増刊号初出のタイトルは「目羅博士の不思議な犯罪」、その後、数度にわたり改題されている。
眼科の医師「目羅博士」はまだ登場しない、謎の連続首吊り自殺もまだ起こっていない、冒頭の薄暗くなった上野動物園サル檻前の不気味なシーンから・・・
<<ところで、お話は、やっぱりその、原稿の催促がきびしくて家にいたたまらず、一週間ばかり東京市内をぶらついていたとき、ある日、上野の動物園で、ふと妙な人物に出合ったことからはじまるのだ。
もう夕方で、閉館時間が迫ってきて、見物たちはたいてい帰ってしまい、館内はひっそりかんと静まり返っていた。芝居や寄席なぞでもそうだが、最後の幕はろくろく見もしないで、下足場の混雑ばかり気にしている江戸っ子気質はどうも私の気風に合わぬ。動物園でもその通りだ。東京の人は、なぜか帰りいそぎをする。まだ門がしまったわけでもないのに場内はガランとして、人けもない有様だ。>>
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<<私はサルの檻の前に、ぼんやりたたずんで、つい今しがたまで雑沓していた、園内の異様な静けさを楽しんでいた。サルどもも、からかってくれる相手がなくなったためか、ひっそりと淋しそうにしている。
あたりがあまりに静かだったので、しばらくして、ふと、うしろに人のけはいを感じた時には、何かしらゾツとしたほどだ。
それは髪を長く伸ばした、青白い顔の青年で、折目のつかぬ服を着た、いわゆる「ルンペン」という感じの人物であったが、顔付のわりには快活に、檻の中のサルにからかったりしはじめた。
よく動物園にくるものとみえて、サルをからかうのが手に入ったものだ。餌を一つやるにも、思う存分芸当をやらせて、さんざん楽しんでから、やっと投げ与えるというふうで、非常に面白いものだから、私はニヤニヤ笑いながら、いつまでもそれを見物していた。
「サルってやつは、どうして、相手のまねをしたがるのでしょうね」
男が、ふと私に話しかけた。
(略)>>
「目羅博士」江戸川乱歩全集第8巻1979年講談社刊より抜粋。

参考 「貼雑(はりまぜ)年譜 江戸川乱歩推理文庫特別補巻」1989年刊

江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
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2016年09月24日

上野不忍池 聖天宮のフェリシズム石像 高見順「都に夜のある如く」から

<< 不忍池は、上野寛永寺創立のとき僧天海の發意で作られたもので、その當時、中島は、それとこつち岸とをつなぐ橋はなくて池中の島だつたといふ。のちに石橋を架して通行の便を計つたといふが、それはいつ頃かは詳らかでない。
中島には辨財天が祀つてある。
古いその社殿は戦災焼失して、今は假(かり)建築である。摟門(ろうもん)も焼けて、石造りの洞門風の下部だけが、焼けただれた壁面を見せて残つてゐる。
(略)
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(上野山から見た不忍池・辨財天社。聖天宮は辨財天社に向って右手方向の小島)
辨天さまの右うしろに出た。そこに小さな出島があって、その周囲が蓮池になってゐる。
もとは池一面に見られた蓮が、今はここにだけ小さく片寄せられてゐる。
蓮は花をつけてゐたが、花辨をもう閉ぢてゐる。
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その出島の方に好奇の眼を向けて、「あれ、あるかしら?」と京子は言った。
丁度私もそのとき、あれ、あるかしらと思ってゐたところだから、驚いた。
驚いたといふのはーーー私のそのあれとは、ある意味で大変に有名な地蔵なのであつて、それに正面から見た分には、長髯(ひげ)を蓄へた人物が笠をかぶり、杖をついて、足駄を穿(は)いてゐるといふ、珍妙と言へば珍妙な、しかし、それだけの石像だが、裏から見ると、これがいけない。
田縣神社のお守りを大きくした、つまり、そのーーー男のあれの形をした代物だったから、私も、あれ、あるかしらなどと、京子の前で迂闊に口にできないとしてゐたのだが、京子は、平然と口に出して言った。
言ふだけでなく、京子は平然と足を進め、「ああ、やっぱり」平然と石像に顔を向けてさう言つて、私を更に驚かせた。
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石像の人物は役の行者だといふ説もあって、それは池に向って立ってゐるから、正面を見るには池の岸に廻らなくてはならない。こっちには背を見せてゐて、はっきりと例の形を現はしてゐる。
女の辨天さまを祀つた島に妙なものがあるのだが、「江戸名所図繪」を見ると、ここは中島とは別の離れた島になってゐて、間に橋がかかってゐる。そして中島には「辨天」の字が見え、この島には「聖天」とあって、辨財天社とは別にここに聖天宮のあったことが分る。
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(弁財天のある中島とは別の離れた島に聖天宮は祀られており、小さい橋が存在している)
(略)
私は例の石像に眼をやって、「僕はまた、君があれ、あるかしら言ったときは、てっきり、あれかと思った」と顎を向けた。京子はキョトンとしてゐた。
「フェリシズム(性器崇拝)の面白い石像だ」
そして私が暗示的な説明をすると、京子も気づいて、「知らない!」と身をひるがへした。
逃げる京子のあとから
「鐘の音の方しか、知らなかった?」
「ちょっとも知らなかった。あなたは、變(へん)なもの、知つてるのね」
「あれは學生時分から知ってゐる」
「いやなひとね」 >>

**京子が「あれ」と表現した対象は、同じ聖天祠にある「地獄の釜の音」であった。
高見順「都に夜のある如く」昭和29年「文別冊藝春秋」4月号より8回連載。
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2014年03月06日

上野公園 (西郷隆盛像と)薩摩犬ツン


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       「ツン」という名の薩摩犬 飼い主は西郷隆盛
1898年(明治31年)12月18日、上野恩賜公園山王台で除幕式が行われた時、すでに「ツン」はこの世を去り、飼い主も薩摩の城山岩崎台で銃弾を浴び、首のない屍体となっていた。西郷の死後、21年2ヶ月が経ったこの日、除幕式に招待された西郷の未亡人糸子は「主人はこんな人じゃなかった」(薩摩弁で)と漏らしたと伝わっている。問題は「ツン」。高村光太郎の実父・高村光雲(東京美術学校彫刻科教授)が西郷像と一対で「ツン」を製作したのだが、「ツン」を見知った者から「耳は垂れていなかった」と証言が出たため作り直すことに。耳がツンとした現在の「ツン」(雌でなく雄犬)は後藤貞行の作。
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1873年(明治6年)10月24日、朝鮮遺使の無期延期(征韓派敗北)を受け、西郷は即座に参議を辞職し下野する。薩摩(鹿児島)に帰った西郷は、東郷町藤川の藤川天神に詣でた折に地元在住の前田善兵衛という者からウサギ狩り用の猟犬を贈られている。その犬が、ツンと立った耳と左尾が特徴の薩摩犬「ツン」(雌犬・命名者は不明)であった。
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西郷とウサギ狩りを共にし野山を駆け回っていた「ツン」のその後の運命はわからない。維新の元勲・西郷隆盛は、1877年(明治10年)9月24日午前4時の政府軍の総攻撃を受け、数百発の砲弾が炸裂するなか城山で自刃。48歳の人生を終えた。

参考 鹿児島県川内(せんだい)市東郷支所産業建設課のHP http://www5.synapse.ne.jp/furusato/sub2tougou1.htm
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2013年09月28日

上野 唐十郎の下谷万年町の長屋(生家跡)

ダンディスト・・純白のスーツの襟元には血糊り・・右手には海釣り用の竿・・緩めたズボンからのぞく六尺ふんどし・・1983年(昭和58年)1月に決定・発表された第88回芥川賞を「佐川君からの手紙」で受賞した作家・唐十郎に抱いていたイメージです。
選考委員の一人だった安岡章太郎の評は「これは候補作中抜群であり、あらゆる意味で新人ばなれがしている。しかし、それはアタリマエで唐氏の奇才は劇作家として知れ渡っているからだ」・・さらに10年を遡った1970年代前半での劇団「状況劇場」を率いていた唐十郎への評価は・・「アングラ演劇の旗手」「天才劇作家」。今回は、さらに遡って戦前の「下谷万年町」の生家跡に。現在は消滅してしまったこの町名は、唐十郎の小説・戯曲によって知られているのですが・・・何処?
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万年町2丁目15番(旧表示)の唐十郎の生家跡・・正確には木造二階建ての家屋の先に見える白いビル(北側奥の塔屋がある下)の裏手・・以前は手前の長屋が連続して続いていたのですが取り壊されてビルに (右写真)ビルの裏手・・ブロックが積まれたこの位置が唐十郎の生家=長屋の玄関があった跡
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唐十郎の小説「下谷万年町物語」(昭和56年刊)の冒頭に、生家周辺の描写・・<上野駅と鶯谷の真ん中、山の手の谷中から言えば、上野陸橋大橋の下ったところ、そこに下車坂という都電の駅があり、そこから浅草六区に向かって一歩踏みだした辺りに、下谷万年町という変てこな名前の、江戸の頃から屑屋の寝ぐらで有名な長屋があって、ここに二人は住んでいた。>
唐十郎(本名・大鶴義英)は 1940年(昭和15年)2月11日に 九州出身の映画プロデューサーの大鶴日出栄の次男としてこの路地裏で誕生(母は東京出身) (右写真)同じ棟続き(だったと思われる)の長屋の玄関 *大鶴家の位置はこの長屋に撮影当時(2010年)にお住まいの方から「そこだよ」と聞いています 
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昭和19年 空襲が激しくなる直前に大鶴家は福島県大野に疎開 昭和20年 敗戦直後の焼け野原になった上野一帯でぽっこりと焼け残った下谷万年町の長屋に帰りつき 昭和21年 6才の義英少年は下谷区立の坂本小学校に入学 この焼け残った万年町には様々な人種が流れ込み住みつく・・闇屋・置引き屋・家出娘をだますスケコマシ その後にオカマの大群も 異端の道に踏み込む唐十郎の原風景がこの万年町にひろがっていたはず
昭和33年4月 明大文学部演劇学科に入学 演劇に没頭する学生生活をスタート 大学3年時に父親の作品の助監督を務めていた故・若松孝二と出合う(昭和43年公開の若松作品「犯された白衣」に主演) 昭和38年7月 「シチュエーションの会」(状況劇場の前身 昭和39年に改名)を旗上げ公演 万年町の長屋の2階を劇団事務所として使いながら 昭和39年 24才の夏に杉並区西荻窪のアパートに移ることに
(右写真)状況劇場の紅テント公演は新宿花園神社側の拒否にあうなど紆余曲折があったのですが・・現在は「唐組」旗が境内に高く掲げられてます
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この2冊は 数行の引用と巻末の年譜を若干参照 多くは昭和49年秋号「別冊新評 唐十郎の世界」(管理人の愛蔵している雑誌)を参照(ボロボロでアップに耐えられないのです)
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2013年03月17日

上野公園 会席料理 韻松亭

会席料理「韻松亭」は1875年(明治8年)の創業。
パッと上記の時代がイメージできる方は尊敬してしまいます。
新政府軍VS彰義隊の戦闘で上野の山が焼け野原になってから7年目の創業。西郷隆盛・大久保利通は元気に東京の街を動き回っているし、あの桂小五郎だって生きていた時代です。本郷(現・東大構内)から大村益次郎(長州藩)指揮の官軍砲兵隊が、彰義隊が立て籠もる上野・東叡山寛永寺の広大な境内に向けてアームストロング砲を一斉砲撃。砲弾はうなりをあげて飛び交い瞬時に一帯は焼け野原に。現在の上野公園内の清水観音堂の扁額(絵です)の上にその砲弾が乗っかってます(飾ってある)。現在の正面口の交番横付近の黒門で激戦・・彰義隊は数刻で崩壊・逃走して散りじりに・・・それからわずか7年後の創業なのです。もちろん西郷さんの銅像より韻松亭(いんしょうてい)のほうが先に建っているのです。維新政府のお墨付きの店(上野公園建設は東京府の計画でその構想内の飲食施設)といっても言い過ぎではないでしょう。
店の詳しい情報はHPのほうで http://www.innsyoutei.jp/main.html・・「ぐるなび」とかでもチェックして下さい(いつもの手口)。
なにか他に紹介することは無いのかと問われそうなので・・実はこの店に行ったのは2回だけ(甘味の茶店は別にして)、ですがその2回で2回ともあの「電通」さん御一行と遭遇(下足番の所で名乗っていた)。会合とか接待の感じで(AKBメンバーがべったり寄り添って・・は無かったです)、皆さんタクシーで次々と到着。これが言いたかっただけ・・公園内ですが店の前まで車で乗り付けられるのでとても便利なのです。
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韻松亭の正面側・・建物左の1室が茶店(入口別) 玄関には下足番・・靴を預けます 看板には「御貸席 韻松亭」・・こちらが正式?
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玄関左に茶店というか「喫茶去」の入口 右は「韻松亭」内部の左奥の座カウンター席・・グループ用の和室も大小揃ってます
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料理はお昼のランチっぽいメニュー(夜よりは手頃です) 千葉から通っている管理人と同姓の仲居のSさんとお喋りして・・「結婚しても旧姓だかどっちだか分らなくて困りますね」なんてアホ話に上手に付き合って頂いて料理が更に美味しくなったのです かなり以前に(婦人服関係の)仕事絡みで夜に訪れて以来だったので・・印象は昼のほうが(室内が)明るくて緑の木々も窓越しに映えて・・次も昼です(キレイな女性と一緒に)
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いろいろと店の情報です
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韻松亭(左の竹垣)の周囲・・間もなく「桜」の季節 寄ってみる価値のある店です 右写真は茶店の玄関
上野公園の開園は1873年(明治6年)5月・・東京府公園として芝公園などと同時に指定を受けてます 西郷さんの銅像(高村光雲作・犬は別人の作)の除幕式は明治31年で韻松亭オープンよりはるか年月を経た後のことです
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以下は茶店の紹介画像です 靴も脱がずに椅子席中心なので手軽に利用できます
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2013年01月13日

上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡

「上野 阿部定の足跡 星菊水」 http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
上記アップ分の勤務先「星菊水」と対をなす住居篇です。

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右の白っぽいビルの位置に3棟の戦後に建てられた木造長屋が奥に向かって軒を連ねていました・・おそらく最も奥側の長屋に住んでいたものと推定(下の地図参照) 幅広の言問通り側は建物が連なり通路はなく塞がれており、出入り出来るのはこの細路地側のみ (右)中央のビルの真下が阿部定の住んだ長屋だった(昭和29年頃〜約10年間)
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左のビルのガレージ部分が布袋湯の位置 奥が北方向でやや左奥に小野照崎神社 (右)写真が神社正面鳥居下・・出勤前にここで社殿に向かって手を合わせていました
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阿部定が午後3時頃に連日通っていた銭湯・布袋湯(ホテイユ)は北隣りの旅館とともに解体され、現在はビル(MS)に建て替ってます。 布袋湯の真向かいの阿部定の長屋に注文を取りに来ていたクリーニング店もビルにとってかわられてます(推定)。阿部定は都内最古の3階建てアパート「鶯谷アパート」の前の道路を銭湯に通うために往復していたと思われます。玄関には美しいタイル模様が現在も残っています・・・阿部定も飽きるくらい見ていたはずです。(「阿部定正伝」でインタビューを受けた内の一人の方がこのアパート住まい)
銭湯からひとまず長屋に引き上げて、身支度を整えてから夕刻になると「星菊水」に出勤するために自宅を後にしますが、直接向かうことはなく北方向にある小野照崎神社の鳥居前で手を合わせてから、その場でタクシーを拾う・・・これが10年近く続いた日課とのことです。尚、帰宅時間は22時前後だったとのこと。「星菊水」を辞めて暫くして「若竹」を開店するまで、この坂本町の長屋住まいが続きます。

「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html

参考資料
 裁判予審調書
*主なる資料=「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局
 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」)
「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」)
 その他
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上野 阿部定の足跡 星菊水

荒川区尾久町四の一八八一待合「まさき」(正木しち方)の2階「さくらの間」にて1936年5月18日午前2時頃吉田屋主人・石田吉蔵を殺害(窒息死)、死後もなお独占(夫人らから)する為に牛刀を以って吉蔵の陰莖及び陰嚢を切取り、右上膊部外側に自らの名「定」の文字を刻み込む。さらに傷口の血を指につけ吉蔵の左大腿部に「定吉二人」、白敷布にも「定吉二人キリ」の血文字を書き残した上で、切取った陰莖及び陰嚢を持って午前8時頃に逃走。5月20日になり品川駅近辺(品川館)で逮捕。1936年11月24日より公判が開始され判決は懲役6年。主な服役先は栃木刑務所。1941年の皇紀紀元2600年の恩赦で出所。戦後もこの特異な事件は忘れ去られることなく「阿部定」の名は人々の記憶に刻み込まれたままに。
戦後、阿部定は各地を転々とする中で好奇な眼にさらされ続けますが・・・昭和29年(28年?)になり、現在の上野・稲荷町の近くの割烹「星菊水」(閉店)で初めて永続する(約10年間)仕事に就くことが出来たのです。
入谷(旧坂本町2丁目)から定が通い続けた「星菊水」・・・勤め先・住居の場所は一般にはほとんど知られていません(ネット検索しても不明)。昭和34年8月19日に、定は「星菊水」での精勤が認められ東京料飲組合から優良従業員として表彰されてます。「週刊現代」の該当号(昭和34年9月13日号)には表彰を受ける阿部定、そして住居(長屋2階)での本人の写真までも掲載されているのです。
当時の話を聞こうにも長屋のあった付近はほとんど高層ビル・MSに建て替えられており、地域に詳しい方も入院中(加藤炭店の方)だったり・・・坂本町2丁目の住居の特定は難しいですが約30m四方の圏内までは絞れてますので別項としてアップします。
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(左)写真中央の茶色の建物が割烹「星菊水」跡 (右)は大通り=浅草通りから路地奥方向
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路地に入る角・・阿部定はほぼタクシー通勤だったのでここで降りていたはず(推定)
「星菊水」での勤務を続ける中で阿部定に独立のチャンスがめぐってきます。上野の国際通りにバー「クィーン」を開店・・半年後には台東区竜泉でおにぎり屋「若竹」を開業。すでに阿部定は60歳を過ぎた年齢に達しています。

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
       「星菊水」に勤めていた当時の阿部定の住居篇です。
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html

参考資料
 裁判予審調書
「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局
 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」)
「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」)
 その他
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2013年01月04日

上野 西村賢太の小説「暗渠の宿」の舞台(部分)

彼女と共に、傾倒する私小説作家・藤澤清造が約90年前に訪れた上野動物園の地に立つという目的を果たした後、二人は上野駅近くの映画館街にむかう。そこで主人公は「聚楽」のネオンの真下あたりで古書展のようなものが開かれているのを見つける。単行本「暗渠の宿」のp133です。「中に入ってみると、下町の古書店がいくつか集まっての、なかなかの規模のもので、・・・」 ここで主人公は背表紙に藤澤清造の名を探し始めるのだが、近代文学関係の書籍が集まるコーナーでそこにいた客とトラブルをおこしてしまう。p137まで描写されますが、この小さいトラブルが2010年の「苦役列車」での第144回芥川賞受賞決定の連絡を受けたときのせりふ「風俗に行こうかなと思っていたところ」につながってゆきます。主人公の粗暴さを後ろでじっと観察していた彼女は後ずさりするように消えてゆきます。この後、西村氏の実生活において短い期間だったら彼女と呼べる女がいたかどうかを調べることは不可能ですが、各作品に描かれているように決まった女を作れずに風俗漬けの日々・・・。この古書店の場面が、芥川賞受賞連絡の時まで続いていく彼女のいない生活の契機となった場所なのです。芥川賞受賞後、マスコミへの対応のためマネジメントを表参道交差点の近くに本社を置くワタナベエンターテインメントに委託し、テレビ番組出演もこなしています。番組をチェックしたのはほんの一部ですが、有名人になった後も変わらない生活のようで風俗通いは更なる高みに達してるいるようです。

映画館に向かう描写に映画作品名が2本登場・・・「ハリーポッター」と「伊能忠敬」。年月が絞れます。2001年です。大ヒットした「ハリー・ポッターと賢者の石」と東映系「伊能忠敬−子午線の夢」(11月17日公開)。この書店を訪れたのは2001年11月か12月でしょう。また「聚楽」のネオンの真下あたりと書かれてますがややずれた位置に該当する古書店が存在してました。
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赤いタクシーの真後ろの位置に10店舗の集合古書店 下右写真のチラシの地図に赤丸
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かなり広い店内の右奥付近に文学関連の棚 この辺でトラブルになったよう?
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聚楽のネオンもビル解体で消滅・・上の写真と同じ角度で撮ったつもり 昨年9月にその古書店も閉鎖 間もなくこの小説のこの場面は探そうにも探せない場所となります
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西村賢太「暗渠の宿」新潮社2006年12月20日発行 新潮文庫でも刊行中
右写真は(株)ワタナベエンターテインメントの玄関
ワタナベエンターテインメント文化人グループに西村氏の顔写真付きプロフィールhttp://www.watanabepro.co.jp/mypage/artist/nishimurakenta.html

西村賢太氏の受賞略歴
2007年「暗渠の宿」第29回野間文芸新人賞受賞
2006年「どうで死ぬ身の一踊り」第134回芥川賞候補
2008年「小銭をかぞえる」第138回芥川賞候補 
2009年「廃疾かかえて」第35回川端康成文学賞候補
2010年「苦役列車」第144回芥川賞受賞

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