2017年04月10日

横浜 ダダイスト高橋新吉の詩「衂血」(はなぢ)より

月経を衂血(鼻血)で済ます女を想ったことがあるだろうか。
また、月経を衂血(鼻血)で済ませられたならと想った女はいるだろうか。
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高橋新吉「衂血」より、一部分を抜萃。
・・・・・・・・・
支那の子供が石を投げてゐる。淫蕩を目と頬とに漲らした
四十近い西洋婦人が、ベンチに横ざまに靠れてグランドホテルの
玄関を凝視したゐた。
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 夜会か何かゞあるのかも知れない
 自動車が幾台も、幾台も来る。
 彼は陰嚢と早漏に悩む青年に過ぎない
 彼は月経を衂血で済ます女を想つた。
 沖の方の汽船のトモの方の船底へ打突つかつた魚の鼻の
頭がかすかに剥げた。
 見るまにドス黒く紫色に、真赤になつた。
 彼は花崗岩の柵に凭つて、憂鬱な彼の顔を明るくし様か
と考へてゐた。
 シユンでもシユンでも鼻血が出る。破れた粘膜も噛み棄
てた、顔中血だらけになつた。
 彼は体中の血を口の上から絞り出して了へと思つた。
 足の爪が白くなる程思ひ切つて噛んだ
・・・・・・・・
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原文にルビ(ふり仮名)無し
*漲(みなぎ)らし
*靠(もた)れて
*衂血(はなぢ)
*了(しま)へ
*凭(よ?もた?)つて

「ダダイスト新吉の詩」大正12年(1923年)中央美術社刊(辻潤編集)収録の「衂血」より。
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2017年02月25日

横浜 根岸競馬場一等馬見所 アーネスト・サトウ英国公使日記より

1868年明治元年3月、英国公使パークスに随行して京都御所に参内する途中、繩手通と新橋通が交わる付近(東山区、祇園北側)の路上で、攘夷思想に染まった暴漢の襲撃を受け、危ういところで一命を取り留めた英国人アーネスト・サトウの「明治期のエピソード」のひとつから今回は「根岸競馬場」(シリーズ化する予感)。
「危ういところ」と表現したが、文字通りの危機一髪で、日本刀の横殴りの一太刀を顔面に受けながら軽傷で済んでいる(乗っていた馬も斬られている)。この事件で維新史に名を残したサトウだが、この人ほど日本国内を旅した外国人は皆無だろう。交通手段が江戸時代とさして変わらぬ時代にだ。北海道は未開拓、九州中南部は西南戦争がらみで情勢不安定などの理由で旅記録は残されていない。それ以外では旅していない所を挙げたほうが早い。八丈島や足尾銅山、妙高山、四国金毘羅さん、伊勢神宮、紀州熊野、富士山頂、日光中禅寺湖、下関門司、高野山・吉野山、長野善光寺、熱田神宮、これだけでも「全部行ったことがあるよ」とクリアできる人は日本人でも少ないだろう。伊香保、熱海、箱根等々の温泉、高尾山には馬でてっぺんまで駆け上がっている。趣味は学者はだしの植物採集、チョンマゲをやっと断ち落として間もないこの時代にあってはエレガントすぎるのだ。

アーネスト・サトウの日記から「根岸競馬場」関連項目を抜萃。
1898年明治31年4月25日
 雨。そのために競馬(*1)は延期。サー・ミッチェル夫妻、伊藤、三宮夫妻、その他を晩餐会に招く。
同年4月26日 リジンカを同伴してウィルキンスン家の午餐会へ行く。その後で競馬(*1)へ。サー・ミッ  チェル夫妻と伏見宮邸の晩餐会へ赴く。
1899年明治32年5月9日
 競馬(*1)の第二日目。天皇陛下(*明治帝)が行幸になり、居留地をお通りになって、ディック・ロビスンを長とする居留地住民からの挨拶をお受けになった。各国の領事も列席していたが、彼らが思っていたほど重きをおかれなかったことで機嫌を損ねたようだ。

(5月9日明治帝行幸の注釈)この年の七月に予定された新条約の実施を記念して、横浜在住の外国人一同が、今回の天皇陛下の根岸競馬場行幸を公式に歓迎申し上げることになり、事前に陛下の御承諾を得て、奉迎委員長R・D・ロビスンと同副委員長W・F・ミッチェルが横浜駅で陛下に拝謁して、歓迎の辞を奏上した。イタリア総領事を兼ねたオルフィニ公使をはじめ、各国領事も駅で陛下をお迎えしたが、陛下はお手を挙げてご挨拶なさったのみであったので、このような表現になったのであろう。
サトウ公使は日本レース・クラブ会長として、競馬場(*1)入口で陛下をお迎えした。
(*1)横浜の根岸競馬場で開催される競馬。
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(写真)根岸競馬場の主施設、一等馬見所北面。米国人建築家J・Hモーガンの設計。1930年(昭和5年)の築で、明治期の諸施設(馬見所は三層の洋館)は残されていない。昭和18年に競馬場閉鎖式が行われ、幕末からの歴史に幕が下された。
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(写真)一等馬見所南西面。観覧席の屋根、座席などは取り払われている。

日本最古の欧式根岸競馬場の創設時期が何時なのか? 競馬場が設けられていた根岸丘陵の近傍で、少年時代(小学校)を過ごした作家吉川英治(代表作「宮本武蔵」)の短編にそのことが書かれている。
<<根岸競馬場は、横浜に外人居留地地区ができ、通商条約などが結ばれた後、外人ばかりの発起で創立されたというから、おそらく明治維新前からのものであろう。>>
吉川英治「塾の明治娘」昭和30年文藝春秋刊より抜粋。
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(左右写真)一等馬見所北側の広場にある説明板から。完成当時の写真・設計図など。ニ等馬見所も東隣にあったが解体され、そこは芝生広場になっている。
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(写真)広大な根岸競馬場跡は敗戦後に米軍に接収されたが、一部が返還され、根岸森林公園として一般開放されている。
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(写真)根岸森林公園案内図。荒井由実(松任谷由実)の曲「海を見ていた午後」で有名になったカフェレストラン「ドルフィン」が、一等馬見所の反対側(南側・地図では下の米軍消防署の向い側)の下り坂とば口の所で現在も営業している。今でも変わりなく沖を通る貨物船が眺められる。30年以上前に行ったきりだ。

(追加資料)明治帝の横浜行幸。中央新聞五月十日号より
1899年5月9日 天皇陛下(*明治天皇)は根岸の競馬場にたびたび行幸されているが、これまでは非公式の御観覧であり、陛下の御意向によって一切派手な歓迎は行われなかった。しかし今回の行幸に際しては、改正条約の実施を間近に控えて、横浜全市を挙げてお迎え申し上げることになり、特に居留地の外人の懇願を容れて、居留地内をご巡覧になることになった。
「横浜居留民の要望に応えて今日居留地内をお通りになることは、我々一同の光栄であり感激に堪えない次第であります。四十年前は海岸の一小村に過ぎなかったこの地が、今日の如く貿易港として繁栄し、外国人が五千人以上も居留するような枢要の地になったのは、偏えに陛下の御威徳によるものであり、今後も英明寛容の精神を以て永くこの国を統治せられることを切望しております」
長崎式部官の通訳によってこれをお聞きになった陛下は、御満足のご様子で「諸兄の歓迎を謝し、居留民一同益々発展されんことを望む」という意味の答辞を述べられた。かくて陛下には御料の御馬車に召させられ、御順路根岸なる競馬場へと向はせらる。さらぬだに根岸の競馬場と言へば遊戯に熱心なる外人は勿論、横浜市中は一般東京の祭礼の如く、中々の雑踏をするなり。
この日は陛下親しく競馬場へ臨ませられ、殊に新条約実施後均しく帝国臣民同一の支配を受くるを喜べる居留地外人の懇願を容れ給ふて、特に外人居留地をば巡覧あらせ給ふに於て、横浜都民の感激と歓喜とは殆んど極端に達したり。市内は皆有らん限りの方法を以て装飾せられ、国旗、球灯、青葉飾り等は至る所に施され、市中悉皆化粧を施されざるものなし。先づ停車場を出れば、弁天橋畔天を衝くの大アーチは紅白の布を以て造られ、左右連るに無数の球灯小旗を以てす。
(略)
かくて陛下は午前十一時と言ふに競馬場へ御到着、馬見所楼上にある仮便殿に入御、各番の競馬を天覧あらせらる。馬見所は広漠たる競馬場の一隅芝生なす平地に建てられたる三層洋館にして、途中遥かに望見せば初夏新緑の山上巍然(ぎぜん)吃立する様、或は海中の蜃気楼にも例へんか。横浜、東京の内外人怒涛の如く同場に集ひ、今日を晴れぞと美々しく着飾れる西洋婦人の三々五々として庭上を逍遥せる、血気盛なる騎手の赤、青、黄なる服着けて「勝は吾れこそ」と意気捲ける、東西各種人類の標本殆んど集らざるはなき有様、壮快の中に又言ふべからざる趣味を覚ゆ。競馬は十一時三十分に始まり一時一回宛行ふ。(中略)
かくて陛下には第八回競馬の終ると共に還御仰せ出され、午後四時三十分馬見所御発輦(*はつれん?)、同五時三十分横浜発の特別列車にて東京に還御あらせらる。」 
以上、中央新聞五月十日号から

参考 「アーネスト・サトウ公使日記」1991年刊
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2016年10月14日

横浜中華街 森茉莉「横浜南京街」より

明治の文豪森鷗外の長女、森茉莉(故人)のエッセイの中から最も好きな一編「横浜南京街」を部分抜粋。

<< 生れてはじめて見た横浜南京街というのは全て不思議な町である。
その町に夕闇が忍びより、その濃い影の中に封じこめようとする夕暮れ刻(どき)、その小径に入って行った私は、不思議な国に迷いこんだような気がした。小料理店は、赤茶色に焙った丸焼きの鶏や、これも焙った、太い紐のような豚の腸などを飾窗(かざりまど)にぶら下げ、香ばしい油の匂いと煙とを、電燈の洩れる硝子戸の中に閉じ込めている。
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紅、象牙色、青なぞの繻子地に金糸、銀糸、南京玉で刺繍のある中国服を飾った窗(まど)がある濃い橙(オレンジ)色の光の中に、なにかの秘密をひそめているようなキャバレ、酒場、CLUB、高級料理店がある。これらの勧業の家の濃い、澱んだ光は、東京には勿論、巴里(パリ)にもみられない、深い、勧業の色だ。
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電燈の点った小料理店も、紅、青、黄、紫の、五色の色彩をふり撒いている。土産物店も、二階をみると空屋のようで、枠には鍵のとれた跡の釘穴がそのままの硝子戸が半分開いて、薄汚れた白タオルや、色の褪めつくした襯衣(シャツ)なんかが下っている。たまに二階も燈の点った店があっても、店の裏や、階段の下、調理場の上のコック部屋なんかは、陰惨として暗いのだろうという気がする。
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要するに、これらの家々はどれもこれも、どこか化けものじみているのだ。料理店も、歓楽の家も、声も、音もなく、黙りこんで、料理店に入っている日本人までがどういうわけか無言である。華やかな色彩が一杯なのに、この街は暗い。
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だが、その暗い色は決して衰微の兆ではない。怠け者で、掃除嫌いで、どこか茫洋として大陸的な、それでいて徹底的な勘定高さ、吝嗇(りんしょく)を通りこした合理性を持っていて精力的な、支那(しな)の大衆の一部が、この南京街の暗い硝子戸の中に強靭に生きているのを、私は感じないではいられなかった。(略) >>
  森茉莉「私の美の世界」昭和59年新潮文庫より 
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2016年10月10日

横浜山手町 娼館薔薇屋敷 立原正秋「薔薇屋敷」より

横浜山手の瀟洒な洋館が建ち並ぶ一画に、鬱蒼とした樹木に隠れるようにひっそりと麻薬窟・薔薇屋敷が佇んでいる。時代は昭和35年。主人公周二は、この娼館に出入りし、阿片と女に溺れ、爛れた日々を送る。
<< 安芸周二が、横浜の薔薇屋敷で黒人の女メアリとはじめて会ったのは、八月の末であった。淀んだ空気が充ちている暮方の部屋で、周二は、だるい頭でその黒人女を見ていた。(略) 
メアリの軀は、柔軟な鞣革(なめしがわ)を思わせた。強い体臭を消すためか、軀に香水をふってあったが、体臭と香水が入りまじって言いようのない匂がした。一口に言ってそれは動物的な脂の匂だった、ベッドにはいつもゴム製品が備えつけてあったが、メアリはその使用を嫌い、ハンドバッグから錫(すず)のチューブを取りだし、これを使ってくれ、と言った。チューブからは、薄荷(はっか)の匂がする透明なクリームが出てきた。薔薇屋敷は、中区山手町の地蔵坂の近くにあった。大きな坂から枝葉のように小道が傾斜して四方に広がっている石畳の道には、古い横浜の匂が充ちている。そんな場所の一角であった。>>
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S字に蛇行する地蔵坂。美しい坂だ。坂の途中の崖上に小説の通り木造の教会が実在する。画面中央奥の白い建物。

<< 四角い石を敷きつめた地蔵坂の途中には、横浜ハリスト正教会が建っている。その前を登りぬけて左に折れ、二十メートルほど行くと、右に切り通しの下り坂があるT字路に出る。
角に、七本の丈高い槐(えんじゅ)に囲まれた古びた二階家があり、半分ほど葉の落ちた樹間の奥に、青銅の屋根が鈍く光っている。家の北側には、高さ十メートルはあろうと思われる馬刀葉椎(まてばしい)が三本そびえている。これが、安芸と加山が五月いらい通い続けている薔薇屋敷である。道路から一メートルほど引っこんだ所が出入口で、門はない。いったいにこの辺には門のない家が多い。開港時代の開放的な名残りなのだろうか、と周二は折々考えた。家の南面の石垣の下は道路で、石垣のはずれに、庭を刳りぬいて建てた車庫があり、なかには黒塗りの旧式の乗用車が一台入っている。>>
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地蔵坂を上りきった位置から。「薔薇屋敷」に描かれる光景そのものが眼前に広がる。北面・南面とも描写の通り。モデル地には現在大きなマンションが建っている。

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20メートルほど行って切り通しの下り坂になった位置。南側から地蔵坂方向を写す。

<< 桜木町駅を降りて弁天橋を渡ると、東西にのびている銀行街の本町(ほんちょう)通りと平行した海よりに、石畳の海岸通りがある。周二は、桜木町でおりると、薔薇屋敷に行く前の一刻(ひととき)、よくこの海岸通りを歩いた。>>
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当時の終着駅桜木町。周二は右上辺の弁天橋を渡った。右が関内、奥がランドマークタワー方向。震災後に建てられた駅舎で昭和25年頃の様子。空襲による被害状況は不明。桜木町〜磯子間が根岸線として延伸開業するのは昭和39年のこと。写真は、2009年頃に桜木町駅ホーム階段の展示パネルを写したもの。

<< 海岸通りからさらに海よりにある臨港貨物線沿いの道には、樹齢四十年をすぎたプラタナスの並木が続き、途中、インド水塔やホテル・ニューグランド前を通って山下公園に至る間は、黝(くろ)ずんだ建物が並び、日本化したヨーロッパの街の一角だと言ってよい。>>
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山下公園から見た横浜を代表する老舗ホテル・ニューグランド。

<< ここのところ彼は一日おきに薔薇屋敷に通っていた。メアリに会えない日は日本の女を相手にしたが、阿片吸引が目的だった。中毒の一歩手前ではないか、という気がした。(略)
「仲よくするのはキリストの教えよ」そしてメアリは懶(ものう)い笑顔になった。それは快楽のために造られたような笑顔であった。美しい女ではなかったが、軀(からだ)のすみずみまで愛撫に敏感で、男を灼きつくす軀をしていた。細い脚とたくましい太腿、しなやかにくびれた胴、分厚い腰、よく撓(たわ)む背中、細くすんなりした全身は、二十四という年の若さからきているのかもしれなかった。歓楽のきわみにメアリはいつも、あたしをどうするの、あたしを殺すつもりなの、と英語でさけびながら彼を見あげた。>>
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<< いまでは、一日おきに阿片を吸引しないと、軽い禁断症状を来たした。症状は確実に現われた。薔薇屋敷で阿片を吸引してから五十時間後には、禁断症状のはしりである頭痛がはじまった。そのままにしておくと、やがて胸が苦しくなりはじめ、脂汗をにじませて一夜中睡れず、幻覚を見た。あまりの苦悶に、夜半に家をでて車を横浜の薔薇屋敷に走らせたこともあった。(略)
「加山はいま横浜の警察で調べられているよ」
「警察?」
「おまえが通っていた横浜の薔薇屋敷が摘発されたのだ。四日前のことだ。・・・後で新聞を見せてやろう。」
四日前の朝刊で、社会面のトップに<麻薬窟薔薇屋敷>という見出しがついていた。(略)
いまでは、終戦直後の黄金町(こがねちょう)以来、周二にとって横浜の街は、去りし日々の象徴となって生きていた。・・・・周二はいつしか睡りにさそわれて行った。そして彼は夢を見た。いちめん黒い薔薇に囲まれた薔薇屋敷が、亡霊のように霧の中に消えて行く夢を見た。>>

参考地図 桜木町周辺(戦前含む)
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参考地図 地蔵坂と薔薇屋敷
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    追加参考写真 地蔵坂坂下より薔薇屋敷を望む。

「薔薇屋敷」昭和40年9月新潮初出・「立原正秋全集第3巻」角川書店より抜粋。
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2013年12月26日

横浜中華街 広東料理 海員閣 小津安二郎の日記から

世界の映画史にその名をとどめる映画監督・小津安二郎は、映画制作に関する事柄、さらに私的な行動などをも含めた日々の記録を、大小の小型手帖、ノート類など計32冊に書き残している。戦前の1933(昭和8年)1月1日から戦後の1963年(昭和38年)8月14日の記入で終るまでの膨大な文章が、タイトル「全日記 小津安二郎」として刊行されている。
その大著のなかから表題の横浜中華街にある「海員閣」について書かれた部分を拾いだしてみた。小津が「海員閣」に足繁く通っていたような表現をする文章が散見されるが、訪問はそれほど多くはない。小津が、1936年(昭和11年)に開業したこの広東料理店を訪れた日を最初に記したのは、1954年(昭和29年)11月。この日が初訪問かどうかは確かでないが、「日記」を通し読む限りでは、「海員閣」の文字が書かれたのはこの日が最初だ。
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中華街大通から香港路を南側に入ると、すぐ左手に右書き表記の「閣員海」の看板が見える。
小津安二郎が訪れた当時のままの扉のように思える。
「日記」から抜粋。
<<1954年(昭和29年)11月7日(日曜) 十時の電車で東神奈川→八王寺(子) それからバスで野猿峠の鎌田烏山にゆく 野田夫妻 ノン スカ 玲 トラ兄妹 セツの九名 帰り横浜にゆき元町→海員閣による>>
<<1955年(昭和30年)4月25日(月曜) 大株の荘丹(牡丹の牡が荘に)みな花咲く 五時四八分の電車で大船から原田 静夫のる 横浜ゆき 南京町海員閣 茂 吉沢 清水来らず 信濃屋にて(略)>>
<<1955年(昭和30年)6月20日(月曜) 入浴 三時頃 高橋貞二と板橋がくる 契約の相談なり 大船に電話して山内を呼ぶ やがてくる (略)高橋のキャデラックで横浜の海員閣にゆく>>
<<1963年(昭和38年)1月30日(水曜)晴 夕方から横浜 海員閣にゆく 小津組スタフ(*ッが無い)の祝賀会 のち 有志とマスカット 帰る>>
以上が、30年間にわたる日記の中で「海員閣」の店名を見出しえた全て(4件だけ)。小津が横須賀線を途中下車して、中華街方面に出る機会は少なかったようで、横浜で記述があるのは、「ホテルニューグランド」について1回あるのみ(*読み落としがあるのは了解を前提で)。

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海員閣で小津は、生馬麺(サンマーメン)を好んで注文していた。恐らくこの店の人気メニュー、シューマイも食していただろう。この生馬麺のスープ(醤油)だが、かなり濃い味付けで辛かった。
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海員閣(カイインカク) 横浜市中区山下町147
営業時間 火〜土曜11:40〜15:00中休み17:00〜20:00
     日曜・祝日11:40〜20:00
定休日 月曜  以上データは2013年現在。

参考:「全日記 小津安二郎」1993年フィルムアート社刊
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2013年11月13日

横浜 料亭・田中家の「おりょう」

安藤広重の「東海道五十三次」に描かれている神奈川宿・・・日本橋から三番目の宿場町で神奈川湊を見下ろす崖上には旅籠(はたご)が並んでいます。その一軒に「さくらや」の看板・・後の料亭「田中家」です。1863年(文久3年)に初代が「さくらや」を買い取り「田中家」を創業。明治維新から7年・・龍馬に先立たれた「おりょう」が、勝海舟の紹介によりこの料亭で働き始めます。料亭「田中家」には「写真」が現在も残されています。仲居(女中)「おりょう」が写っています。
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神奈川宿・・右端奥に「さくらや」  右写真は 明治初頭の「田中家」の古写真
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「おりょう」が働いていた(2〜3年の間)料亭「田中家」は広重の画と同様に現在も崖上に存在してます
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左写真は現在の「田中家」2010年3月撮影 右写真の石段下には海が・・・現在は埋め立てによりはるか内陸です
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割烹料亭「田中家」には・・左右どちらかに似た龍馬死後10年ほど(?)の未だ若き(30代)「おりょう」の姿が写った写真が残っています 
 割烹・料亭 田中家 神奈川県横浜市神奈川区台町11-1

 横須賀・京急大津 お龍の墓 信楽寺http://zassha.seesaa.net/article/135995149.html
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2010年11月22日

横浜・元町 中島敦「山月記」文学碑

中島敦の名作「山月記」を記念する文学碑が、中島が教諭として勤務した横浜高等女学校跡地に、没後33年にあたる昭和50年12月4日に、彼の教え子・同僚ら有志によって建てられた。「山月記」の初出は、昭和17年2月1日発行の「文学界」2月号で、「山月記」「文学禍」の2作品を併せた総題「古譚」として掲載された。
「山月記」発表から33年の経年と、中島敦の享年33歳という数字は符合する。無意味だろうが、足した66は、中島が担当した1年4組の生徒数と合致する。
中島は、昭和8年3月に東京帝国大学国文学科(現東京大学)を卒業、4月に同大学院に進学すると同時に、横浜高女(4年制)の国語・英語担当の教諭となる。横浜高女で8年間にわたり教鞭をとった後、昭和16年3月末で一旦休職(退職は6月16日付)し、南太平洋のパラオ島に南洋庁内務部地方課の国語編修書記として赴任(7月6日)する。「山月記」の発表は、翌17年2月のパラオ勤務(南太平洋の諸島をあちこちと視察移動)中のことで、正確には、すでに横浜高女を退職していた。「山月記」を発表した翌3月17日に中島は本土にもどるが、早々に喘息と気管支カタルを発症し、病床に伏してしまう。世田谷の自宅で療養を続けるが、11月中旬、近所の岡田医院(世田谷区世田谷1丁目)に入院、「山月記」発表から僅か10カ月後の12月4日朝に逝去する。
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(写真)横浜高女は、戦後まもなく(昭和22年)横浜学園と改称され、現在は同学園の附属元町幼稚園となっている。元町幼稚園の敷地内奥の崖下に、「山月記」の冒頭の数行が刻まれた記念文学碑が建っている。
<<隴西(ろうせい)の李徴は博学才穎(さいえい)、天宝の末年、若くして名を虎榜(こぼう)に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介(けんかい)、自ら恃(たの)む所頗(すこぶ)る厚く、賤吏に甘んずるを潔(いさぎよ)しとしなかつた。>>
碑文に続く文節は、
<<いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略(かくりゃく)に帰臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐(お)うて苦しくなる。>>
 *虢略=河南省にあった地名(虢州)。*ふり仮名は原文にないものも混在。
 「文學界」昭和17年2月初出。抜萃は「現代日本文學体系63」筑摩書房1970年刊より。
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(左写真)元町・汐汲坂の跡地に同学園の附属幼稚園が建っている。文学碑は坂の左手の園庭奥に建つ。背側が元町商店街。(右写真)昭和50年12月4日建立の山月記碑裏(陰面)。輝緑岩の自然石は荒川上流で採取されたもの。撮影2008年。
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(写真)汐汲坂沿いの一般道に面して説明板(略歴)が設けてある。
*文学碑は、幼稚園の敷地構内にあるため、立入は許可制(事務室に届出用紙あり)。

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(左右写真)中島敦の墓。昭和17年12月6日、世田谷の自宅で葬儀、多磨霊園に埋葬(16区2種33側)。

参考 「中島敦全集別巻 年譜」2002年筑摩書房刊
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