永観二年(984年)八月、円融帝が譲位し、懐仁親王が立太子礼(皇嗣)宣命。同年十月、花山(かざん)天皇即位。だが二年と経たぬ寛和二年(986年)6月、花山帝はひそかに花山寺で出家する。天文博士(当時)安倍晴明邸に南面する土御門大路を往く帝(みかど)と、この退位を予知した晴明のあわてふためく声とが暗闇の大路に交錯する。これが学習院中等科4年の平岡公威(16歳、後にペンネーム三島由紀夫)が、「大鏡」(六十五代花山院)に取材した作文「花山院」(昭和十六年二月脱稿・中等科提出作文)に描いた場面である。翌月、一条天皇(居貞親王)が即位。その一条帝の寛弘ニ年(1005年)九月、安倍晴明は没する。八十五歳と推定されている。墓は嵯峨の長慶天皇陵の南傍らにある。

(写真)職神(精霊)を自在に駆使した天文博士・安倍晴明の邸宅址の一部に建つ京都ブライトンホテル。
花山帝出家の翌年永延元年(987年)、晴明は蔵人陰陽師(天皇直属)に昇進する。さらに6年後、従四位上(じゅうしいじょう)に昇る。写真(フィルム)は吹き抜け3階廻廊から見たロビー(地表)、何かしら晴明邸の建物があったかもしれない。

(写真)同じく京都ブライトンホテル3階(308)ツインルーム。諸税込みで1泊2万5千円超え。
西向きの窓下には西洞院通が見える。テレビが時代を感じさせる。
三島由紀夫「花山院(かざんいん)」より抜粋。
<<(略)「御門前にみくるまをすゑましてはこんな夜半とは申せ、人目がうるさうござります、ほんの一、ニ丁ばかりおひろひの程を。・・・なに、二番目の小路にみくるまをお待ちいたさせておきます」と道兼は奏(まを)し上げた。角立つのをうるさく思し召して、あゝさうか、とおほせられる。
土御門(つちみかど)をおでになると、夏草の一むらに露が繁くおりてゐた。蛍が幽かに草の葉を離れ、遠ざかるにしたがつて星にまぎれた。かたぷいた月影は御身(ぎょしん)と道兼の、ながながしいおん影をくゆらせた。雲が通つたのである。 安倍晴明の門前をおとほりあそばすと、灯(ともし)をけしてしづまつてゐる軒々にひき比べ、灯があかあかとついて、なにやらさんざめいてゐる模様である。つゞいてはたはたと主人(あるじ)晴明の手をたゝく音にまじつて、みづからの声で、「御退位の天変がはや実際(まこと)にあらはれたわ。奏せずばなるまいに、車の装束を早う、早う」といつてゐるのを聞し召して、ふとおん涙をおこぼしになつた。その御様子に流石(さすが)に道兼も、ようおせきたてするお言葉とてない。
「取あへず式神ひとり内裏(うち)へまゐれ」とつゞけて言ふ声の終らぬかに道兼はぎくりとした。目にみえぬものゝ押しあけた戸から、灯(ともしび)が道へ流れ出してひろがつた。みるまに黒い羽搏(はばた)きがおこつて、そのわたりの夜気を息苦しくふるはせながら、土御門のはうへ舞ひのぼつて了つた様子である。 帝(みかど)はなんともおほせられない。みまゐらせたところではお口もとにわづかなおん微笑(ほほゑ)みさへうかべてをられるやうだ。道兼はあたりにひしめく神の気配に愕然とした。仕草にこそ出さなかつたが、一瞬道兼はおんすがたを心のうちに合掌申し上げたのである。>>
「決定版 三島由紀夫全集15」2002年新潮社刊収録「花山院」より。

(写真)81歳で左京権太夫に昇った安倍晴明像(大阪阿倍野区の安倍晴明神社)

(写真)京都右京区嵯峨の長慶天皇陵の南傍に安倍晴明の墓が建てられている。

(安倍晴明邸見取り図)
「花山院」の原拠となった「大鏡」第一巻六十五代 花山院より。
<<次帝、花山天皇と申き。(御いみな師貞)冷泉院第一皇子也。御母、贈皇后宮懐子と申。太政大臣伊尹(これまさ)のおとゞの第一御女なり。このみかど(*花山)、安和(あんな)元年戊辰十月廿六日丙子(ひのえね)、母かたの御おぼぢの一條の家(*母方の祖父の一条邸で誕生)にてむまれさせ給とあるは、世尊寺(せそんじ)のことにや。(略)
天元(てんげん)五年二月十九日、御元服、御とし十五。永観(えいかん)二年八月廿八日、位に(*17歳で即位)つかせたまふ、御とし十七。寛和(かんな)二年丙戊(ひのえいぬ)六月廿二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にもしらせさせ給はで、みそかに花山寺(はなやまでら*東山区北花山の元慶寺)におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ、御年十九。よをたもたせ給事、二年(*天皇在世はわずかに2年間)。そのゝち廿二年おはしましき(*その後、法皇として22年間在世)。(略)
さて、みかどよりひんがし(*東)ぎまにゐていだしまいらせ給に、晴明(*天文博士)が家のまへをわたらせ給へば、みづからのこゑにて、手をおびたゝしくはたはたとうつなる。「みかどおりさせ給ふとみゆる天変ありつるが、すでになりにけりとみゆるかな。まいりてそう(*奏)せん。車にさうぞく(*装束=準備の意)せよ」といふこゑをきかせ給ひけん、さりともあはれにおぼしめしけんかし。
「かつがつ式神(しきじん)一人、内裏へまいれ」と申ければ、め(*目)にはみえぬものゝ、戸ををしあけて、御うしろをやみまいらせけん、「たゞいまこれよりすぎさせおはしますめり」といらへけるとかや。そのつち御かど(*土御門)まちぐち(*町口)なれば、御道なりけり。花山寺におはしましつきて、御ぐし(*髪)おろさせ給てのちにぞ、あわた(*粟田=藤原道兼)殿は、「まかりいでて、おとゞにも、かはらぬすがた今一度みえ、かくと安内(*案内)申て、かならずまいり侍らん」と申給ひければ、「我をばはかるなりけり」とてこそなかせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。(略)
(寛弘五年二月八日、うせさせ給ふ。御年四十一。)>>
この花山院失踪出家事件は、「栄花物語」「愚管抄」にも記述があるが省略。
また、安倍晴明邸の位置は、「今昔物語集」巻24に記述がある。
<<「安倍晴明、忠行に随い道を習う語」第十六
今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師がいた。古人に恥じぬ達人であつた。幼時から賀茂忠行という陰陽師について、昼も夜もこの道を習つたが、いささかの心もとなさもなかつた。
ところで、晴明がまだ若かつた頃、師の忠行が、下京のあたりに夜間出向いて行く供をして、師の車の後について、歩いて行つたことがあつた。忠行は車の内で、すつかり眠りこんでいたが、晴明がふと見ると、なんともいえぬ恐ろしい鬼どもが、車の前に向かつて来るのであつた。これを見て驚いた晴明が、車の後に走り寄つて、忠行を起こして、その旨を告げると、その時に忠行もはつと眼をさまし、鬼の来るのを見て、術力によつて、たちまち自身も供の者どもも恐れのないように隠して、無事に通り過ぎた。その後、忠行は、晴明を手離しがたく思い、まるで瓶の水をうつすように、道の奥秘を余すところなく教えた。そこで、晴明はついに、この道に関して公私に用いられ、すばらしい達人となつた。
やがて、忠行が死んで後、
この晴明の家は土御門大路よりは北、西洞院大路よりは東にあつた。(略)
この晴明は、家の内に人のいない時には、式神を使つたのであろうか、誰もいないのに、格子戸をあげおろししたことがある。まだ閉ざす人もいないのに、門が閉ざされたりすることがあつた。このように驚くべきことが、たくさんあつたと語り伝えている。その子孫は今も朝廷に仕えて、世の尊敬を集めている。その土御門の家も、代々伝えられて残つている。その子孫の家では、最近になるまで、式神を使う音が聞こえた。(略)>> 「今昔物語集本朝部」東洋文庫1967年12月初版(平凡社)より
参考 「日本史年表」1966年岩波書店刊
「決定版 三島由紀夫全集42」(年譜)新潮社刊
「大鏡全評釈」1979年學燈社刊
三島由紀夫リンク
奈良 円照寺 三島由紀夫「豊饒の海(一)春の雪」より
http://zassha.seesaa.net/article/442450850.html