2018年06月18日

鎌倉 滑川 田村隆一「ぼくの鎌倉八景 夜の江ノ電」より

田村隆一詩集「ぼくの鎌倉八景 夜の江ノ電」から。
小町大路を歩いていると、古都鎌倉の中心部を流れ下る滑川(なめりがわ)の水音にふと気付く。
きらめく川面(かわも)に視線を落としていると、いつしか吹き抜ける風にのって悠久の時の流れが重なりあい始める。そこかしこに響きあう過去と現在。流れとともに漂いだした想念は、いつしか由比ガ浜か材木座海岸か・・・・いつまでもボーとしてんじゃないよ、そこのオッサン。
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夷堂橋(えびすどうばし)から見た本覚寺山門。写真右側が上流となる。

<滑川哀歌>より
鎌倉を流れる最大の川は滑川
ナメリガワ
「鎌倉攬勝考(らんしょうこう)」巻之一には
「一流にして六名」とあり
くるみヶ谷にては胡桃川
浄妙寺前に至りて滑川と呼び
またその下流にては坐禅川
小町辺にては夷堂川と唱え
延命寺辺より大鳥居辺に至りすみうり川と称し
閻魔堂(えんまどう)の前にては閻魔堂川という

つまり滑川は名前を六回変えながら
鎌倉の町のなかを貫流する
滑川にかかる東勝寺橋を渡って右に行くと
東勝寺跡
北条一族は滅び
高時(*)は井戸のそばで切腹し身を投じる
東勝寺は、
「東ガ勝ツ」ことを祈願して建立されたのに
あっけなく敗北した
このあと
ぼくの若い日本は
南朝側と北朝側に分裂して内乱状態をむかえてさ

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小町橋から下流方向をながめる。
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閻魔橋から上流方向。
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東勝寺橋上から流れ下る滑川。

ハラキリ・ヤグラのすぐとなりに修道院
レデンプトリスチン修道院(*)
神サマと結婚した美しいシスターたちの館は
ぼくの目には壮麗に映る

鎌倉は
かつては鎌倉五山 真言宗 法華の太鼓がひびく仏教の町で
それはいまでもそうなのだが
明治レボリュウション以後
讃美歌もこの町の軒から軒へ
路地から路地へ風にのって流れることになった
(略)
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鎌倉幕府滅亡の地、東勝寺跡。奥の斜面下に今もレデンプトリスチン修道院がある。

(*)北条高時 鎌倉幕府執権
(*)レデンプトリスチン修道院 鎌倉市小町3-10-6 東勝寺跡西側 
田村隆一詩集「ぼくの鎌倉八景 夜の江ノ電」1987年沖積舎刊より


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2018年01月06日

鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」より

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鎌倉・鶴岡八幡宮境内の平家池畔に立つ白亜の神奈川県立近代美術館(奥の建物)。
設計板倉準三により1951年に完成。すでに2016年3月末で美術館としての活動は終了し、
閉鎖されている。美術館は荒木陽子さん(写真家アラーキー氏の亡き妻)が蓮池と表現した池に
接している。

この美術館を訪れた思い出(結婚前)を「荒木陽子全愛情集」で綴っている。
<<(略)それから鎌倉近代美術館ヘムンクを観に行った時は、蓮池を望むベランダのティールームで、
その時はまだ恋人だった夫とコーヒーを飲んだ。彼はムンクのカタログの隅っこに、私に似ているといってポーフラの絵を描いてくれたのだった。すべて思い出はカフェと共にある。京都のマッコール・マッコール、神戸のG線、銀座のドン・・・・(略)>>
「荒木陽子全愛情集」収録「10年目のセンチメンタルな旅」1982年より抜粋。
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カフェ<ラ・ミュゼ>。奥に平家池を見わたせるベランダがある。
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カフェ内の壁画「女の一生」は、安井賞第1回(1957年)受賞者・春陽会会員・女子美大講師であった
故・田中岑(たかし)の1957年の制作。
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ムンク展を観たあとの一時(ひととき)を過ごしたカフェ内の<蓮池を望むベランダ>。
<ラ・ミュゼ>は、その後2011年にカフェ<レンコン>と改称されている。
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陽子さんが蓮池と表現した池は、四つの島が浮かぶ平家池で、対立する平家に死(四)をの意を含む。
鶴岡八幡宮に正対して左側の池が平家池、右が源氏池と称されている。
撮影2006〜2011年。

参考
「荒木陽子全愛情集」2017年港の人(鎌倉市)刊
神奈川県立近代美術館閉館告知http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallNewsDetail.do?no=1451012174471&hl=k

荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
京都・四条河原町 喫茶・築地http://zassha.seesaa.net/article/455847835.html
渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場http://zassha.seesaa.net/article/455890811.html
長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455985556.html
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2017年11月09日

鎌倉 建長寺裏山 勝上ケ岳 三島由紀夫「海と夕焼」より

三島由紀夫が昭和30年に発表した短篇「海と夕焼」から。
海が割れるという奇跡を信じながら、二度までは到来することがなかった渡来人アンリ(安里)の心の物語。故国(フランス)への帰国という虚しい望みを捨て去り、信仰さへ失った心に、いまや安寧さへ訪れている。だが南の空が夕焼けに染まり、遠く垣間見える海の一線が緋色に輝くとき、アンリは建長寺の裏山勝上ケ岳に登らざるをえなくなる。
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勝上嶽(しょうじょうけん=勝上ケ岳)を真後ろに控えて聳える建長寺三解脱門(山門)。江戸期創建。

<<文永九年の晩夏のことである。のちに必要になるので附加へると、文永九年は西暦千二百七十二年である。鎌倉建長寺裏の勝上(しょうじょう)ヶ岳へ、年老いた寺男と一人の少年が登ってゆく。寺男は夏のあひだも日ざかりに掃除をすまして、夕焼の美しそうな日には、日没前に勝上ヶ岳へ登るのを好んだ。
 少年のはうは、いつも寺へ遊びに来る村童たちから、啞(おし)で聾(つんぼ)のために仲間外れにされてゐるのを、寺男が憐れんで、勝上ヶ岳の頂きまでつれてゆくのである。寺男の名は安里(アンリ)といふ。背丈はさう高くないが、澄み切った碧眼(へきがん)をしてゐる。鼻は高く、眼窩は深く、一見して常人の人相とはちがってゐる。そこで村の悪童どもは、蔭では安里と呼ばずに、「天狗」と呼びならはしてゐる。
 話す言葉はすこしもをかしくない。それとわかる他国の訛(なまり)もない。安里は、この寺を開かれた大覚禅師蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)に伴われてここへ来てから、二十数年になるのである。>>

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広大な建長寺境内に立つ案内板。左手に向かう道が勝上嶽展望台。

<<夏の日光が斜めになって、昭堂のあたりは日が山に遮られてすでに翳(かげ)ってゐる。山門はあたかも、影と日向とを堺にして聳(そび)えてゐる。木立の多い境内全体に、俄かに影の増してくる時刻である。しかし安里と少年ののぼってゆく勝上ヶ岳の西側は、まだ衰へない日光を浴びて、満山の蝉(せみ)の声がかしましい。草むした山道ぞひに、秋にさきがけて鮮やかな朱の曼珠沙華(まんじゅしゃげ)がいくつか咲いてゐる。頂きに着いた二人は、汗を拭かずに、軽い山風が肌を涼しく乾かせてゆくに任せた。>>

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勝上ヶ岳の頂きへ至る山道。森閑とした空気を切り裂くようにけたたましい鳥の鳴き声。

<<建長寺の塔頭の数々が、一望のもとに見える。西来庵、同契院、妙高院、宝珠院、天源院、竜峯院。山門のかたはらには大覚禅師が母国の宋から苗木を持って来られた槙柏(しんぱく)の若木が、晩夏の日を葉に集めて、ここからもそれとわかる。(略)>>

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勝上ヶ岳の頂きは目前。のぼりきれば遠く稲村ケ崎の彼方にきらめく海が望めるのであろう。

建長寺開山、大覚禅師蘭渓道隆の略歴。
寛元4年(1246)3月、蘭渓道隆(33歳)、弟子義翁紹仁らと中国の成都より博多に着く。
翌年、京都に上る。さらに1年後(宝治2年)に鎌倉に下る。同年12月、道隆は常楽寺に住す。
建長元年(1249)、建長寺建立の地を地獄谷に定める。
建長5年(1253)11月25日、建長寺入仏供養、道隆が導師を務める。
建長7年2月21日、北条時頼の発願により銅鐘を鋳造(ちゅうぞう)。道隆が銘文を撰す。我国初の「禅寺」称号(建長禅寺住侍宋沙門と冠せられている)。銅造の鐘は国宝として現存。鐘銘は長いので省略。
弘安元年(1278)7月24日、蘭渓道隆示寂(66歳)。謚して大覚禅師と称す。我国の禅師号の始まり。

「海と夕焼」昭和30年1月号「群像」誌初出 
「三島由紀夫全集19」2002年新潮社刊より抜粋
参考:「古寺巡礼 鎌倉 建長寺」1981年淡交社刊

三島由紀夫リンク
京都土御門町 安倍晴明邸址 三島由紀夫「花山院」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/372786698.html?1494827046
奈良 円照寺 三島由紀夫「春の雪」(豊饒の海・第一巻)より http://zassha.seesaa.net/article/442450850.html
目白 学習院 三島由紀夫「春の雪」(豊饒の海・第一巻)よりhttp://zassha.seesaa.net/article/454213185.html
目黒緑ヶ丘 三島由紀夫旧居跡 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/454227097.html?1508143791
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2017年03月05日

鎌倉 妙本寺の海棠(かいどう) 小林秀雄「中原中也の思ひ出」より

<<鎌倉比企ケ谷(ひきがやつ)妙本寺境内に、海棠(かいどう)の名木があつた。
こちらに来て、その花盛りを見て以来、私は毎年のお花見を欠かした事がなかつたが、先年枯死した。枯れたと聞いても、無残な切株を見に行くまで、何んだか信じられなかつた。それほど前の年の満開は例年になく見事なものであつた。名木の名に恥ぢぬ堂々とした複雑な枝ぶりの、網の目の様に細かく分れて行く梢(こずえ)の末々まで、極度の注意力を以つて、とでも言ひ度(た)げに、綴細な花を附けられるだけ附けてゐた。私はF君と家内と三人で弁当を開き、酒を呑み、今年は花が小ぶりの様だが、実によく附いたものだと話し合つた。(略)
中原と一緒に、花を眺めた時の情景が、鮮やかに思び出された。中原が鎌倉に移り住んだのは、死ぬ年の冬(*1)であつた。前年、子供をなくし、発狂状態に陥つた事を、私は知人から聞いてゐたが、どんな具合に恢復し、どんな事情で鎌倉に来るやうになつたか知らなかつた。久しく殆ど絶交状態にあつた彼は、突然現れたのである。>>
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(写真)小林と中原の往時と変わらず、比企谷妙本寺の境内には海棠の木々が薄紅色の花を咲かしている。小林秀雄の名文に即して花の間断なく落ちる散り様を撮りたかったが、時を誤って海棠は花盛りであった。海棠の撮影は2011年4月13日。

<<晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙つて見てゐた。花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直ぐに間断なく、落ちてゐた。樹蔭の地面は薄桃色にべつとりと染まつてゐた。
あれは散るのぢやない、散らしてゐるのだ、一とひら一とひらと散らすのに、吃度(きっと)順序も速度も決めてゐるに違ひない、何んといふ注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考へてゐた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考へか、愚行を挑発されるだらう。花びらの運動は果しなく、見入つてゐると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになつて来た。我慢が出来なくなつて来た。
その時、黙つて見てゐた中原が、突然「もういゝよ、帰らうよ」と言つた。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。
「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。
彼は、いつもする道化た様な笑ひをしてみせた。二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙つてゐた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「あゝ、ボーヨー、ボーヨー」と喚(わめ)いた。
「ボーヨ一つて何んだ」
「前途茫洋さ、あゝ、ボーヨー、ボ−ヨー」と彼は眼を据ゑ、悲し気な節を付けた。
(略)>>
(*1)中原中也の寿福寺境内(鎌倉市扇ケ谷181番地)への転居は、昭和12年2月27日。死去は8ヶ月と経たぬ同年10月22日午前0時10分(市内若宮大路東側の入院中の鎌倉養生院で)。寿福寺での通夜は22日と23日の2回執り行われている。
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(写真)妙本寺祖師堂付近の海棠と大きな自然石。二人が石に腰掛け、黙つて海棠の散るのを見ていたのは、この場所である気がしてならない。中原中也と小林秀雄の関係には、かって一人の女を巡っての「忌はしい」「忘れたい過去」がいつまでも影を落としていた。小林秀雄が、中原と同棲していた長谷川泰子を奪ったのは、彼が23歳の時であった。
同じく「中原中也の思ひ出」から抜萃。
<<私は中原との関係を一種の悪縁であつたと思つてゐる。
大学時代、初めて中原と会つた当時、私は何もかも予感してゐた様な気がしてならぬ。尤(もっとも)も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてからそんな風に思ひ出し度(た)がるものだ。中原と会つて間もなく、私は彼の情人(*長谷川泰子)に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふ事によつても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白といふ才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にはなれない。
驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見付けただけであつた。
夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味の事を言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。それから八年経つてゐた。二人とも、二人の過去と何んの係(かゝ)はりもない女と結婚してゐた。忘れたい過去を具合よく忘れる為、めいめい勝手な努力を払つて来た結果である。>>
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(写真)妙本寺山門。小林と中原は、おそらく無言でこの門をくぐったはずだ。
 撮影2009年9月。

小林秀雄「中原中也の思ひ出」昭和24年8月「文藝」初出
「小林秀雄全作品17」新潮社2004年刊より抜粋
参考 「中原中也全集別巻 写真・図版篇」角川書店2004年刊

中原中也リンク
京都・丸太町橋際 中原中也「ダダイスト新吉の詩」に出会うhttp://zassha.seesaa.net/article/442518827.html
銀座 有賀写真館 詩人中原中也のあのポートレイトhttp://zassha.seesaa.net/article/442486425.html
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2017年02月25日

鎌倉 旅館 対僊閣 つげ義春「貧困旅行記」より

かって月刊漫画誌「ガロ」(出版は神田神保町の青林堂)を通じて熱狂的(教祖的か)な読者を獲得していた漫画家つげ義春(本名 柘植義春つげよしはる)の旅エッセイ「貧困旅行記」から、明治末の創業から現在に至るまで鎌倉の長谷観音の参道で営業を続ける旅館「対僊閣」(たいせんかく)を取り上げる。
1986年(昭和61年)6月、つげ義春が家族を連れて鎌倉の寺巡り(長谷寺・大仏・建長寺)をした際、たまたま一泊した旅館が「対僊閣」であった。
<<いつの間にかまた長谷寺参道の入口に戻っていた。古めかしい木造の対僊閣(たいせんかく)という宿屋に投宿した。先ほど目にとまっていたのだが、見ためはちょっと物足らなく思え、ためらっていた。しかし夕暮れて正助は疲れた様子なので、夕食なしの朝食のみという味気ないのもやむを得ず泊ることにした。鎌倉の宿屋は、女性専門が多いだけでなく、夕食ぬきも多いようだ。
京都へ行ったときもその例で、古都の人は晩めしを食わないのだろうか。
対僊閣はなかなか感じの良い宿だった。明治の建築とかで、玄関には私の丈より大きな柱時計が据えられ、電話室も昔のままで珍しく見た。二階の通された部屋は、古びてはいても十二畳と広くさっぱりとして、浜風が吹き抜け心地好い。初老のおかみさん(女中さんか?)も物静かでひかえめで感じが好い。私は掘出し物をしたようで嬉しくなった。宿の向いには、うなぎ屋、その隣りに骨董屋、二、三軒おいて食堂もあり、夕食なしでも不自由はしない。私たちの他に客はなく、モダン好みの女性客にはうけそうにない宿だが、それがかえって穴場かもしれないと思った。>>
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(写真)参道に面した旅館対僊閣の北側正面。明治末年の創業だが、この建物は1927年(昭和2年)の築造。意匠・施工は三橋幾造。二階の四つの欄間窓が印象的。つげ義春は、「見ためが物足らない」とスルーしようとした。つげの宿泊から30年経った今でも、まあまあかなと思うのだが。撮影は2008年。
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(写真)「私の丈より大きな柱時計が据えられ」ている正面玄関。右手の階段から2階の客室に案内されたのだろう。
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(写真)玄関右手の案内板。これだけみると、やはり若い女性客は後ずさりするだろう。

<<十時半ごろ妻と正助は眠った。私は明日愉しみがあるのでわくわくして眠れない。宿屋の向いの骨董屋で、先ほどみつけた仏像を、明日買おうかどうしようか迷い、あれこれ考え目が冴えていた。
以前から仏像は一つ欲しいと思っていたが、時どき古物市に物色に出かけたりしてみても、手頃なものに出会えなかった。鎌倉には骨董屋が多く、寺も多いので期待をして、先日古本を処分した金を用意してきていた。
向いの店で見たのは三十センチほどの千手観音だった。鋼製のずっしり重いものだが、私は木像より金属仏を好んでいる。千手といっても左右合わせて十八本に省略され、それぞれの手の持ち物も欠落なくちゃんと揃っている。ほんとうはこのようにゴテゴテしたものより、もう少し小型のすっきりした阿弥陀仏など欲しいのだが、値段を考えると選り好みはできない。むろん骨董価値のあるものなど無理な話で、店主も「明治期のものですヨ」と正直に云った。私は仏像を買う目的は、信仰心が薄いので、真似ごとでもいいから、朝夕合掌でもしてみたいという気持ちからで、骨董品でなくてもよいのだった。>>
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(写真)千手観音を買おうか迷って目が冴えて眠れなくなった要因となった旅館向い骨董店。翌日、つげ氏は購入している。「貧困旅行記」にその観音様の写真が掲載されている。
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(見取り図)「宿の向いには、うなぎ屋、その隣りに骨董屋、二、三軒おいて食堂もあり、夕食なしでも不自由はしない」と書かれた3軒に●を印した。尚、紅家美術店は、昭和30年代には長谷寺山門の傍らに店舗を構えていた(地図参照)。

参考 つげ義春「貧困旅行記」1991年9月晶文社刊。抜萃は新潮文庫1995年版から。 
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2016年09月29日

北鎌倉 建長寺塔頭宝珠院 葛西善蔵「歳晩」より

葛西善蔵は、北鎌倉の古刹・臨済宗建長寺の塔頭・宝珠院の庫裏に、宿阿の喘息に苦しみながら、大正12年9月の関東大震災により伽藍堂宇の多くが罹災するまでの約4年間、寄寓していた。
その間に発表された建長寺を舞台にした作品群から短編「歳晩」をピックアップ。 

<< また今年も暮れる。建長寺内に來て、丁度まる三年経つた。
昨年の夏は義母、この夏には父にも死なれて、私はすつかりポカンとしてしまつた。
人生に對し、自分自身に對し、何の用意も出來ないうちに親たちに死なれてしまつた。
父の四十九日の供養に東京に出て行つたが、私もそのまゝ弟の家の二階で病気の床に就いた。
肺尖熱がいつまでも引かないて、持病の喘息時期が來てほとんど一ケ月餘り發作が讀いたため、すつかり食慾を失ひ、自分もまた父の後を追ひかけるのではないかと云ふ氣がされたりした。
三ケ月餘り東京に滞在して、十一月の下旬にやうやう寺に歸(かえ)つて來た。
山の上の部屋借りの寺に歸つて來て、私は稍(ようやく)甦つた氣がした。
晩秋の境内の爽かな眺めは、私の眼や心に好い刺激を與へた。
青い空、新鮮な空気、松の翠(みど)り、楓樹の紅葉ーー私は境内の石だたみの上を散歩したり、町の方へ出て行つたりして、衰へ切つた健康の恢復に努めた。が依然として筆を執るやうな気分になれなかつた。
(略)
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(奥が建長寺方丈、葛西善蔵が寄寓した塔頭・宝珠院は写真左手に当る。)
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(方丈の回廊から見た宝珠院。石段が見える。4年間暮らした庫裏は樹木に覆われ隠れている。)

十二月十一日午後、厳しい原稿催促の書留配達の手紙を受取つて、覺悟を決めてゐたところながら、喘息の發作でも來さうな昏迷を感じた。
裏の山で鵯(ひよどり)がしきりに啼いてゐた。
急に空の色が變(かわ)つて來て思ひがけない霰(あられ)が振つて來た。
それが縁前の紅い萬兩(まんりょう)の實(み)に美しく散りかゝるのを眺めやつて、年々の年越しの苦しい経験に怯え、都會の活動振りを想像しながら、凍つたやうな自分の気持に失望した。
   大正十一年十二月 >>
*原文にルビは無し。
「葛西善蔵全集第2巻」文泉堂書店1974年刊より

葛西善蔵は、宝珠院の庫裏を引揚げた数年後(昭和3年7月)、世田谷区三宿の寓居で肺結核に倒れ、苦渋に満ちた41歳の生涯を終えている。建長寺は、震災後、昭和18年に総門・方丈を京都般舟三昧院より移築するなど修復に努め、昭和29年には開創700年の遠諱を行い、現在に至っている。
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なほ現在、宝珠院は一般公開されていない。
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2014年03月01日

北鎌倉 小津安二郎 山ノ内の新居(終焉の地) 「日記」から

1952年(昭和27年)
 1月15日(火)
監督協会役員会 夜半 大船撮影所本館 全焼
<大船撮影所に火災が発生し、事務所本館が全焼した。当時その監督室を起居の場としていた小津先生は、大切な私物をそこでかなり失った。(略)昭和十四年(1939)の軍隊からの帰還から昭和二十五年(1950)までの日記は現存しない。(略)極めて重要な部分が欠落しているのは、恐らくこの撮影所の火災によって焼失してしまったのではないかと思われる。>「松竹大船撮影所覚え書」山内静夫2003年刊より     

 2月11日(月)
北鎌倉に売家ある由 森と清水毎日記者 差配津島と家を見にゆく 道わるし 好々亭で昼めしをくひ 皆で月ヶ瀬にゆく 酩酊 茅ヶ崎に帰る
*好々亭=北鎌倉の会席料理店 *月ヶ瀬=大船撮影所正面ゲート近くの食堂(経営者の姪・益子さんは俳優佐田啓二と結婚し、中井貴惠と弟貴一を産む。小津安二郎が貴一の名付け親)
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JR北鎌倉駅から大船方向に線路沿い(作家高見順の家がある東側)をしばらく歩くと(左写真)店名「好々亭」を装った隧道に着く (右写真)隧道を抜けると数台分の駐車場 店はさらに坂道を上がったところにあった(閉店)

 2月27日(水)
朝めしをぬいて野田氏と北鎌倉の家を見にゆく 母 有記子 森くる 家主 津島くる 小倉遊亀さんも来られる とにかく買ふことにして手金を入れる (略)母と有記子の三人森泊 P312
*森=森栄(さかえ)のこと 小田原の待合で知った芸者千丸の本名で小津の愛人となる 昭和14年刊の川崎長太郎の小説「裸木」に登場する 戦後すぐに築地で旅館「森」を営む 森泊とはそこの旅館に宿したの意 *小倉遊亀(ゆき)=女流画家で新居の隣人となる(平成12年に逝去)*有記子=小津の妹登久(とく)
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北鎌倉・浄智寺脇の閑静な小径 深緑の森の中 ゆるい上り坂を進むと この日 手付金をうった「北鎌倉の家」に着く

 2月29日(金)
この日より<お茶漬の味>書き始める

 3月1日(土)
朝 久米正雄氏逝去の由 益子から電話かかる

 3月4日(火)
十二時五分で野田さんと三汀久米正雄の告別式にゆく(略)鎌倉駅で益子に会ひ山内の家をみる バスで大船にゆくP313
*告別式場は鎌倉市民座で

 3月10日(月)
どしゃぶりの雨に目をさます 家の登記を森してくれる 益子金をもつてゆく(略)夕食 茶めし 大根の煮付け ひれ酒 森夕めしののち帰る

 4月1日(火)
午後十一時 すべての<お茶漬の味>脱稿する

 4月6日(日)
月ヶ瀬に荷物一部運ぶ 大船からバスで山内の家に兄とゆく(略)

 4月19日(土)
(略)信三と北鎌倉の家をみにゆく チュリップ 山吹が美しい バスで大船に出て月ヶ瀬 茅ヶ崎泊
*茅ヶ崎泊=昭和12年より脚本家野田高梧らと脚本執筆の場として使用した茅ヶ崎海岸近くの常宿・茅ヶ崎館(現在も営業中)
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旅館茅ヶ崎館 北側の正面玄関 (右写真)茅ヶ崎館の海岸口

 5月2日(金)
引越 *鎌倉市山ノ内1445番
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この路地に折れると小津の新居だが そこには人一人が通れる隧道がある 中央部が突起状(隧道内の水捌けのため)に掘られている この位置から奥は私有地(普段は細竹を渡して無断立入りを拒否している 住居侵入した上に写真撮影してネット公開している人がいる しかも小倉家の玄関を) この鎌倉らしい隧道を眺めていると大柄な小津監督が腰を屈めて足早にくぐり抜ける姿が思い浮かぶ
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隧道を抜けた先の山ノ内1445番の地図を作成 くぐり抜けて左側にある細い坂道を左カーブで上った先が小津安二郎と母あさゑさんが暮らした家です

 5月15日(木)
この日 山内にて初めて蝉(せみ)なく

 5月23日(金)
あさゑ誕生日 満七十七

参考
「全日記 小津安二郎」フィルムアート社1993年刊
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2014年01月31日

鎌倉 鶴岡八幡宮 源実朝暗殺 「愚管抄」慈円より

1219年(建保7年・己卯)1月27日夜、鎌倉幕府第3代将軍源実朝(頼朝の4男)は、鶴岡八幡宮での奉幣(右大臣拝賀)を終えて本殿前の石段を下り降りた付近にて、京よりの公卿5人(大納言坊門忠信・中納言西園寺實氏・宰相中将藤原国通・正三位平光盛・刑部卿三位難波宗長)が居並ぶ前で、突然躍り出た法師の形相をした第2代将軍頼家の子・公暁(くぎょう・19歳)に斬殺される。最初の一太刀で首を落とされ絶命している。
この惨劇を記録した「愚管抄」(作者は摂政関白藤原忠通の子・慈円)は、事件の翌年(承久2年)に成立している。恐らく参列していた公卿らが帰京した直後に慈円は目撃談を聞いているのだろう。落命した源実朝は28歳(満26歳)であった。公卿に持ち去られた首は、すぐには発見できなかったために、胴体のみ(鬢髪1本を添えて)が勝長寿院(しょうちょうじゅいん=雪ノ下4-6-20に石碑のみ)に葬られる(「吾妻鏡」)。だが「愚管抄」には<<実朝が頸は岡山の雪の中より求め出たりけり>>とあり、時を置かずに発見されている。源義朝邸跡に建立された寿福寺の裏山墓域の崖下に掘られた「やぐら」に、母である北条政子の墓と並んで実朝の「墓」(供養塔)が残されている。
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(写真)本殿石段(61段)下付近で、将軍実朝は公暁に襲われ落命した。現場付近の神木「大銀杏」(高さ30m)は、2010年3月10日未明に強風のため倒れ、根幹のみが残されている。

慈円「愚管抄」巻第六より抜粋。
<<サテ京へハノボラデ(実朝は京に上らず)、コノ大将ノ拝賀ヲモ関東鎌倉ニイハイマイラセタルニ、大臣ノ拝賀又イミジクモテナシ、建保七年正月廿八日甲午トゲトテ、京ヨリ公卿(くぎょう)五人檳榔(びんろう)ノ車グシツゝクダリ集リケリ。五人ハ、
 大納言忠信 内大臣信消息。
 中納言實氏 東宮大夫公経息。
 宰相中将國通(くにみち) 故泰通(やすみち)大納言息(*二男) 朝政舊妻夫也。
 正三位光盛(みつもり) 頼盛大納言息。
 刑部卿三位宗長(むねなが) 蹴鞠(けまり)之料ニ本(もと)下向云々。
ユゝシクモテナシツゝ拝賀トゲケル。夜ニ入テ奉幣(ほうへい)終テ、寶前(ほうぜん)ノ石橋ヲクダリテ、扈従(こしょう)ノ公卿(くぎょう)列立シタル前ヲ揖(い)シテ、下襲尻引(したがさねのしりひき)テ笏(しゃく)モチテユキケルヲ、法師ノケウサウ(*行装)・トキン(*兜巾=ずきん))ト云物(いうもの)シタル、馳(はせ)カカリテ下ガサネノ尻ノ上ニノポリテ、カシラヲ一(いち)ノカタナニハ切(きり)テ、(実朝が)タフレケレバ、頸(くび)ヲウチヲトシテ取(とり)テケリ。
ヲイザマニ三四人ヲナジヤウナル者ノ出(いで)キテ、供ノ者ヲイチラシテ、コノ仲章(なかあき)ガ前駈(ぜんく)シテ火フリテアリケルヲ義時ゾト思(おもひ)テ、同ジク切(きり)フセテコロシテウセヌ(消える)。
義時ハ太刀(たち)ヲ持テカタハラニ有ケルヲサヘ、中門ニトヾマレトテ留メテケリ。
大方(おおかた)用心セズサ云(いふ)バカリナシ。皆蛛ノ子(くものこ)ヲ散スガゴトクニ、公卿モ何モニゲニケリ。カシコク光盛ハコレヘハコデ、鳥居ニモウケテアリケレバ、ワガ(*檳榔の)毛車ニノリテカヘリニケリ。ミナ散々(ちりぢり)ニチリテ、鳥居ノ外ナル數萬(の)武士コレヲシラズ。
此法師(*実朝を殺した公暁)ハ、頼家ガ子ヲ其(その)八幡ノ別當(*鎌倉八幡宮は当時、宮寺)ニナシテヲキタリケルガ、日ゴロヲモイモチテ、今日カゝル本意ヲトゲテケリ。一ノ刀(いちのかたな)ノ時、「ヲヤノ敵(かたき)ハカタウツゾ」ト云ケル、公卿ドモアザヤカニ皆聞(きき)ケリ。カクシチラ(シ)テ一ノ郎等トヲボシキ義村三浦左衛門卜云者ノモトヘ、「ワレカタシツ。今ハ我コソハ大将軍ヨ。ソレヘユカン」ト云タリケレバ、コノ由(よし)ヲ義時二云テ(*義村が義時に連絡)、ヤガテ一人(*公暁は一人で実朝の首を持ち義村の所へ赴いた)、コノ實朝ガ頸ヲ持タリケルニヤ、大雪ニテ雪ノツモリタル中ニ、岡山ノ有ケルヲコヱテ、義村ガモトヘキケル道ニ人ヲヤリテ打テケリ(*義村が家来を遣わし公暁を討たせた)。
トミニウタレズシテ(*公暁はすぐに討たれることなく)切チラシ切チラシニゲテ、義村ガ家ノハタ板(*板塀)ノモトマデキテ、ハタ板ヲコヘテイラントシケル所ニテウチトリテケリ。猶へ頼朝ユゝシカリケル(ひととおりでない)将軍カナ。ソレガムマゴ(*孫)ニテ、カゝル事シタル。武士ノ心ギハカゝル者出(いで)キ。又ヲロカニ用心(*警戒)ナクテ、文(ぶん)ノ方アリケル實朝ハ、又大臣ノ大将ケガシテケリ(名誉を傷つけた)。又跡モナクウセヌルナリケリ。
實朝ガ頸ハ岡山ノ雪ノ中ヨリモトメ出タリケリ。日頃ワカ宮(*鶴岳若宮)トゾコノ祀ハ云ナチイタリケル、其止遼二房(*公暁の居所)ツタリテ居タリケルヘヨセテ、同意シタル者共ヲバ皆ウチテケリ。又焼ハライテケリ。カゝル夢ノ又出キテ(*頼朝・良経の急死に続いてまたの意)、二月二日ノツトメテ(早朝)京へ申テ聞ヘキ。>>

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(左写真)本宮(上宮)から舞殿(まいどの)を望む。右側の樹木はかっての「大銀杏」。 (右写真)舞殿(下拝殿)  
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実朝を討ち取った公暁だが、大雪のなか首を携えて下北谷の備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)の坊に戻る途中で(「吾妻鏡」)、まもなく落命する。<われかくしつ、今は我こそは大将軍よ、それへゆかん><義村がもとへゆきける道に人をやりて打てけり>(「愚管抄」)。「義村」とは頼朝以来の幕府の重鎮である三浦左衛門義村(1239年12月死去)のことで、執権・北条義時(実朝に同行していたが中門で待機しており難を免れた)に公暁からの使いがあった由を報告している。北条義時(北条政子の弟)は評定にてただちに公暁誅殺の命を発する。公暁は義村の館に向かう途中で、逆に義村から差し向けられた討手と遭遇する。奮戦するが義村の館の塀を乗り越えようとした所で討ち取られてしまう。鶴岡八幡宮寺の別当・公暁の単独の仕業とする史料もあるが、「愚管抄」には<をいざまに三四人をなじやうなる者の出きて、供の者をいちらしてこの仲章が前駆して火ふりて有けるを義時ぞと思て、をなじく切ふせてころしてうせぬ>と「3・4人同じような者」が出てきたとある。八幡宮寺の史料には、公暁に与力したとして数人が処せられている記録が残っているという(「吾妻鏡の謎」2009年刊より)。 *建保7年は4月12日に承久に改元
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(左写真)寿福寺の実朝の供養塔。向かって左側に北条政子の墓が並んでいる。(右写真)かっての大銀杏。倒壊直後に幹(高さ約3.6m)がすぐ西側に再生移植された。

参考 
「愚管抄」岩波書店1967年刊
「全訳吾妻鏡」全5巻の巻3 新人物往来社
「吾妻鏡の謎」吉川弘文館2009年刊
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2014年01月18日

鎌倉 釈迦堂ヶ谷 「澁澤龍彦との日々」から

<<桜も散った春の一日、逗子の友人宅からハイランドを通って、「黄金やぐら」「日月やぐら」「唐糸やぐら」などをめぐり、釈迦堂切通しを経て帰ってきたこともありました。>>
  澁澤龍子「澁澤龍彦との日々」の一節より抜粋。

8年を費やし、最高裁まで争われた「サド裁判」の主役・澁澤龍彦が、北鎌倉に新居を構えたのは1966年(昭和41年)の8月であった。その後、前夫人との離婚を経て、1969年(昭和44年)11月24日に前川龍子と再婚をはたした。逗子の友人宅から、北鎌倉の山ノ内の自宅までの長い道程を歩いたのは、それゆえ1970年以降の春ということになる。澁澤は、1969年10月の「サド裁判」の終結後は、たまの国内外旅行に足を運ぶ以外は、北鎌倉の自宅に閉じこもる生活を送っていた。機会を見付けては、鎌倉市街を取り囲む山々を夫人を伴い巡り歩くこともあったようだ。
逗子方面から大町6丁目を通り、北側の浄明寺1丁目に抜ける途中に忽然とあらわれる切通しが、鎌倉でも最大規模の「釈迦堂切通し」だ。深閑とした山間に人の声はなく、時たま鳥の囀りが聞こえるだけ。澁澤と夫人が仰ぎ見た「釈迦堂切通し」は、今も変わらずその姿を保っている。(澁澤夫妻が歩いた年月日は不明、道路の舗装は当時とは変わっているはず)
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浄明寺側から沢状の未舗装道を上ると、右カーブの先に突然あらわれる素掘りの隧道。そのスケールの大きさにおもわず立ちすくむ。 (右写真)大町側には通行止めの表示板が置かれている。 2013年現在、完全に通行禁止の柵が設置されているようだ。撮影は2009年10月。
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杉本観音(杉本寺)から滑川を越え、釈迦堂(浄明寺)方向に進むと、左写真の説明板が置かれている。右写真は説明板の場所から釈迦堂切通しへの細い砂利道。
参考
「澁澤龍彦 新潮日本文学アルバム」1993年刊
「澁澤龍彦との日々」澁澤龍子(りゅうこ)2005年刊
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2013年12月26日

鎌倉 西口広場 ウォーナー記念碑

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JR鎌倉駅西改札口を出て右方向すぐにある時計塔が目印の小さな三角形の公園。(右写真)旧駅舎改修にともなって廃棄されずに広場に保存された時計塔。
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時計塔の傍らに建つランドン・ウォーナー(LANGDON WARNER)の御影石の記念碑。ブロンズのレリーフの下側に「文化は戦争に優先する」・・鎌倉の歴史的建造物を戦禍から救ったのはウォーナー博士の主張の成果であるなどと賛辞の文字が連なっている。1987年4月10日に除幕式が行われた。

鎌倉は実際、ほとんど本格的空襲を受けることなく無条件降伏の日を迎えている。昭和20年5月23日夜、十二所(じゅうにそ)にB29による焼夷弾攻撃を受けた記録が残るぐらいで、あとは海岸線で空母搭載の戦闘機による市民に対する機銃掃射がおこなわれた程度の被害で戦争は終結している。日本の古都(京都・奈良・鎌倉)が米軍の攻撃目標から除外されたのは、戦前日本に二度にわたり来日し日本美術を学び研究した東洋美術史家ランドン・ウォーナー博士による米軍への提言(空爆目標回避のウォーナーリスト)であったとする新聞記事(終戦直後11月の朝日新聞掲載の談話)が掲載されてからは、日本の文化遺産を守った恩人として認知され定着してきた。鎌倉の記念碑建立に先立って(鎌倉は6番目)、1958年6月に最初となるウォーナー博士の供養塔・顕彰碑が法隆寺に建てられている。ウォーナー博士が、1955年(昭和30年)6月9日に73才で死去すると、奈良県議会は弔文(ちょうぶん)決議を採択し、政府は叙勲(勲二等瑞宝章)を決めている。鎌倉では1ヶ月後に、北鎌倉の円覚寺で追悼法要が営まれている。
1994年7月に、歴史研究家・吉田守男(京都大学卒・元大阪樟蔭女大教授)の「ウォーナー伝説批判」(「日本史研究」誌)が発表されるに及び、それまでの「定説」に疑問符が打たれ始める。さらに文化財保護に複数の貢献者の存在も浮上し、現在まで、過去の「定説」はあいまいな状態のままとなっている。ウォーナーリストに記載され保護されるべき文化財は、空襲により数多く被災している(名古屋城・皇居・増上寺・浅草寺・大坂城・岡山城等々)。また、奈良・鎌倉が大規模空襲から免れたのは、単に小規模都市という理由から爆撃リストの順位が後ろに回され、攻撃を受ける前に戦争が終結したためと結論されている。
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「京都は文化財保護のため空襲されなかった」という幻想は、現在では打ち消され 原爆投下候補地だったことが知れ渡っている。大規模な空襲が計画されなかったのは「原爆投下で一挙に壊滅」するためである。それでも京都中心部は散発的に4地点で空襲を受け、犠牲者を出している。聚楽第跡にあり、観光客も訪れる老舗「山中油店」のショーウィンドーには、その時の大きな爆弾の破片が展示されている。 (左写真)爆心地になるはずであった梅小路機関車庫(現在は梅小路運転区)の転車台(機関車を回転する装置)。目視標的として上空から見ると、まさに「的(まと)」そのもの。 (右写真)JR鎌倉駅ホーム。ホームの向うの樹木がある所が西口広場。

西口広場には以前、京都の老舗「平野屋」の系列割烹旅館が建っていて、1923年(大正12年)夏、岡本一平・かの子・太郎の一家(画家・岡本太郎の子供時代)が避暑のため長期滞在していた。この旅館を贔屓にしていた芥川龍之介の狂気にまつわるエピソードが、岡本かの子の「鶴は病みき」に書き残されている。芥川は、小人(こびと)がうじゃうじゃいると炎天下の庭の蟻(あり)を殺しながら、庭に藤の花や山吹が咲いているのを眺め、「これはただ事ではない、天地異変が起こる」と関東大震災を予言して東京に帰ってしまった。9月1日、鎌倉駅のホームで東京行の12時発の横須賀線の列車を待っていた岡本かの子は、ホームごと突き上げられる巨大地震を(上右写真)の場所で経験することになる。

 参考 「かまくら今昔抄60話 第二集」冬花社2009年刊 その他 
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2013年10月29日

鎌倉 作家大佛次郎旧邸と別邸(大佛茶廊)

横浜市英町1丁目(現・中区英町8番地)生まれの野尻清彦(大佛次郎本名)が鎌倉に住み始めるのは、1921年(大正10年)から。同年2月に東京帝国大学法学部在学中に学生結婚(女優の原田登里と)し、6月に帝大を卒業すると鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院)の国語・歴史・作文担当の非常勤教師になる。最初の住居となったのが鎌倉大仏の裏の貸別荘。以降、由比ガ浜から長谷にかけての借家に居住し、震災後は元の大仏裏に戻ったり、材木座に移ったり、めまぐるしい引越しを繰り返す。
その間、大正12年3月付けで鎌倉高女を退職し、雑誌の原稿書きや翻訳読物の出稿で生計をたててゆく。震災直後に書いた小説(「隼の源次」)に思いつきで付けたペンエームが「大佛次郎」。引越し同様にペンエームもめまぐるしく多彩につけかえてゆく。代表出世作「怪傑鞍馬天狗」をはじめとする111作品で使用した筆名は18種に及んでいる。
そして大正13年に京都の日活撮影所で映画「鞍馬天狗」(主演・尾上松之助)の撮影がクランクイン。1927年(昭和2年)3月、「少年倶楽部」に「少年の為の鞍馬天狗 角兵衛獅子」を連載開始(昭和3年5月まで)。同年5月から東京日日新聞に「赤穂浪士」の連載が始まる。大佛次郎は、その作家生活(全て在鎌倉)で休むことなく新聞小説を発表し続けてゆく。その数は61篇。そして嵐寛十郎主演で映画「鞍馬天狗」決定版シリーズが公開されるに及び、不動の人気作家の地位を我がものとする。
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1929年(昭和4年)4月に鎌倉市雪ノ下428番地に新居を建設し移る。めまぐるしい転居生活はここに終止符を打つ。正面が野尻清彦(=大佛次郎)本邸。
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細路地をはさんで北側が後年に購入した別邸。板を交互に張る大和塀の内側には庭園が作られている。
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1952年(昭和27年)に購入した別邸の門と本名「野尻」の表札。南面に広がる庭を臨む茅葺(かやぶき)木造平屋建ての家は、関東大震災前の築造(1920年大正9年)。
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門に向かって右側に鎌倉在住の作家・里見ク(とん)の直筆の表札(平仮名四文字)が掲げられている。内部は「大佛茶廊」として週末(土・日曜)に一般公開中。
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新婚時代の大佛次郎が教師を務めた鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院)の若宮大路側の正門。
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源頼朝の父・義朝の館があった地に1200年(正治2年)に頼朝夫人政子が建てた臨済宗建長寺派の寿福金剛禅寺(寿福寺)。その墓域に両親とともに眠る大佛次郎。命日は1973年(昭和48年)4月30日。享年75歳。告別式は寿福寺で5月3日に執り行われた。 
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1927年(昭和2年)5月東京日日新聞に「赤穂浪士」を連載開始(昭和3年11月まで)。1942年(昭和17年)1月〜6月 新聞小説「阿片戦争」を東京日日新聞に連載。 
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2013年10月28日

鎌倉 生御菓子処 美鈴

小町大路から宝戒寺の塀に沿った細路地を入ると、右手に1972年(昭和47年)創業の「上生菓子処 美鈴」の白壁が見える。大きな敷石が店へと導くように玄関まで続いている。要予約の案内があるため歩みが止まりかかるが、白暖簾をくぐれば、そこには美しい季節の銘が冠せられた生菓子が待っている。
店内に入ると受付台があるだけで、ショウケースのようなものは見当たらない。すぐに奥から店主(女性)が現れて、まずは来店の挨拶。この日は店頭販売可能な菓子があるとのことで、受付台の横に置かれた鎌倉彫の菓子箱の蓋を開けてくれる。
 鎌倉市小町3-3-13
 営業時間 9時〜18時
 定休日 火曜
「美鈴」から徒歩数分のところに作家・大沸次郎の別邸(大正8年築)があり、現在は「大沸茶廊」(おさらぎさろう)として週末限定で一般公開している。そこで抹茶を注文すると、「美鈴」の生菓子が付いてくる。
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左側が宝戒寺の土塀。右側の自転車が置かれているところが「美鈴」の入り口。
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三つの鈴が彫られた鎌倉彫の菓子箱。
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購入月は9月(2009年)、ストレートに季節感を表す「葡萄」
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予約電話番号は上の案内を参照
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2013年09月25日

鎌倉 桜田門外ノ変 広木松之介の顕彰墓碑

1860年(安政7年)3月3日に江戸城・桜田門外で大老・井伊直弼が襲われ殺害された事件の後日譚。
襲撃した水戸・薩摩浪士18名(水戸17名・薩摩1名)の内、桜田門前に上屋敷を構える松平中務大輔邸の塀際で待ち構えた8名(左翼隊=彦根藩の行列に対して。薩摩の有村や短銃所持の黒沢の隊)の組に配された広木松之介は、襲撃指図者の関鉄之介ら15名が次々と生命を絶ってゆく中、現場から逃亡に成功し、長期間にわたり行方不明となった3名の内の一人であった。
襲撃直後の捜索網から逃れ出た広木松之介(水戸藩・評定所官吏だった)は、水戸の生家に一旦は立ち寄ったものの、すぐさま離脱。以降は行方知れずに。
翌年(文久元年)の12月になって、広木が能登で捕縛との報が江戸に届く。日本橋・伝馬町の牢屋敷に護送されたのだが、吟味を受ける間もなく、絶食のため衰弱死。だが後日になって、獄死したのは別人であることが判明する(広木の印形を持つ水戸訛りの水戸藩領の郷士・後藤哲之介であった)。広木は僧形を装って新潟に潜行した折に、新潟で後藤と出会い意気投合。素性を明かした上で逃走資金の提供を受け、その謝礼として印形(いんぎょう=はんこ)を渡していたのだ。
その後、広木は諸国(加賀国などに潜伏)を巡って相模国鎌倉の上行寺に寄食。この寺で同志の多くが死亡していることを知り絶望する。桜田門外ノ変の2年後(文久2年)の3月3日夜、襲撃の日を選んで上行寺(境内南側付近)で割腹自決をして果てる。享年25歳。
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上行寺の山門。鎌倉市大町2-8-17。撮影は2009年9月。
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(左写真)大正5年の刻印が読める。明治35年になり維新の功績により正五位が贈与。大正5年に上行寺の住職により墓碑建立。 (右写真)3月3日の文字が読める。
*広木松之介の墓は水戸・妙雲寺にある。又、顕彰碑・子孫の名入り卒塔婆(そとうば)には「松之助」と「助」の字があてられているが、「介」に統一した。
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上行寺境内と寺宝の左甚五郎の彫刻(排気ガスや埃をかぶる県道311号沿い)
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     桜田門外ノ変の略図(赤丸=左翼隊予想位置)   鎌倉・上行寺の周辺図

 参考 「桜田門外ノ変」(上・下)吉村昭 新潮文庫
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2013年01月29日

鎌倉 映画館 テアトル鎌倉跡

江ノ電・鎌倉駅の改札口を背にして左斜め前のビルの場所には以前、1954年にオープンした「テアトル鎌倉」という映画館があった。「テアトル鎌倉」閉鎖(1988年)後は、マンション(アルス鎌倉御成町)に建替えられている。
10代後半の頃、御成通りの入り口にあったこの映画館の前で記念に撮った友人との写真(モノクロネガからプリントしトリミング)が下の画像。19歳の頃、この友人と鎌倉から腰越にかけて多くの日々を共にしていた。江ノ電・鎌倉高校前駅の近くにその友人(三田の某大学)が、漁師の離れ(的確に表現すれば物置小屋)を借りていたため、新宿で遊んでは最終電車に乗って泊りに行っていたのだ。新宿のジャズ喫茶で知り合った女(千葉・松戸に住んでた予備校生由利ちゃん)を連れて、夜の海で騒いでいたのを今でも思い出す。
さらに記憶に鮮明に残るのが腰越の江ノ電が走る通りにあった質屋(現在は閉店)。LP盤(レコード)を持ち込んでは翌日の通学の電車賃を作りにいっていた。2人ともめっちゃ貧乏学生だったのだ。
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館名のデザインが・・テの字の横棒をわざわざ上側にはみ出させている。
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更地となった「テアトル鎌倉」敷地にはマンションが建てられている。
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2012年11月30日

鎌倉 漫画家横山隆一旧居跡 「鎌倉通信」より

1937年(昭和12年)より戦中戦後を過した鎌倉市大町の家から、1949年(昭和24年)10月、小町215番地に転居した(現、御成町15−11)。  
横山隆一のエッセイ集「鎌倉通信」1995年高知新聞社刊より、御成町の自宅を描写した部分を抜萃。
<<私の家の門は風変わりな鉄門である。喜怒哀楽の表情を描いて、それをもとにして鉄工所で作ってもらった。もう四十年になるが、まだまだ使えそうだ。変わった門だから、個人の住居とは見えないようである。したがって、はじめて訪ねて來る人はまごつくことが多いとみえる。家の前の公衆電話から私の家を教えてくれと電話してくる人もあった。私の家の前に居ることに気がつかないのである。
「あなたはどこから電話していますか」と聞くと、
「鎌倉市役所前の電話ボックスです」
私がガラス戸を開けると、二十メートル程離れた電話ボックスから電話しているお客のすがたが見えた。(略)>>
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(写真)横山隆一旧居跡(現在、スタバ御成町店)。右手は鎌倉市役所。

同じく「鎌倉通信」から(エッセイタイトル「大佛日記」)。
<<最近発行された、大佛(おさらぎ)次郎さんの「敗戦日記」を読んだ。昭和十九年九月から二十年十月までの記録だが、文中三十カ所に私が登場するのでびっくりした。私は二十年の六月から九月末まで疎開していたから、もし鎌倉に居たらもっと登場していただろう。私はこれまで、大佛さんにご馳走になってばかりいるのでいっぺん盛大におごってあげたいなといつも思っていたが、この文を読むと、私も私なりに大佛さんに何かしていたので、ほっとした。十九年の九月十七日に、「フクちゃんが栗を沢山くれる」と書いてある。( 略)>>

鎌倉若宮大路の東側路地奥に自宅を構えた作家大佛次郎とは親交があり、互いの家(横山は戦前は大町在住)を頻繁に行き来、大佛の日記にたびたび登場する間柄であった。
<<昭和十九年九月十七日附け *フクちゃん=横山隆一
晴れたと思うと降る。海潮の音高く風かなりあり。のびのびになりしやぶさめ今日の午後と、吉野さんが胡瓜を二本持って来てくれての話。フクちゃんが栗を沢山くれる。
門田君の催促で浦島十一枚を書く。二楽荘よりとどけ来たりしブーフ半分をあげる。(略)>>
<<昭和十九年九月十九日 晴
少国民の友の原稿を書上げたら、横浜へドンキホーテを貫いに行こうと思っていたが牛すぎ警戒警報が出る。二時に解除となったがその為原稿おくれる。又兵衛出陣、十五枚取りに来た松井と云う記者に渡す。灯火管制の訓練。田代中佐の壮行の為酉子に肴をつくらせフクちゃんの家へ行きビールの御馳走になり画集を見せて貰って待つ。>> *フクちゃんは栗以外にビールだってご馳走している。
<<昭和十九年十月九日 月 
林さん(*著名写真家、太宰治らを撮影)が来て写真を取ってくれる。板倉君が白鹿と沢之鶴を二本集めて来てくれ日本造船より別に二本とどく。出井から一本、フクちゃんから一本、賑やかなり。畑のおばさんからお赤飯二升。>> *フクちゃんは栗以外に物資不足の中、酒だって贈っている。
<<昭和十九年十二月十九日
昼の内に少年を仕上げ十八枚送る。フクちゃんが煙草の特配の件で来る。ミンドロ島の敵、既に飛行場を作り上げしと。ニュウスによると独逸(*同盟国ドイツ)が新しぺ攻勢に出ている。
○小林秀雄が上海から持って来たBlack and White日本金で四万円すると。里見ク、「つまり小林と僕で二万ずつ飲んだわけになるがね。」と笑う>>
<<昭和二十年正月二日 *フクちゃん=隆ちゃん  
 朝日出版局より乞食大将の件で小林秀二郎と云う入来る。新聞二回書き送る。名越篠崎のところへ見舞に行き、胃の薬置き、隆ちゃんの家へ顔を出す。帰途吉野宅へ寄ると橋本小池酔いている。>>
<<昭和二十年二月十四日
新女宛神山君が連載小説の件で来たり。横山隆一玉川一郎が日没近く加わる、これと東宝桂青年を加え二楽荘へ行きビールを飲み談ず。玉川君の話がいろいろと可笑しい。神崎武雄が乗っていた乙巡は沈んだらしいという。気の毒である。>>
<<昭和二十年三月八日
○フクチャンのお母さんの家は洗面所に水道を出し放しで受けてあった盥(たらい)に焼夷弾が屋根を貫き落ちた。その為発火しなかったが吃驚して急に疎開と決定。フクちゃんの家らしい話である。>>
<<昭和二十年四月二十七日 晴。
十一時近い汽車でフクちゃんと東京へ行く。上野の精養軒で週刊少国民が募集した敵機のあだ名の撰をするのである。(略)>>
<<昭和二十年 五月五日
船橋小川女来たる。午後、茶室のたたみ上げ床下をほる。横山隆一君が亀田さんとこの初節句に画を描いてとどけてくれる。きょうは照国が戦勝祈願の土俵入りを八幡社頭でやるとかで賑っているらしい。子供たちの鼓笛隊も通る。>>
<<昭和二十年八月六日  
横山隆一君の妻君疎開先信州で二日急逝、子女四人あり。くやみを出す。気の毒である。
〔関東軍の精鋭は本土作戦にそなえ機械化部隊など栃木県に来ている。〕>> 等々。

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(写真)横山隆一が1959年(昭和34年)に庭に造ったプール。
プール秘話。横山が戦時中に文芸春秋社代理部で購入したスポーツサイクル(自転車)をプール造成工事の際、鉄筋の代りにとコンクリート積めにして底部分に埋めてしまった。いつかこのプールが解体される日がきたならば、横山が鎌倉じゅうを走り回ったこの遺物を回収し、高知市の「横山隆一記念まんが館」に寄贈しなければならない。
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(写真)横山隆一が自宅から眺めただろう景色。現在のスタバのデッキフロアから。
以上3枚はアナログ携帯カメラで2009年9月に撮影。まだスタバ内にチャヤの売店があった頃。

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(写真)1936年(昭和11年)10月1日、東京朝日新聞朝刊に連載開始された「養子のフクちゃん」第1回。

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(写真)没直後の2002年4月7日に開館した高知市九反田の「横山隆一記念まんが館」が入るビルの夕景。すでに閉館時間が迫り入館を諦めた。
横山隆一記念まんが館http://www.kfca.jp/mangakan/
  最寄り駅 市電菜園場町駅(土佐電鉄)
横山隆一は、記念まんが館を見ることなく2001年11月8日、脳梗塞のため鎌倉市内の湘南鎌倉総合病院で死去(享年92)。

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(見取り図)自宅東側に隣接する「おとぎプロ」は、横山隆一が1956年(昭和31年)に立ち上げたアニメーション制作会社。現在、横山隆一旧居跡(御成町15-11)には、スターバックス鎌倉御成町店(横山隆一没後4年目にオープン)の斬新な店舗が建ち営業中。 http://www.starbucks.co.jp/store/search/detail.php?id=624&mode=conceptindex.html

参考 「鎌倉通信」横山隆一1995年高知新聞社刊
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2011年11月08日

北鎌倉 横須賀線北鎌倉駅ホーム改札のこと 高見順日記より 

横須賀線北鎌倉駅は南端に駅舎(改札口)が設置されており、北側(大船駅側)には臨時改札さえもなく、ホーム端には立入禁止の表示板と厳重な鉄格子が設けられている。
ホーム北側の権兵衛踏切付近に自宅を構えていた作家高見順は、遠回りを強いる(北側改札があればホームまで約120m、現状では380mも歩かされる)「国鉄」(現在JR)に対して抗議の言葉を、彼の日記に並べたてている。

<<昭和三十五年二月十二日 北鎌倉駅ホーム改札のこと
今日、北鎌倉駅から電車に乗るとき、時間が迫っていたので、「不法闖入」をした。ここには「不法闖入」を防ぐために厳重な金アミが張ってあるのだが、誰かがそのアミを破って進入できるようにしてしまった。そこから入ったのである。ここは手をかえ品をかえ、国鉄側で進入防止の設備をするのだがダメである。有刺鉄線を張っても、かならず誰かが取ってしまう。というのも、大船側の乗客は、大変な遠廻わりをしなくてはならないからだ。不便きわまりないからだ。
大船側にもひとつ改札口を作ってくれると助かるのだが、せめて便宜的にでも駅員がひとり立っていてくれると便利なのだが、だから、かつて、われわれ乗客有志の間で、自分たちが毎月金を集めて駅員の手当を出すから、便宜をはかってくれと申し入れをしたこともあるのだが、国鉄の「規則」のため、それが実現されない。>>
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(写真)北鎌倉駅ホーム北端近くにある歩行者専用小踏切から南方向を見る。
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(写真)北鎌倉駅ホーム北端の防御柵。高見順宅は、ここに改札があるなら120mと至近なのだ。

<<私たちの不便は(特に毎日、定期券で通っている人たちの不便は)大変なものである。駅員ひとり、大船側に置いてくれると、どのくらい助かるか分らない人が多数いるのだが、「規則」のためダメである。そして「不法闖入」を防ぐためには、たくさんの金を使って、幾度もいろんな方法を講じている。
「国鉄」がもし独占事業でなく、競争会社がここに存在していたら、こんな不便を乗客に押しつけて、知らん顔をしているわけにはいかないのだ。>>
 「続高見順日記」第1巻・第2巻より
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(左写真)東京駒場の近代文学館創設に奔走した高見順の像(近代文学館ロビーに設置)。(右写真)JR北鎌倉駅見取り図。毎日片道260mも余分に歩かされたら文句も言いたくなる。

高見順リンク
上野不忍池 聖天宮のフェリシズム石像 高見順「都に夜のある如く」から http://zassha.seesaa.net/article/442222396.html
ラベル:そば
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2011年04月27日

鎌倉坂ノ下 萩原朔太郎 海月楼跡

詩人・萩原朔太郎は、大正5年の12月に鎌倉坂ノ下の海岸際にあった旅館を訪れ、詩集「月に吠える」の編輯を行い、翌年3月に去ってゆく。旅館の名は「海月楼」。遠い日々のことは忘れ去られ、詩的な名を冠せられた宿の存在も人々の記憶から失われている。
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鎌倉長谷の旅館「海月楼」跡。

萩原朔太郎自ら「海月楼」前後の事情を「詩壇に出た頃」で語っている。
<<(略)処女詩集「月に吠える」を出したのは、たしか僕が三十四歳の時であった。それが偶然にも、ボードレエルの「悪の華」と同年であると言って祝福してくれた人があったが、僕としては少し寂しい思いもした。と言うのは北原白秋氏や三木露風氏等が、早く既に十七歳位で詩壇に出、二十歳を越えた時に既に堂々たる大家になって居たことを考え、自分の過去の無為と非才とを悲しく反省したからだった。(略)
「月に吠える」は、しかし出ると同時に発売禁止を食ってしまった。当時僕は田舎に居たので、代りに名義人の室生君(*親友の室生犀星)が警察に呼ばれた。係りの役人の説明によると、中の二篇ほどの詩が悪く、風俗壊乱になるのだそうである。その悪い詩というのは、今から見て何でもない普通の詩で、全く馬鹿馬鹿しいようなものであるが、警察ではそれを丁寧に朗読して聞かせてくれたそうである。後で室生君の話をきくと、巡査がそれを朗読するのを聴いていると、如何にも猥褻の感じがしたと言った。しかし室生君の弁明がよかった為か、幸いにもその二篇の詩を削除することによって解禁された。ところが既に本は街の店頭に出て居るので、巡査が一々本屋を廻って、その部分の詩四頁ばかりを引き裂いて行った。そのため初版本は、その分だけ破いて落丁になって居るのである。
 この発売禁止事件は、思うにあの詩集の標題や装幀やが、当時としては甚だ奇警で珍しく、何か妙な異様のショックを役人に与えた為だと思われる。特にあの田中君や恩地君の挿画は、何か解らぬながらも直覚的に「怪しい」という予感を警官にあたえたにちがいない。そこであの詩集が挙動不審のカドで引っ張られたわけなのだが、調べて見れば別に犯罪の形跡もなく、どこと言って別に怪しい節もないので、無事に放免してしまっても好いのであるが、やはり何かそのままではすまない気がするので、無理に二篇の詩を探して叱った上、説諭放免ということになったのであろう。僕はその件を聞いた時に、てっきりこれは挿絵でやられたと直覚した。実際あの中には可成キワどいエロチックの絵が入って居た。特に田中君の描いた赤紙(それは劇薬の包紙である)の絵の中には女の××を手で××している物凄い奴があるので、これが禁止にならなかったことは、今日の常識で考えても、むしろ不思議に思われる位である。むろん係りの役人に解らなかった為であるが、何かよく解らないながらも、直覚的に「怪しい」という感じをあたえたので、その嫌疑が詩の方へ廻って来たにちがいないのだ。とにかく危ないところで禁止が助ったのはありがたかった。(略)
「月に吠える」の原稿を整理する時、僕は鎌倉の旅館海月楼に止宿して居たが、日夏耿之介君が近所に居たので親しく交際した。その原稿が書き上った時、印刷のために東京へ出て来たが、出版の嬉しさと安心とで、すっかりビアホールで酔っぱらってしまい、そのまま大事の原稿をなくしてしまった。幸い備忘のノートがあったので、改めてまた書き直して出版したが、その為室生君の序文も一緒に紛失して、二度も同君に執筆をたのむような失態を演じた。このことは「失われた原稿」という見出しで、当時方々の新聞や雑誌にゴシップされたが、今となればなつかしい思い出の一つである。(略)>>
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「特に田中君の描いた赤紙(それは劇薬の包紙である)」の「女の××を手で××している物凄い奴」と朔太郎に言わしめた詩集「月に吠える」の挿画。田中恭吉が赤い薬包紙に赤インクで描いたもの(遺作)。
(挿画は「萩原朔太郎全詩集」1979年筑摩書房より)

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大正期の朔太郎滞在当時の「海月楼」の門構えがそのまま残されているように思える。、
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門柱の表札跡を見つめていると、「海月楼」の3文字が浮かんでくる。

「近代の詩人7 萩原朔太郎」潮出版1991年刊の巻末年譜を主に参考して、「海月楼」滞在、詩集「月に吠える」初版と再版に至る経過を以下に掲げる。
 1916年(大正5年)31歳
        6月 室生犀星と「感情」創刊(通刊32冊まで)
        12月初旬 保養のため鎌倉長谷の「海月楼」に止宿
                (御所見村=現・藤沢市出身の長田氏が経営)
          前田夕暮・若山牧水が数日間の飲食・宿泊代をある時払いにしてもらったことを
          記述したため、文人らへの面倒見の良さが評判になっていた宿である。
          この前田夕暮の世話で「月に吠える」が白日社から自費出版が可能になった。
          この旅館で朔太郎は処女詩集「月に吠える」の編集(大正3年〜大正6年の詩篇)
          に入る。
          この頃、徒歩5〜6分のところの入地207番に住み、病を養っていた若き詩人日夏
          耿之介と知己になる。2ショットの写真が残っている。
         12月10日頃 詩集を印刷所に渡す為に上京。だがビアホールで酔い原稿紛失する。
          一時、前橋に帰る。
 1917年(大正6年) 32歳 
         1月 引き続き鎌倉で保養。
         2月15日 第1詩集「月に吠える」自費出版刊行。費用300円 部数500部
           出版直前に内務省警保局より内達を受け、風俗壊乱に該当するとの理由で
           詩2篇を削除する。「愛憐」「恋を恋する人」の2篇削除。
           北原白秋の12頁の序文付き。
         2月下旬 鎌倉から引き上げる。
         3月7日まで、湯島天神近くの梅屋旅館に滞在。
         3月5日に森鴎外に「月に吠える」を捧げる。
             森鴎外、岩野泡鳴らから讃辞得る。
             日本象徴詩の至高を示す詩集との評価得る。
             この頃、芥川龍之介にも詩集を送り、文通を始める。
 1922年(大正11年)
         3月23日 詩集「月に吠える」アルスより再版。削除された2篇を収める。    
 1923年(大正12年)
          第2詩集「青猫」 刊行される。

風俗壊乱に当たる嫌疑で内務省警保局より削除命令がだされた2篇(「愛憐」「恋を恋する人」)。
その内の1篇「愛憐」。
  きつと可愛いかたい歯で、草のみどりをかみしめる女よ、
  女よ、このうす青い草のいんきで、まんべんなくお前の顔をいろどつて、
  おまへの情慾をたかぷらしめ、しげる草むらでこつそりあそばう、
  みたまへ、ここにはつりがね草がくびをふり、あそこではりんだうの手がしなしなと動いてゐる、
  ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、お前はお前でカいつぱいに
  私のからだを押へつける、
  さうしてこの人氣のない野原の中で、わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、
  ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、
  おまへの美しい皮膚の上に、い草の葉の汁をぬりつけてやる。
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イメージ写真。緑の絵の具を女の身体に薄く濃く塗りたくって、鮮烈で透明でエロティックな写真を
撮りたかったが、「嫌!」ときつく拒否。あえなくこの写真だけになった。

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写真の路地の左後ろに「海月楼」。大正時代はここまで砂浜が広がり、波打ち際に青白い月光に浮かび
上がる「海月楼」が視れたことだろう。

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鎌倉市の昭和36年版住宅地図を調べてみると、写真の住居位置は旅館経営者だった「長田」さんの名が記入されているのみで「海月楼」の名称は消えている。それ以前の詳細住宅地図は手に入らなかったため、何時まで旅館営業が行われていたかは不明。 

「月に吠える」について、朔太郎に寄り添い、師とも仰ぐ詩人三好達治が「放下箸」で讃を寄せている。
<<「月に吠える」は暗鬱な詩集である。この詩集の思想には、何の希望も救済も見出せないし、そのスタ
イル自身が総崩れに崩れかかるような具合であつてそれは決して何の建築意志をも暗示するものではない。事実「月に吠える」はその後の三十余年、今日まで四十年近くを経た間に、無数の模倣者を生むには生んだが、それにも拘らずその発展としての産物を詩壇に何ものもいっさい生み出しはしなかつた。
有明が白秋露風を生み、白秋が朔太郎犀星を生んだような具合には、それは何ものも生み出しはしないところの完全なる行きどまりであつた。それはその先にもう降り坂をしかもたないところの一つの頂点であって、その意味で特異な奇異な−というのはまた三文の役にもたたないところの不思議な魅力をもっていた。それはいわば無償の行為の具現、詩人のニヒリズムの塊りのような但し一顆の美味な作品であつた。>>
 「三好達治 作家の自伝」1999年日本図書センター刊より抜粋。

萩原朔太郎リンク
乃木坂 萩原朔太郎の「乃木坂倶樂部」http://zassha.seesaa.net/article/381746442.html
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2011年04月06日

鎌倉山ノ内 澁澤龍彥終焉の地

澁澤龍彥は、「古寺巡礼 東国3 建長寺」(淡交社)に寄せたエッセイ「建長寺 あれこれ」で自宅周辺の歴史と環境を綴り、住所まで書きとめている。。
<<現在、私の家の住所は正しくいうと、鎌倉市山ノ内字管領屋敷三一一番である。管領屋敷という名が示すごとく、このあたりはもと関東管領山ノ内上杉家の邸だったところで、初代の上杉民部大輔憲顕以来、山ノ内上杉家は代々ここに居宅していたという。明月院のすぐ近くで、アジサイの咲くころは観光客が押しかけてきて大いに閉口するが、さすがに鎌倉・室町の高級武士の住んでいたところらしく、普段はまことに閑静ないいところである。(略)>>
 「古寺巡礼 東国3 建長寺」淡交社1981年刊より抜粋。
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(写真)明月院に至る道。澁澤龍彥邸は左に入り、細い径を昇り詰めた行止まりにある。

また、「初音がつづる鎌倉の四季」と題したエッセイで、自邸を取巻く自然にも視線をおくっている。 
<<北鎌倉の円覚寺につづく山の中腹に住んでいるので、四季を分かず、鳥の声や虫の声を耳にする。若いうちは、そんなものに注意をはらう余裕とてなかったが、だんだん齢をかさねてくるとともに、しみじみした思いで耳をかたむけることが多くなった。私は手帳に、ウグイスやトラツグミやホトトギスや、あるいはヒグラシやミンミンゼミの声を初めて聞いた日を、忘れずに書きとめておくことにしている。しかしこれもいいかげんで、ついメモするのを忘れてしまうことも多いから、手帳を見ても当てにならない。第一、私はバードウォッチングなどにはまるで緑のない人間で、鳥の声を聞いても、何の鳥かさっばり分らないのが大部分だから、メモするといっても、たまたま自分の知っている鳴き声に気がついたときだけのことである。要するに気まぐれなメモなのだ。(略)>>
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<<書斎のガラス戸をあけると、正面になだらかな稜線を描いてつらなる、東慶寺や浄智寺の裏山が見える。季節の移りかわりがはっきりと感じられるのは、この山の色がたえず変化しているのを目にするときだ。いまは樹々の緑のあいだに、薄紅色をした桜の蕾(つぼみ)のふくらんでいるのが分る。もう数日もすれば咲き出すにちがいない。雪が降れば降ったで、桜が咲けば咲いたで、また新緑が陽に映えれぼ映えたで、山の色にはそれぞれに味わい深いものがある。私はそれを毎日、書斎から眺めて暮らしている。私の住んでいる土地はかつて北条氏の邸のあったところだが、ここから見えるあの山のかたち、あの山の色は、おそらく鎌倉時代から少しも変っていないのではないかと思うと、なんとなく愉快になる。>>
  「初音がつづる鎌倉の四季」日経新聞1986年4月17日初出。
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(写真)「北鎌倉の円覚寺につづく山の中腹」に建てられた薄緑色の澁澤邸(上下写真とも澁澤邸)。

澁澤龍彥は、鎌倉の実家から出版社(新潮社「藝術新潮」編集部)に通勤していた前川龍子さんと、原稿の受け渡しを通して、1967年に初めて対面する。1969年春ぐらいから親密度が増し、1969年11月24日結婚する(澁澤は再婚)。式・披露宴もなく、両家が鎌倉長谷の華正樓に集まり食事をしただけであったという。澁澤龍彥41歳、龍子さん29歳であった。
<<澁澤龍彥との結婚生活は十八年、彼が逝ってからすでに二十年あまり。今、彼がすり減っても替えずにいた椅子に坐り、生前そのままに、削りかすの入った鉛筆削りやボロボロになるまで使い込んだフランス語の辞典などが置かれた机に向かい、書斎に佇(たたず)む四谷シモンの人形や応接間に置かれたオブジェのあれこれを見渡すと、木の実や貝殻や石を夢中になって拾っていた姿を懐かしく思い出します。澁澤は、海岸に行くと貝や流木や石などを必ず拾って帰りました。拾わずにはいられず、たまに手ぶらで帰るときはがっかりしていました。この家には金目のもの、価値のあるものはありません。いわゆるコレクターではなく、たとえば大きなダイヤモンドと比べて貝殻の方が綺麗、形が面白いと思えば迷わず貝殻の方を取る、という人でした。どこへ行っても古本屋さんには必ず入りましたが、骨董屋さんを覗くことはなく石屋さんや雑貨屋さんに立ち寄って、たとえば、かぼちゃの水筒やブリキのブローチを面白いと思って買う、そういう感じです。(略)>>
  澁澤龍子「ドラコニア・ワールドに遊ぶ少年」より。2010年集英社刊。

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(写真)澁澤龍彥は、下咽頭腫瘍の治療のため入院中の東京慈恵医科大学病院で頸動脈瘤破裂により、1987年8月5日午後3時30分過ぎに逝去。北鎌倉の東慶寺にて葬儀。山ノ内の自宅が山門から望められる臨済宗浄智寺に葬られた。
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(写真)浄智寺裏山の墓域奥深い高所に澁澤龍彥は眠っている。墓からは山ノ内の家は見えない。
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(写真)墓碑に刻まれた文字は、澁澤龍彥 文光院彩雲道龍居士、昭和六十ニ年八月五日、行年59才、
そして一文字下げた隣りに、妻龍子(朱は入っていない)。撮影2011年1月。
*龍彥の「彥」は、彦ではない。

参考 「澁澤龍彥との日々」澁澤龍子2005年白水社刊
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2010年12月08日

鎌倉 川端康成・高見順らの貸本屋鎌倉文庫跡

昭和20年4月5日に鎌倉在住の作家、川端康成・小林秀雄・高見順・中山義秀が久米正雄宅に集まり、戦争末期の状況下での収入の道を模索する会合がもたれた。
鎌倉ペンクラブのメンバーが協力できて、作家らにふさわしい事業ということで、各々の蔵書を持ち出して、それを貸し出す貸本屋を開業することに決定した。貸本店の場所は、川端康成夫人の知人の紹介で八幡通り(=若宮大路)にあった鈴木玩具店を借りることができ、昭和20年5月1日に「貸本屋鎌倉文庫」が開店する。北鎌倉駅近くに在住の高見順は、大量の本を乳母車に乗せ、夫人とともに八幡宮前まで運搬したエピソードが残されている。
昭和20年4月28日の朝日新聞2面の「青鉛筆」欄に鎌倉文庫の記事が載ったことで、予想以上の反響を得て、開業後は本不足に陥ってしまう。人気は小説で、とくに大佛次郎・吉川英治の作品が多く借り出されていた。開店後1ヶ月(5月分)の売り上げは好成績で、川端康成が各人の供出本の稼動成績が判る一覧表を苦労して作成したため納得のいく配当金分配が可能になったと伝えられている。
5月の配当金上位は、1位は久米正雄、2位大佛次郎、3位高見順、4位林房雄の順であった。
8月15日無条件降伏の敗戦をむかえた直後の8月29日に大同製紙から出版事業の計画が持ち込まれ、8月30日には貸本屋鎌倉文庫の東京貸本部創設の依頼があった。それぞれ株式会社鎌倉文庫(出版)、日本橋白木屋2階(元・東急百貨店、現・コレド日本橋)の貸本屋へと結実してゆく。その後、作家たちは徐々にその繁雑さから直接経営から身をひいてゆき、解散を迎えることとなる。
  「日本の名随筆50 本屋」より「貸本屋鎌倉文庫始末記」を主に参考
 
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昭和20年8月17日に蔵本を供出していた島木健作が肺結核のため死去。享年41。自宅での葬儀のあと貸本屋鎌倉文庫で告別式を執り行った。墓は北鎌倉の浄智寺。
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2009年11月19日

鎌倉 和菓子 力餅家

平安時代末期の創建と推定され、「吾妻鏡」に神社名が散見される鎌倉・長谷の御霊神社。
その御霊神社の海に向かう参道を下ると極楽寺坂への広い通りに突き当たる。
その角に江戸期よりの老舗和菓子店「力餅家」がある。
店名の由来は、御霊神社(権五郎神社)の境内に置かれる祭神・権五郎景正(景政)の怪力
ぶりを伝える「手玉石」「袂石(たもといし)」によるのだろう。
江戸期には、各地の神社に力比べに使われた大小の様々な大きさの力石が置かれるようになり、
現在まで多数残されている。その力石の原型のような石にちなんだ店名と思もえる。
包装紙にはそのイラストが描かれている。
毎年、景政の命日9月18日に例大祭が催わされ、神奈川県の指定無形文化財の面掛行列が大勢の
見物人の中を歩んでゆく。その行列は参道から力餅家の角を左折、折り返して店の前を再び通りすぎ、
虚空蔵堂からまた力餅家の角に戻ってくる。御霊神社(権五郎神社)とともにあるのが力餅家である。
 鎌倉市坂ノ下18-18
 定休日 水曜 第3火曜
 9時〜18時

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                       権五郎景政と刻印 景正が正しいとの指摘文献有り
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2006年08月06日

鎌倉 芥川龍之介の野間洗濯店下宿跡(和田塚)

芥川龍之介は東京帝国大学英文学科を卒業した後、恩師の紹介で横須賀の海軍機関学校の英語教官に
就任する。田端から通勤するにはあまりに遠く、鎌倉町和田塚の海浜ホテル隣の野間洗濯店の離れに下宿する。芥川は移転後すぐに地図入りの葉書を送付しているが、住所が明確になっていない。
海浜ホテルは、明治19年に海岸沿いの広大な敷地に建てられた海浜院というサナトリウムを前身とするが、数年と経たぬうちに経営悪化の為、ホテル業に営業転換する。
明治・大正にかけて食堂・広間などの設備を拡大し、政財界や文化人の社交場となってゆく。
太平洋戦争終結後、進駐軍に接収されるが、昭和20年12月に火災で焼失。以後、荒廃し荒地と化していたが、近年になり海浜公園として整備され、スポーツ関連等の施設が建設されている。
芥川が葉書に描いた地図には海浜ホテルの東隣に野間洗濯店を記しているが、大正5年当時のホテルとの境界が明確でない。戦後(昭和20〜30年代)の住宅地図で海浜ホテル付近の「野間」姓を探すと、下図に記入した位置に唯一見出せた。
wada akuta01.jpg wada akuta02.jpg
          江ノ電和田塚駅                  和田塚・和田義盛一族の墓 
    rwada20akuta03.jpg
    海岸通り沿いで唯一<野間>表示がある1176番地 昭和初期には斜め向いに辻米屋が存在
    rwada20akuta04.jpg

芥川が鎌倉に居住した前後の略年譜
1916年(大正5年)
 7月 東京帝国大学英文学科卒業。 
   不況で就職口がなく、大学院に一時籍置く(後に除籍)。
 8月中旬〜9月上旬 久米正雄と千葉県一宮町のホテル一宮館に滞在。
 9月「芋粥」発表(新小説)。文壇デビュー。
 10月「手巾(はんけち)」発表(中央公論10月号)。
 11月7日付の海軍機関学校任官用毛筆履歴書が残る(防衛庁戦史室)。
 11月13日付の菅宛の書簡。下宿探しを鎌倉在住の恩師菅虎雄に依頼。
 <<今度私は海軍機関学校の先生になりましたついては鎌倉に住んで横須賀へ通ふやうにしたいと思ひます誠 に御面倒を願って恐縮ですが御近所に賄つきのよい間貸しは御座いますまいか位置は山に近い方よりも海に 近い方が望みですさうして坂の下まで行かない所にしたいと思ひます(略)>>
                             「芥川龍之介全集第10巻」より
   鎌倉町和田塚の海浜ホテル隣の野間洗濯店の離れに下宿する。
 12月1日 一高の恩師畔柳(くろやなぎ)教授の推薦紹介で横須賀海軍機関学校の
   教授嘱託(英語教官)に就任。土日曜は、ほとんど田端に帰る。
 12月2日付 本郷区五丁目在の松岡譲への絵葉書に<鎌倉海岸通野間榮三郎方 芥川生>と記す。
 12月5日消印 本郷区(新思潮社内)の松岡譲宛、野間家への案内手書き地図入りの葉書。
 <(略)僕の所は和田塚の電車停車場からすぐだ 和田塚までは電車の線路を歩いてくれば来られるか
 らその先を図にする(線路は通行禁止の札立ってるが歩いて差支へない)>
             kamakura noma01.jpg 「芥川龍之介全集第10巻」より
 12月9日 朝、電報「センセイキトク」受ける。勤務のため出立できず。
    午後6時すぎに夏目漱石死去。 
 12月11日昼、芥川、夏目家に到着。夏目漱石葬儀会場(青山斎場)の受付役に。
 12月13日 鎌倉に戻る。 
 12月 塚本文の女学校卒業を待つ条件で婚約(12月付の縁談契約書が残る)。
    文(ふみ)は明治33年8月4日生まれ。海軍士官塚本善五郎の長女。鶴見高等女学校卒業。
    昭和43年9月11日に調布市で没。 
   (芥川文の著作「追想 芥川龍之介」中公文庫1981年刊に、芥川が自らの墓の型を
    注文したエピソードが紹介されている)
1917年(大正6年)
 1月9日 新年を過ごした田端の家から鎌倉の下宿に戻る。
 1月 「運}発表。
 4月11日〜15日 養父・道章と京都・奈良に旅行。
 5月23日 第一短編集「羅生門」刊行。
 6月20日〜24日 軍艦金剛で航海見学(甲板前部での記念写真残る)。
 7月初旬 佐藤春夫らと谷崎潤一郎宅を訪問。
 7月24日 夏季休暇で田端に戻る。
     大阪毎日新聞社と社友契約(大正8年4月からは社員に)。 
 8月1日 「産屋」発表。 
 9月1日 「或る日の大石内蔵助」、「二つの手紙」発表。
 9月14日 横須賀市汐入580番地の尾鷲梅吉方に転居。2階8畳間を借りる。
      現在の汐入町1-1 (9月19日に下宿の様子を塚本文に手紙で知らせる)
 11月10日 第二短編集「煙草と悪魔」(新潮社)刊行。
 12月9日 漱石一周忌出席。 
 12月20日 冬季休暇で田端に帰る。

参考
「年表作家読本芥川龍之介」1992年 河出書房新社 
「新潮日本文学アルバム13芥川龍之介」1983年 新潮社
「芥川龍之介全集第10巻」1978年 岩波書店

湘南・鵠沼 旅館東屋での狂気の交差 宇野浩二と芥川龍之介 http://zassha.seesaa.net/article/386256370.html
京都 芥川龍之介と宇野浩二の女買いの顛末記 http://zassha.seesaa.net/article/394984566.html
鎌倉 芥川龍之介の野間洗濯店下宿跡(和田塚) http://zassha.seesaa.net/article/22009376.html?1475175742
横須賀 横須賀線と芥川龍之介「蜜柑(みかん)」 http://zassha.seesaa.net/article/442379617.html
posted by t.z at 20:39| Comment(0) | 鎌倉kamakura | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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