2017年03月18日

奈良 薬師寺から唐招提寺への道 松本清張「球形の荒野」より

近鉄西ノ京駅を降りて数分も歩くと、白鳳の大伽藍(がらん)薬師寺の與樂門(北側門)に至る。
この道が松本清張の長編「球形の荒野」の冒頭シーンに重なる。
<<芦村節子は、西の京で電車を下りた。
ここに来るのも久し振りだった。ホームから見える薬師寺の三重の塔も懐かしい。
塔の下の松林におだやかな秋の陽が落ちている。ホームを出ると、薬師寺までは一本道である。
道の横に古道具屋と茶店を兼ねたような家があり、戸棚の中には古い瓦などを並べていた。節子が八年前に見たときと同じである。昨日、並べた通りの位置に、そのまま置いてあるような店だった。空は曇って、うすら寒い風が吹いていた。が、節子は気持が軽くはずんでいた。この道を通るのも、これから行く寺の門も、しばらく振りなのである。>>
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(写真)薬師寺の伽藍を吹き抜ける風は、どこか古(いにしえ)の香りがする。白鳳の時代、天武帝の発願により建立(680年11月)された薬師寺が、現在地に移転したのは養老2年(718年)であった。未だ「日本書記」は成っていない。気が遠くなるほどの時が刻まれ続けている。

<<薬師寺の門を入って、三重の塔の下に立った。彼女の記憶では、この前来たときは、この塔は解体中であった。そのときは、残念がったものだが、いまは立派に全容を顕わしていた。
いつも同じだが、今日も、見物人の姿がなかった。普通、奈良を訪れる観光客は、たいていここまでは足を伸ばさないものである。金堂の彫刻を見終わって外に出たのが、ひるすぎであった。
あとの都合で、時間の余裕がないので、彼女は早々に薬師寺を出た。>>
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<<薬師寺から唐招提寺へ出る道は、彼女の一番好きな道の一つである。
八年前に来たときは晩春で、両側の築地塀(ついじべい)の上から、白い木蓮が咲いていたものだった。
この道の脇にある農家の切妻の家に、明るい陽が照って、壁の白さを暖かく浮き出していた。が、今日は、うすく曇って、その壁の色が黝(くろ)く沈んでいる。
相変わらず、この道には人通りが無い。崩れた土塀の上には、蔦が匍(は)っている。土の落ちた塀の具合も、置物のように、いつまでも変わらないのである。農家の庭で、籾(もみ)をこいていた娘が節子の通るのを見送った。>>
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(写真)「彼女は早々に薬師寺を出た」、その出た位置から見た唐招提寺への道。この道は、作者松本清張のお気に入りの道であった。昭和56年5月7日の日記(「清張日記」)で、薬師寺から唐招提寺への築地塀が続く道はとてもいいと褒めており、「球形の荒野」冒頭で、「彼女の一番好きな道の一つである。」と芦村節子に託して取り入れている。
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(写真)「球形の荒野」執筆当時と変わらないままの崩れた土塀。時は止まったままだ。
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(写真)薬師寺から唐招提寺への道の傍らにある石塊、薬師寺北門址。

<<唐招提寺に着くと、いつの間にか門がきれいになっていた。そういえば、前に来たとき、この門はずいぶん荒れていた。ほとんど柱の下が朽ちかけて、苔のある古い瓦を置いた屋根が、不安定に傾いていたのだ。しかし、あのときは門のそばに山桜が咲いて、うすく朱の残った門柱の上部にそれがよく似合い、ふしぎに「古代の色」といったものを感じさせたものだった。>>
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(写真)薬師寺からの道は唐招提寺に突き当る。右折すると唐招提寺の南大門が見える。

「球形の荒野」オール読物 昭和35年1月〜昭和36年12月連載
「松本清張全集6」文藝春秋社1971年刊より抜粋
参考 「古寺巡礼 奈良 薬師寺」淡交社1980年刊

松本清張リンク
京都 円山公園 いもぼう平野屋本家 松本清張「球形の荒野」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/322024530.html
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2016年10月02日

奈良 円照寺 三島由紀夫「豊饒の海(一)春の雪」より

三島由紀夫が自らライフワークと位置付けた「豊饒の海」四部作の第一巻にあたる「春の雪」から、主要舞台となる円照寺(月修寺のモデル寺院)に関した部分を抜粋。 

<< 道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒(すすき)、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。>>
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(円照寺の山門までの長く白い参道。約500mは山林・竹林を吹き抜ける風の音を聞きながら歩く。)

<< この、全くの静けさの裡の、隅々まで明晰な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子(さとこ=綾倉伯爵の娘)の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。歩むうちに息が苦しくなり、清顕(主人公松枝侯爵の子息)は路傍の石に腰を下ろした。何枚も衣類を隔てているのに、石の冷たさは直ちに肌に触れるように感じられた。彼は深く咳(しわぶ)き、咳くほどに、手巾(ハンケチ)に吐いた痰が鉄銹(てつさび)のいろをしているのを見た。(略)
ーー彼はやっと立上った。このまま雪の中を寺まで辿りつけるか危ぶまれて来たのである。やがて杉木立の下に入ると風はいよいよ寒く、耳に風音がはためいて来た。杉の木の間の水のような冬空の下に、冷たい漣(さざなみ)の渡る沼が見えはじめ、これをすぎれば、さらに老杉は鬱蒼として、身にふりかかる雪もまばらになった。 >>
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(右手に沼というか大きな池が現れる。三島が描写したとうりだ。)

<< 清顕はただ次の足を前へ運ぶことのほかには念頭になかった。彼の思い出は悉(ことごと)く崩壊し、少しずつ躙(にじ)り寄ってゆく未来薄皮を、少しずつ剥がしてゆく思いだけがあった。黒門は知らぬ間に通りすぎ、雪に染った菊花の瓦を庇につらねた平唐門がすでに目に迫った。>>
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(清顕が気付かぬうちに通りすぎた黒門。)

<<−−清顕は二十一日の晩(ばん)大阪のホテルに泊り、あくる朝早くホテルを出て、桜井線帯解(おびとけ)駅まで汽車に乗り、帯解の町の葛の屋旅館という商人宿に部屋をとった。部屋をとるとすぐ俥(くるま)を命じて、月修寺を志した。門内の坂道を俥を急がせ、平唐門に就いたところで下りた。 >>
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(JR桜井線帯解駅。三島が取材で訪れた時のままの駅舎が、止まった時間の中で永遠に佇んでいるように見えてならない。「帯解の町の葛の屋旅館」は創作だろう。旅館どころか小さい商店といえど少し駅を離れると見当たらない。畑がどこまでも広がっている。右写真の突き当り風に見える所を右折すると円照寺方向。)

<< あくる日の二十四日の朝は、起きるとから不快で、頭は重く、体は倦(だる)かった。しかし、ますます行(ぎょう)じ、ますます苦難を冒すほかに聡子に会う手だてはないと思われたので、俥もたのまず、宿から寺まで小一里の道を歩いて行った。 >>
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<< 幸い美しく晴れた晴れた日ではあったが、歩行は辛く、咳は深まるばかりで、胸の痛みは時折、胸の底の砂金を沈めたように感じられた。月修寺の玄関にたったとき、又激しく咳に襲われたが、応対に出た一老は顔色も変えずに同じ断わり文句を言った。>>
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(主人公清顕が、恋人聡子が、親友本多が、何度となくくぐった山門。)

<< この日、大和平野には、黄ばんだ芒野(すすきの)に風花が舞っていた。春の雪というにはあまりに淡くて、羽虫が飛ぶような降りざまであったが、空が曇っているあいだは空の色に紛れ、かすかに弱日(よろび)が射すと、却ってそれがちらつく粉雪であることがわかった。寒気は、まともに雪の降る日よりもはるかに厳しかった。(略) 彼は心にひたすら聡子の名を呼んだ。時は空しく過ぎた。今日になってはじめて宿の者に病気が気づかれ、部屋は温められ、何くれとなく世話を焼いて来たが、彼は看護も、医者を呼ぶことも頑なに拒んだ。 >> 以上、「春の雪」(豊饒の海・第一巻)新潮文庫版より。

清顕の病状を知った学習院の親友本多繁邦は、大事な試験の期日が迫る中、東京から帯解の宿に駆け付ける。病に伏せる清顕に替って月修寺を訪れ、門跡に直々に会い、出家し染衣をまとう聡子に清顕の思いを伝えるべく面会を懇願するが徒労に終る。本多が帰京した二日後、衰弱した松枝清顕は、帯解の宿で二十歳の短い一生を終える。ここで四部作の最初の巻は幕を下ろし、第二巻「奔馬」へと転生してゆく。

月修寺のモデルとなった円照寺の略史(「寺院神社大事典」参照)
円照寺は奈良市山町の東方にある。俗に山村御殿と呼ばれる。号は普門山、臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観音。開山は後水尾天皇の第一皇女の梅宮。法華寺・中宮寺と並ぶ大和三門跡のひとつ。
寛永18年(1641年)梅宮が京・修学院に草庵を結んだのち、明暦2年(1656年)に八島村(奈良市)に移し、さらに13年後、山村(現在地)に寺地を定め、現在に至る。この信頼に足る事典には、門跡・山本静山尼が大正天皇の息女ではあるまいかという「噂」「疑問」などは一行も記載されていない。

 *帯解駅から円照寺周辺の参考マップ
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小説「豊饒の海」(四巻)関連略年譜
昭和40年
 2月20日 小説「音楽」中央公論社刊行。
 2月22日 小説「豊饒の海」(四部作)執筆のため京都、奈良に取材旅行。
 2月24日 三島、京都上京区堀川寺之内通の尼門跡・竹之内御所(源氏物語ゆかりの薄雲御所)と
      光照院(竹の内御所から東へ徒歩圏内)を訪問。
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      (京都の尼門跡寺院もモデル地として選択肢に含まれていたのだろうか。) 
 2月26日 三島単独で奈良帯解の尼門跡・円照寺(主要舞台となる月修寺のモデル)を取材訪問。
 2月27日 帰京。
 6月 「豊饒の海」第1巻「春の雪」起筆(「ライフワーク」に取り掛かる)。
 9月 文芸誌「新潮」に「春の雪」連載開始。
 11月18日 三島、帯解の円照寺訪問。
昭和41年
 6月17日 「豊饒の海」第2巻「奔馬」の取材で奈良訪問。
 11月25日 「春の雪」脱稿。
 12月 「新潮」1月号で「春の雪」連載終了。
昭和42年
 1月28日 第2部「奔馬」第1回を執筆。
昭和45年
 7月20日 京都に到着。 
 7月22日 最後の帯解・円照寺訪問。「豊饒の海」最終巻「天人五衰」の取材。中井執事が対応。
 8月11日 最終巻「天人五衰」ほぼ脱稿。大作「豊饒の海」全四巻の完成に約6年を費やす。
 11月25日 10時13分過ぎ、保管中の「天人五衰」最終回原稿140枚(11月25日の日付)を
      お手伝いに託して外出。その約2時間後、市ヶ谷で割腹自決。
   *年表は「三島由紀夫全集42巻年譜」2005年・「三島由紀夫・年表作家読本」1990年を参照。
   *円照寺は、非公開(拝観不可)。
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三島由紀夫リンク
京都土御門町 安倍晴明邸址 三島由紀夫「花山院」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/372786698.html?1494827046
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2014年07月11日

奈良 西ノ京 唐招提寺

天平の遠い時代の古寺から古寺を巡り歩くと、その時を重ねた美しさに陶然としながらも、あまりに神仏への不心得具合に茫漠とした感に支配されてくる。大阪から奈良へ向う近鉄の車内で、「大和古寺風物誌」(文庫版)に目を通して下準備を済ませたつもりでいるのだから情けない。
西ノ京駅に降り立ち、唐招提寺(とうしょうだいじ)への道を歩き始める。薬師寺を背にしてその真っ直ぐな道を進むと、外塗が崩れ落ちた築地塀が目に止まる。立ち止りカメラを取り出す。その荒廃した感がたまらなく好きなのだ。
さきほど読んだ亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」の「唐招提寺」の章を、所々抜き出してゆく。
<<薬師寺から北へ三丁ほど歩いて行ったところに唐招提寺がある。この道筋には古風な民家が散在し、その破れた築地のあいだより、秋の光りをあびて柿の実の赤く熟しているのが眺められた。燻(くす)んだ黄色い壁と柿のくれないとが、よく調和して美しい。また辺り一帯には松の疎林があり、樹間をとおして広々とした田野がみえる。刈入れのすんだところは稲束が積みかさねられ、畦道(あぜみち)には薄(すすき)が秋の微風をうけてゆるやかになびいている。すべて古の平城京の址である。>>
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右の唐招提寺の案内図によって伽藍の配置は理解できると思う。右下(東南)に東塔跡と表示されるのが、810年(大同5年)4月15日建立の五重塔跡。下側(南)が薬師寺方向になる。唐招提寺の境内の広さは創建当時と変わらない約2万坪。

<<唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。伽藍配置のかもし出す整然たる調和の美しさであって、わたしはそれをみたいためにやってくるのだ。奈良朝の建築の精華はここにほぼ完璧な姿で残っていると云ってもよかろう。希臘(ギリシャ)の神殿を彷彿せしむるような円柱の立ち並んだ金堂(こんどう)、平城京の朝集殿と伝えらるる講堂、及びその西側に細長く建っている舎利殿、小さく可憐な二階造の鼓楼、この四つの伽藍が秋の光りを一杯にうけて粛然と静まりかえっている状景は無比である。燻んだ御堂の柱や横木の間に塗られた白壁が、秋には一層映えて、全体として明るい華やかな感じにあふれ、寺院というよりは宮殿といったほうがふさわしいくらいだ。金堂の右側にある休憩所の辺に立つと、四つの堂を一望に眺めることが出来る。この四つの堂が奏でる壮麗な調和にいつも関心する。その一つ一つを切り離しては考えられないのである。>>
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南大門の奥正面に荘重にして優雅な姿で佇む金堂(国宝)。寄棟造・本瓦葺・造営年は諸説有る。江戸元禄初期の修理で屋根が2m以上高められた。
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金堂の南正面に有名な8本の列柱。壁や窓がない柱だけの構造を吹放し(ふきはなし)と呼ぶ。
<<金堂だけであったならば、あまりにもいかめしく重厚であろう。講堂のみを眺めると唐の宮殿のように華麗で、寺としての陰影に乏しい。鼓楼はそれ一つを離すとあまりに華奢であり、舎利殿は整備されすぎて古典の重みに欠ける。ところがこの四つの堂が揃うと、互に不足のところを補いあって、遂に欠点を見出せない、という不思議な効果をもった配置なのである。>>
<<鑑真の率いた弟子達がかような効果を当初から念願したのであろうか。或は大唐の文化に学び、数々の寺院を建てて、漸く円熟自在の境に入った天平建築家の感覚が、おのずからこうした状景をつくり出したのであろうか。乃至はもっと後代の作為なのか。それとも秋の光りの戯れなのか。 ー昭和17年秋ー>>以上、「大和古寺風物誌」ー唐招提寺ーより
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(左写真)奥正面が講堂(国宝)。左端に少し見える屋根が金堂。平城宮の宮殿の唯一残る遺構。平城宮の東朝集殿を移設したもの。移設された年月は諸説有る。創設者・鑑真和上の在世中に移設されたとする説が有力。(右写真)左写真から視線を右に少し送ったところ。現在は鼓楼と称される舎利殿(国宝)と南北に長い大きな建物が礼堂(らいどう)(重文)。舎利殿は明治末期の解体修理の際に、1240年(鎌倉時代・鎌倉大仏建立の2年後)の上棟と判明。
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(左写真)上2枚の写真からさらに右に向いた所。左端の建物が礼堂。その東側に外観の似た2棟の校倉造(あぜくらづくり)の蔵が立つ。写っているのが経蔵(国宝)。北側に宝蔵(国宝)がやや離れて並び立っている。屋根は寄棟造。(右写真)金堂に使用されていた創建時の瓦。金堂修理時に数えられた総枚数は4万枚だった。
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御影堂(重文)。1962年(昭和37年)に旧・興福寺一条院(江戸初期慶応年間築)の宸殿・玄関等を移築したもの。日本最古の肖像彫刻(弟子忍基らの制作)である唐招提寺を創建した乾漆鑑真和尚(わじょう)坐像(国宝)を安置してある。

鑒真(鑑真)和上の渡日に関する記述が「今昔物語集」巻第十一本朝・仏法の第八に語られている。平凡社「今昔物語集第1巻本朝部」(全6巻)東洋文庫から部分抜粋。
鑒真和尚(がんじんわじょう)、震旦(しんだん)より本朝に渡って戒律を伝える語(こと)第八 p29より
<今は昔、聖武天皇の御代に、鑒真和尚という聖人がおいでになった。この人はもと震旦の揚州、江陽(こうよう)県の人で、俗姓は涼(淳)于氏である。はじめ、大周の則天武后の代、長安元年という年に十六歳で知満禅師(ちまんぜんじ)という僧について出家し、菩薩戒を受けて龍興寺という寺に住み、年ごろ戒律をよく守って暮らしていたが、次第に年を重ねて老境に至った。(略)>
以下は要約。(聖武天皇は仏教界に正式に授戒した僧がいないことを憂い、導師を中国に求め、大安寺の栄叡と興福寺の普照の両師を派遣する。船出は天平5年733年4月3日であった。それから20年後・・・) 天宝12年(?)10月28日、鑑真は供を従え、栄叡(ようえ)とともに日本に渡って戒律の法を伝えようと龍興寺を出立する(6回目の試みと伝わる。その間に栄叡らは病死)。数ヶ月の後(遣唐使副使・大伴古麻呂の帰朝する官船で)、12月25日に薩摩国秋妻の浦に着く。そこで年を越し、天平勝宝6年(754年)1月、大伴古麻呂(従四位上)に託し都に奏上。唐僧鑑真、法進ら8人は都へ向う。鑑真らは2月1日に摂津国難波に着く。孝謙天皇は藤原仲麿を遣わして来意を尋ねる。鑑真は戒律の法を広め伝える旨を奏上する。天皇は、吉備真備(きびのまきび)をして、東大寺に戒壇を築き戒律を伝えよとの詔勅を下す。その後、ただちに東大寺の大仏の前に戒壇を築き(天平勝宝6年春)、鑑真を授戒の師として壇に登り戒を受ける(聖武上皇・皇后・孝謙天皇ら4百余名に)。その後は大仏殿の西方に別に戒壇院を建て(天平勝宝7年10月)、様々な人が壇に登って戒を受けた。皇后の病気に際しては鑑真が投与した薬が薬効あって平癒する。天皇は大僧正の位を授けるが鑑真は辞退する。改めて大和尚(和上)の位を授け(天平宝字2年)、さらに新田部(にいたべの)親王の旧地を鑑真和上に授ける。(天平宝字3年8月3日)そこに寺を建てたのが唐招提寺である。天平宝字7年(763年)5月6日、鑑真和上は顔を西に向け、結跏趺坐(けっかふざ=禅定の際の安座の仕方)して亡くなられた(77歳)。
*()内は、今昔物語集には記述が無い部分を注釈として付記。

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松尾芭蕉句碑。1688年(元禄元年)、松尾芭蕉が唐招提寺を参詣し鑑真和上坐像を拝した際、渡日の重なる辛苦から失明したことに心を寄せて句を詠む。<若葉しておん目の雫拭はばや> 芭蕉の句碑は境内食堂跡の旧開山堂脇に建っている。(右写真)詩人北原白秋の詩碑
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唐招提寺の最奥部にある鑒真大和上(がんじんわじょう)御廟。鑒真の文字が使われている。
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(左写真)鑑真和上御廟
参考
「大和古寺風物誌ー唐招提寺ー」亀井勝一郎 新潮文庫1953年刊
「古寺巡礼 奈良 唐招提寺」淡交社1979年刊
posted by y.s at 10:17| Comment(2) | 奈良 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする