詩人・萩原朔太郎は、大正5年の12月に鎌倉坂ノ下の海岸際にあった旅館を訪れ、詩集「月に吠える」の編輯を行い、翌年3月に去ってゆく。旅館の名は「海月楼」。遠い日々のことは忘れ去られ、詩的な名を冠せられた宿の存在も人々の記憶から失われている。
鎌倉長谷の旅館「海月楼」跡。
萩原朔太郎自ら「海月楼」前後の事情を「詩壇に出た頃」で語っている。
<<(略)処女詩集「月に吠える」を出したのは、たしか僕が三十四歳の時であった。それが偶然にも、ボードレエルの「悪の華」と同年であると言って祝福してくれた人があったが、僕としては少し寂しい思いもした。と言うのは北原白秋氏や三木露風氏等が、早く既に十七歳位で詩壇に出、二十歳を越えた時に既に堂々たる大家になって居たことを考え、自分の過去の無為と非才とを悲しく反省したからだった。(略)
「月に吠える」は、しかし出ると同時に発売禁止を食ってしまった。当時僕は田舎に居たので、代りに名義人の室生君(*親友の室生犀星)が警察に呼ばれた。係りの役人の説明によると、中の二篇ほどの詩が悪く、風俗壊乱になるのだそうである。その悪い詩というのは、今から見て何でもない普通の詩で、全く馬鹿馬鹿しいようなものであるが、警察ではそれを丁寧に朗読して聞かせてくれたそうである。後で室生君の話をきくと、巡査がそれを朗読するのを聴いていると、如何にも猥褻の感じがしたと言った。しかし室生君の弁明がよかった為か、幸いにもその二篇の詩を削除することによって解禁された。ところが既に本は街の店頭に出て居るので、巡査が一々本屋を廻って、その部分の詩四頁ばかりを引き裂いて行った。そのため初版本は、その分だけ破いて落丁になって居るのである。
この発売禁止事件は、思うにあの詩集の標題や装幀やが、当時としては甚だ奇警で珍しく、何か妙な異様のショックを役人に与えた為だと思われる。特にあの田中君や恩地君の挿画は、何か解らぬながらも直覚的に「怪しい」という予感を警官にあたえたにちがいない。そこであの詩集が挙動不審のカドで引っ張られたわけなのだが、調べて見れば別に犯罪の形跡もなく、どこと言って別に怪しい節もないので、無事に放免してしまっても好いのであるが、やはり何かそのままではすまない気がするので、無理に二篇の詩を探して叱った上、説諭放免ということになったのであろう。僕はその件を聞いた時に、てっきりこれは挿絵でやられたと直覚した。実際あの中には可成キワどいエロチックの絵が入って居た。特に田中君の描いた赤紙(それは劇薬の包紙である)の絵の中には女の××を手で××している物凄い奴があるので、これが禁止にならなかったことは、今日の常識で考えても、むしろ不思議に思われる位である。むろん係りの役人に解らなかった為であるが、何かよく解らないながらも、直覚的に「怪しい」という感じをあたえたので、その嫌疑が詩の方へ廻って来たにちがいないのだ。とにかく危ないところで禁止が助ったのはありがたかった。(略)
「月に吠える」の原稿を整理する時、僕は鎌倉の旅館海月楼に止宿して居たが、日夏耿之介君が近所に居たので親しく交際した。その原稿が書き上った時、印刷のために東京へ出て来たが、出版の嬉しさと安心とで、すっかりビアホールで酔っぱらってしまい、そのまま大事の原稿をなくしてしまった。幸い備忘のノートがあったので、改めてまた書き直して出版したが、その為室生君の序文も一緒に紛失して、二度も同君に執筆をたのむような失態を演じた。このことは「失われた原稿」という見出しで、当時方々の新聞や雑誌にゴシップされたが、今となればなつかしい思い出の一つである。(略)>>
「特に田中君の描いた赤紙(それは劇薬の包紙である)」の「女の××を手で××している物凄い奴」と朔太郎に言わしめた詩集「月に吠える」の挿画。田中恭吉が赤い薬包紙に赤インクで描いたもの(遺作)。
(挿画は「萩原朔太郎全詩集」1979年筑摩書房より)
大正期の朔太郎滞在当時の「海月楼」の門構えがそのまま残されているように思える。、
門柱の表札跡を見つめていると、「海月楼」の3文字が浮かんでくる。
「近代の詩人7 萩原朔太郎」潮出版1991年刊の巻末年譜を主に参考して、「海月楼」滞在、詩集「月に吠える」初版と再版に至る経過を以下に掲げる。
1916年(大正5年)31歳
6月 室生犀星と「感情」創刊(通刊32冊まで)
12月初旬 保養のため鎌倉長谷の「海月楼」に止宿
(御所見村=現・藤沢市出身の長田氏が経営)
前田夕暮・若山牧水が数日間の飲食・宿泊代をある時払いにしてもらったことを
記述したため、文人らへの面倒見の良さが評判になっていた宿である。
この前田夕暮の世話で「月に吠える」が白日社から自費出版が可能になった。
この旅館で朔太郎は処女詩集「月に吠える」の編集(大正3年〜大正6年の詩篇)
に入る。
この頃、徒歩5〜6分のところの入地207番に住み、病を養っていた若き詩人日夏
耿之介と知己になる。2ショットの写真が残っている。
12月10日頃 詩集を印刷所に渡す為に上京。だがビアホールで酔い原稿紛失する。
一時、前橋に帰る。
1917年(大正6年) 32歳
1月 引き続き鎌倉で保養。
2月15日 第1詩集「月に吠える」自費出版刊行。費用300円 部数500部
出版直前に内務省警保局より内達を受け、風俗壊乱に該当するとの理由で
詩2篇を削除する。「愛憐」「恋を恋する人」の2篇削除。
北原白秋の12頁の序文付き。
2月下旬 鎌倉から引き上げる。
3月7日まで、湯島天神近くの梅屋旅館に滞在。
3月5日に森鴎外に「月に吠える」を捧げる。
森鴎外、岩野泡鳴らから讃辞得る。
日本象徴詩の至高を示す詩集との評価得る。
この頃、芥川龍之介にも詩集を送り、文通を始める。
1922年(大正11年)
3月23日 詩集「月に吠える」アルスより再版。削除された2篇を収める。
1923年(大正12年)
第2詩集「青猫」 刊行される。
風俗壊乱に当たる嫌疑で内務省警保局より削除命令がだされた2篇(「愛憐」「恋を恋する人」)。
その内の1篇「愛憐」。
きつと可愛いかたい歯で、草のみどりをかみしめる女よ、
女よ、このうす青い草のいんきで、まんべんなくお前の顔をいろどつて、
おまへの情慾をたかぷらしめ、しげる草むらでこつそりあそばう、
みたまへ、ここにはつりがね草がくびをふり、あそこではりんだうの手がしなしなと動いてゐる、
ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、お前はお前でカいつぱいに
私のからだを押へつける、
さうしてこの人氣のない野原の中で、わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、
ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、
おまへの美しい皮膚の上に、い草の葉の汁をぬりつけてやる。
イメージ写真。緑の絵の具を女の身体に薄く濃く塗りたくって、鮮烈で透明でエロティックな写真を
撮りたかったが、「嫌!」ときつく拒否。あえなくこの写真だけになった。
写真の路地の左後ろに「海月楼」。大正時代はここまで砂浜が広がり、波打ち際に青白い月光に浮かび
上がる「海月楼」が視れたことだろう。
鎌倉市の昭和36年版住宅地図を調べてみると、写真の住居位置は旅館経営者だった「長田」さんの名が記入されているのみで「海月楼」の名称は消えている。それ以前の詳細住宅地図は手に入らなかったため、何時まで旅館営業が行われていたかは不明。
「月に吠える」について、朔太郎に寄り添い、師とも仰ぐ詩人三好達治が「放下箸」で讃を寄せている。
<<「月に吠える」は暗鬱な詩集である。この詩集の思想には、何の希望も救済も見出せないし、そのスタ
イル自身が総崩れに崩れかかるような具合であつてそれは決して何の建築意志をも暗示するものではない。事実「月に吠える」はその後の三十余年、今日まで四十年近くを経た間に、無数の模倣者を生むには生んだが、それにも拘らずその発展としての産物を詩壇に何ものもいっさい生み出しはしなかつた。
有明が白秋露風を生み、白秋が朔太郎犀星を生んだような具合には、それは何ものも生み出しはしないところの完全なる行きどまりであつた。それはその先にもう降り坂をしかもたないところの一つの頂点であって、その意味で特異な奇異な−というのはまた三文の役にもたたないところの不思議な魅力をもっていた。それはいわば無償の行為の具現、詩人のニヒリズムの塊りのような但し一顆の美味な作品であつた。>>
「三好達治 作家の自伝」1999年日本図書センター刊より抜粋。
萩原朔太郎リンク
乃木坂 萩原朔太郎の「乃木坂倶樂部」
http://zassha.seesaa.net/article/381746442.html