2013年10月12日

京都 和菓子 大極殿本舗・六角店 甘味処・栖園(せいえん) PART2


栖園の人気メニュー「琥珀流し」(こはくながし)の年間ラインナップ9品をそろえてみました(9月のみ店頭サンプルで代用)。厳冬期を除いた3月下旬から12月までの月替わり限定メニュー。月毎に季節の具材と味付けの蜜が替わってゆく冷たい寒天菓子です。テーブルに置かれた瞬間にグラスのなかで光の反射をともなって揺らめく様は視覚からも期待を膨らませてくれます。
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    3月下旬〜4月のファン待望の春を告げる桜蜜の琥珀流し
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            5月の抹茶小豆の琥珀流し
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    6月の梅と梅酒蜜の琥珀流し
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            7月のペパーミントの琥珀流し
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   8月の大人の味の冷やし飴の琥珀流し・・一緒の甘いもの好きの方は「これダメ」
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          9月のワイン(葡萄)の琥珀流し *店頭のサンプルで代用
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    10月の栗と餡の琥珀流し
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       11月の柿の琥珀流し 柿は二通りの食感を楽しめるよう硬さを違えてます
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     12月の黒豆の琥珀流し

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甘味処・栖園は大暖簾を撥ねたら右奥です・・混雑時は名前を記帳して順番待ち 座れる場所は(左写真・UEちゃんが座っている)注文待ち用の数脚のみ
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夏の限定メニュー「かき氷」は9月30日まで
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大極殿本舗六角店(甘味処・栖園)は 京都で片手の指を折って数えられるお気に入りの店のひとつです(テレビ番組で紹介された直後の大混雑には辟易・・知らん顔で通過することがしばしばですが)
*甘味処・栖園(せいえん)の店舗情報は PART1を参照
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2013年10月11日

京都 和菓子 大極殿本舗・六角店 甘味処・栖園(せいえん) PART1 

京和菓子の大極殿本舗が創業したのは1885年(明治18年)。京都では室町時代〜江戸初期の創業を看板にする店が居並んでいるので、明治の創業だと「老舗」とは云いずらいです。創業地は現在の本店(高倉通四条上ル・大丸百貨店の東隣り・販売のみ)よりさらに四条通を南側に越えたところ(東洞院四条下ル)。「山城屋」を屋号として和菓子の販売を始め、2代目が長崎でカステラの製造を習得し「カステラの山城屋」として知名度を上昇させ、大正5年になり現在の本店所在地に移りました。
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1916年(大正5年)に本店はこの場所に移転(左写真)・・3代目が創作した「平安神宮名菓・大極殿」(右写真)が大極殿本舗(だいごくでん)を代表する銘菓となっています
 本店 営業時間 9時〜19時 無休 中京区高倉通四条上ル

以下から 大極殿本舗六角店と併設された甘味処・栖園(せいえん) 雑誌・テレビ等で度々紹介されているため常連客・観光客をも含めて店内は混雑(休日は大混雑)が常態化 芝田の女将さんが取り仕切ってますが「テレビで紹介されたので・・・」と困惑しながらも嬉しそう
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玄関の大暖簾は季節・京都の行事にあわせて替わってゆきます 5〜7種類はあります(女将さん談)
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(右写真)レジの裏にある座敷席(母屋の手前の部屋)は主に団体が使用 屏風も季節の絵柄に替えられるので訪れる楽しみのひとつになっている
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栖園(せいえん)の椅子席からの中庭 右写真は2代目が長崎で製造を学んだ「カステイラ」
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続きの写真を全て見る
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2013年10月04日

京都 カフェ UNIR(ウニ−ル)御幸町店 閉店

*2015年11月に閉店(2016年東京赤坂店・大阪梅田阪急本店内に新展開)。
京都・長岡京市に本店焙煎所と長岡天神店を構えて評価の高いコーヒー専門店「UNIR」(ウニール)が、京都市内中心部に最初に店舗展開したのが「UNIR京都御幸町(ごこまち)店」(2012年4月29日オープン)。
高品質のスペシャルティコーヒーを国内トップレベルのバリスタによって提供している。
(2012年末まで)近所に住んでいながら店の存在を知ったのはオープンから半年近く経った10月になってから。同じ御幸町通沿いでありながら御池通には信号が無いため、ワンブロック東側の寺町通から南側へ渡るのが日常のコース。斬新な手作り豆腐店のオープンを知ったのも同じ日であった。
営業時間 10時〜21時
定休日 無休 
UNIR(ウニ−ル) http://www.unir-coffee.com/
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店内左側が販売コーナー。コーヒー豆200g以上を買うとコーヒードリンクが1杯無料サービス。カフェ利用の場合は、注文カウンターで豆の種類を数種の中から選択し、飲みたい種類(アメリカーノやカプチーノなど)を伝えて、それから会計。
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CINQ(長岡京市)のパンを使ったサンドウィッチやガトーショコラなどスイーツ類もメニューに並ぶ。
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無休営業だったが祇園祭(2013年)のためか臨時休業。
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ウニ−ル御幸町店跡にはスポーツ関連のオフィスが入居している。
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2013年10月03日

京都 北山 安藤忠雄の「陶板名画の庭」

安藤忠雄設計の「京都府立陶板名画の庭」。京都・地下鉄烏丸線北山駅の西側出入口に隣接した北山通沿いに公立の展示施設として1994年3月に竣工。入場料100円(一般)で安藤忠雄ワールドを体感できます。緩やかなスロープ(表参道ヒルズの地下へのスロープの原型風)と縦面(滝)と水平面(水盤)での水の多用が特徴として印象に残る作品です。上下左右の複雑な構造は省かれており迷路といえる箇所はほとんど無く、北山通をはさんだ西100mほどのところの安藤忠雄設計の「B-lock」(1988年竣工・商業施設)と見比べてみるのも楽しいです。安藤忠雄についての経歴は略(本邦建築界のリーダーです)。
 開園時間 9時〜17時 休園は年末年始のみ

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ほぼ原寸大(13.7mX12.2m)のミケランジェロの巨大壁画「最後の審判」の陶板画展示が圧巻

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2013年09月30日

京都 深草 陸軍第16師団司令本部跡

創立90周年(2013年)を迎えた学校法人・聖母女学院の本館は、1945年(昭和20年)8月までは「陸軍第16師団司令本部庁舎」の建物でした。戦後の1949年(昭和24年)4月に、国(大蔵省・大阪財務局)の管理下にあった本部庁舎を含む土地と元・騎兵第20連隊兵舎の払い下げを受け、翌年4月には続けて被服倉庫も払い下げ。京都で最初のカトリック学校として認可を受けた聖母学院の総合キャンパスとして現在に至ってます。
陸軍第16師団司令本部庁舎は1908年(明治41年)8月の竣工。設計は陸軍省臨時建築部。施工は単独受注の松村組(担当・八木伊三郎)。第16師団は日露戦争に際し臨時に編成された師団のひとつで、1907年(明治40年)9月に正式に深草村(現在の京都市伏見区深草田谷町)に設置が決定。
西側に正面を向けた銅板葺・煉瓦造のクラシックな建物は間近で見学可能。正門左手の警備担当者に一声かければ丁寧に説明パンフレットを頂けて「あの辺りまでは入って大丈夫」と案内してもらえます。
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戦時中は爆撃目標からのカモフラージュのため外壁は黒色に塗装したようです
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正門向かって右の民家脇に埋め込まれている陸軍の境界石 右は内部の写真説明もある上記のパンフレット 師団長室は2階フロア
*参考 「京都の近代化遺産」2007年
     「聖母女学院 本館のご案内」2012年(発行年?)
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2013年09月26日

京都 千本今出川 喫茶 静香

千本今出川の交差点を上七軒方向(西方向)に30mほど歩くと古い木造二階建ての店舗が並んでおり、その端にレトロな雰囲気の喫茶店が現れます。そこが「喫茶 静香」。
1919年(大正8年)に今出川通の拡張工事が終了した直後に、南側沿いに瓦葺の2軒長屋が新築されました。1938年(昭和12年)になって、その長屋の西側部分で開店したのが初代の喫茶店「静香」。先斗町の芸妓だった静香さんが開いたものですが、1年ほど後(昭和13年)に権利を譲り受けて、店を改修したのが現・オーナーの父にあたる方。東側部分も近年改修工事が施されて「串しずか」が営業してます。
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広い通りが今出川通 長屋の東側部分で営業している「串しずか」の位置が赤い旗指物の所
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「喫茶 静香」のエントランスには昔からの煙草販売コーナーがあります 昭和13年の改装工事を施したには岡田工務店
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内装はレトロそのもので 照明器具・テーブルと椅子・使い込まれた焙煎機・床のタイル・・大事に使われ続けています 客席の奥からは赤レンガ塀に囲まれた裏庭を見ることができます
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 京都市上京区今出川通千本西入ル南上善寺町164
 営業時間 早朝7:00〜19:00
 定休日 第2・4日曜 定休日が25日に重なった場合は営業
 *毎月25日は近くの北野天満宮の縁日・・バスは混雑し乗り切れず通過してゆきます
 *参考 「京都の近代化遺産」2007年  他
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2013年09月22日

京都 四条河原町 フランソア喫茶室

京都中心部で昭和初期に創業した喫茶店「フランソア喫茶室」です。
ほとんどの観光ガイド誌で取り上げられているため「有名」な存在。
営業時間は10:00〜23:00(L・O 22:30)、無休(大晦日・元旦休み+夏季2日)。
 HP http://www.francois1934.com/index.html
        創業以来の店の歴史が記述されています
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高瀬川に落ちそうになる位置から撮影・・赤い看板の先が「フランソア喫茶室」 右手が四条小橋(四条通)です
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「フランソア喫茶室」は国の重要文化財に指定されており 戦前に建てられた喫茶店のサロン風スタイル(昭和9〜10年頃のカフェーブーム)を現在に伝える貴重な遺構として重要な存在です 京都市内で現在も営業している喫茶店では 1930年(昭和5年)に開店の「進々堂京大北門店」 1932年(昭和7年)の「スマート珈琲店」(寺町アーケード)に次ぐ 1934年(昭和9年)9月のオープンです 
上記の店HPに歴史が紹介されていますので数行を引用・・<創業者 立野正一と友人 高木四郎、イタリア人の京都大学留学生ベンチベニら芸術家仲間が設計、ステンドグラスの窓、優雅な白い天井、赤いビロードの椅子、壁にかけられた「モナ・リザ」の複製など、当初からサロン風の贅沢な喫茶店であった。>
1934年(昭和9年)9月の喫茶店開業当初は 木造2階建ての住居(現在の南側部分のみ)を改装したもので 1941年(昭和16年)になってオーナーの友人ベンチベニ氏の設計で隣りの北側部分を改修し こちらのみを喫茶店にして営業を継続・・南側は再度 住居に戻されました 戦後の1947年(昭和22年)に南側の棟は書店「ミレー書房」に・・3年後には移転 以降は左右両棟を喫茶店として営業する現在のスタイルが完成しました
出入り口は北棟部分を利用しており 客席の最奥部で南棟側に抜けられる構造になってます
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写真撮るまでオアズケ状態なのでふてくされ中のS・H・・「まだなのぉ」・・店内の調度品にはまるで無関心 左右写真共に奥の南棟側の客席
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出入り口のある北棟側の客席 店名はオーナーが傾倒していたフランスの画家ジャン・フランソワ・ミレーのミドルネームから命名(代表作「種まく人」1850年)
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  四条小橋(四条通)からすぐ 高瀬川沿いですが せせらぎを耳にすることはできません
 参照 フランソア喫茶室ホームページ
    「京都の近代化遺産」2007年
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2013年09月21日

京都 中書島遊郭跡

京都の南、伏見の中書島(ちゅうしょじま)。現在は有名酒造メーカーの酒蔵めぐりや坂本龍馬の所縁の寺田屋などを訪れる方々で人気の中書島ですが、かっては(江戸・元禄期より)遊所(遊郭)として知られた場所でした。 
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宇治川派流に架かる蓬莱橋から西側の眺め・・右側に寺田屋(鳥羽伏見の戦で焼失)が幕末には見えていました・・左岸に中書島遊郭・・この橋・流れを龍馬・お龍さんも眺めたはず 蓬莱橋(ほうらい)は幕末当時はもちろん木橋・・コンクリート橋は昭和5年3月の竣工 
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地図がないと位置関係の訳が分からないので参照(江戸後期古地図から)して下さい *尚 右写真から数枚の写真は単に現在(2012年)でも点在している築年数の経過した趣きのある建物です 江戸初期に設置された中書島遊郭は 明治期・大正・昭和を生き抜きましたが 昭和33年の売春防止法実施を前に花街(芸者のみ)として残る道も閉ざしました・・戦後の新地(カフェー・赤線)時代の建物は片手で指折れる数しか残存していません
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地図に「長建寺」を記入しましたが 中書島遊郭成立に関わりが有ります この真言宗醍醐派の寺は 1699年(元禄12年)に伏見深草の即成就院の塔頭・多聞院が 中書島開拓の為に移転してきたことを起源とします この地は秀吉の伏見桃山城築城を期に整地され その当時から荷附問屋(運送)や茶屋株(遊女屋)の許可の記録が残ってますが 慶長年間の大地震により(伏見城の廃棄)一旦廃れてしまいます 「長建寺」の移転を契機として 伏見奉行・建部内匠頭(たてべ・たくみのかみ)に参詣人の為の茶屋設置の請願を出したことから 昭和まで継続する「中書島遊郭」の歴史が始まりました   
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明治5年の記録では 業者数は西柳町に23軒 東柳町に36軒 大正初年に京阪電鉄が開通し 中書島駅が設置されると廓(くるわ)は全盛期を迎えます 昭和初期は陸軍第16師団の兵隊が客のほとんどを占めていました 昭和8年の記録では貸座敷数84軒 娼妓数400人とあります
 *第16師団は明治40年11月に伏見区深草に移駐完了(師団司令部は現在の聖母学院)
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中書島駅に近いメーンストリート沿いに現在も営業中の「新地湯」 名称にほれぼれします
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芸娼妓らの信仰があつかった「長建寺」です 本尊は弁財天(鎌倉時代の後期作) 山門の目の前は宇治川派流の船着場(現在は観光船乗場)船着きの遊郭と伝えられる所以です
 *長建寺のお守りのひとつに江戸期よりの「宝貝守り」(たからがい)・・そのエロさは有名で 写真公開したいのですが・・悩みましたが・・没 どうみても女性の股間そのものなので 
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売春防止法による廃業時の業者数は58軒 娼妓数は183人 当時の名残りなのか所々に「旅館」の看板が見受けられます
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2013年09月19日

京都 国鉄・京都駅(第3代目駅舎) 

1962年(昭和37年)撮影の国鉄(現・JR)京都駅です。
開業から第三代目の駅舎(1952年5月27日完成)にあたり、完成から10年を経過した時点での姿です。この駅舎は45年にわたり京都の顔として供用されましたが、1997年(平成9年)7月12日に現在の京都駅ビル(第四代目)の完成をもって消えてゆきました。
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 京都駅の開業は1877年(明治10年)2月で、京都〜神戸駅間の始終着駅。呼称は七条駅でした。その初代駅舎は現在より北側に位置しており、2階建てのモダンな赤レンガの建物でした。二代目京都駅は1915年(大正4年)10月に完成。初代の駅から南側(ほぼ現在地)に約140m移動した位置に総檜造り2階建て(尖塔付きで4階以上の高さに見える)の大きな建物。1950年(昭和25年)11月に失火で消失する運命でした。
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最上段の京都駅ビルと同日の撮影(1962年)で国鉄・京都駅中央口駅前の風景です 現在とは全く様相が異なってます 下段は夕景
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左端の大型ビルは「丸物(まるぶつ)」百貨店(元・京都物産館)です 全国に店舗展開していた百貨店ですが 1977年(昭和52年)に「京都近鉄百貨店」に改称し 2010年(平成22年)に取り壊され 現在のヨドバシカメラに建て替えられました 京都タワーは「丸物」の手前の土地に建てられたことになります
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   2012年4月撮影の京都タワー 2011年7月撮影の第四代目京都駅の中央改札口

  *参考 「みんなが好きな京都今昔物語」2010年

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2013年09月17日

京都 嵯峨嵐山 蕎麦 嵐山よしむら

**9月16日未明からの台風18号の豪雨により桂川は増水・・下流の嵐山両岸は浸水被害を受けて、渡月橋北詰の「嵐山よしむら」も一時営業停止中です。営業再開の日程は未定。
早朝のテレビニュースは、渡月橋を越えようとする桂川の濁流を生中継。「嵐山よしむら」の石段で高くなった玄関に茶色く濁った急流が打ち寄せており建物が流されるのではと危惧するほどの衝撃映像が流されていました。
**店HPより<営業再開は9月19日(木)を予定しております。大雨の影響により外観等に多少の影響がございますがご了承くださいませ。>

京都を代表する観光名所・嵐山。桂川の陽光きらめく流れにかかる渡月橋と緑の嵐山・・平安の古(いにしえ)より詠われる風景・・この大パノラマを眺めながらの食事の席・・・贅沢の極致を体現したのが「嵐山よしむら」です。そのうえ、烏丸五条交差点近くの「よしむら」(こちらのビルが本店だと思っていた)で打った蕎麦は、当ブログ管理人が保障(説得力が弱い!)いたします。あとは訪れる日時を吟味すれば、極上の京都の思い出が作れるはずです。
*観光シーズンのピーク・平日でも昼食時等は待たされた上に希望の席を確保するのは運次第になります。
 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町3
 電話 075-863-5700
 嵐山よしむらHP http://www.arashiyama-yoshimura.com/soba/food.html
 オフシーズン 11:00〜17:00
 観光シーズン 10:30〜18:00
 定休日 無休
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「嵐山よしむら」の玄関 奥に母屋の出入り口が見えます
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母屋の暖簾を撥ねるとすぐのところに下足箱が・・履物はそこに
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2階の特等席がこのカウンター・・開店と同時に埋まってゆきます(左写真は冬・・右は桜満開の季節)
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2013年09月08日

京都 在りし日のホテルニュー京都(閉鎖・解体)

堀川丸太町交差点の南側角地で2006年8月まで営業していたホテルニュー京都の私的写真が数枚残っていた。
1972年に観光宿泊客を主なターゲットとして295の客室数でホテルニュー京都はオープンした。その後、ホテルの存在は全国に浸透し、知名度は低くはなかったが、2006年8月に業績悪化を理由に閉鎖決定。その跡地には不動産投資会社によって新ホテルの建設計画が予定され、京都市に客室数約350のホテル構想届が提出された。2007年初頭からホテルニュー京都の解体工事が着手されたが、まもなく新ホテルの建設計画は頓挫することになる。その後、長期間(約6年)にわたり約3800uの更地は工事用フェンスに囲まれたままの状態におかれる。2012年12月、食品スーパー「イズミヤ」が出店計画を発表。2階建て店舗(屋上に駐車場)が建設されることになった。
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アナログビデオからのキャプチャー画像(1994年頃)。信号手前左側の建物がかってのホテルニュー京都。
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ホテルニュー京都のツインルームに宿泊した際の写真。屋上レストランの写真の背景に堀川通沿いの京都国際ホテルが見える。京都国際ホテルは1986年6月に開業、隣の京都全日空ホテルは未だ建設されていない。
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(左写真)跡地に完成したスーパーイズミヤ。奥に見える予備校は当時と同じ場所にあり、街路樹も健在(植え替えたものだろう)。 (右写真)スーパーイズミヤの屋上駐車場。
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(左写真)概略図 (右写真)かってのホテルニュー京都の位置から見た堀川丸太町交差点(左が北方向)
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2013年09月07日

京都 先斗町(ぽんとちょう)遊廓跡

京都観光の人気スポット「先斗町」は、江戸時代初期に起こった遊所であり幕末期に至り「先斗町遊廓」として公認されました。ひと昔まえまでの面影を残すものは消え去りましたが、狭い石畳の道(先斗町通)は当時のままであり、三条通の一筋南から四条通にいたるまで、左右にぎっしりと京料理店(東側は川床を設置)・おばんざいの店・甘味店からバーまで人気の飲食店が軒を連ねています。
先斗町の起源は、江戸期の寛文10年の鴨川護岸工事から5年後の延宝2年(1674年)に若松町(といわれている)に5軒の家屋が建てられたことが最初とされており、宿屋を営む者が出始め、その旅篭屋が茶立て女を置くようになり、徐々に遊里が形成されてゆきました。正式に遊郭の免許が下りたのは、かなり時間を要して幕末の安政6年(1859年)で、二条新地(遊郭)の出稼ぎ地として公認されました。
遊郭の範囲は南北に長く、橋下町・材木町・若松町・梅之木町・松本町・下樵木町・鍋屋町・柏屋町と現在でもその町名を残しています。さらに四条通を南に越えた西石垣(さいせき)通の斎藤町まで全9町にその範囲は及んでいました。 参考「京都坊目誌」・「日本花街史」他
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「先斗町遊廓」の残影はここだけに残されているのだろうか? 坂本龍馬関連の撮影中に土佐藩邸跡地付近の小社で見つけて撮影(2011年) 
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先斗町通から見たアーチ(奥は四条通) 右の説明板に「先斗町」の呼名について書かれていますが 他に南蛮寺の宣教師名ポント説や川と川の間(鴨川と高瀬川)なので両側が皮の太鼓(ポンとなる)説、高瀬川の船頭が集まっていた船頭町からなまった説まで珍説が語れています
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現在の先斗町通(2013年) 花街(かがい)の雰囲気を色濃く残しており 夕闇につつまれる頃にはお座敷に通う芸・舞妓さんの姿を見かけます (右写真)町名部分が擦れてしまっている古い住居表示板・・下樵木(こりき)町となんとか読める
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鴨川護岸工事が終了し荒地だった「先斗町」に旅篭(はたご)が立ち並び始めた頃に この名称が文献に始めて登場します 井原西鶴の「好色一代男」(1682年刊行)で世之介が島原の太夫と別れる段で「ぽんと町の小宿にかえりぬ」と・・・「日本花街史」の丸写しです
  
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2013年09月04日

京都 旧・第一銀行京都支店 設計・辰野金吾

数多くの国の重要文化財指定を受けている建造物の設計者・辰野金吾が手がけた「第一銀行京都支店」です。京都の烏丸通三条の南側角に建つこの建物の名称は、その後「第一勧業銀行京都支店」に変わり、富士銀行との合併で現在は「みずほ銀行京都中央支店」。搭屋・屋根窓付きの銅葺き屋根・・・辰野式建築といわれる赤煉瓦に白色の石を組み込んだ美しいデザインに目を奪われます。
辰野金吾・・・日本の近代建築の発展に貢献し、帝国大学において多くの後進を指導・育成した人物です。辰野が手がけた建築物の名を挙げれば納得されるはず。「日本銀行本店」(各地の日銀支店)・「東京駅中央停車場」(東京駅)・「国技館」(日大講堂)・「奈良ホテル」・・等々。日本建築学会の結成をリードし、また日本で最初の建築設計事務所をも開設しました。
この「第一銀行京都支店」は1906年(明治39年)に竣工、1919年(大正8年)に南側部分を増築(清水組・設計=田辺淳吉)してます。
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 撮影2011年7月 手前の道路は烏丸通・・右が北側になります 
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 右写真の墓石は2007年11月に撮影 辰野金吾は1919年3月25日に満64歳で死去 東京・西新宿7丁目12番の常円寺(じょうえんじ)に埋葬されました 夫妻の墓(秀子夫人)の向かって左側に息子である仏文学者・辰野隆夫妻の墓が並んでいます 江戸期からの寺である常円寺で辰野金吾の墓石探しに30分以上かかったのを思い出します。
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2013年09月03日

京都 一保堂茶舗・京都本店

中京区寺町通二条上ル東側に格式ある店構えで「老舗」を体現し、絶えず地元客・観光客を惹きつけている店が、1717年(享保2年)に創業した一保堂茶舗(いっぽどうちゃほ)京都本店です。さらに百年以上の時を経た1846年(弘化3年)に、京都山科の地名にちなんで創設された宮家・山階宮(やましなのみや)家から「一保堂」(「茶一つを保つ」)の屋号を賜り、現在まで綿々とその暖簾を守り続けています。下写真の茶色の暖簾が店舗にマッチしてますが、6月からは涼しげな白地色に掛け換えられます。
 営業時間
   販売 9時〜19時(日・祝日は18時まで)
   喫茶室 嘉木(かぼく)11時〜17時30分
 定休日 無休(年末年始を除く)
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大きな暖簾をくぐると目の前が販売コーナー・・京都の老舗の風格のある雰囲気に包み込まれます 京銘茶(抹茶・玉露・煎茶・番茶)を扱う日本茶の専門店・・銘柄選びに女性スタッフが丁寧にアシストしてくれます
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販売コーナーの右奥に人気の喫茶室・嘉木(かぼく)・・茶葉の魅力を菓子付きで堪能することができます 自ら淹れるのが嘉木スタイルとありますが傍らでスタッフが淹れ方を丁寧に説明してくれますので初めての方でも安心
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左写真は販売コーナーの右奥・・中庭の手前右に喫茶室の入り口 観光シーズン中はかなり混み合います
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平日限定のメニューですが 抹茶と後口に番茶が付くセットがお勧め お菓子付きで濃(こい)茶1155円と薄茶788円(おうす)があります(メニュー写真はアップしてません)
左写真の店舗説明パンフを参照してます
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一保堂茶舗の茶葉は全国の有名百貨店などで買い求めできますが 喫茶室・嘉木を併設しているのは東京・丸の内仲通りの丸の内店(JR有楽町駅に近い国際ビル1階)・・訪れる機会があったならば写真追加します
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2013年09月01日

京都 嵯峨天龍寺塔頭・弘源寺 長州藩兵宿営地(蛤御門の変)

蛤御門の変(禁門の変)勃発を前にした1864年(元冶元年)6月、長州藩兵は三方向から京都市街・御所を包囲布陣。長州藩家老・国司信濃らに率いられた部隊が御所西方を固めるため嵯峨・天龍寺に宿営しました。7月19日早朝の出撃までの23日間、弘源寺に分宿した藩兵が本堂の柱(複数)に残した刀傷を、現在でも特別公開の日に限り見学可能です。
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天龍寺の塔頭寺院・弘源寺の山門・・5月の特別公開期間の訪問(要・参拝料) 庭園・毘沙門堂・日本画・刀傷と見所は多いです
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寛永年間に築造された客殿形式の本堂からの枯山水庭園「虎嘯の庭」(こしょうのにわ)
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「幕末の刀傷」と寺の説明書きが貼ってあるので簡単に場所は分かります

1863年(文久3年)
 8月18日 公武合体派(会津・薩摩両藩)クーデタにより孝明天皇の大和行幸中止に・・長州藩の御所警備(堺町御門)を解任し京都追放 三条実美らは長州へ下る(この日、御所警備の任務に壬生浪士組が出動し、武家伝奏により「新選組」の名が授けられる)
 9月16日 島原遊郭(角屋)で新選組総会の後に、壬生の新選組屯所(八木家)で芹沢鴨ら暗殺される
1864年(元冶元年)
 6月5日 池田屋騒動 三条小橋一帯に会津藩兵ら出動 長州浪士ら7名死亡・23名捕縛
 6月9日 池田屋騒動の知らせが長州に届く
 6月22日 長州藩家老・福原越後の率いる兵300名が大阪に入る
 6月24日 福原越後の兵が伏見に着陣
      真木和泉・久坂義助(玄瑞)の指揮する長州藩兵300名は山崎に着陣
      新選組は会津藩の命令で出陣し九条河原に布陣
 6月26日 京に潜伏の長州浪士ら約100名が嵯峨・天龍寺に入る
      長州・来島(きじま)又兵衛の率いる隊が伏見から天龍寺に合流
    7月に入り長州藩家老・国司信濃らの率いる約1200名が山崎に布陣
 7月19日 午前2時30分頃 伏見・藤森付近で長州・福原越後の兵と大垣藩兵との間で交戦開始
      蛤御門で戦闘始まる 長州側約2000名、幕府側7万以上 圧倒的な兵力差の前に長州兵は壊滅
 7月20日 山崎天王山の長州藩残兵の追討開始 会津藩・新選組の攻撃で真木和泉は自刃
 8月2日 幕府、長州藩征討を諸侯に命令・・第1次長州征伐
 10月21日 長州藩、幕府に恭順謝罪・・奇兵隊など諸隊の解散命令
 11月11日 長州藩、三家老に自刃を命令
    
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             天龍寺塔頭・弘源寺 http://kogenji.jp/
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2013年08月26日

京都 在原業平邸址 「今昔物語」他より

平安時代の歌人(六歌仙筆頭)で在五(在原家五男)中将在原業平(ありわらのなりひら)は、本邦初の短編歌物語集「伊勢物語」(定家書写本全125段、作者未詳)の主人公であり、その人物像は、「業平ハ体貌閑麗、放縦ニシテ拘ラズ、略才学無ク、善ク倭歌(やまとうた)ヲ作ル」(「三代実録」901年)とある。
邸宅の位置は、「拾遺都名所図会」の「業平卿の家」の項に、「高倉通三条坊門の南西側なり、いま、旧趾をとどめて紫水軒(しすいけん)と称す」と記されている。家の様は、「柱などもつねに似ず、ちまきばしらといふに侍りけるを、いつ頃の人のしわざにか、後にれいのはしらのやうにけずりしなしてなん侍りき。なげしもみなまろにかど(門)もなく、ついぢ(築地)もなくなりて、まことに古代のところと見え侍りき。」(鴨長明「無名抄」)と描かれている。
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(写真)在原業平邸址石柱。位置は下の見取り図参照。

また伝わるところによれば(「和歌知顕集」鎌倉期成立)、業平が生涯に交わった女の数は3733人(内、重要なのは12人)であったという。井原西鶴の世之介(「好色一代男」主人公)の五十四歳までの記録(女3742人、男色725人)には僅(わず)かに及ばない。業平の色好みは、架空の人物と比べても遜色のないレベルに達しており、その貴賤を問わぬ無差別ぶりは「今昔物語」にも特記されている。
その業平にも死が訪れる。元慶(がんぎょう)四年(880年)五月二十八日。享年五十六歳(死因不明)であった(「三代実録」卒伝)。
「古今和歌集」巻十七にある業平臨終の歌。
   病して弱くなりける時よめる    業平朝臣(あそん)
 つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを

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(写真)かっての三条坊門小路を往く時代祭(2012年10月)平安時代の行列から。

「今昔物語」巻二十七(本朝・霊鬼)第七
「在原業平中将の女、鬼に噉(く)われる語(こと)」より
<<今は昔、右近中将在原業平という人がいた。当時たいへんな色好みで、世にありとある女で美人と聞くものには、宮仕えの女であろうと人の娘であろうと、一人残らず思いをとげようと考えていたのだが、そのうち、ある人の娘が器量といい気だてといい、この世のものとは思えないほどのすばらしさだと聞いて、その女に思いをつくして恋するようになった。
しかし、高貴のお方を婿にしたいと親たちが大事にかしずきたてるので、さすがの業平中将も、しばらくは手が出せないでいたが、そのうちに、どう工夫したものか、その娘をこっそり盗み出してしまった。
うまく盗み出しはしたものの、すぐには連れ込んで隠すような所もない。思いあぐんで行くうちに、北山科のあたりに荒れはてて人も住まない古い山荘があった。その家の内には大きな校倉(あぜくら)があり、片戸(かたど*片側のみが開く戸)は倒れていた。昔人の住んでいた建物は、板敷の板もなくなっていて、入れそうにもないので、この倉の内に薄縁(うすべり)一枚を持っていって、この女を連れ込み、二人で臥していたところ、にわかに稲妻が光って、雷ががらがらと鳴り出したので、中将は太刀を抜いて、女を背後に押しやり、一人起きて太刀をきらめかしていた。
そうするうちに、雷もしだいにおさまって夜が明けた。ところが、女が一言もいわないので、不審に思った中将がふり追って見ると、女の頭と着ていた衣だけが残っている。中将はあきれはてて、恐ろしさのあまり、着る物も取りあえず逃げ去ってしまった。
こういうことがあってからはじめて、その倉が人を取る倉だとわかったのである。されば、その夜のことも、雷や稲妻ではなくて、倉に住む鬼のしわざだったのだろうか。
されば、様子のわからない所へは、けっして立ち寄ってはならない。まして、そんな所へ泊まろうなどとは考えてもならない、と語り伝えたとのことである。>>(全文)
東洋文庫「今昔物語集5」1968年平凡社刊より

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(写真)三条坊門小路(幅約12m)は、現在大幅の拡張され御池通と改名されている。
在原業平邸址の石柱は、この信号を向う側(南側)に渡った角に設置されている。
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(見取り図)小路の道幅は四丈=約12m。この付近の大路(道幅約24m)は二条大路、東洞院(ひがしのとういん)大路である。

参考 「都名所図会四」安永9年版 ちくま学芸文庫
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2013年08月23日

京都土御門町 安倍晴明邸址 三島由紀夫「花山院」より

永観二年(984年)八月、円融帝が譲位し、懐仁親王が立太子礼(皇嗣)宣命。同年十月、花山(かざん)天皇即位。だが二年と経たぬ寛和二年(986年)6月、花山帝はひそかに花山寺で出家する。天文博士(当時)安倍晴明邸に南面する土御門大路を往く帝(みかど)と、この退位を予知した晴明のあわてふためく声とが暗闇の大路に交錯する。これが学習院中等科4年の平岡公威(16歳、後にペンネーム三島由紀夫)が、「大鏡」(六十五代花山院)に取材した作文「花山院」(昭和十六年二月脱稿・中等科提出作文)に描いた場面である。翌月、一条天皇(居貞親王)が即位。その一条帝の寛弘ニ年(1005年)九月、安倍晴明は没する。八十五歳と推定されている。墓は嵯峨の長慶天皇陵の南傍らにある。
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(写真)職神(精霊)を自在に駆使した天文博士・安倍晴明の邸宅址の一部に建つ京都ブライトンホテル。
花山帝出家の翌年永延元年(987年)、晴明は蔵人陰陽師(天皇直属)に昇進する。さらに6年後、従四位上(じゅうしいじょう)に昇る。写真(フィルム)は吹き抜け3階廻廊から見たロビー(地表)、何かしら晴明邸の建物があったかもしれない。
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(写真)同じく京都ブライトンホテル3階(308)ツインルーム。諸税込みで1泊2万5千円超え。
西向きの窓下には西洞院通が見える。テレビが時代を感じさせる。

三島由紀夫「花山院(かざんいん)」より抜粋。
<<(略)「御門前にみくるまをすゑましてはこんな夜半とは申せ、人目がうるさうござります、ほんの一、ニ丁ばかりおひろひの程を。・・・なに、二番目の小路にみくるまをお待ちいたさせておきます」と道兼は奏(まを)し上げた。角立つのをうるさく思し召して、あゝさうか、とおほせられる。
土御門(つちみかど)をおでになると、夏草の一むらに露が繁くおりてゐた。蛍が幽かに草の葉を離れ、遠ざかるにしたがつて星にまぎれた。かたぷいた月影は御身(ぎょしん)と道兼の、ながながしいおん影をくゆらせた。雲が通つたのである。 安倍晴明の門前をおとほりあそばすと、灯(ともし)をけしてしづまつてゐる軒々にひき比べ、灯があかあかとついて、なにやらさんざめいてゐる模様である。つゞいてはたはたと主人(あるじ)晴明の手をたゝく音にまじつて、みづからの声で、「御退位の天変がはや実際(まこと)にあらはれたわ。奏せずばなるまいに、車の装束を早う、早う」といつてゐるのを聞し召して、ふとおん涙をおこぼしになつた。その御様子に流石(さすが)に道兼も、ようおせきたてするお言葉とてない。
「取あへず式神ひとり内裏(うち)へまゐれ」とつゞけて言ふ声の終らぬかに道兼はぎくりとした。目にみえぬものゝ押しあけた戸から、灯(ともしび)が道へ流れ出してひろがつた。みるまに黒い羽搏(はばた)きがおこつて、そのわたりの夜気を息苦しくふるはせながら、土御門のはうへ舞ひのぼつて了つた様子である。 帝(みかど)はなんともおほせられない。みまゐらせたところではお口もとにわづかなおん微笑(ほほゑ)みさへうかべてをられるやうだ。道兼はあたりにひしめく神の気配に愕然とした。仕草にこそ出さなかつたが、一瞬道兼はおんすがたを心のうちに合掌申し上げたのである。>>
   「決定版 三島由紀夫全集15」2002年新潮社刊収録「花山院」より。 

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(写真)81歳で左京権太夫に昇った安倍晴明像(大阪阿倍野区の安倍晴明神社)

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(写真)京都右京区嵯峨の長慶天皇陵の南傍に安倍晴明の墓が建てられている。

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(安倍晴明邸見取り図)

「花山院」の原拠となった「大鏡」第一巻六十五代 花山院より。
<<次帝、花山天皇と申き。(御いみな師貞)冷泉院第一皇子也。御母、贈皇后宮懐子と申。太政大臣伊尹(これまさ)のおとゞの第一御女なり。このみかど(*花山)、安和(あんな)元年戊辰十月廿六日丙子(ひのえね)、母かたの御おぼぢの一條の家(*母方の祖父の一条邸で誕生)にてむまれさせ給とあるは、世尊寺(せそんじ)のことにや。(略)
天元(てんげん)五年二月十九日、御元服、御とし十五。永観(えいかん)二年八月廿八日、位に(*17歳で即位)つかせたまふ、御とし十七。寛和(かんな)二年丙戊(ひのえいぬ)六月廿二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にもしらせさせ給はで、みそかに花山寺(はなやまでら*東山区北花山の元慶寺)におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ、御年十九。よをたもたせ給事、二年(*天皇在世はわずかに2年間)。そのゝち廿二年おはしましき(*その後、法皇として22年間在世)。(略)
さて、みかどよりひんがし(*東)ぎまにゐていだしまいらせ給に、晴明(*天文博士)が家のまへをわたらせ給へば、みづからのこゑにて、手をおびたゝしくはたはたとうつなる。「みかどおりさせ給ふとみゆる天変ありつるが、すでになりにけりとみゆるかな。まいりてそう(*奏)せん。車にさうぞく(*装束=準備の意)せよ」といふこゑをきかせ給ひけん、さりともあはれにおぼしめしけんかし。
「かつがつ式神(しきじん)一人、内裏へまいれ」と申ければ、め(*目)にはみえぬものゝ、戸ををしあけて、御うしろをやみまいらせけん、「たゞいまこれよりすぎさせおはしますめり」といらへけるとかや。そのつち御かど(*土御門)まちぐち(*町口)なれば、御道なりけり。花山寺におはしましつきて、御ぐし(*髪)おろさせ給てのちにぞ、あわた(*粟田=藤原道兼)殿は、「まかりいでて、おとゞにも、かはらぬすがた今一度みえ、かくと安内(*案内)申て、かならずまいり侍らん」と申給ひければ、「我をばはかるなりけり」とてこそなかせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。(略)
(寛弘五年二月八日、うせさせ給ふ。御年四十一。)>>
この花山院失踪出家事件は、「栄花物語」「愚管抄」にも記述があるが省略。

また、安倍晴明邸の位置は、「今昔物語集」巻24に記述がある。 
<<「安倍晴明、忠行に随い道を習う語」第十六
 今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師がいた。古人に恥じぬ達人であつた。幼時から賀茂忠行という陰陽師について、昼も夜もこの道を習つたが、いささかの心もとなさもなかつた。
 ところで、晴明がまだ若かつた頃、師の忠行が、下京のあたりに夜間出向いて行く供をして、師の車の後について、歩いて行つたことがあつた。忠行は車の内で、すつかり眠りこんでいたが、晴明がふと見ると、なんともいえぬ恐ろしい鬼どもが、車の前に向かつて来るのであつた。これを見て驚いた晴明が、車の後に走り寄つて、忠行を起こして、その旨を告げると、その時に忠行もはつと眼をさまし、鬼の来るのを見て、術力によつて、たちまち自身も供の者どもも恐れのないように隠して、無事に通り過ぎた。その後、忠行は、晴明を手離しがたく思い、まるで瓶の水をうつすように、道の奥秘を余すところなく教えた。そこで、晴明はついに、この道に関して公私に用いられ、すばらしい達人となつた。
やがて、忠行が死んで後、この晴明の家は土御門大路よりは北、西洞院大路よりは東にあつた。(略)
この晴明は、家の内に人のいない時には、式神を使つたのであろうか、誰もいないのに、格子戸をあげおろししたことがある。まだ閉ざす人もいないのに、門が閉ざされたりすることがあつた。このように驚くべきことが、たくさんあつたと語り伝えている。その子孫は今も朝廷に仕えて、世の尊敬を集めている。その土御門の家も、代々伝えられて残つている。その子孫の家では、最近になるまで、式神を使う音が聞こえた。(略)>>  「今昔物語集本朝部」東洋文庫1967年12月初版(平凡社)より

参考 「日本史年表」1966年岩波書店刊
   「決定版 三島由紀夫全集42」(年譜)新潮社刊
   「大鏡全評釈」1979年學燈社刊
三島由紀夫リンク
奈良 円照寺 三島由紀夫「豊饒の海(一)春の雪」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442450850.html
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2013年08月13日

京都 カフェ・アンデパンダン

三条通と御幸町通の交差する東角のレトロな1928ビル(元・毎日新聞社京都支局ビル)。その地下にカフェ・アンデパンダンがある。
1928年(昭和3年)に竣工した毎日新聞社京都支局ビル(設計・武田五一)、1998年(平成10年)に移転し、空ビルに。その後、廃虚同然となるが、文化的拠点とすべく改装され、名称も竣工年にちなんで「1928ビル」と改められる。地下の倉庫室にも手が入れられ、同年6月に「カフェ・アンデパンダン」が開店。
 営業時間 11時30分〜24時(L・O 23時30分)
 定休日 無休
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(写真)1928ビル。2011年7月撮影。
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(左写真)三条通側(北側)の正面玄関を入り、通路のすぐ手前を左に、地下への階段(右写真)を下るとカフェ・アンデパンダンに。
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(左写真)踊り場から見た地下フロア。アート系のフライヤー・ポスターがぎっしりと貼られている。左に曲がるとカフェ・アンデパンダンのドア。 (右写真)店内に入ったところのテーブルから。写真中央奥の柱の隣りにレジ。昼はここで注文・先払い。席は自由。
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(左写真)店内右奥から。壁際に並ぶ使い込まれた長テーブルは、毎日新聞社時代に講堂で使用されていたもの。
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(右写真)御幸町通側(西側)のアンデパンダンの採光用の窓。
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(左写真)地階エントランス前にある店のプロフィール。(右地図)赤丸部分が建物の正面玄関(同ビル1階のラジオカフェのみが別の専用入口)
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2013年08月10日

京都 出町柳 鴨川公園の飛び石

賀茂川と高野川が合流して鴨川となる地点に飛び石が置かれている。中州(三角州)は、昭和26年に開設された府立鴨川公園で、飛び石は左右両岸から公園へ行く近道としても利用できる。この飛び石をいったり来たりして、水辺でのひと時を楽しむのもよい。簡単に渡れそうにみえるが、ジャンプしないと飛び移れない配列となっている箇所もあり、要注意。
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鴨川に架る賀茂大橋(今出川通)の上から見た上流方向(北方向)。鴨川は、ここで分岐しており河川名も変る。中州の左手が賀茂川、右手が高野川となる。中州の先端左右に飛び石が見える。上流に架る橋名も高野川は河合橋、賀茂川は出町橋と、それぞれの河川ごとに橋名も異なっている。三角州の奥に見える葵公園の木々は、広大な下鴨神社の森(糺の森)へとつながっている。

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彼女の口数が急に少なくなって、不安そうに飛び石を見つめる。ぽつりと一言「怖い」。手を差し伸べても固まって動かない。彼女のまなざしは「もう帰ろうよ」の合図を送り始めている。
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    葵公園、飛び石とも京阪電車の終点出町柳駅(地下駅)からすぐ。
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2013年08月08日

京都 史跡・平野御土居

紙屋川にかかる桜橋の上で流れを見つめる。
御土居の北西部はこの紙屋川が堀の役目を担っていることを思い出す。
北野天満宮の裏門を出て左折し、突き当たりに小さく見える平野神社の赤い鳥居を目指していたのだが、ここで来た道を引き返すことに。
平野鳥居前町に国史跡として保存されている「平野御土居」が、古いが京都らしい趣きのある家屋の軒先に見えてくる。
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御土居の全長は約22km強、底部の幅は約20m・上部幅は約5m・高さ約5mの台形であり、この平野御土居がその形状を確かめやすい。御土居の簡単な説明は説明板の写真でチェックしてください。ちょっと小さくて確認しずらいかな。
幕末期にはかなりの部分が残されており、様々なシーンで眼にされていたはずです。
1930年(昭和5年)に、残存する御土居8ヶ所を重要な遺構と認定して「国史跡」に指定。地図に記入した天満宮内の御土居は昭和40年になって追加指定され、合計9ヶ所が指定地となっています。この平野御土居と同時に指定された廬山寺の墓地に残されている御土居が繁華街に近く見学にはいいかも(樹木に覆われていて形状は不確かですが)。

京都市文化財保護課http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005643.html
      御土居地図・京の七口の位置図有り
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2013年08月07日

京都 新夷町 白梅図子遊郭跡

京都御所の東側100m強という非常に近い場所にかって「白梅図子(しらうめずし)」と称された廓(くるわ)が存在していました。明治初期になり、その廓とすぐ東側の御土居がともに姿を消し、現在では痕跡すら残していません。
この遊郭の発祥は、元禄年間の京都所司代屋敷(二条城北側)の拡張普請によるもので、住民は幕府の強制退去命令を受け代替地であるこの地(新夷町)に移住しました。新夷町(しんえびすちょう)という町名は、明治2年2月の合併により生まれた新町名であり、それまでは新松屋町(元禄年間の移住)と夷町(安永年間の移住)の旧町名に分かれており、それぞれの頭の一文字を合わせて「新夷町」になったのです。
何故に遊郭が誕生したかは・・・移転費用もままならない住民は、生計の為に「煮売茶屋」の開業を幕府に申請し許され、次々と煮売茶屋(=遊女屋)を建てたのです。
またこの地は黒谷に移転した真如堂の跡地であり、その空地をあてがったということです・・地図の京極小学校の北側にその名残りが町名となっています。
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<下の地図参照>本禅寺北門前のT字路を西側(本禅寺北通)から撮影 右写真は北門を背にしての白梅図子遊郭のメーンストリート・・わずか70mほどの距離ですが、かっては左右に30軒を下らない茶屋がぎっしりと軒を連ねていましたが・・現在は全く面影は無く石碑の1本も見あたりません 
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左写真は北からの白梅図子遊郭跡(右上の逆方向から)・・正面奥に本禅寺北門 右写真は遊郭の出口(石薬師通)・・大猪熊町の古い住居表示・・石薬師通下ルが新夷町です
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南に300m弱ほど下ったところの廬山寺の墓地に残る御土居(秀吉の築いた土塁)の位置から類推して、白梅図子遊郭の東裏側が二階建てほどの高さの土塁があったものと思われます。江戸時代末期に最盛期を迎えたこの遊郭は洛中にあったのであり、もっとも御所に近い(メーンストリートから100m強)遊郭であり、夜更の女郎らの嬌声は禁裏に届いていたのでは・・・

**参照 「日本花街史」1990年


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2013年07月31日

京都 和菓子 豆政

「八ツ橋」とならんで京都を代表する菓子「五色豆」(ごしきまめ)。
明治初年(明治17年創業)に、鴨川に晒される京友禅の優雅さに想いをめぐらせて創りだされたもの・・・最初は白い砂糖豆だけだったが、数年を経て宮中五節会の五彩から四色を加えて、現在の五色豆が完成。
中京区夷川通(えびすがわ)の本店を訪れなくても有名デパート・京都駅のザ・キューブなどに出店しており簡単に入手できます。
 豆政 中京区夷川通柳馬場西 075−211−5211
    定休日 日曜  営業時間 8時〜19時
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「夷川五色豆」1050円  店内は昭和初期の宮中などからの感状が展示され店の歴史が伝わってきます 色彩の美しさに 豆にはそれほど惹かれないのだが つい「大きめ」を購入
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2013年07月15日

京都 祇園祭 宵々山

7月15日 月曜
京都・祇園祭はピークの3日間に・・・宵々山です(=新撰組が三条通・池田屋に突入した夜)。各町内の山・鉾は準備を整え、間近で見物しようとする人々で、午前中から混雑が続いています。
四条烏丸から西側の地域に山・鉾が密集していますので、その周辺のアットランダムな写真リポートです。
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四条烏丸近くの大丸百貨店前に巡行の先頭をきる「長刀鉾」
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左写真は唯一のカラクリが施されている「蟷螂山」(とうろうやま)=カマキリ そのカマキリを使用した「かまきりおみくじ」・・・人気があり順番待ちの長い行列が
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左右とも宵山に安産のお守りが授けられる「占出山」の保存所・・・木下順庵邸の跡地です
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右写真は月替わりの「琥珀流し」で人気のある和菓子店「大極殿」が「吉兆あゆ」特別セットを出張販売(「占出山」)

明日7月16日は、いよいよ祇園祭が最高潮となる宵山・・・四条通から車が締め出され、路上のあちこちに舞台が設置され、伝統の演目が披露されます。もちろんリポートいたしますが・・・祇園囃子が流れるなか浴衣姿のあの人も登場する予定。
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2013年07月11日

京都祇園 カフェ Opal(オパール)

祇園大和大路通(建仁寺西隣)で、赤・橙・青・緑・琥珀色の様々な色彩で空間をイメージングしたカフェが「オパール」。1997年にオープン、2009年2月に現在地に移転。通りから細路地に一歩踏み込んだところからオーナー夫妻の店作りのポリシーが伝わってくる。
CAFE OPAL
075-525-7117
定休日 火曜・第3水曜日
営業時間 12:00〜21:00(LO) ランチ〜15時まで

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(左写真)大和大路通。写真中央がカフェ・オパールのエントランス。奥にタクシーが停まっている所が建仁寺西門。 (右写真)この細通路がオパールの専用アプローチ。
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(左写真)小さいが中庭にデッキスペースがある。(右写真)奥の突き当たりを右に曲がるとレジ(支払いは伝票制)があり、その先が出入口。
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2013年07月10日

京都 東山 京料理 中村楼

室町時代末期に創業と伝えられる「二軒茶屋 中村楼」。
江戸末期には京都で指折りの料理茶屋のひとつに。
*中村楼HP http://nakamurarou.com/indexpc.html#/mainstart/

 昼の懐石 11時30分〜14時(入店) 月替りメニュー 5250円(税込み) 2名より
 夜の懐石 17時〜19時(入店) 11500円〜40425円(税・サービス料込み)

 その他のコース・アクセスなど 店のHP参照 
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八坂神社南門脇 右写真の右脇に中村楼の正面玄関があります
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料理は月替わりの昼の懐石コース 食事の進み具合にあわせて急ぐことなく供されます
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右写真が名物の祇園豆腐
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右写真の左側部分が二軒茶屋の茶店・・・気軽に抹茶や菓子を楽しめます
以下は二軒茶屋です・・・二条・寺町通の一保堂の抹茶(菓子付)735円 田楽豆腐735円 鮎茶漬1575円など
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2013年03月31日

京都 京麩 半兵衛麩

鴨川・五条大橋の東詰近くで、観光客に絶大な人気(ガイドブック・雑誌などで必ずと言ってよいほど紹介されている)を得ている半兵衛麸(はんべいふ)本店です。
京麩・京湯葉の料理が、度々メディアに取り上げられている為、料理目当ての女性グループ客で開店と同時に1階の茶房は満席状態になります。要予約です。荒天の日ならフリーで訪れても大丈夫かも・・大きな声では言えませんが、時々キャンセルが出るため、玄関入って左の広間にいる着物の年配のリーダーの方(とても親切)に聞いてみては(1人か2人までなら可能性有り)。食事はカウンター席・テーブル席でとなりますが・・中庭がガラス窓越しに眺められるテーブル席に着けたらラッキーかも。
半兵衛麩・食事の予約 075-525-0008 フリーダイヤル 0120-49-0008
メニューは1種類のみなので、無言で席に座るだけでOK・・料金3000円+税150・・支払いは帰りに着席のまま合図して店員を呼び精算。
営業時間 販売コーナー 9時〜17時 茶房(食事)11時〜14時30分LO
定休日 無休(年末年始のみ休業)
半兵衛麩本店 http://www.hanbey.co.jp/store/index.html

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半兵衛麩本店の建物・・右手前の石積建築のほうが販売コーナー(1階)と博物館(2階)・・(内部で通り抜けできる)奥の町家風建物が茶房(食事)・・玄関は季節の花・樹で飾られています
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食事席・販売コーナーからでも眺められる中庭・・秋は菊・・夏は??何も無かったかな
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料理は「むし養い」と呼ばれ・・生麩・焼麩など京麩のバリエーション料理が次々と運ばれてきます・・湯葉も添えられ・・周囲は低カロリーとの説明に表情は笑顔また笑顔 ここで椀に口をつけた時に疑問が・・半兵衛麩では味噌も自家製のはずですが、管理人が普段食している味が(部屋の近くに京味噌の老舗「関東屋」の本店があり、そこの白味噌を1年以上普段使いにしていた)はっきりと感じられたのです。関東屋では薄塩の為に濃い目にすることを推奨してますが「むし養い」ではさらに濃い目にして供してます・・ちょっと訊いてみるとやはり「YES」 (注)写真は2枚だけですが料理はさらに次々と・・・
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以下の写真は1階の販売コーナー・・京土産に最適かも・・軽いし日持ちするし
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販売コーナーには試食品も・・京都の菓子の中で上位にランク(管理人がです)する「麩まん」(笹巻き麩)発見!上品を装って1個だけパクリ・・申し訳ありませんが錦市場で贔屓にしてる「麩嘉」の笹巻の甘さ度に慣れているため・・餡の甘さは「麩嘉」が好き
「半兵衛麸」の京都での出店は大丸京都店B1・京都駅の伊勢丹B2・四条河原町の高島屋B1・明治屋三条店(池田屋跡の西側並び)。東京にも出店していて日本橋高島屋・新宿高島屋などでも求められます。

*以下は半兵衛麸本店の2階で正式に博物館登録されている無料の「お辧當箱(べんとうばこ) 博物館」。有料化してもよいほどのレベルです。

続きの写真を全て見る
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2013年03月29日

京都 和菓子 三條若狭屋

明治26年の創業。千本通まで続く大変長い(約800m)アーケード商店街「三条会」の東端=堀川通と三条通の交差点の南角に店はあります。この店を代表する菓子が「祇園ちご餅」。八坂神社の楼門前の茶屋で稚児が味噌だれをつけた餅と茶を振舞った故事を、大正初期に2代目主人が創意工夫を加えて京菓子として商品化し、現在では京都を代表する銘菓のひとつとして人気を得ています。下の写真にその家伝を詳述した紹介文をアップしてあります(何か書いてもそれを参考にしてるので同じことに)。
営業時間 8時30分〜17時30分
定休日 無休
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店の正面入口はアーケードに入った側
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京都の祭りをイメージした短冊の付いた包装・・土産にピッタリです・・3包入りで1050円 右写真が説明文
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包みを開けても1本づつ上品に包装・・竹串し付きで食べやすいです
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店内の大通り側(堀川通)にイートインコーナー(カウンター席)があり堀川通を眺めながら「ちご餅セット」500円を頂けます

*JR京都駅の京都タワー側の駅構内1階に京和菓子の販売モール「THE CUBE」・・・三條若狭屋も入っています。
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2013年03月28日

京都 和菓子 亀屋清永 

祇園石段下南に本店を構える亀屋清永(きよなが)が販売している珍しい菓子「清淨歓喜団」(せいじょうかんきだん)についてです。現在ではこの亀屋清永だけで扱っている供え菓子です。
この菓子は通常「御団(おだん)」「聖天さん」と呼ばれ、巾着の口元を締めた形状で上部は蓮華模様の八つの渦巻きで飾られています。米粉・小麦粉を煉って蒸した生地(部分的に生生地)に、桂皮末(ニッキ)・ハッカ・丁子などの薬味・香料を混ぜこんだこし餡を包みこんで胡麻油で揚げたもの。
東京でも丸い揚げ団子を売る店(飯倉の坂の途中にある店など)がありますが(管理人は必ず胸焼け気味になって新キャベジンコーワのお世話に)、この「御団」はパリパリした皮を噛み砕いた瞬間、古代(奈良のいにしえ)にいざなってくれる香りと味(判り易く言えば「クスリ」っぽくてほのかに甘い)。苦手の揚げ菓子なのですが、2個食してもお茶があれば大丈夫だったのです。
この「御団(おだん)」について、京都の寺院で少・青年時代を過ごした作家・水上勉が「京都花暦」1998年刊のなかで詳述してます。引用は長くなるのでカット(いつもながらの面倒)。略述すると、昔から亀屋清永で作られていたものでは無く、本家は歓喜天で名高い雨宝院(上京区・西陣の一角)であって、雨宝院の「御団」製法が民間に継承されていき、数十年前に賀茂の菓子職人吉川某が雨宝院に伝承されていた製法を習い、出町(左京区)近辺の店で販売していたが廃れてしまった・・・謂れは、真言密教の秘仏・歓喜天(陰陽合体=宇宙の真相=天地の和合)にあって、ゴマを焚く儀式において祈祷の後に浴湯仏をごま油で湯浴みさせる・・その残り油に供物の御団を入れて油で揚げる・・これが由来。後は「京都花暦」のP30からを読んでください。
営業時間 8時30分〜17時30分
定休日 水曜
四条河原町の高島屋百貨店地下・JR京都駅の各売店などに出店。
本店は八坂神社(石段下)から見て左向かい角のローソンの先すぐ。

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「清淨歓喜団」です 写真より実際はかなり重厚で頑丈な箱(2個入り)
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包装と手提げ袋・・手提げはパティスリー風で和菓子店っぽくはないです・・「聖天さん」を買ったとは絶対に気付かれないはず 右写真は「聖天さん」の原材料と場所のチェック用

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2013年03月27日

京都 和菓子 聖護院八ツ橋総本店

京土産の人気ランクトップに位置する誰もが知っている「八ツ橋」。
管理人の好物(生八ツ橋)であり、京都駅に到着後はまずキヨスクで「聖護院生八ツ橋」を数日分まとめ買い・・・きまって「聖護院(しょうごいん) 」ブランド。
聖護院八ツ橋総本店の向いに本店を構える本家西尾老舗の八ツ橋と差別化する深い理由は別になく、赤を基調にしたトレードマークのデザインに魅かれているだけかも。

江戸期に近世箏曲(そうきょく)の基礎を確立した盲目の音楽家・八橋検校(けんぎょう)は、1685年(貞享2年)6月に多くの門弟に見守られながら72才で没します。黒谷・金戒光明寺(塔頭・常光院)に葬られますが、検校を偲ぶ人々の参拝が絶えることなく、門弟らにより検校の「箏」(そう=琴)にちなんだ形の菓子(堅焼き煎餅)が考案され「八ッ橋」と名付けられ、黒谷への参道(聖護院の森)で売られることに。検校没後4年目の1689年(元禄2年)に「八ッ橋」の製造販売の茶店「玄鶴堂」(聖護院八ツ橋総本店の前身)が現在地で創業されたのです。
「八ッ橋」の原料は米粉で、熱湯で煉り、砂糖・肉桂(ニッキ)・芥子(ケシ)の実・きな粉を混ぜ込み蒸し上げ、薄く延ばして鉄板で焼きながら鉄棒で琴の形を付けてゆきます。近年になり、焼いてない「生八ッ橋」と餡を挟み三角に折った「生八ッ橋・聖(ひじり)」が考案されてメーン商品に育ってきてます。
*参照 聖護院八ツ橋総本店のHP
八橋検校のことhttp://www.shogoin.co.jp/kengyo.html
命名の謂れhttp://www.shogoin.co.jp/gaiyo.html
詳細に紹介されてます。が、八橋検校の墓の場所は不明。常光院に葬られたことと戒名が記載されているだけ。故事にのっとり土産を買い参拝する人など現代では皆無。管理人も八橋検校って誰ではなく「何?」の中学生と同じく買い物をしただけ。だってここから金戒光明寺までかなり遠くて歩く気がおきないのです。
京都市左京区聖護院山王町6
営業時間 8:00〜18:00
定休日 無休

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江戸時代の創業当時から同じ場所に店を構える聖護院八ツ橋総本店・・道路は黒谷への参道である春日北通
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創業当初からの琴の形を模した堅焼き煎餅と呼ばれていた「八ッ橋」・・包装紙に魅かれます
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プレーンなニッキの効いた生八ッ橋も良いのですが「生八ッ橋・抹茶詰め合わせ」も極上品
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本店のすぐ近くの東山丸太町交差点の支店・熊野店

*以下は八橋検校が眠る黒谷・金戒光明寺・・・ほとんど知られていない検校の墓域を迷いながらも探しあてて撮影。複雑な迷路のような細道を辿ったので案内図の作成は不可能。左写真の文殊塔のみ以前の撮影(2011年)
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八橋検校の墓は長い石段を登った先の文殊塔の裏側・・さらに大きな墓石が立ち並ぶ奥側です
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画面右の塔は文殊塔・・夕陽と京都市街・・これから八橋検校の墓探しだったのです
金戒光明寺には幕末に京都守護職本陣(会津藩)が置かれ、京都で斃れた藩士の墓域が設けられており、墓石の氏名のチェック・撮影にも数回訪れてます。今回は真如堂(北側に隣接)散策の帰りに金戒光明寺側に抜けて立ち寄った時の撮影で、夕刻が迫りあきらめて帰途に着く寸前に巡り会えたのです。広い墓域で暗闇に包まれたら遭難必至・・石段を小走りに下山した時には真っ暗。


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2013年03月25日

京都 和菓子 亀末廣

創業は江戸期の文化元年(1804年)、第11代将軍・徳川家斉の世まで遡る。現在、この老舗を守り続ける当主は七代目となる。重厚な老舗の風格を漂わす亀末廣(かめすえひろ)の正面は、姉小路通側(南向き)にある。車屋町通との角地にある亀末廣は北側に奥が深い造りで、長い板塀に沿って歩いて店を訪れるのも趣があってよいだろう。
亀末廣を代表する菓子は「京のよすが」(干菓子・3500円)。五つに分割された杉の木箱に京の四季を表わす色彩豊かな干菓子・落雁などが詰められている。仕切りの形から別名「四畳半」とも呼ばれる。
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     白の長暖簾に寿恵飛呂(すえひろ)の文字が染め抜かれている。
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老舗を体感できる店内。かっての店名「かめや末ひろ」「亀屋末廣」が染められた暖簾が見える(左右写真)。
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(右写真)亀末廣を代表する菓子「京のよすが」(干菓子・3500円)
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    御菓子司亀末廣の看板の周囲は、菓子の木型で縁取られている。
亀末廣(かっては「亀屋末廣」)から暖簾分けした店は多い。明治以降でも、亀廣永・亀廣保・亀廣宗・亀屋末富(現・末富)等々が独立している。          
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中京区車屋通御池下ル梅屋町
定休日 日曜・祝祭日
営業時間 8時〜18時
最寄り駅 地下鉄烏丸線・烏丸御池駅3番出入口
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2013年03月12日

京都 イノダコーヒ本店

京都を代表する老舗喫茶店で、観光ガイドブックに、ほぼ100%掲載されている人気店です。
で、ガイドブックには滅多に紹介されてない作家池波正太郎のエッセイから抜粋。随筆集「むかしの味」(1984年刊)の中の「京都 イノダと開新堂」p81から。この章で寺町通の老舗洋菓子店と並べて語られています。
<< その旨さは、日本人の舌に合う旨さだということだけはわかる。「一日に一度は、コーヒーをのまなくてはいられない・・・」というほどではない私を、何故、イノダはひきつけるのだろう。イノダは京都の、コーヒー店の老舗であり、京都人が誇る名店である。本店のほかに、いくつもの支店を出しているが、どの店へ行っても、少しも変わらぬコーヒーをのませる。>>と池波先生は絶賛している。さらに大絶賛は続く。<<イノダのサンドイッチは、近ごろ流行の、まるで飯事(ままごと)あそびのサンドイッチではない。むかしのままの、「男が食べるサンドイッチ」なのだ。>> ん〜困る。実は本店に行ったのは2回だけ。池波先生の時代とは恐らく客層が変わっていて、早朝に訪れても3〜4組の若いカップル(いかにも観光客風)がいちゃついていて(そう見えてしまう)、ゆったりコーヒーを愉しむ地元の客は見かけない。・・・過去の京都日記(このブログです)には、池波先生も言っているとおり、本店以上のサービスを誇る支店ばかりを贔屓にしていたのです(三条支店は別項目としてアップ)。
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(左写真)堺町通の西側に面している・・入口は赤のカラーコーンの前の町家側に (右写真)昭和21年10月の創業当時からのアルファベット文字(卸売り部門は戦前の昭和15年に開業)
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創業当時のイメージがそのまま残る外観・・早朝7時から無休で営業・・入ったすぐ右が販売コーナー・・レジの奥に客席・・左側に旧館・テラスへの通路
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(左写真)中央の奥庭のテラス席に通じる通路・・左が旧館・・右後ろのレンガ壁には鳥かごが2〜3つ下がっています(普通のピーちゃんがいる)(右写真)この辺の席がベストポジかな・・レトロな空間です・・平日の朝なら座れますが人気店なのであとは運次第・・・
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池波先生が「男が食べるサンドイッチ」と表現していたミックスサンドイッチ(2011年当時880円)・・「むかしの味」のグラビアページに同じサンドイッチの写真が載ってます コーヒー(アラビアの真珠500円)は関西特有の深煎りではなく飲みやすく美味しい
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(右写真)大丸百貨店内1階の支店(フロアの北側奥・新聞は置いてない・店員さんは他支店と勤務シャッフルしてるので顔見知りの人も)・・東山・清水支店も元・明保野亭の庭園・池がガラス窓から眺められて(空いていれば)お薦め *店名は「イノダコーヒー」でなく「イノダコーヒ」・・英文だと「INODA’S COFFEE」・・発音は「ヒ」で止めたほうが?
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                随筆集「むかしの味」新潮社

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2013年02月19日

京都 永観堂 与謝野晶子の歌碑 

与謝野鉄幹(=寛)と鳳志よう(ほう・しよう=晶子の本名)が、激しいまでの熱情で結ばれたのがこの京都・東山の地。二人にはその裏側に不倫・三角関係・前妻との離婚による資金枯渇という障害が隠されていたのです。
明治33年11月に与謝野鉄幹・山川登美子と晶子の3人で東山の永観堂に紅葉を鑑賞し、その夜は鉄幹の知る「辻野旅館」に1泊・・そしてこの地を翌年1月に鉄幹と晶子の二人きりで再度訪れるのです。
京都にはこの永観堂・栗田山を始め市内外の各所に与謝野晶子の歌碑が建てられています(「みだれ髪の会」による建立)。
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東山・永観堂の山門  永観堂境内の晶子の歌碑の位置図 池は大きいので地図がないと・・
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「秋を三人(「みたり」と読み)椎(しい)の実なげし鯉やいづこ・・・」の歌碑 1月に宿泊した翌朝の再訪での歌・・昨秋の3人での訪問への思いと鉄幹と触れ合っている現在の心象・・おもわず池の水面に視線を投げてしまったのです
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歌碑の説明プレート・・縦書き希望 紅葉の季節(観光客で大混雑)の写真が無いため入場チケットで代用

1900年(明治33年) 寛28歳・晶子23歳
   8月 来阪した与謝野寛を山川登美子らと北浜の浜寺旅館に訪ねて初対面をはたす
   9月 「明星」が新聞形式から雑誌形式に変更する
   9月23日 寛、林滝野との間に男子誕生(命名あつむ*漢字変換できず)  
   11月5日 京都・永観堂の紅葉を、寛・晶子・登美子の3人で鑑賞し、
        栗田山「辻旅館」3人で宿泊する
     〜6日(最初から女2人でなく「明星」同人ら2〜3名も誘うが都合つかず
        結局3人で永観堂に)
       (5日写真室で撮影の晶子・登美子の2人の記念写真が残されている
        登美子は目尻が切れ上った美人で「白百合の君」と呼ばれていた)
   11月中旬 登美子が別れを告げに晶子を訪れる
       (文学への傾倒を好まない父親の意向で故郷・小浜市での結婚が決定)
   12月 登美子、地方銀行経営の父親の勧めに従い一族の出世頭・山川駐七郎
      (とめしちろう)と結婚
1901年(明治34年) 寛29歳・晶子24歳
   1月 浜寺の歌会に、寛・晶子・河井酔茗ら集まる
   1月 京都・栗田山「辻旅館」に今度は2人だけで2泊する(栗田山再遊)

<「新潮日本文学アルバム」22pに「辻旅館」の見取り図掲載有り・・実際の現・水道局内の場所は不明で図面からの広さで想像すると石碑が建っている位置の奥の削平地かその1段東側上の建物がある付近・・水道局(広報と思われる方)に聞いても要領を得ず位置不明 *辻旅館と歌碑は別項目で作成します>
 
   1月 晶子、「明星」誌上に「紫」37首、「舞姫」17首などを続々と発表する
   6月 晶子上京する
   8月 初歌集「みだれ髪」新詩社より刊行
   9月 寛、林滝野と離婚
     (「明星」発行資金の大部分は妻・滝野の父親・林小太郎の出資
      ・・この問題が解決した上での離婚であったようだ)
   10月 寛と晶子 結婚(のちに12人の子を出産)

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*参考資料
「新潮日本文学アルバム 与謝野晶子」1985年刊
「与謝野晶子 歌碑めぐり」1991年刊
「与謝野鉄幹伝」1984年刊
「与謝野晶子を学ぶ人のために」1995年刊

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2013年02月17日

京都 御霊神社鳥居前 水田玉雲堂

水上勉の随筆「京都・日本の風景を歩く」(2000年刊)から・・(p24)<昔なじんだ餅菓子が一つ二つあった。これは餅ではないが、上御霊神社前にあった「唐板」である。上御霊神社は相国寺の北にあり、私の入った室町小学校がすぐなので、神社の周囲には友達もいた。私は境内をよく散歩した。唐板は、その頃から水田玉雲堂の売り出していたもので、いまは何代目かしらないが、清和天皇の貞観五年につくられたというから、古い京菓子の一つであろう。>とp26まで丁寧にこの店と「唐板」について述べています。
水上勉氏が清和天皇の貞観五年と書いているのだが、すぐピンとその時代が思い浮かぶ方いますでしょうか?江戸時代から続く老舗とか見聞きしますが、その遥か彼方のいにしえ・・西暦863年。年表を久しぶりに引っ張り出しました。まず、「貞観」って何て読むのか? 菓子とは別の方向に迷い込みそうです。ちなみに調べました・・貞観(じょうがん)=859年から877年までの18年間。この頃から作られたってほんとなのかなぁ。
現在、水田玉雲堂は<御霊神社鳥居前>と謳っていますが、この御霊神社が又とんでもないのです。中学で習った(?)あの応仁の乱の勃発地なのです。この付近ではなく、まさにこの神社の境内であの京の都を焼き払った応仁の10年にわたる戦乱が起こったのです。1477年(文明9年)に一応戦乱は収束してますが、この年に水田玉雲堂は創業したのだと白のれんにその和暦が染め抜かれています。
・・・現代、2年前に戻ります。管理人がこの神社と水田玉雲堂を訪れたのは2011年の初夏のことで、写真もその時のもの。観光で来る人もまれな場所のようで、見かけない客を見透かしたように逆質問が・・「何かでこの店をお知りになって来られたのでしょうか?」・・つい、「神社の参拝の帰りなんです」と返答してしまったのです。素直に水上さんの本を読んで来たと言えばいいものを・・・ごめんなさい。

烏丸鞍馬口・水田玉雲堂 営業時間9:00〜18:00  定休日 日曜・祝日
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御霊神社の山門は鳥居をくぐってすぐの所 鳥居の右側に応仁の乱勃発地の碑が有り
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水田玉雲堂は鳥居の真ん前角 創業文明9年(1477年)と染め抜かれた暖簾
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管理人の時々顔をだす見栄っぱりでつい大きい箱入りを購入
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唐板・・煎り粉を薄く延ばし短冊形に切り揃え焼き上げたものです(右写真)包装紙はわりと普通
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*水上勉が「水田玉雲堂」について記述した随筆本は、以下の2冊にも取り上げられています。
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京都 祇園 鍵善良房 四条本店

京都観光の中心地・祇園の四条通に面して店を構えるこの和菓子の老舗を自信を持って推薦するのです(本当?大丈夫かな?)。元禄年間(江戸時代初期)に屋号が確認できており、客を店内に招きいれて現在のように黒蜜とともに「くずきり」を提供するスタイルは昭和初期になってから。昼前の観光客が祇園を歩き廻り始める頃には広い喫茶室も混雑状態に・・開店直後の静寂に包まれた空間+さらに土蔵のある奥庭に接した席・・この条件付きだとさらに「くずきり」が美味しく堪能できるはず(実際、朝の散歩コースの終点にしてました・・大丈夫です)。
京都の街が故郷といってよい作家・水上勉氏(故人・少年時代から京都市内の寺院などに居住)も2階に座敷があった時代に度重ねて訪れ、エッセイなどに記してます。この昭和30年代始め頃から「くずきり」は本格的に有名になってゆきます。
 鍵善良房HP http://www.kagizen.co.jp/ 開店時間・地図などは綺麗なHPで確認できます
 祇園本店の定休は月曜(祝祭日に当たると火曜休みに)・・清水・高台寺店は水曜休み

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店舗に入ると目を惹くのが水屋箪笥(たんす=飾り棚) 芸・舞妓さん達の名入り団扇
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輪島塗の美しい重ね器・・さぁどうしよう 眺めてても仕方ないのでちょっと周囲に視線を配ってからおもむろに右写真のように 奈良吉野の葛粉を湯煎・冷水に晒し6ミリ巾くらいに切り揃えられた「くずきり」・・暫く放置しておくと透明な氷水は白濁してくる・・そうなる前に右の器の黒蜜に付け食します・・このスタイルを考案したのがこの老舗です 
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喫茶室(「喫茶去」)入口から 右奥に座席は広がってます 奥に土蔵のある庭

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2013年02月16日

京都 映画館 新京極シネラリーベ(旧・京極弥生座)閉館

昨日(2月15日金曜)、最終上映回が20:15に終了すると同時に何のセレモニーもないまま長い歴史を刻んできた京都の映画館が閉館しました。オマージュを捧げるほどの愛着は「シネラリーベ」には無いのですが、京都で最も親しんだ映画館なので何の言葉もかけずに通りすぎる訳にはいかないです。
この週末、新京極アーケード街に繰り出す人々は降ろしたシャッターの「閉館しました」の張り紙にどれだけの人が気付くだろうか・・いつのまにか消え去ってしまった映画館のリストにまた1館追加です。昨夜の観客は数十人だったようで・・・普段よりは多かったことがなによりも良かったです。
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画面中央が「新京極シネラリーベ」 住所は京都市中京区新京極六角下ル中筋町490
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近くのシネコン・MOVIX京都の封切りで観た沢尻エリカの「へルタースケルター」・・シネラリーベでも観たことが思い出になりそう (右写真)3階のスクリーン 
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7年前に館名が「京極弥生座」から「新京極シネラリーベ」に変更になったのですが・・「京極弥生座」の記憶は薄れてます。その頃は観光で京都を訪れていたために映画をみてる余裕もなく・・新京極の通りの同じ側にあった映画館と記憶も重なっていて・・写真は撮ったはずだが行方不明。
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2013年02月14日

京都 祇園 鯖寿司 いづう

京都の寿司といえば鯖寿司・・・鯖寿司といえば「いづう」というほどの名店。1781年創業の老舗で、屋号「いづう」は初代の名「いづみや卯兵衛」から起こしたもの。出町柳から橋(出町橋)を西詰に渡ったところの「鯖街道口」の石柱を見るたびに思い起こすのが「いづうの鯖寿司」。
偏食管理人の好物・・第1は「ウナギの蒲焼」・・第2が「寿司」全般(中でも鯖寿司が不動のトップ)・・第3が「やや細打ちのそば」(穴子の天ぷら付きなら文句なし)・・以上の3大好物に入っている鯖寿司。このローテーションが一生続いてもニコニコ笑顔でいられるのです。大丸百貨店の地下食品売り場の支店(イートイン有り)でお土産(たいてい蒼葉寿司1本)を買って部屋に帰った日々がつい先日のことのように思い出されるのです。

祇園の本店 定休日 火曜
営業時間 平日11:00〜22:30L.O(日・祝は21:30L.O)
持ち帰りは朝8:00〜
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奥が白川・巽橋 右側に「いづう」 ・・・これだけ人がいないのもめずらしい
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鯖姿寿司1人前6巻 巻いてある分厚い昆布は自分で取り外します
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以下は地下鉄と阪急が交差する四条・烏丸駅近くの大丸京都店内の「いづう」支店。イートインは巾広のカウンター席のみ。持ち帰りメニューは豊富です。
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      京ちらし寿司1890円          大丸支店のメニュー・鯖寿司は4巻
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2013年02月13日

京都 伏見・撞木町遊廓跡(大石内蔵助遊興の地)

「忠臣蔵」の主人公・・・赤穂藩国家老の大石内蔵助良雄は京都・山科西野山の閑居にいた1701年(元禄14年)6月から翌年10月までの間に度々この撞木町遊廓(しゅもくまち)で淫蕩に耽っていました。山科の閑居(現在の岩屋寺境内)からこの遊廓までは直線距離で3km余り、山道を今熊野経由で深草に抜けていたといいますから倍近い距離の道程であったと思われます。
討ち入り後の1748年(寛延元年)に「仮名手本忠臣蔵」が竹本座初演で上演されますとその遊興の場は撞木町遊廓から祇園「万亭」(現・一力亭)に変わってしまいます。現在ではその歌舞伎台本からの縁で「祇園一力亭」で毎年3月20日に「大石忌」が催されています。
撞木町遊廓には京都在住の同志を伴い「笹屋清右衛門」の店に上っており、碁盤を踏み台にして(笹屋の)天井に漢詩を書く大石の姿が絵として残されています。撞木町の廓は当時の一流遊廓・島原に比べかなり下の位置付けで、討ち入り等の資金に気遣いをして安いところを選んだといわれています。が、島原にも時折は登楼しており「浮船」とxxxしてたりも。当時、撞木町にいた「浮橋」という妓と大石はなじんでおり、たまの島原でも「浮」の付く妓と・・自らも粋名「うき」と名乗っており相当の「浮」の字好き。芝居・映画などでは目隠しした大石に「うきさま、手のなる方へ」と遊女らがはやしたてるシーンがかならず描かれるのです。 
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撞木町遊廓跡入口の門柱=大正7年8月建 手前左右の道路が京町通(伏見旧街道)
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和菓子店「まなゆり」の西隣りに「大石遊興の地」碑 (右写真)右建物の前に板碑「撞木町遊廓碑文」
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歴史のある遊廓で大正時代の碑文には豊臣の文字が・・大きめに拡大可なので読めるかも
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撞木町遊廓跡の西端付近にあった橋桁

*「大石遊興の地」碑の隣りの和菓子店「まなゆり」・大石内蔵助関連の菓子はなさそう
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白い車のボンネットの向こうに石碑 行ったり来たりしながら食べた「まなゆり」の和菓子
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「仮名手本忠臣蔵」で大石内蔵助の遊興の場となった祇園「一力亭」・門暖簾は万亭の「万」の文字・京都を代表する風景にさえなってます


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2013年02月12日

京都 円山公園 いもぼう平野屋本家 松本清張「球形の荒野」より

東山・円山公園を知恩院南門に抜ける手前辺りに、「いもぼう」発祥の老舗「いもぼう平野屋」の本家と本店が左右に並んで店を構えている。「本家」のほうの女将(北村明美さん)に伺うと「こちらが本家であちらは分家」とのこと。
「本家」のHPから紹介文を引用すると、<<いもぼう平野家本家では伝統のほんまもんの味を守る為に、京の名物料理「いもぼう」の技と味を一子相伝(いっしそうでん)で継承者にのみ伝承いたしております。手間ひまをかけた他では真似の出来ない本来の「いもぼう」を是非お召し上がり下さい。文豪・吉川英治先生に「百年を伝えし味には百年の味あり」とお褒め頂き、ノーベル賞作家・川端康成先生が「美味延年」と記され、また推理小説作家・松本清張先生には小説の舞台としてお書き頂いております。>>
そこで多作を誇る松本清張の長編小説群から「いもぼう」登場場面を抜き出してみる。作品は「球形の荒野」で、京都での主舞台は、下記に「鍵をフロントに預ける」と描写されているように、殺人事件が発生する「Mホテル」こと「都ホテル」であって、「本家」のHPにある「小説の舞台」というのは大袈裟で、ささいな事件も起こらず、この料理屋に謎解きのヒントが隠されているわけでもない。

<<京都では、特殊な料理として「いもぼう」というのを聞いていた。久美子ほ支度をした。鍵をフロントに預けるとき、その料理を食べさせる家を訊くと、円山公園の中にあると教えられた。
タクシーで五分とかからなかった。その料理屋は、公園の真ん中にあった。これも純日本風のこしらえである。幾つにも仕切られている小部屋に通った。「いもぼう」というのは、棒鱈(ぼうだら)とえび芋の料理で、久美子は他人(ひと)からは聞いていたが、食べるのははじめてだった。淡泊な味でかえって空いている胃に美味しかった。
女中もみんな京言葉だし、隣の部屋で話している男連中の訛(なまり)がそれだった。こうして特色のある料理を食べながら土地の言葉を聞いていると、しみじみと旅に出たと思う。>>以上。
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(左写真)メーンの海老芋と棒鱈鱈  (右写真)御膳セット
 営業時間 10:30〜20:00L.O 15時にメニュー切り替え
 定休日 無休
 詳細はHPで(本家)http://www.imobou.com/

「球形の荒野」オール読物昭和35年1月〜昭和36年12月掲載初出。
「松本清張全集6」文藝春秋1971年刊より抜粋。
松本清張リンク
奈良 薬師寺から唐招提寺への道 松本清張「球形の荒野」より http://zassha.seesaa.net/article/448074331.html
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京都 華頂道の水辺と行者橋

東山区の浄土宗総本山・知恩院の山門から真っ直ぐ西に延びる参道・華頂道が白川に至る付近が管理人の京都でのお気に入りスポットのひとつ。天気の良い日は「散歩」の目的地にまず思い浮かぶのです。
以前の住まいだった市役所の西側から御池通に出てホテルオークラ(長州藩邸跡・ビルの敷地の外壁の裏に石碑有り・・隠してます)の前を通過(たまには反対側に渡り漱石の文学碑をみることも)。御池大橋で鴨川を渡って川端通を右折し京阪三条駅前に。ここで必ず問題発生・・・三条通に左折する市バスが信号にたいてい引っかり止まっているのです。曲がったすぐ先がバス停・・「散歩」をすぐさま忘れてダッシュ・・2〜3人は待ってる乗客がいてくれるので余裕で乗車です。三条通を真っ直ぐ東に向かうと白川に。・・・バスとっても楽ちんです。坂本龍馬とお龍さんが挙式した元・寺院跡(前は跡地の一部が小さいホテルだったが取り壊しでマンションに=石碑も再復活)をチラッと見てから白川の左側の道を南下。すぐ和菓子屋(明智光秀の首塚をここのご主人が管理してる=和菓子屋角の細路地を入ったところに首塚有り)の前に出ます・・が、甘いもの禁止で素通り。しばらく柳の枝が風に揺れる間から白川のきらめく水面に眼をむけながら・・ここからが楽しい散歩になります。観光客を乗せた人力車が追い越して行きます・・楽ちんそう。
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托鉢に向かうお坊さんの集団が細い石橋を渡ります・・門付なのでしょうか・・古川町アーケード方向にはやはりこの石橋が近道? 幅60c強のこの橋の通称は「行者橋」 この通称が普遍化してます 写真の右側の橋端の少し手前に説明プレート有り(正式名称など気になる方は見に行って下さい・・不親切)
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冒頭に述べた知恩院の山門からの華頂道が白川に架かる橋・古門前橋(石造)に至った所です 左写真の奥左にあるビルが華頂短大・大学・・行者橋の上流の橋・唐戸鼻橋の付近にも校舎が・・周辺はこの仏教系の私立学園に取り囲まれています・・美しい白川とややきれいな女子学生達・・お気に入りスポットになってる理由がご理解していただけることと思います 
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(左写真)古門前橋上から白川上流方向・・手前が行者橋で奥が唐戸鼻橋 右側に親水施設のベンチ付きの川床が設置されてます (右写真)人気の細い行者橋・・この橋を渡るために訪れる人も多いです・・ふら付く方は・・止めませんので落下して下さい 
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小さいお友達もややきれいな大きなお友達も水辺はお気に入り(勝手に友達っていうな・・第4話Z伝説のコピーなのでお許しを)ベンチは誰かしら先客がいてなかなか順番がこない・・
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鳥だって・・人力車だって・・花だって・・下の写真の唐戸鼻橋を渡って再び対岸を古門前橋に引き返すのです・・そのうちお坊さんの一行に出くわすかも
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(右写真)この行者橋・古門前橋から白川を下ってゆくと観光客の記念撮影ポイント第1位(多分)の祇園「巽橋」に 京都紹介番組(ドラマだと舞妓さん付き)にもれなくついてくる有名スポットです・・が、管理人はこちらの行者橋のほうに高ポイントを付けるのです。

  *地図は無しです


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2013年02月10日

京都 Cafe Bibliotic Hello !

京都にも部屋があった時代(ってまだ昨年12月)に時々利用していた近所(徒歩5分)のカフェです。日記風にアップしていたブログに名称を書くのが面倒で「バナナの木・・・」と呼んでいたところ。開店が昼前の11時30分と遅かったために、朝のコーヒーはほとんど「イノダコーヒー三条店」ばかりに。日本語だと「カフェ ビブリオティック ハロー!」・・いちいち書いてられないでしょ。
詳細は店のHPにhttp://cafe-hello.jp/(それほど詳細ではない)
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座るのはこの大テーブルか窓際の席・・奥はやや暗めなのです 住宅街なので人通りはほとんど無し
1番好きな席はパン屋(棟続きで店内でつながっている)のテーブル席だったが昨年11月だったか配置変えで消滅
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その好きだった席に女の子が(画面右)・・あきらめてパンだけ買って帰った夜なのでした(パン屋側はこの四角いテーブル1席のみ)
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パン屋にもちゃんとした名が・・「ハローベーカリー」 昼はバナナの大きな葉が直射光を遮ってくれ・・木漏れ日がコーヒーの表面に揺れ動きます
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メニューは多種多様・・このヴァニラアイスは特注(別メニューのアイス部分だけを注文) パンを店内で頂くには2個以上でというルール有り(隣りのカフェのほうに運んでくれます) この2種(スイートなんとかと紅玉=りんご)が好きで毎回こればかり 注文すれば好みの位置にナイフを入れてもらえます=4つに分割した紅玉 毎回コレとコレと指差し注文してたのでパン名はついに憶えられず・・そういえば店名もず〜とハローカフェだった・・(謝)
 *パン屋の職人さんが昨年11月からフランスにお出かけで3月末(要・確認)くらいまで不在。
  で、開店休業状態・・仕入れが別の焼き菓子・食パンなどは買えます。
 *地図は最下段に 営業時間などは店のHPで
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2013年02月03日

京都 壬生村遊女屋(壬生寺・新選組)

寺伝によれば平安時代(991年)創建の律宗別格本山・壬生寺。その寺の南と西側に密着する形で小規模な遊郭(遊女屋)があったことはほとんど知られていないようです。
幕末(1863年文久3)、壬生寺周囲に浪士組(=新選組)が展開したが丁度この遊女屋と真逆の北・東側の一帯。月6回(4と9の付く日)、壬生寺境内で新選組の軍事調練が行われていたが遊女屋の女たちの耳にも気合いや掛け声の音が届いていただろうと想像します。ましてや大砲をぶっ放した時はその空気振動波は障子紙を突き破るほどだったのでは。
現在も毎年4月に壬生寺名物の壬生念仏狂言が開催されているが、この催しが遊郭発生と関係しているらしい。江戸期には各地の寺院の参道や門前には参拝人(坊さんも)を狙っての遊女屋が見受けられる。江戸の谷中墓地の入り口の遊女屋や上野不忍池の弁財天の参道(現在は両側にたこやき屋などの屋台がでる所=ずらりと遊女小屋が並んでいた)が有名。壬生寺では念仏狂言の見物客相手に境内に茶屋が発生し、次第に茶立女も置くようになりこれが遊女屋に変化したようです。宝永年間(1704〜)には境内での夜間営業を禁じる命令が出ているのでかなり目に余る状態になっていたのでは。
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(左写真)地図1=壬生寺南の仏光寺通 西方向 (右写真)地図2=同じ西方向 先の道路ひし形マークの左が壬生墓地 右側の塀は壬生寺
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(左右写真)地図3地点からの左右 そば屋の隣りに壬生墓地の門 墓地の先は元の遊女屋 そば屋の位置から先は畑だった 文久3年9月の近藤勇派による芹沢鴨・平山五郎の暗殺後に遺体はこの墓地(地図9)に埋葬(後年に壬生寺境内の塚に改葬)
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(左写真)地図4地点から 右に曲がった先に西門側遊女屋 壬生寺の塀に沿って路地があったが消滅している (右写真)地図5から南方向を振り返り=左側に遊女屋

新選組隊士の女性スキャンダルは数多くの伝聞が残っていますが、松原忠司の「壬生心中」・佐々木愛次郎の因幡薬師での「あぐり」をめぐる悲恋(あぐりは暴行される寸前に舌を噛み切り自害)・・・そしてこの遊郭を舞台にした山野八十八(やそはち)の大河ドラマにも匹敵してしまうほどの明治中期までの大恋愛ストーリー。慶応3年冬、山野は壬生寺裏の水茶屋「やまと屋」の娘と恋仲になり女の子が生まれる。・・長くなるので大幅にはしょると・・山野は鳥羽伏見の戦いに参戦・・生残って江戸に・・近藤勇指揮の甲陽鎮撫隊隊士として勝沼に進軍・・土方歳三隊で会津戦争参加・・転戦し北海道に(函館戦争)・・全滅してゆくなか生き残り・・京都に戻り・・六条河原町の小学校の小使いに・・時は明治29年に、一人の芸者が現れて山野を退職させ引き取ってゆく・・その祇園の芸者こそ父親を探しあてた壬生寺の水茶屋で生まれたあの女の子。
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壬生寺と西側の遊女屋があった地域の町名=読みは(なぎのみや)(右写真)地図8から壬生寺山門
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地図9の壬生墓地内の八木家代々の墓石の一部 新選組・八木家に所縁の墓地です(明け放たれてはいませんが鍵はかかっていません) 近年の八木家は脱税(修正済み)問題が報道されたり・・不満は、経営してる入口の和菓子屋と市文化財の八木家建物の見学代を抱き合わせていること。甘いものが苦手な者からもしっかり収奪・・多くの寺社が茶菓子は希望者のみの別途扱い。錦市場内にも支店を出しているが買う気が起こらずスルー。
和菓子といえばすぐ近くの旧・前川家の斜め向かいで70年以上ひっそり(?)と営業している「幸福堂」の金つばが絶品。一見、新選組の旗など出して土産物屋風だが親父さんの焼く四角い金つば・・・食べたくなってその為だけの目的でバスに乗って出かけたことがあります。おばちゃんも焼き上りを待つ間、そっとお茶を出してくれたり・・食べ物は好みがありますが「幸福堂(地図右上)」はお薦めです(注:金つば以外求めたことないので他は保障外ー水曜休み・朝7時30分から)。金つばの写真を探していますがHDの何処かに有るはずなのに行方不明。

 *参照 「新撰組隊士録」2011年刊
     「壬生村遊女屋絵図」
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2013年01月31日

京都 高等女学校之濫觴・女紅場址の碑

明治の初頭、会津戦争を生き抜いた山本八重が3年ほど働いていた京都・丸太橋際の女紅場跡です。

1872年(明治5年)4月14日 新英学級及女紅場<女紅場=にょこうば>開設
              土手町丸太町下ル 旧九条家河原殿に教場

現在、丸太町橋西詰の南側に「女紅場址 本邦高等女学校之濫觴」の文字が刻まれた石柱が残るのみ。
丸太町通に面した北側向きが表面で「濫觴」の意味は「大辞泉」によれば<物事の起こり、起源という意味・・読めますよね>。鴨川向き面には昭和7年10月の建立年月、背面には母校創立60周年記念・京都鴨沂会。向かって右面は日付・場所と女紅場が府立京都第一高等女学校に改称された説明。
敷地は現在のスーパーフレスコ丸太町店(=レトロな旧・京都電信電話会館)と南側の鴨川銀杏館+キリンビール寮を囲むほぼ90m四方。西辺は三本木通であったと推測。
九条家河原殿の門が教場の門としてもそのまま流用され、現在は後身の府立鴨沂(おうき)高等学校の寺町通に面した場所に移築されてますが、女紅場時代の位置は不明。丸太町通に向いていたのだろうか。茶道(千家)・華道(池の坊)はもちろん・・英語(米人)・裁縫・機織(はたおり・西陣の機織師)・礼儀作法・絵画(跡見学園創立者ら)・紡績までと充実。
上洛(明治4年秋)して1年ほどの八重も権舎長と教導試補を兼ね舎監を務めながら紡績・養蚕を教えています(明治5年年末か?)。

1876年(明治9年)女学校及紅場と改称。
その後、府立京都第一高等女学校と改称。戦後、現在の府立鴨沂高等学校に。
 府立鴨沂高等学校 http://www.kyoto-be.ne.jp/ohki-hs/(学校のHPに歴史載ってます)
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寺町通に面した旧・九条家河原殿の移築された門(女紅場の丸太町通側の門・現在は鴨沂高校校門)

鴨沂高校のHPに画像がアップされてますが、女紅場開設当時の京都府の実力者・槇村(まきむら)正直(長州藩士・明治10年に府知事就任・実権は明治3年頃より 議場で新島八重の兄・府顧問の山本覚馬と対立もあった)の筆になる扁額が校宝(?)として保存されているようです。八重は明治8年10月15日に、反キリスト教の諸勢力(僧・神官ら)の圧力を受けていた新島襄と婚約したため即座に女紅場を解雇されています。同志社女学校(同志社女子大学の前身)が設立されるのは、その後すぐの明治10年。開校は明治11年9月16日。兄・山本覚馬と知事・槇村は当時、河原町御池の元長州藩邸付近の近隣に住んでいました。
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女紅場跡ですが左右1枚として見えますよね 見えるはずです 左の1本の大きな木の先くらいまでが敷地跡(のはず) 何処かに学術調査した資料あるはずだが不見識で見つけられず(府立総合資料館で一応調べたが・・検索方法が稚拙)

「大磯 新島襄終焉の地(旅館百足屋跡)」http://zassha.seesaa.net/article/161156782.html
「京都 新島八重の終焉地(新島襄旧邸)」http://zassha.seesaa.net/article/311806567.html
                 上の新島襄旧邸に女紅場址の地図有り

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2013年01月12日

京都 佐々木酒造 俳優・佐々木蔵之介の実家 

映画・テレビドラマで活躍する俳優佐々木蔵之介の京都市内の実家は、明治26年創業の造り酒屋「佐々木酒造」。豊臣秀吉の築いた聚楽第の南外堀の跡(窪地として残る)から約200mほどの場所に、古い板張りの佐々木酒造の酒蔵が幾棟も連なっている。所在地は、京都市上京区日暮通椹木町下ル北伊勢屋町727。実弟の佐々木晃氏が代表を務めており、晃氏自身の言葉が端的に代表に就いた経緯を表しているので紹介する。
<<私は男3人兄弟の末っ子で、まさか酒屋を継ぐことになるとは思っておりませんでした。上の兄は「飲んで無くなってしまうものを造るのはいやだ」と言って建築の道に進んでしまい、二番目の兄が跡を継ぐべくして、神戸大学の農学部に行ってバイオテクノロジーの研究や酒米の研究っていうテーマで卒論書いたりして、着々と酒造家の道を歩んでいたのですが、突然「俳優になる」と言って出ていってしまいました。いつも自己紹介のところで佐々木酒造です、と言ってもあまり皆さんご存じない感じなのですが、最近は俳優の佐々木蔵之介の弟です、というと結構知ってくださる方があって、うれしいような複雑な気分です。まあ、そんなことで、大学では中国文学科だった私が嫌々酒屋を継ぐことになったわけです。>>
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(左右写真)佐々木酒造の母屋の玄関。販売も兼ねている、左写真右奥のバイクが停めてある所が専用駐車場(6台分)
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佐々木酒造の手造り酒の各銘柄が揃う店舗前の自販機。代表的銘柄のひとつ「聚楽第」 
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御池通の地下商店街「ゼスト」(京都市役所前)で、2012年11月に催された京都の地酒販売イベント。佐々木代表自らに酒をついでもらった。
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地下街商店街ゼスト。様々なイベントがゼスト広場で催されている。
佐々木蔵之介のTV出演代表作品は、TBS系列の連ドラ「ハンチョウ〜警視庁安積班〜」(各シリーズ)の主演。CMは「アート引越センター」など。
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2013年01月06日

京都 新島八重の終焉地(新島襄旧邸)

八重の二度目の夫で同志社英学校創設者・新島襄(にいじま じょう)は、1890年(明治23年)1月23日に神奈川県大磯の旅館「百足屋」で逝去。享年46歳。子供無し。八重は昭和初頭まで長生きし、1932年(昭和7年)6月14日に86歳で亡くなる。丸太町通から御所東側に沿って寺町通を100m少々上ったその逝去の地は現在、新島襄旧邸として同志社の管理のもと一般公開されている。まもなく2013年度のNHK大河ドラマ「八重の桜」の第1回の放送が始まるが、早速こちらは最終回(!?)で終焉の地です。
会津藩・砲術師範の父・山本権八(戦国時代の雄・甲斐の武田信玄の家臣・山本勘助が祖といわれる)・・八重の長兄・山本覚馬。実は新島襄や八重にはそれほど興味はなく、兄の山本覚馬に非常に興味を持っているのです。維新後、薩摩藩邸の敷地(現在の同志社大学今出川本部キャンパス)を山本覚馬がなぜ取得できたのか・・それ以上に会津藩士が鳥羽・伏見から大阪にかけて累々と屍を野天にさらす中、山本覚馬が何故に生命を保てたのか? そのあたりは大河ドラマ「八重の桜」で描かれるのだろうか。 
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「新島襄旧邸」の入口脇の有形文化財の看板と石柱 出入り口は寺町通に面した西側です
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新島襄邸です 周囲を同志社の建物・新島会館が取り巻いています 建物の説明や公開日時は下の説明板の写真で
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この「新島襄旧邸」から東へ徒歩数分の場所に八重に関連のある「女紅場」(後の府立第一高女)跡地があり、丸太町橋南詰に石碑が建ってます。京阪利用で訪れるとルート上にあります。他にも維新に関係したスポット(三本木遊郭)が多く点在してます。
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新島襄・新島八重・山本覚馬の墓所の案内図は同志社大学のHPにあるのでリンク貼ります。
左京区鹿ケ谷若王子山町の市営若王子墓地内同志社墓地・配置図http://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/graveyard.html
八重の墓写真http://www.doshisha.ac.jp/yae/news/2012/0810/news-detail-13.html 
同志社墓地以外の新島襄・八重夫妻の情報も閲覧可能です。

「大磯 新島襄終焉の地(旅館百足屋跡)」http://zassha.seesaa.net/article/161156782.html
「京都 高等女学校之濫觴・女紅場址の碑」http://zassha.seesaa.net/article/317226870.html
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2012年10月08日

京都 伏見稲荷大社

京都市伏見区にある全国の稲荷神社の総本社。2011年に鎮座1300年を迎えた伏見稲荷大社だが旧社名は「稲荷神社」であった。戦後(1946年)の宗教法人化にともない「伏見稲荷大社」と改称され、現在に至っている。稲荷社(伊奈利社)の奉鎮については、伏見稲荷大社HPの沿革に詳述されている。http://inari.jp/about/num11/
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伏見稲荷大社の千本鳥居。
数えきれない朱い鳥居のトンネルを歩むと異界へ吸い込まれてゆく感覚に陥る。

<<伏見稲荷大社即ち稲荷社が史書に登場するのは、「類聚国史(るいじゅうこくし)」巻三十四が初めである。天長四年(八二七)、淳和(じゅんな)天皇が病気になり、占わせたところ、それは稲荷社の木を伐った祟りであるということであった。そこで大中臣雄良(おおながとみのをよし)を稲荷社に遣わして、礼代として従五位下を賜り、病気平癒を祈ったのである。この稲荷社の木を伐ったのは、空海が東寺を建てるためであったことは、空海の漢詩文集「性霊集(しょうりょうしゅう)」に前年、天長三年十二月二十四日付の空海の奏文があることによっても解る。即ち、「今塔幢(とうとう)の材木近く東山に得たり」とある。この「東山」が、「稲荷山」であることはほぼ間違いがない。(略) 巨大な寺を建てるには何よりも巨木が必要であった。おそらく太古からの鬱蒼とした森のある稲荷山には巨木が生い茂っていたのであろう。 (略) しかし稲荷神の祟りで時の帝・淳和は病気となり、五十五歳で亡くなった。ところが、稲荷社には高い神階が与えられ、ついに天慶五年(九四二)には正一位が授与されたのである。今でもお稲荷さんは田舎にあっても、正一位稲荷大明神と名乗り、その天皇によって与えられた冠位を後生大事にしている。これは妙なことである。本来なら稲荷神のタタリは、稲荷社の木を伐って東寺を造った空海か、その実質上の命令者嵯峨上皇に降り掛かるべきなのに、弟の淳和帝がそのタタリの犠牲になって命を落とした。これは空海の法力或いは呪力が強かったからであろう。>> 梅原猛「京都発見1 地霊鎮魂」新潮社1997年刊の「空海と稲荷神」と題した章より。
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その後、嵯峨王朝(上皇)を安泰せしめた稲荷神は国家鎮護の神の座を得て、空海の真言密教の本山・東寺と深く結びついてゆく。朱雀帝の天慶5年(942年)になり稲荷社に正一位が授与される。なお慶応4年(1868年)3月28日に維新政府によって神仏混淆(こんこう)が禁止されるまでは稲荷社の脇に真言密教の寺・愛染寺が存在していた。明治と改元されるのは同年9月8日。
付記:淳和(じゅんな)天皇の崩御は天長10年(833年)。空海の入寂は承和2年(835年)3月。
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2012年08月03日

京都 高野悦子「二十歳の原点」 ジャズ喫茶ダウンビート

三条通にある現在の居酒屋「池田屋」の裏にパブスナック風の三条店があったが、四条店は純然としたモダンジャズの店であったので、高野悦子が訪れたのはこちらの店のはず。1969年当時のこの店には、この日の1回だけの訪問だったと思えます。日記の記述もこの日のみ。彼女の容貌や雰囲気からすると全然マッチしない場所であり、彼女自身も2度目の訪問は考えなかったはず。
彼女が死の直前まで度々訪れていた荒神口の学生客中心の上品なジャズ喫茶「しあんくれーる」と比べると、「ダウンビート」は地下・退廃・フーテン・薬物といったキーワードで表現できる店。 
以下、「二十歳の原点」から
<1969年5月26日(月)晴
きのうは一日中ぶらぶら。「ろくよう」「ダウンビート」その他で過ごした。きのうのいかにも深刻ぶった顔を考えると吹きだしたくなる。自己完成のためにーといったって、人間は結局死ぬんじゃないか。>
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  左写真は奥方向に河原町通(右手前付近)   右写真は逆向き方向で奥が真橋(左手前付近)
当時の店のあった付近から左右を撮ったものです。近くの風呂屋の前にある路地をふさぐような大木は当時と同じように覆い被さっています。
「ろくよう」は河原町三条の交差点から少し下った「喫茶・六曜社」(推定)。当時、東京の学生らにも有名な店で、狭い店内は客同士の肩が触れ合うほど混雑していた。彼女はこの店の少しは知的な容貌をした客らで混みあう雰囲気には違和感なく溶け込めていたはず。「ろくよう」を出てから「ダウンビート」に向かったのであろうか?河原町通を下ればすぐ着ける距離にある。
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 *追記 コメント欄で指摘していただいた「ダウンビート(三条)」について。
この(三条)が後からの注釈として付加されたものならば、当時の調査ではまず本店=三条店となってしまうはずです。彼女自身のノートに三条の店と記述があるとすれば・・おそらく1階の喫茶風の店にいったのだと想像しますが、何しにいったの?という感じの店です。管理人・・その店がつながりがあると聞いて、当時一度確かめに行った記憶があります(記憶が薄れてますが)。ジャズ喫茶に出入りする若者には向いてない・・素通りするタイプの店。でも高野さんなら行ったかも・・ジャズ喫茶の「ダウンビート」の雰囲気にも生真面目そうで溶け込めそうにないし。写真でみる高野さんは当時としても目立たないタイプに見える。ミニSKが最初の流行のピークを向かえていて、新宿(位置としては現在の渋谷)では後方から歩きながらても下着が見えるほど短い丈の極端な女性がいたくらい。ファッションだけですが、この頃の新宿や京都の若い女性らと比較しても「ださい」感じに分類できてしまう。
 「ダウンビート」(ジャズの方です・・当時はジャズ店のみが圧倒的に有名)には思い出あります。それなのに位置があいまいになっており、路地を通っても思い出せません。現在、出町柳でジャズ喫茶「ラッシュライフ」をご夫妻で経営されているC氏が、長期間にわたり常連として通われていたので、保障はできませんが「ダウンビート」について話してくれるかも・・・。店は叡電の出町柳駅の真ん前で昼から営業。
最もおぼえている事件(!?)が「みすずちゃん行方不明事件}(本名まずいかな)。雑誌「平凡パンチ}(だったと思う=今でいう「週刊プレイボーイ」)のグラビアモデルもやったハーフの彼女がこの店から誰かに連れさられて琵琶湖方面に・・・仲間が捜索に出動・・(長くなるので略)。彼女とは新宿にいた時分からの知り合いで、新宿の風月堂や紀伊国屋書店の2階に当時あったブルックボンド(管理人はここをよく大学受験勉強やデートで使用)で度々あっていたのです。国会図書館で過去の雑誌「平凡パンチ」を検索すればその姿をチェックできます。ちょっと寺山修司さんのところの歌手カルメンマキに似ていたかな。その彼女の彼氏(フェルト君)と当時の管理人の彼女と4人で・・・果てしなくなるのでまたしても略。その後まもなく京都・北白川に2人は移転し・・管理人は(先ほどとは別の彼女と「一緒においでよ」と招かれて)・・みすずちゃんらが通っていた「ダウンビート」に一緒に度々4人で・・・(やっと話がつながった)。「ダウンビート」で最終バスの時間も忘れて・・4人で暗闇の中を、あちこちでヨレヨレしながらもつれ合いながら北白川まで歩いた思い出が昨日のように思い浮かびます。みすずは例のごとくモデルそのものだし、管理人の彼女もそのころ細くてミニワンピでロングでちりちりのヘアスタイル。この頃少しダブって二人と付き合ってたので記憶が・・混じってしまう(注 もちろん両方にふられた)。「ダウンビート」にいた女の客もそんな感じのひとが多かったので・・高野さんが仮に来てたとしても・・・やっぱり「しあんくれーる」がいいなと自分に言い聞かせたのでは。「二十歳の原点」に「ダウンビート」の文字・・反射的にここだと思った次第です。
 *この当時の写真(彼女ら)残ってますので顔モザイクで背景の店と共にどこかでアップする予定。「ダウンビート」の写真は無いです。当時カメラもってきてなかったようです。北白川の写真もないし。
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2012年08月02日

京都 祇園石段下 うどん 初音(はつね)(閉店)

京都・祇園石段下の池波正太郎がエッセイで紹介したうどん店「初音」ですが、かなり以前に閉店しています。「初音」を含む小さい3店舗の敷地跡にひとつの建物が建てられ、当時の面影となるものは何も残っていません。
池波正太郎「むかしの味」からの抜粋です。
<京・大阪のうどんのうまさについて、くだくだしく書きのべるにもおよぶまい。名の知れた有名店でなくとも、どこの店でもうまい。四十年も前のうどんの味は、いまの京都に正しく温存されている。京都へ行って、うどんが食べたくなると、そこにある店へ安心して飛び込むが、祇園社の石段の傍にある{初音}は、私の行きつけの店だ。老夫婦が、むかしのままにやっていて、何ともいえぬ雰囲気がある。店主の小谷管次郎さんは間もなく九十になるし、妻女のはるさんは七十に近い。>
「むかしの味」の巻頭のカラー写真による紹介ページには、老夫婦のツーショットとうどんの2葉が掲載されている。25年以上の年月が経過した今となっては、小さな店舗のあった大体な場所さえ知る人もいない。写真のはるお婆ちゃんは何となく近くでご健在のような気がしてならない。
池波正太郎は自分の足で歩き、ふと目にとまった店に入り、自分の舌で味わったものを文章で紹介しつづけてくれた。味に関してはここはどうかなぁと思う店もあるけれど、繰り返し訪れてお気に入りになってしまった店も多く、向かいの席に池波さんが座っているような楽しみさえも与えてくれている。
現在の人気作家のなかには数日間だけ京都を訪れ、地元のスポンサーらに接待され連れてゆかれた高級料亭・バーなどを、後日「私の京都のおすすめの店・味」なんていう文章にして売ってる人がいる。奥沢に住んで久しい作家先生など京都の地理さえ危なかしそう。
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 中央の2階建て店舗の位置に小さい店が3軒あった その真中が「初音」だった
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                 池波正太郎「むかしの味」1984年刊 新潮社
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2012年07月31日

京都 高野悦子「二十歳の原点」 京都国際ホテル男子寮跡

栃木県那須郡西那須野町に誕生した高野悦子は、1967年4月に京都の立命館大学文学部史学科に入学する。そして京都での学生生活のうち1969年1月2日から同年6月22日までに記された日記が、彼女の死後「二十歳の原点」と題して遺族から出版されベストセラーとなり、その原作は映画化もされました。
この高野悦子が学生生活を送った数年間は、京都に限らずほぼ全国の大学で学生運動が最も激化した時期と重なっている。1970年を前にしたこの時期、現在では想像も出来ない深い絶望感が何万という若者達に満ちていたと思います。なにも無くなった透明な静けさのような中に皆しばらくのあいだ置かれていたはずです。彼女はそこからはいでることなく消えていってしまったと思います。男との関係が直接的なきっかけとなっていたとしてもです。

原作からの抜粋と<>内は要約

  <1969年3月1日から京都国際ホテルでウエイトレスのアルバイトを開始>
3月8日 二月の最後の一週間は、それこそ何もせずコタツに入ったきりの自慰的生活でした。そしてこの一週間、三月一日から夜のアルバイトや本を読む気が起こりまして、ただ今、小田実「現代史1」を読んでいます。
  <この日の記述で映画「気狂いピエロ」監督J・L・ゴダールに関する記述有り。彼女も観たのだろうな。管理人が唯一部屋の壁に飾っていた映画ポスターです。ゴダールに狂ってました。>
  <下宿の移転に関する日記の記述なし。4月4日の項になって移転先の周辺の描写有り。3月末に移転か?丸太町御前通の交差点が近い住宅地の下宿(川越方)に移る。ここが彼女の最後の下宿になる。>

4月4日 この近くには菓子屋は沢山あるが、八百屋は全くない。不便!質屋が二軒もあるので、これから何やらお世話になるだろう。
  <下宿の前の路地をはさんだ向かいに質屋があった。現在も営業中>

4月22日(20日の記述)毎日鈴木のことばかり考えている。鈴木と唇をあわせたり力強くだきあったり・・・(略)・・・立命館大学の学生であること 京都国際ホテルで日雇い労働者として働いていること 鈴木にすべての幻想をつぎこんでいるということ・・・

5月4日 二十七日、中村氏と呑みに出かける以前と以後では、私との繋がりにおける鈴木と中村氏との関係はお互いに逆転していたということが確認点のひとつ。
  <4月27日にバイト先の同僚中村とスナックで呑み明かし、火遊び的な関係を持つ。だが中村にはデートする女がいることを感じている>

5月11日 九日、中村氏は仕事の始まる前パントリーにいた。会えてうれしかったのに、私はそっけないそぶりをした。何故?何故?そのあと吉村君から中村氏にはステディな関係にある女の子がいるときいた。相当なショック。

6月2日 中村とのリレーション。四・二七、五・一三、五・一九、御所で二回あい、テレを数回。一体、彼との結びつきはどんな関係であったのか。彼との結びつきは単に肉体のみであったのかもしれない。とにかく決別だ。

6月17日 雨 中村の目の前で働きながら私は何もできなかった。中村にとり私がやっかいものの存在であるのは、私が中村に重苦しいものを求めているからであろう。
メモ 6月18日 さようなら まずこの言葉をあなたに言います。

6月22日  <最後の日記に旅立ちの詩が残されています>

1969年6月24日付け京都新聞夕刊の下段に小さい記事が報じられた。
<娘さん、線路で自殺>時刻は24日午前2時36分頃、中京区西ノ京平町の国鉄山陰線天神踏切西の20mで上りの京都梅小路駅行貨物列車に飛び込み即死。西陣署で調べているが、年齢15〜22歳、身長1・45mでオカッパ頭、面長のやせ型、薄茶にたまご色のワンピース。身元不明。>
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「中村」(仮名)の居住していた京都国際ホテル男子寮跡。彼女は死の数時間前に不在の「中村」を訪ねているといわれてます。この男子寮は解体され、2012年現在、駐車場です。 藤田観光グループ経営の京都国際ホテルは彼女がバイトしていた当時のままの場所・建物ですが(二条城前・全日空ホテル隣り)、内部構造は当然のごとく改装されており、この4〜5年の間にさらなる大幅な改装が実施される予定が発表されてます。
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道路から少し奥に玄関があった 彼女はこの場所に立ち尽くしていた・・・かもしれない
お隣のH邸は現在も京都らしい佇まいで彼女が訪れた当時の風景を残しておいてくれてます。(おそらくです)
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「二十歳の原点」(「はたち」ではなく「にじゅっさい」)の文庫本は昭和54年に新潮社から発行。 
*高野悦子に関連するポイントは別項で作成しリンク張ります(川越宅跡・立命館跡・しゃんくれーる跡・ダウンビート跡・山科寮・その他
 
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2012年04月02日

京都 祇園白川大和橋 「鳥新」前に車突っ込む 祇園8人死亡事故

さきほど、4月12日昼すぎ、テレビニュース速報で帰京前に食事をした祇園・大和橋際の「鳥新」前の電柱にライトバンが突っ込んで停止している映像がながされた。白川南道側(川側)の親子丼で人気の店部分だけが昼営業(入口別)で、本店(大和大路通側)のほうは夜の開店なのでお客もいないはず(木曜定休)。四条の大通りの大和大路通交差点で7人を巻き込んだ大事故を起こした車が突っ込んだようです。逃げる途中だよね?
被害者の方々と「鳥新」さんにお見舞い申し上げます。
下旬にまた食事に行く予定だけど店は壊れたか心配。
4月12日午後2時30分記

4月12日夜ー追記
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       藤崎容疑者の軽自動車は左から右に赤信号無視で通り抜けた     
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       暴走車が停止した「鳥新」前の電柱 自転車の方も巻き込んだ
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       2週間前に食事してた店なので驚きです  
                  
事件(事故)を起こした藤崎容疑者(搬送されるが死亡30歳)の自宅判明。京都市西京区桂朝日町(日本経済新聞のネット版参照)で4軒並びの同じような二階建て木造住居が連なる大通り(桂川街道)からのビルを除いて三軒目の家(行き止まり路地)。容疑者の家のベランダからは有名なお菓子会社の支店の駐車場が見下ろせる。報道が押しかけているようだが野次馬は用水に落ちないよう注意。
4年前からの勤務先の藍染屋は観光客相手の店で、四条通から花見小路を一力茶屋側に30mほど入った右側にある「i」。
店前の花見小路から建仁寺手前の一通を右折し、大和大路通をまた右折しパチンコF1の駐輪場前付近でタクシー(トヨタクラコン)に追突。不可解なのは追突で一瞬でも停止状態になったはずなのに再びそのまま現場に突進していったこと。病気の発作(てんかん)を起こしたとすれば大和大路通に入ってからみたいだが追突段階で運転をやめられたはず。
ニュース映像では「鳥新」玄関左下の板が1〜2枚破損している。すぐ修理できる損傷のようで直接突っ込まれなかっただけ良かったと思うしかない。

*「鳥新」の前身は、江戸末期には高瀬川に架かった四条小橋の東側で鶏肉店を営んでおり、暗殺直前の坂本龍馬が近江屋から250mほどのこの店に軍鶏(しゃも)を峰吉に買いにゆかせたことで知られています。現在はマクドナルドがある辺り。

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 藤崎容疑者が突っ込んで停止した電柱と鳥新の板壁   四条通りの現場
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                       勤務先だった藍染屋は閉店中

この記事は<お知らせ>で書いたものですが残します。
下のほうに<東洞院通の手打ちそば店の息子さんが東京上野の老舗そば店で修行中>と書きましたが、ビックリ!です。なんと小柄なお嬢さんでした。すでに4年以上修行を続けていて近いうちに京都にもどるそうです。
続きの写真を見る
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2012年01月17日

京都 東山五条 司馬遼太郎の墓

1960年に第42回直木賞(「梟の城」)受賞、1993年文化勲章受章、その他多くの文学賞を受けた人気作家・司馬遼太郎氏の墓所です。大谷本廟の墓地というだけの知識で墓参し、寺関係の方に伺ってなんとか墓前に辿り着けました。大谷本廟全域の案内図は設置されており、墓地の区画も記入されてますが個人(有名人)の案内表示はありません。高低差がある広大な墓地でまずスムーズには着けないと思います。迷います。参考程度になればと思います。
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  1996年(平成8年)2月12日に国立大阪病院で亡くなられました 忌日は「菜の花忌」と呼称されてます
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  南が上方向 案内板は無く上の地図では到達不可能   北が上方向 広大な高低差のある墓域です
続きの写真を見る
posted by t.z at 02:29| Comment(0) | 京都kyoto | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする