2018年01月15日

奈良水門町 写真家・入江泰吉旧居

奈良大和路の風景・仏像などの撮影に打ち込んだ写真家・入江泰吉(たいきち)が他界(1992年1月16日享年86)した後、主人のいなくなった奈良市水門町の古い家屋(大正8年移築と伝わる)には妻ミツヱさん(故人)が暮らしていたが、1999年になって奈良市に一括寄贈した。奈良市は入江泰吉の旧居を記念館として一般公開するため、耐震補強工事と大幅な改修工事を実施(屋根吹替え・別棟の暗室建替え等)。2014年初夏に東大寺戒壇院を訪れた際に旧居に立ち寄ってみたが、ちょうど改修工事の真最中で、木造一部2階建ての老朽化した母屋の屋根はブルーシートで覆われ、真新しい建材が庭に積まれていた。
この入江家を訪れている諸氏の中に、あの写真家アラーキー氏が含まれていることに驚き、白洲正子の印象記(随筆)から、若き日のアラーキー氏の訪問記に差し替えることにした。
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水門町の閑静でしっとりとした町並み。突き当りが東大寺戒壇院。
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改修工事中の入江泰吉旧居。

「<さっちん>はセルフタイマー・フォトです」から抜粋(研光社「フォト・アート」1969年10号初出)
<<(*1969年)五月、奈良の入江泰吉さんをたずねて、「あなたたにとって奈良とはなんなのですか」と聞いてみた。古都への郷愁″だと答えられた。
陶芸家のような手で膝のうえの白い毛むくじゃらの犬のようなもの(これがチンというやつかな)を愛撫しながら話す写真家入江泰吉を見て、月光菩薩に資生堂の口紅をぬって撮ってみたらなどというアドリブはひっこめざるをえなかった。老人(キャリア)を感じたのかもしれない。いや、それより若さという軽薄さがたじたじになったのだろう。老人にはどうもコンプレックスがあっていけない。いや、それでいいんだろう。人間はセンチメンタルでいいんだ。
また、完成された美術品を写すことに、ちょっとわりきれない気持があるということをもらしていたが、そのことについては自信をもっていいのではないだろうか。彼はその時代にできたそのものを撮っているのではなく、その時生まれた仏像たちが長い年月に犯されつづけ、この現代に生きつづけている姿を記録しているのだ。自信をもっていいのではないだろうか。
 私は、まだ悩んでいる入江泰吉が好きである。部屋にとおされた時、なにげなく窓をあけて緑の色彩と香りをふくんだ初夏の木々のさわやかな音をいれてくれた。そんな仕草がいっそう好きにさせたのかもしれない。(略)>>
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手前が水門橋の橋桁。奥が工事中の入江邸。
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1992年4月に開館した入江泰吉記念奈良市写真美術館。女優若尾文子の旦那だった黒川紀章の設計。
午後から入館すると半額(通常大人500円)になる(2014年現在)。旧邸からはかなり距離がある。
新薬師寺のすぐ近く。

参考:「写真指想 荒木経惟文学全集5」全8巻1998年平凡社
   入江泰吉記念奈良市写真美術館HP http://irietaikichi.jp/gallery/
     (上記写真美術館のHPには入江泰吉作品が複数枚アップされている) 
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2017年12月15日

奈良 東大寺講堂址 白洲正子「東大寺の講堂跡」より

東大寺大仏殿(金堂)の裏(北側)には、奈良期の伽藍配置形式通りに、かっては講堂が置かれていた。講堂の周囲には三面僧房、東の食堂(じきどう)などが取巻き、金堂の左右には大塔(東西)が聳えていた。
聖武天皇の勅願により建立された東大寺は、天平19年(747年)12月にその寺名が初見される。天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760年)7月東大寺の造寺はほぼ終了する。
造寺150余年後(延喜17年12月)に講堂は最初の火災に見舞われ焼失する。西室より出火した炎は、講堂・三面僧房などを焼き尽くしたが、20年を待たずに講堂は再建される。承平4年(935年)5月、千僧を請じて講堂の落慶供養が営まれている。
講堂の次の厄難は治承4年(1180年)12月に訪れる。平清盛の命により南都に押し寄せた平重衡(しげひら)の軍兵により、東大寺・興福寺・元興寺の諸堂は、折からの北風に煽られ焼亡する。大仏が熔解する中、講堂も灰燼に帰す。平氏滅亡後、鎌倉幕府の援けを受け、東大寺は再興、喜禎3年(1237年)4月に講堂の上棟式が行われている。下に抜粋した白洲正子のエッセイでは、その後「再び建立されることはなかった」と結論が下されているが、それは間違い。
さらに時代が下った文安3年(1446年)1月2日に講堂のすぐ南西に配されている戒壇院が炎上する。大火災となり、授戒堂・講堂・長老坊などが類焼している。その後、今度は講堂自らが出火(永正5年=1508年3月)し、講堂の炎は三面僧坊に飛び火し、あたりは焼滅。この火災のあとに講堂が再建されることはなく、現在に至っている。
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東大寺講堂址kodou-historic ruins。礎石が残されているのみ。鹿が集団で睨み付けるので
怖くて近寄れない(超ビビり)。
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東大寺大仏殿の北裏門。振り返ると真後ろが講堂址。

「東大寺の講堂跡」(初出不詳)より抜粋。
<<東大寺の大仏殿は、四六時中観光客で賑わっているが、そこから裏側へ回って行くと、まるで別世界のように静かな一廓がある。もと講堂が建っていたところで、松林の間に礎石が点々と遺っているだけのガランとした風景だが、ここへ来ると私はほっとした気分になる。講堂というのは、古い寺ならどこにでもあるが、私たちはあまり注意したことはない。いつも金堂のうしろにひそかに建っており、たいていは横目で見て通りすぎてしまう。が、寺院の生活にとっては、経典を講読したり、説教を勧めたり、さまざまの儀式を行う重要な建物であった。平安時代にはそれも次第に省略されてしまうが、東大寺が建立された頃は、僧侶たちが修行する私的な場であり、実質的にはそこが中心の核となって毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)の信仰が津々浦々へ波及して行ったにちがいない。
 かつてこの講堂には、二丈五尺(約七・六メートル)に及ぶ乾漆の千手観音(せんじゆかんのん)が鎮座していたという。大仏と同じく聖武天皇の勅願によるもので、大仏開眼より三年後の天平勝宝七年(七五五)に完成し、周囲には多くの僧坊がひしめいていた。が、平安初期の火災でことごとく焼失し、間もなく再建されたが、治承四年(一一八〇)平重衡(たいらのしげひら)の兵火に焼かれた後は、再び建立されることはなかった。
 そこに遺る大きな礎石を眺めながら、松風に吹かれていると、しきりに「諸行無常」ということが想われる。だからといって、けっして昔の盛観をなつかしんでいるわけではない。むしろ、何もないことの有難さを噛みしめているといったほうがいいかも知れない。(略)>>
白洲正子エッセイ集「名人は危うきに遊ぶ」1995年新潮社に収録。

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参考:「古寺巡礼奈良 東大寺」1980年淡交社刊
    「日本史年表」1966年岩波書店
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2017年10月07日

奈良東大寺 転害門 白洲正子「正倉院と東大寺」より

転害門(国宝)は、「てがいもん」と読む。東大寺の西面築地塀(ついじべい)に開かれた三つの門の一つで、最北にあり、かって平城京の一条大路に面していた。門名は、碾磑門(てんがいもん)から転じて転害門、手貝門などと称されるようになった。門前のバス停留所名は、手貝(てがい)町バス停である。
構造は、八脚門(やつあしもん)で、屋根は切妻造本瓦葺。幾多の戦災をくぐり抜け、天平時代の東大寺創建以来の豪壮な姿を今に残している。鎌倉時代の東大寺復興の際、組物を一段だけ高くして立派に見えるよう屋根を高くしている。奈良時代の八脚門は、他には、小型化した法隆寺東大門があるだけである。
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門の内部は正面中の間だけ天井板のない組入天井。

白洲正子のエッセイ「正倉院と東大寺」(「太陽」1981年7月初出)より。
<<(略)度重なる地震や風害を逃れて、千二百年の星霜を経たのは、まったく奇蹟としか思われない。平重衡(たいらのしげひら)が東大寺に火を放ったときは、奈良の大部分が焦土と化したが、正倉院と転害門だけは助かった。このことは、それらの建築が占める位置にもよるのだろう。東大寺の境内は広いけれども、その広い境内の西北の隅にあるのが正倉院と転害門で、冬のさ中のことであったから、風上に当たっていた。大切な倉のことで、はじめから大仏殿とは離れたところに、火災のことも考えた上で造られたに相違ない。それでも私が子供の頃聞いた話では、正倉院はいつでも大切にされたわけではなく、徳川末期から明治維新へかけての動乱期には、あの高い床下に得体の知れぬ輩(やから)が住みつき、平気で焚き火などしていたという。しばしば盗賊におそわれたこともあり、長い年月の間には、何度もそういう危機に瀕したことを耳にすると、なおさら有り難いことに思われる。>>
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柱の各所に、合戦で放たれた鏃(やじり)の痕らしき穴が穿たれている。

白洲正子の平重衡の南都(*奈良)焼討ちについてのエッセイは、経過をかなり簡略化しているので、奈良炎上のシーンを、「平家物語」巻第五第五十句、治承4年(1180)12月の部分から補ってみる。
<<都には、「高倉の宮(以仁王)、園城寺(おんじょうじ*三井寺)へ入御(*脱出)のとき、南都の大衆(*僧)同心して、あまつさへ御迎へに参る条、これもつて朝敵なり。さらば奈良をも攻むべし」といふほどこそあれ、南都の大衆おびたたしく蜂起す。
摂政殿(*藤原基通)より、「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそおよばめ」と仰せけれども、ひたすら用ゐたてまつらず(*耳を貸そうとしない)。有官の別当忠成(*藤原忠成)を御使にして下されければ、「しや乗物より取つてひき落せ(*乗り物より引きずり落せ)。もとどり切れ」と騒動するあひだ、忠成色をうしなひて逃げのぼる(*顔色なくし逃げ帰る)。つぎに右衛門佐(ゑもんのすけ)親雅(ちかまさ)を下さる。これも、「もとどり切れ」と大衆ひしめきければ、取る物も取りあへず(逃げ帰る)。そのときは勧学院の雑色二人がもとどり切られけり。(略)
太政入道(*平清盛)か様の事ども伝へ聞きて、いかでかよしと思はるべき。
「かつうは(*早急に)南都の狼籍をしづめん」とて、備中の国の住人、瀬尾(せのお)の太郎兼康を大和の国の検非違使(けびいし)に補せられ、兼康五百余騎にて大和の国へ発向したりしを、大衆起つて、兼康がその勢散々に打ち散らし、家の子、郎等(ろうとう)二十余人が首を取つて、猿沢の池のはたにぞ懸けならべたる。
 入道相国(*清盛)大きに怒つて、「さらば南都を攻めよ」とて、やがて討手(うって)をさし向けらる。大将軍には入道の四男、頭(とう)の中将重衡(しげひら)、副将軍には中宮亮通盛(みちもり)、その勢四万余騎にて南都へ発向す。南都の大衆も、老少きらはず(*老いも若きも区別なく)、七千余人、兜の緒をしめ、奈良坂本(*奈良坂口)、般若寺(*聖武帝建立、奈良坂の東側)ニ箇所の城郭、ニつの道を切りふさぎ、在々所々に逆茂木(さかもぎ*大木の枝先を敵側に向けたバリケード)をひき、掻楯(かいだて*楯を垣のように並べる)かいて待ちかけたり。平家は四万余騎をニ手にわけて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭に押し寄せて、鬨(とき)をどつとぞつくりける。大衆はみな徒歩立(かちだ)ちになつて、打物(*大刀)にてたたかふ。官軍は馬にて駆けむかひ、駆けむかひ、あそこ、ここに、追つかけ、追つかけ、さしつめ、ひきつめ、散々に射れば、おほくの者ども討たれにけり。卯の刻(午前六時頃)に矢合せして(*戦闘開始)、一日戦ひ暮らしぬ。夜に入つて、奈良坂、般若寺二箇所の城郭ともに破れぬ。(略)
 夜(よ)いくさ(*夜戦)になりて、暗さはくらし、大将軍頭の中将(*重衡)、般若寺の門の外にうち立ちて、「同士討ちしてはあしかりなん。火を出だせ」と下知(げち)せられけるほどこそあれ、平家の勢のなかに、播磨の国の住人、福井の庄司二郎大夫(たいふ)友方(ともかた)といふ者、楯(たて)をわり、たい松にして、在家(*民家)に火をぞつけたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風ははげしく、火元は一つなりけれども、吹きまよふ風におほくの伽藍に吹きつけたり。恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂、般若寺にて討たれにけり。行歩(ぎょうぶ)にかなへる者は、吉野、十津川の方へ落ちゆく。(略)>>

南都焼亡の詳細は、大仏殿(大仏崩壊)、般若寺に分けて それぞれの独立した項を作る予定。

白洲正子随筆「夢幻抄」1997年世界文学社より抜粋
「平家物語巻第五」1980年新潮社刊より(「百二十句本」平仮名本)
参考:「古寺巡礼 奈良 東大寺」1980年淡交社
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2017年10月03日

奈良東大寺 三月堂 山口誓子「カラー奈良百景」より

東大寺の法華堂(三月堂・国宝)は、広大な寺域の内、大仏殿東方の山腹、手向山(たむけやま)八幡宮の北側に接し、南面して建っている。
東大寺最古の堂宇である。天平18年(746)3月(旧暦)以降、法華会(ほっけえ)が慣例的に行われ、延喜年間(901〜923)にはすでに法華堂の名で呼ばれ、近代に至って三月堂とも称されるようになった。
堂内は天平彫刻の宝庫であり、本尊(不空羂索観音菩薩*ふくうけんさくかんのんぼさつ)をはじめとして乾漆像9体は創建以来の像で、日光と月光の2体の塑像は元は絵馬堂(法華堂北門の西)にあったが、享保年間(1716〜1736)頃に移安された。
平成22年(2010)に開始された法華堂須弥壇修理にあたって建築部材の調査が行われ、測定の結果は729年伐採の可能性が示された。この修理の際、塑像4体(日光・月光両菩薩、弁財天、吉祥天)と木造2体(地蔵、不動明王)は、東大寺ミュージアムに移安されている。
以下の山口誓子(やまぐち せいし、俳人、本名 山口新比古1901〜1994)のエッセイは、移安される30年前に綴られたものである。
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法華堂(三月堂)。

<<三月堂の内陣にはいるときに、私はいつも右手の手水屋を見る。そこへは廊下で行けるが、行かずに見る。扉が締めてある。それを開けると、中に昔の人々が住んでいるように思われる。私はその建物のただずまいが好きである。それと内陣との間にある内庭が好きだ。雨垂落の溝以外に何もない平らな庭だが、昔、「坪」といったのはまさしくこのような内庭であろうと思われる。私はいつも手水屋と内庭を見る。内陣は真っ暗といっていいほど暗い。大仏殿にはいったときよりずっとずっと暗い。暗さに慣れない眼にいきなり見えたのは、矛を突いて立つ持国天、それから刀を逆手に待った密迹(みつじゃく)力士。正面、不空羂索観音の開いた金色の腕が光っている。金色の短い脚の襞(ひだ)が光っている。足許の金色の蓮が光っている。
月光、日光両菩薩も、西からさしている薄い光線に右頼、合掌の右手が光っている。
本尊の観音像にいうべきことはない。ただ一つ、この観音の立像はすこし前屈みになっている。私はその前屈みにこの観音の慈悲を感ずるのだ。私はこの観音像を彫刻とは見ず、信仰の対象として見るのだ。前屈みといっても、京都椿寺の膝をついた観音像ほどの屈み方ではないが、高きより前へ屈みかけ、かぶさりかけているところに私は慈悲を感ずるのだ。この観音像は両眼のほかに額の真ん中に縦の眼を持っている。ピカソは人間の顔を描くとき、見える面だけでなく、見えない面も描いた。見えない面も見て知っているから描いたのだ。それだから人間の顔も、正面から見たところと、側面や裏面から見たところとを同じ平面に描き込んだ。眼が三つあることもあった。(略)
日光、月光両菩薩を私は彫刻として見る。月光菩薩のほうが好きだ。日光菩薩は顔の剥落によって見劣りするが、そればかりではない。日光の眼は物を見ているし、眼と眼が離れている。それにひきかえ月光の眼は細眼で何も見ていない。眼と眼はやや迫っている。私は物を見ていないその細眼に心をひかれるのだ。薄い光線で見る月光菩薩は、白っぼく幽かであるが、強い光線を当てて撮った写真の月光菩薩は現実のそれとは大いにちがう。天井の天蓋(てんがい)もよく見える。八方放射、勲章のような天蓋だ。それが三つある。もとより中央のは本尊の頭上にあるが、左右のはいずれの頭上にあるのか。日光、月光両菩薩の頭上とも思われ、その前の梵天、帝釈天の頭上とも思われる。左右の天蓋はそんな位置にある。しかし日光、月光の天蓋ではあるまい。この両菩薩は本来三月堂の仏ではなく、いずこからか移された客仏である。しからば左右の天蓋は三月堂創建以来、本尊の脇に侍していた梵天、帝釈天のものである。
三月堂は仏像の庫だ。堂付き仏と客仏との寄り合いだが、私は分け距てなくそれらの仏たちを見る。四天王は堂付き仏だ。東南隅、西南隅、西北隅、東北隅に、持国天、増長天、広目天、多聞天が立っている。持、増、広、多の定石どおり立っている。
内陣を出たとき、私は内庭と手水屋に眼をやって、ふたたびこころの安らぎを覚えた。(略)>>
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法華堂の真南にある経庫。手向山八幡宮の西側位置。

「カラー奈良百景」 「山口誓子全集第十巻」1977年明治書院刊に収録
参考:「古寺巡礼 奈良 東大寺」1980年談交社
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奈良斑鳩 中宮寺 草野心平「中宮寺弥勒菩薩」より

中宮寺(ちゅうぐうじ)は、尼寺で法興尼寺(ほうこうにんじ)・鵤(いかるが)尼寺とも称され、法隆寺夢殿の北東側に接している。開基は聖徳太子(厩戸皇子うまやどのみこ)。太子が母后(用命天皇皇后、穴穂部間人皇女*あなほべのはしひとのひめみこ)のために、その宮所に中宮寺を建立した。最初の寺地は、現在地の東方、法隆寺東2丁目一帯にあった(跡地は国指定史跡)。戦後の数度にわたる発掘調査で四天王寺式の伽藍配置が確認されている。
葦垣(あしがき)宮・岡本宮・鵤宮のほぼ中央に位置することから中宮と称され、寺名もその名号が使われた。現在地には永生年間(1504〜1521)に移建され、天文年間(1532〜1551)に門跡寺院となり、中宮寺御所・斑鳩御所と呼称される。
戦後、1953年に法隆寺と同じ聖徳宗に改宗。国宝の木造菩薩半跏像(飛鳥時代)が安置されている。
その弥勒菩薩の微笑む御顔を見つめていると、いつしか心に平穏というものが満ち溢れてくる。

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中宮寺本堂(1968年建立と新しく、作詩当時の草野心平は目にしていない)

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夕宵に黒く染まり始める中宮寺の西側の土塀。

草野心平「中宮寺弥勒菩薩」より
(月刊誌「いづみ」日本女性文化協会1966年7月号初出)
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  中宮寺弥勒菩薩 
斑鳩の。
中宮寺の。
土塀のなかに。
濃緑の龍柏(ろんばい)の炎がならび。
そのかげの。
御堂のなかに。
黒く独り。
弥勒菩薩の。
ニッポンの愛(かな)しい微笑(ほほえみ)が。
淡くたゆたい。
月夜の沼の水すましの。
波紋のよう。
斑鳩の。
中宮寺の。
弥勒菩薩の。

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中宮寺本堂北西の堂宇(表御殿)。

月刊誌「いづみ」日本女性文化協会1966年7月号掲載初出
「ふるさと文学館第35巻」1994年ぎょうせい刊より
参考:「寺院神社大事典 大和・紀伊」1997年平凡社刊
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2017年10月02日

奈良西ノ京 薬師寺 田中冬二「薬師寺秋思」より  

<私達は西塔の礎石跡の方へ歩を移した・・・西塔跡の心礎の水面に映る東塔>
詩人田中冬二が薬師寺を訪れ、「薬師寺秋思」を作詩した時点で、西塔は未だ再建されておらず、礎石が残されているだけであった。享禄元年(1528)9月、薬師寺の金堂・講堂・西塔が兵火に灰燼に帰している。昭和9年になり西塔跡基壇周りで地下遺構の調査が行われ、戦後、昭和56年に至って、やっと失われていた西塔が再建されて甦える。現在、西塔と同じ様式(三重、各層ごとに裳層が付けられ六重塔に見える)を持つ東塔(国宝)は長期にわたる修復工事中。塔全体がすっぽりと工事シートで覆われ、その美しい姿を垣間見ることもできない。東西の塔は宝塔であり、塔内に釈迦如来八相成道形を安置している。
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南大門脇から見た西塔の上層階。
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「薬師寺秋思」  詩集「織女」より

奈良の秋は漸く深く木犀(もくせい)の香りもうすれ
石榴(ざくろ)の木に山茶花(さざんか)に鵯(ひよどり)が来た 頬白(ほおじろ)が来た
ゆうぐれ近く薬師寺の金堂の内陣は折から勤行(ごんぎょう)の最中で
薬師如来を拝する私達二人にはこの上なき仕合せであつた
合掌の後 私達は西塔の礎石跡の方へ歩を移した

そのひとは絶えず私をささえていてくれた
暮れかかる薄明りの中に西塔跡の心礎の水面に映る東塔の水煙のかげを
私達はぴつたりと寄り添つてみた
美(うる)わしく聡明でやさしくまたよく気のつくそのひとを
水煙のかげが永遠に忘れ得ぬひとにした
奇しくも水煙の天女は夙(つと)にそのひとの思慕でもあつた

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中門横からの西塔基壇。撮影2012年4月。

詩集「織女」1978年潮流社刊
「田中冬二全集第2巻」1985年筑摩書房刊より
ルビは適宜振りました。
参考:「寺院神社大事典 大和・紀伊」1997年平凡社刊
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2017年03月18日

奈良 薬師寺から唐招提寺への道 松本清張「球形の荒野」より

近鉄西ノ京駅を降りて数分も歩くと、白鳳の大伽藍(がらん)薬師寺の與樂門(北側門)に至る。
この道が松本清張の長編「球形の荒野」の冒頭シーンに重なる。
<<芦村節子は、西の京で電車を下りた。
ここに来るのも久し振りだった。ホームから見える薬師寺の三重の塔も懐かしい。
塔の下の松林におだやかな秋の陽が落ちている。ホームを出ると、薬師寺までは一本道である。
道の横に古道具屋と茶店を兼ねたような家があり、戸棚の中には古い瓦などを並べていた。節子が八年前に見たときと同じである。昨日、並べた通りの位置に、そのまま置いてあるような店だった。空は曇って、うすら寒い風が吹いていた。が、節子は気持が軽くはずんでいた。この道を通るのも、これから行く寺の門も、しばらく振りなのである。>>
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(写真)薬師寺の伽藍を吹き抜ける風は、どこか古(いにしえ)の香りがする。白鳳の時代、天武帝の発願により建立(680年11月)された薬師寺が、現在地に移転したのは養老2年(718年)であった。未だ「日本書記」は成っていない。気が遠くなるほどの時が刻まれ続けている。

<<薬師寺の門を入って、三重の塔の下に立った。彼女の記憶では、この前来たときは、この塔は解体中であった。そのときは、残念がったものだが、いまは立派に全容を顕わしていた。
いつも同じだが、今日も、見物人の姿がなかった。普通、奈良を訪れる観光客は、たいていここまでは足を伸ばさないものである。金堂の彫刻を見終わって外に出たのが、ひるすぎであった。
あとの都合で、時間の余裕がないので、彼女は早々に薬師寺を出た。>>
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<<薬師寺から唐招提寺へ出る道は、彼女の一番好きな道の一つである。
八年前に来たときは晩春で、両側の築地塀(ついじべい)の上から、白い木蓮が咲いていたものだった。
この道の脇にある農家の切妻の家に、明るい陽が照って、壁の白さを暖かく浮き出していた。が、今日は、うすく曇って、その壁の色が黝(くろ)く沈んでいる。
相変わらず、この道には人通りが無い。崩れた土塀の上には、蔦が匍(は)っている。土の落ちた塀の具合も、置物のように、いつまでも変わらないのである。農家の庭で、籾(もみ)をこいていた娘が節子の通るのを見送った。>>
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(写真)「彼女は早々に薬師寺を出た」、その出た位置から見た唐招提寺への道。この道は、作者松本清張のお気に入りの道であった。昭和56年5月7日の日記(「清張日記」)で、薬師寺から唐招提寺への築地塀が続く道はとてもいいと褒めており、「球形の荒野」冒頭で、「彼女の一番好きな道の一つである。」と芦村節子に託して取り入れている。
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(写真)「球形の荒野」執筆当時と変わらないままの崩れた土塀。時は止まったままだ。
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(写真)薬師寺から唐招提寺への道の傍らにある石塊、薬師寺北門址。

<<唐招提寺に着くと、いつの間にか門がきれいになっていた。そういえば、前に来たとき、この門はずいぶん荒れていた。ほとんど柱の下が朽ちかけて、苔のある古い瓦を置いた屋根が、不安定に傾いていたのだ。しかし、あのときは門のそばに山桜が咲いて、うすく朱の残った門柱の上部にそれがよく似合い、ふしぎに「古代の色」といったものを感じさせたものだった。>>
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(写真)薬師寺からの道は唐招提寺に突き当る。右折すると唐招提寺の南大門が見える。

「球形の荒野」オール読物 昭和35年1月〜昭和36年12月連載
「松本清張全集6」文藝春秋社1971年刊より抜粋
参考 「古寺巡礼 奈良 薬師寺」淡交社1980年刊

松本清張リンク
京都 円山公園 いもぼう平野屋本家 松本清張「球形の荒野」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/322024530.html
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2016年12月06日

奈良 幸町 志賀直哉旧居跡 「転居二十三回」より

大正14年(1925年)4月7日、志賀直哉42歳、奈良在住の九里四郎のすすめにより、5ケ月少々住んだ京都府宇治郡山科村(*当時の住居表示)から奈良市幸町(さいわいちょう)に移る。転居理由は、4人目の子供の出産を控えて山科の家では手狭になるためである。
<<半年位で今度は山科(やましな)に引越しました。醍醐の山など見渡せるいい所で、人の別荘でした。縁側の下まで池がずっと入つてゐて、大きな鯉が沢山居て、仲々よかつたです。しかし子供が三人あつたのに、そこに直吉が生れる時で、一寸(ちよつと)産室もとれないやうな家だつたので、一年半ゐて、今度は奈良に移りました。奈良では四年間、借家をしてから高畑(*奈良市内、徒歩圏内)に家を建てました。>>志賀直哉「転居二十三回」(初出1958年7月)より(「志賀直哉全集第10巻」1999年岩波書店刊収録)。

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志賀直哉の奈良における最初の住居(現在は奈良市紀寺町)。

幸町の借家には、菊池寛(小説家、文芸春秋創始者、芥川・直木賞創設者)が子分!?直木三十五を連れて訪れている。「志賀直哉交友録」1998年講談社学芸文庫収録の「菊池寛の印象」より抜粋。
<<菊池寛(きくちかん)君とは二十二三年の間に五六度会っている。それも二人だけで話した場合は一度もなかった。昭和一二(いちに)年の頃、奈良幸町の寓居に直木三十五(なおきみそご)等を連れ、訪ねてくれたのが最初で、それから十年程会う機会がなく、谷崎鮎子さんの結婚披露で会ったのが二度目だった。(略)>>
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東より西向きに撮影。突き当りは超願寺(紀寺地蔵町)。

移転直後の大正14年5月26日、移転理由となっていた次男直吉が生まれる。
翌大正15年(昭和元年)11月、休載中の「暗夜行路」続篇(のちの後篇第四の一〜三)を発表(「改造」誌)、さらに昭和2年にかけて「暗夜行路」続篇(のちの後篇第四の四〜十三)を書きつぐ。昭和4年2月16日、確執のあった実父直温が76歳で没する(麻布三河台の邸宅=六本木にて)。同年4月、新築完成した奈良市上高畑の家に移る。

参考:「志賀直哉全集第22巻」(年譜)2001年岩波書店刊

志賀直哉リンク
京都山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447574437.html
京都円山 左阿弥 志賀直哉「暗夜行路」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/422883782.html
姫路 お菊神社 志賀直哉「暗夜行路」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/453968932.html
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2016年10月02日

奈良 円照寺 三島由紀夫「豊饒の海(一)春の雪」より

三島由紀夫が自らライフワークと位置付けた「豊饒の海」四部作の第一巻にあたる「春の雪」から、主要舞台となる円照寺(月修寺のモデル寺院)に関した部分を抜粋。 

<< 道のべの羊歯(しだ)、藪柑子(やぶこうじ)の赤い実、風にさやぐ松の葉末、幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥(おびただ)しい芒(すすき)、そのあいだを氷った轍(わだち)のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入っていた。>>
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(円照寺の山門までの長く白い参道。約500mは山林・竹林を吹き抜ける風の音を聞きながら歩く。)

<< この、全くの静けさの裡の、隅々まで明晰な、そして云わん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、その奥の奥の奥に、まぎれもなく聡子(さとこ=綾倉伯爵の娘)の存在が、小さな金無垢の像のように息をひそめていた。歩むうちに息が苦しくなり、清顕(主人公松枝侯爵の子息)は路傍の石に腰を下ろした。何枚も衣類を隔てているのに、石の冷たさは直ちに肌に触れるように感じられた。彼は深く咳(しわぶ)き、咳くほどに、手巾(ハンケチ)に吐いた痰が鉄銹(てつさび)のいろをしているのを見た。(略)
ーー彼はやっと立上った。このまま雪の中を寺まで辿りつけるか危ぶまれて来たのである。やがて杉木立の下に入ると風はいよいよ寒く、耳に風音がはためいて来た。杉の木の間の水のような冬空の下に、冷たい漣(さざなみ)の渡る沼が見えはじめ、これをすぎれば、さらに老杉は鬱蒼として、身にふりかかる雪もまばらになった。 >>
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(右手に沼というか大きな池が現れる。三島が描写したとうりだ。)

<< 清顕はただ次の足を前へ運ぶことのほかには念頭になかった。彼の思い出は悉(ことごと)く崩壊し、少しずつ躙(にじ)り寄ってゆく未来薄皮を、少しずつ剥がしてゆく思いだけがあった。黒門は知らぬ間に通りすぎ、雪に染った菊花の瓦を庇につらねた平唐門がすでに目に迫った。>>
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(清顕が気付かぬうちに通りすぎた黒門。)

<<−−清顕は二十一日の晩(ばん)大阪のホテルに泊り、あくる朝早くホテルを出て、桜井線帯解(おびとけ)駅まで汽車に乗り、帯解の町の葛の屋旅館という商人宿に部屋をとった。部屋をとるとすぐ俥(くるま)を命じて、月修寺を志した。門内の坂道を俥を急がせ、平唐門に就いたところで下りた。 >>
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(JR桜井線帯解駅。三島が取材で訪れた時のままの駅舎が、止まった時間の中で永遠に佇んでいるように見えてならない。「帯解の町の葛の屋旅館」は創作だろう。旅館どころか小さい商店といえど少し駅を離れると見当たらない。畑がどこまでも広がっている。右写真の突き当り風に見える所を右折すると円照寺方向。)

<< あくる日の二十四日の朝は、起きるとから不快で、頭は重く、体は倦(だる)かった。しかし、ますます行(ぎょう)じ、ますます苦難を冒すほかに聡子に会う手だてはないと思われたので、俥もたのまず、宿から寺まで小一里の道を歩いて行った。 >>
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<< 幸い美しく晴れた晴れた日ではあったが、歩行は辛く、咳は深まるばかりで、胸の痛みは時折、胸の底の砂金を沈めたように感じられた。月修寺の玄関にたったとき、又激しく咳に襲われたが、応対に出た一老は顔色も変えずに同じ断わり文句を言った。>>
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(主人公清顕が、恋人聡子が、親友本多が、何度となくくぐった山門。)

<< この日、大和平野には、黄ばんだ芒野(すすきの)に風花が舞っていた。春の雪というにはあまりに淡くて、羽虫が飛ぶような降りざまであったが、空が曇っているあいだは空の色に紛れ、かすかに弱日(よろび)が射すと、却ってそれがちらつく粉雪であることがわかった。寒気は、まともに雪の降る日よりもはるかに厳しかった。(略) 彼は心にひたすら聡子の名を呼んだ。時は空しく過ぎた。今日になってはじめて宿の者に病気が気づかれ、部屋は温められ、何くれとなく世話を焼いて来たが、彼は看護も、医者を呼ぶことも頑なに拒んだ。 >> 以上、「春の雪」(豊饒の海・第一巻)新潮文庫版より。

清顕の病状を知った学習院の親友本多繁邦は、大事な試験の期日が迫る中、東京から帯解の宿に駆け付ける。病に伏せる清顕に替って月修寺を訪れ、門跡に直々に会い、出家し染衣をまとう聡子に清顕の思いを伝えるべく面会を懇願するが徒労に終る。本多が帰京した二日後、衰弱した松枝清顕は、帯解の宿で二十歳の短い一生を終える。ここで四部作の最初の巻は幕を下ろし、第二巻「奔馬」へと転生してゆく。

月修寺のモデルとなった円照寺の略史(「寺院神社大事典」参照)
円照寺は奈良市山町の東方にある。俗に山村御殿と呼ばれる。号は普門山、臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観音。開山は後水尾天皇の第一皇女の梅宮。法華寺・中宮寺と並ぶ大和三門跡のひとつ。
寛永18年(1641年)梅宮が京・修学院に草庵を結んだのち、明暦2年(1656年)に八島村(奈良市)に移し、さらに13年後、山村(現在地)に寺地を定め、現在に至る。この信頼に足る事典には、門跡・山本静山尼が大正天皇の息女ではあるまいかという「噂」「疑問」などは一行も記載されていない。

 *帯解駅から円照寺周辺の参考マップ
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小説「豊饒の海」(四巻)関連略年譜
昭和40年
 2月20日 小説「音楽」中央公論社刊行。
 2月22日 小説「豊饒の海」(四部作)執筆のため京都、奈良に取材旅行。
 2月24日 三島、京都上京区堀川寺之内通の尼門跡・竹之内御所(源氏物語ゆかりの薄雲御所)と
      光照院(竹の内御所から東へ徒歩圏内)を訪問。
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      (京都の尼門跡寺院もモデル地として選択肢に含まれていたのだろうか。) 
 2月26日 三島単独で奈良帯解の尼門跡・円照寺(主要舞台となる月修寺のモデル)を取材訪問。
 2月27日 帰京。
 6月 「豊饒の海」第1巻「春の雪」起筆(「ライフワーク」に取り掛かる)。
 9月 文芸誌「新潮」に「春の雪」連載開始。
 11月18日 三島、帯解の円照寺訪問。
昭和41年
 6月17日 「豊饒の海」第2巻「奔馬」の取材で奈良訪問。
 11月25日 「春の雪」脱稿。
 12月 「新潮」1月号で「春の雪」連載終了。
昭和42年
 1月28日 第2部「奔馬」第1回を執筆。
昭和45年
 7月20日 京都に到着。 
 7月22日 最後の帯解・円照寺訪問。「豊饒の海」最終巻「天人五衰」の取材。中井執事が対応。
 8月11日 最終巻「天人五衰」ほぼ脱稿。大作「豊饒の海」全四巻の完成に約6年を費やす。
 11月25日 10時13分過ぎ、保管中の「天人五衰」最終回原稿140枚(11月25日の日付)を
      お手伝いに託して外出。その約2時間後、市ヶ谷で割腹自決。
   *年表は「三島由紀夫全集42巻年譜」2005年・「三島由紀夫・年表作家読本」1990年を参照。
   *円照寺は、非公開(拝観不可)。
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三島由紀夫リンク
京都土御門町 安倍晴明邸址 三島由紀夫「花山院」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/372786698.html?1494827046
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2014年07月11日

奈良 西ノ京 唐招提寺

天平の遠い時代の古寺から古寺を巡り歩くと、その時を重ねた美しさに陶然としながらも、あまりに神仏への不心得具合に茫漠とした感に支配されてくる。大阪から奈良へ向う近鉄の車内で、「大和古寺風物誌」(文庫版)に目を通して下準備を済ませたつもりでいるのだから情けない。
西ノ京駅に降り立ち、唐招提寺(とうしょうだいじ)への道を歩き始める。薬師寺を背にしてその真っ直ぐな道を進むと、外塗が崩れ落ちた築地塀が目に止まる。立ち止りカメラを取り出す。その荒廃した感がたまらなく好きなのだ。
さきほど読んだ亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」の「唐招提寺」の章を、所々抜き出してゆく。
<<薬師寺から北へ三丁ほど歩いて行ったところに唐招提寺がある。この道筋には古風な民家が散在し、その破れた築地のあいだより、秋の光りをあびて柿の実の赤く熟しているのが眺められた。燻(くす)んだ黄色い壁と柿のくれないとが、よく調和して美しい。また辺り一帯には松の疎林があり、樹間をとおして広々とした田野がみえる。刈入れのすんだところは稲束が積みかさねられ、畦道(あぜみち)には薄(すすき)が秋の微風をうけてゆるやかになびいている。すべて古の平城京の址である。>>
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右の唐招提寺の案内図によって伽藍の配置は理解できると思う。右下(東南)に東塔跡と表示されるのが、810年(大同5年)4月15日建立の五重塔跡。下側(南)が薬師寺方向になる。唐招提寺の境内の広さは創建当時と変わらない約2万坪。

<<唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。伽藍配置のかもし出す整然たる調和の美しさであって、わたしはそれをみたいためにやってくるのだ。奈良朝の建築の精華はここにほぼ完璧な姿で残っていると云ってもよかろう。希臘(ギリシャ)の神殿を彷彿せしむるような円柱の立ち並んだ金堂(こんどう)、平城京の朝集殿と伝えらるる講堂、及びその西側に細長く建っている舎利殿、小さく可憐な二階造の鼓楼、この四つの伽藍が秋の光りを一杯にうけて粛然と静まりかえっている状景は無比である。燻んだ御堂の柱や横木の間に塗られた白壁が、秋には一層映えて、全体として明るい華やかな感じにあふれ、寺院というよりは宮殿といったほうがふさわしいくらいだ。金堂の右側にある休憩所の辺に立つと、四つの堂を一望に眺めることが出来る。この四つの堂が奏でる壮麗な調和にいつも関心する。その一つ一つを切り離しては考えられないのである。>>
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南大門の奥正面に荘重にして優雅な姿で佇む金堂(国宝)。寄棟造・本瓦葺・造営年は諸説有る。江戸元禄初期の修理で屋根が2m以上高められた。
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金堂の南正面に有名な8本の列柱。壁や窓がない柱だけの構造を吹放し(ふきはなし)と呼ぶ。
<<金堂だけであったならば、あまりにもいかめしく重厚であろう。講堂のみを眺めると唐の宮殿のように華麗で、寺としての陰影に乏しい。鼓楼はそれ一つを離すとあまりに華奢であり、舎利殿は整備されすぎて古典の重みに欠ける。ところがこの四つの堂が揃うと、互に不足のところを補いあって、遂に欠点を見出せない、という不思議な効果をもった配置なのである。>>
<<鑑真の率いた弟子達がかような効果を当初から念願したのであろうか。或は大唐の文化に学び、数々の寺院を建てて、漸く円熟自在の境に入った天平建築家の感覚が、おのずからこうした状景をつくり出したのであろうか。乃至はもっと後代の作為なのか。それとも秋の光りの戯れなのか。 ー昭和17年秋ー>>以上、「大和古寺風物誌」ー唐招提寺ーより
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(左写真)奥正面が講堂(国宝)。左端に少し見える屋根が金堂。平城宮の宮殿の唯一残る遺構。平城宮の東朝集殿を移設したもの。移設された年月は諸説有る。創設者・鑑真和上の在世中に移設されたとする説が有力。(右写真)左写真から視線を右に少し送ったところ。現在は鼓楼と称される舎利殿(国宝)と南北に長い大きな建物が礼堂(らいどう)(重文)。舎利殿は明治末期の解体修理の際に、1240年(鎌倉時代・鎌倉大仏建立の2年後)の上棟と判明。
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(左写真)上2枚の写真からさらに右に向いた所。左端の建物が礼堂。その東側に外観の似た2棟の校倉造(あぜくらづくり)の蔵が立つ。写っているのが経蔵(国宝)。北側に宝蔵(国宝)がやや離れて並び立っている。屋根は寄棟造。(右写真)金堂に使用されていた創建時の瓦。金堂修理時に数えられた総枚数は4万枚だった。
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御影堂(重文)。1962年(昭和37年)に旧・興福寺一条院(江戸初期慶応年間築)の宸殿・玄関等を移築したもの。日本最古の肖像彫刻(弟子忍基らの制作)である唐招提寺を創建した乾漆鑑真和尚(わじょう)坐像(国宝)を安置してある。

鑒真(鑑真)和上の渡日に関する記述が「今昔物語集」巻第十一本朝・仏法の第八に語られている。平凡社「今昔物語集第1巻本朝部」(全6巻)東洋文庫から部分抜粋。
鑒真和尚(がんじんわじょう)、震旦(しんだん)より本朝に渡って戒律を伝える語(こと)第八 p29より
<今は昔、聖武天皇の御代に、鑒真和尚という聖人がおいでになった。この人はもと震旦の揚州、江陽(こうよう)県の人で、俗姓は涼(淳)于氏である。はじめ、大周の則天武后の代、長安元年という年に十六歳で知満禅師(ちまんぜんじ)という僧について出家し、菩薩戒を受けて龍興寺という寺に住み、年ごろ戒律をよく守って暮らしていたが、次第に年を重ねて老境に至った。(略)>
以下は要約。(聖武天皇は仏教界に正式に授戒した僧がいないことを憂い、導師を中国に求め、大安寺の栄叡と興福寺の普照の両師を派遣する。船出は天平5年733年4月3日であった。それから20年後・・・) 天宝12年(?)10月28日、鑑真は供を従え、栄叡(ようえ)とともに日本に渡って戒律の法を伝えようと龍興寺を出立する(6回目の試みと伝わる。その間に栄叡らは病死)。数ヶ月の後(遣唐使副使・大伴古麻呂の帰朝する官船で)、12月25日に薩摩国秋妻の浦に着く。そこで年を越し、天平勝宝6年(754年)1月、大伴古麻呂(従四位上)に託し都に奏上。唐僧鑑真、法進ら8人は都へ向う。鑑真らは2月1日に摂津国難波に着く。孝謙天皇は藤原仲麿を遣わして来意を尋ねる。鑑真は戒律の法を広め伝える旨を奏上する。天皇は、吉備真備(きびのまきび)をして、東大寺に戒壇を築き戒律を伝えよとの詔勅を下す。その後、ただちに東大寺の大仏の前に戒壇を築き(天平勝宝6年春)、鑑真を授戒の師として壇に登り戒を受ける(聖武上皇・皇后・孝謙天皇ら4百余名に)。その後は大仏殿の西方に別に戒壇院を建て(天平勝宝7年10月)、様々な人が壇に登って戒を受けた。皇后の病気に際しては鑑真が投与した薬が薬効あって平癒する。天皇は大僧正の位を授けるが鑑真は辞退する。改めて大和尚(和上)の位を授け(天平宝字2年)、さらに新田部(にいたべの)親王の旧地を鑑真和上に授ける。(天平宝字3年8月3日)そこに寺を建てたのが唐招提寺である。天平宝字7年(763年)5月6日、鑑真和上は顔を西に向け、結跏趺坐(けっかふざ=禅定の際の安座の仕方)して亡くなられた(77歳)。
*()内は、今昔物語集には記述が無い部分を注釈として付記。

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松尾芭蕉句碑。1688年(元禄元年)、松尾芭蕉が唐招提寺を参詣し鑑真和上坐像を拝した際、渡日の重なる辛苦から失明したことに心を寄せて句を詠む。<若葉しておん目の雫拭はばや> 芭蕉の句碑は境内食堂跡の旧開山堂脇に建っている。(右写真)詩人北原白秋の詩碑
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唐招提寺の最奥部にある鑒真大和上(がんじんわじょう)御廟。鑒真の文字が使われている。
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(左写真)鑑真和上御廟
参考
「大和古寺風物誌ー唐招提寺ー」亀井勝一郎 新潮文庫1953年刊
「古寺巡礼 奈良 唐招提寺」淡交社1979年刊
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