2018年05月31日

神戸 大輪田泊・平清盛の経の島築造 「平家物語」より

保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)を経て源氏勢力を一掃し、権力を掌中にした平清盛とその一門が、国家経営の一環として西海(瀬戸内海)交通の整備開発に乗り出す。福原における従来からの舟泊り大輪田泊の拡大、人工島の築造(海岸線埋立)が計画され、日宋(南宋)貿易の一大拠点化を目指す。その人工島が「経の島」と呼称される由縁も「平家物語」に語られている。現在、この地には築島寺(俗称)・築島橋と人工島築造を伝える名称が残され、築島寺(来迎寺)には経の島築造にまつわる松王小児入海之碑(人柱となった17歳の松王丸供養碑)が建っている。
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「経の島」付近(推定)の運河。右手の運河の向うに(建物の影)築島寺・築島橋がある。

「平家物語」(百二十句本)巻第六・第五十五句より抜萃。
<<また、何事よりも、福原の経の島築いて、今の世にいたるまで上下行き来(き)の船にわづらひなきこそ(*航行の不安を解消したこと)めでたけれ。かの島は、去(さ)んぬる応保元年(*1161年)二月上旬、築きはじめられたりけるが、同じき八月ににはかに大風吹き、大波たちて、揺り失ひてき(*崩し去る)。同じき三年三月下旬に、阿波の民部成能(みんぶしげよし*阿波豪族田口氏、壇ノ浦合戦で投降するが処刑)を奉行にて、築かせられけるが、「人柱たつべし(*人柱をたてるが良策)」なんど、公卿僉議(せんぎ)ありしかども、「それは罪業なり」とて、石の面(おもて)に一切経(*大蔵経)を書きて築かれたりけるゆゑにこそ、「経の島」とは名づけられけれ。>>
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築島寺(来迎寺)本堂。右手に松王小児入海之碑が見える。
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松王丸供養碑。清盛の侍童で民部の嫡男松王17歳は、多くの人柱(20人)の身代りを申し出、千僧読経のうちに海底に沈んだ。二条天皇(後白河院政)は松王を弔うため築島寺(俗称)を建立。開基は平清盛。
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発見当初は経の島の礎石と考えられたが、平安初期〜中期の大輪田泊(おおわだのとまり)の築堤用石材と判明した。花崗岩の石椋(いしぐら*築堤石)。上の運河の写真(堤防)に小さく写っている。 

「平家物語」新潮日本古典集成1980年新潮社刊より抜萃。
撮影は2016年2月。
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2017年10月14日

神戸 横尾忠則現代美術館 「横尾忠則千夜一夜日記」より    

今春、国際版画美術館(東京・町田市)で開催された「横尾忠則 HANGA JUNGLE」展が、現在、神戸市の横尾忠則現代美術館で巡回開催されている(但し、美術館は11月上旬まで台風被害の改修工事のため休館)。病気入院中だったため見のがした版画展、やはりチャンス(12月24日まで)はあるので見過ごしたくない。体調と相談してチャレンジするかも。恐らくふたたび倒れて、もう「お終い」になるだろうけど。
横尾ワールドを常設具現する美術館がオープンしたのは、2012年11月3日。この5年間で横尾作品のテーマ別展覧会や横尾と関わりの深い他分野のアーティストとのトークイベントなどを開催してきた。
この間の横尾の動きを日記から見てみたい。
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京都1928ビル(御幸町三条角)1階の同時代ギャラリー入口通路の開館告知ポスター。2012年10月。

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横尾忠則現代美術館の最寄り阪急王子公園駅に貼られていた開館記念展のポスター。

「横尾忠則千夜一夜日記」2016年日本経済新聞出版社刊より抜粋。
*「横尾忠則千夜一夜日記」の日付けには全て漢数字が使用されている。
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2013年9月26日
神戸の横尾忠則現代美術館の「肖像図鑑」展のオープニング、欠席のため代読してもらう挨拶文を
書いて送る。

2013年12月1日 日曜日
新横浜から新神戸へ妻と。何しろケガ以来の鉄道の旅で混雑する駅の人波の中をひとりでは泳げない。
車窓から世界遺産登録後初の雪をかぶった富士山を眺望。兵庫県立美術館・蓑豊館長らと昼食。
今日が最終日の「横尾忠則 感応する風景」展を館長らと観る。最終日とあって観客はとぎれない。
十九時から横尾忠則現代美術館で細野晴臣(*元YMOメンバー)コンサートがある。細野さんに
ステージに呼ばれてミニトークをする。今日だって来るか来ないかと、ケガだって怪しいもの的に
虚実の皮膜の間で生きているように思われているみたい。
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横尾忠則現代美術館オープン案内(兵庫県立美術館原田の森ギャラリー敷地)。

2014年12月16日
磯崎新(いそざきあらた*建築家・横尾アトリエの建物設計)さんとの対談、東京で実現できず、
神戸のぼくの美術館で対談。急に決まったにもかかわらず会場満席。ほぼ全篇磯崎さんの横尾論。
優秀な医師の診断による精密検査の結果を解説してもらっている感じで、身体を通してぼくの精神構造
が図解されていくようなそんなスリルを味わう。また毎回トークに浅田彰さん駆けつけてくれて
冴えた短評を残してくれる。
神戸に長く住んでいて初めて南京街(*神戸元町)で中華料理。地元出身の妻も初めてだと? 
ぼくは神戸名所の新開地も知らないもぐりの神戸っ子だったのか?

2014年7月
保坂和志氏と日産玉川病院で「猫が死んだ」対談(「新潮」)。
山田洋次監督(*成城で住まいが近い、親交)と神戸へ。個展「枠と水平線と・・・」展(横尾忠則
現代美術館)。
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横尾忠則現代美術館エントランス。

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美術館内インフォメーションデスク。

2014年12月 
事務所の猫おでんが交通事故で入院(二〇一五年一月五日に退院)。
磯崎新氏と対談(横尾忠則現代美術館)。

2015年7月16日
横尾美術館の前庭に立体彫刻を作ることになり、羽根のある弥勒菩薩のポーズをとるモーツァルト像を
計画しているが、他にもアイデアがあるので最終的には、さあどうなるでしょう?
次回の神戸展は四十年前の瀬戸内(*寂聴)さんの「幻花」の挿絵の原画展。三百七十数点をどう展示
するか、学芸員の腕の見せどころだ。

2015年12月11日
朝、鏡の中の顔にむくみを見る。英の運転で妻と新横浜駅へ。新幹線車中、抗生剤の副作用か下痢気味。
新神戸駅に着いた頃、疲労激し。昼食のそばでやゝ回復。横尾忠則現代美術館の「幻花幻想幻画譚」展
の記者会見。その後に開会式。井戸知事、「幻花」の原作者瀬戸内さんも出席。難聴のぼくは誰の声も
聴きとれず。

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館内のミュージアムショップ。
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ミュージアムショップで購入したお土産の一部。ポストカードなど。

(*)の注釈は原文にはありません。

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2017年03月25日

滋賀 三井寺と琵琶湖 上田秋成「雨月物語 夢応の鯉魚」より

安永5年(1776年)4月、幽玄と怪異の戯作者・上田秋成が、剪枝畸人(せんしきじん)の名をもって出版した名作「雨月物語」から、夢幻のような不思議なストーリーが展開される巻之ニ「夢応の鯉魚(むおうのりぎよ)」を取り上げる。
近江大津の三井寺(園城寺)の法師・興義が、鯉(こい)となって琵琶湖の隅々まで、浅く深くと泳ぎまわる様が描かれる「夢応の鯉魚」から部分抜萃。
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(写真)三井寺境内村雲橋。

<<むかし延長(*923年〜931年)の頃、三井寺(*天台宗長等山園城寺)に興義(こうぎ*三井寺の碩学)といふ僧ありけり。絵に巧なるをもて名を世にゆるされけり。嘗(つね)に画く所、仏像山水花鳥を事とせす。寺務の間(いとま)ある日は湖(うみ*琵琶湖))に小船をうかべて、網引釣(あびきつり)する泉郎(あま*漁夫)に銭を与へ、獲(え)たる魚をもとの江に放ちて、其の魚の遊躍(あそ)ぶを見ては画きけるほどに、年を経て細妙(くはしき*精妙)にいたりけり。>>
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(写真)三井寺から望む琵琶湖。

<<或るときは絵に心を凝(こら)して眠をさそへば(*眠りにはいると)、ゆめの裏(うち)に江(*湖水)に入りて、大小(さばかり)の魚とともに遊ぶ。覚(さ)むれば即(やが)て見つるままを画(ゑが)きて壁に貼(お)し、みづから呼びて夢応の鯉魚(*夢に感応して夢に見たままを描いた鯉)と名付けけり。
其の絵の妙なるを感(め)でて乞要(こいもと)むるもの前後(ついで)をあらそへば(*順番を争う)、
只(ただ)花鳥山水は乞ふにまかせてあたへ、鯉魚(りぎょ)の絵はあながちに(*むやみに)惜(をし)みて、人毎に戯(たわぶ)れていふ。「生(しょう)を殺し鮮(あざらけ*鮮魚)を喰(くら)ふ凡俗の人に、法師の養ふ魚必ずしも与へず」となん。其の絵と俳諧(わざごと)とともに天下に聞えけり。>>
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<<不思義のあまりに、おのが身をかへり見れば、いつのまに鱗金(うろこきん)光を備へて、ひとつの鯉魚と化(け)しぬ。あやしとも思はで、尾を振り鰭(ひれ)を動かして、心のままに逍遥す。まづ長等(ながら)の山おろし(*三井寺の建つ長等の山から吹き降ろす風)、立ちゐる浪に身をのせて、志賀の大湾(おおわだ)の汀(みぎわ)に遊べば、かち人の裳のすそぬらすゆきかひに驚されて、比良(ひら)の高山影うつる、深き水底に潜(かづ)くとすれど、かくれ堅田(かただ)の漁火によるぞうつつなき。ぬば玉(*夜にかかる枕詞)の夜中の潟にやどる月は、鏡の山の峯に清(す)みて、八十(やそ)の湊の八十隈(やそくま)もなくておもしろ。沖津嶋山(*沖ノ島)、竹生嶋、波にうつろふ朱(あけ)の垣(*竹生島の神社の朱塗り玉垣)こそおどろかるれ。>>
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(写真)琵琶湖西岸の堅田(かただ)湖岸。琵琶湖大橋が遠くに望める。

<<さしも伊吹の山風に、旦妻船(あさづまふね)も漕出づれば、芦間(*蘆のあいだ)の夢をさまされ、矢橋(やばせ*草津市)の渡りする人の水なれ棹(さを)をのがれては、瀬田の橋守にいくそたび(*なんどもなんども)か追はれぬ。日あたたかなれば浮び、風あらきときは千尋(ちひろ*非常に深い)の底に遊ぶ。>>
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(写真)湖北に霞む竹生島。

 <<興義これより病癒えて、杳(はるか)の後天年(よわい)をもて死(まか)りける(*寿命を全うして死んだ)。其の終焉(をわり)に臨みて、画(ゑが)く所の鯉魚数枚をとりて湖(うみ)に散せば、画ける魚紙繭(しけん)をはなれて水に遊戯す。ここをもて(*こうしたわけで)興義が絵世に伝はらず(*残っていない)。其の弟子成光(なりみつ)なるもの、興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院の殿の障子(しょうじ)に鶏(にわとり)を画きしに、生ける鶏(とり)この絵を見て蹴(け)たるよしを、古き物がたり(*「古今著聞集」)に載せたり。>>

(*)は原文注釈に無いものもあり。
「雨月物語」上田秋成 新潮日本古典集成 昭和54年1月刊より
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2016年10月19日

兵庫篠山 篠山城 井伏鱒二「篠山街道」と立原正秋「謎を秘めた篠山城跡」より

大御所・徳川家康は、慶長14年(1609年)1月に京都方広寺大仏殿の再興を豊臣秀頼に勧め(豊臣家の財力を削ぐ策略といわれる)、9月には西国大名の所有する大船(500石積以上)の没収を命じ、同時に大坂(豊臣)を大包囲する城郭群の構築を諸大名の普請役により開始する。丹波篠山(ささやま)城の西国大名の賦役による普請もこの年に着手される。

<< 篠山城は徳川家康が西国大名に申しつけて構築されたものだ、と城内の立札に書いてある。大坂城が陥落する七年前に、大坂方と見られてゐる西国十三箇国の大名に奉仕を命じ、総構への周囲一里ちかくのこの城を、七箇月の短期間に落成させたものだといふ。しかも石垣に築く石は、墓石やお宮の玉垣や石崖の石など使はないで、みんな新しく切り出したものを使はせたといふ。
大した徳川家康の睨みである。このために西国十三箇国の大名は、人夫八万人を引きつれて、慶長十四年九月十八日までに篠山へ到着した。人夫八万人を八百組に分け、百人を一つの組として、木石運送に扱(こ)き使つたといふ。今でも城の石崖には、ところどころの石に組の記号を刻みつけてある。(略)>> 
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(篠山城本丸石垣と石垣下の犬走、北側の三の丸から)
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(篠山城本丸大手門と大手馬出、北側の三の丸から。上写真の右方向)

<<現在、この城の建造物はすつかり無くなつて、残つてゐるのは石崖と外濠と馬出曲輪だけである。かつて私の亡友は、「城春にして草木深し」といふ言葉を自己の好みに意訳して、「城といふものは、廃墟になつてから美しく見えるやうに造るものだ」と云つた。この言葉には、各種各様の意味と皮肉がこもつてゐる。私として、廃墟となつた城址は一概に嫌ひではない。私は城の本丸の井戸をのぞいて見て、それから天守台にあがつた。石崖のはなから下をのぞくと、足がすくむ。(略)>>
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(外濠南門の防御のための馬出曲輪。土塁が築かれている。)
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(南馬出曲輪の土塁。石垣は設けられていない。)

<<この城には、馬出曲輪が二つ殆ど完全な形で残つてゐる。濠の石垣の周囲が、しんとした感じを出してゐる。これを構築した当時、石工の技術が最も進歩してゐたのではないだろうか。石工どもは怠けると親方に玄能(げんのう=かなづち)で頭をなぐられるので、いやいやながら築いたものであるとしても、実真底は極めて実直な人たちであつたらう。石の築きかたにその実直さが偲ばれる。>>
以上、井伏鱒二「篠山街道」昭和31年6月「別冊文藝春秋」初出 「井伏鱒二自選全集第9巻」新潮社1986年刊より抜粋。
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(南〜西外濠。静けさのなかに佇む篠山城。)

直木賞作家立原正秋も篠山を訪れ、随筆「謎を秘めた篠山城跡」を残している。
<<夕陽に城の石垣が照り映え、濠では、枯れた蓮の葉が、海抜二百十メートルの盆地にある篠山町の冬を感じさせた。私は東の外濠に沿って、かつて本丸があった箇所を眺めあげながら、南濠の方にむかって歩いていた。(略)城の石垣は、南濠から眺めたのがいちばんよかった。それはまぎれもなく歴史を感じさせてくれた。よく、かっての城下町で城を復元しているという話をきくが、それはもう城のある町ではない。そんな現代に造られた城は城ではない。それは観光のための飾りものにすぎない。その意味で、篠山には本当の城があった。(略)>>
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(南濠・南馬出。立原氏も外濠沿いのこの道を歩いたことだろう。)

<<城の建物はひとつも残っていないが、石垣と濠が城を城を感じさせてくれるのである。濠のまわりには、土塀と入母屋造りの武家屋敷が軒をつらねている。なかには廃れかかった家もあり、解体している家もある。それは滅び行くものの美しい光景であった。>>
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(西外濠沿いの武家屋敷群。)
「立原正秋全集第23巻」角川書店1984年刊より抜粋。

井伏鱒二リンク
山梨 甲府城址の目ざわり石塔 井伏鱒二「甲府−オドレの木の伝説」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447573364.html
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2014年03月30日

伊丹・有岡(在岡)城 荒木村重の謀反

織田信長によって取り立てられ、摂津一国をまかされるが、突如として反逆の旗を翻した荒木村重。
荒木村重が信長への旗色を鮮明にした時期から、毛利氏を頼り落ちてゆくまでの7年間の編年史。
(追加・削除多々ある予定です)

1573年(元亀4年 天正元年) 
 2月 摂津の高槻城城主和田惟長(これなが)は自らの家中の高山飛騨守友照・高山右近
   父子の暗殺を計るが失敗し 深手を負い伏見へ逃亡(3月15日死亡説)
   池田勝正の家臣(実質的統率者)荒木村重 和田惟長の高槻城を支配する
<この高槻城城内での乱闘を描いた場面が遠藤周作の小説「反逆」(読売新聞連載の新聞小説)で紹介されている。史料として「前野家文書(武功夜話)」1987年刊が駆使されている。現在では史料価値を疑問視(*現代の地名など)する検証も多出しています。別箇所で引用抜粋する司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」にも一部で同史料が使用されています。司馬氏は史料を場面ごとに明示しているので、読み比べることも可能です。>
「反逆」(1988年1月〜1989年2月読売新聞連載)から
<使いを受けて高山彦五郎は夕刻高槻城に登城した。父の飛騨守はこの日、持病の頭痛ぼため床に伏していたから、彦五郎は十人ほどの家来を伴って城門をくぐった。燭台の炎が蛾のようにゆれて、和田太郎一人、彼を待っていた。(略)「誰かいるか、酒が足りぬぞ」と人を呼んだ。それが合図だった。館の内部で数人が走ってくる乱れた足音がきこえた。和田太郎は彦五郎が断われば荒木村重に秘密の漏れるのを怖れ、人質にする手筈だった。(略)和田太郎の手の者と彦五郎たちとのあいだに乱戦が開始された。(略)館に馬で駆け戻った彦五郎は血どめの薬を塗らせながら家臣たちに防御の命令を出した。と同時に使いを茨木に走らせ、荒木村重に和田太郎の逆心を知らせた。和田太郎のほうも一度はまだ火に包まれぬ北の丸に逃れたが、その夜、八十名の手の者と伏見に逃げた。だが、出血多量のため伏見の三淵藤英の館で息を引きとっている。>
 3月 高山飛騨守友照・右近父子は主のいなくなった高槻城を占拠 荒木村重の指揮下に入る
   正式に飛騨守友照が高槻城主と認可されるのは天正2年11月 右近が城主となるのは天正4年
 3月29日 織田信長が岐阜から入洛 途上の逢坂で細川兵部太輔(藤孝)・荒木信濃
    (村重)両人が信長への忠節を表すため出迎える
     信長 東山智恩院に居陣 
     味方忠節を表す荒木村重に刀剣(郷義弘の作) 細川藤孝に脇差を下賜
 4月3日 織田信長 将軍足利義昭と講和を促すため洛外で放火(寺社を除く)
 4月4日 上京に放火し義昭を二条城に囲む 天命により義昭は講和受ける
 4月12日 武田信玄 三河・野田城攻囲の陣中で病に倒れる 武田軍撤退
 7月7日 信長入洛 二条妙覚寺に着陣 信長の大軍に公家衆驚き侘を入れ人質を出す 
 7月16日 信長 宇治に出陣 平等院門前で勝音を上げる
 8月8日 信長 夜間に近江に出陣 月ヶ瀬城占領  
 8月10日 信長 越前への通路遮断 朝倉義景軍2万余が余呉・田部一帯に布陣
   12日 信長嫡男の信忠 虎後前山に陣 信長は風雨激しい中 自ら朝倉方の
     大嶽砦を奇襲攻略(大づくの下やけを=焼尾)
   13日 信長 平泉寺玉泉坊の籠る丁野山砦(ようのやま)を攻略  
      夜 朝倉義景軍敗走 信長馬廻衆が先頭にたち朝倉義景を追撃
      信長に先を越された諸将(滝川・柴田・丹羽・木下秀吉ら)は激しく
      叱責を受ける 以降 敦賀まで11里の追撃戦で頸数3千余討取る
      「信長公記」は見知った頸名を列記している
      濃州(斎藤)龍興・山崎肥前守・山崎自林坊・らの名が残されている
 8月15日 義景 一乗谷に帰還 信長は14〜16日敦賀に滞陣
 8月17日 信長軍木目峠越える 義景は一乗谷の館から東雲寺に逃れる
      信長に忠節を願い出た平泉寺僧衆が東雲寺を襲撃
 8月18日 朝倉義景 朝倉景鏡の勧めで大野郡賢松寺に退く
      信長は府中竜門寺に陣
 8月20日 朝倉景鏡が織田に通じ朝倉義景を襲う 義景(41歳)自刃 朝倉家滅亡
      長谷川宋仁に命じ朝倉義景の頸を京都で獄門に
 8月26日 織田信長 北近江虎後前山に着陣
 8月27日夜 秀吉 浅井長政の近江小谷城京極丸占領し浅井父子の連絡分断
 8月28日 信長自ら京極丸に入る 浅井父子自決
     浅井父子の頸を京都で獄門に 浅井の嫡男10歳を関が原で磔(はりつけ)
     信長 秀吉に浅井遺領三郡の朱印を与える 秀吉初めて一城の主となる
 9月6日 信長 岐阜に帰陣
 9月24日 織田勢この日より北伊勢に出陣 四日市・桑名を席巻 桑名に滝川左近を入れ置く
 10月26日 岐阜に帰陣
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 荒木村重が占拠した和田惟長の居城だった高槻城跡 荒木の幕下に入った高山右近(ドン・ジュスト)が城主になる

1574年(天正2年) 
 1月1日 織田信長 岐阜城で隣国面々の新年の出仕受ける
    酒宴で他国衆退出の後、前年に討取った浅井父子・朝倉義景の首(こうべ)を
    檜の白木の台にのせ酒の肴にする
   <信長の残虐性の論証の核となる事実 三つの骸骨は漆で固められ金泥で薄く彩色>
 1月27日 甲斐・武田四郎勝頼 岩村に出張る また明智城を攻囲(恵那郡)
 2月5日 信長父子 みたけに出陣(可児郡) 
 2月24日 信長岐阜に帰城
 3月12日 信長上洛 初めて相国寺に寄宿(内裏に奈良東大寺蘭者待を所望する) 
     3月24日 相国寺で茶会(茶頭は松井友閑)
 3月27日 信長 東大寺の蘭者待の切取り実行 奉行は松井友閑(=宮内卿法印)ら
 3月  秀吉 朝廷から従五位下・筑前守を賜り木下姓から羽柴に改姓 近江長浜城に入城
 4月2日 石山本願寺の顕如光佐挙兵 織田信長の属城を攻める
 5月5日 信長 賀茂祭(葵祭)例祭に
 7月13日 信長父子 伊勢長島一揆の鎮定に出陣 9月まで一揆勢を攻囲し過半を餓死させる
     9月末 一揆勢の籠る中江城・屋長嶋城を幾重に柵で取籠め男女2万人を焼殺す
 9月29日 織田信長 伊勢長島の一揆を鎮定 岐阜に帰る
 11月15日 荒木村重 直接 織田と結び台頭 和田と姻戚関係にある伊丹親興と敵対する
     伊丹親興の伊丹城を占拠し 城名を在(有)岡城と改める 村重に摂津一職委任
     この頃 
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   荒木村重が奪った伊丹城は織田信長の命を受け有岡城と改称
    この頃、古田重然(しげなり=織部) 荒木村重の与力に

1575年(天正3年) 
 3月3日 織田信長入洛 前年より相国寺に寄宿するようになる
 3月23日 山城守護塙直政(ばんなおまさ)大和守護との兼務命じられる  
 4月 信長の大軍 大坂に出陣 4月12日住吉に本陣 13日天王寺に出馬
 4月19日 三好三人衆とともに織田に抗した三好康長が降伏(松井友閑仲介)
      友閑はこの頃 頻繁に津田宋及らの茶会に出席
 4月28日 信長 岐阜に帰城  
 5月13日 信長 長篠に出陣 熱田に陣 14日岡崎に
     鉄砲奉行は塙直政・佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝
 5月21日 織田信長・徳川家康連合軍 三河長篠に武田四郎勝頼を破る
 5月25日 信長 岐阜に帰城 
 7月 信長 勢田(瀬田)に大橋を架橋 
 7月3日 信長 官位昇進の勅諚を辞退 以後 家臣の官位は勅許される      
    明智光秀は惟任日向守に 丹羽長秀は惟住 塙直政は原田備中守に 
    秀吉は筑前守に 村井貞勝は長門守に
 9月 荒木村重が信濃守から摂津守に任官
   信長の村井貞勝宛て書状(天正3年8月17日付け)には未だ「荒木信濃守」使用
 10月21日 本願寺顕如光佐 信長に講和求める 
 10月20日 播磨の赤松・小寺・別所ら信長に謁見

1576年(天正4年) 
 1月中旬 信長 安土築城普請命じる
 2月23日 信長 安土城巡察 岐阜城より移る
      馬廻衆に安土山下に屋敷与える 
 4月1日 安土城天主普請始まる
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安土城の本丸御殿(奥)左側の石垣上方向が天主跡 右写真が本丸御殿から天主への石段 アナログビデオからのキャプチャー1990年頃撮影 当時は未整備で大手道から左手に迂回する付近はがけ崩れを起こしそうな細い泥道だった

 4月14日 本願寺顕如光佐 前将軍足利義昭(備後に在所)や毛利氏と呼応
     再び挙兵 これに対応し信長は荒木攝津守村重・明智光秀・原田備中ら4人
     に命じ、大坂に推詰める 荒木は尼崎から海路 北野田に入り 砦を築き
     川手の通行を遮断 原田備中は天王寺砦に入る
 5月3日 石山本願寺勢が1万の軍勢で押出し 数千挺の鉄砲で信長軍を攻撃
     原田備中(塙直政)・塙喜三郎・塙小七郎・丹波小四郎ら織田勢の諸将が討死
     原田備中は三津寺砦攻略中に討死(雑賀衆・鈴木重秀に討ち取られた伝わる)
     織田家の十指に入る原田備中(塙直政)が戦死してしまう(享年不明)
 5月5日 石山本願寺での壊滅的打撃に信長 僅か百騎で猛然と出陣
 5月7日 信長 住吉口で3千の手勢を三段に構え 1万5千の本願寺勢に立向かう
     信長は先手の足軽隊に混じり奮戦し手傷を負い さらに足に鉄砲玉を受ける
     この時 荒木村重は先陣を命じられるが拒否し 木津口の押えを担う
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石山本願寺跡碑 秀吉は大規模な土木工事を行い石山本願寺の上に巨大な大坂城を築いた 地形は変化し石山本願寺跡は推定するのみとなっている
信長は戦死した原田備中(塙直政)の郎党に冷酷は処置を命じる 直政の部下を罪人として捕縛 5月15日信長は大和国を筒井順慶に委ねる

   
 7月15日 毛利輝元の水軍 大船7〜8百艘でほうろく・火矢を使い織田水軍を破り
      兵糧を石山本願寺に運ぶ込む

1577年(天正5年) 
 2月13日 織田信長 淀川渡河し八幡に陣 紀伊雑賀衆攻撃
 3月1日 織田軍 雑賀鈴木孫一居城攻撃
 7月6日 織田信長上洛 京都二条の御新造に移る(旧二条晴良邸跡)
 8月8日 柴田勝家を総大将にして織田軍は北陸に出陣(秀吉は許可なく戦線離脱) 
 8月17日 松永久秀 石山本願寺包囲の付城(天王寺)での定番を放棄し
      内信貴(奈良県生駒郡)に立て籠もり信長に叛く
 10月10日夜 織田信忠軍 大和信貴山城を攻囲し松永久秀は煙硝(火薬)に着火させ焼死
 10月19日 信貴山城を攻囲から戻った秀吉軍 播磨へ向け安土進発 
 10月23日 秀吉 京都を進発し播磨に出陣 花隈城に着陣
        播磨の担当を荒木村重から秀吉に受け渡す
 10月28日 秀吉 播磨中から人質を奪う
      この頃 黒田官兵衛は居館(姫山)を秀吉に譲り渡す
 11月27日 秀吉 西播磨に布陣 上月城周辺に放火・占拠 
      上月城城番に尼子衆の山中鹿介を入れる(約7百名)
      竹中半兵衛と黒田官兵衛の指揮する部隊は佐用城を攻撃占拠
 12月 荒木村重 翌年3月まで盛んに茶会催す 津田宋及の茶会に頻繁に出席(「宋及記」)
 
1578年(天正6年) 
 1月1日 安土城に各国各将出仕 信長に新年祝辞
    朝茶は十二人に 首座は嫡子織田信忠・僧形の二位法印(前田玄以)・林佐渡守通勝・
    滝川左近・永岡兵部大輔・明智光秀・荒木攝津守村重・長谷川与次・羽柴筑前秀吉・
    細川藤孝ら 茶頭は松井友閑
 2月23日 羽柴秀吉軍7千5百名 播磨に出陣
 2月29日 信長 安土で江州国中の相撲取り300人集め相撲見物
 3月 上杉謙信49歳で没す
 3月12日 毛利軍各所から播磨に向け一斉出陣3万5千余の大軍
 3月28日 秀吉軍 三木城攻囲 野口城攻撃
 4月中旬(「信長公記」に中旬とある)毛利連合軍約5万余 尼子勝久の上月城包囲する
 4月4日 織田信忠指揮の織田軍 大坂に出陣
 <この頃 増援の荒木村重勢が秀吉軍に参陣 荒木村重は昨年以来の久々の出陣 
      上月城後巻きとして高倉山(佐用郡南光町)に陣を構える>
 5月1日 織田信忠軍 播磨に入る
 5月6日 織田信忠軍 明石近辺に達する 先陣は神吉城・高砂・志方に野陣 
 6月10日 織田信長上洛 祇園会見物(14日) 馬廻・小姓衆軽武装の御諚
 6月16日 秀吉 供回り50騎余で隠密裏に上洛 信長から陣引払いの許可得る
 6月26日 秀吉 高倉山から撤退し書写山に移動 上月城見殺しに(尼子勝久自刃) 
    <6月下旬 秀吉は播磨から但馬平定に部隊を移動>
 7月16日 神吉(かんき)城の天主焼け落ち焼死多数 西の丸は荒木村重が攻撃 
      城主神吉長則斬殺 検使役は信長の小姓・万見千千代
 7月 三木城の別所小三郎長治を攻囲する羽柴軍に参陣していた荒木村重が戦線離脱
   荒木は離脱後 有岡城に帰城 この頃荒木による石山本願寺への兵糧搬入の噂流れる
 8月15日 安土の相撲会 奉行・信長側近の万見千千代
 8月17日 三木城包囲の秀吉勢8千のみを残し織田信忠軍撤退 
 9月29日 信長 住吉社家に
 9月30日 信長 堺の津へ下向 今井宋久邸へ 万見千千代供奉
 10月1日 信長上洛 二条御新造に
   <後年、10月17日付け本願寺光佐の起請文が発見され、荒木村重の反逆は
    本願寺への糧食搬入よりかなり以前からと判明 村重の新知行地は毛利氏庇護下
    にある足利義昭の命に従うようにと書かれている>
 10月21日 荒木村重逆心の報が各所より信長に入る
   <不実に思食され、何篇の不足候哉、存分を申上候はゞ仰付けらるべきの趣にて、
   宮内卿法印(松井夕閑)・惟任日向守・万見仙千代を以て・・・(略)>
    (「信長公記」P254より)
   信長 荒木の元に福冨直勝・佐久間信盛・万見仙千代重元を糾問派遣し慰留工作
      
 11月3日 信長上洛 明智光秀・松井夕閑・秀吉が荒木の慰留に努めるが従わず
     荒木村重が石山本願寺への手土産に織田方の付城目付の信長近臣を殺すと
     いう風聞がたつ  
 11月6日午後 木津表にて毛利水軍6百余艘と織田方九鬼水軍が舟戦
      九鬼水軍6艘の大船に多数の大鉄砲を装し引付けて一斉射撃
      毛利水軍の将船を沈める

 <この頃 黒田官兵衛が荒木村重の有岡城を訪れ幽閉される>
小説「播磨灘物語(三)」司馬遼太郎から 黒田官兵衛が伊丹で幽閉される場面を抜粋
<御着城を出た官兵衛は姫路へも寄らず、父の宋円には手紙だけを送り、そのまま摂津の伊丹をめざした。(略)伊丹の城下に入った。戸数は五百軒もあるであろう。(略)官兵衛が有岡城の城門で番卒に名前と用向きを告げると、騒然となった。人数が出てきて官兵衛をとりまき、一人が背後から組みつき、他の者が官兵衛の腰の物をうばい、さらに別の者が縄を打った。(略)牢というのは城の西北の隅にある小さな独立建造物で、深いひさしが陽を遮っている。。(略)羽柴秀吉は京都から播州の陣にもどって、官兵衛の異変をきいた。>    

 11月9日 信長 摂津国山崎に出陣
     荒木村重陣営は摂津各地で籠城 中川清秀(茨木城)・高山右近(高槻城)
    ・嫡子荒木村次(尼崎城)・荒木志摩守(花隈城)・荒木重堅(三田城)ら
     古田織部は荒木村重の元を離脱
 11月9日 織田信長軍の滝川左近・明智光秀らが中川清秀の茨木城を包囲
     高槻城の切支丹門徒・高山右近は信長の「伴天連宗門を断絶」の強迫に屈服
     高山右近は父親飛騨守(洗礼名ダリヨ)と決別し信長に投降 
 
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(左写真)中川清秀が城主だった茨木城本丸跡の復元櫓門 (右写真)茨木城西域に接する旧茨木川(埋立て)は外濠の役割をしていた
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 茨木神社東門に移築された茨木城の搦手門(伝)   

 11月14日 織田の諸軍 伊丹に進撃 武藤宋右衛門の配下が有岡城で交戦
      有岡城周辺に放火
 11月16日 高山右近 郡山の信長の本陣を訪れ拝謁 小袖・馬を下賜される
      父飛騨守(洗礼名ダリオ)は投降に反対姿勢崩さず(落城後は越前に配流)
      ダリオ飛騨守は天正9年4月越前を訪問の宣教師フロイスを歓待 
 11月24日 中川清秀 茨木城を明け渡す 従兄弟にあたる古田重然(織部)尽力する
       以降 茨木城警固役に古田重然・福富秀勝が置かれる
 11月28日 信長 自ら有岡城東辺に出陣
      堀秀政・万見仙千代重元の部隊は甲山(かぶとやま)に籠もる百姓を切る
   
 12月4日 織田方の滝川一益・丹羽長秀の軍勢 兵庫一ッ谷(神戸須磨区)を焼き払う
     「人数打返し、伊丹を押へ、塚口の郷に在陣なり」(「信長公記」巻11)
     滝川一益・丹羽長秀軍 塚口に布陣し有岡城の南方を固める
     荒木一族の荒木志摩守元清は花隈(鼻熊)城に籠城(滝川・丹羽軍が攻囲)

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滝川一益・丹羽長秀軍が陣をひいた平城の塚口城(塚口御坊・一向宗興正寺派別格本山の寺域)は2町四方(200m四方)の土塁と水堀に囲まれていた (左右写真)現在は東門跡に土塁の一部と水堀跡が残る 荒木村重は10月の籠城時に出城に使う(「尼崎市史」)がすぐさま放棄し有岡城に窄(つぼ)んでいる  尼崎市塚口本町1−31 

 12月8日 織田方の堀久太郎秀政・万見仙千代重元・菅屋長頼の三将を奉行に鉄砲隊が
     有岡城に乱射・一斉攻撃 また弓衆が三手より火矢を町屋に放ち放火する
     この夜間攻撃で万見仙千代重元・水野忠分(ただちか)が討死
     以後 有岡城兵糧攻めに作戦転換する 
 12月11日 織田信長 有岡城東方の猪名(いな)川対岸の古池田に本陣構える
  「信長公記」巻11に御取出御在番衆の名が記述
     塚口郷(丹羽長秀・蜂谷兵庫・高山右近・神戸信孝ほか)
     毛馬村(尼崎市食満)(織田上野守・滝川左近・北畠信雄ほか)
     倉橋郷(豊中市三屋)(池田勝三郎ほか)
     原田郷(豊中市原田)(中川瀬兵衛ほか)
     刀根山(稲葉伊豫・氏家左京助ほか)
     郡山(津田信澄)
     古池田(塩川伯嗜)
     賀茂(川西市加茂)(織田信忠)
       等々
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有岡城主郭跡 JR福知山線伊丹駅は主郭部分に含まれていた 駅背後(東方向)の猪名(いな)川対岸の古池田に織田信長は本陣をおいた
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(左右写真)主郭部を西方から 土塁が残存する(地図赤数字2)
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主郭部の北郭は整備され土塁・井戸跡・建物礎石などが保存されている
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  (左)建物礎石が並ぶ      (右)井戸跡
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(左写真)北郭に残存する土塁(地図赤数字2) (右写真)荒木村重と正室たしの歌碑
1579年(天正7年)11月19日、守将・荒木久左衛門は、尼崎城に脱出していた荒木村重の説得と有岡城の将兵・家族の助命のために開城する。その際、正室「たし」が詠んだ歌を村重の元に届けていた。
  だし<霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくずに>*みくず=水屑 
  村重返歌<思ひきやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは>
   「信長公記」巻12より
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織田方の調略で寝返った上臈塚砦(女郎塚)の位置を赤丸で印 (右写真)右部分に面影を残す主郭跡 大部分が開削され平地に

 12月21日 織田信長 古池田の本陣より入洛
 12月25日 信長 安土城に帰る 

1579年(天正7年) 
 1月1日 安土城への出仕は各将伊丹表在番でなし
 1月23日 有岡城攻撃で討死した小姓・万見千千代の安土城内の邸を長谷川秀一に譲渡
 3月7日 信長 鷹狩をしながら古池田に帰陣
 4月18日 荒木村重の籠城方 足軽が討って出て西方の織田方攻囲軍(稲葉彦六)と合戦 
    「信長公記」巻12<二重・三重堀をほり塀柵を付け手前々々堅固に申付けられ候>
 4月 攻囲配置転換で原田砦から中川清秀・古田左介(織部)が田中砦守備に  

 5月11日 安土城天主閣が完成し吉日の11日に移る
    この年 宣教師オルガンチノが安土に寺院建立
   <荒木村重 毛利に救援依頼送る 5月27日付け・6月4日付け催促状>
 7月3日 伊丹在陣の武藤宋右衛門が病死
 7月19日 明智光秀 丹波を平定する
 9月2日夜 荒木村重が供回り5〜6名を連れて有岡城を脱出して嫡子荒木村次新五郎の
    籠城する尼崎城に入る 毛利援軍の桂元将が詰めている
    荒木村次の正室は明智光秀の娘(さと)だったが謀反直後に離別し光秀に送り返す 
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阪神電鉄尼崎駅南方に城跡公園として整備されている尼崎城は江戸初期の築造(1617年) その東側外郭の一部を含む地域が古尼崎城(大物城)跡と推定される

 9月14日 織田信忠を総大将にして伊丹包囲の半数を召し連れ尼崎城を包囲
      七松に付城(砦)2箇所を築く 定番に塩川伯耆国満・高山右近を置く
 9月28日 織田信長 帰洛
 10月8日 滝川(左近)一益配下の佐治新介が有岡城城内に調略(寝返り工作)
      荒木方の中西新八郎の寝返り誘う
 10月15日 上臈塚砦(女郎塚)で荒木方の足軽大将(星野・山脇・隠岐・宮脇)謀反
     滝川勢が城内突入 城と町との間の侍町ひ放火し裸城に 城内の各砦攻め落とす
   「信長公記」巻12<諸手四方より近々と推詰め、城楼、かねほりを入れ、攻められ、
     命御助けなされ候へと御詫言申候へども、御許容これなし>
 11月3日 信長上洛 以降 北野・東山・一乗寺・修学寺山で鷹狩  
 11月19日 有岡城守将・荒木久左衛門が降伏開城 有岡城陥落する 
      織田信澄が入城し有岡城を占拠 城内の婦女子を人質に捕える 
      荒木久左衛門は荒木村重・村次父子の籠る尼崎城に投降の説得に
     <黒田官兵衛 有岡城から救出される>
     <高山右近が差し出した人質(嫡男・妹)を救出>
 12月13日 尼崎・七松で荒木方の人質5百十余人を磔(はりつけ)・焼き殺し
      内身分の高い122人を鉄砲・槍・長刀で殺害 焼き殺しは家4軒に閉じ込め放火 
 <一同が続いて十字架に磔にされた後、刑吏たちは下から、あるいは銃弾をもって、または槍で彼女らを
  殺した。(略)第三の処刑はさらに比較にならぬほど残酷で非人道的、かつ恐怖すべきものであった。
  四つの平屋が作られ、それに五百十四名が分けて入れられた。それらのうち、三百八十名は婦人で、
  百三十四名が男たちであった。そこで大量の乾燥した草、柴、木材が集められ、これに放火して彼ら
  全員を生きたまま焚(殺)した。(略)この火刑とその責苦から、右近の父ダリオ、ならびにその娘と
  孫だけが免れるように命ぜられたことは、主のいとも偉大な御手の守護による破格の取計らい・・>
   「フロイス日本史3」第50章より
  *現在、東海道本線尼崎駅の西隣駅・立花駅の東南近辺が「七松町」「南七松町」「東七松町」です

 12月16日 荒木女房・妹らが牛車1両に2人づつ乗せられ洛中を引き回される
     二番車に荒木妻だし21歳と荒木娘15歳 一番車に荒木弟 妹17歳 
     三番車に荒木娘だご13歳ら荒木の一門・親族ら37人
     上京一条辻より室町通りを引き回し六条河原に至り数百人の雑役人・
     賎民による警備の中 処刑斬殺  
  「信長公記」巻12<たしと申すはきこへある美人なり。古しへは、かりにも
    人にまみゆる事なきを、時世に随ふならひとて、さもあらけ(略)>
   宣教師フロイス<荒木の妻は天性の美貌と貞淑さの持主で、顔に大いなる
    安らぎを示していたが、車からおりる前、乱れた髪を結びなおし、腰帯を
    しめ幾重にも重ねた高価な衣装をまとった」>
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六条河原の処刑地付近 奥は正面橋 後に関ヶ原の戦で敗れた小西行長・石田三成らもここで処刑された

1580年(天正8年) 
 3月 尼崎城落城 荒木村重・村次父子は尼崎より舟で毛利領に脱出
   荒木村重は前年12月に花隈城を脱出したとも謂われる 嫡子村次はその後、
   秀吉に仕え、天正11年4月の賤ヶ岳の戦に参加・負傷している。
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(左写真)花隈城跡 JR元町駅西方の本丸跡の一部は模造石垣付きの公園が造成されている (右写真)福徳寺 天守跡を示す石柱が山門右側に設置
「信長公記」には六甲山から突き出す丘陵を表す「鼻」があてられている。「摂津花熊之城図」に描かれる本丸西北隅の「天守」の位置には現在、福徳寺がある。東南隅には「櫓」が示されている。北側に段状に二ノ丸、三ノ丸と配置されていた。
 閏3月 織田信長 高山右近に安土の屋敷地を下賜

 7月 荒木志摩守元清の花隈城 池田恒興の攻城により落ちる  
   毛利領に舟で落ち延びた荒木志摩守元清は、1610年(慶長15年)5月23日
   に没している

織田信長の本能寺での没後、毛利領の備後尾道に棲んでいた荒木村重は、秀吉に許され、堺に移住。天正11年1月〜2月に津田宋及の茶会に頻繁に招かれている。同年9月16日には豊臣秀吉の茶会に招聘されている。同年10月27日付けの光源院宛書状で「筆庵道薫」と署名。庵号が筆庵(ひつあん)、法名が道薫(どうくん)。(「宋及記」) 荒木村重は、1586年(天正14年)5月4日に堺で没した(52歳)。
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荒木村重の墓所と伝えられる堺の南宗禅寺 1557年(弘治3年)に三好長慶を開基として建立 大坂夏の陣で焼失後に場所を移して再建される その為か現在では荒木村重の墓石は確認されていない
荒木村重は千利休の高弟を指す後年の呼称「利休十哲(じってつ)」に名を連ねている 筆頭は蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・芝山監物・瀬田正忠・高山右近・牧村兵部利貞・織田有楽斎・千道安(利休の子)・荒木村重
南宗寺(なんしゅうじ)には 千利休一門の供養塔・三好一族の墓・津田宗及一門の供養塔・徳川家康の墓(伝)などが広大な境内に配されている 方丈に接して茶室・実相庵(1963年の再建)が置かれ 茶会には近くに実家があった与謝野晶子も訪れている

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    「播磨灘物語」全4冊    「信長公記」(しんちょうこうき)角川日本古典文庫

参考
「日本城郭体系12」1981年刊
「戦国合戦大事典6」(京都・兵庫・岡山)1989年刊
「フロイス日本史3」中公文庫2000年刊
「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館1995年刊
「播磨灘物語」司馬遼太郎1978年刊
「反逆」(上・下)遠藤周作1991年刊

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2014年02月26日

神戸 ユーハイム本店 小津安二郎の「日記」から

<1961年(昭和36年)6月8日(木曜)晴 早く起床 荷造り>
小津安二郎は、この日の午前中から荷造りを始め、午後2時52分の横浜駅発「第2こだま」に乗車する。松竹大船の監督である小津が、東宝(宝塚映画製作)から招聘されて、「小早川家の秋」のメガホンをとるためだ。「日記」は<大阪9時着 車にて宝塚門樋泊>と続く。
*「門樋」は撮影期間中に逗留した旅館名
翌日の日記から <6月9日(金曜)小雨 車が十一時にくる 池田の小林逸翁美術館を見学して 池田から十三(じゅうそう=地名)  十三から神戸 ユーハイムにて珈琲 西灘を見て 三宮 宝塚に帰る 牛肉美味 北川 大阪つる家から電話あり 入梅に入つた模様也> P714
小津は翌日から早速、関西圏のロケハンを開始する。神戸のユーハイムに立ち寄ったのは、この日のスケジュールからして午後であることは確実だろう。現在、ユーハイムは元町商店街に本店があるが、小津が訪れた当時は生田区下山手通2丁目(旧表示=1980年より中央区)に洋館の店舗を構えていた。ユーハイムの創業以来の歴史は同店のHPに詳細が掲載(洋館の画像も有り)されているので参照http://www.juchheim.co.jp/して下さい(会社情報の中に社史有り)。
小津が残した住所録風の手帖にユーハイムの住所が記載されているので引用。
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 神戸スペイン料理カルメン
 坂(阪の意)急三宮西口を北に入る
 フラメンカ・エッグ

 出雲大社町 荒木屋
  割子ソバ

 ユーハイム
 神戸市生田区下山手通二ノ五
  バウムクーヘン
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「日記」には<ユーハイムにて珈琲>だが、手帖には<バウムクーヘン>。1919年に日本で初めてのバウムクーヘンを焼いたユーハイムを訪れたなら、小津もコーヒーとともにバウムクーヘンを賞味していたはず。
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小津の訪問から27年後に移転オープンした(1988年11月)元町アーケードの新本店
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2階のティールームでなく地下の落ち着いた雰囲気のレストランのテーブルにつく バウムクーヘンセット・ドリンク付き800円
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ユーハイム本店 神戸市中央区元町通1-4-13
 営業時間10時〜20時(1階売り場) B1レストラン・2Fティールームの営業時間は要確認
 定休日 第3水曜日

「ユーハイム」の商品が小道具として登場する小津作品2本。最初に「小早川家の秋」宝塚映画1961年10月29日公開の1シーンから。この作品の撮影準備中(ロケハン)にユーハイム本店を訪れていた。
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「小早川家の秋」の1シーンから 原節子が買ってきたユーハイム(中身は不明)を司葉子に進めるシーン 「お菓子かってきたんだけど・・・」「この次ごちそうになりますわ」
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松竹大船作品「彼岸花」1958年9月7日公開 小津が手がけた最初のカラー作品にもユーハイムが登場する 浪花千栄子の聖路加病院(在りし日の建替え前の姿が見れる)の病室シーンで画面右端のテーブル上に何気なく見舞い品?として登場。「小早川家の秋」と同型に見える。
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ユーハイムの包装紙 箱の中身はバター味が濃厚(基準があるから当然)なバウムクーヘン(商品名リーベスバウム)

手帖に並記されている「スペイン料理カルメン」(元町駅から1つ大阪寄りの三宮駅が最寄り)の写真を追加
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本邦初(1956年創業)のスペイン料理専門店で 小津が記入したメニュー「フラメンカ・エッグ」(卵料理・800円)も<カルメン伝統の逸品>として健在 土曜にはフラメンコのライブイベントも有ります(定休日 月曜)

参考
「全日記 小津安二郎」フィルムアート社1993年刊
「小津安二郎 東京グルメ案内」朝日文庫(巻末付録「グルメ手帖」)
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2014年01月14日

神戸 生田町 フロインドリーブ 小津安二郎「手帖」より

「フロインドリーブ」は、1924年(大正13年)にフロインドリーブ氏(MR.FREUNDLIEB)により創業されたドイツパンの名店。現在地(旧・神戸ユニオン教会)で営業を始めたのは、1999年(平成11年)11月と比較的最近のことだ。1995年(平成7年)1月に発生した阪神淡路大震災で軽微な被害に留まっていた「神戸ユニオン教会」を、震災2年後の1997年(平成9年)に全面的に買取り、改修工事を加えた後に新店舗として移転して来たのだ(所有法人はジャーマンホームベーカリー社)。
*神戸ユニオン教会について・・1870年(明治3年)居留地内の教会の集いを「ユニオンチャーチ」と称す。1929年(昭和4年)6月に生田町のこの地に「神戸ユニオン教会」を建設。設計=W.M.ヴォ−リズ(米)、施工=竹中工務店。1997年(平成9年)の改修工事は、設計=コラム林設計事務所・施工=竹中工務店神戸支店。現在、1階部分がベーカリー(洋菓子類全般を販売・ギフト用も展開)、2階が喫茶(別途の会計)。建物は国の登録有形文化財の指定を受けている。
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 西側正面からの「フロインドリーブ」 旧教会としての印象をそのまま残している
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フラワーロードと平行する1筋東側の道に面している (左右写真)中庭から
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1階部分はドイツパン&洋菓子などの販売フロア
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1階のショップ入口横の階段を上ると喫茶室に

松竹の映画監督・小津安二郎も「フロインドリーブ」を訪れおり、「手帖」にメモを残している(月日は不明)。小津が神戸を訪れたのは、1961年(昭和36年)の6月〜10月初旬にかけての初の他社作品(宝塚映画)を担当した撮影期間(宿泊は宝塚市内)。小津安二郎の著書「全日記」には、「フロインドリーブ」を直接記した箇所はないが、同時期に元町のユーハイム本店を訪問した記述は残している。その前後のことと思われる。小津が訪れた当時の「フロインドリーブ」の場所は、現在の教会の店舗ではなく旧店舗のほうだ。「手帖」には、<神戸市生田区中山手通1の10 A 1257 ココナツ、マカロン>と住所・電話番号・注文品がメモされ、手帖のやや離れた位置に→(矢印)で導かれたところには道順も書かれている。<市電中山手一丁目下車して その山側の角を山に向って入って右側二軒目>とあるのだ。
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現店舗2階の広々とした喫茶室は、礼拝堂の造りをそのまま残しており、高い天井に目を向けると賛美歌の反響が聴こえてくるような錯覚におちいる 
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店舗情報
所在地 神戸市中央区生田町4−6−15 
定休日=水曜 営業時間=10時〜19時(L.O 18時30分)
参考
「全日記 小津安二郎」フィルムアート社
「小津安二郎 東京グルメ案内」朝日文庫(巻末の「グルメ手帖」部分)
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2013年10月13日

西宮市 幕末期の西宮砲台

西宮砲台が着工される前年1862年(文久2年)は、薩摩藩による英人殺害(生麦事件)、長州勢(高杉晋作・伊藤博文ら)による品川高台の英国公使館焼き討ち襲撃事件などが相次いで発生し、時代は攘夷の激流に呑み込まれて行きます。11月に幕府は朝廷による攘夷の勅旨に従うことを耐え切れずに決定。年明けを迎えると江戸・横浜市民は対英関係の悪化による(黒船による)艦砲射撃に動揺し不安はピークに。
後年、明治政府の初代総理大臣となった伊藤博文は、この未明の火付け事件に下っ端として参加した事から英国政府からシニカルな「嫌味」を受けることに。
そして1863年(文久3年)3月、幕府は軍艦奉行・勝海舟の実地調査の結果を受けて、海防の一環として西宮の海岸に砲台築造を決定。同年8月3日に着工し、3年後の1866年(慶応2年)の後半に完成。大砲(種類不明)2門を装備し弾薬庫や砲身冷却用の井戸の設備も。完成直後に空砲により2門を試射したところ硝煙が内部に充満したため実用に堪えないことが判明。実戦には使用されないまま明治維新を迎えます。
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海岸(南側)からの西宮砲台 出入口は山側(北側)に1箇所のみ (右写真)砲眼は計12箇所 堡塔の基礎には1500本超の松杭(くい)が使用され地盤を固め石造三層の高12m・径17mの円堡を支えてます
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西宮駅方向から港沿いの道路を行くと建物等にさえぎられ「何処にあるの?」状態 左写真の案内板が助けに 近寄るまで堡塔は確認できません(右写真)でやっと発見
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奥の樹木の手前の土手が西側に残存している防御用土塁 手前の大きな石は堡塔築造の残石(確証無し)(右写真)海岸一帯の説明板(砲台の説明も書かれてます)

 *参照 「日本城郭体系12 大阪・兵庫」1981年刊 西宮砲台の項
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2013年08月28日

神戸 元町 海文堂書店

神戸元町商店街(3番街)で、1914年(大正3年)に海事書専門店(船舶・海洋関連)として創業した「海文堂書店」が2013年9月30日をもって閉店します。現在、1階は一般書籍・雑誌を扱う売り場で、2階が国内トップの品揃えを誇る海事関連コーナー(他にギャラリー・古書売り場を併設)。
近年は、活字離れ・ネット書籍販売のシェア増加に苦しみ、売り上げ高の減少から経営不振に陥り、書籍小売り業(海文堂書店)の撤退を決定。以降は経営を出版業等に集約し、会社(海文堂興産)は継続してゆく方針のようです。
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1階一般書売り場から2階への階段の踊り場には海事コーナーに誘う様々な展示でぎっしり
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階段に飾られている作家・芸能関連の色紙・・ノンフィクション作家・佐野眞一氏のサインに眼を引かれました(「東電OL殺人事件」著者)
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(左)雑貨などの紙袋 (右)2005年「書皮大賞」受賞のブックカバー(文庫本サイズ)
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2012年08月08日

神戸 元AKB・大島麻衣の初体験の場所

<まいまいこと大島麻衣です>がキャッチフレーズのタレント大島麻衣のNHK出演番組の録画をチェックしていたら驚いた話を彼女が始めたのでビックリ。初体験!の話なんです。

AKB創立メンバー(20人)として活動。2009年4月26日のNHKホールでの公演で脱退し、ホリプロ所属タレントとしてソロ活動をその後展開中。AKB人気が爆発しかける寸前に抜けたのだが、本人から元メンバーであることを話すことは無く、自らの意志で去ったことを証明しつづけている。ホリプロには現役AKBメンバーが数人所属しているが番組共演さえほとんど無い状態です。
フジTVのバラエティ番組「ピカルの定理」(レギュラー出演)で彼女がセクハラされるのが毎週非常に楽しみで、ほぼ全ての週の放送をDVDに残しています。しかし出演終了してからは1回もチャンネルを合わせていません。
2012年7月4日(水曜)放送のNHK昼バラ「ひるブラ」(生放送)にまいまいがメーンリポーターとして出演。ロケ地は神戸・元町のJR高架下の「モトコー3番から2番街」で、歩き取材風に各店舗を紹介。事件は2番街のコーヒー店「グリーンズコーヒーロースター」の2階窓際席で発生。まいまいが窓際のテーブル席に座り、瞳を閉じながらコーヒーカップに唇をゆっくり近づける・・・ぽつりと「生まれて初めての体験です」・・彼女なんと24歳まで一度もコーヒーを飲んだこと無かったのです。・・・行くしかありません!まいまい初体験の場所に。
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     地図赤丸1地点のゲート       レンセイ製菓の菓子を まいまいは食べた 
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  右写真は赤丸2の地点 3番街から まいまいは現れ文字板の真下でしばらく信号待ち
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 信号待ちの間 まいまいが見つめた風景 この奥の2番街にコーヒー豆店がある
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現在「グリーンズコーヒーロースター」はコーヒー豆販売専門店として営業しており、2階カフェスペースは2年前(2010年)で閉鎖。
撮影時は特別に2階のカフェスペースを開放し、まいまいにコーヒーを提供したのです(放送中にそのことはナレートされていた)。
しかし、もしかしたらとかすかな期待を抱いて店のドアを開けましたが、左手にある2階への階段は薄暗く・・・マキシスカートのまいまいの後ろ姿の幻影が一瞬浮かびましたが・・・店員の「2階はやってません」の一言で現実世界に引き戻されました。・・・・まいまいが座った席には永遠に座れないのです。
苦手な食べ物は辛いもの全般で、甘いもの大好きなまいまい、コーヒーも駄目だったんだ。
グリーンズコーヒーロースター
営業時間 11時〜19時
定休日 火曜
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旧チームAで一緒の仲のよかった藤江れいなとのユニット曲http://www.youtube.com/watch?v=76XafuPggrU おしべとめしべと夜の蝶々 2009年8月
AKB48チームA「ハート型ウイルス」美系最強3人ユニット(過去には戻れません)http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=LtZd4lotYmk
千葉県野田市に実家があり野田親善大使のまいまいのブログ「のだしみん」(野田市民)http://ameblo.jp/oshimamai/
「ひるぶら」生放送ロケ終了約3時間後の更新http://ameblo.jp/oshimamai/archive39-201207.html#main
ホリプロ 大島麻衣http://horipro.co.jp/talent/PF101/ 
posted by t.z at 02:09| Comment(0) | 関西kansai | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする