2018年06月29日

京都 薩摩藩定宿鍵屋跡 織田作之助「月照」より

京都市中京区蛸薬師通柳馬場下ル東側に薩摩藩士らが出入りした薩摩の定宿鍵屋(かぎや)があった。 
安政5年(1858年)西郷吉兵衛32歳、年初より西郷は篤子(天璋院)に働きかけ、水戸の一橋慶喜を将軍世子とする運動を推進し、3月に入ると篤子からの近衛忠熙(このえただひろ)に送る書簡を携えて江戸を出立。京都にて月照・村岡(近衛家老女)らの援けを受け内勅降下をはかった。
4月23日、江戸で彦根藩主井伊直弼(なおすけ)が大老に就任、5月、西郷は薩摩の島津斉彬に書を送り、井伊が大老となったことにより形勢が一変し、一橋慶喜の将軍世子実現が危うくなった旨を知らせた。
7月10日、西郷は大坂より吉井友実とともに入京、梁川星巌、春日潜庵らと面会し関東の形勢をつかみ、京と大坂を行き来する。宿は薩摩藩定宿の鍵屋であった。
この直後(7月16日)薩摩藩主島津斉彬が死去、7月27日に斉彬の計報を受けた西郷は失望し、帰藩して殉死の決意を固める。この間、月照の慰撫を受け帰藩を取りやめ、斉彬の遺志を継ぎ、国事に尽力する決意を固くした。
9月7日、有馬新七が江戸より入京し鍵屋を訪れる。有村俊斎・伊知地正治もまじえて鍵屋で会合。
同日、梅田雲浜が逮捕され、安政の大獄が始まる。9月9日、月照が来訪し梅田雲浜の捕縛を西郷らに伝える。
この間の西郷と月照の二人にスポットを当てた織田作之助の小説「月照」より、その動きを追ってみる。

<<柳の馬場の薩摩の定宿、鍵屋へ西郷吉兵衛(*西郷吉之助)が帰って行くと、雨だった。が、月照はすぐ支度して、陽明殿へ駕籠を走らせた。近衛左大臣は参内(さんだい)して、留守だった。それで、老女村岡に面会して、西郷より預った将軍家御台所篤姫の手紙を近衛公に渡してくれるように頼み、「事情が切迫いたして居りますから、火急篤姫(あつひめ*天璋院)様への御返書がいただけるようにお頼み申し上げて下さい」と、つけ加えた。(略)>>
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柳馬場通錦上ル東側。奥に錦通アーケード、左側が東側。順次左側の写真を北向き(蛸薬師通方向)
に並べてみる。
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この3枚のどこかに薩摩藩の定宿鍵屋が存在していたが、物語の6年後の元治元年(1864年)7月19日の禁門の変を端緒とする兵火(どんどん焼け)で御所南方の広範囲が灰燼に帰している。鍵屋も巻き込まれ焼失したろう。対長州藩の薩摩軍指揮者は西郷吉之助であった。

<<庭の菊に暫らく充血した眼を向けていたが、やがて、
「支度を頼みます。鍵屋へ行くから・・・」と、月照は沈んだ声で言った。
月照が鍵屋へついた時、西郷、有馬、有村、伊知地等は丁度朝食をたべ終った時だったが、雲浜(うんぴん)の逮捕を未だ知らなかったらしく、きくなり、有村は苦しそうに部屋の外へ出て行った。
暫らくすると、有村は戻って来て、
「見苦しいところをお眼にかけて、恐縮した。実は吐き気がしたので・・・」と、言った。
「コロリじやなかろうな」と西郷が心配してきいた。>>

撮影2011年4月。
「月照」1942年(昭和17年)7月全国書房刊行
「織田作之助全集3」1970年講談社に収録
参考 「西郷隆盛全集第6巻」1980年大和書房


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2018年06月21日

京都 五山送り火 水上勉「折々の散歩道」より

京都五山送り火。京都の夏の夜に行われる盂蘭盆(うらぼん)の行事で、先祖の精霊が浄土へと帰る道々を照らすために灯される。江戸時代は陰暦七月十六日、現在は八月十六日に行われる。京都を囲む山々に夕闇がせまるころ、五山(金閣寺大文字山の左大文字、東山大黒天山の妙法、西賀茂船山の船形など)でつぎつぎと送り火が焚かれてゆく(かなり時間差がある)。東山如意ケ嶽(にょいがたけ)の大の字を、百万遍に住んだ作家水上勉がエッセイに書き残している。
「画文歳時記 折々の散歩道」水上勉1993年小学館より抜萃。
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東山如意ケ嶽、漆黒の闇に赤々と大の字が浮かび上がる。

<<このところ雨の日ばかりなので、窓から大文字山ばかり眺めている。時に晴れまがあると、山は、くっきりみどりの肌を浮かせる。阿弥陀峯は大文字山といわれるが、例の三角のところが、心もちまがぬけて見える。やはり八月がきて火が燃えぬと、この山はどこか手持ち無沙汰なのだ。三角のかたちいっぱいに、春先だと土の出たところが大の字にみえる。五月すぎると下草が生えるので、窓からはみどり一色となる。時々、ここを軽トラが通っているのを双眼鏡で見たような気がする。>>
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賀茂川出町橋付近の土手・河原は数時間前から送り火見物の人々で埋め尽くされる。

<<大の字の中央にお厨子(ずし)があって、八月十六日の夜の送り火の際は、ご祈禱がある所だろう。そのあたりの小屋を修繕でもしているのか。人の白い姿もちらほらしているが。だがこんな風景を双眼鏡でじっくり見つめている男は、ひま人のぼくぐらいで、京都市民の大半は、物をいわない山をいちいち仰いだりしないだろう。みな忙しそうに、車も自転車も人間も走っている。(略)>>
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出町柳駅から出町橋付近にかけてのエリアは毎年恒例の大混雑、橋上の絶好のビューポイントは人間の渦が巻く。
撮影2012年8月16日
水上勉リンク
京都 水上勉が贔屓にした京漬物店 出町なかにしhttp://zassha.seesaa.net/article/385952842.html
京都伏見 第十六師団第九連隊輜重隊跡 水上勉「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448183567.html
京都百万遍 梁山泊と思文閣MS 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455218960.html 
京都宇治 萬福寺 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」より http://zassha.seesaa.net/article/455418803.html
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2018年06月20日

京都 南禅寺三門 松本清張「球形の荒野」より

亡くなった笹島画伯の描いたデッサン画を、その画のモデルである野上久美子のもとに返したいから、11月1日正午に指定場所(南禅寺三門付近)に一人で来てくれというタイプライターで書かれた山本千代子からの不審な手紙が届く。久美子は指定された時刻に南禅寺三門(山門)に向った。
「松本清張全集6」1971年文藝春秋に収録の長編「球形の荒野」より。
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南禅寺三門。西向き(京都中心部に向いて)に建ち、二階に縁(ふち)と高欄が設けられている。

<<時計を見ると、まさに十一時だった。久美子(*野上久美子)は、その径(こみち)から山門のほうへ歩いた。松林になっていて、殆んどが赤松である。下には短い植物が群がっていた。午(ひる)近い陽射しだったが、光は弱かった。秋なのである。光線は松林の間から洩れて、草と、白い地上に明暗の斑(ふ)をつくっていた。>>
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三門前の松林。
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<<山門は、こちらから見ると、屋根も軒も蔽いかぶさるように大きい。陽の加減でそれが逆光になり、暗い部分に複雑な斗栱(ますぐみ)が高く載っていた。建物は古びて黒ずんでいる。そのせいか、近づくと汚ならしく見える。木肌も荒く割れているのだ。歌舞伎に出てくる石川五右衛門(*)の舞台の朱塗りから想像して、一致しているのはその建造物の大きさだけだった。久美子は、山門の載っている石の基壇に立っていた。人はやはり来ない。話し声が反対側の松林の向うでしていたが、それは坊さんだった。静かなものだった。この静けさのなかで久美子は時間を待った。
石段を登ったり降りたりした。松林の中にも入ってみた。先方の指定が山門付近というのだから、この場所から遠くに行かなければどちらにもわかる筈だった。山門から奥へ向かって正面が法堂になっていた。久美子は退屈になって、その前に行った。>>
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南禅寺法堂。法堂は桃山時代に築造されたが明治28年1月に焼失、明治末年の復興。
<<やはり短い石段を登ってすぐお堂の入口になる。さし覗くと、暗い正面に金銅仏が三体仄(ほの)かな光線を受けて光っている。両側に太い柱があって、禅宗の文句が対になってかかっていた。(略)
久美子は、またもとの道を振り返ったが、やはり誰も歩いて来る姿は無い。白い道が下り坂になって、両方にさし出た葉の茂りだけが蒼いのである。明るい陽のなかに時間だけが空しく過ぎた。>>

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南禅寺山門の五鳳楼。石川五右衛門が登場する芝居の舞台。「絶景かな」と思わずつぶやいてしまう。

(*)安永7年(1778年)並木五瓶の作、歌舞伎狂言「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」(一幕物、大坂中座での初演では「金門五三桐」五幕)の主人公である盗賊石川五右衛門のこと。「絶景かな、絶景かな、春のながめは価千金〜」云々で有名な出し物の舞台がこの南禅寺三門。これまた有名な事実だが、南禅寺三門は文安4年(1447年)4月の火災で焼けてから、藤堂高虎によって再建寄進された嘉永5年(1628年)まで存在していなかった。石川五右衛門存命の間は当然あるわけがない。五右衛門は、「言継卿記」(同時代の公家山科言継の日記)に三条南の河原で処刑(釜茹で刑=子1人と盗賊10人、文禄3年8月23日)されたとある。イスパニア商人の記録には、油で煮られたと記されている。墓は祇園南側の大雲院本堂裏にあるという(「京都史跡事典」)が、非公開で見れない。
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石川五右衛門の墓があるという祇園・大雲院の山門。
 
「球形の荒野」オール読物昭和35年1月〜昭和36年12月連載初出
撮影は2007年〜2012年
参考 南禅寺HP http://www.nanzen.net/keidai_sanmon.html

松本清張リンク
京都 円山公園 いもぼう平野屋本家 松本清張「球形の荒野」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/322024530.html 2013年02月12日 
奈良 薬師寺から唐招提寺への道 松本清張「球形の荒野」より http://zassha.seesaa.net/article/448074331.html 2017年03月18日 
代々木上原 代々木上原駅千代田線ホーム 松本清張「清張日記」より  http://zassha.seesaa.net/article/453928874.html?1507065663
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2018年06月19日

比叡山延暦寺西塔 弁慶伝説 海音寺潮五郎「源義経」・「吾妻鏡」より

辨慶(弁慶)に関する「吾妻鏡」の記述を、「武将列伝 源義経」で海音寺潮五郎が指摘している箇所にそって拾いだしてみる。原本は「吾妻鏡」国史大系本で、治承4年から文治3年に至る第一巻第五から。
源頼朝の要求によって義経・行家の追討の院宣が下った後の文治元年十一月大(1185年11月)のくだりから。現在の暦では使われることが無くなったが、「吾妻鏡」には月の後ろに「大」「小」の表示が付けられている。説明は別の機会に。
 
<<三日 壬午 前備前守行家・伊予守義経等、西海に赴く。まづ使者を仙洞に進じて、申して云はく、鎌倉の譴責(けんせき)を遁(のが)れんがために鎮西に零落す。最後に参拝すべしといへども、行粧異體(体)の間、すでにもつて首途(かどで)すと云々。前中将(平)時實(実)・侍従(一條)良成・伊豆右衛門(源)有綱・掘弥太郎景光・佐藤四郎兵衛尉忠信・伊勢三郎能盛・片岡八郎弘経・辨慶法師己下相従ふ。かれこれの勢二百騎かと云々。(略)>>
義経が少人数の供廻りを伴って西国に落ちてゆく段である。従者に辨慶法師の名がある。

<<六日 乙酉 行家・義経、大物(だいもつ)の濱において乗船の刻、疾風にはかに起りて、逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止め、伴類分散して、予州(*義経)に相従ふの輩わづかに四人、いはゆる伊豆右衛門尉(*源有綱)・掘弥太郎(*堀景光)・武蔵房辨慶ならびに妾女(字は静)一人なり。(略)>>
その逃亡劇も暴風雨のためにあえなく挫折、主従ちりぢりとなる段である。吉野山で愛人静(しずか)が義経と別れ、捕らえられた後、鎌倉に護送される前段である。わずかな義経の従者のひとりに武蔵房辨慶が記されている。
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弁慶伝説が垣間見える比叡山延暦寺。延暦寺の堂宇は霧にけぶり、伝承もまた霧中に幻と化している。

歴史小説家のなかで最もエールを送くり、またその作品を愛読する海音寺潮五郎の小説「武将列伝 源義経」から抜粋。
<<さらにぼくは、弁慶もこの頃やはり陸奥で郎党となったと推理している。一体、弁慶という人物は、平家物語や源平盛衰記には武蔵坊弁慶という名で出て来、吾妻鏡(あずまかがみ)の文治元年十一月三日の条に弁慶法師、同六日の条に武蔵坊弁慶という名で出て来るから、実在の人物であることは確かであるが、素姓はまるでわからない。義経記には、熊野別当弁せう(原文のママ)が、参詣に来た二位大納言其(なにがし)の姫君に横恋慕して奪い取って子を生ませた。鬼若と名づけたが、相貌あまりにも猛悪であったので、僧にするために比叡山に入れ、西塔(さいとう)の桜本(さくらもと)の僧正に弟子入りさせた。学問はよく出来たが、乱暴もので問題ばかりおこして皆にきらわれ、居るに居られなくなったので、自ら髪を剃って 「西塔の武蔵坊弁慶」と名をつけて山を出、播州書写山(*姫路)に入ったが、ここでもまた喧嘩して寺に火をかけて焼きはらい、京に出て、千腰の太刀をそろえようと、夜な夜な辻に立って人の太刀を奪い、九百九十九腰をそろえて、千腰目に牛若丸に逢って、うちまけて家来になったとある。
しかし、義経記は小説だからよほど用心してかかる必要がある。第一、熊野別当代々記には弁せうなどという人物の名は見えない。せめて西塔の武蔵坊弁慶という名のりが信用の出来る書物に出ていれば、比叡山の西塔にいたことがあるというだけでもわかるのだが、上記の通り、武蔵坊弁慶または弁慶法師としか出ていないのだから、比叡山にいたということもあやしい。>>
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弁慶伝説が伝えられる延暦寺西塔の<にない堂>。常行堂が苔むした坂の奥に佇む。
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<にない堂>とは、近年に重要文化財に指定された法華堂(右)と常行堂(左)の両堂のことである。
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<にない堂>の<にない>とは、荷物を担ぐときに使用する<にない棒>からきている。形が似る宝形造り・栩葺(とちぶき)の両堂をつなぐ廊下が<にない棒>にみえることからの呼称である。

<<弁慶の名がはじめて相当信用してよい文献に出て来るのは、盛衰記(*源平盛衰記)の宇治川合戦の数日前に尾張熱田で源氏勢が勢ぞろえ(*頼朝の生家は熱田神宮)した時のくだりである。だから、弁慶が義経の郎党になったのはそれ以前でなければならないが、もし比叡山の坊主上りで京住いしていたとすれば、その時期がない。
義経が未だ鞍馬にいた頃とすれば、奥州下りについて行かないのが不思議であり、平治物語に全然出ていないのもいぷかしい話だ。(略)>>

京都市中京区弁慶石町に残置されている<辨慶石>についての多々の異説・怪説について。
享徳3年(1454年)、奥州高館付近にあった弁慶石が、天台宗延暦寺に属す京極寺(中京区弁慶石町)に移されたと伝承にある。奥州において弁慶が愛した石と謂われ、また弁慶が衣川合戦でこの石に立ったまま死んだとも伝わる。これも伝承だが、弁慶は幼少の頃この京極寺に住んだという。弁慶を追慕する後世の人によって作られたものともいう。京極寺は応仁の兵火で焼かれ、上御霊神社の西に移転、近年(大正12年)に至り、烏丸通拡張工事のために京都市北区に移転している。また別の説では、東京外濠の弁慶橋を造った棟梁弁慶仁右衛門の庭先にあったものとも謂われる。すべて確証のない伝承ばかりである。弁慶石が置かれている場所には、かっては三和モータープール(駐車場)が存在していたが、現在は「よーじや三条店」の敷地内となっている。石の形状は異なるが、洛中洛外図屏風(1570年頃成立)には粟田口近くの松の下に<へんけい石>(墨書付き)なるものが描かれている。
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「よーじや三条店」のエントランス脇に置かれている<辨慶石>。

ルビは原文に無いものも適宜振ってあり、注釈(*)は本文にはありません。
主な参考文献
「筑摩現代文学大系 海音寺潮五郎集」1977年筑摩書房
「全譯 吾妻鏡第一巻」1951年新人物往来社
「京都史跡事典」2001年新人物往来社
延暦寺西塔HP https://www.hieizan.or.jp/keidai/saitou
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2018年06月11日

京都祇園 料亭備前屋 織田作之助「それでも私は行く」から

世界文学社柴野社長(文中では島野社長)は、東北大学の桑原武夫教授(文中では桑山竹夫)が京都を訪れた際など、社のサロンの常連一同を伴い、祇園北側富永町(花見小路と切通しの間)の料亭備前屋でたびたび酒席を設けていた。<小説家の小田策之助>は、もちろん織田作之助本人のこと。青山光二の「織田作之助 青春の賭け」には、備前屋は、<赤前垂れの由緒あるお茶屋だ。二階のおもての十五畳の座敷は、世界文学社の一行にはお馴染だった>と紹介されている。

織田作之助の新聞小説「それでも私は行く」(1946年4月25日〜7月25日京都日日新聞夕刊に連載)から備前屋の場面を抜粋。
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お茶屋備前屋は、現在は建替えられ「備前屋ビル」となっている。
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<<「祇園の何という店だ」
「知りまへん」
市龍は横を向いてしまった。
君勇が先斗町(ぽんとちょう)から呼ばれて行った先は、祇園の備前屋だった。わざわざ名指しだったが、お座敷は見知らぬ顔ばかりだった。世界文学社の島野二三夫、評論兼翻訳家の桑山竹夫、同じく吉井正太郎、同じく中山定二、小説家の小田策之助という、凡そ粋ならざる書生っぽばかしの一座であった。実は、桑山竹夫が今日仙台からやって来たので、その歓迎の意味もあり、島野の招待で一同ぼそんと備前屋の二階にやって来たわけである。(略)>>
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<二階のおもての世界文学社がよく上がった十五畳の座敷>(イメージ写真)。
備前屋には上がったことはないので、祇園南側景観地区の某割烹店の二階広座敷で代用。

<<「――たしか、先斗町の君勇という名の芸者だ」
小田は備前屋のおかみに、「祇園からでも先斗町の芸者はよべる・・・?」と、野暮なことをきいた。
「へえ、呼べます。お馴染はんおいやすのンどっか」
「いや、なに一寸会うてみたいんだ、いや、顔を見るだけでいい」
そして、君勇を呼んだのだった。君勇が来ると座の空気はふと冴え返った。
桑山竹夫はここを先途とサノサ節の調子をはり上げた。>>
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八坂神社南楼門の備前屋奉納の大提灯。
写真は全て2013年撮影。
「織田作之助全集6」1970年講談社刊より。 

織田作之助リンク
大阪 北野田の六軒長屋 織田作之助「蚊帳」「高野線」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383884815.html
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383338605.html
大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383495231.html
大阪 御蔵跡公園 織田作之助「夫婦善哉」からhttp://zassha.seesaa.net/article/384046960.html
大阪 木の實 織田作之助の短編「大阪発見」からhttp://zassha.seesaa.net/article/385693058.html
大阪 道頓堀 いづもや 織田作之助「夫婦善哉」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/386771536.html
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2018年02月02日

京都 錦市場 荒木陽子「長編旅日記 アワビステーキへの道」より

錦市場(にしきいちば)は、寺町通から高倉通までのアーチに覆われた錦小路通(幅約3m余)の両側に隙間なく軒を並べた生鮮食材や加工食品などを扱う商店の総称。鮮魚川魚、干物、京野菜、茶葉、玉子、乾物、漬物、おばんざい、湯葉、京菓子、刃物等々の多種多彩な品目を、人混みをかき分け、眺め歩くだけで楽しめる。京都観光の鉄板スケジュールとして多くの観光客が錦市場回遊を取り込んでいる。
京都に立ち寄った写真家荒木経惟(のぶよし)・陽子夫妻は、さっそく夫妻のポリシーとなっている別行動をとることに。陽子さんが、さて何処に行こうかと思い悩んで向った先が、この錦市場であった。
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この頃(2013年6月撮影)までは、京都観光は日本人客が主体で、特別なイベントが催されない限りそれほど混み合うことはなかった。が、この年の後半から異常なまでにアジアからの観光客が急増し、錦市場を含む人気観光スポットは、たとえ平日でも人をかき分けながら歩くことが当たり前となってゆく。
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市場と名は付くが早朝(午前7時)はまだひっそりとしており人影はまばら。

荒木陽子エッセイ「長編旅日記 アワビステーキへの道」(1985年)より抜萃。
<<さて、自由行動の身であるので、どこへ行ってもよいのだが、なにしろ五時半の待ち合わせまで二時間くらいしかない。これでは電車に乗ったりはできない。往復するだけで終わってしまう。それじゃあどーしよう、と私は考えた。近くで素敵に楽しい所といったら? そーだ! 今までまだちやんと歩いた事がない<錦市場>に行く事にしよう。<錦市場>の中へ入って行くと、水曜日のせいで、ところどころの店が休んでいる。そのせいか通りがややうす暗く感じられる。>>
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<<しかし、それぞれの店は活気があってなかなかにおもしろい。魚屋に並んでいる物に私はとても興味をもってしまった。まず驚いたのは、てっちり用のフグを売っているのだ。そればかりか、フグサシ(こちらではてっさ)まで売っている。大体一皿千三百円。いいなあ、魚屋さんでフグサシが買えるなんて、毎日でも家で食べられるじやないか。それからキレイな色の糸縒や大きな生タラコ(東京では余り見かけない)、その生タラコの湯がいた物も売っている(輪切りになっているので最初は何かと思った)。>>
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京都近郊、丹波、若狭、明石などの産地から運び込まれる食材で錦市場は成り立っている。

<<若狭方面からの魚介類が多い。新鮮そうな甘海老(色と艶が東京の魚屋で見るのとは大違い)、大きなズワイガニ、上品な若狭ガレイ。焼き魚屋さんというのもある。見事にテリのある焼き上りの、ぐじやはもが一串に二切れついて七百円くらい。これが実に実にうまそう。買っていって熱々のごはんで食べたら、ウマイだろなー、と思いつつ、ぽ―っと見ていたら、店員のオ兄さんに不審な顔付をされてしまった。湖でとれる小魚の甘露煮も多く目に付く。諸子(モロコ)や若さぎの甘露煮などである。>>
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<<こういった、東京の魚屋と大いに違う様子が私にはとても面白い。魚屋の違いに比べて、八百屋には余り大きな違いがない。それというのも、近頃東京の大きなスーパーなどで、京野菜も沢山置いてあるからで、水菜や京人参など見ても、見馴れているので普通である。ただ呼び方の違いが面白い。サヤエンドウの事を三度豆といい、菜の花の事をナタネという。>>
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<<私はプラブラと眺め歩きをしながら色々な物を買った。振り袖という名前が付いたトックリ入りの伏見の地酒(トックリに着物姿の女の絵がついている)六百五十円、笹かれい二枚(一枚三百八十円)、昆布で編まれた籠二ケ(一ケ八十円)、この昆布籠は油で揚げると食べられるのだが、これを買ったお店には様々な物が置いてあった。>>
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<<大豆や小豆などの豆類、麩嘉の生麩、特にこの生麩が実にキレイだった。中年女性の客がやって来て、「もう桜の形になったんやねー」と言いつつ、切り口が桜の形をしている生麩を見ていた。すると冬の季節には梅かなんかの生麩が出るワケかしら、風雅なモンですねー。このお客は蓬麩を買っていった。私もその蓬麩を買いたかったのだが、生麩を料理した事がないのでビビつてしまった。(略)>>
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京生麩<麩嘉(ふうか)>(錦市場支店)。本店のようなどっしりとした老舗感はないが同じ物が手に入る。
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<麩嘉>の天日で乾燥させた散し麩。
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漬物<枡伍(ますご)>で買い物(最上段の写真に写っている店番のおねえさんの手)、中身は好物の
千枚漬パック。京都に着くと同時に<枡伍の千枚漬>を買って、その日のオツマミとする。店は京都の
あちこちに展開しているので困らない。

*撮影は2013年〜2015年。
「長編旅日記 アワビステーキへの道」1985年初出。
「荒木陽子全愛情集」2017年港の人(鎌倉市)に収録。
荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
京都・四条河原町 喫茶・築地http://zassha.seesaa.net/article/455847835.html
渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場http://zassha.seesaa.net/article/455890811.html
長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455985556.html
鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456022608.html
渋谷宇田川町 ラブホ・オリエント 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456164596.html
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2018年01月13日

京都三条木屋町 大村益次郎の遭難 「木戸孝允日記」より

明治2年9月4日晩、京三条木屋町の長州藩抱屋敷に宿泊中の明治新政府の要人、兵部大輔(ひょうぶたいふ)・大村益次郎が、8名の刺客に襲撃された。
直ちに発せられた至急報は、9月10日早暁、箱根宮の下で温泉療養中の木戸孝允(旧姓名・桂小五郎、前年まで明治新政府の総裁局顧問、自邸は九段富士見町、療養のためか大の温泉好き)のもとへ届いた。 
9月10日付けの木戸の日記から。
<<同十日 朝微雨暮に至ら甚し 今暁河村謙蔵来る 槇村半九郎河田佐久馬の至急書翰を出す
去る四日晩 大村益二(ママ)郎京都木屋町三番路次の寓へ刺客八人亂(*乱)入
静間彦二郎加州人安達某 難に死し 大村家来一人翌五日に死し 一人数ケ所の瘡を受く 
天哉大村数所の大瘡を受ると雖(いえど)も性命(*生命)無恙(つつがなく)由報知
余一旦大驚愕性命の無恙を見先一安堵せり
大村兼て余と大に諭し天下の形勢日々逼迫然して廟堂の諸子多くは一日の安きに
安じ一定の着目難立を歎す必此度上京に付京都の不規則を欲正且春来大に
十津川紛亂を欲定巨魁の姦人を捕縛す必浮浪種々浮言を以大村を暗殺せんと謀る
大村の此危を免る寶(じつ)に天助ならさん哉
家妹の書寺内暢三の書到来今夕・・・・(略)>> 
*原文にルビ等は無し。
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8名(3班)の刺客に包囲され急襲を受けた長州藩抱屋敷跡に設置された「兵部大輔従三位
大村益次郎公遺趾」の石柱。押小路通が高瀬川を渡り木屋町通に接する 一之船入の東付近。

重傷を負った大村は、いったん近くの長州屋敷(現在敷地一部で京都ホテルオークラが営業中)に収容され、さらに本格治療を受けるため伏見(一泊)経由で下阪する。移転まもない大阪病院で蘭医アントニウス・F・ボードウィンの手術を受けるが、11月5日(旧暦)に敗血症で死去した。この襲撃から死去までの経過を、史料を縦横に駆使し、かつ緻密な筆致で描ききった村松剛の大作「醒めた炎―木戸孝允」から抜萃。幕末物の小説では村松剛のこの大作と海音寺潮五郎の諸作が好物。もちろん吉村昭の労作群は別格扱い。あとは・・・いらない。

<<森寺の来訪の翌日に、大村益次郎が京都に向かって発った。大阪に陸海軍の兵学寮を創設することが、大村の出張の目的である。大村はひどく船酔いするたちだったために、船旅が嫌いだった。――船嫌いでなければ、とうに洋行していただろう。自分でそういっていたほどで、このときも甲州経由木曾路を通っている。ことさらに山中のみちをえらんだのは、刺客を避けるためだった。彼は国民皆兵論を主張したことによって多くの武士たちの恨みを買い、「神州の正気」を汚す洋化論者の代表のように攘夷派からは思われていた。そのうえに上野の戦争のころから大村を憎んでいた薩摩の海江田信義(かいえだのぶよし*旧名有村俊斎、西郷・大久保らと精忠組結成)が、新設の弾正台の京都支台勤務を命じられ、大村よりも二日ばかり遅れて京都に行く。木戸は大村の身辺を心配して長州出身の京都府権大参事、槇村正直(まきむらまさなお*第2代京都府知事)に手紙を書き、海江田は信用できないから警戒を厳重にしてほしいとたのんだ。>>
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長州藩抱屋敷(民間所有の土地家屋を買上した屋敷)跡の高瀬川対岸に設けられた大村益次郎卿遭難之碑。

<<(略)三條木屋町の長州藩抱屋敷に、大村益次郎は逗留した。二階建の小さな家屋で、東は鴨川に面している。大村は兵制の洋式化を推進しながらも自分は洋服を嫌い、生涯和服しか着用しなかった。たいていは黒羅紗の筒袖に、裁付の袴である。裁付袴(たっつけばかま*相撲の呼び出しが着用)は伊賀袴と似て、膝から下が脚絆になっているから旅行には便利だが、こんな服装の男が従四位兵部大輔とはだれも思わない。紙屑屋にしては黒の、それも羅紗をつかっている点が不釣合であり、――金まわりのいい行商人か、くらいにひとは思ったであろう。
 政府が東京に移転してからあとの京都の町は、火が消えたように淋しかった。しかし治安はかっぱらいがふえた程度で格別わるくはなく、心配する必要はないと大村は木戸に報告している。
 海江田信義は京都の情勢の不穏さを理由に弾正台の創設を大久保(*薩州出身大久保利通)にすすめ、みずからその大忠に任じた。大村の木戸宛書簡によれば京都は、
「東京にて傳聞つかまつり候模様よりも治りいたつてよろしく、この上は漸をもつて御政務御改革、諸有司心を用ひ候はば、大に萬民の大幸と存じ候。」(八月十八日付)
 この手紙を書いた翌翌日に彼は大阪に下って兵学寮と鎮台との建設予定地を検分し、さらに天保山の軍艦泊地を調査してから、陸路山崎、嵯峨経由で京都にもどった。陸路をとったのは刺客の群が伏見にいる、という密報がはいったことによる。(略)
 伏見大阪間を八人の男たちが慌しく往復するのを、海江田は見て見ぬ振りをしていた可能性が高い。京都にもどった八人は大村が彼らといれちがいに帰京し、木屋町に滞在していることをつきとめた。九月四日の夕刻、大村は二階の奥の四畳半で英学教授の安達幸之助、長州藩第二大隊司令試補の静間彦太郎を相手に酒を呑んでいた。秋もすでに深く、鴨川の風が涼しい。安達幸之助は加賀津の足軽の息子で大村にはやくから師事し、安政三年には大村にすすめて私塾を開くことを決意させた。
 それが一番町の鳩居堂(*東京千鳥ヶ淵、村田蔵六の名で幕末の切絵図に記載されている。私塾名は記入無し)であり、安達はのちにその塾頭をつとめる。粗食に甘んじて日夜読書にふけったために眼をわるくし、友人にすすめられて泥鰌(どじょう)を毎日食べて辛うじて視力をとりもどした。講武所や藩の学校で洋式兵学を教え、維新後は大村の推挽によって兵部省の英学教授となる。
 安達と大隊司令試補の静間との用件は、京都河東の練兵場(*荒神橋の東詰付近か?)に開設される陸軍伝習所にかかわる問題だったであろう。大阪の兵学寮ができるまでのあいだ速成の士官養成機関をとりあえずここにおくことが決せられ、伝習所は翌五日から講義と訓練とを開始する予定になっていた。
 二人づれの男が訪ねて来たのは、夕方の六時ころだった。
萩原秋蔵と書いた名刺をひとりが差出し、――大村先生に面晤(*めんご=面会の意)を得たい。大村は公用なら明日役所に来てほしい、私用なら明後日だといった。若党の山田善次郎がその由を伝えると、二人はぜひ今晩お目にかかりたいのでもういちど取次いでほしいとたのんだ。取次ぎの要求は、大村の在宅をたしかめるための手段だったのである。萩原秋蔵という名刺は首謀者の神代直人があらかじめ書き、久保田藩の金輪五郎に渡しておいた。若党の山田が二度目の取次ぎのために奥にひきかえすと、二人――金輪五郎と團伸二郎――はそのあとを追って駆込み、山田を滅多斬りにした。
 兵部省の後日の報告によると、彼は左手首を斬落され腹部に深さ一尺に及ぶ傷をうけていたほかに、左右の肩から腕にかけて四箇所を斬られている。山田は主人を守るために、素手で最後まで抵抗したらしい。両腕の傷が、そのことを物語る。金輪は、――大村は国賊につき討ちはたす、家来のものどもも手向いいたせば討ちはたすぞ、と叫びながら二階に駆上った。
 大村の護衛として東京かち随行した篠田武造は、どういうわけかこのとき宿舎にいなかった。もうひとりの従者である兵部省作事取締の吉富音之助が騒ぎを聞いて別室からとび出したときには、二人の刺客は二階に上ったあとであり、襲撃第二班の三人のうちのひとり、宮和田進(三河浪士)と階下の八畳でぶつかった。吉富は自分も傷をうけながら宮和田に重傷を負わせ、逃げる敵を追って河原に出たところで三人の刺客にかこまれた。刺客団は玄関から乗込む二組の襲撃班のほかに、河原に三人を配していたのである。>>
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鴨川河原(二条大橋から下流を撮影)。右岸100m先に長州藩抱屋敷があり、河原に3名の刺客が伏せていた。月明りの下(推定!)で乱闘となり、河原は血で染まる。この事件の7年前(文久2年7月)、写真と全く同じ位置で、長州藩抱屋敷の手前辺りの待合で妾と逢瀬を重ねていた反尊攘派の九条家士島田左近が、薩摩の人斬り田中新兵衛に襲われ、河原から二条大橋脇に駆け上ったところの善導寺門前で首を落とされる事件(新兵衛による最初の暗殺)が起っている。奥に見える橋は事件当時は未架橋の御池大橋。

<<大村に最初に斬りかかったのが、團だったか金輪だったかはわからない。彼は四畳半の床柱を背にして、坐ったままだった。一の太刀によると思われる額の傷が比較的浅かったのは、天井が低くて刀を振りかぶれなかったうえに、手前の窓際に安達と静間とがならんでいたから、踏込みにもためらいがあったためかと思う。安達は師の大村と同様に剣がつかえないし、静間は大小を階下において来ていた。――賊だ、と叫んで安達は河原にとび降り、静間がこれにつづく。このことが大村の命を、一時的に救った。うす暗い四畳半のなかの乱闘だから、刺客の方もどれが大村か見分けがつかない。賊だと叫んで二人が河原にとび降りたのに釣られて、團も金輪もそのあとを追った。床柱を背に坐っているもうひとりの男の姿は、彼らの眼にははいらなかったのだろう。安達を背後から斬ったのは、團伸二郎だったようである。大村と思いこんで「追ひかけ切りつけ」と團は供述書のなかでいい、安達は、――兵部省の報告書によると――後頭部と肩とを斬下げられていた。すでに致命傷をうけていた安達に、河原で待っていた神代がさらに斬りつける。安達幸之助は即死。享年四十六歳(ママ)。安達と大村とは、年齢が同じだった。背恰好も似ていたと見えて紳代直人が團に、――兵部大輔に相違ないか。まちがいない、と團はこたえた。実は團も大村を、よく知らない。(略)
 のちの検屍によると静間は背中から腰にかけて三箇所を刺され、傷は「いづれも深く胴内にとほり即死」。
兵部省作事取締の吉富も八箇所に斬撃を浴び、河原に倒れた。この間大村は階下に降りて、浴室の風呂桶のなかにひそんだ。刺客八人のうちで伊藤源助と太田光太郎は、刀をつかっていない。この二人は宮和田とともに襲撃の第二班に属していたのだが、彼らが玄関に踏込んだときには殺戮の舞台はすでに河原に移動していた。
吉富に斬られた宮和田は、歩行が不可能だった。
――とても逃亡はかなわぬ、斬ってくれ、
と彼は仲間にたのみ、越後の五十嵐伊織が二条通東河端で斬首して首を鴨川に放りこんだ。
 惨事を京都府がいつごろ知ったのかは、よくわからない。京都府から兵部省に通達があったのが午前一時であり、府の役人が報告をうけたのはそのまた少しまえと考えられるから、重傷の山田、吉富も風呂桶のなかの大村も、二、三時間は放っておかれたのではないか。山田は翌朝、絶命した。大村は額や膝等六箇所に傷を負いながらも比較的に元気で、駆けつけて来た見舞客に、――しばらく栄螺(さざえ)のまねをしました。無愛想なこの男にしては珍しく、冗談をいった。しかし風呂桶の底には不潔な残り湯がたまっていて、それが膝頭の傷口にはいったことから敗血症をのちに惹き起す。
 木戸が最初の上書を提出した日に、大村益次郎は京都から水路大阪に移された。蘭医ボオドインの治療をうけるためであり、船着場までは寺内(*後の陸軍元帥伯爵・寺内正毅)や兒玉(*後に陸軍大将・児玉源太郎)が担架をかついだ。大村は東京から駆けつけて来た兵部権大丞、船越衛に、「今後注意すべきは西である」といい、四斤砲(*野砲・4Kg砲弾)をたくさん製造しておけ。西とは、薩摩と朝鮮とをさす。
>>
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大阪市中央区法円坂の国立大阪医療センターの東南角地にある巨大(尊大)な兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑。大村益次郎のレリーフが嵌め込まれている。

船越衛への指示のひとつに「切断した足は緒方洪庵墓の傍らに埋めること」が伝わる。大阪北区同心町の龍海寺の師緒方洪庵の墓(遺髪墓)の脇に大村益次郎の足塚が遺言通りに築かれている。緒方洪庵は、幕府奥医師として招聘(文久2年8月)された翌年(文久3年6月10日)に江戸下谷御徒町の西洋医学所頭取屋敷で喀血し急逝、駒込(白山向丘)の高林寺に埋葬された。その緒方洪庵が大坂で主宰した蘭学塾適々斎塾(適塾)で大村は蘭学・医学を学び(弘化3年入塾)、塾頭まで登りつめている。
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大坂瓦町の適塾玄関(天保9年開塾)。
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緒方洪庵墓(遺髪墓)がある逢來山龍海寺。
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緒方洪庵の本墓がある駒込高林寺(左は夫人八重の墓、昭和11年に道路拡張の為ここに移動)。2008年撮影。

<<(略)大村は十一月五日(*旧暦)に、大阪で死んだ。ボオドインが右脚切断の手術(*10月27日、上本町・大福寺内設営の仮病院から移転した直後の法円坂の大阪病院にて右大腿部切断)をしたときには、敗血症はすでに進行していたのである。東京でその訃報をきいた木戸は、悲歎のあまり声も出なかった。大村に彼がはじめて会ったのは吉田松陰の江戸送りの少しまえだから、十一年のむかしになる。それいらい大村をつねに「先生」として遇し、藩に推挙してついには新政府軍政の中軸に坐らせた。木戸が本当に気を許してはなしのできる相手は、長年の子分の伊藤博文をべつとしていまは大村だけだった。二人で兵制の大改革に乗出そうとしていた矢先の死であり、まさに「茫然気を失ひしがごとし」 の思いだったであろう。>>
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京都霊山護国神社にある大村益次郎の墓碑(高知招魂社の脇)。 
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東京の木戸孝允邸のすぐ南、靖国神社参道に設置された大村益次郎銅像(明治24年10月大熊氏廣により塑像完成、明治26年2月5日竣工、鋳造は東京砲兵工廠、同日午後除幕式)。大村像は、靖国神社の前身東京招魂社創建(戊辰戦争戦没者慰霊)の功績により招魂社内に建立された。

(*)は原文に無し。
参考
「木戸孝允日記1」(慶応4年・明治元年〜4年)昭和8年復刻版・日本史籍協会叢書
「醒めた炎ー木戸孝允」村松剛1987年中央公論社(日経新聞昭和54年5月6日〜昭和58年1月30日連載初出)
「幕末維新江戸東京史跡事典」
「江戸史跡事典」2007年版
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2017年12月28日

京都・四条河原町 喫茶・築地 「荒木陽子全愛情集」より

荒木経惟・陽子夫妻が新婚旅行第1日目(1971年7月)に訪れた京都で、京都ホテルに一泊後、まず訪れたのが四条河原町の路地奥にあるレトロ喫茶「築地」であった。陽子さんのリクエストで、経惟(アラーキー)氏を引っ張っていったらしい。すでに写真集「センチメンタルな旅」(自費出版)の撮影は始まっていた。
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喫茶「築地」。昭和9年創業。カラーモザイクタイルとR(アール)の曲線は昭和初期の先端デザイン。
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荒木陽子さんが荒木経惟写真集「わが愛、陽子」1978年朝日ソノラマ刊のための書下したエッセイ7篇
の内より一部分を抜粋。
<<その晩(*新婚旅行第1日目)は京都ホテルに泊り、翌朝ゆっくり起き出して、例によって四条河原町へとくり出した。私の好きな喫茶店「築地」に入る。私達の京都の旅の日程は、まず一杯のコーヒーを飲むことから始まるのだ。その後は様々である。古本屋を回ったり、鴨川べりをぶらぶらと歩いたり、要するに東京の街をぶらつくのと何ら変わりがないような過ごし方しかしない。それでも散歩の途中にふと見かけたジャズ喫茶に入り、お気に入りのスタンダード.ナンバーなどがかかっていたりすると、「うん、京都で聞く――はヨイナア」と、一人ばかみたいに酔ったりしてしまう。>>
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喫茶「築地」店内(上下写真とも2階客席)。装飾・調度品写真は省略。
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<<二人で来てもずっと二人同じ行動をするわけではなく、一日だけ、自由行動の日というのを作っている。私はといえば、前述したようなブラブラ歩きが主であるが、それには色々なバリエーションが考えられるわけだ。けれど、彼の過ごし方はただ一つしかない。それは金閣寺を撮りに行くことである。これはもう何回京都に来ても同じ。いつもいつも金閣寺狂写である。>>
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撮影は2011〜2012年。

「荒木陽子全愛情集」2017年港の人(鎌倉市)刊より
参考:「荒木経惟写真全集3 陽子」1996年平凡社
荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場http://zassha.seesaa.net/article/455890811.html
長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455985556.html
鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456022608.html
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2017年12月08日

京都宇治 萬福寺 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」より

作家・水上勉が伏見探草の輜重(しちょう)隊に徴兵され、練兵(行軍)演習の途中、宇治の萬福寺で大休止した時を回想した一文が「画文歳時記 折々の散歩道」に「黄檗山萬福寺」として収められている。
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黄檗山萬福寺の壮大な三門(山門)。三門前の放生池の周囲には多数の松が現在も植えられている。

<<宇治川沿いに下(しも)へくだったついでに萬福寺に詣でた。ここでもよく山門前の松の木に馬をつないだ夏を思いだした。ここまでくる日は、深草の練兵場を朝早くに出ないと昼食をとる大休止は出来なかった。むかしは馬に水をやるのには、川へ降りた。山門前に、ひき川のようなものがあって、水がながれていた記憶がある。(略)>>
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<<叉銃線(さじゆうせん*小銃の銃口を上にして交差させて立掛ける)をつくって一服していたら、女のひとがきて、叉銃線をよこ切った。それをみた兵卒は、「こらッ、重営倉ゆきやぞッ」と脅し声をあげた。地方人(といった)には、軍規はわからなかったろう。顔を赤くして小門から寺内へ駆けこむように走り消えたもんぺ姿のひとは、三十半ばだった。近所の人にちがいなかったろうが、いつまでもそのことが思い出の中に残っているのは、美貌だったせいだ。新妻かあるいは、戦争未亡人のような気がした。
あれから五十年近く経った。私も七十三になった。思い出もかすんでいるが、黄檗山(おうばくざん)の山門前に佇むと、そのような女のひとが浮んで厳粛な気分になるのは妙だ。
三年前に福建省の泉州に行った際、甫田の山ぎわにある黄檗山に詣でた。むろん、そこは隠元禅師の出所。とても小さな寺であった。宇治の萬福寺はそれと比べると大きい。とてつもなく大きい。>>
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山門前の馬に水を飲ませた「ひき川」が見つからなかったので、総門(三門の手前の小さい第一の門)の向い正面に掘られた龍目井で代用。将軍徳川家綱の治世であった寛文元年(1661年)冬に隠元禅師によって掘られた井戸。「山に宗あり、水に源あり、龍に目あり・・・」云々。この井戸前で、明治の文人夏目漱石・永井荷風・与謝野晶子らが必ず歩を止めて鑑賞したことであろう。画面左に彼らが訪れた普茶料理の名店「白雲庵」が現在も営業している。

水上勉リンク
京都 水上勉が贔屓にした京漬物店 出町なかにしhttp://zassha.seesaa.net/article/385952842.html
京都伏見 第十六師団第九連隊輜重隊跡 水上勉「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448183567.html
京都百万遍 梁山泊と思文閣MS 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455218960.html
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2017年12月05日

京都 四条河原町 喫茶ソワレ

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喫茶ソワレ(仏語Soiree夕方の意)2階。1948年オープン。
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西木屋町通四条上ル、高瀬川真橋(しんばし)の傍ら。
周囲の喧騒で高瀬川のせせらぎは聴きとれない。
撮影2011年7月。
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2017年11月29日

京都百万遍 梁山泊と思文閣MS 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」より

1989年(昭和64年、平成元年)作家水上勉は、訪中作家団の団長として中国を訪問する。北京滞在中の6月4日、天安門事件に遭遇(ホテル北京飯店の部屋より直接目撃)することになる。政府の救援1号機で北京を脱出するが、帰国数時間後の早朝(6月7日)に成城駅北口近くの自宅で心筋梗塞を発症し、救急車で駒沢公園に隣接した国立第2病院に搬送され、一命をとりとめる。その後、約3年にわたり入退院生活を送り、作家活動を再開するが、その際に仕事場を第2の故郷である京都に移す。左京区百万遍の思文閣マンションの一室で執筆に打ち込み始めた折に、食事(心臓病患者の塩分抜きレシピ)の世話を担ったのが、隣接する料理「梁山泊」の主人であった。部屋への料理の出前、時には水上自身がカウンター席におもむくこともあったようだ。
百万遍の交差点から今出川通を西に数十m歩けば、水上勉が仕事場に借りていた思文閣マンションに着く。マンションの手前角を南に入った路地に、マンションと向かい合うように梁山泊の玄関が開いている。

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水上勉には花が誘う京都案内と銘打った随筆集「京都花暦」がある。梁山泊のアプローチはまさに花に誘われておもわず迷い込みそうな風情をみせている。
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水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」1993年小学館刊より抜粋。
<<夏がくると水道の水がまずくなる。これは京にかぎらない。都会の水は消毒剤の匂いがしてくるのだ。借間から歩いて三分のこの店の戸口に、井戸が掘ってある。特定の一般人に水がもらえる。地下水の汲み出したのが蛇口をひねると出てくる。ぼくは店主の橋本憲一さんから鍵を一つ、手わたされている。夜なかにタツパー容器をもって、頂戴にはしる。雨がふっても、傘なしで走ってゆける。それくらいの距離なのである。この水のおいしいのは、古都千年の、つまり比叡の山みずが地下をくぐつてくるからだ。ずうーつと湧きつづけていたのを掘りあてたのだ。ここは泉殿町という。となりは飛鳥井だ。大昔はやんごとない公家衆のおうちから、手桶をもった上女中さんが水汲みにきたのかもしれん。そんな風景を想像しながら画帖をひろげているのである。
梁山泊(りようざんぱく)とは、水滸伝(すいこでん)に出てくるあの武将たちの屯所の名である。よくはやる店である。カウンターの隅にすわって、チビチビやりながら、アベックさんの話を何げなくきく夕刻はたのしい。ぼくは心臓病患者なので、塩ぬき料理しか喰えない。それゆえ、店主自慢の丹波地鶏も新鮮な魚の塩焼きも眼でたべている。>>
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作家瀬戸内寂聴もこの水上勉の仕事場を訪れたと記している。
<<東京のお宅にも、御自慢の軽井沢の別荘にも伺ったことはないが、故郷の若狭に私財を投じて建てた「若州一滴文庫」は訪れているし、晩年の棲家となった信州の勘六山の別荘にも訪ねている。京都の仕事場、思文閣のマンションにも行っている。>>「奇縁まんだら」2008年日経新聞出版社より
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なほ、この思文閣マンションの1階で40年以上にわたり様々な企画展示を続けてきた思文閣美術館が今年(2017年3月)をもって閉館し、移転している。

水上勉リンク
京都 水上勉が贔屓にした京漬物店 出町なかにしhttp://zassha.seesaa.net/article/385952842.html
京都伏見 第十六師団第九連隊輜重隊跡 水上勉「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448183567.html
京都宇治 萬福寺 水上勉「画文歳時記 折々の散歩道」より http://zassha.seesaa.net/article/455418803.html
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2017年11月28日

京都嵯峨野 竹林 谷崎潤一郎「朱雀日記」より

「象」「刺青」「信西」等の諸作(短編小説・戯曲)を発表した若き谷崎潤一郎は、明治44年、永井荷風に激賞され作家としての地位を確かにする。翌年2月小説「悪魔」を発表した直後、大阪毎日新聞社より原稿依頼(「朱雀日記」)を受け、春を迎えんとしている京都に旅立つ。

「朱雀日記」(嵯峨野の章)より抜粋。
<<(略)夢窓國師を開山に戴き、近く峨山和尚に依つて再建せられた天龍寺の少し先から、左へ曲ると、鬱蒼たる竹藪の中を一條の小徑(こみち)がうねつて居る。
竹藪の雅到は、東京の郊外などを歩いたのでは、全くわからない。細い真直な幹が、すくすくと列び立ち、日光の洩れる隙もない程に密生して、藪の中が奥の奥まで青暗くなつて居る。
徑(こみち)は再び平坦な野原に出て、左に亀山、右に小倉山を望む。所謂(いわゆる)嵯峨野とは此の二つの山の間を稱(しょう)するのだと云ふ。(略)>>
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「天龍寺の少し先から、左へ曲ると」と描写された場所。ここを曲ると竹林へと誘われる。

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鬱蒼とした竹林へのとば口。観光客を乗せた人力車が竹のトンネルに吸込まれてゆく。

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「密生して、藪の中が奥の奥まで青暗くなつて居る」。谷崎が見た青暗くなつた竹林は今日でもほぼ同様に目にできる。2011年〜2012年にかけての撮影だが、春秋の観光シーズンにあたると一方通行にしたいほど混雑する。無人の状態で竹林のくねった小経をカメラに収めることは困難。早朝に訪れるしかない。

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竹林を抜けると「左に亀山、右に小倉山を望む」。
谷崎潤一郎は、竹林のくねった経(みち)を北に抜けて、今度は左に小倉山を望みながら、かって俳諧師・去来が侘び住まいをしていた落柿舎(らくししゃ)に歩を進める。去来の墓(墓石にしては小さすぎる、片手で持ち上げられるほど小さい)に詣でるが、たいした感慨を述べることなく、せわしなく足早に二尊院の山門に消えてゆく。
「朱雀日記」明治45年(1912年)4〜5月大阪毎日新聞(東京日日新聞)連載初出。
「谷崎潤一郎全集第1巻」1981年中央公論社刊(「朱雀日記」収録)より

谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448091444.html?1489817860
大阪南 旅館(待合)千福とカフエ・ユニオン 谷崎潤一郎「芥川龍之介が結ぶの神」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/432273298.html?1493981055
京都宇治 平等院鳳凰堂 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/423690257.html
京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎 「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/424681960.html?1494858522
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2017年11月21日

京都 八坂庚申堂 くくり猿

国内三庚申のひとつ、京都東山の八坂庚申堂。 無数の手足が括(くく)られた赤、青、黄など色とりどりの猿が境内の祈願所に奉納され、びっしりと隙間なく吊下げられている。
八坂庚申堂は、江戸時代の京名所案内本「都名所図会」に紹介されているが、「くくり猿」についての記述は見当たらない。
<<八坂庚申堂は塔(*法観寺五重塔)の西にあり。大黒山金剛寺延命院と号す。本尊青面(しょうめん)金剛にして長(たけ)三尺五寸。大宝元年(701年)正月七日庚申に降臨したまふ。日本三庚申のその一なり(摂州四天王寺・江戸浅草)。脇壇に聖徳太子・大黒天を安置す。>>
「都名所図会2」1999年筑摩書房刊より。
*庚申(こうしん)とは、干支(えと)のひとつ。庚(かのえ)申(さる)の日。
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金剛寺庚申堂の山門。

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庚申堂本堂。

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「くくり猿」については八坂庚申堂のHPにわかりやすく紹介されているので一部分を引用。http://www.geocities.jp/yasakakousinndou/index.htm
『くくり猿はまさに、お猿さんが手足をくくられて動けない姿をあらわしています。 お猿さんは人間に近い動物といわれていますが、所詮は動物、欲のままに行動します。動物園に行けば、お猿さんは欲のまま走り回っていますね。この姿を人間の中にある、欲望に喩えてあり、人間の中にある「欲望」が動かないように、庚申さんによってくくりつけられているのです。くくり猿に願い事を託して、それを叶える秘訣は、欲を一つ我慢することです。皆さんが願われたことを叶えようと努力しようとするとき、欲望のこころが動いて、それを妨げようとする、それをくくりつけ、庚申さんにうまくコントロールしてもらうためです。』 
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くくり猿は各色とも一体五百円、授与所で入手できる。マジックペンも置かれている。 
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霊験が消えるから絶対見せないと必死。

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本名が書かれているので全面にボカシ。

拝観は9:00~17:00まで(無料)。
法観寺五重塔から真西に坂を下った左側に朱塗りの山門が開いている。
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2017年03月21日

京都伏見 第十六師団第九連隊輜重隊跡 水上勉「私の履歴書」より

東京で産業系業界新聞や出版社などに勤務する傍ら文芸同人誌に投稿活動をしていた水上勉(当時25歳、ペンネームでの読みは「みなかみつとむ」)は、昭和19年3月、郷里若狭に疎開する。4月より国民学校(現在の小学校にほぼ該当、福井県大飯郡の青郷国民学校)で教員生活に入るが、翌月には陸軍から召集令状が届く。水上は、前年8月に、それまで同棲していた加瀬益子(一児あり)と別れ、松守敏子と結婚していた。
1988年8月1日〜31日に日経新聞朝刊に連載された「私の履歴書」から、京都伏見の陸軍輜重(しちょう)隊に応召した経験を語る部分を抜萃。
<<若狭に帰ると、大飯郡青郷国民学校高野分校に助教の口を見つけてつとめた。分校には住宅がついていたので、M女との同棲をも兼ねる魂胆だった。岡田の生家には弟妹もいるので、とても、女をつれて帰って寝れる部屋はなかったからだ。(略)ところで、ぼくは、赴任してまもない五月に召集令状をうけた。京都伏見の第十六師団第九連隊輜重(しちよう)隊であった。>>
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(写真)第十六師団第九聯隊輜重隊営門(正門)。師団街道に西面する。

<<先にもちょっとふれたけれど、明治三十八年に父のつとめた兵科である馬のお守りをするのが役目だった。召集令は兵科の明記はないが、主語のない「召集ヲ命ゼラル」という文章で、某月某日何時までに、該当部隊の営門前に集合せねばならなかった。その部隊も混成部隊だと兵科はさっばりわからない。ぼくの令状にはゴム印で(馬)(*丸の中に馬)と押してあった。父にきくと、「お前も輸卒か」といったが、部隊名は中部第四六部隊とあったので、たとえ行先は輜重隊兵舎でも、輸卒はこりごりである。半信半疑で出かけた。深草の練兵場に近い墨染(すみぞめ)からまもない師団街道に面して輜重隊はあった。>>
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(写真)墨染通側の輜重隊営門(南門)が保存されている。水上ら輜重兵卒は、軍馬以下の扱いを受けながら教練、行軍演習に明け暮れる。お馬様のお供で、水上もこの営門も通ったことだろう。門右側に歩哨舎も併せて残されている。

<<六月はじめの暑い日の早朝、門前に集められ、軍曹に点呼されて、営門を入った。オイチ二 オイチニと歩調をとってゆくぼくらは、村から七、八人の入隊だったと思う。送ってきてくれた若狭の人々をふり返りもできなかった。トタン屋根のバラック兵舎に二十二人教育隊員がつめこまれ、Fという軍曹(永遠にこの人の本名を忘れない)が、「今日からお前らは、天皇陛下のお馬をあずかって守りすることになった。お前らは一銭五厘で集められてきたが、お馬はそんなわけにはゆかんぞ。陛下のお馬だから大切にせよ」とどなるようにいって、馬の扱い方を教えてくれた。ぼくは照銀、大八洲という二頭の若馬をあずかることになった。馬房は兵舎とはなれてあって、調練もゆきとどかぬ若馬が何十頭もつながれていた。ぼくの照銀は鼻白の栗毛、大八洲は真っ黒だったが、なぜか「青」とよぶのだそうだ。この真っ黒のほうが性質はよくなくて蹴りぐせがあった。>>
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(写真)輜重隊跡地(現・京都教育大学付属高校)に残る旧兵営(?)。
遺構は、陸軍境界石柱を除き、ほとんど残っていない。
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(写真)南営門から輜重隊跡地を見る。左奥に「南門と歩哨舎」が見える。
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(参考図)東方向が上。地域広域避難図を借用。この地域は、第16師団司令部(藤ノ森の現・聖母学院敷地)を取り巻くように麾下の各聯隊(工兵・騎兵・砲兵等)が駐屯しており、陸軍の一大拠点となっていた。
*水上勉は、この入隊経験を多くの随筆(「京都花歴」など)で語っており、追加写真とともに、ここに載せる予定。
撮影:2011年11月。
水上勉「私の履歴書」筑摩書房1989年5月刊(単行本)。
「新編水上勉全集第二巻」中央公論社1996年刊に収録、抜萃。

水上勉リンク
京都 水上勉が贔屓にした京漬物店 出町なかにしhttp://zassha.seesaa.net/article/385952842.html
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2017年02月26日

京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」より

志賀直哉は、大正12年(1923年)3月8日に千葉県我孫子を去り、関西(京都市粟田口三条坊42番地)に移り住む。以下、志賀直哉「転居二十三回」より抜粋。
<<京都の粟田口の西郷従道(*隆盛の弟)さんの子供の豊次といふ人の家を借りて住みました。いい家だつたが、出場のいい所で、客が來て少しも落ち着けない。>>という理由で、<<半年位で今度は山科に引越しました。醍醐の山など見渡せるいい所で、人の別荘でした。縁側の下まで池がずつと入つてゐて、大きな鯉が沢山居て、仲々よかつたのです。>>「志賀直哉全集第10巻」岩波書店から。
山科(山科村大字竹鼻小字立原26番地)に移ってきたのは、年も改まらない10月のことで、志賀は、この地で、山科川のせせらぎを聴きながら、「転生」、「冬の往来」、「黒犬」、「弟の帰京」、そして「山科の記憶」等の諸作品を書く。
以下、短編「山科の記憶」から抜萃。
<<山科川の小さい流れについて來ると、月は高く、寒い風が刈田を渡つて吹いた。彼は自動車の中でつけて來た巻煙草を吸ひ了(をは)つて捨てた。自家(うち)まで乗りつける事が気兼ねで大津への街道で降り、女はそのまま還(かへ)した。彼は歩きながら、今別れて來た女の事ばかり考へてゐた。愛する女の事を別れて考へるのは快楽だ。二重の快楽だが、家が近づき、妻に偽りを云はねばならぬといふ予想が起ると、それが暗い当惑となつて彼におほひ被さつて來た。流れの彼方(むかう)に一軒建つてゐる自家の灯(あかり)を見ると、彼はいつも此の当惑を覚えた。明かに自分が弱者の位置に立つ事が腹立たしくもあつた。>>
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(写真)山科川に架かる「細い土橋」。左手が上流。三条通で女と別れ、主人公は、この細い橋の
袂まで歩いてくる。橋を渡った目の前が、これから偽りを云うであろう妻が待つ自宅だ。

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(写真)左手に山科川が流れ、奥に渡った「細い土橋」が見える。右手の建物がある一帯が主人公の
家だ。そこが実際に志賀直哉が住んだ、大きな池が縁側下まで入りこむ、「山科の家」であった。
写真左手の川淵に文学碑が建立されているが、近年のものには興味がわかない。

<<彼は妻を愛した。他の女を愛し始めても、妻に対する愛情は変らなかつた。然し妻以外の女を愛するといふ事は彼では甚だ稀有な事であつた。そしてこの稀有だといふ事が強い魅力となつて、彼を惹きつけた。その事が自身の停滞した生活気分に何か潑剌(はつらつ)とした生気を与へて呉れるだらうといふやうな事が思はれるのだ。功利的な考ではあるが、一途(いちづ)に悪くは解されない気がした。
彼は細い土橋を渡つて、門を入つた。門の戸に鈴が附いてゐる。その昔にも、自分の怯(ひ)けた心が現れる事を恐れた。彼は出來るだけ無心に開け、無心に閉めた。
然し何がこんなに自分の心持を暗くするのだらう。自分を信じてゐる妻を欺いてゐる事が氣になるからだ。中の灯を一杯に映した玄関の硝子戸を開けた。(略)>>
「山科の記憶」は1926年(大正15年)1月「改造」に初出。
*ふり仮名は原文には無いものもあり。

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(見取り図)旧三条通(旧東海道)で下車した位置を特定しにくい。山科川の手前付近で女の乗る車を見送り、あとは山科川に沿う側道を、別れたばかりの女と妻のことに気を回らしながら南下する。「細い土橋」と橋の先に自家が見えてくる。

志賀直哉リンク
茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447574437.html
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2017年02月10日

京都 嵯峨院跡・大沢池 白洲正子「幻の山荘」より

白洲正子「幻の山荘−大沢池(嵯峨院跡)庭園」より抜粋。
<<母は私が十九の時に亡くなったが、遺言により、分骨して、嵯峨の清涼寺(釈迦堂)の裏山に埋めた。
今もささやかな供養塔が、本堂の北側の茂みの中に建っており、そこからは嵯峨天皇の御陵の山や、大覚寺の杜(もり)が見渡される。先日、取材に行った時も、私はお参りに立ちより、母に手をひかれて、この辺を歩いたことを思い出していた。
(略)
大沢池は、嵯峨天皇の山荘跡で、大覚寺は天皇の死後に建立された。したがって、純粋に大覚寺の庭とみるわけには行かない。あくまでも大沢池は、嵯峨山院の旧跡地で、今も寺とはつかず離れずの位置にある。>>
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<<いくつぐらいの時だったろうか、大沢池に舟を浮かべて、お月見をしたこともある。
最近は中秋の名月の夜に、鳴りもの入りで船遊びを行なうと聞くが、そんな観光的な行事ではなく、極く少数の物好きが集まって、ささやかな月見の宴をひらいたのである。
その夜のことは今でも忘れない。息をひそめて、月の出を待っていると、次第に東の空が明るくなり、
双(ならび)ヶ丘の方角から、大きな月がゆらめきながら現れた。阿弥陀様のようだと、子供心にも思った。
やがて中天高く昇るにしたがい、空も山も水も月の光にとけ入って、蒼い別世界の底深く沈んで行くような心地がした。ときどき西山のかなたで、夜烏の叫ぶ声が聞こえたことも、そのすき通った風景を、いっそう神秘的なものに見せた。
その後、大人になってから、私は度々お月見に行ったが、二度とあのような気分は味わえない。
月にも花にも紅葉(もみじ)にも、一生に一度という瞬間があることを、私はこの頃になって身にしみている。>>
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白洲正子随筆集「余韻を聞く」世界文化社2006年刊に収録
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2016年11月05日

京都河原町二条 香雪軒 谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」より

<<余ノ行ク先ハ河原町二条東入ル筆墨商竹翠軒(ちくすいけん)(注1)デアル。ホテルヲ出テ五分トハカカラナイ所。店先ニ腰カケテ旧知ノ主人ト挨拶ヲ交シ、中国製ノ最良ノ朱墨一挺(しゅずみ・いっちょう)、小指大ノモノヲ金二千円デ購(あがな)ウ。外(ほか)二一万円ヲ投ジテ故桑野鉄城氏ガ所有シテイタト云ウ紫斑文(しはんもん)ノアル端渓(たんけい)ノ硯(すずり)一面。金(きん)デ縁ヲ取ッタ白唐紙ノ大型ノ色紙二十枚。>>
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<<「久シュウオ目ニカカリマセンデシタガ、相変ラズオ元気デイラッシャイマスナ」
「ナアニ、チットモ元気ナコトナンカナイヨ、今度ハ京都ヘ自分ノ墓地(注2)ヲ捜シニ来マシタ、イツ死ンデモイイヨウニネ」>>
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<<余ハ竹翠軒デ求メテ来タ硯(すずり)ヲ取リ出シテデスクニ置キ、ユックリユックリト朱墨ヲ磨ル。一挺ノ朱墨ヲ先ズ半分程磨リオロス。(中略)
「何スルモノナノ?」
「コレニ墨ヤ朱ヲ滲(し)マセテ、石ノ表面ヲパタパタ叩イテ拓本ヲ作ルノサ、僕ハ朱色デ拓本ヲ作ルノガトテモ好キナンダ」
「石ナンカナイジャナイノ」
「今日ハ石ハ使ワナイ、イシノカワリニ或ル物ヲ使ウ」
「何ヲ使ウノ?」
「君ノ足ノ裏ヲ叩カセテ貰ウ。ソウシテコノ白唐紙ノ色紙ノ上ニ朱デ足ノ裏ノ拓本ヲ作ル」 >>
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注1 竹翠軒は仮称。明治初期創業の筆商・香雪軒(こうせつけん)のこと。谷崎の度重なる注文にこたえ続けた老舗。場所は本文通りの中京区河原町二条東入ル。
注2 谷崎は自らの墓を決める経緯を「瘋癲(ふうてん)老人日記」に書いている。墓は左京区鹿ヶ谷の法然院墓地。
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谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」昭和36年11月号〜37年5月号中央公論連載初出。
昭和43年刊の新潮文庫版より抜粋。
参考 香雪軒店主(5代目)のBLOG http://kousetuken.exblog.jp/
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2016年10月28日

京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」より

淺井長政の継室(後妻)お市の方の傍ら近くに仕えた盲目の按摩弥市が、北近江の霞のなかに消え去った人々の運命を音色ゆたかにとうとうと昔語りする。
 「盲目物語」昭和6年9月中央公論初出・「谷崎潤一郎全集第13巻」中央公論社1982年刊より抜粋。

<<太閤でんかはあのお方の父御をほろぼし、母御をころし、御兄弟をさへ串ざしになされたおん身をもつて、いつしかあのお方をわがものにあそばされ、親より子にわたる二代の戀(こい)を、をだにのむかしから胸にひそめていらしつたおもひを、とうとうお遂げなされました。>>
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(4歳で両眼をうしなった男の脳裏にほのぼのと残る近江の湖の水の色・・をだに=小谷城の山腹から望む琵琶湖)
<<さういへばお茶々どのは、あのときはあれほど太閤でんかをおうらみあそばされ、「おやのかたき」とまでおつしゃっていらつしゃいましたのに、まもなくそのかたきにおん身をおまかせなされ、淀のおしろに住まはれるやうになりましたが、わたくしは北の庄のおしろ(注3)が落ちました日から、いづれさうなるだらうとおもつてゐたことでござりました。あのみぎり、ひでよし公はお市どのをうばひそこねてたいそう御氣色(みけしき)をそんぜられたさうでござりますけれども、わたくしが御前へ出ましたときは、案に相違いたしましてすこしもそのやうな御様子がなかつたばかりか、かへつてあり難いおことばさへいたゞきましたのは、お茶々どのを御らんなされましてきふにおぼしめしがかはつたのでござります。>>
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(左写真:子を宿した愛妾茶々の産所として秀吉が急遽普請を命じた城が淀城。城址と推定されるのは伏見区の妙教寺一帯。その境内に跡碑が設けられている。正確な縄張りは未確定のまま。茶々は天正17年5月17日に「捨=のちに鶴松」を産む。右写真:明治末期架橋の五番橋から見た納所川。南城堀の地名が残っている。左側が妙教寺。)

<<わたくしも、あの久坂の御陣(注2)のときまで御奉公をいたしてをりましたら、お役にはたちませぬまでも、をだにのおしろ(注1)でおふくろさまをおなぐさめ申しましたやうに何やかやと御きげんをとりむすび・・・(略)・・・おくがたのおこゑがいまでも耳にのこつてゐるがと御つしやいますか。それはもう申すまでもないこと。何かの折におつしやいましたおことばのふしべ(=ふしぶし)、またはお琴をあそばしながらおうたひなされました唱歌のおこゑなど、はれやかなうちにもえんなるうるほひをお持ちなされて、うぐひすの甲(かん)だかい張りのあるねいろと、鳩のほろほろと啼くふくみごゑとを一つにしたやうなたへなるおんせいでいらつしやいましたが、お茶々どのもそれにそつくりのおこゑをなされ、おそばのものがいつもきゝちがへくらゐでござりました。さればわたくしには太閤殿下がどんなに淀のおん方を御ちようあいあそばされましたかよくわかるのでござります。>>
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(左写真:桂川堤からの納所川と奥の五番橋。この地は元は、天正元年(1573年)8月初め(2日か)に織田信長家臣で勝竜寺城主の長岡藤孝に討ちとられた三好氏重臣・岩成主税頭左道(すけみち)の居城であった。尚、元号は7月末に元亀4年から天正元年に改めらている。「信長公記」元亀4年の巻に戦闘経緯が記録されている。右写真:淀古城の碑がある妙教寺境内)

<<あゝ、わたくしも、あれほどのおかたの御心中を知つてゐたかとおもへば、かたじけなくも右大臣ひでより公のおん母君、淀のおんかたをこの背中へおのせ申したことがあるかとおもへば、なんの、この世にみれんがござりませう。>>

注1 をだにのおしろ・・・北近江・浅井氏代々の山城小谷城。茶々の実父浅井長政は、信長に攻められ自刃し滅亡。その頸は、翌天正2年正月の岐阜の館での祝賀の宴で、どくろ盃として披露された。
注2 久坂の御陣・・・青井山にあった山城附近での陣張か?
注3 北の庄のおしろ・・・織田家重臣柴田勝家の居城。現・福井市。福井駅近くに史跡あり。湖北の賤ヶ岳(しずがたけ)で秀吉に敗れた勝家は、退却の末、正室お市の方ともども本丸で自害し滅亡。茶々ら三姉妹は救出された。
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(左写真:淀小橋跡碑。京街道が伏見道と合流し、大坂街道へと続く重要な交通要所にあった小橋。現在は想像不可能なほど地形が変わり、地名由来となった川水面の淀みを見ることはできない。右地図:江戸寛永期の淀城繪圖を参考にそれふうに作成。淀古城は文禄3年(1594年)3月、伏見城普請開始によって不要に。廃城となり破却される。)
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2016年10月26日

京都八幡市 橋本遊郭跡 野坂昭如「濡れ暦」より

野坂昭如の短篇「濡れ暦」から、主人公お絹が娼婦として<橋本遊郭にはめこまれる>場面を中心に抜粋し、かっての遊郭の匂いを今に漂わす町並みを写真で添えてみる。
「濡れ暦」は、短編集「姦」新潮社1976年刊に収められている。表題作「姦」をはじめ、「紅あかり」「地底夢譚」「母紅梅」「末期の蜜」「至福三秒」「童貞指南」「処女かいだん」「色流れ」と読み始めると止まらない。

<<昭和三十三年三月をもって、わが国から女郎淫売娼婦のたぐいは姿を消したことになっている、そして身のふりかたに困る彼女たちのため、お上(かみ)は売春婦更生施設なるものを、お座なりに設け、体売らずとも手に職をつければと、ミシン編物和裁を収容者に教えた、その効果のほどはともかく、少しでも気の利いた女なら、お上のお節介ふり切り、自分なりの生きかたをえらぶのが当然、結局、管理された売春のしくみの中でしか、生活しようのない女たちが、施設に残り、そして彼女たちのほとんどは、手に職つけるだけの、知能も忍耐もなかった。>>
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(大谷川沿いからの橋本遊郭跡。右は淀川堤上の旧京阪国道。「都名所図会」安永9年版に<橋本>が図版入りで遺され、舟渡しの地と紹介されている。<八幡(やわた)山の西南にあり。大坂街道の駅にして人家の地十一町ある茶店旅(はた)ごや多し>と紹介されている。江戸期より旅籠屋が連なり賑い、当然のごとく飯盛女・茶汲女が旅人の世話をしていたことだろう。) 

<<二十四年(注:昭和24年)に入ると、料飲店禁止令の御時世ながら、闇の料理屋が復活して、自宅でのどんちゃん騒ぎはすたれ、お絹、京阪沿線の飲み屋に勤めて、誘われれば、座布団かた敷いて、ちょんの間も稼ぐ。ようやく次兄が大陸からもどり、すると両親妹二人も、まだ職さえ決らないのに、大黒柱ともてはやし、「商売してるもんが身内におったら、うち等の縁談にさわる」と、お絹を邪魔もの扱いにする。べつだん家に未練はなく、しげしげ通って来る四歳上の男と、枚方(ひらかた)に同棲し、ふれこみは新聞記者ということだったが、まったくのぐうたら、また仲居として夜を稼ぎ、もっと有利な勤め口があるからと、男にいわれはめこまれたのが、橋本の廓だった。>>

(以下、橋本遊郭の残滓。京都府八幡市橋本中ノ町一帯。)
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(左写真は淀川温泉多津美旅館のステンドグラスの明かり窓。右写真の歌舞練っぽい大きな建物は駅近くの踏切際に建つ。地図=天壽荘)

<<三十一年に売春防止法が制定され、施行まで二年の猶予があって、たいていの女はアルサロ銘酒屋にもぐりこんだが、お絹灯の消えるまで橋本にいて、「やすらぎの国」(注:大阪市郊外の売春婦更生施設)に移ったのだ。(略) 気働きも人並み以上で、所長はどうして、この施設からとび出そうとしないのか、不思議に思うことがあった、三十四歳で、収容されたわけだが、さらに年上の、しかも醜い女が、「まあね、長の年月使って来た人だから、ここは一番骨休めさ。七日もほっとくと、処女膜が生えてくるんじゃないかねえ」へらず口をたたき、只飯だけくらって、たちまちとんずら、もっと若い女なら、三日ともたなかったのだ。(略)
なんの当てがあるわけでもなかった。しかし、若者たちの、ひたむきにむしゃぶりつくその息づかいや、体臭にふれて、お絹は、やっぱしうちは淫売なんやと、しみじみ思い当り、この十数年のやすらぎが、急に手ざわりうすく思えたのだ、だまされ利用され、そして男の体液に濡れつづけた年月の方が、はるかに確かな印象でよみがえり、果たして商売できるかどうか、自信はないが、もう一度ためしてみたい、その果ては脳梅になり、お初の如く、衛生十訓をうぶやきつつ、廃人として生恥さらしても悔いはない、いや、早くお初の境地に入りこみたい。(略)
うちは淫売や、淫売が男に抱かれんでどないする、くりかえしくりかえしつぶやく。>>

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(明治44年の京阪電鉄開通が、中書島遊郭・橋本遊郭に俄か景気をもたらし、その活気は戦時色が濃くなるまで続く)
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2016年10月16日

京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」より

<< 嵯峨野といへば草深い山奥の、人里離れた邊陬(へんすう=辺境・片田舎)だから、女の足弱ではめつたに見物する事が出來ない。一生に一度の遠足だと思つて、少々くたびれても、べそを掻きながら附いて來いと、大分嚇し文句を並べて居る。壬生(みぶ)寺の傍の停車場から、嵐山行の電車に乗つて、暫く行くと、やがて郊外の畑地へ出る。廣い野原にげんげ(=蓮華草)と菜の花が咲き亂れ、遠く比叡愛宕の山々が暮靄(ぼあい=夕暮れのもや)に霞んで、三條口の街道を牛車が練つて行く。太秦の廣隆寺の前を過ぎ、車折(くるまざき)明神の鳥居を遥拝して、渡月橋の袂の終鮎へ着く。若葉の嵯峨の風趣は、先づ此の邊りから窺はれる。 (略) >>
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(嵐電・車折神社駅ホームからの車折神社北鳥居。谷崎潤一郎は車内より車折神社の鳥居を遥拝したのだろう)
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(境内より車折神社駅ホームを見る。正面の石段を数段上るとホーム。)

江戸時代は車折明神附近一帯を下嵯峨材木町といった。門前の下嵯峨街道には材木屋が軒を連ね、材木を立並べた光景が「都名所図会」の一葉に残されている。
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(下嵯峨車折明神の門前(部分)「都名所図会」安永9年より)

谷崎潤一郎「朱雀日記」明治45年4月大阪毎日新聞連載初出
「谷崎潤一郎全集第1巻」中央公論社1981年刊より*文字説明と一部ルビは原文に無し
参考 「京都史跡事典」1994年刊
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2016年10月04日

京都・丸太町橋際 中原中也「ダダイスト新吉の詩」に出会う

<< 大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。
生まれて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、
その年の暮れ、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。
中の数篇に感激。>>
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(中原中也が下宿した菊ヤと丸太町通西詰に店を構えた古本屋4軒。最も丸太町橋際といえるのは丸三書店。対岸の東詰際には当時古本屋は見当たらない。橋下に設けられている明治時代を描いたレリーフには東詰際に古本屋が確認できる。)
中原中也「我が詩観」内の「詩的履歴書」より抜粋(昭和11年8月)。

「自筆住所録」昭和12年2月より大正12年部分。
<< 大正十二年三月 京都立命館中学転学。
      京都
      1、岡崎西福ノ川沢田方八月迄。
      2、九月ヨリ岡崎ショー護院西町九藤本大有方(十月迄)
      3、丸太町中筋菊ヤ方(翌年三月マデ)
  (以下、略)  >>
   「中原中也全集第4巻 評論・小説本文篇併せて解題篇」 角川書店2003年より
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(矢印位置に「古本・丸三書店」があった。丸太町橋西詰まで家屋は2軒のみ)

年譜(旧制立命館中学校入学と菊ヤ方時代)
大正12年(1923年) 16歳
  2月 高橋新吉「ダダイスト新吉の詩」刊行
  4月 京都の立命館中学校(旧制)に補欠合格。第三学年に編入。
     (3年次の授業は荒神口広小路キャンパス内の校舎=出典不確定、
     4年次は北大路校舎(現・立命館小学校・校舎位置は真逆で北側に主要校舎があった)
     上京区岡崎西福ノ川、沢田方に下宿。
  7月25日 9月7日まで立命館中学校夏季休業。このころ帰省。
  9月 上京区聖護院西町九藤本大有方に転居。現在の西尾八ツ橋本店の西隣り。
     まもなく北区小山上総町に転居。立命館中学校の近く。
  11月 上京区丸太町中筋、菊ヤ方に転居。
  12月 京都市内の路上で永井叔に話しかけ、下宿に招く。
      まもなく永井の紹介で表現座の稽古場で長谷川泰子と知り合う。
      ダダの詩を書いたノートを泰子に見せる。
大正13年(1924年) 17歳
  4月 立命館中学校第4学年に進級(北大路校舎)。
      北区大将軍西町椿寺南裏の谷本方2階に転居。
  4月17日 谷本方で長谷川泰子と同棲を始める。
   *主に「中原中也全集別巻 写真・図版篇」角川書店2004年を参考。
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(丸太町通から中町通を下った所の「菊ヤ」跡=矢印。戦後は山田旅館。)

<< 十四年三月東京へ移るまでの詩生活から、中原は二冊のノート・ブックを残している。その一冊は高橋新吉風の詩で埋められ、他の一冊、中原が「ダダの手帳」と呼んでいたアフォリズム集は、河上徹太郎の手許で、戦災で焼けた。(略)
彼は何故高橋新吉に「感激」したか、「ダダイスト新吉の詩」は、その年の二月辻潤編輯(へんしゅう)、佐藤春夫序文で出版されていた。白のカンバスに薄赤で裸女歩行の形を木版で刷った奇妙な装幀で、当時詩集の新機軸であった。
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倦怠
の如き表記法であった。「新吉はたしかに和製ランボウの資格があるが、あいにく己がベルレイヌでないことは甚だ遺憾だ」と辻潤が跋文(ばつぶん=あとがき)に書いた。 >>
   「京都における二人の詩人」 「大岡昇平全集」第18巻筑摩書房1995年から
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(白のカンバスに薄赤で裸女歩行の形を刷った「ダダイスト新吉の詩」)
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(鴨川対岸からの丸太町橋と丸太町橋際(西詰)の古本屋跡)
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2016年09月26日

京都・岡崎 琵琶湖疎水 菊池寛「身投げ救助業」より

文藝春秋の創始者菊池寛が、京都帝大文学科を卒業した直後の1916年(大正5年)9月1日刊行の第4次「新思潮」誌に発表した短編小説「身投げ救助業」より部分抜粋。

<< 明治になつて、槇村京都府知事が疏水工事を起して、琵琶湖の水を京に引いてきた。
この工事は京都の市民によき水運を具へ、よき水道を具へると共に、またよき身投げ場所を与へる事であつた。疏水は幅十間ぐらいではあるが、自殺の場所としては可なりよい所である。
どんな人間でも、深い海の底などでフワフワして、魚などにつゝかれている自分の死体のことを考へて見ると、あまりいゝ心持はしない。
譬へ死んでも、適当な時間に見付け出されて、葬をして貰ひたい心がある。
それには疏水は絶好な場所である。
(略)
とともかく、京都にいゝ身投げ場所が出来てから、自殺するものは大抵疏水に身を投げた。
疏水の一年の変死の数は、多い時には百名を超したことさへある。
疏水の流域の中で、最もよき死場所は、武徳殿のつい近くにある淋しい木造の橋である。
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(疎水に架かる二条橋から見た冷泉橋。物語の舞台となるお婆さんの茶店は冷泉橋手前左手。茶色の塀の先辺りになる。もちろん現存せず。写真右手の大きな建物は京都会館。)

インクラインの傍を走り下つた水勢は、なほ余勢を保つて岡崎公園を廻つて流れる。
そして公園と分かれようとする所に、この橋がある。
右手には平安神宮の森に淋しくガスが輝いて居る。
左手には淋しい戸を閉めた家が並んで居る。
従つて人通りがあまりない。それでこの橋の欄干から飛び込む投身者が多い。
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(冷泉橋。両岸に植えられた柳の木々が作品に描かれているが、現在は桜=ソメイヨシノばかり。わずかに二条橋西詰で大きな柳が葉枝を風に揺らしており、当時を思い起こさせてくれる。)

岸から飛び込むよりも橋からの方が投身者の心に潜在して居る芝居気を、満足せしむるものと見える。
処が、この橋から四、五間ぐらいの下流に、疏水に沿うて一軒の小屋がある。
そして橋から誰かヾ身を投げると、必ず此家から極まつて背の低い老婆が飛び出して来る。
橋からの投身が、十二時より前の場合は大抵変りがない。
老婆は必ず長い竿を持つて居る。
そして、その竿をうめき声を目当に突き出すのである。
多くは手答へがある。もしない場合には水音とうめき声を追掛けながら、幾度も幾度も突き出すのである。
それでも遂に手答へなしに流れ下つてしまふこともあるが、大抵は竿に手答へがある。
夫(それ)を手繰り寄せる頃には、三町ばかりの交番へ使に行く位の厚意のある男が、屹度(きつと)弥次馬の中に交つて居る。
冬であれば火をたくが夏は割合に手軽で、水を吐かせて身体を拭いてやると、大抵は元気を恢復し警察へ行く場合が多い。
巡査が二言三言不心得を悟すと、口籠りながら、詫言を云ふのを常とした。
(略) >>
以上、菊「身投げ救助業」菊池寛全集第2巻より抜粋。

以下は「菊池寛全集補巻」文藝春秋・武蔵野書房1999年刊に収録された随想集から「あの頃を語る」を抜粋。自作解題風なエッセイとなっている。
<<京都大学文科の学生だつた僕は、その頃大学の裏の辺りに住んでゐた。
学校へは余り通はなかつたし、友達はなし、それに金もなかつたから、大抵毎晩図書館で過した。
下宿を出て三高前(*現在の京都大学教養学部)を過ぎ、疎水の畔を通つて、岡崎公園の図書館へ行くのである。
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(菊池寛が約3年弱通った京都府立図書館)
京都の疎水は、身投げで有名な場所であつた。今でも多分さうだろう。
鴨川では水が浅くて死ねないし、それに昔は今のやうにカルモチンやアダリンと云ふものがなかった。
だから京都の疎水は、東京に於ける隅田川の役割を演じたもので、結局京都での自殺と云へば、疎水でと云ふことになつたのである。
(略)
お婆さんは茶店のお婆さんをモデルにしたのである。
何でももう幾人か助けたことがあると云つてゐた。
茶店の少し上(*北側)に橋があるのも小説の通である。
(略)
かうした事件から「身投げ救助業」のテーマは思ひついたのであるが、
あの小説の後の方は全く創作で、お婆さんが身投げ救助になれ切つて、
仕事にしてゐると云ふやうなことや、娘のことなどは考へたものである。 >>

*参考地図
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2016年09月23日

比叡山延暦寺 横光利一「比叡」より

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<<道は暗い杉の密林の中をどこまでもつづいた。
千枝子と定雄は中に清を挟んで、固さうな雪の上を選びながら渡っていった。
ひやと肌寒い空気の頬にあたって来る中で、鶯(うぐいす)がしきりに羽音を立てて鳴いてゐた。
定雄は歩きながらも、傳教(でんきょう)大師が都に近いこの地に本據(ほんきょ)を定めて高野山の弘法と対立したのは、傳教の負けだとふと思った。
これでは京にあまり近すぎるので、善かれ悪しかれ、京の影響が響きすぎて困るにちがひないのである。
そこへいくと弘法の方が一段上の戦略家だと思った。
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定雄は高野山も知ってゐたが、あの地を選んだ弘法の眼力は千年の末を見つめてゐたやうに思はれた。
もし傳教に自身の能力に頼るよりも、自然に頼る精神の方が勝れてゐたなら、少なくともここより比良を越して、越前の境に根本中堂を置くべきであったと考へた。
もしさうするなら、京からは琵琶湖の舟楫(ふなかじ)と陸路の便とを兼ね備た上に、背後の敵の三井寺も眼中に入れる要はないのであった。−−−−
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かういふような夢想に耽って歩いてゐる定雄の頭の上では、、また一層鶯の鳴き聲が旺(さか)んになって来た。(略)
定雄はまた弘法の大乗的な大きさについて考へた。
出来得る限り自然の力を利用して、京都の政府と耐久力の一點(てん)で戦ったのであった。
弘法は政府と高野山との間に無理が出来ると行方をくらまし、問題が解決するとまた出て来た。
こうして生涯安穏に世を送った弘法は、この叡山から京都の頭上を自身の學力と人格とで絶えず壓しつけた傳教の無謀さに比べて、政府という自然力よりも恐るべきこの世の最上の強権を操縦する術策を心得てゐたのである。(略)
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(延暦寺の総本堂・根本中堂=国宝)
そのとき、定雄の頭の中には、京都を見降ろし、一方に琵琶湖の景勝を見降ろすこの山上を選んだ傳教の満足が急に分ったやうに思はれた。
それにひきかへて、今の自分の満足は、ただ何事も考へない放心の境に入るだけの満足で良いのであるが、それも容易に出来ぬ自分を感じると、一時も早く雪路を抜けて湖の見える山面へ廻りたかつた。
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短編「比叡」昭和11年1月文芸春秋に初出。ルビは読みやすいように振ってみた。
*比良は、比叡山の北方に連なる山地名。
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2016年09月22日

京都・上賀茂神社前 神馬堂 川端康成「たまゆら」から

賀茂社の神事といえば、かって5月5日の上賀茂神社の競馬会神事(競馳)と下鴨神社の流鏑馬(やぶさめ)が人気を集めていたが、近年は5月15日の葵祭が有名となっている。
川端康成の長編小説「たまゆら」に、葵祭の祭列と上賀茂神社前で明治初頭から営業している焼餅で有名な神馬堂が、初夏の鴨川の風情とともに描かれている。 

<<さち子が名物の焼餅を買って、川原にもどって来た。先づハンカチで額をおさへた。
「ごめんなさい。今日はお客が多くて待たされて・・・・・・。」
「さうだろうね。」と、直木は言った。
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(鴨川。左の樹木の繁る堤で、親子である直木とさち子は葵祭の行列を待っている。奥の橋(御園橋)を渡り、さち子は焼餅を求めに神馬堂に向った。右手に上賀茂神社と神馬堂。)
「神馬堂を買って来ました。二軒か三軒ありますけれど、神馬堂にいちばん人がたかつてゐましたし、うちもそこでいつも買ひますから。」
「さうかありがとう。」
「この小さい包みは、ここでいただいて、大きい方の包みは、お母さまたちのおみやげにね。葵祭の日のものですから・・・・・・。」
「うん。」
さち子が小さい包みをひらくのを見て、「へええ、小さくなつたものだね。上賀茂の焼餅も、こんなに小さくなつてしまつたの?世の移りなのかね。」と直木はながめた。
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さち子は焼餅の大きかった、むかしをむろん知らないから、きょとんとしている。
(略)
「とにかく、お父さま、一つめしあがつてみて。」
「さうね。」と直木はさち子の言葉にしたがって、焼餅を半分に割つて口に入れた。
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「うん、まづくはないよ。だけど、むかしよりは、よほど淡白で、平凡な味だね。田舎者は少なくとも、堪能はしないね。もっとも、人間には、むかし食べたものには、おいしかつたやうに思ふ癖があるものだが・・・・・。」
「ちよつと待って下さい。」と、さち子は薄つぺらな葵祭の参考書をひらいて、名物の焼餅のくだりをさがした。
(略)
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「焼餅を葵餅と言ったようです。上賀茂神社の名産ですから・・・・・・。お父さまのおつしやるのは、その時分の焼餅ぢやありまんの?」
「さうかもしれないね。」
(略)
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「それに、こんなふうに書いてありますわ。むかし、もう一軒あった焼餅屋さんが、左前になつて人手に渡ってしまつたのを、そこに奉公してゐた、今の神馬堂の主人が惜しんで、お宮の馬屋の隣りに、店開きしたらしいんです。それで神馬堂。」>>
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(神馬堂の店内)
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(水引のれんには神馬の図案)
「たまゆら」は、「小説新潮」誌に7回連載(昭和40年9月号〜昭和41年3月号)された長編小説。
引用は「川端康成全集第17巻」新潮社から。
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2016年02月20日

京都 七条朱雀 源為義と権現寺 「保元物語」より

保元元年(1156年)7月11日未明、保元の乱起こり、白河北殿(崇徳上皇御所・現左京区・遺構無し)に集結していた崇徳上皇方(源為義ら)は、源義朝・平清盛らの後白河天皇方の急襲を受け、支えきれず敗れ去る。この時、義朝に北殿放火を許可したのは、実権を掌握した信西入道(藤原通憲)であった。為義の八男為朝が強弓で奮戦する中、崇徳上皇・藤原頼長らは北殿を退去し、三井寺に落ちる。頼長は流矢に当り嵯峨の民家に留まるが7月14日に死去する(37歳)。勝利した後白河天皇方は、崇徳上皇の三条烏丸御所・頼長宿所・為義の円覚寺宿所を焼き払う。7月19日、落ち延びた源為義は比叡山東塔南谷で出家、長男義朝のもとに出頭を伝える使者を発てるが助命されず、わが子義朝によって七条西朱雀大路で処刑される。為義の子息(乙若ら)も船岡山で残らず殺される。為義北の方も入水自殺。7月23日夜、崇徳上皇は仁和寺を出て讃岐(四国)に流される。
 「保元物語」(陽明文庫蔵本3巻底本・宝徳3年書写)の付録年譜参照。

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(写真)七条朱雀から移設された権現寺門前の源為義の供養塔(右の五輪塔)、左は顕彰碑。(下京区朱雀裏畑町) 

「保元物語」から「為義最期の事」の部分を抜粋。
<<夜半ばかりの事なれば、いづこをそことは知らねども、東の方へは行かずして、七条西の朱雀(*朱雀大路)へ引きて行く。波多野次郎(*義朝の配下)、力車(りきしゃ)どもに輿(こし)を舁(か)かせて、出で来たりたりけり。鎌田(*義朝の配下鎌田正清)、朱雀にて車より輿に乗り移りたまはん処を討ち奉らんと、太刀を構へ、待ちかけたり。(略)
周防判官季實(すゑざね)、これを実験(*為義の頸実験)して、首をば義朝に返したまひければ、軀(むくろ)と共に輿に入れ、為義が山荘、北白河円覚寺(*為義の所領)にして煙となし、心の及び弔(とぶら)へども、五逆深重(ごぎゃくじんぢゅう)の孝養、亡魂承けずや思ひけん(*為義の亡魂は供養を承け容れないだろう)。
 「保元物語」小学館日本古典文学全集2002年刊より

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(写真)権現寺。明治45年、京都駅操車場拡張・山陰本線敷設で丹波街道(七条通)の西側に
押し出されるように現在地に寺地移動。

「愚管抄」(慈円)より保元の乱後の源為義処刑を記録した部分を抜粋。
<<コノ内乱タチマナニオコリテ、御方(*後白河天皇側)コトナタカチテ、ドガ(*罪)アルベキ者ドモ皆ホドホドニ(*程度に応じて)行ハレニケリ。死罪ハトドマリテ久(ひさし)ク成(なり)タレド(*死刑は薬子の乱810年以降中止されてきた)、カウホドノ事ナレバニヤ、行ハレニケルヲ、カタブク人(*首を傾けて不思議がる)モアリケルニヤ。>>

「百錬抄」保元元年七月の条より死刑を復活させた信西に及んだ部分を抜粋。
<<源為義己下被行斬罪。嵯峨天皇以降、所不行之刑也。信西之謀也。>>

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(写真)源為義の供養塔の脇に置かれた明治45年の移設板碑。

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(写真)保元の乱の合戦が繰り広げられた白河北殿址(崇徳上皇御所)。広大な御所跡の南端付近で
遺跡発掘作業が行われていた(大炊御門大路末付近2016年2月撮影)。

「愚管抄」巻第五の訳注を参考に六条判官源為義の出世来歴。
永長元年(1096年)生れ、対馬守源義親の六男であるが、義親が天仁元年(1108年)1月、追討使平正盛により、出雲蜘戸で討たれる。その為、祖父義家は叔父の検非違使源義忠の継嗣としたが、義忠は義家の弟義光と不和になり、二十六歳で郎従に殺される。その後、義家は源義忠の家督を為義に継がせる。天仁二年(1109年)二月二十三日、十四歳の為義は近江の甲賀山に叔父義綱を攻め捕らへ、義綱を佐渡に流す。その功により三月十日、左衛門尉に昇進(「殿暦」)。
「(永久元年四月)十八にて粟籠山より奈良法師追返したりし軍功に、検非違便に補」せられたという(「保元物語」)。永久元年四月に延暦寺の大衆が神輿を奉じて法皇の御所に迫った時に、白河法皇の命で検非違便源光国・平忠盛と共に源為義はこれを禦(ふせ)いでいる(「中外抄」)。
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2015年12月26日

京都 丸太橋加茂磧 梶井基次郎「ある心の風景」より

梶井基次郎の第三高等学校(現・京大教養)時代の生活と心の陰影を描写した短編小説「ある心の風景」から、鴨川河原(丸太町橋から上流)の風景と心象を鋭敏な感性で綴ったシーンを抜萃。
大正15年7月21日に脱稿(東京飯倉片町の下宿にて)。

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(写真)現在でも大正時代と変わらずに「川水は荒神橋の下手で簾(すだれ)のようになって落ちている」

<<(略)喬は丸太町の橋の袂から加茂磧(かもがわら)へ下りて行った。磧に面した家々が、其処に午後の日蔭を作っていた。護岸工事に使う小石が積んであった。それは秋日の下で一種の強い匂いをたてていた。荒神(こうじん)橋の方に遠心乾燥器が草原に転っていた。そのあたりで測量の巻尺が光っていた。
川水は荒神橋の下手で簾(すだれ)のようになって落ちている。>>
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(写真)喬が丸太町橋西詰から河原へ下りて行った付近のスロープ。
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(写真)喬が腰を下しただろう辺り(左手が上流)。

<<夏草の茂った中洲の彼方で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒(せきれい)が飛んでいた。
背を刺すような日表(ひなた)は、蔭となるとさすが秋の冷たさが跼(くぐま)っていた。
喬は其処に腰を下した。
「人が通る、車が通る」と思った。また、「街では自分は苦しい」と思った。
川向うの道を徒歩や車が通っていた。川添の公設市場。タールの樽が積んである小屋。空地では家を建てるのか人びとが働いていた。川上からは時どき風が吹いて来た。カサコソと彼の坐っている前を、皺(しわ)になった新聞紙が押されて行った。小石に阻まれ、一しきり風に堪えていたが、ガックリ一つ転ると、また運ばれて行った。(略)
「ああこの気持」と喬は思った。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或いは全部がそれに乗り移ることなのだ」
 喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑―病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距(へだた)りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此処の高い欅の梢にも感じられるのだった。
「街では自分は苦しい」 (略)>>

同人誌「青空」1926(大正15)年8月1日通算第18号初出(青空社刊)
短編集「檸檬」新潮文庫収録版より引用抜粋。*ふり仮名は原文に無いものも有り。
参考 「梶井基次郎 年表作家読本」1995年河出書房新社刊

梶井基次郎リンク
飯倉片町 梶井基次郎「ある崖上の感情」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381251157.html
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2015年10月29日

京都東山 方広寺大仏殿を囲む巨大石垣 小瀬甫庵「太閤記」より

秀吉の発案で山城東山に建立が決まった方広寺大仏殿は、奉行五人(石田三成・前田玄以・浅野長政・長束正家・増田長盛)に作事が仰せ付けられ、天正14年(1586年)4月に着工、当初は東福寺近縁に計画するも変更され、現在地(東山区正面通大和大路東入茶屋町)に天正16年5月に至り完成。方広寺造営完了は翌天正17年になる。この「太閤記」大仏殿之事のエピソードは、そっくり海音寺潮五郎「茶道太閤記」(文春文庫1990年刊)のP284に取り入れられている。
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(写真)方広寺大仏殿跡を取囲む巨大な白川石(花崗岩)の石垣。

小瀬甫庵(おぜぼあん)「太閤記」巻七「大仏殿之事」章の「四方石垣之事」より部分抜萃。
<<始は小なる石にてつかせ給へ共、仏法衰へに及ては石をも小なるは盗み取に便も安かるベしとて、事外(ことのほか)大なる石を以(もって)重(かさね)て築直し給へり。蒲生(がもう)飛騨守(*蒲生氏郷)引し石は二間に四間有しかば、多勢を以引侍りけり。石をどんす(*繻子地の絹織物)などにてつゝみ、木やりのおんどう取(*音頭取)、異形の出立(いでたち)に物し引ければ、見物の貴賤おしもわけられぬ計(ばかり)也。>>
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<<白川のおくより(*左京区北白川奥地の白川石=花崗岩)大仏に至る事及七日。興山(こうざん)上人(*応其おうご・高野山僧)手伝人毎日五千人宛(づつ)請取、作事(さくじ)等につかひしが、日かず漸(ようやく)二千日に及にけり。此分さヘに千万人か。殊(とくに)棟木(むなぎ)は木曾山、飛騨山、四国九国に軒なかりしかば、富士山をみせしめ給ふに可然大木あり。即大工の棟梁をつかはされ見せ給へば、棟木になるべき旨注進申上しかば、即家康卿へ被仰付切らせつゝ、熊野浦へ廻し大坂に着船あり。(略)>>
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2015年10月21日

京都相国寺門前 西郷吉之助宿所 谷千城文書より

文久2年(1862年)、薩摩藩士西郷三右衛門(36歳)は、藩命により吉之助に改名申し付けられ、さらに徳之島(6月)へ、7月になると沖永良部島へ遠島処分が下される。翌々年(元治元年)の2月、処分が解かれ、沖永良部島和泊から鹿児島に帰着。6月上旬、大坂に下る途中の伊丹で池田屋事変を知り、直ちに京都に向う。時に西郷吉之助38歳。薩摩藩二本松藩邸に入ったあたりで、近所に宿舎を求めたのが、御所北側の相国寺(しょうこくじ)門前の宿屋風の下宿であったのだろう(推測)。尚、吉之助から隆盛に改名するのは、東京に移住後の明治2年12月下旬のこと。同月25日付けの文書に初めて「隆盛」名が使用されている。
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(写真)薩摩藩二本松藩邸東側の相国寺門前付近にあった西郷吉之助宿所付近(推定)。
向って左側は同志社大学キャンパス、右側は同志社女子大学。背側が京都御所。

<<(略)丁度(ちょうど)慶応三年の極月(*12月)二十七日に始めて観兵式と云ふものを行つて、天子様(*同年1月に睦仁親王践祚=明治帝)の御覧に入れるといふことになつた、実に云ふに云はれぬ愉快さで、今は其の様子を書くとか、感想を述べるとか云つても到底筆舌の能くつくす所でない、たゞ何んとも云へない士気の立つた、心の興奮した有様で、まあ戦争の準備と云ふ風がありありと見えた。所が其の翌日の廿八日になつて、西郷から使をよこして直ぐ来て呉れと云ふ事だ、西郷は其の時御所の後ろの何とか云つた大きな寺の門前の、素人屋とも宿屋ともつかない家に泊つて居たが、私が出懸けて見るとにこにこ笑ひながら「谷さん漸う漸う始まりましたよ」と云ふ、どうした事ですかと聞くと、いや江戸で戦さの皮切りが出来て、これから始まりますと云ふ話だ、それぢや土佐に出かけて同志に知らせたりなどするのに、間に合ひますかと聞くと、間に合ふ所ぢやありません、今度始まれば二十日や三十日で結末の付く事ではありませぬ、大丈夫半年と一年かゝるとのことで、余は一と安心して、一体事の起りはどうした事かと尋ねると、廿五日に江戸で、荘内(=庄内藩)酒井の兵が主となつて、上の山の兵と共に七曲りの薩摩の屋敷を焼き払つた、尤(もっと)も其屋敷には浪人共や薩摩の暴れ者が沢山居て、江戸市中を暴れ廻り、夜になると諸方に押入り強盗などをやつたものだから、幕府は薩摩を賊と認めて襲撃して焼き払つたのである。
尤も其以前から京都と江戸とで有志互に声息を通じて兵を挙げる積りになつて居たのを、後藤が大政奉還などとあぢな事をやり、戦さをせずに治める事になつたので、戦さ主義の連中は目的がはづれ、西郷なども大心配をして居たが、当時の形勢は到底戦争なしに治まるべき筈がない、何づれどちらからか手出しをする事になるのは知れ切つて居たのを、愈々(いよいよ)幕府側から手を出したと云ふので、西郷なども大喜びをした訳であつた。>>
 谷千城(元土佐藩)「漸う漸う始まりましたよ」明治43年9月「日本及日本人 南洲号」より
*ふり仮名・(*)は原文に無し。
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2015年08月23日

京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎「朱雀日記」より

安政元年(1854年)8月15日、島原遊郭は大火に見舞われる。廓(くるわ)内から出火した炎は、上之町、中之町、太夫町、中堂寺町を焼き尽くし、わずかに下之町の一部と揚屋町が焼け残る。寛永年間(1624〜1644)以来の豪奢な遊郭建築が焼失するなかで、揚屋町の角屋(すみや)のみが今日まで揚屋建築の全容を欠けることなく遺している。角屋は揚屋(宴会用の酒食饗宴の場)としての営業を明治5年に終え、以降はお茶屋として、昭和六十年(1985年)の閉店まで灯を消さずに永らえてきた。その間、角屋は昭和27年(1952)重要文化財建造物に指定され、現在は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されている。
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(写真)揚屋町の角屋。北方向から。

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(写真)角屋門口から。

谷崎潤一郎「朱雀日記」より。
<<古跡を捜らない云ひ譯には、祇園も知つたし、先斗町にも馴染んだし、此の上島原の遊廓さへ覗いて置いたら、一と渡り京都の色里を見物した事になる。ちやうど五月十二日の五月雨の晩に、私は好い傳手(つて)があつて、彼の廓で有名な角屋(すみや)と云ふ貸座敷へ案内された。一體(いったい)私は今日のprostitution(*売春)と云ふものが嫌ひである。たとひ水轉(みづてん)でも藝者の方が、どうも女郎より氣持が好い。附き合ひの為に遊廓へ連れて行かれて、娼妓をあてがはれても、めつたに肌を許させはしない。唯、幸に島原には、二百五十年前の建築のまゝの角屋(すみや)があつて、寛永時代の華美寛濶な匂を残して居る。其れが私には懐しかつた。だから、島原へ遊びに行くと云ふよりも、寧ろ角屋を見に行くと云つた方が、適黨(てきとう)であるかも知れない。
 丁度東京の吉原が、日本橋の大門通りから浅草田圃(たんぼ)へ移轉(いてん)を命ぜられたやうに、島原も寛永年間に三筋町から今の場所へ引き移つたのである。當時九州に天草の亂があつて人心恟々(きょうきょう)たる折柄、此の遊廓の騒動もをさをさ之に劣らず、日夜戦ひの巷のやうな繁昌を續けた所から、肥前の島原にたとへて「島原々々」と呼んだのが遂に地名となつて了つた。だから島原と云ふ名は、決して女性的な、優美な連想を起すぺき性質の言葉ではなかつたのであらう。明治の人間が吉原へ行くのを北極探険と稱(しょう)したり、庇髪の一種を二百三高地と名付けたりすると同様、殺風景な比喩のうちに、多少おどけた、駄洒落の意味が含まれて居たものであらう。 (略)>>
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(写真)中庭から見た角屋一の大広間松の間に続く廊下。

<< 天井の棹縁(さおぶち)だの、障子の桟だの、欄干などの、木材の組み合せ方が殆ど一と間一と間に異つた意匠を施され、種々雑多な線條を弄んで作られて居るにも拘らず、さながら伽藍の本堂のやうな廣々(ひろびろ)とした座敷が多く、如何にも細エが大仰で、たつぷりして居る為めに、東京の小待合めいたせせこましい氣障(きざ)な趣は微塵もない。現に二十五畳敷の松の間の縁側などは、幅の廣い大きな檜の一枚板で出來上つて居る。さうして、今ならば當然四角形であるぺき座敷の形が、要もないのに、ところどころで折曲つて、金尺(かねじゃく)のやうな恰好をして居る。松の間とか、梅の間とか、孔雀の間とかは、大概唐紙の模様に依つて名づけられたもので、應擧(*円山応挙=江戸中期の絵師)、岸駒(*がんく=江戸後期の絵師)などの筆蹟が、襖に残つて居る。緞子(どんす)の間は襖に緞子を用ひ、扇の間は天井に扇面(せんめん)を貼り詰めてある。驚いたのは螺鈿(らでん)の間で、床の間の壁の中まで、螺鈿を篏(は)め込み、硬屏(こうびょう)から煙草盆のやうな器具にも其れが鏤(ちりば)めてあつた。天井は蒲(がま)を網代に編んで張つたものださうだが、眞黒に煤けて莚(むしろ)の様になつて、二三個所に蛇の出て來さうな大穴が開いて居た。長い年月を經て居る上、いまだに蠟燭(ろうそく)以外の燈を使はないから、何處も彼處も油烟(ゆえん)で燻つて、柱などはタールを流したやうであるが、かう云ふ大廣間で飲めや唄への歓楽を盡した昔の大盡(だいじん)こそ、眞の「豪遊」を味はつたものであらう。さう思つて見ると、土佐繪の形式を脱しない時分の風俗屏風の浮世繪の遊興圖が、まざまざと眼の前に泛(うか)んで來るやうな心地がする。 (略)>>
谷崎潤一郎 「朱雀日記」東京日日新聞+大阪毎日 明治45年4月〜5月連載初出
 「谷崎潤一郎全集第一巻」1981年中央公論社刊収録より

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(写真)網代の間の廊下からみた中庭。

永井荷風も大正11年に発表した短文「十年振」で、角屋の座敷と襖絵の幽美さに心酔した様を
書き残している。
<<京都に遊ぶのはこの度が四囘(かい)目である。明治三十年の頃父母に従つて遠く南清に遊ぶ途すがら初めてこの都を見物した。次は明治四十二年清秋の幾日かをこゝに送つた事があつた。三度目は慶応義塾大阪講演會の歸途(きと)であつた。偶然祇園の祭禮に出會つて其の盛観を目撃する事を得た。人家の欄干に敷き連ねた緋毛氈(ひもうせん)の古びた色と山鉾の柄に懸けたゴブラン織の模様とは今も猶目に残つている。幽暗なる蠟燭の火影に窺ひ見た島原の遊女の姿と、角屋(かどや*原文ルビ)の座敷の繪襖(えぶすま)とは、二十世紀の世界にはあらうとも思われぬ神秘の極みであつた。わたしは東京の友人に送つた繪葉書に、吾等は其の郷土の美と傳來(でんらい)の藝術の何たるかを討(たづ)ね究めやうとすれば是非とも京都の風景と生活とに接触して見なければならないと云ふやうな事を書きしるした。>>
   永井荷風「十年振」大正11年12月中央公論初出。 

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(写真)網代の間の障子。
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(写真)網代の間。

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(写真)松の間廊下から見た臥龍松の庭(敷地西側)。京都市指定名勝。さらに広庭左奥には
清隠斎茶席(曲木亭)が建つ。

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(写真)江戸末期の絵師岸連山の筆になる「金地桐に鳳凰圖」。

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(写真)大座敷松の間(43畳)の床の間。谷崎は「二十五畳敷の松の間」と書いているが、確か
二間続きだったと思う。松の間は大正14年に一部焼失したため重文指定から除外されてしまった。
岸良の布袋圖、縁側の欅(けやき)の一枚板などは難を逃れている。

参考 角屋HP http://sumiyaho.sakura.ne.jp/index.html
  「日本花街史」1990年雄山閣出版刊

谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448091444.html?1489817860
大阪南 旅館(待合)千福とカフエ・ユニオン 谷崎潤一郎「芥川龍之介が結ぶの神」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/432273298.html?1493981055
京都宇治 平等院鳳凰堂 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/423690257.html
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2015年08月12日

京都清水 五条坂の宿 佐々木 白洲正子随筆集「夕顔」より

かって清水五条坂に作家白洲正子絶賛の料理旅館があった。
先代(元芸妓のおはる)は、八坂の塔の北傍らで料理旅館を営み、歌人吉井勇、作家里見クの作品のモデルとなり、白樺派の作家らや近衛文麿にも可愛がられていた。生粋の祀園育ちのおはるさんが亡くなった後、清水五条坂に旅館を移し、二代目として跡を継いだのが、おはるさんの姪にあたる佐々木達子であった。
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(写真)料理旅館「佐々木」(二代目)の跡地に建つマンション(北側から)。、

白洲正子随筆集「夕顔」収録の「京の宿 佐々木達子さん」より。  
<<(略) 「おかみさんが亡(の)うならはりましたえ」           
私たちの間で、「おかみさん」といえば一人しかいない。それは私たちが定宿(じょうやど)にしていた京都の宿の主(あるじ)で、主というにはあまりにもそこはかとない女性であった。名前を佐々木達子といい、清水の静かな一角に住んでいた。その宿屋をはじめたのは彼女の叔母で、祇園の一流の芸妓(げいぎ)であったが、近衛文麿、吉田茂、松永安左ヱ門、志賀直哉をはじめとする白樺派の人々、中でも里見クは長年のひいきであった。戦後は小林秀雄、河上徹太郎、吉田健一など、特に小林さんは、「この宿屋は国宝だよ」といって愛していた。
何も建築が立派だから国宝というのではない、おかみさんの立ち居振る舞いといい、心の遣いかたといい(ぬけ目のない気配りやサービスの意味ではない)、一点非の打ちどころのない人物だったからである。
その初代のおかみさんが、今から二十五年ほど前に亡くなった。姪(めい)の達子さんは、それまで台所で下働きをしており、私たちの前には殆ど顔を出さなかった。小柄な女性で、いくつになっても赤い帯をしめていたので、口の悪い人たちは「子守っ子」と呼んでいた。その頼りない子守っ子が、「佐々木」の後を継ぐというので私たちは唖然とした。とてもやっては行かれまい、佐々木は一代で終わりかとあきらめていたら、驚くなかれおばさん以上に国宝的な存在となって今に至ったのである。>>
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(写真)西側より「佐々木」跡。左端の建物は、元プリンスホテル跡のMS。

<<名妓であったおばさんには、多分にお嬢ちゃん的なわがままなところがあり、それが魅力でもあったが、長年下積みで苦労をした達子さんは我慢強かった。私たち一家はどんなに彼女のお世話になったかわからない。祖父、ーつまりおばさんの父親が気難しい板前であったので、彼女は小さい時から料理が上手で、したがって味にはうるさかった。京都の料理屋は隅から隅まで知りつくし、料理ばかりでなく、それは日常の生活万端に及んでおり、これはと思う老舗では、「佐々木」といえばどこでも一目置かれていた。すべてそうしたことは先代のおばさんから受けつがれた訓練によるが、彼女はよくそれに応え、たださえうるさい客たちに至れりつくせりの接待をした。そういうものこそ私は、千年の歴史を誇る京都の「伝統」と呼びたいのだ。
 戦前からの二代にわたるおかみさんとの付き合いが、突然切れたのだから私の落胆を想像して頂きたい。もっともこの二、三年は仕事が辛そうで、私は遠慮してなるべくホテルに泊まるようにしていたが、京都へ行く度に見舞いを欠かしたことはない。いつ行ってみても掃除は行き届いており、床の間には花が活けてあった。青々とした苔の庭も、そこに植えてあるどうだん(*灯台の転語で釣鐘形の花が咲く)も、萩も、つつじも、彼女の丹精のほどを示していた。客はいなくても、誇り高い彼女は、あたかもそこに客がいるかのように暮らしていたのである。
 レトロやグルメで鵜(う)の目鷹の目の女性雑誌も、「佐々木」 のようなかくれた存在には目が届かなかった。が、それも今や昔語りとなった。清水の宿で、たのしい日々をすごした人々も、おおかた死んでしまった。おかみさんはそれが寂しくて、生きていられなかったに違いない。さようなら、達子さん。(略)>>
  「随筆集 夕顔」1993年新潮社刊。「新潮45」1988年6月号初出。

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(見取り図)1974年発行の吉田地図を参照。

「京の宿 佐々木達子さん」は、随筆集「余韻を聞く」2006年世界文化社刊にも収録されている。
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2015年08月06日

京都宇治 平等院鳳凰堂 谷崎潤一郎「朱雀日記」より

平等院は、はじめは河原(かわらの)左大臣源融(みなもととおる)公の別業として、貞観元年(859年)に造られたが、その後、陽成院が、この地に行宮(あんぐう)を設け、宇治院と号した。六条左大臣雅信(まさのぶ)公の所領となった後、長徳四年(998年)十月、関白藤原道長が源重信夫人より宇治院を購入し遊覧の地とする。さらに道長の子息摂政頼通(よりみち*永承五年に関白)が、永承七年(1052年)に寺院として平等院と号した。翌永承八年(=天喜元年)三月、阿弥陀堂として建てた御堂の供養をする。この御堂が、後の戦乱(建武三年の宇治の戦いで阿弥陀堂を残し平等院の大半が焼失)を掻いくぐり、今日まで伝わっている鳳凰堂である。
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(写真)鳳凰堂は鳳凰を象(かたど)り、左右の高楼・回廊を翼とし、背後の廊を尾とした。
鳳凰堂をめぐる阿字(あじ)池は、恵心(えしん)僧都の作。

谷崎潤一郎「朱雀日記」東京日日新聞・大阪毎日新聞 明治45年4月〜5月連載初出。
<<何んでも前の日から降り續けて居た天氣が上りかゝつて、をりをり雲の隙から洩れる薄日が、糠(ぬか)のやうな雨の脚を光らせて居る午過ぎであつた。年の若い、獨逸(ドイツ)話ぐらゐ心得て居さうな平等院の坊さんが、大きな鐵(てつ)の鍵を持つて、鳳凰堂の裏口の木柵の錠を、がしん、がしん、と揺す振りながら開けてくれた。露に濡れた雑草のだらだら路を下りて、尾楼の附け根の階を上ると、方五間の縁側の石甃(いしだたみ)が、瓦葺の傾斜の優しい庇の蔭を平かに走つて居る。石は皆堅固な方形の御影で、損所缺所の少いのは、近頃新しく修繕を加へたものであらう。柱と柱の間の白壁なども、時々塗り換へるものと見えて、風雨に曝された痕跡は認められないが、却つて俗卑に陥いるやうな失策もなく、古めかしいイリユウジョンを尊重すると同時に、其の實在(じつざい)性を確かにさせて居る注意深い手際を、何よりも嬉しく思ふ。
やがて坊さんが、北向きの重い扉を、中からギーと軋(きし)めかせて押し開いてくれる。中央に本尊の阿彌陀如來、楣間(みけん)に雲中供養の二十五菩薩、天蓋、虹梁(こうりゅう)、支輪(しりん)の装飾ーー晝(ひる)も夜も眞暗な四壁のうちに密閉され長らく日の目を見なかつた國寶(こくほう)の藝術が、外界の空氣に出遇つてほツと一と息吐きながら、燦然と我等の眼の前に輝く。縁側に雪駄を脱いで、堂内の床を歩むと、冷やへとした敷き甃が、夏足袋の底を徹して足の裏に觸れ、丁度山奥の瀧壷のほとりへ近づいたやうな肌寒さが、襟元へぞくぞくと沁み込んで來る。>>
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(写真)中堂(中央部)に長(みたけ)六尺の本尊阿弥陀仏(定朝の作・座像)が安置されている。
中堂内部は公開されているが撮影は禁止。

<<「あの天井の圓(まる)い物を御覧なさい。あれは皆鏡なので、今日では眞黒に燻(くす)つて了ひましたが、此のお堂が出來たての時分には、きらきら光つて内部の装飾を一層美しく反射させるやうに、作られて居たものと思はれます」かう云つて、坊さんはうす暗い上の方を指し示した。其處には鹽煎餅(しおせんべい)程の大きさの、古板のやうに錆びて煤けた小型の鏡が、二つ三つ残存して居る。昔は此れが格天井の十字のところに悉く附いて居たものであらう。床を除いた堂字の殆ど全部が驚くべき精妙な細工を以て丹念に飾り盡されて居たらしい事實は、到る所に發見せられる。あまり人の注意を惹かないやうな扉の止め金や鋲(びょう)の頭を、試みに指先でゴシゴシ擦つて見ると鐵の赤錆の下から銅の象眼が緑青(ろkしょう)を吹いて現れたり、金鍍金(きんめっき)の痕が出て來たりする。其の外、須彌壇(しゅみだん)の梨地(なしぢ)の面には、蟲の喰つたやうな線が無数に刻まれて居るが、此れ等は凡て螺鈿(らでん)が篏込(はさみこ)んであつたのだと云ふ。
(略)
鳳凰堂は関白頼通の建立に係ると傳へられて居る。頼通と云へば道長の子息で、後三條天皇の壓迫の為に、宇治へ追隠した男である。藤原氏の勢力は其の頃から次第に失墜し始めたやうなものゝ、いまだ武門の勃興しない當時に於いては、なかなか侮り難い富のカを持つて居たやうに考へられる。即ち此の堂は藤原氏旺盛時代の掉尾(とうび)の置土産として、後世に残されたものと見ても差支へないのであらう。>>
  「谷崎潤一郎全集第一巻」1981年中央公論社刊より抜粋。

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(写真)棟の上に雌雄の鳳凰が金銅をもって造られている。

白洲正子も随筆「平等院・雲中供養仏」で鳳凰堂中堂内部を描写している。
<<宇治の平等院は、永承七年(一〇五二年)、藤原頼通(よりみち)によって建立された。翌天喜(てんぎ)元年に、定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来が、阿弥陀堂の中に安置され、これがのちに鳳凰堂と呼ばれるようになった。宇治川の東岸の、朝日山に向かって建ち、あたかも鳳凰が翼をひろげて、飛び立たんとする風情に造られている。
建物も軽やかで美しいが、内部の装飾も、藤原文化の粋を集めている。金色にかがやく本尊を中心に、天井から柱、長押(なげし)の末に至るまで、宝相華文(ほうそうげもん)の彩色がほどこされ、扉にも壁にも阿弥陀浄土の風景が描かれた。
「極楽いぶかしくは、宇治のみ寺をうやまえ」と、当時のわらべ歌にも謳われたように、それは藤原貴族が夢みた極楽世界そのものであった。中でも魅力があるのは、長押の上の白壁にかかっている五十二体の飛天(ひてん)である。正しくは「雲中供養菩薩像」といい、檜の一木造りの群像で、或はさまざまな楽器を奏し、或は蓮華や宝珠をささげ、雲に乗って舞ったり歌ったりしている。創建当時は、華やかに彩られていたらしいが、今は漆も彩色も剥落して、美しい木目の生地(きじ)を現しているのが却(かえ)って趣がある。>>
  白洲正子「決定版御仏の心 日本の仏像」1979年10月世界文化社初出より。

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(写真)鳳凰堂の大修理は、明治35年(1902年)より5年に渡って行われ、さらに昭和25年(1950年)より6年間、鳳凰堂を全面解体しての修理が行われている。平成の修理は、2012年9月から足場が組まれ(上写真)、2014年9月8日に終了した(落成式10月1日)。  
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(写真)平成修理(2012年9月)前の雌雄対の鳳凰。

参考
 「都名所図会三」安永9年版、ちくま学芸文庫1999年刊。
 「古寺巡礼・京都 平等院」淡交社1976年刊
谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448091444.html?1489817860
大阪南 旅館(待合)千福とカフエ・ユニオン 谷崎潤一郎「芥川龍之介が結ぶの神」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/432273298.html?1493981055
京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎 「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/424681960.html?1494858522
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2015年07月23日

京都円山 左阿弥 志賀直哉「暗夜行路」より

大正3年(1914年)9月中旬、志賀直哉(31歳)は、4カ月を過ごした松江から京都南禅寺町北の坊に移る。10月、「暗夜行路」前篇草稿の一つ「時任信行」を執筆。
12月21日、東京麹町元園町の武者小路実篤(さねあつ)邸で勘解由小路資承の娘康子(さだこ)(戸籍面は「康」)と挙式。媒酌人は無く、列席者は武者小路夫妻、勘解由小路夫妻のみであった。
同月、京都に帰り、円山公園内の料亭左阿弥で友人らに披露。康子は実篤の従妹で25歳。先に川口武孝に嫁したが死別(娘喜久子を生む)。この結婚を推進したのは実篤夫妻。康子の娘喜久子は実篤の養女となっている。志賀直哉の父直温は、この結婚に反対で、父子の不和はさらに深まる(のちに「和解」)。
志賀直哉は、料亭左阿弥での披露宴の模様を主人公謙作の挙式に置き換えて「暗夜行路」に登場させる。
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(写真)料亭左阿弥。

<<二人の結婚はそれから五日程して、圓山(まるやま)の「左阿弥(さあみ)」と云ふ家で、簡単にその式が挙げられた。謙作の側からは信行、石本夫婦、それから京都好きの宮本、奈良に帰つてゐる高井、そんな人々だつた。
直子の側はN老人夫婦と三四人の親類知己、その他は仲人のS氏夫婦、山崎医学士、東三本木の宿の女主(*三本木の旅館信楽)等で、簡単と云つても謙作が予(かね)て自身の結婚式として考へてゐたそれに較べれば賑やかで、寧ろ自分にはそぐはない気さへした。
そして此日も上出来にも彼は自由な気分でゐる事が出来た。種々(いろいろ)な事が、何となく愉快に眺められ、人々にもさういふ感じを与へ得る事を心で喜んでゐた。
舞子、芸子(げいこ)等の慣れた上手な着つけの中に直子の不慣な振袖姿が目に立つた。その上高島田の少しも顔になづまぬ所なども、変に田舎染みた感じで、多少可哀想でもあつたが、現在心の楽んでゐる謙作にはさういふ事まで一種ユーモラスな感じで悪く思へなかつた。
十一時頃に総てが済んだ。>>  志賀直哉「暗夜行路」筑摩現代文学大系1976年刊より抜粋。
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(写真)料亭左阿弥表玄関。

参考 「志賀直哉全集第22巻」岩波書店2001年刊
志賀直哉リンク
京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」より http://zassha.seesaa.net/article/447574437.html
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2014年12月09日

京都 池波正太郎「食べ物日記・昭和43年版」(十二月の年末旅行から)

作家・池波正太郎の「食べ物日記」(昭和43年版)から。
池波(当時45歳)は、同年(1968年)12月下旬に取材旅行で京都・奈良を訪れ、その期間(6日間)も簡易な日記を書き続けている。写真を付け加えて抜粋する(写真が抜けている分は先に謝罪)。

十二月十九日(木曜)
年末旅行、京へ発す。トヨ子見送り。
東京、くもり寒し。関西へ近づくにつれて晴れてくる。京都は暖夜。
ツボサカでステーキ。
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(左写真)「つぼさか」跡(左側奥のビル・推定地)。テナント案内板が縦に並ぶビルの場所にあった(現在「つぼさかビル」)。 (右写真)地図。四条通から花見小路通を北に、最初の路地を東に入った北側にあった。一帯は現在も京都を代表する夜の繁華街。
*日記の<トヨ子見送り>のトヨ子=池波豊子さん。池波正太郎夫人。

十二月二十日(金曜)
京在。
松ずし。
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(左写真)かっての「松鮨」跡(主人は先代の吉川松次郎)。赤い自販機が置いてある位置に「松鮨」の暖簾が掛っていた(間口はかなり狭い)。 (右写真)奥に見える橋が三条小橋。写真右岸の高瀬川に面して「松鮨」があった。「池波正太郎 新潮日本文学アルバム」(1993年刊)のP82に、「松鮨」店内カウンターで、主人と談笑する池波の写真が載せられている。また、「散歩のとき何か食べたくなって」(新潮文庫)の巻頭に、「松鮨」の寿司と酒肴が写真紹介されている。同文庫の「三条木屋町・松鮨」から<<三条木屋町下ルところにある[松鮨]へ、はじめて入ったのは、もう十五年も前のことになるだろうか・・・・・。 高瀬川に架かった三条小橋を東へわたると、川沿いの道の斜め向うに、瑞泉寺という寺がある。>> 参考:京都詳細住宅地図(吉田地図)1974年版に「松鮨」記載有り。 
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(左写真)地図。「松鮨」の位置。現在、角地の店はひとつに併さって大きな建物になっている。 (右写真)移転した「松鮨」の場所は、蛸薬師通柳馬場の角を西南側に入って2軒目。2階に店舗。3階は住居となっている。

十二月二十一日(土曜) 晴
昼、奈良ホテル入ル。
大和路の取材。ホテルハイヤーの運転手、大いに役立つ。千円チップをやる。
[夕] ホテルのすきやき
赤ワインをのみすぎ、悪酔いす。
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(左写真)奈良ホテル。日本を代表するホテルのひとつ。 (右写真)奈良ホテルのどのあたりの部屋に宿したかは不明。
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(左写真)JR桜井線のとある駅舎。池波は、桜井市三輪の大神(おおみわ)神社(=三輪明神)を21日に訪れている。「食べ物日記」には、<十二月二十一日、大和・三輪明神にて>とコメントが付いたスーツ姿の写真が載せられている。 (右写真)大和郡山城(22日に訪れているはず)。奈良ホテルを拠点に、奈良盆地の各所を池波は取材して回っており、成果にかなり満足を得た感が日記に伺える。

十二月二十二日(日曜) 
雨あがり、大和郡山取材。なかなかよし。
京へもどり、[しる幸] にて晩食。
風邪気味となる。
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(左右写真)西木屋町真町の細路地にある「志る幸」。新選組が、古高俊太郎(桝屋喜左衛門)を捕縛した宅跡(地図のグリーン色部分)の広い敷地の一部に「志る幸」は位置している。古高は、壬生の新選組屯所(前田家)に連行され、拷問により(長州藩士らの集会を)白状する。結果、池田屋事件の端緒の地となったことから、幕末史に名を残すことになった。その石碑が「志る幸」の横に建っている。池波正太郎が何を思いながら食事してたかは、凡人には想像外。

十二月二十三日(月曜) 晴
ノドいたむ、タン出る、風邪ひどくなる。さむし。山々よく見える。
ひるすぎ松ずし。
PM四時彦根着。
[小島]へ行き、夜の汽車までをすごす。
会計一万円弱、安いのにおどろく。
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(左写真)翌朝、京都市内は冷え込んだのだろう。<山々よく見える>と日記にあるのは、東山で間違いないだろう。昼過ぎに昼食を再び「松鮨」で摂っている(既出)。  (右写真)「志る幸」付近の地図。
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(左右写真)<PM四時彦根着。[小島]へ行き、夜の汽車までをすごす。>と日記に書かれた料亭「小島」は、彦根城下の旧・遊郭街(袋町)に残っている(左写真の橋詰に小さく見える赤い建物)。かっては紅殻(べんがら)格子が連なっていた色街は過去のものとなったが、夕陽に染まる芹川は変わらずに美しい。「小島」は、池波が贔屓にしていた同じ袋町の老舗料亭「金亀(こんき)」の元女将が始めた料亭(「食べ物日記」の注釈より)。金亀楼は、幕末期に井伊大老の下で働いた「村上たか」所縁の妓楼としても名を残している。 
池波は、夜行列車で帰京し、翌日の日記に<<十二月二十四日(火曜) 晴 風邪いくらかよし。>>と書いて、取材旅行の記述を閉じている。
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(左写真)彦根城下の袋町にあった遊郭跡の地図。面影は川面に残るのみ。 (右写真)池波正太郎著「食べ物日記 鬼平誕生のころ」2009年刊(文藝春秋)。

池波正太郎リンク
大阪 宗右衛門町界隈 池波正太郎「大阪ところどころ」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/394678865.html
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2014年07月08日

京都 本能寺門前 竹苞書楼

押小路御幸町の角にある銭湯玉の湯と床屋のすぐ近くに暮らしていた頃、連日のように(通り道のため)立ち寄っていた古書の老舗「竹苞書楼(ちくほうしょろう)」。幅広い御池通を渡り(寺町通の信号を渡らざるをえないのだ)、寺町アーケードに入ると、まず視線は右角の天保3年(1832年)創業の和菓子の老舗・亀谷良永に。季節の菓子をチラッとながめて、視線はすぐ左側に山門を構える本能寺に移る。次に視線は本能寺の斜め向かいにある古書の老舗「竹苞書楼」に移るのだ。同じように視線を移動させ、文章に残した先人がいる。文学散歩の祖・野田宇太郎だ。「文学散歩第18巻」(1977年刊)から「竹包書楼」を記した部分を抜粋する。
<<寺町通りを南へ道幅の広い御池通りを横切ると、左側に織田信長の最期を語り伝える本能寺がある。その本能寺の山門の向い側に見るからに古風な竹苞楼という江戸時代から続く古書店がある。竹苞楼は佐々木姓で現在は六代目だが、初代の春重は銭屋儀兵衛について業を修め、寛延四年(1751)五月(六月より宝暦)頃の創業だという。上田秋成が寛政六年(1794)に著わした茶道に関する「清風瑣(さ)言」という二冊本もこの竹苞楼の出版で、その板木は今も保存されている。現在の建物は元冶年間に焼失したあと明治初年に再建したものときく。>>
野田宇太郎が書いた本能寺は、もちろん織田信長が明智光秀に討たれた当時の本能寺跡ではない。三十余の宿坊に囲まれた大伽藍(本能寺)は、信長の遺骸とともにすべて焼け落ち、その場所(現在の元本能寺町)に再建されることはなかった。本能寺が現在地に秀吉の都市計画(そのひとつが寺町の創建)に基づき再建されたのは、1589年(天正17年)になってからだ。<元冶年間に焼失>(1864年)を説明すると、幕末の戦乱<禁門の変>に伴う京の大火(どんどん焼け)で被災したものだ。ほぼ二条通から七条通まで(南北)が灰燼に帰した大火事だった。
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本能寺山門から見た竹苞書楼。アーケードのために明治初期の築と伝わる重厚な町家の全景は見えない。
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店頭左右に置かれた店舗名等が墨書された古い書箱(木箱)に魅せられる
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現在は古書籍全般の売買に携わっているが、店頭には和綴じの国学書が積まれている。野田宇太郎は<佐々木姓、現在は六代目>と書いたが、1975年刊行の吉田地図(京都の詳細地図出版社)には佐々木隆一氏の名が書き込まれている。店舗紹介にある現在の代表者は佐々木惣四郎氏となっている。
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(左地図)本能寺の位置は、北と方向を印した文字の所。江戸期までは広大で、境内は北側の御池通を越えて、現在の京都市役所もすっぽり本能寺領域に収まっていた。(右地図)長州勢が京から駆逐された禁門の変(蛤御門の変)直後の火災被害領域を墨書きした有名な瓦版。室町・江戸期の老舗はこの火災の被害を受け、大部分が建物を失っている。被災者が新地を造営したりして、現在の京都の姿に大きな影響を及ぼした「えらい迷惑な大火事」であった。
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2014年05月30日

京都東山 下河原遊郭 噲々(かいかい)堂跡 村松剛「醒めた炎ー木戸孝允」より

時は間もなく明治を迎える幕末慶応3年、場所は土佐藩各士が贔屓にして出入していた八坂下河原の料亭「噲々堂」。村松剛の史料を縦横に駆使し、緻密に裏付けを重ねた歴史小説「醒めた炎ー木戸孝允」昭和54年5月6日〜昭和58年1月30日に日経新聞連載初出、単行本上下巻は中央公論社より1987年刊。この大作より噲々(かいかい)堂が舞台となる場面を抜萃。
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(写真)坂本龍馬ら土佐藩各士が出入した料亭噲々(かいかい)堂跡。

<<独創的な思想性は龍馬にはとぼしく、そのかわり脱藩浪人として苦労して来ただけに機を見る眼と周旋の才とは、彼は身につけていたのである。
後藤象二郎はこの案を見てよろこび、京都に到着するとすぐ宇和島藩や薩摩藩の要路を説いてまわった。
二人に数日遅れて土佐から佐々木三四郎(高行、大目付)が、京都に出て来る。彼は雷雨の日に東山の会々(噲々)堂で龍馬と会い、こんどは後藤をはじめ藩内の旧佐幕派までが大政奉還論に熱中しているから、何とか十分の芝居ができるといった。
龍馬は笑って、芝居ができるとは名言だといった。何でもよろしいから一芝居うてば、
ーーそれよりことがはじまるだろう。
蒟蒻(こんにゃく)の田楽を頬ばりながら、
ーー大政奉還を土佐藩が主張すれば、薩摩も土佐を信用する。
目を細めて、龍馬はいった。蒟蒻の田楽は、この店の名物である。>>
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<<会々(噲々)堂は池大雅の弟子の佐竹噲々がつくった店で、山猫茶屋として知られていた。
山猫は元来の名を山根子または山の子といい、高台院で晩年をすごした豊臣秀吉の妻北政所に奉仕した女藝(芸)人たちが、その発祥といわれる。
比叡山の僧侶たちが好んで彼女たちの踊りを見たことから、山の妓(子)の名が出た。
藝妓のなかではとびきり気位が高く、宴席に出ても客の上座に坐る。
 薩摩の家老小松帯刀はその山猫藝者の小筆を、土佐の福岡藤次(孝弟、参政)は美貌で名高いお加代を、谷守部(干城、小目付役)は小菊を、中岡慎太郎はお蘭を、それぞれ愛人にしていた。
この日佐々木三四郎とともに龍馬に会った毛利恭助(小目付役)も、のちに会々(噲々)堂のお玉を手に入れている。
薩長の藩士がおおむね祇園の美女たちを酒席に侍らせたのに対して、土佐は方広寺を根城にしていたという地理的な理由も手伝い、主として山猫が相手だった。福岡は維新後、髪結いの娘に生まれたお加代を正夫人とする。(略)>>
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下河原噲々堂跡付近見取図。

参考 「維新の京都」新人物往来社1986年刊
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2014年05月12日

京都御所 朔平門外ノ変(猿ヶ辻の変) 姉小路公知卿暗殺

1863年(文久3年)5月20日(旧暦)、尊攘派の急先鋒の公卿姉小路公知(あねがこうじきんとも・右近衛少将)は、宮中において午前より朝議に列席(通常の出勤は午前10時で退出は午後3時)、論議は沸騰し、退廷は亥の刻(午後10時、戌刻午後8時とも)になった。公卿門から三条卿と姉小路卿は前後して退出するが、三条卿は左(南)へ、姉小路卿は右(北)へ曲がり出た。姉小路卿の供廻りは吉村左京、金輪勇(かなわいさむ・太刀持ち)、その他、提灯持ち、長柄持ちなどの下人が三、四人である。一行は今出川殿の屋敷前を通り、御所の西北角で乾門を左手に見ながら築地塀を右に曲がる。内側は女御(皇后)御殿である。皇后となる九条夙子(あさこ)は12歳で、のちに即位する孝明天皇の妃となるが、生まれた皇女は次々と夭折してしまい、中山慶子の生んだ皇子が明治天皇となっている。その女御御殿の正門が、切妻造り四脚門の朔平(さくへい)門である。「朔」は北を意味しており、女御ら高貴な女性の参入退出のための門であった。この朔平門前に差し掛かった姉小路卿一行は、不意に刺客数人(3人)に襲われる。
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(左写真)京都御所西側築地塀。奥に公卿門(宜秋門ぎしゅうもん、公家の公務の際の通用門)。奥の北方向に退出した姉小路卿、手前のこちらに退出したのが三条卿。(右写真)文久3年当時は朔平門の北東側近くに「猿ヶ辻」があり、現在とは異なっている。御所の長方形の形が完成したのは、2年後以降の慶応年間のこと。現在の「猿ヶ辻」付近は、当時は広大な有栖川邸だった。
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 朔平門。門奥は女御(皇后)御殿。姉小路卿の一行は、向って右から左に進行。朔平門付近の暗がりや側溝に忍んでいた刺客3名が一斉に斬りかかった。襲撃現場は写真左端の木の奥の築地塀辺りだ。今出川御門に近い桂宮邸方向から撮影。

<<朔平門前にかかったとき、くらやみから刺客が無言で斬りかかってきた。もちろん不意であるから、初太刀で肩先を斬られた。「太刀をー」と叫んだが、太刀持ちの金輪勇は、ろうばいしたのか姿を消していた。(金輪勇は後日、京都町奉行に捕らえられ、慶応3年末に断首された。) 従士の吉村左京は賊に迫り、逃げるのを追った。このすきに、かねて策を立てていたらしく、他の刺客二人が姉小路にかかってきた。気丈と言われた姉小路は、手にしていた笏(しゃく)で防ぎ、面と胴を斬りはらわれながらも刺客に組みかかり、相手の刀をうばった。このとき吉村が引きかえしたので、刺客は闇の中に消えたのである。姉小路は鮮血にまみれながら、吉村左京の肩をかり、そこから五、六町ほどの自邸の玄関までたどりつくと、「まくらー」と言ったきり打ちふし絶命したと言われる。二十五歳であった。>>
姉小路卿は、玄関で倒れ、そのまま絶命したため、遺言を残すこともなく、同家はしばらく喪を秘して、姉小路卿自らの名をもって事の始末を伝奏に届け出た。それが下に引用する「昨夜亥の刻頃」で始まる姉小路少将の署名が記された、坊城大納言と野宮宰相中将あての文書。
<<昨夜亥の刻頃、退出懸け朔平門も辺にて武士体(てい)之者三人、白刃を以て不慮に及狼藉、手疵為相負逃去候に付、直に帰宅療治仕候。但切付候刀奪取候。依て此段申入置候へば、厳重御吟味願入候。以上。
                      姉小路少将 >>

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現在の「猿ヶ辻」 (左写真)上塀の金網の中に鬼門(艮=うしとら)避けの木製の猿が烏帽子をかぶり御幣(ごへい)をかついでいる 日吉(ひえ)山王神社の使者なのだ 金網に閉じ込められている理由は夜になるといたずらをしたり うろつくため *艮=うしとら=東北の方角)

翌早朝、朔平門前から猿ヶ辻にかけての現場には冠のひも、笏(しゃく)の破片、黒々とした血痕、そして脇差につける鉄の笄(こうがい)が残されていた。三条卿の従士戸田雅楽(うた)ともう一人の実見者は現場から遺留品を集め持ち帰っている。その後の鑑定で、笄の造り、姉小路の奪った刀は薩摩のものと判明する。また姉小路家にかけつけた土佐脱藩士・那須信吾(土佐藩執政吉田東洋暗殺に参加)は、姉小路卿の奪った刀が薩摩藩の田中新兵衛の差料(さしりょう)と断言している。刀の銘は「奥和泉守忠重」(鍛冶名)で、その刀の説明入り絵図は、東京大学史料編纂所所蔵の「後示一覧」にある。
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(左写真)姉小路卿が襲われた朔平門前はかなり奥(西)のほうだ (右写真)姉小路卿の邸付近(右奥)左は橋本邸跡(皇女和宮生誕地)

<その夜、同時に刺客が三条実美をもねらっていたのである。三条は公卿門を出ると姉小路とは反対に南の梨木町の自邸に向った。四人かきの駕籠に乗っていたある。わきには従士の戸田雅楽(尾崎三良)、今ひとり付添いのほか提灯持ち、傘持ち、下僕ら十余人の同勢であった。(略) 邸をさして清和院御門にかかると、門の隅に三人の人影があった。(略) その報告によると、三人ははだし、股立ち、たすきがけであり寺町を東へ走り去ったということであった。>
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三条卿の駕籠での退出経路(左写真)御所正面にあたる南側築地塀と中央の建礼門 三条卿は奥からこちらに向う 当時左側は御花畠だった(右写真)三条邸は奥(東)遠く清和院御門が見える
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(左写真)三条卿の邸宅のあった付近 (右写真)転法輪近くに建つ清和院御門 <門の隅に三人の人影があった。三人ははだし、股立ち、たすきがけであり寺町を東へ走り去ったという>

三条卿は、堂上(とうしょう)公家・清華(せいか)家で、父は三条実万(さねつむ)卿、兄の死去により嗣子(しし)となり、前年(文久2年)9月に従三位(じゅさんみ)権中納言となっていた三条家の正流である。三条家は傍流の正親町三条家と、分家の三条西家を区別するために、転法輪(てんぽうりん)三条家と呼称されていた。姉小路卿の家格は三条卿の下位となる堂上公家・羽林(うりん)家で、父は姉小路公前(きんさき)卿。前年(文久2年)10月、両卿は攘夷督促別勅使として江戸に東下、正使は三条実美で2歳年下の姉小路公知は副使であった。両卿は、江戸開府以来の勅使に対する礼遇をめぐって無礼と主張し改善を要求している。
姉小路卿暗殺の誘因は、当時からささやかれていた「幕府側からの籠絡」を受け、日米通商条約容認に傾いたことによるのだろう。「中山忠能日記」の5月9日条や村山斉助書簡の5月20日付(三条・姉小路が非常に穏やかになったようで甚だ不審)にその変移が伝えられている。それは、4月21日の将軍家茂の摂海巡見のための下坂に始まる。姉小路卿は諸藩の志士120余名を伴い4月23日に下坂。25日朝に軍艦奉行並・勝海舟の訪問を受け、摂海警衛の質問や進言を受けている。その日の午後からは幕府軍艦順動丸に乗り込み兵庫に向うが、その間にも勝と論議を長時間交わしている。通商条約容認派の勝の弁論に姉小路は魅了されたのだ。姉小路卿の帰京は5月2日。姉小路の同志だった東久世卿の後年の談話にも「帰京後は鋭鋒がくじけた」「武市半平太などは、姉小路様は幕府に籠絡されたとか言いました」と示されている。

事件翌日(5月21日)、御所内の学習院(1847年弘化4年3月に学習所として開講式)の扉に張り紙がしてあった。<転法輪三条中納言 右の者姉小路と同腹、公武御一和を名として実は天下之争論を好む者に付、急速隠居謹慎致さず候ては、旬日ならず天誅を加へ殺戮すべきものなり。>
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(左写真)当時は破約攘夷派のたまり場と化していた学習院跡  (右写真)北方向を望む 右側樹木の先に学習院 さらに姉小路卿の邸宅 当時は有栖川宮邸が奥突き当たりに見えていた

翌5月21日、朝廷は伝奏野宮宰相中将(定功)をして、姉小路卿の刺客捕縛の厳しい命令を発する。伝奏の命令は、京都守護職(会津・松平容保)から京都町奉行所、在京の各藩大名へ伝播する。同時に各藩に対し禁裏九ヶ門の警備を命じている。三条家に近い清和院御門には土佐藩が受け持ち、三条家の警護には土佐・薩摩二藩に各々10名の衛士の派遣を命じている。

土佐脱藩士那須信吾(同年8月に挙兵した尊皇攘夷派の天誅組の軍監 同9月24日戦死35歳)の証言で、刀の保有者が割り出されたが、その田中新兵衛こと田中雄平は、河上彦斎、岡田以蔵らとならび、「人斬り」と騒がれた薩摩藩士であった。姉小路卿横死を聞いた攘夷派志士らの悲憤は収まるところをしらず、肥後藩の轟武兵衛、宮部鼎蔵(ていぞう)、土佐の土方楠左衛門らが中心となり刺客探索を開始する。田中新兵衛の居所を突き止めたのは、土佐藩の吉村寅太郎(武市瑞山に師事し土佐勤皇党に名を連ねる。前年4月の寺田屋事件に連座し送還拘禁されていたが、姉小路卿暗殺の3ヶ月前の2月に再上京していた。同年8月の天誅組挙兵を公家中山忠光と主導するが、9月27日に自害。天誅組は壊滅する。27歳であった。)。吉村は乞食の体(てい)を取って追求したという。田中新兵衛は士族の出ではなく、薬種商人の息子。名目上、薩摩藩士・仁礼源之丞景範(にれかげのり・後に海軍中将)の家来となり帯刀を許されていた。手狭は京都藩邸から1町ほど北の東洞院通蛸薬師東の薩摩藩の買上げ屋敷(元は典薬頭の小森鉄之助の家)に、仁礼とともに居住していたところを探知されたのだ。京都守護職は、田中新兵衛発見の報告を受けるが、同じ公武合体派の薩摩藩に遠慮があり、朝命をもって呼び出す形で捕縛する。会津藩公用局・外島機兵衛が赴き、礼を尽くした上で主人仁礼と田中新兵衛、下僕の太平の3名を召し取ったのだ。事件の6日後の26日であった。
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(左写真)東洞院通側に置かれている薩摩藩邸跡碑 錦小路通側に門があったが東洞院通にも通用門が造られた 現在の大丸京都店の敷地とほぼ合致 (右写真)錦小路通側の門の付近
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(左写真)東洞院通から御射山(みさやま)公園越しに見た田中新兵衛らの捕縛地。 元・森鉄之助の家は蛸薬師通に面していたと推定。(右地図)薩摩島津屋敷と買上げ屋敷の位置関係。 

会津藩によって捕縛された仁礼と田中ら3名は、坊城家まで連行されるが、直後に身柄は京都町奉行所に移送され、取調べが始められる。江戸町奉行所は北と南に置かれていたが、京都町奉行所は東と西で構成されていた。1668年(寛文8年)7月、幕府は京都奉行所を正式に常置職としており(歴史学研究会編日本史年表)、京都所司代の指揮下で、東西各々に与力20騎・同心50人を配置。月番交代制で、姉小路卿暗殺事件当時は、東町奉行所の担当月であった。*「全殉職者名鑑」の田中新兵衛の記述では西町奉行所となっている(詳細不明)。
東町奉行永井主水正(もんどのしょう)尚志によって田中新兵衛の訊問がおこなわれるが、田中は暗殺を否認する。夕刻が迫る頃、姉小路卿が奪った刀が取り出されると、隙をうかがい、その脇差を奪って、腹・首を疵付け自決を図る。その模様は、京都守護職への委細届出書によって明らかである。医師が呼ばれ、傷口を縫合する療治がとられたが深手のため叶わず、と報告されている。田中新兵衛の名は、「島津内蔵 三足人 田中雄平」と記されている。

<<右ハ今廿六日御引渡御座候内ノ者ニ御座候。主水正御役所ニ為相控置候中、今暮前時分、自分帯居候脇差ヲ以テ、腹并(ならびに)首筋等疵付候ニ付、番之者共右脇差奪取早速医師呼寄、疵口為縫療治致候へ共、深手ニテ療生不相叶、相果申候間、組ノ者共検視為致候上、死体塩漬申付、尤番之者ハ、為相慎置、其段牧野肥前守殿ヘ申上、且私共儀心付方不行届、奉恐人候ニ付、控之儀伺書、御同人ヘ進達仕候。依之比段申上候。以上。 永井主水正>>
永井主水正尚志(なおゆき)は、1862年(文久2年)5月7日に東町奉行に就任し、定期異動は、事件翌年の1864年文久4年)2月9日(2月20日に元治に改元)。作家・三島由紀夫の母方の高祖父にあたる。戊辰戦争では榎本武揚とともに函館で新政府軍と戦っている。1869年(明治2年)5月15日に新政府軍に降伏した。
永井と同じ任期で西町奉行に着任した滝川具知は、退任後に大目付に就き、1865年(慶応元年)初頭の天狗党降伏に際して、敦賀での空前の大量斬首を命令している。

永井主水正の子孫である作家・三島由紀夫が書き送った手紙から。
<<(略)只今京都で勝新太郎と裕次郎と仲代達矢と四人共演の「人斬り」といふ映画に、田中新兵衛の役で出てをりますが、この役の交渉をうけてから面白くなって、この時代のものを大分よみました。よめばよむほど、現代との類似が目につき、こっちも多少、志士気取りになって来ます。明後日は大殺陣(おおたて)の撮影です。新兵衛が腹を切ったおかげで、不注意の咎(とが)で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛の役をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。では又お目にかかる時をたのしみにいたします。怱々>>
  鎌倉市浄明寺の林房雄に宛てた封書より。1969年6月13日付け。 
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東町奉行所跡碑。現在の奉行所跡の一部には、NTT西日本壬生別館の建物が建っている。奉行所門は東側だったのだろうか。敷地西側には与力らの役宅が並んでいたようだ。

この不祥事のため、奉行永井主水正は部下ともども、閉門、謹慎処分が申し渡されている。田中新兵衛の知人・吉田嘿(曇華院宮の家士・読みは「モク」または「もだす」か?)によると、田中の刀は事件数日前に、三本木(遊郭)辺りの料亭(吉田屋か茨木屋)ですりかえられたものだという。また吉田嘿は、刺客がみせた狼狽ぶりに疑問を呈している。実戦経験の豊富な田中新兵衛がみせる態度ではないと。田中新兵衛が関与したと思われる暗殺事件は、島田左近(九条家家臣)、本間精一郎(攘夷派)など計8件があげられる。
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(左写真)東町奉行所跡の北側。 (右写真)東町奉行所跡の西側と西町奉行所方向。

この暗殺事件により嫌疑を受けた薩摩藩は、御所を追われ(乾御門警備解任・薩摩藩士御所九門内往来差止め)、一時的に主導権を失うが、同年8月18日の薩摩藩と会津藩(会津が主導)による中川宮親王を擁した「公武合体派クーデタ」で一挙に勢力を挽回し、三条卿を中心とした急進尊攘派勢力を追い落す。8月19日、長州藩は堺町御門警備の任を解かれ、京都から追放。軟禁(禁足)された三条実美卿ら公家7人は、東山・妙法院から長州へと落ちた。
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薩摩藩下士・田中新兵衛(田中雄平 享年32歳)の墓所は、東福寺の塔頭即宋院にある(非公開)。写真は開山堂付近(左奥に即宋院)。

参考
「幕末維新全殉職者名鑑」新人物往来社1986年刊
「島津久光=幕末政治の焦点」講談社2009年刊
「京都時代MAP幕末・維新編」新創社2003年刊
「決定版 三島由紀夫全集38」新潮社2004年刊
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2014年05月03日

京都 阿国(おくに)歌舞伎踊 有吉佐和子「出雲の阿国」から

安土桃山時代に「出雲の阿国」と呼ばれた女芸能者が存在し、江戸期以来、歌舞伎の始祖とされてきたが、その実在を証明できる信頼性のおける史料は僅かである。同時代の公家・西洞院時慶( トキヨシ)(旧名は時通1587〜1639)の残した日記「時慶卿記( トキヨシキョウキ) 」の慶長5年7月1日ノ条(関ヶ原開戦寸前)に、、「クニ」と「菊」の名が書き留められているのみである。この日記には、公家としての日々の生活と禁裏での公務の模様などが、その死の年まで長きに渡り書き記されている。自筆原本は、天理図書館に1冊、西本願寺に19冊が所蔵されており、京都市北山の府立総合資料館には江戸時代中期の写本72冊(西本願寺蔵本より)が所蔵されている。
府立総合資料館貴重書データベースhttp://www3.library.pref.kyoto.jp/infolib/meta_pub/G0000013RAREBOOKS_190
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四条大橋北詰の元の北座西側に建つ出雲の阿国像
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(左写真)四条大橋東詰の南座 左奥に元の北座と出雲の阿国像 護岸工事もなされぬ以前の鴨川河原の柳の枝の合間にお国一座は小屋がけしていたのであろう (右写真)北山の府立総合資料館正面玄関奥の踊り場(写本を請求しても読解不能で写真撮影も不可なので目にしていません)

<近衛殿ニテ晩迄雲州ノヤヤコ跳、一人ハクニト云、菊ト云、二人、其外座ノ衆男女十人計在之>
雲州(出雲)のややこ跳(踊り)をするクニと菊、その他に座のもの男女十名、史実として確実なのは以上である。その生年、没年も不明。断片的資料を基にした推察や伝承から数多くの俗説が生まれ、虚像「出雲の阿国」が形成されてきたが、庶民大衆の間で「歌舞伎踊り」が支持されたことは間違いないのだ。
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史実として確証されている阿国がややこ跳(踊り)をおこなった御所内近衛殿跡(森となっている 白壁側は桂宮邸)(左右写真)
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(左写真)現在、京都南座の川端通側に「阿国歌舞伎発祥地の碑」が置かれている 右側の電柱下の所 説明板には<慶長8年((1603)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきをどりを披露しました> 
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現在の井筒八ツ橋本舗北座ビルの川端通角に置かれた北座跡碑 江戸初期に四条河原に存在していた芝居小屋七座のひとつ 南座と共に明治期まで残っていたが1892年(明治25年)の四条通拡張計画に伴い解体消滅した

戦国期(文禄・慶長年間)に堺の町衆だった高三隆達(たかさぶ・りゅうたつ)が節を付けて歌い広め、上方を中心として一大流行歌となった隆達節(りゅうたつぶし)という歌謡がある。織田信長が聞いたと窺える逸話(わらんべ草)も残されている。この隆達節が顕著に阿国の歌舞伎踊の歌詞に摂りいれられているのだ。
有吉佐和子の小説「出雲の阿国」(「婦人公論」1967年1月号から1969年12月号まで連載 中央公論社1969年刊)には、この隆達節を中心に様々な室町小唄が散りばめら、阿国の周辺に音曲の調べが流れるような効果を与えている。作品中に隆達節が計11首挿入されている。いくつかを拾い出してみる。
<ひと夜ふた夜となれそめて さても諸白髪 もろしらが>P50 この後、隆達節の説明が丁寧に記されている。
<末もとほらぬ 薄情中 うすなさけなか いまさら物思ひ>P51とお国も口遊ぶ。
<心なしとは それ候よ 冴えた月夜に 黒小袖>P201
伏見城を大地震が襲う描写に<竹の丸橋いざ渡ろう 瀬でも淵でも落ちば諸共に>P390 この歌は下巻P420にも2回採取されている。

晩年の阿国には、伝承すら多くは残っていない。小説の世界では、阿国は赤い大岩に足を砕かれ、舞い踊り続けられなくなってその一生を終えてゆく。
<お国の祥月命日は、一月二十五日、それはお国が十七歳のとき天満天神の鷽替(うそかえ)に出会したのと同じ月日であった。>有吉佐和子「出雲の阿国」から
出雲大社の近辺にクニ(阿国)のものと伝承される墓があり、京都・大徳寺塔頭の戦国大名細川忠興(ガラシャの夫)が建立した高桐院(こうとういん)にも墓が存在する。歴史の霧のなかから「クニ」があらわれたのは、慶長5年7月1日に御所朔平門外の近衛邸で舞い踊ったその時だけである。
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大徳寺塔頭の高桐院 説明板にも細川ガラシャの墓と並び出雲の阿国の墓が銘記されているが場所は不明(非公開?)だった 千利休の邸宅を移築したと伝わる書院から江戸初期作庭の庭を眺める

隆達節を聞ける最近の映像作品は、NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」(2011年放送)第10話の柴田勝家が自決する前夜の宴のシーンなのだが、そのDVDが行方不明。録画した記憶はあるのだが。
参考
小説「出雲の阿国」(上・下)有吉佐和子 中公文庫2002年改版
「戦国時代の流行歌 高三隆達の世界」中公新書2012年刊
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2014年04月22日

京都 朱雀大路 羅城門跡

円融帝の御代の天元3年(980年)7月、都は暴風雨に襲われ、諸門諸司の被害は著しく、朱雀大路の平安京正門である羅城門(らじょうもん)も例外ではなかった。翌天元4年9月には新造なった内裏(前年11月焼失)もわずか1年余で炎上し潰えてしまう。この頃より洛中のいたるところに盗賊が出没し(出典:岩波書店「日本史年表」)、華麗なる都(みやこ)は見る影もなく寂れはててしまう。二重閣の壮大な羅城門も荒れ果て、死者の捨て場と化してしまっている。この不気味な羅城門の姿は、旧記に数々の怪奇譚としてものにされ、今日にまで伝えられている。そのうちのひとつ、「今昔物語集」巻第二十九の第十八を引用してみる。この原典が芥川龍之介の短編「羅生門」の主たる題材となっている。
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(写真)羅城門遺址碑(明治28年3月建立)。羅城門があった九条大路(12丈=約36m幅)は、ほぼ失われ、住宅街となっている。壮大な羅城門の西端部分にあたる位置に現在、花園児童公園が設けられており、遺址碑が建っている。現在の住居表示は、京都市南区唐橋羅城門町。

「今昔物語集6 本朝部」東洋文庫1968年平凡社刊より 
巻第二十九「羅城門の上の層に登り死人を見た盗人の語(こと)第十八」
<<今は昔、摂津国(大阪府北西部・兵庫県南東部)のあたりから、盗みをするつもりで京へ上ってきた男が、日がまだ暮れないので、羅城門の下に隠れて立っていた。朱雀大路の方へ人々が頻繁に通っていくので、人通りが静まるまでと思って門の下に立って待っていたが、そのうち、山城(京都府南東部)の方から大勢の人が近づいて来る音がしたので、彼らに見られまいと思って、門の二階にそっとよじ登った。見ると、燈火が小さくともしてある。
盗人が不審に思って連子窓(れんじまど)からのぞいて見ると、若い女の死体が横たわっている。その枕もとに火をともして、ひどく年老いた白髪頭の老婆が、その死体の枕もとに坐り込み、死体の髪の毛を手荒く抜き取っているのだった。
盗人はこれを見ると、どうも合点がいかず、もしや鬼ではあるまいかと恐ろしくなったが、ひょっとしたら死人が生き返ったのかもしれぬ、ひとつ、おどかして試してやろうと思い、そっと戸を開けて、刀を抜き、
「こいつめ、こいつめ」と言って走り寄った。
すると、老婆はあわてふためき、手をすりあわせてうろたえる。盗人が、
「お前は何者だ。婆はなにをしているのだ」と尋ねると、老婆は、
「私の主人であられました方が亡くなられまして、葬いなど始末をしてくれる人もありませんので、こうして、ここにお置きしているのでございます。その御髪が丈(たけ)に余るほど長いものですから、それを抜き取って鬘(かつら)にしようと抜いておりました。どうぞお助けくだされ」と言う。
そこでこの盗人は、死人の着ている着物と老婆の着衣とを剥ぎ取り、抜き取ってあった髪の毛まで奪い取って、駆け下りて逃げていった。
ところで、その門の二階には死人の骸骨がごろごろしていた。葬式などの出せない死人を、この門の上に捨てて置いたからである。このことは、その盗人が人に語ったのを聞き継いで、このように語り伝えたとのことである。>>(全文)

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(写真)羅城門基壇付近。写真の右奥に見えるマンションから奥(公園東南)付近に羅城門がそびえ建っていた(推定)。延暦13年(794年)10月、桓武帝が新京に移り、翌月になって都の正式名称を平安京とする。その平安京成立から186年後、都の正面玄関である巨大な楼門は、暴風雨により倒壊、以降建て直されることはなかった。

「都名所図会」安永九年(江戸期1780年)から「羅城門の旧跡」の項。
<<羅城門の旧跡は朱雀通り(いまの千本通りなり)四塚(よつづか)にあり。この門は桓武天皇平安城造営のとき、初めて建てたまひけり。大内裏(だいだいり)の南面にして、外郭の総門なり(楼上に毘沙門天を安置す。これ伝教大師(最澄)の作なり。いま東寺の観音堂にあり)。(略)>>
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(写真)羅城門遺址碑の傍らに設けられている京都市の説明版(復元イラスト)から。
イラスト右上方向が北で、広大な道が平安京のメーンストリート朱雀大路。幅は28丈(約84m)であった。
左右が九条大路(幅36m)。このイラストから羅城門の横幅を推定すると60m以上になるようだ。基壇の南外側は溝(濠)で囲まれており、朱色の欄干が見える。これが地名に残る唐橋なのだろうか。発掘調査は行われているが、規模等は依然として未確定。
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2014年04月20日

京都 東山 縁切り縁結び碑(いし) 安井金毘羅宮

<京都の町をそぞろ歩いていたら、奇妙な神社に迷い込んだ。「安井の縁切り神社」という看板が出ている。なんだろうと思い、赤い鳥居をくぐって境内に入っていくと、玉砂利を敷き詰めた細長い空間に、ぎっしりと無数の絵馬が並んでいた。絵馬を吊るす棚がずらりと奥まで続く。その木枠に鈴なりにさまざまな絵馬がくくりつけてある。たくさんありすぎてなんだか不気味だった。>
   田口ランディの短編「縁切り神社」の冒頭から
田口ランディ氏(女性)の描くストーリーはその絵馬から展開してゆくが、この神社を訪れる(近所を通る)たびに、別の「なにかの不気味さ」を感じてしまう。地の底に潜む「不気味な何か」が伝わってくる。かすかに揺すられるような「震動」を感じてしまうのは自分だけであろうか。その震動は、本殿の北方150mに置かれた崇徳天皇の御廟(遺髪塚)から安井金比羅宮(崇徳上皇を祀る)に至る地中に潜む崇徳上皇の「怨霊」が起こしているのだと確信する。
  自分「なんか揺れてるよな?」
  Eちゃん「工事やってないし、バスが通るせいやな、」
1156年(保元元年)7月、朝廷の内紛から武力衝突が起こる。崇徳(すとく)上皇は後白河天皇との戦いにわずか一日の戦いで敗れ去る(保元の乱)。敗れた崇徳上皇は仁和寺に出頭、乱から10日後には讃岐(四国)へ配流となる。崇徳上皇は再び都へ戻ることなく、1164年(長寛2年)8月26日に46歳で崩御する(暗殺説あり)。遺骸は火葬された後、白峯陵(香川県坂出市青海町の白峰山山頂の崖際)に葬られるのだが、上皇の怨念はすさまじく、高屋神社の辺りで棺(ひつき)からは血がにじみだし「血の宮」となり、火葬された遺煙は山麓にさまよい「煙の宮」(青海町稚児ヶ嶽の麓)を作りだす。翌年、讃岐の金毘羅宮は崇徳上皇の霊を祀るのだが、4年後の仁安3年、崇徳上皇に仕えていた西行法師(法名は円位)が荒廃した白峯陵を詣でた際、崇徳上皇の怨霊が悪魔の形相で現れ、西行と激論をかわす(「雨月物語」巻之一 ちくま学芸文庫版P38にその場面の挿絵あり)。1177年(安元3年)になると都周辺は不穏な状況となり、崇徳上皇の怨霊が問題視され始める。前年から後白河院に近い人々の死が頻発し、この4月には京都の大火により大極殿が焼け落ちてしまう。1185年(寿永4年)ついに崇徳上皇の怨霊(私怨)は、西の海(壇ノ浦)に平氏一門を漂わせ滅ぼしてしまう。崇徳上皇が西行に語った予言はすべて歴史の真実となったのだ。かって崇徳上皇に仕え寵愛された阿波内侍(あわのないし)が、上皇の遺髪を貰い受け、塚を築き納めたその場所が、白峰神宮が管理する上記の崇徳天皇御廟(祇園新地甲部歌舞練場の裏手)といわれる。安井金毘羅宮を訪れるなら「崇徳上皇御廟の説明板」も必読なのだと強調する。 *上田秋成「雨月物語」(安永5年刊)の「白峯」を参照

  Eちゃん「ねえ、わかったから、早く縁切り縁結びのとこいこう」    
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安井金比羅宮の金比羅会館前に置かれた縁切り縁結び碑(いし) 願い事が書かれた「形代」がびっしりと貼られている 願い事を書いた「形代」を手に願い事を念じながら碑の表(表と表示された石がある)から裏へ穴をくぐる これで悪縁を切り次に裏から表の方へくぐり良縁を結ぶ 最後に「形代」を碑に貼るのだ (右写真)東大路通の大鳥居には「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」の横断幕
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(左写真)左奥に拝殿(本殿) 右は絵馬館前の藤棚 村上天皇の「安井の藤」碑が置かれる (右写真)田口ランディの「縁切り神社」の女主人公は無数といえる絵馬の中に自分の名を見つけることにより心の闇に陥ってゆく・・・
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(左写真)「形代」には実名・住所が神様に人違いされぬようしっかり書かれている 悪縁切りの側の文字が濃く強く書き込まれているように見えてしまう (右・下写真)神社の縁起と縁切り縁結び碑の説明は各々の板を参照してください
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(右写真)縁切り縁結び碑前のEちゃん・・ついにくぐらず仕舞い 「だってスカートだからくぐれないもん」 周辺を見回すとカメラを構えた観光客だらけだった 
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参照
田口ランディ「縁切り神社」(短編集)幻冬舎文庫2001年刊
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2014年04月18日

京都 芥川龍之介と宇野浩二の女買いの顛末記

ダイレクトなタイトルだが、そのままの行状であり、それ以外には何もないのだから仕方がない。芥川龍之介は、その名を「芥川賞」に冠された御方であり、宇野浩二は、作家・水上勉のお師匠さん。二人は、後年の「狂気」でも共通項を共有する親友である。
1920年(大正9年)の初冬、二人そろって京都祇園に近い宮川町遊郭に<芥川龍之介の主導>で登楼している。その際の顛末記です。
ネタ元は、宇野浩二の評伝「芥川龍之介」。かなり詳細に記されている芥川龍之介の年譜を繰ってみても、「宮川町遊郭」の文字は表われてこない。下世話な記述は省いているのだろう。
芥川と宇野が出会ったのは、前年(大正8年)7月下旬の万世橋駅2階の料理店「みかど」で催された江口渙(えぐちかん)の第一短編集「赤い矢帆」の出版記念会の席で、この京都での遊興の頃には、1年4ヶ月ほどが経っている。
大正9年11月16日から、芥川龍之介(29歳)と宇野浩二(29歳)は、久米正雄や菊池寛(文芸春秋社創設)、田中純らと共に、主観社の主催で関西講演旅行に出かける。コーディネーターは編集者の植村宗一(後の直木三十五)で、場所は大阪・中之島中央公会堂であった。19日に芥川龍之介は「偶感」と題して講演を行うが、宇野は一度も壇上に立っていない。文芸講演の予定が終了した21日夜7時頃、一行は京都に着く。ここで芥川と宇野の二人は、先斗町(ぽんとちょう)の茶屋に直行する。知人と合流し、その茶屋に泊る手筈であったのだが。その後・・・・。
<せまい先斗町を南のほうへあるきながら、私が、無言で私の半歩ほど前を早足であるいて行く芥川に、「どこか、とまるとこ、知ってる、・・・・どんな宿屋でもいいよ、」と、いふと、芥川はしだいに足を早めてあるきながら、ちょいと私の方をふりむいて、「宮川町へ行かう、」と、いった。>
*引用はすべて宇野浩二の評伝「芥川龍之介」から。先斗町と宮川町の位置は下の地図を参照してください。
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(左写真)鴨川の松原橋から上流の旧宮川町遊郭を望む 上流に架かる橋は団栗(どんぐり)橋 赤丸位置付近が芥川らが訪れた貸座席跡(名称不明) (右写真)団栗通(団栗辻子) 奥が団栗橋で左手前の路地(宮川筋)を入って25mほで先の右側に芥川らが遊んだ貸座席の玄関があった 宮川筋1丁目は祇園町区域に属したため娼妓はいない 遊郭は宮川筋2丁目から7丁目までと西御門町を足した区域であった 大正15年の集計では貸座敷数329と娼妓数272人 また京都の遊郭の中では唯一「陰間茶屋」(男色)が集り江戸期を通して常に80人ほどの色子が存在していた 元禄年間に大石内蔵助父子が陰間となじみになったというエピソードが残る 

<ところが、芥川は、四條大橋をわたってから、すぐ右へまがらずに、まっすぐに、南座の前をとほり、縄手通りを横ぎり、祇園新地を東の方へ、すすんで行った。さうして、縄手通りから半町ほど行った四つ辻の右の手前の角の、軒につるした赤い細長い提燈とうす暗い陳列窓に妙な特徴のある、うすぐらい、何ともいへぬ異様な感じのする、家のなかに、芥川は、つかつかと、はひって行った。>
<芥川は、その家で、自分は、張型(「ハリカタ」)といふものを買ひ、私には、「君は、大いに刺激させる必要がありさうだから、・・・・・」と、いって、「アポロン」といふ薬を買ふことをすすめた。「張型」は、茶色のゴムで、形は懐中電燈の形であるが、大きさは、懐中電燈の半分ぐらゐである。(しかし、芥川は、その翌日の昼頃、新京極の喫茶店の隅で、それを私に見せながら、「これに湯を入れると、この倍ぐらゐになるよ、」といった。)>
芥川が入ったのは「四目屋」という現在では精力剤や大人のおもちゃを売る18禁アダルトグッズの店なのだ。縄手通(大和大路通)から半町(約50m強)ほどの京土産屋などが居並ぶ商店街を一応は探してみたが・・・。芥川がその店で買ったものは、張形(現在の呼称はディルド・電動が主流)、しかも翌日、眼光鋭い鬼才・芥川龍之介と文学の鬼・宇野浩二が喫茶店の片隅でひそひそ話・・・何を話しているのかというと、張形の品評会。
<さて、四目屋を出ると、芥川は、無言で、道をいそいだ。(略)やがて、宮川町に来た。宮川町の茶屋は、どの家も、三階だてで、しかも、一階も、二階も、三階も、みな、細目の格子づくりである。さうして、それらの家家は、両側に、すき間なしに、たってゐる。(略)芥川は、宮川町にさしかかってから半町の半分ほども行かないうちに、右側の一軒の茶屋の格子戸をあけて、すばやく、中に、はひった。しぜん、私も、芥川のあとから、つづゐた。>
<やがて、三十分ぐらゐしてから、二人の女が、三分ほどのちがひで、前後して、(三階の部屋に)あらはれた。(略)芥川が、私のそばに来て、私の耳もとで、「君、わすれないで、さっきの「クスリ」を、のめよ、と、いった。それから、芥川は、部屋の隅の方でちょこなんと座ってゐる二人の女のうちの瘠(や)せた女の方にむかって、「おい、ゆかうか、」と、いふと一しょに、立ちあがった。さうして、芥川は、私の方をむいて、「ぢゃ、しつけ、」と、いひのこして、さっさと、部屋を、出ていった。すると、やせた女は、あとに残された者になんの挨拶もしないで、芥川のあとを追ふやうに、これも、さっさと、出ていった。>
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(左写真)四条通祇園南側の「四目屋」があったと思われる付近 (右写真)宮川町のお茶屋が密集する路地(宮川筋4丁目) 宮川筋2丁目の芥川らが遊んだ貸座敷の位置にはビルが並び当時の風情はない

ここで宇野は、前日、大阪の堀江で菊池寛と散歩中に彼が「アポロン」を買ったことを思い出す。菊池はカン高い声で「きかなかったら、定量の二倍でも三倍でものむほうがいい」と言っていたことを。
<芥川の選択によって私にのこされた女は、芥川の女とはなにからなにまで反対で、背のひくい、まるまると太った、女であった。> そして、女の目をぬすんで、宇野は「アポロン」を定量の三倍、菊池寛の助言通りに飲み込む。宇野は、越後生まれの太った女にハダカにされた頃、異様な尿意をもよおしはじめる。宇野は三階の部屋で尿意を我慢できず、地下の便所まで四階分の階段を下りる。また、三階の部屋まで戻ると、すぐさま尿意に襲われる。太った女を振り払い、またしても地下まで下る、芥川の部屋のほうからは「アッッ」と女の声が。宇野は、度重なる四階分の階段の上り下りに、ついに疲労困憊し、階段をはいずりはじめ、途中の階の空き部屋に倒れ込み、眠ってしまう。
<目をさまして、地下室の便所にはひった時、ふと、窓ガラスをすかして、見ると、すぐ目の下に、加茂川の水が(琵琶湖疎水の水が、)冷たい色をして、はげしい勢ひで、ながれてゐる。>
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(左写真)宇野が翌早朝に眺めた宮川筋2丁目の疎水は暗渠となり道路の下を流れている 写真は同時期(11月)の宮川筋4丁目近辺 (右写真)団栗通から約25mの場所に彼らが遊んだ貸座敷=赤点 ○位置には現在「と、いうわけで。」という名のラブホがある

翌朝、芥川と宇野は茶屋をでて、四条大橋を西側に渡り、四条通から烏丸通へと歩き、歩き疲れて新京極の盛り場にある喫茶店に入った。この頃には、出そうで出ない苦しみは次第にうすらぎ、宇野は、昨夜の困った話を長々と詳細に芥川に語る。宇野がその辛かった症状を語る間、芥川はニヤニヤ笑いを頬に浮かべている。芥川は「アポロンを定量の三倍はのんだのだろう」とずばりと言い当てる。芥川は「菊池も昨夜、同じような症状に悩まされたかもしれないよ」と茶目らしい笑い方をするのだ。ここではじめて、「おれも、やった事があるからだ」と芥川は白状するのだった。
<ところで、昨夜、君の部屋の方で、夜中に、アツツ、といふような声が、聞こえたが、あの、アツツといふのは、何だ。」「あれか、・・・・」と、芥川は苦笑しながら、いった。「あれは、君、ハリガタにいれた湯が熱すぎたので、ちょいと吾妹(わぎも=女)が悲鳴をあげたんだよ。・・・・」>
最悪のコンビである。芥川はお湯を入れて肌温にして使用する張型に熱湯を注いで女に挿入する失態、宇野は芥川にだまされて、精力剤を定量の3倍を飲んで体調異変。さらに芥川は、文芸春秋社(芥川賞・直木賞主催)を創設した親友・菊池寛についても、「アポロン」以外にもその性癖を暴露している。話が「女買い」から脱線してしまうので、別の項目でということにする。これは伏せておきたかったが、宇野浩二は11月6日に大阪・宋右衛門町から転籍し、11月16日に村田キヌ(絹子)を入籍させている。その5日後に「アポロン」事件を起こしたのだ。

参照
「宇野浩二全集 第十一巻」(「芥川龍之介」)中央公論社1973年刊
「芥川龍之介 作家読本」河出書房新社1992年刊
リンク
湘南・鵠沼 旅館東屋での狂気の交差 宇野浩二と芥川龍之介http://zassha.seesaa.net/article/386256370.html

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2014年04月13日

京都 京料理 本家たん熊(高島屋店)

きょうの昼飯、何にしよう。御幸町通のカフェで軽くランチをとろうか、錦市場近くのそば屋で冷たいとろろそばにするか、迷いながら足の向く先は結局、四条河原町の高島屋。
高島屋京都店7階のレストラン街「京回廊」(お気に入りの三店がある)を巡れば悩むことなく昼飯にありつけます。その内の一店、京料理「本家たん熊」(支店は高島屋店のみ)の料理ですが、毎回のごとく飽きずに注文するのが「松花堂弁当」(2415円)か「幕の内弁当」(1575円)。同じ写真ばかりだ。 *単価は2014年3月以前
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鴨川と高瀬川にはさまれた木屋町通沿いに本店を構える京料理「本家たん熊」(下京区木屋町通仏光寺下ル) 1928年(昭和3年)12月に京都で創業 初代・栗栖熊三郎が考案した「すっぽんの一人鍋」が名物 鴨川を望む東側にはもちろん川床が設けられます(期間はお決まりの5月1日〜9月30日) 写真は店前を通った折に撮ったもので もっぱら食事は高島屋店でのみ
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(左写真)本家たん熊本店の暖簾 文豪・谷崎潤一郎・吉井勇らが訪れた「たん熊北店」(西木屋町)とは直接のつながりはない 初代・栗栖熊三郎の長女が受け継いだのが「本家たん熊」で長男の系統が「たん熊北店」 現在この2店が京都の名店として営業を続けている 故に両店とも創業を1928年(昭和3年)12月13日としている (右写真)高島屋7階の「京回廊」 
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(左右写真)京回廊の本家たん熊高島屋店の入り口
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料理名はほとんど記憶にない ふらっと訪れて適当に注文していたため「月御膳」「雪御膳」「幕の内弁当」などの名を思い出すのみ
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2014年3月にはじめて頂いた鯛茶付け 店内は落ち着いた雰囲気で買い物がてら訪れる一人客が多く男一人でも気軽に入れる
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(左写真)初代の長男が受け継いだ西木屋町のたん熊北店(たんくまきたみせ) 奥が高瀬川に架かる紙屋橋 (右写真)八坂神社境内のたん熊北店の献燈

京料理 本家たん熊 HP http://www.tankuma.jp/
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2014年04月11日

京都 ジャズスポット YAMATOYA 五木寛之「燃える秋」から

<桐生亜希が、その青年をはじめて見かけたのは、祇園祭の宵山の雑踏のなかであった。その年の夏、二十七歳になった亜希は、ひとりで京都へ三日間の小旅行に出かけた。>
五木寛之の小説「燃える秋」の冒頭です。亜希が何の目的で、何をもとめて訪れたのかは小説を読んでいただくとして、亜希は涼しくなった夕方、ジーンズのスカートに紺のTシャツという美大時代に愛用した服装で外出する、行き先は東山丸太町交差点付近。
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<聖護院(しょうごいん)の洋食屋で軽く食事をすませた亜希は、再び市電の通りをもどって、YAMATOYAへコーヒーを飲みにはいった。その店は表通りから少し引っこんだ小路の右側にあった。関西のジャズの愛好者たちの間ではよく知られている店で、二階と下の階とに分れていた。亜希は以前、友人に連れられてその店の二階のほうにいったことがあった。二階ではややハードなジャズを、一階のほうでは比較的スタンダードなジャズを聴かせるようになっている。亜希は店の前で少しためらってから、一階のドアを押した。> 五木寛之「燃える秋」角川書店1981年刊より
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(右)小説に描写されたYAMATOYA(1970年開店)は解体され新ビルに建替え 2012年10月工事中当時(右奥)
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2013年3月1日リニューアルオープン 2階と1階とに分れていた店は1階のみの営業スタイルに変わった 昔日のジャズ喫茶の雰囲気はない お勧めの席はママさんと気軽に会話が楽しめる広く重厚なカウンター
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左奥壁際の棚に数千枚のLP盤が収蔵されている
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ジャズスポットYAMATOYA 営業時間・定休日等はショップカード参照(左端写真)
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2014年03月28日

京都 宇治の桜 源氏物語宇治十帖「浮舟」より

源氏物語全五十四帖は、光源氏が亡くなったあと、宇治周辺を舞台にした最後の十帖(宇治十帖)へと物語は移ってゆく。光源氏の子、薫君は26歳の春を迎えている。薫君と光源氏の孫にあたる匂宮の二人の男に身を許した浮舟の悲恋が、宇治川の流れに小舟がただよい何処かへ消え去ってゆくがごとくはかなく語られる。
<「これが橘の小島」と申して、しばらく舟人が棹を突きさしてお舟を留めたあたりを御覧になりますと、大きな岩のような形に、洒落た常盤木(ときわぎ)がこんもりと繁っています。「あれを御覧なさい。まことにはかない木ですけれども、あの、千年(ちとせ)も変わらない緑の色の深いことを」と仰せなされて、
  年ふともかはらんものか橘の こじまのさきに契るこころは
女も、何だか珍しい旅に出たような心地して、
  たちばなの小島はいろも変わらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ >
          谷崎潤一郎訳「源氏物語 巻五」「浮舟」より
匂宮は、浮舟を宇治川の橘の小島を舟から見せたあと、対岸(平等院側)の隠れ家へと自ら抱きかかえて誘う。宮は浮舟の衣を脱がしほっそりとした体つきを愛らしく思い、打ち解けてゆく。その後、二人は宇治川のせせらぎを聴きながら二夜の愛に溺れてゆく。
「源氏物語」の舞台を桜色に染めるこの季節に訪れることは、心まで華やかになります。「浮舟」のような女性がかたわらにいたなら・・・
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宇治川の中洲の橘(たちばな)島 右上流に橘の小島だと想定される塔の島(十三重石塔が置かれている)に続く
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平等院側の宇治川の堤 宇治の山里は春の光に桜色に煙る
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橘(たちばな)島へ渡る橋(橘橋) 対岸へ繋がる赤い朝霧橋を渡った袂の宇治神社前には宇治十帖のモニュメント 薫君と寄り添う浮舟の像が置かれている(平成7年3月建立)
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宇治神社側の宇治の流れに面した橋寺放生院 散り落ちた桜花が境内を染めている 放生院境内には宇治橋断碑(重要文化財)が置かれています(拝観有料)
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谷崎潤一郎訳「源氏物語 巻五」中公文庫1982年版より 「浮舟」のシーンが表紙(画・白井晟一) (右写真)平等院通りの老舗・菓子司「能登掾 稲房安兼」で春の季節を満喫 「掾(じょう)」の文字は江戸期(嘉永2年)に御室御所より御免の事の墨書を下賜された証(御所出入り許可) 定休は木曜
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(左写真)朝霧橋(後ろの赤い橋)の宇治十帖「浮橋」のモニュメント(台座が舟型) (右写真)宇治橋西詰の紫式部像と宇治十帖の「夢浮橋」碑(手前・源氏物語の最終章)
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2014年03月07日

京都 朱雀大路 東鴻臚館址

元島原遊郭の揚屋・角屋(すみや)(1641年築・下京区西新屋敷揚屋町32番)の板塀に沿って「東鴻臚館址」(ひがしこうろかん)の石柱と説明碑が設けられている。「東鴻臚館」の碑が建つ位置は、かっての広大な東鴻臚館の敷地のほぼ北西角付近と推定される。その敷地は、南北に長い長方形(約350m×約150m)で、北辺は六条大路、南辺は七条大路、西辺は平安京のメーンストリートの朱雀大路(=現在の千本通)、東は坊城小路であった。
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「源氏物語」第1帖<桐壺>に「鴻臚館」の名が登場する。
国学院大名誉教授の今泉忠義氏の訳本から抜萃。
<<その頃来朝した高麗人(こまうど)の中に、すぐれた人相見がいるそうなと帝はお耳になさったが、外国人を宮中にお呼び寄せになることは、宇多天皇の御遺誡(ごゆいかい*外国人の接見の際は、御簾(みす)の内にいなくてはならぬ決り)にも禁じてあるので、随分人目につかないようにして、この若宮をその宿舎の鴻臚館におやりになった。(略)ところが人相見は目を皿のようにして、何度も何度も首をかしげて不審がっている。「この方は国の親となって、帝王という最高の位に当然昇るはずの人相・・(略)」>>
宮中では高麗人の人相占いを受けることができない若宮(光源氏)が、ひっそりと訪れた場所が「鴻臚館」だった。
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時代が下って江戸時代初期(寛永年間)になると「鴻臚館」跡(一部)には幕府公許の遊郭が開設(1641年に六条三筋町から移転)される。遊郭名「島原」は、開設される3年前に鎮圧された島原・天草の乱から冠せられたという説が有力。島原遊郭の全盛期は、元禄15年(揚屋・茶屋を合わせて70軒、太夫だけで38人おり、端女郎まで含めると1019人=「日本遊里史」)で、現在の「角屋」と並ぶ規模の妓楼が軒を並べていた。1854年(安政元年)8月の大火で、島原六町のうち四町が全焼し、ほとんどの揚屋置屋は焼失している(桔梗屋・京橋橘屋・三文字屋・海老屋・丁子屋など寛永年間に建てられた名妓楼群)。
「東鴻臚館址」碑に与謝蕪村の句<白梅や墨芳しき鴻臚館>が併書されているが、蕪村と平安京の鴻臚館の関りというより、その跡地に建てられた揚屋「角屋」との結びつきに由縁するのだろう。「角屋」の主人徳野(とくや)と女郎屋「桔梗屋」の主人呑獅(どんし)は、蕪村の俳友であるとともにパトロンでもあった。この二人は江戸の俳人・炭太祇(たん・たいぎ)の門人だが、後年には蕪村の後援者となっていた。「角屋」には、現在も蕪村の絵画(襖絵)が保存されている。
蕪村には<白梅や墨芳しき鴻臚館>以外に、「白梅」という白色を指定した句がある(全6句)。そのうちでよく知られているのが蕪村辞世の句<しら梅に明る夜ばかりとなりにけり>(参考 「蕪村春秋」高橋治)。
蕪村は晩年、京に在住しており、その一部の住居を記すと、<1768年53歳 四条烏丸東入ル><1771年56歳 室町通綾小路通下ル><1775年60歳 仏光寺烏丸西入ル>。蕪村の墓は、(左京区の)白川通一乗寺から東に入った山裾の金福寺にある。松尾芭蕉が一時寄寓したこともあるこの寺で、蕪村は芭蕉庵を修築し、芭蕉を称える碑を建て、その庵のかたわらの墓で眠りについている。蕪村には妻とも、娘くのがいたが、その墓は見あたらない。
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左側が江戸初期(1641年)に建てられて、ただ一軒残存する揚屋「角屋」。幕末には新選組の面々が度重ねて訪れ、玄関脇に刀傷まで残している。局長・芹沢鴨は暗殺されるその夜、「角屋」で最後の宴を催していた。
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参考
「源氏物語 全現代語訳(一)」講談社学術文庫1978年刊
「平安京の暮らしと行政」山川出版2001年刊
「蕪村俳句集」岩波文庫1989年刊
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2014年03月05日

京都・西陣 菓子司 本家玉寿軒

1865年(慶応元年)創業の菓子司。しばらくは菓子と西陣織の織物業(織屋)を兼業していたが、明治期に菓子専業になった。創業地は、暖簾分けした千本玉壽軒が店舗を構えている場所(上京区千本通今出川上ル)。本家玉寿軒は、大正年間に現在地(上京区今出川通大宮東入ル)に移転している。
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妙心寺初代管長が名付けた屋号「玉壽軒(たまじゅけん)」 「本家玉壽軒」は今出川通に面しており 店舗脇にバス停(市バス今出川大宮)があり便利
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店内は老舗らしい重厚で落ち着いた雰囲気 (右写真)今出川通の斜め向いのレトロな京都市考古資料館の建物(玄関右脇に巨大な「西陣」の板碑有り)がショーウィンドー に写っている 京の大寺院(妙心寺・大徳寺・南禅寺・龍安寺・金戒光明寺)の御用達として永く菓子を納め続けている
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「紫野」と名付けられた和三盆入の落雁(らくがん)で甘さと大徳寺納豆(味噌納豆)の辛さが合わさった大人の菓子 大きさは小粒で一口大 6個入294円(30個入1260円)
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ほのかな抹茶の香りとしっとりとした胡麻こし餡を楽しめる「茶つう」(半生菓子) 上に添えられた黒胡麻がアクセントで本家玉壽軒を代表する菓子のひとつ 1個105円
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色彩豊かな可愛らしい飴菓子「お花畑」箱入り945円

菓子司 本家玉壽軒
京都市上京区今出川通大宮東入ル
営業時間 8時30分〜17時30分
定休日 日曜・水曜
出店は、四条河原町交差点の高島屋(地下1階)や四条烏丸に近い大丸、京都駅駅ビル(The CUBE)等。
*千本玉壽軒http://zassha.seesaa.net/article/384198319.html
 
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2014年02月19日

京都粟田山 辻野旅館跡 与謝野晶子「みだれ髪」より

現在では「辻野」という旅館の名は忘れ去られ、その痕跡さへ失われている。年に数日のみ立入りが許可される蹴上浄水場の中腹の台地に建つ歌碑のみが、その跡地を伝えている。此処こそが与謝野晶子の第1歌集「みだれ髪」に収められた多くの歌が生まれた記念すべき地。晶子の本名(旧姓)は、「鳳(ほう)志よう(しょう)」。「しょう」に因みペンネームを「晶子」としている。
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その歌碑に刻まれた「御(み)目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」は、1906年(明治39年)9月発航の歌集「愛の華」に収められた晶子の歌(作歌年不明)。朝靄のたなびく右手前方の若王子山から鬱蒼とした山裾の森に佇む南禅寺三門・永観堂禅林寺・知恩院の堂宇、さらに遠く靄に霞む黒谷の聖護院、「辻野旅館」で朝を迎えた晶子の眼にした幻想的ともいえる京都の風景を回想した歌。
*知恩院・聖護院は写真の左枠外。左手前は蹴上浄水場の施設。

1899年(明治32年) 晶子20歳(12月7日に21歳) 
 与謝野鉄幹(與謝野鐵幹)、白蓮女学校(徳山村)の教師時代の教え子で卒業生の浅田信子(さたこ・明治4 年11月出生=生徒簿より・長女)と同棲。
 浅田信子、鉄幹の子ふき子を出産(8月6日)するが約1ヶ月で死去(9月17日私生児として届出)。浅田家(父親=義一郎)の反対を受け疎遠になり離別(10月初旬前に)。
 信子はその後、東京に留まり教員資格を得て数十年にわたり各地で教職に就いている。
 鉄幹が徳山の白蓮女学校の国漢担当教師になったのは、その経営が徳応寺であり、甥が同寺の住職だったこ とに拠る。
 *白蓮女学校は明治23年に私立徳山女学校と改称
 10月末 信子と別れた鉄幹は、同じ白蓮女学校出身(明治26年卒業)で2度目の内縁の妻となる林滝野(た きの)と麹町区上六番町45番で同棲(内祝言をあげた後に伴って上京)を始める。
 *林滝野の実家は山口県佐波郡出雲村1000番屋敷(現在の徳地町)
 11月3日 与謝野鉄幹自ら社幹として東京新詩社を創立。
 この年、晶子は浪華青年文学会(後年、関西青年文学会と改称)の堺支会に入会。

1900年(明治33年) 晶子21歳
 1月 鳳晶子、浜寺での「関西青年文学会」の新年会に出席(紅一点)。
 4月 東京新詩社の機関誌「明星」創刊(主筆・与謝野鉄幹)。発行兼編集人は林滝野(第1〜5号まで)。
    「明星」において北原白秋・吉井勇・石川啄木らを見出し、日本近代浪漫派の中心的存在となる。
 5月 「明星」2号に鳳晶子、短歌「花がたみ」6首を発表。晶子、「明星」社友となる。
 8月3日〜19日 与謝野鉄幹、関西に新詩社の拡大運動を兼ねて講演旅行。
  3日大阪に 5日大阪で新派和歌の講演会・歌会 
  6日浜寺・寿命館で鉄幹の歓迎歌会開催(晶子・登美子参加) 
  7日神戸で講演会 
  8日北浜の平井旅館で臨時歌会 晶子・登美子も参加 鉄幹と翌日の散策約す
  9日鉄幹・晶子・登美子らで住吉大社を訪れる
  10日岡山に  
  11日岡山講演会 
  15日再度大阪に 浜寺の寿命館で歌会 鳳晶子・山川登美子も同席
    <晶子「十五日、ゆめの如き再会は松青き高師の浜〜」(「わすれじ」より)
   *鉄幹は、この間の8月12日か8月16日〜20日のいずれかの日に林滝野の実家のある出雲村を
    訪れている。
 9月23日 林滝野、鉄幹の子「萃」(あつむ)出産。
 9月12日 「明星」6号大刷新。5号までは新聞紙形式のタブロイド版であったが大型の雑誌形式に
     替わる。6号から発行兼編集人名が林滝野から鉄幹本人名となる。
 10月27日 鉄幹、大阪北浜の旅館「平井」に宿泊。
 10月28日 鉄幹、岡山に。岡山支会の盛大な出迎え受ける。「常盤木」に宿泊。
 10月28日 鉄幹、朝から雨の岡山後楽園を散策。午後、山陽線に乗車。
 10月30日 鉄幹、単独で入籍問題を話し合う為に滝野の実家(山口県出雲村)を訪問。
      父親(林小太郎)から離別を宣せられる。林家では鉄幹に養子縁組を望んでいたともいわれる。 11月3日 大阪北浜の旅館「平井」に再度宿泊。
 11月5日〜6日 京都・永観堂に紅葉見物。栗田山「辻野旅館」に鉄幹・晶子・登美子の三人で一泊する。
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晶子らが鯉に椎(しい)の実を投げ与えた永観堂の池。 (右写真)紅葉時期は大混雑必至(拝観券で代用)。
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永観堂の晶子の歌碑は、翌年1月に鉄幹と二人で再訪時の歌で、若狭に去った登美子に思いを寄せている。右は永観堂禅林寺三門。

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明治期に辻野旅館は閉鎖され、蹴上浄水場用地となる。通常、浄水場は飲料水の安全確保のため閉鎖されており 5月上旬の数日のみ内部公開される。
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「御(み)目ざめの鐘は〜」と晶子の自筆筆蹟で刻まれた歌碑の場所へは、小経のそこかしこに案内板が建てられている。 (右写真)碑の影面には建立者名、また傍らの説明板には晶子の五男(与謝野健)の長女浩子により、昭和29年11月に除幕された由が記されている。
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「辻野旅館」の推定位置。*「与謝野晶子 新潮日本文学アルバム」に旅館見取図が掲載されているが位置は推測。
1900年(明治33年)
 11月16日頃 山川登美子、晶子に別れ告げる。 
 11月27日 「明星」8号発売禁止。
 12月 山川登美子、父親から出世頭の山川駐七郎(とめしちろう)との結婚を強いられ、若狭(小浜)の
   実家に戻る。

1901年(明治34年) 晶子22歳
 1月 晶子、浜寺の歌会(鉄幹出席)に河井酔茗・河野鉄南(堺の覚応寺住職)・宅雁月らと集う。
   鉄幹、関西青年文学会(浪華青年文学会が改称)と新詩社神戸支部の合同新年会に出席するため
   神戸に。
 1月9日〜11日 晶子は鉄幹と二人きりで栗田山「辻野旅館」を再訪(2泊)。晶子の激情の恋は頂点に
   達する。
   この月より「明星」に晶子の短歌が続々と発表され始める。
 3月 「文壇照魔鏡」(鉄幹の不倫に関わる誹謗中傷文)出回る。これにより社友の多くが離脱。
 6月 晶子、出奔同様に上京し、「明星」社友の栗島狭衣宅に。その後、渋谷村字(あざ)中渋谷272番
   の鉄幹の居宅に身を寄せる。
 6月16日 晶子、新詩社歌会に初めて出席。
 8月15日 晶子の最初の歌集「みだれ髪」伊藤文友館・新詩社の共版(鳳晶子名で)で刊行。
   (「みだれ髪」の表題は、前年(明治33年)の鉄幹の歌「秋風にふさわしき名をまゐらせむそぞろ
    心のみだれ髪の君」から)
 9月 鉄幹、林滝野と正式離別。
 10月 晶子、鉄幹と結婚(木村鷹太郎の媒酌)。
    渋谷村字(あざ)中渋谷272番から中渋谷382番に移転。
 12月7日 晶子 満23歳に。

若狭(小浜)に帰郷して本家の養子の外交官・山川駐七郎(とめしちろう)と結婚した登美子は、間もなく夫と共に上京する。だが駐七郎は健康上の理由で退官し、貿易会社に勤めたのだが、まもなく先立ってしまう。その後、登美子は日本女子大学英文科に入学するが、2年もすると自らも肺結核を病み、伏見桃山の宇治川沿いの施設で療養生活に入る。明治42年4月13日、登美子の病は回復することなく、若狭の実家で31歳の生涯を終える。晶子は登美子の死に際して、「婿(せ=むこの意)とわれと死にたる人と三人(みたり)して甕(もたひ=棺)の中に封じつること」と悼む歌を残している。鉄幹と晶子と登美子、三人の語られざる秘密は、永遠に棺(ひつぎ)の中に封じ込められたままとなる。

*参考
「与謝野鉄幹伝」桜楓社1984年刊
「与謝野晶子歌集(選)」講談社文芸文庫2008年刊
「与謝野晶子 新潮日本文学アルバム」新潮社1985年刊
「与謝野晶子歌碑めぐり」堺市国際文化部2007年刊
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2014年02月16日

京都 川端二条 菓子司 京華堂利保

鴨川に架かる二条大橋の東詰(川端二条交差点)を東に入り、二条通を進むとまもなく黒い水引暖簾と黒格子の落ち着いた京菓子の老舗の前に差し掛かります。「菓子司 京華堂利保(きょうかどう としやす)」です。
明治21年に禁裏御用達の上菓子店仲間によって結成された「菓匠會」に遅れての参加となったのは、京華堂利保の創業が1903年(明治36年)だったため。現在、京華堂を代表する菓子は二代目が創案した茶の心に通じる「濤々(とうとう)」。三千家の武者小路千家官休庵の堂(祖堂か?)に掛かる額「濤々」(讃岐・高松藩松平候の揮毫)にちなみ、その文字をそのまま銘菓の名称としたもの(官休庵・十三代有隣斎宗匠と相談)。表千家不審庵と裏千家今日庵は本法寺(上京区)の東側に庵を構えているが、武者小路千家官休庵は南に離れた武者小路通小川通東入ル北側の地に江戸時代初期より代を重ねている。初代・一翁宋守(=利休からは四代目)が讃岐・高松藩松平侯の茶頭(茶道指南)を務めたことが、「濤々」の額の由縁となっている。
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京華堂を代表する銘菓「濤々」 京麩焼き煎餅二枚で 香味付けの大徳寺納豆と水飴を少し練入れた餡を挟みこみ 表面に白い砂糖蜜を使って手書きで渦巻文様を描いている
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上面からでは判断しにくいので「濤々」の断面写真 右は同封された「濤々」の案内書き
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縁起の良い名称から慶事にあう「福宝」(三種類) 小豆(粒)に蜜をからめ青のり・きな粉・砂糖を絡めた菓子
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 店頭のショーケースから「しぐれ傘」  地図の二条大橋西詰のホテルリッツカールトン京都はつい先日(2014年2月7日)、ホテル藤田の跡地にオープン
 
京都市左京区二条通川端東入ル
営業時間 9時〜18時
定休日 日曜・祝日・第3・4水曜
*京華堂老舗は京都市内の出店は無い模様。地方発送等は確認してください。
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2014年02月06日

京都 漬物「八百伊」と「村上重本店」 小津安二郎の手帖から 

映画監督・小津安二郎が残した2冊の備忘録風小型手帖(15cx11c)に書き込まれている京都の漬物店2軒(他に岡崎の「大安」の名もあるが今回は除外)を巡った写真です。863頁の大書「全日記 小津安二郎」(フィルムアート社1993年刊5150円)を通読した結果、日記には上記3店の名を見出せず(見落としてる可能性もあり)、日付けのないメモ書きからは実際に何時の訪問だったのか、誰と連れ立っていたのかなどは想像することもできない状態です。日記には(昭和28年頃から7年間ほどの間の)京都滞在時には度々訪れていた先斗町のグリル「開陽亭」の名が登場するので、滞在期間に付近にいたかどうかまでは把握可能です。
*「小津安二郎 東京グルメ案内」朝日文庫の巻末付録「グルメ手帖」から
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 西木屋町四条下ル 村上重本店
 東山八百伊      千枚漬
  東大路安井前 
  E 四六八二
     千枚漬
     すぐき
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 *数ページ先に再び「八百伊」が書き込まれている 

 京都東山安井電停前
 東山八百伊
    祗園6-4682
    振 京 一〇一一三

 千枚漬 すぐき 菜の花漬
 志バ漬 からし漬西瓜奈良
            漬
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
*通常の祇園の表記とは異なる「祗」が使われている
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1832年(天保3年)創業の「村上重本店」
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文字通り「看板」の千枚漬 小津も買ってます 丹波地方産(亀岡)の聖護院かぶらを約1週間 北海道産昆布と塩で漬け込んでいる 11月から2月頃までの販売期間なので小津が訪れたのもこの時期になる
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大きな昆布に包み込まれるほどです
村上重本店 営業時間 9時〜19時(土日祝は19時30分まで) 無休(正月三が日休み)

以下は東山八百伊
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四条通が東大路通に交わるところ(八坂神社石段下)を右に 東大路通の緩い坂道をしばらく右側を進むと千枚漬・懐石沢庵の暖簾が目に入ります 創業は昭和9年 現在の店主は3代目 昭和54年に新店舗に建替えてます よって小津が訪れたのは旧店舗になります
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聖護院かぶらを薄切りし利尻の天然昆布と塩で漬け込んだ看板商品 小津が買ったのは千枚漬・すぐき・菜の花漬・志バ漬・からし漬西瓜奈良
東山 八百伊
営業時間 午前10時〜午後5時 定休日 火曜
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2014年02月03日

京都 黒門 菓子司 塩芳軒

塩芳軒(しおよしけん)は、京上菓子の菓匠會24舗(現在20舗)に名を連ねる會員で、1882年(明治15年)に「塩路軒」から別家し、独立創業した老舗菓子司。1896年(明治29年)に黒門中立売上ルに移転。現在の重厚な京町家構えの店舗は、1914年(大正3年)の完成。*塩芳軒HP参照
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*(右写真)塩芳軒とは別の會員店で撮らせて頂いた写真 菓匠會24舗の會員名(現在は20舗)のうち左から6行目が塩芳軒 禁裏御用達の上菓子屋仲間(上菓子=献上菓子の意)は明治維新による東京遷都で解散状態となってしまったが 明治21年1月に開催した「御題菓展」に再び集った上菓子店仲間の有志が結成したのが「菓匠會」です
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右写真は塩芳軒のショーケースから
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(左写真)塩芳軒の創業時より作られている饅頭「聚楽(じゅらく)」

塩芳軒 (しおよしけん)
京都市上京区黒門通中立売上ル
営業時間 9時〜18時
定休日 日曜・祝日・第3水曜
*京都駅・市内有名デパート等に販売コーナー多数有り
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2014年01月29日

京都 京麩 麩嘉(ふうか) 

江戸中期の後半に差し掛かる頃に初代大和屋嘉七によって創業された京麩の老舗(現在は七代目)。麩造りに欠かせない良質な清水が豊富に湧き出るこの地(京洛七名水に数えられる滋野井がすぐ近く)に店を構え、禁裏(御所)御用を勤めてきた名店だ(1800年初頭の文化年間の御所出入りの鑑札が残存する)。創業年代があいまいなのは、家伝書類が江戸期の火災で焼失したため。おそらく幕末の蛤御門の変による「どんどん焼け」(京都中心部が焼失した大火災)で被災したと思われるのだが、元治元年7月の京の瓦版に火災範囲を描いた絵図がいくつか残っており、御所は火災を免れ、丸太町通から南、堀川通の東手前(二条城は無事)までが焼け落ちている。「麩嘉」は瀬戸際で燃えなかった可能性もある。御所南方の京の老舗は、この火災でほぼ全てが焼失している。
「麩嘉」は買い求めやすいように各地域に売り場を設置しているが、一度は京情緒あふれるこの本店を訪ねてみるのも良いと思う。場所は、西洞院堪木町上ル(管理人も堪木町は読めません・・<ニシドウイン・サワラギチョウ>)。営業時間は9時〜17時。生産量の関係で確認予約(電話075-231-5561)が必要。
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打ち水された京町家の本店 懐石料理や精進料理に欠かせない生麩は現在でも裏手の工場から出荷されている 向かって右手に休み処も設けられている
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玄関の外と内側から のれん以外に目印となるものは無い 
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玄関脇の桶に泳ぐ金魚  腰掛けて注文品を待てる座敷(ショーケースの類はない) 
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買ったのは麩嘉の人気1位商品「麩まんじゅう」 明治中頃に4代目により考案された麩菓子だ 青のりを練りこんだ生麩で甘味を抑えたこし餡を包み 熊笹の葉で丁寧にひとつずつ巻いた絶品 現在では季節限定で様々なバリエーション展開をみせている 春の「桜麩まんじゅう」(柚子風味のこし餡を桜色の道明寺麩で包んだもの)や初夏の「かしわ麩まんじゅう」(白味噌入りこし餡) 冬の「黒豆麩まんじゅう」(黒豆で作ったこし餡)などです 単価は5個入り箱が1100円 季節限定品はやや上回る値段設定になる
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本店に向かって左脇の工場への通路にある井戸の説明板(この真下に無料汲み場が有るが要煮沸処理) 昭和51年に掘った深さ60mの井戸で 西方100余mにあった名水「滋野井(しげのい)」の地下水脈と通じているのかもしれない (右写真)「散し麩」(ちらしふ)お吸い物等で使う天日で乾燥させた型抜き麩 
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手鞠麩(てまりふ)1個180円 生麩の玉に赤・黄・緑で色づけしたもの
 
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(左写真)錦市場の堺町通北角の「麩嘉・錦市場店」 麩嘉・錦市場店の営業時間は9時30分〜17時30分 定休日は月曜
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2014年01月23日

京都 水上勉が贔屓にした京漬物店 出町なかにし

文芸春秋から贈られた写真と礼状が店内に飾られている。以下は文芸春秋の原稿用紙に書かれた礼状の写しです。
<<野呂本店様 前略 先日はお忙しいところを水上勉先生のお写真(原文は旧字)撮影のためお邪魔して恐縮でした。また みず菜のお漬物まで頂き、有難うございました。その折のお写真(原文は旧字)をお送りいたします。末筆ながら益々のご繁盛をお祈り申し上げてをります。五月六日 文芸春秋「ノーサイド」編集部 鈴木○○(伏せました)>>
出町桝形商店街(アーケード)の中程くらいに位置する京漬物店に、水上は長年に渡り好物の漬物を求めに訪れている。最初に訪れたのは、10才〜13才まで小僧として相国寺塔頭の瑞春院で修行に明け暮れていた時代に寺の使いとしてこの商店街に。直木賞を受賞して、左京区の百万編交差点の近くに書斎部屋(思文閣会館ロイヤルハイツ内)を構えてからは、桝形商店街は日々の散策のコースに加えられていた。買い求めるのは、大好物の「かぶら」だったと(中西さん談)。
疑問がひとつ。「野呂本店様」と礼状にあるのに、何故「出町なかにし」なのか。下の地図に商店街を外れた寺町通沿いに「野呂本店」を記入しました。実は「野呂」は東店(後の出町なかにし)と西店(現在の野呂本店)が存在していて、同名は紛らわしいと水上が訪れていた東店が法人化し「出町なかにし」と改名したのです(中西さん談)。
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  文芸春秋社から出町なかにしに贈られたパネルを撮影(中西さんの許可あり)
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東側(加茂川側)からの出町桝形商店街アーケード   京つけもの「なかにし」
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ぬか漬・浅漬・しば漬・生菜漬・沢庵などなどを製造(仕入れ品もあり)販売
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5回ほど訪れては話を聞いてます(ただの世間話がほとんど) 買い物は好物の昆布ばかり 左は「山椒昆布」(仕入れ商品) 右は水上勉も求めたかもしれない冬季限定の「赤かぶ」
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定休日 毎月8日(他に不定休有り・日曜) 営業時間9時〜19時位(要確認)
出町なかにしhttp://masugata.demachi.jp/contents/tenpo/naka/nakanisi/nakanisi.html

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2014年01月21日

京都 寺町通 基中堂 水上勉「京都花暦」より

御池通から寺町アーケードに入り、本能寺の山門を左に見て60mほど進むと、仏教書専門の古書肆・基中堂が見てくる。1930年(昭和5年)に、名古屋の基中堂本店の京都支店として開業したのだが、名古屋本店はすでに閉店しており現存しない。開業当初は、現在の寺町通のアーケードは設置されてなく、姉小路通が交差する手前から鉄筋コンクリート造り3階建て建物の全体が見渡せていた。切妻屋根(瓦葺き)をのせた和洋折衷の建物は店舗棟であり、裏側(西側)には中庭を間にして木造の和館が配されている。竣工は開業年と同じ1930年。設計は八木清之助。施工は大林組。
水上勉の随筆「京都花暦」に収められた<寺町通り>の章に、この古書肆について述べている箇所がある。
<<いまの「ひるげえと」ギャラリィは、カレーライスが評判のグリルだった。同じような構えのコーヒー店「スマート」は今でも営業しているが、その二、三軒隣りが「基中堂」(きちゅうどう)である。基中堂は、仏教書専門の古書肆で、名物番頭の森先さんがいた。コーヒー店と似たカウンターの内側に横積みされた和綴書(わとじしょ)が棚に入っていて、一冊一冊に和紙こよりの短冊がはさんであったのもなつかしいが、この番頭さんを、西田幾太郎も鈴木大拙も、玄関から迎えたそうである。>>P123より抜粋。
*西田幾太郎=哲学者・京都大学教授1870年〜1945年
*鈴木大拙=禅文化を海外に伝播した仏教哲学者1870年〜1966年
*ギャラリィ「ひるげえと」は、別項を作る予定です(水上勉の筆になる板看板が吊るされている)
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軒上の高欄に卍崩し模様の組子(骨組みの意) 腰組には法隆寺金堂にみられる人字形割束(下端が2つに割れて人字形)がみられる
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2階部分は書庫として使用されており、3階は接客用の和室(座敷)と居間(2間有り)にあてられている 店舗外側に置かれている書物台(ワゴン)には一般書が販売されているため、普通の古書店と思い込んでしまう 店内に一歩入ると仏教の専門古書が天井に達するまで積まれており圧倒される
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参考
「京都花暦」水上勉 1998年刊
「京都の近代化遺産」2007年刊
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2014年01月02日

京都 和菓子 千本玉壽軒

今出川通大宮東入ル(今出川通沿い)に店を構えている「本家玉壽軒」で修行を積んだ先代が、1938年(昭和13年)に暖簾分けの形で独立(本家の娘と結婚)し、かって本家があった地で創業したのが「千本玉壽軒」です。その先代が考案した「西陣風味」が、現在の「千本玉壽軒」の代表的銘菓となっている。
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暖簾分けの創業のため京都では新しい店といえるが 70年以上の時を重ねており 東京なら老舗といえる和菓子店
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「千本玉壽軒」の人気銘菓「西陣風味」と同封の説明書き 西陣の反物を意匠した「たとう紙」(着物を包む薄紙)で包まれ観世縒(かんぜより=こより)で結ばれた外観は 京風情に満ち溢れ 京土産に最適です 現在は二代目が日々精進している同店ですが HPによると 先代の考案した「西陣風味」を時代の趣向に合せて<近年は甘みを多少抑え気味に調整し、さらに一包みに一切れだったものを、包丁を入れ、同じ量を二切れにして包むようにしました>と改良工夫を重ねている
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(左写真)西陣風味・・羽二重餅の厚めの皮で黒胡麻入りこし餡をくるんでいる (右写真)羊羹「紅葉」(秋限定)
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(左写真)注文受け渡しカウンター
*四条河原町の高島屋(B1)やJR京都駅の伊勢丹・ザキューブ京名菓店(1F)等に出店している
千本玉壽軒
京都市上京区千本通今出川上ル 市バス「千本今出川」下車スグ
営業時間 午前8時30分〜午後7時30分
定休日 水曜
*菓子司 本家玉寿軒http://zassha.seesaa.net/article/390547827.html
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2013年12月30日

京都 縄手通 茶漬鰻 かね正 小津安二郎の日記から

名匠・小津安二郎は茶漬好きである。鮭茶漬はもちろん鯛茶漬(銀座竹葉亭の本支店を頻繁に訪れている)にも目が無い。鰻(うなぎ)も好きである。関東では滅多にお目にかかれない鰻の茶漬といえば当然、強い興味を持ち、京都からそれなりの情報を得ていたはず。小津が直接、京都滞在中に京阪三条駅に近い(縄手通沿い)本店を訪れた記録は(日記を通読する限りでは)残っていません。小津が手帳に書きしるした戦前・戦後の膨大な日記に、「京都の鰻茶漬」を記録した箇所は3箇所。それぞれが京都の知人・同僚からの郵送物を受け取った記録として記しています。その3箇所を引用。

 1960年(昭和35年)2月20日(土曜)晴 終日在宅 橋本明治氏より茶漬うなぎ いたヾく ひるねののち 入浴 枕辺雑書乱読二時に及ぶ (P616) *橋本明治=日本画家1991年3月25日没

 1962年(昭和37年)1月9日(火曜)晴 ふヾやから京かね正の茶漬うなぎくる 郵便局まで散歩 おり漬の荷札を野田に送る  (P756) ふヾや=不明? ぶぶや=お茶漬屋

 1962年(昭和37年)6月5日(火曜)晴 散歩に出る 一般キャンプの橋から長瀬邸 それから借地に廻って帰る 夜 若尾文子から電話 京都清水から茶漬うなぎ届く (P775) *清水は元松竹の監督=清水宏 太秦の大映京都で撮影中?引退後かは未調査

店名「かね正」が直接書かれているのは1月9日分のみだが、<茶漬鰻といえば「かね正」名物>であり、小津が他のものを手にするはずがないと思えます。
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右正面の大きな町家が「かね正」本店 後方が三条京阪で奥(南方)が四条通方向 四条通の手前に食事処「かね正」が営業している
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川魚問屋として創業した証左である重々しい板額(揮毫は読めない) 右写真は店内の商品展示・・茶漬鰻のみである(量によりかなり高額になる)注文するとその場でパック詰めしてくれる
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四条通に近い食事処「かね正」 郵便局側の細い通路を入ると暖簾が見える 昼・夜とも予約で埋まります(閉店近くなるとフリーでも入れる可能性あり) カウンター席が中心でそれほど広くは無い 調理は関東風で蒸し・背開き 木曜・日曜が定休 中休み有り 予約075−532ー5830 11時30分〜14時 17時30分〜21時30分 2012年現在=通路の張り紙から
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 *参考 「全日記 小津安二郎」フィルムアート社1993年刊
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2013年12月28日

京都 千本通の時計塔

千本今出川の交差点北東角に建つクラシックな建物なのだが、時計塔を配したファサードによってひときわ目立つ存在となっている。創業者は、明治37年に三条通の大澤商会から独立して河原町三条に店舗(三芳堂)を構えるが、大正年間に現在地に移転する。当初は瓦葺の町家であったが、明治〜大正末期の千本通の拡幅工事で隅切りを受け道路(表)側部分のみを建て替えることに。1929年(昭和4年)に完成したのが、大時計を配した塔屋付き二階建て鉄筋コンクリート造りの現在の建物(裏側は和館と接続されている)。現在、屋号は「ミヨシ堂」とカタカナの呼称に変わり、創業家の名である(株)庵原商会と法人化されている。
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千本今出川交差点 2012年2月撮影 

この千本今出川交差点から、千本通を約550mほど南下した千本中立売の交差点にも古い時計塔付きの建物が存在する。以前はテナントの「すき家」の看板に時計塔の四方が覆われていたが、いつの間にか撤去されている。調査不足のために竣工年は不明。向い側のマクドナルドのカウンター席に座ると、時計塔に自然と目が・・「動いてないじゃん」。
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千本中立売の交差点東側にあるマクドナルド側から
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(左写真)中立売通の西側から・・東側とは時刻がバラバラで停止状態 建物の右後方(南西)一帯は水上勉の小説「五番町夕霧楼」で有名な旧・遊郭の妓楼が広がっていた(地図の赤斜線部分)
*参考 「京都の近代化遺産」2007年刊
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2013年12月22日

京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」から

織田作之助の新聞小説「それでも私は行く」(1946年4月25日〜7月25日京都日日新聞夕刊)から第4回目「べにや」。
<<西木屋町――。高瀬川の小さな流れに架った紅屋橋のほとりに、「べにや」というしるこ屋がある。この店のまわりは疎開跡の空地になっているが、ここだけは巧く疎開をまぬがれたらしい。店の軒には紅屋に因んだ赤提灯が、いかにも助かりましたという感じで、京都らしくぶら下っている。こぢんまりした綺麗な店で、竹で編んだ床几に、尻にかくれるような小さな坐蒲団がちょこんと置いてあり、柱には誰の句か、「一力の焦茶の暖簾春の雪」と、赤い短冊が掛っている。ちかごろ京都の町々に急にふえて来た京趣味、茶室風のしるこ屋の一つだが、この店がほかの店と変っているのは、常連に先斗町の芸者が多いことだ。店のすぐ鼻の先が先斗町であるからだろうか、それともこの店が小鼓の家元の美貌の三人兄弟が男手だけで経営しているからだろうか。もしそうだとすれば、この三人兄弟を張りに来るその芸者を、張りにやって来る男の客ほど世に間の抜けたものはあるまい。>>
・・・<疎開跡の空地>はその後、児童公園・市営駐車場に変わっている。下図参照。
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    紅屋橋(=南車屋橋)上から 右正面角に「べにや」が実在していた
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紅屋橋(=南車屋橋)からの<ピンク・ブルウ・レモンイエローの提灯の灯りが、高瀬川の流れに映って>いる写真を載せたかったが現実は真っ暗闇・・木屋町通を四条通方向に下った十軒町橋から撮影の写真です (右写真)2013年に長期間営業していた喫茶店(「グリーン」)が閉店し居酒屋に改装されている

<<夜の木屋町は美しかった。「べにや」の軒の長い赤提灯、円いピンク・ブルウ・レモンイエローの提灯の灯りが、高瀬川の流れに映って、しみじみと春の夜更けの感じだった。三好は、キャバレー歌舞伎を出て先斗町へ戻って行く君勇や鈴子や小郷のあとを、ひそかに、しかし執拗につけて行きながら、そんな木屋町の美しさが、かえって恨めしかった。焼けた大阪とくらべて、何という違いだろう。かつて、京都は大阪の妾だといわれていた。大阪あっての京都であった。それほど、京都は古障子のように無気力であった。ところが、今や古障子の紙は新しくはりかえられて、京都は生々とよみがえっている。旦那の大阪が焼けて、落ちぶれてしまうと、当然妾の京都も一緒に落ちぶれるかと思われたのに、旦那と別れた妾の京都は今は以前にもまして美くしく若返り、日本一の美人になってしまっている。>>

以下は青山光二著「純血無頼派の生きた時代」から・・・織田作之助と青山光二は、昭和21年3月末頃に「べにや」を訪れ、並びのそば屋「大黒屋」で食事をしている。P154とP158。
<<高瀬川をへだてた向うの西木屋町の家並に目をやるのといっしょに、(ああ、「紅屋」のあった辺りだな・・・)と呟いていた。川にかかった小さな橋を渡ったところで、その一郭だけ家並が、川ぞいの道路からひっこんでいる。街衢(がいく)のかたちから、私はそう思ったのだ。「紅屋」という京趣味のしるこ屋が、戦後しばらく経って、その一郭の、川べりに寄った角に開店した。美貌の三人兄弟が男手だけで経営しており、先斗町の芸者が彼らを張りにくるという評判の店だった。
軒に紅提灯(ちょうちん)のかかった入口の暖簾をくぐると、茶室ふうの店内で、ほんの十人も客が来れば満席になりそうな手狭なその店へ、織田が私をつれて行ったのは、昭和21年三月の終りか、四月のはじめ頃だったろうか。(略)
急に客が立てこんできた「紅屋」を、間もなく出た私たちは、河原町筋へ通じている路地をほんの二十メートルばかり歩くと、「紅屋」から五、六軒おいた同じ並びにある名代のうどん屋「大黒屋」にはいった。「大黒屋」できつねうどんを食べてから、麩屋町四条下ルの世界文学社へ舞い戻った。>>
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大黒屋前から左側先の「べにや」・・・織田作と青山が何ごとか会話しながら歩いたであろう20数歩の距離 二人とも同じ<きつねうどん>を注文したのだろうか
蕎麦 大黒屋 創業1916年(大正5年)と書かれた案内書があるが 女将さん曰く「昭和18年創業です」
定休日 火曜 営業時間 11時30分〜21時
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参考 「純血無頼派の生きた時代」青山光二2001年双葉社刊

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
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2013年12月17日

京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」から

織田作之助の戦後間もない京都の繁華街を舞台にした新聞小説「それでも私は行く」(1946年4月25日〜7月25日京都日日新聞夕刊に連載)から「千切屋旅館別館」「三嶋亭」に続いて第3回目<書店そろばんや>。
先斗町のお茶屋「桔梗屋(ききょうや)」の美貌の三高生・鶴雄(主人公)が、河原町三条から寺町通の「小田策之助」(織田作之助)がいる錦ビル4階(実際は3階だったか?)の「世界文学社」(実在)に向う途中に立ち寄った書店「そろばんや」・・・織田作も<妙な名前の本屋>と書いているが、変な名の書店はそのままの名で実在していました。が、現在は跡形もなく消えている。(地図を参照すると手っ取り早いのだが)河原町三条の交差点から三条商店街に入って4軒目(!)なのだが・・・・?
「それでも私は行く」から抜粋
<<鶴雄は河原町の方へ歩き出した。アンテナをつけたM・Pのジープが通ったあと、三条河原町のゴーストップの信号が青に変った。西へ渡って、右側のそろばん屋という妙な名前の本屋へ、鶴雄は何の気なしにはいって行った。新刊書の書棚を見て廻ったが、べつに手にとってみたい本もなかった。
「改造」「中央公論」「世界」「人間」「展望」など、一流の雑誌はすぐ売り切れるのか、それとも店頭に出ないのか、見つからなかった。「世界文学」という雑誌があったのでパラパラめくっていると、「君は鋭いね」という文句が眼にとまった。ジイドの「架空のインタヴュー」の訳文にある言葉だった。鶴雄はふと、弓子の言葉を思い出した。「――鋭いわね。あなたは……」
やがて、「そろばん屋」を出ようとした途端鶴雄は、ふと「アメリカとは何ぞや」という青い表紙の薄い本を見つけた。(略)>>
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河原町通から鶴雄が西へ渡ったところ 三条商店街です・・・後ろにゴーストップの信号がある・・・右側のそろばん屋という妙な名前の本屋へ 右側です
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そろばん屋なんて名どころか本屋さえ無い・・・地図だとこの辺り・・・小説執筆時から70年が経とうとしている 昔の店舗の間口幅とは変っており見当がつかない 三条通右側には江戸期からの老舗も残っている・・・ヒント発見!仏具の老舗「吉田仏具」の右隣りが「書店そろばんや」だった・・・現在はパチンコ店「FIBER」になっている 鶴雄は何の気なしにここへはいって行ったのだ 鶴雄はその後 三条通を進み寺町通角の三嶋亭の前を左に折れて「世界文学社」に向って行く。

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
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2013年12月04日

京都宇治 阿部定の足跡 菊屋旅館跡 

阿部定は、戦後の混乱が収まりかけた昭和23年に、長田幹彦(劇作家)が主宰する劇団の芝居「昭和一代女」に自ら「阿部定」役で出演する。約半年間(地方公演に続いて東京浅草で上演)に渡り舞台出演をこなした後、学歴も浅く手に職もない阿部定は東京で自活する術もなく、関西方面で芸妓や仲居の仕事に就くことになる。大阪・難波でバー勤めする以前に、まず京都宇治市で仲居として働いている。宇治川沿いの割烹旅館「菊屋」で働く姿が、女性週刊誌に周囲の人々の証言とともに取り上げられている。「女性自身」誌1968年(昭和43年)9月16日号の記事を参考にした「阿部定正伝」(1998年刊)が、内容を採録している。
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平等院表参道から細い路地を左に入り、宇治川の堤に出る手前に旅館「菊屋」(廃業)の建物が残っている。堤からその建物を垣間見ることができる。週刊誌の記事では、阿部定は閉じこもったままで外出する機会はほとんど無かったという。
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宇治川に架かる宇治橋から見た元「菊屋」。大きな樹木の先の右側。右写真は「菊屋」の堤側の通用口付近からの宇治川。
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参考 「阿部定正伝」1998年情報センター出版局刊

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html
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2013年11月27日

京都 北野 長五郎餅本舗

1587年(天正15年)春、大阪を出陣した秀吉は、5月には九州島津氏を降伏させ、西日本を平定する。京に凱旋した太政大臣・豊臣秀吉は、聚楽第の完成(9月)と同時に入第し、すぐさま北野に大茶会の開催を命じる(10月1日)。この北野の翠深い森で、茶と菓子を人々に供していた河内屋長五郎も、自らが考案した・・餅で餡を包みこんだ・・菓子を大茶会に献上する。その餅が秀吉の絶賛を得て、武家への出入りを許されることになる。人々の評判も上がり、この菓子をいつしか「長五郎餅」と呼び交わすようになる。
と、「長五郎餅本舗」の店奥に置かれた筆書きの「由来」に記されてます。
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(右写真)白暖簾の奥に茶席が設けられていて 長五郎餅2個と抹茶のセットを注文できる 羽二重餅に包まれたこし餡は甘さもほどほど 秀吉に献上した当時と製法を変えることなく受け継いでいるそうです 現在で藤田家は21代目
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長五郎餅と抹茶セット500円 煎茶のセットは350円
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包装紙がほしい為に買ったものは・・葛餅(くずもち) 関東で作られているものと同様で きな粉をまぶしたもの
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包装紙の図案は北野天満宮周辺の古地図 以前は店前の一条通(中立売通)には市電が通っており 隣りは市電の北野車庫だった 地図に「下之森」と記入したが 古い呼称で 北野天満宮まで深い森につつまれており寺院が点在する風景であった
 営業時間 8時〜18寺(茶席11時〜15寺)
 定休日 木曜
 HP http://www.chogoromochi.co.jp/history.html
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2013年11月23日

京都 見廻組与頭・佐々木只三郎の宿舎・観音寺

1867年(慶応3年)3月24日、京都見廻組与頭・佐々木只三郎の宿舎周辺で事件が発生する。時代は激しく新時代に向って潮流が変わろうとしている(年表参照)・・・その最中に「遊郭で遊女を巡ってのいざこざ」から幕府方同士の武装部隊による衝突にまで発展した(表沙汰に出来ない)事件です。
北野上七軒(遊郭)で揚屋を営む「鍵屋哥(かぎや・うた)」の店を訪れた幕府歩兵隊(洋式軍装)の兵二人が、宿営地まで遊女の派遣を依頼するのだが、馴染みがないため拒否されてしまう。難癖をつけて店に居座ってしまったため、店側は近くに宿舎を構える見廻組与頭に助けを請う使いを出す。見廻組の者が取締まりに駆け付けるが、歩兵隊の一人は逃げ帰ってしまう。
暫くすると歩兵隊幹部(吉田直八郎ら)が与頭・佐々木只三郎の宿舎(観音寺)を訪れ抗議を始めるが、妙心寺からさらに武装した歩兵が多数駆けつけてくる(歩兵一小隊の資料も有り)。指図もないまま観音寺に向けて実弾を数十発(数発説も有り)打ちかけてしまう。一旦は収まるが、夜に入ると再び数百人が屯集し発砲騒ぎに。見廻組も天満宮境内に二百人ほどが詰めて対峙する。結果は、通り合わせた会津藩と薩摩藩士の仲介により収拾することに。翌日、双方から進退伺いがだされるが、時局を考慮し内々で処置されることに。
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(左写真)北野天満宮鳥居前 鳥居を挟んで見廻組と歩兵隊が対峙したという (右写真)見廻組与頭・佐々木只三郎の宿舎・・・観音寺 周辺の古い石灯籠に銃撃の痕が残っているかもと探すが見つからず
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(左写真)観音寺本堂横から (右写真)御前通から見た上七軒の歌舞練場
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上七軒の中心といえる真盛町 しっとりとした花街(俗称・真盛辻子といわれた付近)京都の遊郭では島原につぎ古い公認花街としての歴史をもっていた (右写真)西方尼寺の路地
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五番町方向にかなり離れた「下の森」(一条通から南の部分)は上七軒遊郭には含めずに 地図に記入した3町だけで構成されていた 鍵屋哥(かぎや・うた)の店の位置は不明  

北野天満宮で騒動が起った前年からの簡易な年譜です。
1866年(慶応2年) 
 1月6日 京都見廻役・蒔田相模守(浅尾藩主)に文武場の奉行兼任命令(中立売通智恵光院付近)
1月21日 薩長同盟成立する(坂本龍馬の裏書き)
 4月3日 見廻役・松平出雲守の辞任により蒔田相模守が一時的に兼任
 6月7日 第二次長州征伐開始
 7月20日 将軍家茂病没する(21歳)
 8月20日 幕府 将軍家茂の喪を発し一橋慶喜の徳川宗家の相続を公布
 8月21日 将軍死去により長州征伐中止の勅令下る
 9月4日 幕府 長州征討軍の撤兵を始まる
 9月12日 三条制札事件 新選組が土佐藩士8名を襲撃
 11月15日 京都見廻組 堀石見守が空席となっている松平出雲守の後任として京都見廻役に任命
 12月5日 徳川慶喜 二条城にて第15代将軍宣下
 12月25日 公武合体派の孝明天皇病没(?)36歳 崩御により公武合体派は衰退
       病死(天然痘)が疑われ毒殺説がささやかれる    

1867年(慶応3年) 
 1月9日 睦仁親王践祚((明治天皇)
 2月 京都所司代同心の桂早之助(龍馬を斬った?)・世良吉五郎ら見廻組並に登用
 3月24日 北野天満宮周辺で幕府歩兵隊と京都見廻組の衝突j事件発生
       (与頭佐々木只三郎の観音寺宿所に銃弾撃ち込まれる)  

谷中 宗林寺 京都見廻組・佐々木只三郎の供養碑http://zassha.seesaa.net/article/315992196.html 
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2013年11月18日

京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」から

織田作之助の新聞小説「それでも私は行く」(1946年4月25日〜7月25日京都日日新聞夕刊に連載)から「千切屋旅館別館」に続いての第2回目です。
先斗町のお茶屋「桔梗屋(ききょうや)」の美貌の三高生の息子・鶴雄(主人公)が、河原町三条から寺町通の「小田策之助」(織田作之助)がいる錦ビル4階の「世界文学社」(実在)に向う途中、すき焼の名店「三嶋亭」(三条通と寺町通の東角で現在も営業中・小説では「三島亭」)の前を曲がるのだが、織田作は自らの三高時代の思い出を挿し込んでいる・・・今回は、その「三島亭」。現在は京都市内の有名百貨店などに販売コーナーを設けたり食事処を出店しています。
・・・「それでも私は行く」から
<<「もしかしたら、山吹先生はいい口を見つけて置いてくれたかも知れない」そう呟きながら、鶴雄は三条通りの「三島亭」の横を寺町通りへ折れて行った。「三島亭」は古い牛肉店で、戦争前は三高の学生たちがよくこの店でコンパを開いて、「紅燃ゆる丘の花……」という校歌やデカンショ節をうたいながら、牛飲馬食した。当時は会費は一円か二円で済んだという。想えば昔なつかしい青春の豪華な夢であるが、しかし、鶴雄が学校へはいった時はもうコンパなぞ開こうと思っても開けず、「三島亭」のコンパも、鶴雄にとってはもはや想像も出来ない古めかしい伝説であった。そんなことを想い出しながら、鶴雄はずらりと並んだ寺町の闇市の中に建っている錦ビルの前まで来た。>>
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(左右写真)鶴雄は左手(三条通)から「三島亭」の前を右奥に折れて寺町通を下って行く 右写真は寺町通側の「三島亭」
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現在の三嶋亭・・・「学生がコンパ」といった雰囲気は微塵もなく 下足番が出迎える料亭をイメージすると当たるかも

・・・で リーズナブルに三嶋亭の味とやわらかい牛肉を確かめに まずは四条烏丸に近い大丸百貨店地下食品売場の一画にあるイートインに
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・・・四条河原町交差点の高島屋京都店(7階のダイニングガーデン京回廊)にも出店中
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大丸地下のカウンターのイートインよりハイレベル設定の京回廊店です
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寄り道して食事をしてる間に 鶴雄は寺町通と錦通の角の「世界文学社」の階段を上ってしまっている・・・第3回目は何処に向うのか 鶴雄のふるサイコロ次第です(新聞連載で鶴雄はサイコロで向う方角を決めています) 
織田作之助リンク
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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2013年11月16日

京都 外村繁 「澪標」(みおつくし)の風景 

1960年(昭和35年)7月に文芸誌「群像」に発表された外村繁(とのむら・しげる)の小説「澪標」(みおつくし)から、彼の三高(現・京都大学教養課程)時代から親交のあった梶井基次郎・中谷孝雄との交友と京都の風景が描写されている部分をピックアップ(講談社文芸文庫版の該当ページ付き)して、交錯するかのように(?)写真を添えてみました。性描写が話題になった自伝的小説ですが、生涯に2人の女(最初の妻と再婚相手)を経験しただけの生真面目で潔癖といってよいほどの作者の人生を追体験する気は起きず仕舞い・・・全篇ひろい読みです。
「澪標」は作者の死(満59歳)のほぼ1年前に発表された作品。冒頭1行目から・・・
<<私が生れたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分れていたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となっている。(P41)
三高の試験に失敗する。以来、一年間、私は憂鬱な日日を送った。(P94)
その私の仮寓は三条大宮を東へ入ったところにある。京の三条通も堀川を西へ渡ると、あのしっとりと落着いた気品は失われる。小さい小売屋が軒を並べ、客を呼ぶ声もかまびすしく、かなり猥雑な街になる。>>(P96)
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(左写真)旧・第三高等学校(三高)の正門 (右写真)堀川通を西に渡った三条商店街 長いアーケードがここから千本通手前まで続く 外村繁の下宿は堀川通と千本通の中間から東寄りでクロスする大宮通の東側路地にあった
  
<< 通りに面した商店と商店との間には、極めて狭い露地が幾筋も通じてい、それを通り抜けると、決って二軒、三軒と仕舞屋が建っている。私もそんな一軒を借りていたが、階下は畳も薄暗いので、二階を書斎に当てていた。その二階の窓の下にも狭い露地が通ってい、その奥の家には若い、琵琶の女師匠がその妹と住んでいた。夜になると、近所の若者達が習いに来て、賑やかな話声が止むと、琵琶の音が聞えて来る。
私の下宿からは神泉苑も近かった。神泉苑は当時既に池には水もなく、埃っぽい小庭園に過ぎなかったが、私の好む休みの場所となった。二条城も私の散歩の範囲にあったし、二条駅も私の好きな場所であった。散歩の途次、私は二条駅の木柵に凭り、単線のレールが鈍く光っているのを眺めながら、花園、嵯峨、保津峡、更に胡麻、和知、安栖里、山家などと、頻りに旅が思われたりした。またある日、春風の中に笛や、鉦の音が聞えているのに誘われ、その音を頼りに行ってみると、壬生狂言が行われていたりもした。>>(P97)
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(左写真)神泉苑は当時既に池には水もなく・・・御池通側の正面から入った池辺で (右写真)外濠に沿って押小路通が西に伸びる・・・二条城二の丸東南隅櫓 外村の下宿は左手約400uの三条通
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二条駅の木柵に・・・1904年(明治37年)築の省線・二条駅舎は移築され 梅小路蒸気機関車館の正面入口として転用されている 外村が想いにふけった木柵も単線のレールも もちろん無い
   
<<その頃、私は梶井や中谷と常に行動を共にするようになっていた。梶井は大酒家であり、愛酒家でもある。小料理屋で飲む酒の味も、私は梶井から教えられる。中谷は全く酒を嗜まない。が、私達の酒がどんなに長引いても、中谷がいなくなるようなことはない。電車のなくなった、京都の深夜の街を、私は中谷と歩いて帰ったことも幾度かある。中谷も、梶井も私より二年前に三高に入学している。しかし二人とも二度原級に停められている。いずれも出席日数の不足に因る。殊に中谷には既に愛人(現夫人)もあり、同棲していたこともある。が、今は彼女とも別れている。そんな人の心と心との葛藤もあろう。自分自身の心の悔恨もあろう。中谷はいつも不機嫌であったし、その表情には暗鬱な翳が消えることがなかった。>>(P111)
<<祇園石段下の「レーヴン」というカッフエに、梶井や、中谷や、私達が毎晩のように集ったのは、もう三高の生活も終りに近い頃である。中谷のその一学年の出席数は悪くなく、卒業は確実である。梶井の卒業はかなり危ぶまれたが、理科である梶井が大学は英文科に転じる決心もつき、教授達の間を運動中である。卒業後、私達は東京の大学へ行き、時期を見て、同人雑誌を出す計画である。その頃の私達の雰囲気はかなり明るかったと言わなければならない。梶井も、中谷も、私も卒業した。その夜、私達は例によって「レーヴン」に集り、京都に残る人達と酒を汲み交わす。私は前後不覚に酔ってしまったらしい。翌朝、私が目を覚ますと、汽車は浜松駅に停車するところである。私と、梶井と、中谷とはプラットホームに降りて、水を飲んだ。
梶井は文学部英文学科、中谷は独文学科、私は経済学部経済学科に入学することができる。私達三人は銀座や、神楽坂を飲み歩く。酒を飲まぬ中谷は相変らず不興げであるが、梶井は関西弁丸出しで、ユーモラスな諧謔を飛ばしたりして、かなり機嫌がよい。>>(P114)

作者・外村繁は、大正11年4月三高劇研究会に参加する。そこで梶井基次郎・中谷孝雄を知る。この年、梶井はほとんど講義に出席せず、毎夜の飲酒と女郎買いの退廃生活を送っている。翌年10月に、準備中の劇研究会の最初の公演(チェホフ「熊」など)が学校側により中止命令を受ける。精神的打撃を受けた梶井・中谷・外村は、連日連れ立って飲み歩き、暴れまわる。梶井はビール瓶で負わされた顔の傷が消えることはなかった(カフェー・レーブン事件)。梶井はこの年に習作「カッフェー・ラーヴェン」を残している。
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(左写真)大正13年 東京帝大に進学した外村らは同人雑誌を計画する 梶井は11月に名作「檸檬(れもん)」を脱稿 大正14年1月 同人雑誌「青空」創刊し「檸檬」掲載 「青空」発行所は麻布区市兵衛町2丁目の外村繁の家・・・印刷は低費用で済む「岐阜刑務所」で行い 冬休みに梶井・外村・中谷の3人で受け取りに行っている 写真はその外村の家付近(現在の六本木3丁目の不動坂・・左先付近) 右は「澪標・落日の光景」講談社文芸文庫1992年刊
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2013年11月15日

京都 坂本龍馬 葬送の道 

1867年(慶応3年)11月15日夜、京都・河原町通蛸薬師下ル(塩屋町)の醤油商近江屋新助方の2階で、坂本龍馬は歓談中の土佐陸援隊隊長・中岡慎太郎とともに襲撃を受け殺害される。龍馬はほぼ即死、中岡は重傷を負うが一旦は裏(称名寺側)の物干し台から屋根伝いに隣家の道具商・井筒屋を呼ぶが応答なく、再び部屋に戻ったところで意識を失う(17日死亡)。龍馬の下僕(家来)藤吉も負傷し翌日(16日)死亡。
明治13年6月に執筆された「渡辺家履歴書」によって、襲撃したのは見廻組与頭(よがしら)・佐々木只三郎の指揮する一隊(計7名)で公務の出動(京都守護職・所司代を通じての捕縛命令)であったことが証明される。尚、近江屋新助は近くの京都土佐藩邸出入りの商人だった。また、二階へ付け入った(上った)のは3名で渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助。龍馬を斬ったのは桂と推定される(その刀の展示有り)。指揮者佐々木は二階上り口にいた。明治3年に見張り役であった今井信郎の自供・口述によって新政府・刑部省が、見廻組・小笠原河内守を文書により調査している。京都見廻組の実質的全権は佐々木只三郎一人にあったとする返答を得ている。
*参考「中岡慎太郎 陸援隊始末記」中公文庫1977年刊 「京都見廻組史録」2005年刊 
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三条小橋大黒町の「酢屋嘉兵衛」(中川嘉兵衛)店頭で毎年11月15日に追悼式が行われている 撮影は2011年11月15日夜 龍馬は襲撃される約1年前までは材木商・酢屋の二階(南西側角部屋)を寓居(下宿)としていた
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酢屋前で 左は2012年11月撮影 右は2011年11月 *酢屋の大おばあちゃん(午前中に建物右端の住まいの玄関前で時々見かけて挨拶していた)元気にしているかなあ
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(左写真)醤油商・近江屋跡・・・河原町通の拡張により敷地の半分以上が道路となってしまった 幕末の河原町通は現在の東側の歩道辺り 石碑はコンビ二前にあるが写真左端のパチンコ・キングの位置が近江屋だった (右写真)近江屋の実物大再現・・・中岡慎太郎と歓談していた二階西奥の部屋
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近江屋で葬儀が執り行われた後 11月17日夜に東山・正法寺への参道(霊山正法寺道)をおそらくは通り 現在の霊山護国神社の管理する墓地に3人(下僕・山田藤吉も)は葬らる(当時は正法寺境内に1809年文化6年に創建された霊明神社であった) (左写真)正法寺への石段 真っ暗な闇を提燈の明かりを頼りに登ってゆく葬列が見える(ようです) (右写真)石段手前から振り返った京都市内・・・下り坂の先はT字路で清水寺へ向う二寧(二年)坂 八坂の塔が望める この石段下南側の路傍に2010年10月に京都龍馬会によって「幕末志士葬送の道」碑が建立されている 
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向って左が坂本龍馬 右が中岡慎太郎の墓石 左奥に藤吉の墓 右写真は墓域脇の説明板(神社なので日露戦争日本海海戦の際の龍馬に係る夢の話が大きく紹介されている)

横須賀・京急大津 お龍の墓 信楽寺http://zassha.seesaa.net/article/135995149.html
横浜 料亭・田中家の「おりょう」http://zassha.seesaa.net/article/380154207.html
高知 坂本龍馬生誕地http://zassha.seesaa.net/article/380242659.html
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2013年11月09日

京都 京料理・瓢正と川端康成の「古都」

1961年(昭和36年)10月8日より朝日新聞に連載開始(全107回)された川端康成の小説「古都」に、「瓢正」(ひょうまさ)の名が名物料理とともに登場します。京都を舞台に、移り行く四季の自然と行事を織りあわせて描かれたこの物語に、多くの有名老舗とともに「さらっと」描かれています。創業からわずか9年目で。
川端は「古都」・「美しさと哀しみと」両篇の執筆のため京都に家を用意しており、すでに先斗町の花街で名が知れてきた「瓢正」を誰かに紹介され知ったのでしょう。1952年(昭和27年)に創業した「瓢正」は、周辺(先斗町)への開店挨拶に用いるために「笹巻きずし」を考案し配り回っている。小説に登場した頃には「笹巻きずし」は、先斗町歌舞練場の楽屋見舞や手土産として名物となっていたのでしょう。
「古都」(新潮文庫版)P100から <千恵子たち、親子三人は、中庭にのぞむ、奥の座敷で、夕食に向っていた。「今日は、島村はんから、瓢正の笹巻きずしを、たんといただきましたさかい、うちでは、おつゆだけで、かにしてもらいました。」と、母は父に言った。「そうか。」 鯛(たい)の笹巻きずしは、父の好物である。>
えっ、それだけ。これだけです。全9章が観光名所案内記風に書かれたこの小説では老舗といえど、ほぼ1行。セリフに店舗名だけ登場して通り過ぎてしまう場合が多いのです。(文庫版では)「瓢正」はなんと5行も費いやされているのです。
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夕闇がせまる頃 夜のメニューが用意されます(下段に料理案内写真追加)17時30分から (右写真)高瀬川を背にして撮影 数軒奥に名店「たん熊北店」と並びます
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昼と夜で暖簾を使い分けている・・のではなく 夏・冬期の季節で使い分け
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川端康成の小説「古都」に登場する名物の鯛の笹巻きずし 5個入り2300円
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店内に飾られた芸舞妓さんらの名刺替りの団扇 白木のL字形カウンター(テーブル席も有り)で昼のみ笹巻きずしセットが頂けます(12時〜14時LO 昼メニューは笹巻きずしだけ 夜は持ち帰り専用 火曜定休)
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2013年11月08日

京都 虎屋菓寮一条店(虎屋発祥地)

<和菓子の歴史は、虎屋の歴史です。>(虎屋HPより)
虎屋の歴史が綴られているHPには、奈良の古(いにしえ)から禁裏御用を務めてきたという伝承は記載されてません。<室町時代後期に京都で創業する。1586年の後陽成天皇の即位に始まる在位中に御用を務める 。>と文献(御用開始時期が記載された「御出入商人中所附」1754年)で証左された時代から記述が始まっています。1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦での西軍敗北に際して、犬山城主の石河備前守を「市豪虎屋」が匿ったとの記述が妙心寺の文献に残されており、すでに大店(おおだな)であったことが証明されてます。その35年後の、残存している最も古い御用記録「院御所様行幸之御菓子通」には「やうかん、あるへいたう、らくがん、大まん、まめあめ」等の多くの菓子名が記載されています。
明治維新による江戸(東京)遷都に際して12代目の店主・黒川光正は御所御用菓子司として東下し、神田・丸の内・八重洲と店舗を構えては移転を続け、明治28年に赤坂の地に。現在の東京本店の地(旧町名は赤坂表町)に店を構えたのは1932年(昭和7年)になってから(拡張前の国道246号の道路上に)。
京都の虎屋一条店が文献で証明される発祥地と特定できるのは、東京進出に際して黒川光正が御所西辺に接するこの店舗をそのままにしていたため。
 虎屋一条店HP http://www.toraya-group.co.jp/products/pro09/pro09.html
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御所を背にして・・・手前は烏丸通 虎屋一条店(販売のみ・年中無休)
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(左写真)虎屋一条店の路地(一条通)を西に入ると虎屋菓寮一条店に(右写真)
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虎屋菓寮一条店玄関前で 虎屋ギャラリーが併設
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上写真の人が見ているメニューです 7月七夕限定メニューの「天の川」・・天の川に見立てた白の細い煉羊羹 星は白胡麻
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季節限定「夏の野」・・紅餡の透けかたがほんのりと美しい
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菓寮(カフェ)からの奥庭の眺め
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店舗情報 最寄駅は地下鉄烏丸線今出川駅(JR京都駅の地下から乗れます) 専用駐車場有り(周辺は一方通行)
 *赤坂とらや本店http://zassha.seesaa.net/article/27470867.html
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2013年11月02日

京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」

作家・織田作之助は、1946年(昭和21年)1月に笹田和子と再婚(挙式は2月)するが妻方の反目により2月末には破綻してしまう。3月下旬に(織田作は)空襲で焼け野原となった大阪を離れ、仕事場を空襲が限定的で被害の少なかった京都に移す。三高時代(現・京大教養)からの友人・柴野方彦(世界文学社社長)の下鴨の家や、松竹下加茂撮影所(出町柳)の知人方や、老舗旅館・柊屋、鴨涯荘旅館、そして今回ピックアップする千切屋旅館別館などの宿所を転々として執筆する生活に入ってゆく。3月末から後世に評価の高い作品群を連発し始める。「昨日・今日・明日」「アド・バルーン」「注射」「訪問客」「競馬」「神経」「世相」(阿部定事件をモチーフ)「女の橋」「夫婦善哉後日」等々・・・ヒロポンを打ちながら精神を昂揚させて払暁までの執筆を続ける。4月下旬に新聞小説の掲載が開始すると多忙さはピークに達する。4月25日から京都日日新聞夕刊に、京都を舞台にした「それでも私は行く」(7月25日完結)が連載開始。さらに5月24日からは重複して新聞小説「夜光虫」の連載も始まる。
新聞小説「それでも私は行く」は京都・先斗町のお茶屋「桔梗屋(ききょうや)」の美貌の三高生の息子・鶴雄を主人公にして、毎回、目的もなく市中を歩くまわる姿が実在の町名や店名とともに描き出されてゆく。
鶴雄は寺町通の錦ビルにある「世界文学社」(織田作の友人・柴野の会社が登場)をたずねると、偶然そこには「小田策之助」(もちろん織田作本人)と出会う。その作家はこれから書く小説「それでも私は行く」のモデルになってくれと依頼してくる。毎回に渡って知人・友人らが変名で続々登場し、「小田策」もその執筆している「ちぎりや別館」で本人そのままに描かれる。読者は次回はどの町が舞台になって、どの店が出てくるのか楽しみで待ちきれないはず。読者をひきつける術を心得た「織田作ワールド」が展開されるのです。
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小説「それでも私は行く」から「千切屋別館」が登場する場面を抜き出してみました 
<人通りが多いーというより、まるでどうしてこんなに人間がいるのかと、思われるくらい混雑している京極や、寺町通りを横切ると、もうそこは、打って変ったようにひっそりと静まりかえって、いかにも京都らしい家並みが続く蛸薬師通りである。ここは人通りもまばらである。その蛸薬師(たこやくし)の通りを西へ真っ直ぐー御幸町(ごこまち)を越え、麩屋町を過ぎ、富小路を二三軒西へ行くとちぎり家の別館があった。三条通りにあるような、大きな旅館ではない。しかし、町中でありながら、ひっそりとした蛸薬師通りにありそうな、こぢんまりとした小綺麗さの中に、古い格式の匂いを渋く漂わせたこの旅館は、時々鼓の音がする。お能の関係者がよく泊るーといえば、うなずかれるのだが、いかにも鼓の音でも聴えて来そうな旅館である。だから、看板もデカデカと大きくない。看板というより、門標といった方が似合う。竹に「ちぎりや旅館」とつつましく刻んである。その門標の掛った軒下へ、鶴雄を待たせて、宮子は中へはいって行った。>
左写真の左右の通りが蛸薬師通、左端の縦方向が富小路通 正面に見える雰囲気のある木造の建屋が地図で示したK家 千切屋別館はその右の大きなマンションの位置にありました 別館と北側向かいの本館ともに取り壊されてビルに建て替えられてます
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千切屋別館のあった両隣りのA家・K家の佇まいが織田作が表現した<古い格式の匂いを渋く漂わせたこの旅館>とぴったりとマッチング 織田作もこの町並みを見たことだろう
この小説には先述の通り多くの実名の建物・店舗が次々と登場します。冒頭に登場する四条大橋南詰の「東華菜館」、高瀬川沿いのしるこ屋「べにや」、河原町三條の「キャバレー歌舞伎」などなど。次は何処をアップしようかな。つまんねえから辞めたほうがいいか。
 *参考 中京区詳細地図=吉田地図社 「可能性の旗手 織田作之助」現代教養文庫 他
織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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2013年10月31日

京都 和菓子 するがや祇園下里

「するがや祇園下里(しもざと)」は、江戸期の1818年(文政元年)に総本家駿河屋より暖簾分けを受けて祇園村で創業(説明書には八坂神社の境内の一部で周辺では駄菓子「かんかん飴」を売る飴屋多しと記載)。京都市登録の有形文化財である茶屋風の木造二階の建物は、1895年(明治28年)の築造だが昭和10年頃に小火(ぼや)をおこし屋根部分のみを新しい木材を使い修理している。1階中央の出格子、2階の間口いっぱいの窓と張り出した手すり、軒下に吊るしたすだれ、思わずカメラを向けてしまいます。
現在地の祇園・末吉町が開かれたのは1712年(正徳2年)で、1745年頃より楼妓館が軒を連ね始める。創業当時は近辺はまだそれほど開けてなく八坂神社の参詣人目当てに商いをする飴屋のうちの一軒。三代目になって飴菓子の品質向上に励み、仕上げた菓子が現在でも店を代表する「祇園豆平糖」です。現在のご主人は6代目に当たります。京都の老舗和菓子25店で構成する菓匠会員にその名が記載(伏見の本家駿河屋・先斗町駿河屋と並び祇園下里の駿河屋系3店が会員登録)されている名店です。
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 *参考 「京都坊目誌」「京都 銘菓案内」等 菓匠会員の資料は左京区川端通二条の「京華堂利保」で目にしました
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2013年10月19日

京都 和菓子 末富 (ル プティ スエトミ)

京都市下京区松原通室町東に本店ビルを置く「京菓子司 末富」。
創業は1893年(明治26年)で、長い歴史を誇る京都の和菓子業界では新興の部類に分けられる。創業1804年(文化元年)の「亀末廣」(姉小路通烏丸東)から別家した初代が「末富」を興し、今年(2013年)で創業120年目。昭和45年に三代目を継いだ山口富蔵氏が現当主で、東本願寺・妙心寺・知恩院・東寺などの大本山の御用を務めており、茶道・三千家の出入も許されている。菓子司と冠するように、茶席での菓子を客からの注文により、季節や用向きを折りいれて作る上菓子屋です。主家の「亀末廣」は本店以外での販売は行っていないが、「末富」の華やかな菓子は、有名デパートの専用売り場などに出店しており(高島屋京都店地下など)容易に入手できます(観光土産売り場へは非出店方針)。「末富」を代表する一般販売の菓子は「野菜煎餅」。京野菜の牛蒡(ごぼう)・蓮根(レンコン)・木ノ芽をのせて焼いた玉子風味の煎餅で見た目も楽しめます(1050円〜)。上記の高島屋京都店地下の北東側にある専用売り場が豊富な品揃えで選択に困るほど。
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姉小路通烏丸東ル南側の本店ビル・・ここに出向く客は大量注文の予約客(?)・・個人客は少ないのかも 地下鉄五条駅が最寄り 
定休日 日曜・祝日 営業時間 9:00〜17:00
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ふわふわと口どけする煎餅「華ふうせん」28枚入り   末富ブルーの包装紙
 参考 亀末廣http://zassha.seesaa.net/article/351555574.html

以下は、河原町御池の京都ホテルオークラの北隣りで「末富」経営のカフェ「ル プティ スエトミ」。
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高瀬川の一之船入の先端のビル(ヤサカ河原町)1階に末富ブルーにつつまれた「ル プティ スエトミ」・・・一之船入を眺めるデッキ席が設けられてます  (左写真)木屋町通の高瀬川の岸辺から・・奥の突き当たりのビル1階がカフェです
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河原町通側に出入り口・・押小路の路地からデッキ通路でも入店可 右写真は窓際席からの一之船入・・・デッキ席の背もたれに少しだけ写る管理人と一緒にいった人
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<店内は末富ブルーで統一されシックで落ち着いた空間です>・・エントランスにあるポスターの宣伝文句をそのまま書き移し 左写真のガラスショーケースに和菓子などのサンプルメニューが置かれており選べます
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メニュー単価はややアッパーレベル設定・・ぜんざい(大徳寺納豆入り)1050円・あんみつ(こしあん)1050円・抹茶(一保堂)1050円・コーヒー787円・・・等々 気になるのが「ぜんざい大徳寺納豆入り」あの古代っぽい?大徳寺納豆が入っているのか?
 LE PETIT SUETOMI 営業時間 10時〜20時
  HP http://okura.kyotohotel.co.jp/restaurant/suetomi/ 
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2013年10月16日

京都 阿ぶり餅 一和

一文字屋和輔・・・屋号と名前を一字ずつ取って「一和」と称している茶店。
創業は1000年(長保2年)。伝承によるのだろうが、よくわからないほど昔。藤原摂関家が権力の中枢を占めていた時代で、おおまかだが「枕草子」「源氏物語」が成立し、陰陽師安倍晴明がその頃に世を去っている。その頃から餅をあぶり白湯(茶の栽培開始時期が不明・・宇治ではさらに百年後?)を振舞っている(のだろうか)。疑問符だらけになるので現代に。
今宮神社の東門前で2軒の茶屋が向かい合い競うように客を呼び込んでます。南側が「かざりや」で反対側が「一和」。今宮神社の写真2枚の内、境内から撮った分は1994年3月に訪れた時のもの。「一和」の店先で竹串に刺した餅を火床であぶっていた先代(23代)のおばあちゃんの言葉が思い出される(女がらみの話題なので内緒・・おばあちゃんの言葉通りにはならなかった)。10数年後に訪れても時が止まっているかのように同じ2軒の茶店から呼び込みの声がかかる。餅をあぶる香ばしい匂いも同じ。「一和」のおばあちゃんはすでに7年前に亡くなられていた。詳しい話を聞くことも無く「阿ぶり餅」を一人黙ったまま食べていた・・・2005年のことだったのかな。
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    今宮神社境内から・・東門の先にかざりや(右)と一和(左)
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(左写真)今宮神社南門・・今宮門前通から2012年撮影 (右写真)1994年3月撮影・・境内から
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手前のかざりやの角から一和の建物 竹串の先端に刺した餅を少し焦げ目をつけてあぶり 白味噌のタレにつけて皿に・・「阿ぶり餅」です
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地図左下に記入した京都市立紫野高校(旧制紫野中学)に通学していた作家・水上勉が そのエッセイに「2軒の餅屋」について記述している・・要約すると「放課後にこの朱の二重層門をくぐって境内に入って 二軒の餅屋の前を通り相国寺まで廻り道をして帰った」と旧制中学での日々を回想している 左写真の右から左へ旧制中学の制服を着た小僧時代の水上勉がトコトコと歩いてきそう
今宮神社の項の説明になる予定ですが 境内の地図に桂昌院の碑の位置に黒丸印・・桂昌院とは五代将軍綱吉の生母で三代将軍家光の側室お玉の方・・今宮神社の復興に寄与し「中興の祖」と称されてます 出身は京都西陣の八百屋の娘「玉」・・現在でも使われている言葉「玉の輿」のお玉さんです 今宮神社の見所です
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  一和 営業時間 10時〜17時 水曜が定休日(水曜が1・15・祝日の場合は営業)
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2013年10月15日

京都 宇治 通圓(つうえん)

宇治橋の東詰で茶舗を営む「通圓」(つうえん)。かき氷の吊旗やソフトクリームの大きなPOPが目立つ為に観光地特有の土産物屋兼休み処にみえますが、由緒を知ればその「歴史」に驚かされるのです。
略歴です。宇治橋の架橋は646年(大化2年)・・・日本史年表の最初のほうの「大化の改新」にワープです。この宇治橋を通る道は、古代から中世にかけての奈良と京都を結ぶ重要な大和街道。平治の乱の直後、1160年(永暦元年)に宇治橋の東詰に庵を結んだ僧形が現れます。名は「通圓」。源頼政の家臣だった古川右内が、頼政より「政」の字を賜って太敬庵通圓政久と号し草庵を結んだのです。1180年(治承4年)5月、頼政が以仁王を奉じて平氏打倒の兵を挙げると、通圓政久は馳せ参じたのですが宇治橋の合戦で主君頼政ともども討死。この主従の関係を物語った狂言が「通圓」です。初代通圓亡き後、子孫は草庵のある宇治橋東詰に住み、橋の管理にあたるとともに大和街道を往来する人々に茶を振舞って来ました。豊臣秀吉が京の聚楽第を廃棄し伏見に城を築くと、通圓は名水といわれた宇治の水を橋の三の間から汲み上げて城に届けた話が伝承されてます。茶舗として営業するのは明治期に入ってだが、建物は江戸初期の築と伝えられてます。
 *宇治橋の三の間・・「井原西鶴 好色一代男」(現代語訳)の主人公・世之介49歳・島原遊郭の高橋太夫の話に「三の間」が出てきます。「好色一代男」を読んでる人は少ないと思いますが、全編エロ話なので結構面白い。宇治橋まで水を汲みに行かせた話の(注)に「三の間」の説明・・・橋の西詰(JR宇治駅側)から第2橋脚と第3橋脚の間を流れる水は茶の湯用として当時賞味されていた・・・
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(左写真)通圓の正面 (右写真)宇治橋対岸(西詰)からの通圓 写真左端付近が「三の間」
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左右とも通圓の茶席・・・宇治橋を望める向きの席がお気に入り
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平等院の塔頭・最勝院(さいしょういん)にある源頼政の墓の傍らにある通圓の墓・・自然石に「太敬庵通圓之墓」と刻まれている
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 *参照 最勝院の通圓家の墓の説明板 他
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