2016年11月02日

荻窪清水町 井伏家に身を寄せる太宰治の元妻小山初代 井伏鱒二「琴の記」より

昭和12年(1937年)3月下旬、太宰治は水上村谷川温泉の山あいで、不倫が発覚した妻初代と心中未遂事件を起こす。初代は離別を告げられ、太宰の師である井伏鱒二家に一ヶ月余り身を寄せる。

<<私のうちには、琴、三味線を弾くものは一人もいない、しかるに、昭和十二年の初夏から去年の十二月下旬まで、朱色の袋に入れた山田流の琴が一面あつた。その附属品として、琴爪を入れた桐の小箱もあつた。この琴は、太宰治君の先の細君が(初代さんといふ名前だが)太宰君から離別された直後、いろんな家財道具と共に私のうちに預けておいたものである。当時、初代さんは青森県の浅虫の生家へ引きとつてもらふ話をつける間、私のうちへ一箇月あまり泊つて待機してゐた。離別された事情が事情(注1)だから、初代さんは生家へ引きとつてもらへないかもしれぬといふ不安があつて、はたの見る目もあはれなほど途方に暮れてゐた。茶の間の濡縁(ぬれえん)に私の家内(注2)と並んで腰をかけ、涙をぽたぽたこぼしてゐるのを見たことがある。
太宰君は初代さんに離別を云ひ渡したとき、家財道具いつさい初代さんに遣つてしまつた。理由は、初代の不快な記憶のつきまとふがらくたは見るのもいやだからといふのであつた。そこで太宰君自身はどうかといふに、自分の夜具と机と電気スタンドと洗面道具だけ持つて、私のうちの近くの下宿(注3)に移つて来た。着のみ着のままであつた。>>
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初代が身を寄せた当時の井伏家(昭和2年9月竣工)は、昭和34年4月の建替工事を前にして
取り壊された。写真は昭和34年7月に完成した井伏家。
昭和2年当時の住居表示は、豊多摩郡井荻村下井草1810。
その後、杉並区清水町24番と変更になり、現在は清水1-17-1。

<<太宰君は初代さんが私のうちにゐる間にも、たびたび私のうちへ将棋を指しに来た。そのつど初代さんは茶の間か台所にかくれたが、書斎と居間を兼ねた私の部屋は台所と壁一重である。わたしのうちは建坪が少くて、茶の間から便所へ行くには私の居間につづく廊下を通らなければならないので、初代さんは便所へ行きたくても我慢しなければならないことになる。だから私は将棋は一番だけにして太宰を誘つて外出する。外出してから一緒に飲むやうなことがあると、太宰の上機嫌になつてゐるところを見はからつて、どうだ君、初代さんとよりを戻す気はないかと云ふ、すると太宰は、居直つたかのように、きつとして、その話だけは絶対にお断りしたいと、きつぱりした口をきく。そんなことが二度か三度かあつたと思ふ。そのくせ彼は、別れた女房が万一にも短期を起しはせぬかと、はらはらしてゐるやうなところがあつた。>>
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注1 不倫。相手は太宰の親類(義弟)で当時、帝国美術学校西洋画科(武蔵野美術大の前身)の
  学生だった小舘善四郎(こだてぜんしろう)。太宰が薬物治療で東京武蔵野病院に入院中に
  小舘と姦通。昭和12年3月上旬、小舘は友人と太宰夫妻が住む碧雲荘(地図参照)を訪れた際、
  二階(?)の便所で横に並んだ太宰に前年の初代との事を喋ってしまう。太宰は初代を厳しく詰問。
  初代は過失を告白せざるをえなくなる。太宰と初代は、直後(3月20日頃)に水上村谷川温泉の
  山間で薬物による心中未遂事件を起こす。
注2 井伏鱒二の妻節代。昭和2年9月下旬に新居(現在地と同じ場所)が完成した直後の10月に結婚。
注3 昭和12年6月21日、太宰は碧雲荘から同じ町内(天沼1丁目213番)の下宿鎌滝富方の
   二階(四畳半)に単身で移転する。
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「琴の記」昭和35年3月週刊朝日別冊初出 「井伏鱒二自選全集第9巻」新潮社1986年刊より
参考 「井伏鱒二全集別巻2」筑摩書房2000年刊収録の年譜他
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2013年02月27日

荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)

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荻窪4丁目の南端境界線と省電線路との間の閑静な住宅街に渡邊錠太郎教育総監(大将)の私邸があり、反乱部隊の襲撃を受け、1階日本間で死亡、凄惨な現場となった(布団に横たわる死体写真が公開されている)。
*渡辺邸の住所は資料によっては上荻窪2丁目12番地(旧表示)の記載が見受けられるが、それは角側の隣接地であって、事件直後の新聞記事でも確認できるが、正確には上荻窪2丁目13番地である。
教育総監の私邸と同じ2丁目内の97番地(直線距離で200mほど)に、決起部隊の安田少尉の義兄が住んでおり、安田少尉自身も寄宿していた。四谷區仲町の斉藤実(まこと)内府私邸(内大臣・子爵・元首相・海軍大将)を襲撃した後、坂井中隊(第一中隊及第二中隊ノー部)から分隊した教育総監襲撃隊(指揮は高橋及安田少尉)を先導したのはもちろん土地勘のある安田少尉であった。
襲撃理由は、相沢中佐が軍事法廷公判で述べた「天皇機関説を肯定する大逆不道の人」であった。

憲兵司令部作成の「二・二六事件ノ概況」(昭和11年5月)の渡辺大将襲撃の項から。
斎藤邸襲撃終了後高橋及安田少尉ハ下士官兵約三十名ヲ率ヰ軽機関銃二銃ヲ携行午前六時頃予テ打合セノ上用意シテアリマシタ野重七ノ軍用自動車ニ分乗シ杉並区上荻窪ノ教育総監渡辺大将私邸ニ向ヒ到着致シマスルヤ直チニ軽機一分隊ヲ以テ表門附近ヲ警戒セシメ其他ノ者ヲ以テ玄関前ニ突入シ軽機ヲ以テ玄関ノ扉ヲ射撃破壊シ此処カラ家内二侵入セウトシタノテアリマスカ内扉カアツテドウシテモ之ヲ開ク事力出事(来が脱字)スゴタゴタシテ居ル時護衛トシテ同家二階ニ起居シテ居リマシタ憲兵ノ拳銃射撃ニ遇ヒ之力為安田ハ右下腿ニ一弾ヲ受ケ下士官兵中ニモ負傷者カ出来タノテ之ニ酬ユル為高橋ハ部下ニ命シ二階窓口目蒐(掛)ケテ射撃セシメ
次テ裏庭ニ廻リ茶ノ間ニ侵入シテ安田カ襖ヲアケタ途端座敷ノ方カラ総監ノ発射シタ拳銃弾力安田ノ軍刀ニ命中シ更ニ其左肘ヲ掠メ衝撃ノ為メ縁側ニ倒レタノテアリマスカ此時既ニ家内ニ侵入シタ軽機関銃手ハ直チニ総監ニ対シ発射シ又高橋、安田モ拳銃テ射撃シタ為メ総監ハ其場ニ倒レタノテアリマス
高橋ハ倒レタ総監ニ対シ更ニ軍刀テ斬り付ケタノテアリマス

時系列で渡邊教育総監私邸襲撃を表記すると、
1936年(昭和11年) 
2月26日 
 午前5時 歩兵第3聯隊・坂井中尉を中心とする約150名をもって斉藤内大臣私邸を包囲攻撃開始。 
 午前5時15分頃 斉藤実内大臣・即死(高橋・安田両少尉とも2階の内府寝室で拳銃乱射)。
       終了集合ラッパ吹奏し南側の橋に部隊集結。
 午前5時30分頃 内大臣襲撃後に主力部隊から分れた第2次行動の部隊(歩3聯隊1中隊付きの高橋
       太郎少尉と陸軍砲工学校の安田優砲兵少尉・約14〜5名・20名説も・軽機関銃2)が
       田中中尉の準備したトラック2台に分乗。先導は我が家に帰るごときの安田少尉。
       四谷見附から新宿・中野を経由して雪道を荻窪に。
 午前6時過ぎ(30分くらいか) 荻窪の教育総監私邸に到着。軽機1を私邸への路地角に警戒設置。
       主力は表門より突入。表玄関の開錠が厳重なため軽機関銃で扉を破壊(砕け散った
       ドアの写真が当時公)。次の扉を開けようと体押し時に中から発砲あり応戦。
       裏側(南側庭)からの報告により主力は建屋東側より迂回し庭側より進入。
       安田少尉は(すゞ子)夫人と問答するも突き除けて次の間の唐紙打ち開ける。
       教育総監は蒲団を被り盾にして拳銃を発砲。襲撃側も軽機・拳銃を乱射応戦し高橋
       少尉が軍刀でとどめ。教育総監は身体の右側に集中して被弾・即死(現場写真から)。

<警戒中の憲兵2名(伍長と上等兵)は2階で就寝中(この時、牛込憲兵分隊から軍決起情報の電話が入るが直後に襲撃を受ける・・玄関での応戦で安田少尉ら2名を負傷させている)。すでに起床して勝手支度中の夫人は物音に気付きすぐ奥10畳で就寝中の教育総監に声をかけている。一緒に就寝中のおかっぱ頭の二女和子(10歳)も起きて一度は母親のほうに。再び奥の間に戻った和子を教育総監は拳銃を握りしめながら立てかけてあったテーブルの隅に(防弾の為)足蹴にして押し込んでいる。テーブルには銃弾貫通痕が。(昭和11年3月22日付け東京朝日新聞朝刊より)>
 午前7時20分 2台のトラックに分乗し陸相官邸前に引き上げ。負傷者(銃創)2名(安田少尉
       ・木部伍長)の処置の命令を受け前田外科病院に入院させ、午前9時〜10時の間に
       三宅坂の参謀本部前で朝食(乾麺)。坂井中尉の指示で三宅坂上の五差路付近の
       中隊主力と合流。
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(左写真)襲撃部隊が突入した正面玄関。この位置からの憲兵による警戒中の写真が残されている。 (右写真)正面玄関に向かって左側の「くぐり戸」(通用口)。
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(左写真)正面玄関右側門柱の表札。2・26事件当時のものと思われるが判読不能。(右写真)南側の外壁。安田少尉が偵察の際、進入困難と判断したと思われる。
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(左写真)トラック降車後に直ちに軽機関銃を警戒設置した位置(左奥が教育総監私邸)。(右写真)軽機設置位置からの教育総監私邸への路地を見る(距離が判ると思う)。

つい先年まで渡辺家の遺族・子孫の生活の場であり続け、また近隣には渡辺姓(家族)の表札が見受けられる。2008年(昭和20年)2月より解体工事に取り掛かり、2009年1月には更地となっていた。同年5月頃よりマンション建設工事が開始されている。
解体を前にして、渡辺邸の建具など一部の寄贈を受けた杉並区立郷土博物館が、2009年2月21日から2ヶ月半ほど玄関部分や和室を復元して特別展示。同時に同邸を設計した柳井平八氏の紹介もなされている。又、襲撃時にテーブルの影に隠れ無傷だった二女・和子(ノートルダム清心学園理事長)さんの特別講演も行われた。
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*以下は、多磨霊園の渡邊教育総監の墓(12区1種10側)。
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参考:「二・二六事件=研究資料」U・V(編 松本清張・藤井康栄)文藝春秋1986年刊

2・26事件リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html
posted by y.s at 23:59| Comment(0) | 荻窪・西荻窪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月29日

西荻窪 澤尻リラの地中海料理の店 リラズテーブル(閉店)

沢尻エリカの母・澤尻リラさんが経営していた地中海料理「リラズテーブル」は、2007年(平成19年)3月をもって閉店。家族も店を支えており、娘(本名 澤尻エリカ=日出女子学園高校)も芸能活動が多忙になる前は厨房に入って手伝いをしていたようだ。
IR西荻窪駅南口から200mほどの住宅地の一角にある一軒家レストランで、雑誌等に紹介される評判の地中海料理の店だ。シェフは澤尻リラさん。アルジェリア系フランス人(アルジェリア生まれフランス育ち)のリラさんは、日本人の実業家と結婚し2男1女を授かったが、夫はがんで先立ち、次男も交通事故で死去された。リラさんの地中海料理は、家族のために作り続けた家庭料理そのものとのいわれている。
ランチに訪れたこの日(2006年9月)は扉は閉じたまま。定休日や営業時間も不明で、最近は土曜・日曜以外は昼の営業はしてないようだ。ディナー営業(18:00〜23:00)の店頭案内はあるが、それも不規則なのかもしれない。電話で確認してからがよいようだ。
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(左写真)地中海料理「リラズテーブル」のある路地*7・11は不動産店に変わっている (右写真)カフェグレース前から線路側を見た路地
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地中海料理「リラズテーブル」2006年9月
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(左写真)営業案内は置いてあるが「よくわかりません」 (右写真)リラさんのかわいい趣味があちこちに並んでいる
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(左右写真)窓に「リラズテーブル」を紹介した雑誌が置かれている
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2007年3月で「リラズテーブル」は閉店。4月上旬には貸店舗となった。
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沢尻エリカリンク
代官山 沢尻エリカ・自動車事故現場http://zassha.seesaa.net/article/74282397.html
posted by y.s at 00:19| Comment(1) | 荻窪・西荻窪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする