明治2年9月4日晩、京三条木屋町の長州藩抱屋敷に宿泊中の明治新政府の要人、兵部大輔(ひょうぶたいふ)・大村益次郎が、8名の刺客に襲撃された。
直ちに発せられた至急報は、9月10日早暁、箱根宮の下で温泉療養中の木戸孝允(旧姓名・桂小五郎、前年まで明治新政府の総裁局顧問、自邸は九段富士見町、療養のためか大の温泉好き)のもとへ届いた。
9月10日付けの木戸の日記から。
<<同十日 朝微雨暮に至ら甚し 今暁河村謙蔵来る 槇村半九郎河田佐久馬の至急書翰を出す
去る四日晩 大村益二(ママ)郎京都木屋町三番路次の寓へ刺客八人亂(*乱)入
静間彦二郎加州人安達某 難に死し 大村家来一人翌五日に死し 一人数ケ所の瘡を受く
天哉大村数所の大瘡を受ると雖(いえど)も性命(*生命)無恙(つつがなく)由報知
余一旦大驚愕性命の無恙を見先一安堵せり
大村兼て余と大に諭し天下の形勢日々逼迫然して廟堂の諸子多くは一日の安きに
安じ一定の着目難立を歎す必此度上京に付京都の不規則を欲正且春来大に
十津川紛亂を欲定巨魁の姦人を捕縛す必浮浪種々浮言を以大村を暗殺せんと謀る
大村の此危を免る寶(じつ)に天助ならさん哉
家妹の書寺内暢三の書到来今夕・・・・(略)>>
*原文にルビ等は無し。
8名(3班)の刺客に包囲され急襲を受けた長州藩抱屋敷跡に設置された「兵部大輔従三位
大村益次郎公遺趾」の石柱。押小路通が高瀬川を渡り木屋町通に接する 一之船入の東付近。
重傷を負った大村は、いったん近くの長州屋敷(現在敷地一部で京都ホテルオークラが営業中)に収容され、さらに本格治療を受けるため伏見(一泊)経由で下阪する。移転まもない大阪病院で蘭医アントニウス・F・ボードウィンの手術を受けるが、11月5日(旧暦)に敗血症で死去した。この襲撃から死去までの経過を、史料を縦横に駆使し、かつ緻密な筆致で描ききった村松剛の大作「醒めた炎―木戸孝允」から抜萃。幕末物の小説では村松剛のこの大作と海音寺潮五郎の諸作が好物。もちろん吉村昭の労作群は別格扱い。あとは・・・いらない。
<<森寺の来訪の翌日に、大村益次郎が京都に向かって発った。大阪に陸海軍の兵学寮を創設することが、大村の出張の目的である。大村はひどく船酔いするたちだったために、船旅が嫌いだった。――船嫌いでなければ、とうに洋行していただろう。自分でそういっていたほどで、このときも甲州経由木曾路を通っている。ことさらに山中のみちをえらんだのは、刺客を避けるためだった。彼は国民皆兵論を主張したことによって多くの武士たちの恨みを買い、「神州の正気」を汚す洋化論者の代表のように攘夷派からは思われていた。そのうえに上野の戦争のころから大村を憎んでいた薩摩の海江田信義(かいえだのぶよし*旧名有村俊斎、西郷・大久保らと精忠組結成)が、新設の弾正台の京都支台勤務を命じられ、大村よりも二日ばかり遅れて京都に行く。木戸は大村の身辺を心配して長州出身の京都府権大参事、槇村正直(まきむらまさなお*第2代京都府知事)に手紙を書き、海江田は信用できないから警戒を厳重にしてほしいとたのんだ。>>
長州藩抱屋敷(民間所有の土地家屋を買上した屋敷)跡の高瀬川対岸に設けられた大村益次郎卿遭難之碑。
<<(略)三條木屋町の長州藩抱屋敷に、大村益次郎は逗留した。二階建の小さな家屋で、東は鴨川に面している。大村は兵制の洋式化を推進しながらも自分は洋服を嫌い、生涯和服しか着用しなかった。たいていは黒羅紗の筒袖に、裁付の袴である。裁付袴(たっつけばかま*相撲の呼び出しが着用)は伊賀袴と似て、膝から下が脚絆になっているから旅行には便利だが、こんな服装の男が従四位兵部大輔とはだれも思わない。紙屑屋にしては黒の、それも羅紗をつかっている点が不釣合であり、――金まわりのいい行商人か、くらいにひとは思ったであろう。
政府が東京に移転してからあとの京都の町は、火が消えたように淋しかった。しかし治安はかっぱらいがふえた程度で格別わるくはなく、心配する必要はないと大村は木戸に報告している。
海江田信義は京都の情勢の不穏さを理由に弾正台の創設を大久保(*薩州出身大久保利通)にすすめ、みずからその大忠に任じた。大村の木戸宛書簡によれば京都は、
「東京にて傳聞つかまつり候模様よりも治りいたつてよろしく、この上は漸をもつて御政務御改革、諸有司心を用ひ候はば、大に萬民の大幸と存じ候。」(八月十八日付)
この手紙を書いた翌翌日に彼は大阪に下って兵学寮と鎮台との建設予定地を検分し、さらに天保山の軍艦泊地を調査してから、陸路山崎、嵯峨経由で京都にもどった。陸路をとったのは刺客の群が伏見にいる、という密報がはいったことによる。(略)
伏見大阪間を八人の男たちが慌しく往復するのを、海江田は見て見ぬ振りをしていた可能性が高い。京都にもどった八人は大村が彼らといれちがいに帰京し、木屋町に滞在していることをつきとめた。九月四日の夕刻、大村は二階の奥の四畳半で英学教授の安達幸之助、長州藩第二大隊司令試補の静間彦太郎を相手に酒を呑んでいた。秋もすでに深く、鴨川の風が涼しい。安達幸之助は加賀津の足軽の息子で大村にはやくから師事し、安政三年には大村にすすめて私塾を開くことを決意させた。
それが一番町の鳩居堂(*東京千鳥ヶ淵、村田蔵六の名で幕末の切絵図に記載されている。私塾名は記入無し)であり、安達はのちにその塾頭をつとめる。粗食に甘んじて日夜読書にふけったために眼をわるくし、友人にすすめられて泥鰌(どじょう)を毎日食べて辛うじて視力をとりもどした。講武所や藩の学校で洋式兵学を教え、維新後は大村の推挽によって兵部省の英学教授となる。
安達と大隊司令試補の静間との用件は、京都河東の練兵場(*荒神橋の東詰付近か?)に開設される陸軍伝習所にかかわる問題だったであろう。大阪の兵学寮ができるまでのあいだ速成の士官養成機関をとりあえずここにおくことが決せられ、伝習所は翌五日から講義と訓練とを開始する予定になっていた。
二人づれの男が訪ねて来たのは、夕方の六時ころだった。
萩原秋蔵と書いた名刺をひとりが差出し、――大村先生に面晤(*めんご=面会の意)を得たい。大村は公用なら明日役所に来てほしい、私用なら明後日だといった。若党の山田善次郎がその由を伝えると、二人はぜひ今晩お目にかかりたいのでもういちど取次いでほしいとたのんだ。取次ぎの要求は、大村の在宅をたしかめるための手段だったのである。萩原秋蔵という名刺は首謀者の神代直人があらかじめ書き、久保田藩の金輪五郎に渡しておいた。若党の山田が二度目の取次ぎのために奥にひきかえすと、二人――金輪五郎と團伸二郎――はそのあとを追って駆込み、山田を滅多斬りにした。
兵部省の後日の報告によると、彼は左手首を斬落され腹部に深さ一尺に及ぶ傷をうけていたほかに、左右の肩から腕にかけて四箇所を斬られている。山田は主人を守るために、素手で最後まで抵抗したらしい。両腕の傷が、そのことを物語る。金輪は、――大村は国賊につき討ちはたす、家来のものどもも手向いいたせば討ちはたすぞ、と叫びながら二階に駆上った。
大村の護衛として東京かち随行した篠田武造は、どういうわけかこのとき宿舎にいなかった。もうひとりの従者である兵部省作事取締の吉富音之助が騒ぎを聞いて別室からとび出したときには、二人の刺客は二階に上ったあとであり、襲撃第二班の三人のうちのひとり、宮和田進(三河浪士)と階下の八畳でぶつかった。吉富は自分も傷をうけながら宮和田に重傷を負わせ、逃げる敵を追って河原に出たところで三人の刺客にかこまれた。刺客団は玄関から乗込む二組の襲撃班のほかに、河原に三人を配していたのである。>>
鴨川河原(二条大橋から下流を撮影)。右岸100m先に長州藩抱屋敷があり、河原に3名の刺客が伏せていた。月明りの下(推定!)で乱闘となり、河原は血で染まる。この事件の7年前(文久2年7月)、写真と全く同じ位置で、長州藩抱屋敷の手前辺りの待合で妾と逢瀬を重ねていた反尊攘派の九条家士島田左近が、薩摩の人斬り田中新兵衛に襲われ、河原から二条大橋脇に駆け上ったところの善導寺門前で首を落とされる事件(新兵衛による最初の暗殺)が起っている。奥に見える橋は事件当時は未架橋の御池大橋。
<<大村に最初に斬りかかったのが、團だったか金輪だったかはわからない。彼は四畳半の床柱を背にして、坐ったままだった。一の太刀によると思われる額の傷が比較的浅かったのは、天井が低くて刀を振りかぶれなかったうえに、手前の窓際に安達と静間とがならんでいたから、踏込みにもためらいがあったためかと思う。安達は師の大村と同様に剣がつかえないし、静間は大小を階下において来ていた。――賊だ、と叫んで安達は河原にとび降り、静間がこれにつづく。このことが大村の命を、一時的に救った。うす暗い四畳半のなかの乱闘だから、刺客の方もどれが大村か見分けがつかない。賊だと叫んで二人が河原にとび降りたのに釣られて、團も金輪もそのあとを追った。床柱を背に坐っているもうひとりの男の姿は、彼らの眼にははいらなかったのだろう。安達を背後から斬ったのは、團伸二郎だったようである。大村と思いこんで「追ひかけ切りつけ」と團は供述書のなかでいい、安達は、――兵部省の報告書によると――後頭部と肩とを斬下げられていた。すでに致命傷をうけていた安達に、河原で待っていた神代がさらに斬りつける。安達幸之助は即死。享年四十六歳(ママ)。安達と大村とは、年齢が同じだった。背恰好も似ていたと見えて紳代直人が團に、――兵部大輔に相違ないか。まちがいない、と團はこたえた。実は團も大村を、よく知らない。(略)
のちの検屍によると静間は背中から腰にかけて三箇所を刺され、傷は「いづれも深く胴内にとほり即死」。
兵部省作事取締の吉富も八箇所に斬撃を浴び、河原に倒れた。この間大村は階下に降りて、浴室の風呂桶のなかにひそんだ。刺客八人のうちで伊藤源助と太田光太郎は、刀をつかっていない。この二人は宮和田とともに襲撃の第二班に属していたのだが、彼らが玄関に踏込んだときには殺戮の舞台はすでに河原に移動していた。
吉富に斬られた宮和田は、歩行が不可能だった。
――とても逃亡はかなわぬ、斬ってくれ、
と彼は仲間にたのみ、越後の五十嵐伊織が二条通東河端で斬首して首を鴨川に放りこんだ。
惨事を京都府がいつごろ知ったのかは、よくわからない。京都府から兵部省に通達があったのが午前一時であり、府の役人が報告をうけたのはそのまた少しまえと考えられるから、重傷の山田、吉富も風呂桶のなかの大村も、二、三時間は放っておかれたのではないか。山田は翌朝、絶命した。大村は額や膝等六箇所に傷を負いながらも比較的に元気で、駆けつけて来た見舞客に、――しばらく栄螺(さざえ)のまねをしました。無愛想なこの男にしては珍しく、冗談をいった。しかし風呂桶の底には不潔な残り湯がたまっていて、それが膝頭の傷口にはいったことから敗血症をのちに惹き起す。
木戸が最初の上書を提出した日に、大村益次郎は京都から水路大阪に移された。蘭医ボオドインの治療をうけるためであり、船着場までは寺内(*後の陸軍元帥伯爵・寺内正毅)や兒玉(*後に陸軍大将・児玉源太郎)が担架をかついだ。大村は東京から駆けつけて来た兵部権大丞、船越衛に、「今後注意すべきは西である」といい、四斤砲(*野砲・4Kg砲弾)をたくさん製造しておけ。西とは、薩摩と朝鮮とをさす。
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大阪市中央区法円坂の国立大阪医療センターの東南角地にある巨大(尊大)な兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑。大村益次郎のレリーフが嵌め込まれている。
船越衛への指示のひとつに「切断した足は緒方洪庵墓の傍らに埋めること」が伝わる。大阪北区同心町の龍海寺の師緒方洪庵の墓(遺髪墓)の脇に大村益次郎の足塚が遺言通りに築かれている。緒方洪庵は、幕府奥医師として招聘(文久2年8月)された翌年(文久3年6月10日)に江戸下谷御徒町の西洋医学所頭取屋敷で喀血し急逝、駒込(白山向丘)の高林寺に埋葬された。その緒方洪庵が大坂で主宰した蘭学塾適々斎塾(適塾)で大村は蘭学・医学を学び(弘化3年入塾)、塾頭まで登りつめている。
大坂瓦町の適塾玄関(天保9年開塾)。
緒方洪庵墓(遺髪墓)がある逢來山龍海寺。
緒方洪庵の本墓がある駒込高林寺(左は夫人八重の墓、昭和11年に道路拡張の為ここに移動)。2008年撮影。
<<(略)大村は十一月五日(*旧暦)に、大阪で死んだ。ボオドインが右脚切断の手術(*10月27日、上本町・大福寺内設営の仮病院から移転した直後の法円坂の大阪病院にて右大腿部切断)をしたときには、敗血症はすでに進行していたのである。東京でその訃報をきいた木戸は、悲歎のあまり声も出なかった。大村に彼がはじめて会ったのは吉田松陰の江戸送りの少しまえだから、十一年のむかしになる。それいらい大村をつねに「先生」として遇し、藩に推挙してついには新政府軍政の中軸に坐らせた。木戸が本当に気を許してはなしのできる相手は、長年の子分の伊藤博文をべつとしていまは大村だけだった。二人で兵制の大改革に乗出そうとしていた矢先の死であり、まさに「茫然気を失ひしがごとし」 の思いだったであろう。>>
京都霊山護国神社にある大村益次郎の墓碑(高知招魂社の脇)。
東京の木戸孝允邸のすぐ南、靖国神社参道に設置された大村益次郎銅像(明治24年10月大熊氏廣により塑像完成、明治26年2月5日竣工、鋳造は東京砲兵工廠、同日午後除幕式)。大村像は、靖国神社の前身東京招魂社創建(戊辰戦争戦没者慰霊)の功績により招魂社内に建立された。
(*)は原文に無し。
参考
「木戸孝允日記1」(慶応4年・明治元年〜4年)昭和8年復刻版・日本史籍協会叢書
「醒めた炎ー木戸孝允」村松剛1987年中央公論社(日経新聞昭和54年5月6日〜昭和58年1月30日連載初出)
「幕末維新江戸東京史跡事典」
「江戸史跡事典」2007年版