1868年明治元年3月、英国公使パークスに随行して京都御所に参内する途中、繩手通と新橋通が交わる付近(東山区、祇園北側)の路上で、攘夷思想に染まった暴漢の襲撃を受け、危ういところで一命を取り留めた英国人アーネスト・サトウの「明治期のエピソード」のひとつから今回は「根岸競馬場」(シリーズ化する予感)。
「危ういところ」と表現したが、文字通りの危機一髪で、日本刀の横殴りの一太刀を顔面に受けながら軽傷で済んでいる(乗っていた馬も斬られている)。この事件で維新史に名を残したサトウだが、この人ほど日本国内を旅した外国人は皆無だろう。交通手段が江戸時代とさして変わらぬ時代にだ。北海道は未開拓、九州中南部は西南戦争がらみで情勢不安定などの理由で旅記録は残されていない。それ以外では旅していない所を挙げたほうが早い。八丈島や足尾銅山、妙高山、四国金毘羅さん、伊勢神宮、紀州熊野、富士山頂、日光中禅寺湖、下関門司、高野山・吉野山、長野善光寺、熱田神宮、これだけでも「全部行ったことがあるよ」とクリアできる人は日本人でも少ないだろう。伊香保、熱海、箱根等々の温泉、高尾山には馬でてっぺんまで駆け上がっている。趣味は学者はだしの植物採集、チョンマゲをやっと断ち落として間もないこの時代にあってはエレガントすぎるのだ。
アーネスト・サトウの日記から「根岸競馬場」関連項目を抜萃。
1898年明治31年4月25日
雨。そのために競馬(*1)は延期。サー・ミッチェル夫妻、伊藤、三宮夫妻、その他を晩餐会に招く。
同年4月26日 リジンカを同伴してウィルキンスン家の午餐会へ行く。その後で競馬(*1)へ。サー・ミッ チェル夫妻と伏見宮邸の晩餐会へ赴く。
1899年明治32年5月9日
競馬(*1)の第二日目。天皇陛下(*明治帝)が行幸になり、居留地をお通りになって、ディック・ロビスンを長とする居留地住民からの挨拶をお受けになった。各国の領事も列席していたが、彼らが思っていたほど重きをおかれなかったことで機嫌を損ねたようだ。
(5月9日明治帝行幸の注釈)この年の七月に予定された新条約の実施を記念して、横浜在住の外国人一同が、今回の天皇陛下の根岸競馬場行幸を公式に歓迎申し上げることになり、事前に陛下の御承諾を得て、奉迎委員長R・D・ロビスンと同副委員長W・F・ミッチェルが横浜駅で陛下に拝謁して、歓迎の辞を奏上した。イタリア総領事を兼ねたオルフィニ公使をはじめ、各国領事も駅で陛下をお迎えしたが、陛下はお手を挙げてご挨拶なさったのみであったので、このような表現になったのであろう。
サトウ公使は日本レース・クラブ会長として、競馬場(*1)入口で陛下をお迎えした。
(*1)横浜の根岸競馬場で開催される競馬。
(写真)根岸競馬場の主施設、一等馬見所北面。米国人建築家J・Hモーガンの設計。1930年(昭和5年)の築で、明治期の諸施設(馬見所は三層の洋館)は残されていない。昭和18年に競馬場閉鎖式が行われ、幕末からの歴史に幕が下された。
(写真)一等馬見所南西面。観覧席の屋根、座席などは取り払われている。
日本最古の欧式根岸競馬場の創設時期が何時なのか? 競馬場が設けられていた根岸丘陵の近傍で、少年時代(小学校)を過ごした作家吉川英治(代表作「宮本武蔵」)の短編にそのことが書かれている。
<<根岸競馬場は、横浜に外人居留地地区ができ、通商条約などが結ばれた後、外人ばかりの発起で創立されたというから、おそらく明治維新前からのものであろう。>>
吉川英治「塾の明治娘」昭和30年文藝春秋刊より抜粋。
(左右写真)一等馬見所北側の広場にある説明板から。完成当時の写真・設計図など。ニ等馬見所も東隣にあったが解体され、そこは芝生広場になっている。
(写真)広大な根岸競馬場跡は敗戦後に米軍に接収されたが、一部が返還され、根岸森林公園として一般開放されている。
(写真)根岸森林公園案内図。荒井由実(松任谷由実)の曲「海を見ていた午後」で有名になったカフェレストラン「ドルフィン」が、一等馬見所の反対側(南側・地図では下の米軍消防署の向い側)の下り坂とば口の所で現在も営業している。今でも変わりなく沖を通る貨物船が眺められる。30年以上前に行ったきりだ。
(追加資料)明治帝の横浜行幸。中央新聞五月十日号より
1899年5月9日 天皇陛下(*明治天皇)は根岸の競馬場にたびたび行幸されているが、これまでは非公式の御観覧であり、陛下の御意向によって一切派手な歓迎は行われなかった。しかし今回の行幸に際しては、改正条約の実施を間近に控えて、横浜全市を挙げてお迎え申し上げることになり、特に居留地の外人の懇願を容れて、居留地内をご巡覧になることになった。
「横浜居留民の要望に応えて今日居留地内をお通りになることは、我々一同の光栄であり感激に堪えない次第であります。四十年前は海岸の一小村に過ぎなかったこの地が、今日の如く貿易港として繁栄し、外国人が五千人以上も居留するような枢要の地になったのは、偏えに陛下の御威徳によるものであり、今後も英明寛容の精神を以て永くこの国を統治せられることを切望しております」
長崎式部官の通訳によってこれをお聞きになった陛下は、御満足のご様子で「諸兄の歓迎を謝し、居留民一同益々発展されんことを望む」という意味の答辞を述べられた。かくて陛下には御料の御馬車に召させられ、御順路根岸なる競馬場へと向はせらる。さらぬだに根岸の競馬場と言へば遊戯に熱心なる外人は勿論、横浜市中は一般東京の祭礼の如く、中々の雑踏をするなり。
この日は陛下親しく競馬場へ臨ませられ、殊に新条約実施後均しく帝国臣民同一の支配を受くるを喜べる居留地外人の懇願を容れ給ふて、特に外人居留地をば巡覧あらせ給ふに於て、横浜都民の感激と歓喜とは殆んど極端に達したり。市内は皆有らん限りの方法を以て装飾せられ、国旗、球灯、青葉飾り等は至る所に施され、市中悉皆化粧を施されざるものなし。先づ停車場を出れば、弁天橋畔天を衝くの大アーチは紅白の布を以て造られ、左右連るに無数の球灯小旗を以てす。
(略)
かくて陛下は午前十一時と言ふに競馬場へ御到着、馬見所楼上にある仮便殿に入御、各番の競馬を天覧あらせらる。馬見所は広漠たる競馬場の一隅芝生なす平地に建てられたる三層洋館にして、途中遥かに望見せば初夏新緑の山上巍然(ぎぜん)吃立する様、或は海中の蜃気楼にも例へんか。横浜、東京の内外人怒涛の如く同場に集ひ、今日を晴れぞと美々しく着飾れる西洋婦人の三々五々として庭上を逍遥せる、血気盛なる騎手の赤、青、黄なる服着けて「勝は吾れこそ」と意気捲ける、東西各種人類の標本殆んど集らざるはなき有様、壮快の中に又言ふべからざる趣味を覚ゆ。競馬は十一時三十分に始まり一時一回宛行ふ。(中略)
かくて陛下には第八回競馬の終ると共に還御仰せ出され、午後四時三十分馬見所御発輦(*はつれん?)、同五時三十分横浜発の特別列車にて東京に還御あらせらる。」
以上、中央新聞五月十日号から
参考 「アーネスト・サトウ公使日記」1991年刊