
「土曜夫人」連載中の讀賣新聞の死亡記事(朝日新聞は9行と短め)。
太宰治「織田君の死」より抜萃。
<<織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。(略)>>「太宰治全集10」 1989年筑摩書房より

通夜が営まれた東京病院近くの天徳寺。

死去時の現住所が置かれていた大阪南河内郡富田林町の竹中国治郎方跡付近。
「織田作之助全集3」の月報「織田作の墓」吉村正一郎より。
<<さて大阪上本町四丁目、詳しくいうと天王寺区城南寺町一番地の二、楞厳寺(りょうごんじ)という浄土宗の寺に、織田作の塞があるのをごぞんじだろうか。織田作の墓は本堂前の左手にある。拳大の石で縁(ふち)どった幅一メートル半ほどのコンクリートの基盤の上に一メートル幅の自然石を重ね、合わせて約六〇センチのその高さの上に、光背形に造形した自然石の墓碑が立っている。墓碑は高さ一七〇センチばかり、痩躯長身であった『夫婦孝哉』の作者の脊丈よりはやや低いだろうか。表を平坦にして「織田作之助墓」の六字が刻まれている。
わたしは墓前に立って、しばらく墓の字を眺めた。この字は二十年前にわたしが書いたものだ。もとより鑑賞に堪え得るほどの出来栄えではないが、さりとて拙劣というほどでもなかろう。わたしが書けは、まあこんなところで、もっと巧く書けと言われても無理である。織田君にもこれは我慢してもらうほかはない。
墓碑は裏面をやはり平らにした中央部に墓誌が刻まれている。それを読むために、わたしは墓の後に回わった。この墓が建てられた二十年前には後は空いていて、人がゆっくり立つことが出来たのに、いまではいくつも墓がならんでいて、ひどく窮屈になっている。おまけに南から西へ傾いた冬の日射しが墓の表に斜めに射し込んで、逆光の中で碑面はいっそう暗く、細かい文字はなかなか読みとれない。わたしは眼鏡をかけたり外したり、目を細めたり、首を突き出したり、どうやらやっと字面をたどる。
小説家織田作之助ハ大正二年一月二十六日大阪市天王寺区上汐町ニ織田鶴吉たかゑノ嫡男トシテ
生レ高津中学校ヲ経テ第三高等学校二学ソダ天賦ノ文才ハ夙(*はや)クヨリ現レ処女作夫婦善哉ニ
ヨツテ一躍新進作家ノ最前列ニ加へラレタ 爾来ソノ警抜ノ着想ハ奔逸シテ郷土大阪及ビ大阪人ヲ主
題トスル長短ノ佳篇ヲ相次イデ発表昭和文壇随一ノ小説巧者ノ名ヲ擅(*ほしいまま)ニシタサレド惜ム
ベシ鬼才ハ文学ヲ熱愛スルノ余り虚弱ノ己ガ肉体ヲ忘レタ 即チ読売新聞ニ長編土曜夫人ヲ連載中京
都ノ旅舎ニ宿痾革マリ昭和二十二年一月十日ロマンヲ発見シタノ伝説的ナ一語ヲ遺シ世ヲ挙ゲテノ哀
惜ノ裡ニ忽焉トシテ天折シタ 行年三十五歳
昭和二十三年十一月 藤沢桓夫 文
吉村正一郎 書 >>

現・大阪天王寺区城南寺町の浄土宗楞厳寺(りょうごんじ)。西面する山門。
<<碑文の左下の隅に戒名が二つならべて彫ってある。右の常楽院章誉真道居士は織田君、左の一誉妙鏡禅定尼は彼の死に先だつこと二年半、昭和十九年七月八口に病没した最初の夫人、一枝さんの戒名である。楞厳寺(りょうごんじ)住職、田尻玄竜師は何の前触れもない突然の訪問者を快く客間に迎えて下さった。住職はどうやらわたしの姓名を覚えておられたらしい。わたしにとって思いがけなかったのは、この人が織田作と高津中学(現在の高津高校)時代の同級生であったことだ。(略)>>

楞厳寺本堂正面脇に置かれた織田作の墓。
<<一誉妙鏡禅定尼についてわたし自身は何ら知るところがなかった。これも田尻師の話であるが、一枝さんは織田の三高時代からの愛人で、結婚生活における彼女は良人に対してまったく献身的な女性であった。『夫婦善哉』の成功で文名ようやく挙り、旺盛な創作力を発揮しはじめた頃であった。毎日のように訪客があり、客を相手に気焔を上げ、酒を飲んだ。客が帰ってから深夜に仕事にとりかかるが、一枝夫人はいつも良人の机の側に坐り、字引を膝の上に置き、字を聞かれるたびにそれを探し出して良人に示した。これが彼女の仕事だった。良人は徹夜で原稿を書き、朝から夕方まで死んだように寝た。妻は昼間も寝るわけにはいかなかった。こんなことが毎日のように続いた。良人が虚弱なからだを痛めたのは勿論だが、それよりも一足先きに妻の健康がポロポロに破壊された。彼女が死んだ時、織田作の悲歎はよそ目にも痛ましいものがあった。
「あの女は僕が殺した。あんな女はもうどこにもいない」
彼女の葬儀がやはり楞厳寺でいとなまれた日、織田は旧友の住職、田尻師にしみじみ述懐したそうである。(略)>>
「織田作之助全集3」1970年講談社より
織田作之助リンク
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