2018年06月28日

大阪 楞厳寺 織田作之助の墓 太宰治「織田君の死」・吉村正一郎「織田作の墓」より

小説家織田作之助は、1946年(昭和21年)12月上京中の宿舎で結核による喀血のため倒れ、芝区田村町(港区西新橋3丁目)の東京病院(現・東京慈恵会医科大学病院)に入院。療養中のところ病状は好転することなく翌年1月10日に死去。享年33。東京病院近くの天徳寺で通夜が営まれ、同月13日に桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。讀賣新聞に連載中だった小説「土曜夫人」が絶筆。自宅があった大阪南河内郡富田林町の竹中方でも通夜が営まれ、1月23日に大阪上本町4丁目の浄土宗楞厳寺(りょうごんじ)で、旧制高津中学時代に織田作之助と同級であった住職田尻玄龍のもとで葬儀が営まれた。葬儀委員長は作家藤沢桓夫、喪主は義兄竹中国治郎。
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「土曜夫人」連載中の讀賣新聞の死亡記事(朝日新聞は9行と短め)。 

太宰治「織田君の死」より抜萃。
<<織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。(略)>>「太宰治全集10」 1989年筑摩書房より
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通夜が営まれた東京病院近くの天徳寺。
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死去時の現住所が置かれていた大阪南河内郡富田林町の竹中国治郎方跡付近。

「織田作之助全集3」の月報「織田作の墓」吉村正一郎より。  
<<さて大阪上本町四丁目、詳しくいうと天王寺区城南寺町一番地の二、楞厳寺(りょうごんじ)という浄土宗の寺に、織田作の塞があるのをごぞんじだろうか。織田作の墓は本堂前の左手にある。拳大の石で縁(ふち)どった幅一メートル半ほどのコンクリートの基盤の上に一メートル幅の自然石を重ね、合わせて約六〇センチのその高さの上に、光背形に造形した自然石の墓碑が立っている。墓碑は高さ一七〇センチばかり、痩躯長身であった『夫婦孝哉』の作者の脊丈よりはやや低いだろうか。表を平坦にして「織田作之助墓」の六字が刻まれている。
わたしは墓前に立って、しばらく墓の字を眺めた。この字は二十年前にわたしが書いたものだ。もとより鑑賞に堪え得るほどの出来栄えではないが、さりとて拙劣というほどでもなかろう。わたしが書けは、まあこんなところで、もっと巧く書けと言われても無理である。織田君にもこれは我慢してもらうほかはない。
墓碑は裏面をやはり平らにした中央部に墓誌が刻まれている。それを読むために、わたしは墓の後に回わった。この墓が建てられた二十年前には後は空いていて、人がゆっくり立つことが出来たのに、いまではいくつも墓がならんでいて、ひどく窮屈になっている。おまけに南から西へ傾いた冬の日射しが墓の表に斜めに射し込んで、逆光の中で碑面はいっそう暗く、細かい文字はなかなか読みとれない。わたしは眼鏡をかけたり外したり、目を細めたり、首を突き出したり、どうやらやっと字面をたどる。
  小説家織田作之助ハ大正二年一月二十六日大阪市天王寺区上汐町ニ織田鶴吉たかゑノ嫡男トシテ
  生レ高津中学校ヲ経テ第三高等学校二学ソダ天賦ノ文才ハ夙(*はや)クヨリ現レ処女作夫婦善哉ニ
  ヨツテ一躍新進作家ノ最前列ニ加へラレタ 爾来ソノ警抜ノ着想ハ奔逸シテ郷土大阪及ビ大阪人ヲ主
  題トスル長短ノ佳篇ヲ相次イデ発表昭和文壇随一ノ小説巧者ノ名ヲ擅(*ほしいまま)ニシタサレド惜ム
  ベシ鬼才ハ文学ヲ熱愛スルノ余り虚弱ノ己ガ肉体ヲ忘レタ 即チ読売新聞ニ長編土曜夫人ヲ連載中京
  都ノ旅舎ニ宿痾革マリ昭和二十二年一月十日ロマンヲ発見シタノ伝説的ナ一語ヲ遺シ世ヲ挙ゲテノ哀
  惜ノ裡ニ忽焉トシテ天折シタ 行年三十五歳
      昭和二十三年十一月 藤沢桓夫 文
                    吉村正一郎 書  >>
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現・大阪天王寺区城南寺町の浄土宗楞厳寺(りょうごんじ)。西面する山門。

<<碑文の左下の隅に戒名が二つならべて彫ってある。右の常楽院章誉真道居士は織田君、左の一誉妙鏡禅定尼は彼の死に先だつこと二年半、昭和十九年七月八口に病没した最初の夫人、一枝さんの戒名である。楞厳寺(りょうごんじ)住職、田尻玄竜師は何の前触れもない突然の訪問者を快く客間に迎えて下さった。住職はどうやらわたしの姓名を覚えておられたらしい。わたしにとって思いがけなかったのは、この人が織田作と高津中学(現在の高津高校)時代の同級生であったことだ。(略)>>
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楞厳寺本堂正面脇に置かれた織田作の墓。  

<<一誉妙鏡禅定尼についてわたし自身は何ら知るところがなかった。これも田尻師の話であるが、一枝さんは織田の三高時代からの愛人で、結婚生活における彼女は良人に対してまったく献身的な女性であった。『夫婦善哉』の成功で文名ようやく挙り、旺盛な創作力を発揮しはじめた頃であった。毎日のように訪客があり、客を相手に気焔を上げ、酒を飲んだ。客が帰ってから深夜に仕事にとりかかるが、一枝夫人はいつも良人の机の側に坐り、字引を膝の上に置き、字を聞かれるたびにそれを探し出して良人に示した。これが彼女の仕事だった。良人は徹夜で原稿を書き、朝から夕方まで死んだように寝た。妻は昼間も寝るわけにはいかなかった。こんなことが毎日のように続いた。良人が虚弱なからだを痛めたのは勿論だが、それよりも一足先きに妻の健康がポロポロに破壊された。彼女が死んだ時、織田作の悲歎はよそ目にも痛ましいものがあった。
「あの女は僕が殺した。あんな女はもうどこにもいない」
彼女の葬儀がやはり楞厳寺でいとなまれた日、織田は旧友の住職、田尻師にしみじみ述懐したそうである。(略)>>
「織田作之助全集3」1970年講談社より
織田作之助リンク
大阪 北野田の六軒長屋 織田作之助「蚊帳」「高野線」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383884815.html
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383338605.html
大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383495231.html
大阪 木の實 織田作之助の短編「大阪発見」からhttp://zassha.seesaa.net/article/385693058.html
大阪 道頓堀 いづもや 織田作之助「夫婦善哉」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/386771536.html
京都 祇園 料亭備前屋 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/459921840.html
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2018年01月16日

大阪 大坂城天守前広場の作家・海音寺潮五郎 井伏鱒二「入隊當日のこと」より

戦時中の昭和16年11月、大坂城本丸天守前広場での海音寺潮五郎の背につるした日本刀のエピソード。そのエピソードは、薩摩を故郷とする歴史作家・海音寺潮五郎の諸作品に流れる基調(気概)に相通じるものがある。
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大坂城とその一帯は、戦前においては国内でも屈指の陸軍施設(第四師団基幹の第八聯隊、第三十七聯隊・陸軍砲兵工廠=軍需工場・大阪憲兵隊本部・陸軍病院等)が集結するエリアであった。天守前広場には陸軍第四師団司令部庁舎の建物が今日まで残されている(市立博物館として使用されていたが2001年に閉鎖)。

井伏鱒二「入隊當日のこと」より抜萃。
<<最近の海音寺潮五郎さんのことは知らないが、戦争中に陸軍徴用で入隊した當(当)時のことなら知つてゐる。昭和十六年の秋から翌年の秋にかけ、私は海音寺さんと同じ徴用仲間であつた。そのころの軍隊用語で云へば戦友である。
 十六年十一月中旬、徴用令状を受けた私たちは大阪城の天守閣前の廣(広)場に集結し、陸軍中佐の輸送指揮官に引率されて大阪市の兵隊屋敷に入隊した。一同百二十餘名、職業は種々さまざまであつた。新聞記者、雑誌編輯者、映畫(画)のカメラマン、新聞社の寫(写)眞部員、外地勤務の経験ある商社員、小説家、詩人、評論家、歯科医など。
 徴用者心得書には、なるべく目立たぬ服装で軍刀を持参せよと書いてあつた。たいていの人はジャンパーまたは背廣を着て軍刀を紫の袋に入れて持つてゐたが、私は釣師の服装をして細身の軍刀を入れた竿袋を持つてゐた。(略)>>
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大坂城本丸復興天守(徳川氏が再建した天守位置・昭和6年築)から見る天守前広場と旧第四師団司令部庁舎。

<<歴史小説家で日本史に詳しい海音寺潮五郎は、朱鞘の大刀を眞田紐で不断着(普段着)の背中へぶら下げてゐた。これにはみんな驚いた。今ならテレビでよく見る忍者の風體(体)だが、當時のことだから中国の物語にある股くぐりの韓信みたいだと云ふ人がゐた。宮本武蔵と對決した佐々木小次郎みたいだといふ人もゐた。海音寺白身は超然として長い刀を背負つてゐた。徴員たちは兵舎に入ると宣誓式をさせられて、宣誓書に判を捺させられた。これでもう地方人ではなくて軍籍に身を置いた者といふことになる。生命は指揮官の掌中に握られてしまつた。ところが指揮官の訓辞が強引にすぎた。宣誓式がすむと壇上に出て、いきなり居丈高にかう云つた。
「お前たちの生命は、今からこの俺が預かつた。ぐずぐず云ふ者は、ぶつた斬るぞ・・・」
すると徴員たちの誰か一人が、
「ぶつた斬つて見ろ」と大きな聲(声)で云つた。一同騒然となつた。途端に卒倒して医務室に擔(かつ)ぎ込まれる者がゐた。これは癲癇(てんかん)の發作を起して倒れたといふことで、即日歸(帰)郷になつたので、みんなから大いに羨やまれた。
 「ぶつた斬つてみろ」と云つたのは海音寺潮五郎であつた。當時、軍人に向つて、しかも自分の直属指揮官に向つて、そんな發言するのは容易な覚悟ではない。背中の日本刀がそれを發言させたわけでもあるまいが、常識では考へられぬことである。海音寺さんは戦地に着いてからもずつとそんな態度を崩さなかつた。朱鞘の大刀も相變らず背中にぶら下げてゐた。自分で納得が行かないと梃子(てこ)でも動かない人に見えた。>>

井伏鱒二「入隊當日のこと」海音寺潮五郎全集月報十三より(昭和45年10月)。
「文士の風貌」井伏鱒二1991年福武書店刊に収録。

井伏鱒二リンク
兵庫篠山 篠山城 井伏鱒二「篠山街道」と立原正秋「謎を秘めた篠山城跡」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442950773.html   
山梨 甲府城址の目ざわり石塔 井伏鱒二「甲府−オドレの木の伝説」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447573364.html
難司ケ谷 夏目漱石墓改葬式典 井伏鱒二「五十何年前のこと」から http://zassha.seesaa.net/article/448168179.html
荻窪清水町 井伏家に身を寄せる太宰治の元妻小山初代 井伏鱒二「琴の記」より http://zassha.seesaa.net/article/443372590.html
滋賀 安土セミナリヨ跡 井伏鱒二「安土セミナリオ」より http://zassha.seesaa.net/article/453810803.html
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2017年03月14日

大阪北浜 淀屋橋 落語「雁風呂」六代目三遊亭圓生より

大坂の豪商淀屋の話なんですが、落語なんで、こまかいところはちょいと史実と違っておりますが、気にしてうだうだ言ってると、気の短い魚屋の太助はんに「どけ!どきやがれ!」とけっとばされまっせ。(一心太助って江戸日本橋川の魚河岸近くの長屋住まいやったな、ここは土佐堀川でっせ)
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(写真)土佐堀川に架かる淀屋橋(昭和10年架橋)。川向う(中之島)の大阪市役所(右)と日銀支店(左)。

以下、「新版圓生古典落語1」集英社文庫より抜粋。
<<大阪へまいりますと、淀屋辰五郎(*1)という人が一代に巨万の富を築いたという、小揚(こあげ)の人足だったといいますから、まァ自由労務者でございます、それが大変な金を残したという・・・。
大阪へまいりますと有名な、淀屋橋という橋がありますが、あれは辰五郎が一人であすこへ橋を架けたといいます、川上(かみ)へまいりますと浪速(なにわ)橋、川下(しも)へゆくと肥後橋・・・どっちかへまわらないと、中之島へ渡ることが出来ませんので、これへ橋がないと不自由だというので、淀屋が架けましたので屋号をそのままに淀屋橋と申します、そばに淀屋小路(しょうじ)というものがある・・・これが関東(こちら)と関西(むこう)と違いまして、江戸では小路(しょうじ)といわず小路(こうじ)と申します。広小路、あるいは浮世小路、式部小路なんという・・・関西(むこう)では小路(しょうじ)と申します。>>
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<<あすこはもと、貧民窟だったんだそうで・・・貧乏人ばかりが住んでおりました。
夜があけてここへ入ります、米屋から薪(まき)屋、炭屋、あるいは魚屋、八百屋、その他、日用品全部の払いは、この淀屋辰五郎が一手に引き受けて払っていたといいますから、ずいぶん大きな慈善事業・・・
しかしそのくらい善い事をしてもやはり華著(かしゃ)にふけったという・・・町人の分際をもって奢(おご)りに長じ、不埼至極(ふらちしごく)であるというので財産は全部・・・幕府(おかみ)へ没収、その上 三箇都(さんがのつ)おかまいという、京、江戸、大阪・・・この三つの都会へ住んではならんというので・・・いやどうも、ひどいもんですね、何も自分で儲けた金を遣(つか)って差し支えはないという・・・現在(いま)の理屈からいやァ馬鹿げたことでどざいますが、昔はそんな事は通らない。(略)>>
(*1)淀屋辰五郎=5代目三郎右衛門広当。初代淀屋常安が大坂夏の陣で徳川方のために働き、一代で財を成し、2代目言当が淀屋の財のみで淀屋橋を架ける。元禄9年(1696)、5代将軍徳川綱吉と側用人(老中)柳沢吉保の時代、幕府は米価格高騰を抑制するため、米買占め商人の捕縛、米没収を命じ、淀屋辰五郎ら商人を闕所(けっしょ*追放)にしている。元禄12年10月には大奥に倹約令が出され、近松の「曽根崎心中」初演のちょうど2年後の宝永2年(1705)5月、またしても豪商淀屋三郎右衛門が闕所処分を受けている。淀屋の命運ここに尽きる。淀屋が店を構えた近辺で、唯一江戸時代初期から現在まで脈々と商命を受け継いでいる大店(おおだな)がある。その大店とは、泉屋(初代理右衛門・淀屋と同時代は平右衛門)である。淀屋のあった北浜4丁目には、現在ぎっしりと財閥住友グループ(=泉屋)のビルが建ち並んでいる。
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(写真)淀屋橋南詰西側河岸に建つ跡碑。

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(参考写真)淀屋跡の石柱が建つ隣に、この跡碑が設けられている。

参考 「日本史年表」歴史学研究会編・岩波書店1966年刊
   「名作のふるさとドラマ風土記」朝日新聞社編1963年刊

三遊亭圓生リンク
羽田 穴守稲荷 落語「死神」六代目三遊亭圓生よりhttp://zassha.seesaa.net/category/1273788-1.html
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2017年01月04日

大阪・釜ヶ崎 三角公園 野坂昭如「マッチ売りの少女」より

面影どころか名前さえも知らない実父の姿をさがし求めて彷徨(さまよ)う安子。
釜ヶ崎三角公園で、お安は、ついに「お父ちゃん」を闇の中に幻視する。
マッチの炎の熱が「お父ちゃん」の体温と同化し、「お父ちゃん」の匂い、ぬくもりに包まれながら、お安は至福のうちに24歳の生涯を終えてゆく。
故・野坂昭如氏の作品群のうちで、読み返したくなる一篇。

<<お安がはじめて男を知ったのは、中学二年の七月。父に早く死なれ、母親は当時六歳のお安を連れて、森の宮のたたき大工の後妻となり、あたらしい父は、ひどい酒乱で、大工といっても犬小屋、風呂場の棚をトンカチトンとつくるだけの手間稼ぎ、そのすべてを飲んでしまい、暮し向きは母の手内職で、おっつかっこに支える。・・・・・
内職の品をとどけに出かけた母の留守に、お安が父にいいつかったソックイ煉っていると、「ごめん」と昨日と同じやさしい声で入りこみ、だしぬけに後ろから抱きすくめた。「お母ちゃんも知ってんねんで、こわいことあれへん」男はぶつぶつとつぶやき、さすがにその声ふるえていて、しばしそのままでいたが、やがて立ち上ると玄関をガタピシと閉め、とたんに西陽のうん気がむっと立ちこめる中で、お安は別にあばれも、泣きもしなかった。男の髭(ひげ)が頬をこすり上げ、煙草のやにの臭いが鼻をうち、なにより眉をしかめ、息をあらげたその気魄(きはく)に、全身の力が抜け、やがて下腹部に、灼けるような熱さを感じ、その時、お安は、自分でも思いがけぬ言葉を口にした。「あんた、ほんまのお父ちゃんなんちゃう?」 「なんやて?」 「お父ちゃんみたいな気ィするわ」 >>

<<お安は梅田裏の雑踏をさまよい歩き、中年男の姿とみると、わかるはずもない父親がそこにあらわれたような気がして、後をついて歩き、はじめて、一人二人に、「遊んでいかへん」と声をかけてもみたが、誰も相手にせず、ぼんやり突っ立ってると、五十がらみの女三人、「ちょっと顔貸してんか、誰に断わって客とりよんねん」と、梅田OS横のくらがりにひきこまれ、パシッと顔面を張られよろめくところを突きとばされ、気がつくと溝に半身おちこんでいて、「まぁ、後はまかしとき」と、黒ダボシャツの男にたすけ起こされる。・・・・・
着いた先が西成の釜ヶ崎。男二人、阿倍野商店街をわがもの顔に歩き、ちいさな旅館に入って、「その面やったらいくらアンコ(*日雇労務者)でも客とれへんで、化粧せな、な、ここの部屋貸したるよって商売し。こわいことない、カマは暮し易いとこやで」 ・・・・・
それでもお父ちゃんに会うためやと、まっ白にぬたくって、釜ヶ崎に入ると、たちまち三角公園のくらがりに連れこまれて、立木をしとねに金二百円也。ジキパン(*コジキ同然のパンパン=売春婦の略?)にみられたのだが、それにしてはましな部類とみえ、以後、公園のお安と呼ばれて、三月四月はならして一夜千円の収入となり、いっそここまで身をおとすと、化粧もなりふりもかまったものではなく、はじめうるさくつきまとっていた南の極道も、ジキパンとなっては話にならず、自由に泳がせたから、ようやくお安は気楽な日々を送って、それでも金のないアンコにせがまれると、尺八もしてやったし、カキ(*手コキ)もしたし、そして便所やベンチ、藁(わら)の上で眼っかちびっこ肺病やみも委細かまわず、組敷かれるたびに、「おとうちゃん」とちいさくさけんで、身をすくめ、男の胸にすがりつき、甘えかかる。>>
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釜ヶ崎(アイリン地区と改称)の通称・三角公園。正式には萩之茶屋南公園(位置は下図参照)。
支援組織の越冬炊き出しや夏祭りの会場として使用されている。アンコ風体の男が公園周辺に多数たむろしており、視線を浴びる。カメラを構えての撮影は困難(スマホで撮影)。公園内に大きい立木が現在も数本見受けられる。野坂氏がイメージしたお安が寄りかかっていた立木はこれかもしれない。

<<ドヤ街を抜けて、三角公園の、まばらに生える木立ちの根方に、お安はしょんぼりと立ち、その姿、まるで何年も住みついたお化けのように、形がきまった。ふところからマッチ箱をとり出し、その一本を抜いて箱にそえ左手に持ち、右手の指に唾をつけると、股間に当てて、二度三度押しなで、後は、夜の暗さと、寒さしのぎにひっかけた焼酎に、眼をごま化されて、お安に近づく客を待つばかり。・・・・・
お安は後ろの木に体をもたせかけ、腰を突き出し、両脚をふんばり、寝巻きの裾を左右に割る。「もっと近うこな、風あるよって火ィ消えるよ」>>
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<<新聞紙をせめて重ね着してベンチに横たわる浮浪者は、下手すれば今日限りの生命、ただ木枯しの鳴る三角公園の立木の根方に、お安はつかれ果ててしゃがみこんだが、左手には一本だけマッチを出した、その箱を持ち、もう冷たさも感じないようだった。・・・・・・
お安は、ふと迎え火のようにマッチをすり、それはたちまち風に吹き消され、今度は裾をひろげて、身をかがめ同じくし、そのかすかなぬくもりを下腹部に感じると、思いついて、残る三本のマッチを一度につけて、大事そうに股の間にさし入れ、焔になめられて灼かれた肌の痛みを、むしろうっとりとたのしみ、「お父ちゃん、来てくれたんか、うちぬくなったよ」という間もなく、寝巻きにうつった火が、風にあおられてぼっと燃え上り、お安の体はそのまま一本のマッチの軸のように炎に包まれ、声もなく横倒しとなり、しばらくはプスプスとくすぶって、風吹くたびにこまかい火の粉をまきちらしていたが、それも消えて闇。>>
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「マッチ売りの少女」野坂昭如 「オール読物」1966年12月初出
「野坂昭如コレクション1」国書刊行会2000年刊より抜粋
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2016年10月27日

大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」より

明治45年(1912年)4月、谷崎潤一郎(当時26歳)は、東京日日新聞(現・毎日新聞)の依嘱で約3カ月間、関西方面へ取材旅行に出かける。さっそく原稿は「朱雀日記」の題で、時をおかず東京日日・大阪毎日新聞に連載が開始される。後年、回想風に書き下ろされた「青春物語」から、その関西旅行(大阪初体験)の部分を抜粋してみる。
<<それから數日の後、私は始めて大阪へ出かけた。岸本さん(注1)の指定された宿と云ふのは、名前は忘れてしまつたが南區笠屋町の路次の奥にあつて、今から考へてみるのに、どうも松竹の白井さんの住宅のあるあたり、あの邊に違ひないのだが、太左衛門橋や戎橋に近い島の内の最も粋な所にあつて、旅館で待合を兼ねたやうな木屋町式の家であつた。なんでも幹彦君(注2)は都合があつて一日後から來ることになり、私ひとり梅田からその教へられた宿へ行つてみると、すぐ文樂座の方へ來てくれと云ふので、其處(そこ)から又あの御霊さんの中にあつた元の文樂座へ俥(くるま)を飛ばした。桟敷には、一と足先に來てゐたお多佳さん(注3)、それから初對面の大阪の紳士が二三人ゐて、人形芝居の説明をしてくれた。云ふまでもなく攝津や越路や團平(注4)などの生きてゐた時代であるから、私はさう云ふ名人の藝を聽いたに違ひないのだけれども、何を云ふにも此の上方の郷土藝術に反感を持つてゐた頃でもあり、浄瑠璃などには何の興味も同情も感じなかつた生意気盛りの時であるから、仕方がなしに退屈をこらへてゐたゞけで、出し物が何であつたかも覺えてゐないし、斷片的な舞臺の印象さへも残つてゐない。
それよりも私は、その晩圖(はか)らずも笠屋町の宿でお多佳さんと唯二人枕を並べて泊ることになり、これには甚だ窮屈な思ひをしたことだつた。(略)>>
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明治17年(1884年)、船場御堂筋の灘波神社北門境内で二代目豐澤團平を擁する彦六座が開場し人気を集める。明治5年に灘波神社(博労町の稲荷)境内から九条松島新地に移って「文楽座」を旗揚げしていた三世植村文楽翁(二世までは正井姓)は、張り合うように灘波神社の近くに鎮座する御霊神社境内に舞い戻る。杮(こけら)落しは同17年9月(文楽翁は明治22年2月75歳で死去)。その後、明治31年に彦六座の團平は舞台上で急死し、まもなく人材を育てられなかった植村家文楽座も経営不振に陥り、明治42年に松竹に身売りする。大正15年11月、御霊文楽座は失火(?)により全焼、その際に御霊神社本殿も類焼する。本殿の再建は昭和5年と記録されている。結局、松竹傘下に入った「文楽座」のみが生き残り、人形浄瑠璃=文楽の名称が通用するようになる。谷崎は松竹傘下3年目の「文楽座」を訪れたことになる。
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(御霊神社正面鳥居の脇に文楽座跡の記念碑が設けられている。正面は東向き。)

注1 岸本さん・・岸本吉左衛門。大阪船場の岸本商店の若旦那(お決りの金持ち=美術品コレクター)。谷崎は岸本を21、2歳と書いている。祇園「大友」の常連? 昭和10年に岸本商店は法人化し(株)大阪銑鉄商会と改称。増資を重ね大銑産業(株)として現存。
注2 幹彦君・・作家長田幹彦。谷崎と親交するが後年絶縁。谷崎の一つ年下。詩人吉井勇と並び「祇園もの」をものした。吉井との共著もある。
注3 お多佳さん・・磯田多佳(元芸妓)。祇園新橋の茶屋「大友(だいとも)」を母ともから若くして継ぎ女将に。夏目漱石との交流は特筆される。戦時中の建物強制疎開で茶屋は取り壊され、跡地に吉井勇の歌碑が建つ。若い谷崎との襖を開け放った一夜はこれも特筆もの。どうなったか、その先は略してしまった。
注4 攝津や越路や團平・・人形浄瑠璃の大掾(だいじょう)・太夫の名。
*(注)とルビは原文には無し。
*「青春物語」昭和7年9月号〜昭和8年3月号中央公論初出。「谷崎潤一郎全集第13巻」中央公論社1982年刊より抜粋。
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(左写真 千日前通・日本橋の国立文楽劇場1階の展示室)

参考 「文楽ハンドブック」三省堂2011年刊 (主にp13〜14)
   「別冊太陽」(雑誌)文楽特集1992年
    大阪日本橋・国立文楽劇場展示室資料
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2016年10月25日

大阪西成 映画「太陽の墓場」(大島渚監督)釜ヶ崎ドヤ街ロケ

映画「太陽の墓場」は、松竹大船撮影所に所属していた時代の大島渚が脚本(石堂淑朗と共同)・監督を担当したカラー作品。封切は半世紀以上前の昭和35年8月9日。
好きな大島作品を3本挙げてみろといわれたら、迷わずこの3本を選ぶ。「日本春歌考」(立教大の✖✖さんが出演)、「新宿泥棒日記」(唐氏のぽっちゃりした腹と横山さんのおっぱいがセクシー)、そしてこの「太陽の墓場」(なんといっても釜ヶ崎ロケ、この地で、ストリップの女王一条さゆりが、野坂昭如のマッチ売りの少女が、息絶えている)。

以下は「大島渚著作集第3巻」2009年刊より抜粋。画像引用は本編・予告編から。
<<『太陽の墓場』のテーマ いわゆる「釜ヶ崎」大阪の西成地区で、私が映画『太陽の墓場』を撮ったのは、三十五年(注:昭和35年)の夏である。大学(注:京大法学部)のころから、私は大阪へ行って、その付近を通るたびに足をとどめて、その異様で強烈な体臭を発散する町にひかれていた。(略)さすがに、はじめて釜ヶ崎にはいる時は恐ろしかった。真昼の太陽が照りつけるほこりっぽい大通りを私たちはカメラを持たず、できるだけ汚ない服装をして歩いた。それでも目立つのだった。(略)何日か歩き回って、体がかゆいような、におうような感じにとりつかれながら、私たちはいよいよ執着を深め一種異様なシナリオを書きあげた。そして私たちは夕暮れのガードごしに見た血のような太陽が、ここで私たちが描こうとする人間群と状況の象徴のように思えて、この作を『太陽の墓場』と名づけたのであった。>>
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現在の釜ヶ崎(のはづれ辺り)の風景。三角公園の写真より新今宮駅(南海本線とJR関西本線のクロスポイント)附近の風景のほうが作品にマッチする。

<<普通、ロケ地では、その土地の顔役に整理などをたのむのだが、西成には顔役が多すぎて(八十組もあると伝えられた)たのみようもなかった。そのことは、大変不安に感じられたのだが、私たちの若いマネージャーと製作主任は剛腹な男であって、警察一本で行く、あとはその時その時で処理しようと胸をたたいた。>>
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<<『太陽の墓場』で主演女優炎加世子が「セックスする時が最高よ」と言ったことが喧伝され、私の映画はいよいよ色濃く性的な色彩を帯びて見られるようになった。炎はその直前にひとつ年下の十八歳の少年と心中未遂事件を起こしていた。私たちは撮影中に何か事件を起こされてはと内心ハラハラしていた。だが何事も起こらなかった。>>
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「太陽の墓場」予告編よりヒロインの炎加世子(撮影当時19歳)。

<<『太陽の墓場』の撮影中、このお姫様(注:若くて痩せていた頃の松井康子)は私に面接に来たのである。十数年を経て、彼女はその日の印象を昨日のことのようになまなましく語ってくれた。大阪は天王寺の「新宿」という旅館、階段をトントンと(ドタドタではない)上がって突き当たりの部屋にスタッフがぞろぞろいて、その真ン中に半分裸の私がいて、隣に渡辺文雄がいて。彼女にやらせようとしたのは、あいびき中に襲われて恋人を殺され、自分は犯されて発狂する女学生の役であった。それにぴったりの彼女だったのである。そしてその時、のちの「ピンクの女王」はそんな役をやるのは悲しいとさめざめと泣いたのであった。>>
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「太陽の墓場」大島組が宿泊した旅館新宿跡。現在は旅館業を廃し、飲食ビルに業態を変え営業中。

以下、「太陽の墓場」釜ヶ崎周辺ロケ地と現状(位置はほとんど錯覚気味)。
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公衆電話ボックスが増設されている。
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塔の周辺に電柱が現在も存在するのかどうか?真剣に探していない。
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奥の突き当りの家屋が撮影当時と同じに見える・・錯覚か。
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明らかに異なる場所だがアーチの形状が似ているので可とする。聖地巡りは性格的(いい加減・ずぼら)に不向きなのだ。ドヤ住いのおっちゃん達に「この場所、わかる?」と聞いてまわったり、取材能力はあるようなのだが。
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大島監督と同窓(京都大学)の戸浦六宏(ろっこう)氏=右端白シャツ。生まれた時から亡くなるまで顔が変わらない。小学校に入学した時も、創造社メンバーになった時も、この顔なのだ。

<<『太陽の墓場』のあとあたりで死んでしまえば、私も惜しまれたかもしれない。また喜ぶ人もあったかもしれない。しかし私は死ぬわけにはいかなかった。『日本の夜と霧』で松竹を離れて、『飼育』をつくり、東映でも『天草四郎時貞』をつくったあと、映画をつくれない三年間があったが、それでも私は死ぬわけにいかなかった。>>
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2016年10月10日

大阪天満 川端康成生誕地 短編「葬式の名人」より

作家・川端康成は、明治32年6月に大阪天満宮の門前で生まれる。現在その生家跡は料亭の敷地の内となっており、料亭の玄関横に生誕地碑が設けられている。だが、川端には生誕地のおぼろげな記憶はもとより、父母の記憶さえ持ち合わさないという稀な人生を送っている。1歳の時、父親がこの世を去り、母親の実家に移り住むが、続けざまに2歳で母親をも失う。

<< 私は父母の葬式に就ては何の記憶も持つてゐない。存命中のことも少しも覺えてゐない。父母を忘れるな、思ひ出せと人々が私に言ふ。思ひ出すにも思ひ出しやうがない。寫真(しゃしん)を見ると、繪(え)姿でもなし生きた人間でもなしその中間のもの、肉親でもなし他人でもなしその中間のもの、といふ氣がして變な壓迫(あっぱく)を感じ、寫真と私とが顔を見合つてゐるのがお互恥しい。人から父母の話をされてもどういふ心持で聞いてゐればいいのかに迷つて早く切り上げて欲しいとばかり思ふ。(略) >>
   「葬式の名人」大正12年文藝春秋5月号初出・「川端康成全集第2巻」新潮社より
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(料亭相生楼の敷地内南側に川端生家があったという。)
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(料亭相生楼正面玄関横の生誕之地碑)

「川端康成全集第33巻」新潮社1982年に収録されている「自筆年譜」から生誕〜2歳までを抜粋。
明治三十二年(一八九九年)
 六月十一日、大阪市天満此花町に生れる。
 父榮吉、母げん。
 父は醫師(いし)、當時大阪市の某病院の副院長。東京の醫學校を卒業、また浪華の儒家易堂に學び、
 漢詩、文人畫(画)などを樂しみ、文學趣味もあつたらしい。
 胸を病み、虚弱。母は黒田家の出、粗母かねも同じく黒田家の出。
 姉芳子と二人きやうだいであつた。
明治三十四年(一九〇一年)一歳
 父、死ぬ。
明治三十五年(一九〇二年)二歳
 母、死ぬ。
*川端康成全集第35巻収録の年譜には、「誕生日は六月十一日ではなく、六月十四日に大阪市北区此花町一丁目七十九番屋敷にて出生」と記され、川端本人は「終生六月十一日に誕生と思い込んでいた」と併記されている。  
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(料亭相生楼の東角から南方向。車が駐車している辺りの右手に川端家があったと推定)

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2016年09月19日

大阪難波 一芳亭のしゅうまい 吉本ばなな「ヨシモトバナナコム2」より

<<2001年11月8日 
奈良を観光して人力車に乗ったり、鹿にせんべいをあげたりする。
あとでナタデヒロココに「あの人力車に乗ったという人はじめて見た」と言われる。
そうだろうなあ、奈良の人は乗らないだろうなあ!
久々の大阪。
なんばのいっぽう亭で最高のしゅうまいと揚げ鶏を食べた。
そして占いのおっちゃん、たけもとさんのところに遊びに行く。>>
   吉本ばなな「ヨシモトバナナコム2 怒りそしてミルクチャンの日々」より
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文中の「いっぽう亭」は、この地難波で昭和8年(店入口の看板から)の創業以来、しゅうまい・揚げ鶏が名物と称えられるまでに長年親しまれてきた「一芳亭」のこと。ばななさん、最高のしゅうまいと持ち上げているが、子供の頃から横浜崎陽軒のシウマイが口に馴染んでいる身には「薄味やなあ」という感想。子供の頃からとは、その頃、横浜中区の三渓園の隣りの小学校にトボトボと通っており、シウマイといえば崎陽軒(きようけん)と洗脳されて育ってきている。
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一芳亭本店
場所 大阪市浪速区難波中2-6-22 定休日 日曜・祝日
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2016年01月08日

大阪南 旅館(待合)千福とカフエ・ユニオン 谷崎潤一郎「芥川龍之介が結ぶの神」より 

芥川龍之介と谷崎潤一郎、そして谷崎の妻となる松子(当時は二人の子持ちで人妻、根津姓)との出会いの場となった待合「千福」。
昭和2年3月1日の夜、この南(みなみ)の待合で初対面の挨拶を三人は交わす。翌2日、松子に誘われた芥川と谷崎は、千日前のダンスホールに出かけるが、芥川は壁に寄りかかり、松子と谷崎の踊る姿をじっと眺めているだけ。確認をとろうと、昭和初期の電話帳(大阪市全域が一冊に収録)を繰ってみたが、旅館・待合・料理等の職業別欄で探せど「千福」は見つからない。仕方なく谷崎が「芥川龍之介が結ぶの神」の章で道案内した言葉を信じて、その「千福」跡を訪れてみた。
「千福」 南區心斎橋筋2丁目31の3(谷崎の説明を住所化)。
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(写真)心斎橋筋2丁目の待合千福跡。

<<(略) それに都合のいゝことには、南の三寺筋に千福と申す放館兼待合のやうな家がございました。近頃はあまりあゝ云ふ種類の家は、その筋の眼がやかましうございますので次第に少くなりましたが、今でも京都の上木屋町邊には軒並みにございます、旅館もすれば料理屋もする、藝者の箱も這入る、と云ふ至つて便利な仕組みの家、あゝ云ふ家でございますな。女将は阿波の徳島の人でおとみさんと申しまして、美人と申す程ではございませんけれども、なかなか賢い頭のいゝ人でございました。戎橋を南へ渡つて河岸通りを右へ曲つたところの角から二三軒目、つまり今の松竹座の隣ぐらゐのところ、あすこに福田屋と申すお茶屋がございましたが、おとみさんはそこの仲居をしてをりましたのが、後に福田星の福の字を貰つて「千福」と申す旅館を始めた譯でございます。三寺筋と申しますと、八幡筋の一つ南の筋、戎橋を北へ渡つて河岸通りの筋の次の筋だつたと記憶いたします。そこを橋筋から西へ曲つた南側に「千福」と云ふ家がございました。手前は岡本から出て参りまして大阪で夜を更かしますと、つい歸るのが億劫になりまして一人でもよくこの家に泊りましたが、客を案内いたします時はいつもこゝに決めてをりました。
餘談にわたりますけれども、芥川さんが自殺されましたのはこの事件の明くる年、即ち昭和二年の七月のことでございますが、もうその千福に泊つた時分から、よほど尋常でない様子がございましたな。たしかその晩もその明くる晩も、廣い座敷に手前と二人向び合つて寝たんでございますが、芥川さんはひどい不眠症に悩まされてをられるらしくて、酒とヂアールとをちやんぽんに飲み、それでもどうしても寝られないと零(こぼ)しとられました。
(略)
あの千日前の、この間まで大阪歌舞伎座がございました所、たしかあすこにカフエ・ユニオンと申すダンスホールがございましたが、手前はその頃社交ダンスに凝つてをりましたので、あまり氣の進まない芥川さんを誘び出して、引つ張つて行つたことがございました。その時手前がタキシードか何かを着ようとしまして眞珠のボタンをワイシャツに篏めようとしておりますと、芥川さんは何と思つたか、「僕が篏めて上げませう」と、手前の前に膝をついて手傳つて下さいました。芥川さんがこんなことまでして下さるのは始めてゞ、まるで仲居さんがしてくれるやうなことをして下さいますのは、御親切は忝(かたじけな)いけれども、それにしても少し親切過ぎる、何だかなさることが尋常でない、何か變(へん)だなと感じましたつけが、その時氣がつきましたのは、芥川さんの眼の中に一滴の涙が潤んでゐるのでございました。ほんの一瞬間のことで、すぐその涙は消えてしまいましたけれども、どうも手前は薄氣味が悪く、不吉な豫感のやうなものを感じたことでございました。
それはそれといたしまして、そこに二晩ばかり泊りまして芥川さんは東京へ、手前は岡本へ歸ると云ふ日の朝のことだつたと存じます、女将のおとみさんが、「谷崎先生も芥川先生もまあお待ちやす、實は先生方に是非合はしてほしい云うたはる奥さんがおいでゞすねんけど、もう一日お延ばしやすな。一日ぐらゐよろしやおませんか」と、申すのでした。
「いや、さうゆつくりもしてられません、今日は東京へ歸らなくつちや」と、芥川さんは申されます。
「そんなら夜汽車にしやはつたらどうです。電話したらすぐその奥さんおいでになりまつせ。せめて晩の
御飯でも附き合うたげとくれやすな」
「その奥さんて何者なんです」
おとみさんが申されますには、大阪の船場(せんば)の御大家の御寮人さんで今年二十三四歳の美人である、お店は古くからある綿布問屋さんで本町通にあるんですが、お住居は阪急の夙川(しゅくがわ)にあつて、文學好きな、なかなかハイカラな奥さんである、その奥さん先生方がこゝにいらつしやるちふ噂を聞き込み、えゝ機會やよつて是非と仰つしやつてるんです、と云ふのでございました。手前はその話を聞きまして忽ち好奇心を動かされましたが、芥川さんはやはり今日は歸ると云つて承知なさいません。仕方がないので驛まで送つて参るつもりで二人で自動車に乗りました。この時手前は芥川さんを見送りましてから、もう一度千福へ戻つて参るつもりでをりましたか、それともおとみさんが、谷崎先生一人だけやつたらその奥さんを招く譯には行かないと云はれたのでしたか、その點はどうも記憶がはつきりいたしません。今も覚えとりますのは、大阪驛へ参る途々(みちみち)、手前が熱心に自動車の中で芥川さんを口説き、
「ねえ君、もう一度千福へ引つ返してその婦人に合つてみる氣はないですか。ねえ君、さうしてくれ給へな。僕一人ぢやあどうも工合が悪いから、もう一と晩だけ附き合つてくれ給へな」
と、盛にせがんで巳まなかつたことでございます。芥川さんは例の皮肉な薄笑びを浮かべて、
「少し馬鹿々々しいやうな氣がするな」
とか何とか交(ま)ぜつ返してをられましたけれど、結局手前の執拗(しつこ)いのに根気負けがして、さうです、まだ御堂筋なんてえ道路が出來てをりません時代で(*戎橋はあったが、よって隣の道頓堀橋は無かった)、南北線を北へ進んで、堂島邊まで参りましてから引き返したんだと覺えとります。その間も芥川さんは「少し馬鹿々々しいやうだな」と二三度繰り返しとられました。
その奥さん、後日に及んでそれが手前の今の家内になつたんでございますが、その當時は手前は勿論、その「奥さん」も将來そんな運命が待ち構へてゐようなんて夢にも思つてをりませんでした。(略)>>
 「当世鹿もどき」昭和36年3月17月「週刊公論」初出、「谷崎潤一郎全集第18巻」中央公論社1982年刊収録。
*新旧字体混在(変換できない字体があるため)、原文にはほぼルビ(ふり仮名)無し、難読そうなものに適当に振ってみた。
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(写真)ダンスホール「カフエ・ユニオン」跡。大阪歌舞伎座跡であり、現在はビックカメラ。
 
松子も「千福」での芥川・谷崎との出会いを回想している。
<<(略) 読書にも飽いた或る日、つい突拍子もないことを思いついた。恰度、夫の行きつけの南地のお茶屋のお内儀が、芥川氏を知っている、と云うことを聞いていたので、早速来阪の機会に逢わせて欲しいと頼んだ。間もなく報せがあって、お洒落もそこそこに、胸をときめかせ車を走らせた。
 お座敷に招じ入れられた私は、芥川氏だけと思ったら、こちらは谷崎先生です、と紹介されてはっとしたが、直ぐに落着いて、初対面の挨拶を交わし、いさゝか上気しながら、先刻から続いていたらしいお二人の文学論を黙々ときいていた。
 筋のない小説とかゞ盛んに話題になっているかと思うと、白秋、茂吉、晶子の歌が論じられる。よく暗誦が出来たものと感心して聞いていたが、私はあとにも先にも谷崎の文学論らしきものをきいたのは初めてのことであった。頭に残らないで耳をかすめて過ぎたのは未だ初心で上っていたせいであろう。今日ならば、頭の中にメモするくらい傾聴したことであろうに。あとで思い合わせると、谷崎は「饒舌録」で、芥川氏にさかんな論鋒を向けていたころであった。
 その翌日であったか、南地のたしかユニオンとか云ったダンスホールに誘ったか誘われたか愉快に踊ったのであるが、タキシード姿の谷崎の女性への敬意の溢れた礼儀正しさに、少なからず驚いた。
 谷崎のダンスと云うのは、横浜時代の名残らしく、大変勇ましく、千代子夫人や家族の人が「ソレ機関車が動き出したよ」とその後もよく笑わされたが、突進型で、他の組にぶつかろうとお構いなしで、ちょっと目醒ましかった。それに背丈の加減か少しチークダンスで、最初は気恥かしかったが、馴れてゆくうちに余裕も出来て、興の赴くまゝにタンゴ、ワルツと繰り返し踊った。芥川氏とも踊って戴きたかったが、終始壁の人で、私は私たちの動きを追っていられる眼を感じていた。そして、美しく澄みきったその哀愁のたゝえられた眼が、絶えず心を捉えていた。
その翌年、芥川氏の自殺の報道ーーそれは谷崎の誕生日の七月二十四日であった。>>
「倚松庵の夢」谷崎松子1979年中央公論社刊より。

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谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー「青春物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/448091444.html?1489817860
京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎 「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/424681960.html?1494858522
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2016年01月04日

大阪 大坂冬の陣 真田出丸

大坂の陣関連は10項目ほどに分けてアップする予定でいるが、相変らずモタモタしており、いっこうに進展していない。
写真は5年以上前から撮っており、その都度、日記に小出しにしてきたが、TVドラマ化され放送が始まるこの機会を受けて、とりあえず「真田出丸」から始めてみる。
江戸期前半の史料(主に戦国史料叢書収録の真田史料集「左衛門佐君伝記稿」)を参考にしているが、関連する記述箇所が他の史料(「駿府記」など)にも散見され、漸次追加して形を整えてゆく予定。
*タイトルは「大坂冬の陣 真田出丸」とかに変更するはず。
*個人的な想像なので内容は全く保障されません。
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真田出丸想像位置(未確定)。「真田山」の地名が現在に残る一帯を四方八方から歩いてみたが、高所に砦を築くという常識に従えば、この付近の最高地点は「餌差町信号」(大掛かりな削平工事が過去には行われていないという楽観に基づく)。「出丸は四方が百間」(江戸期資料「難波戦記」)に従えば、すっぽりと収まるのが、高所である上にわりと平坦な台地であったろうと思われる私立明星学園の校舎とグランド(東西幅約200m)。この高地を主郭として東西のやや低地に柵・土塁・空堀(南面には水堀=「大坂冬の陣図屏風」。西側の柵は「加賀衆挿ル様子図」)を廻らしたと想像。
*登り坂と付記した矢印は下から上の意。数字付き赤矢印は撮影アングルと画像番号。赤太線は真田出丸の外郭・柵(かなり想像)。
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@明星学園の南面平地  A真田出丸主郭と想定する明星学園校舎(正門から)*許可を得て公道から
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B心眼寺(しんがんじ)坂下より。右上方に明星学園グランド。 C真田山公園南端の陸軍騎兵連隊跡地から北側を見る。
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D餌差町交差点から西方。右が円珠庵、左は市立高津中学。この付近から坂下にかけて半円状に大掛かりな柵(土塁・空堀)が延びていたのだろうか。 E餌差町交差点から大坂城方向(北向き・右手が真田出丸西端で2〜30m先に西櫓門・左手には堀柵が半円状に設置)。

慶長19年10月9日夜(五ツ刻)、紀州高野山九度山の郷に配されていた真田左衛門佐信繁(のぶしげ)は、徳川家康との軍(いくさ)を決意した豊臣陣営の招聘を受け、紀伊国主浅野但馬守長晟(ながあきら)の警備を掻い潜って脱出、子息大助を伴い大坂城へ入城(10月10日)した。関ケ原戦の後、父真田昌幸と共に配流された高野九度山での在居年数は、この時、足掛け15年に及んでいた(信繁の内室は、関ケ原戦で盟友石田三成とともに敗死した大谷刑部の娘)。

小川治郎兵衛と云う山川帯刀の甥(おい)の文言が残っている。
<<此の出丸の事は、普請の初めより、真田丸と号して諸人の耳に触れたり>>

慶長19年12月2日に大御所家康が茶臼山本陣に移動。3日午後、1日に続き将軍秀忠が南方面の備えを巡察(翌4日に平野から岡山本陣に移動)。
<<十二月三日未の刻、秀忠公、左衛門佐殿の堅め給ふ山丸の近辺を御巡見有りて、要害の躰、自余の持口とは事替り、守り密にして透間なきを上覧有りて、卒爾(そつじ)に攻むべからざるよし仰せ出だされしと也。寄手は加賀・越前殿也。則前田殿下知(げち)して、出丸の前に堀を掘りて、小山を築き上げ、竹束を付け寄せて、鉄炮を打込まんと用意す。>>
未の刻=午後2時前後
左衛門佐=真田信繁
加賀殿=前田利家の孫・利常
越前殿=松平忠直
小山=攻撃用に築いた山(前田隊の築山は高さ5〜6m、階段付きで土俵で固めた頂上から敵方を狙撃=「大坂冬の陣図屏風」参照。)

12月4日払暁、濃霧につつまれた真田出丸で攻防の火蓋(ひぶた)がきられる。
「左衛門佐君伝記稿」真田史料集収録より抜粋。
<<十二月四日夘上刻に、惣寄手人数、俄(にわか)に押し寄せたり。其の朝は殊の外霧深くて暗夜の如くなれば、城中にて是を知る物なし。>>
だが左衛門佐信繁は予測していた。真田出丸の正面に加賀勢が取掛り、堀底(深さ7〜8m)に先陣の将兵が充満した頃を見計い、鉄砲による一斉攻撃を命令。霧深くとも至近距離からの射撃は正確であったろう。真田方の大鉄砲の威力はすさまじく1発で3〜4人の甲冑を撃ち抜いたと思われる。
<<次き討ち落されて上が上に重り死す。>> 
加賀(前田)隊を始めとする寄手(井伊隊・松平隊他)の惨状はすさまじく、真田出丸の深堀は折り重なる徳川方の死骸で平地の如くになるまで埋まってしまったという。
<<冬陣に寄手の討死にしたるは五分のもの四分は此の時に死にたりと也。>>
徳川方の冬の陣における戦死者の約80%が真田丸周辺に集中すると書き残した文書が残っている。
尚、真田出丸で用いられた旗指物には六連銭は掲げられていない。
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F心眼寺(しんがんじ)山門扉の六連銭。 G心眼寺境内には近年(平成26年)、真田左衛門佐信繁の墓碑が建立された。
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(左写真)冬の陣で徳川家康が本陣を設置した茶臼山頂上部(天王寺公園)。平坦な山頂部はこの時に削平されたのだろうか。右前方が大坂城に当たる。発掘調査でかまど跡や食器など出土済み。 (右写真)大坂城内の掲示版(2015年撮影)には「左衛門佐(さえもんのすけ)」(=真田信繁の職名)という通常の呼び方がしっかりと用いられている。信繁様などという諱(いみな)を直接呼ぶ言い方を当時はしていない。大河ドラマも同様の処理をするようなので左衛門佐殿も浮かばれる。また、左衛門佐殿着用の甲冑(イミテーションの兜と陣羽織)を試着できる人気コーナーが大坂城天守閣内にあるので告知してみる(有料300円)。
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2015年05月25日

大阪 通天閣 川上弘美「ニシノユキヒコの恋と冒険」から

ニシノユキヒコと交わった10人の女がそれぞれ語る構成で展開する「ニシノユキヒコの恋と冒険」。
作者は1996年に「蛇を踏む」で芥川賞を受賞した川上弘美(1958年東京都生まれ)。第6篇「通天閣」からニシノユキヒコ31歳の恋愛ストーリーを抜粋。
<<あたしね、お金ためたいんだけど。たまらなくって。昴がいった。ためてどうするの。ニシノが聞く。通天閣のそばに住むの。昴は紅茶をすすりながら答えた。ニシノがいれてくれた紅茶だ。昴はいつも熱いミルクをたっぷり注いでから紅茶を飲む。
なんでまた、通天閣。ニシノも紅茶をすする。
「通天閣ってさ、昔はパリの凱旋門とエッフェル塔をくっつけたようなデザインだったんだよ」昴が説明する。この話は、昴の得意とする話だ。
「凱旋門の上に、エッフェル塔がのっかってるんだ」
すごいね、とニシノが感心する。すごかったんだよ、と昴が頷く。でも火事で焼けちゃった。今の通天閣は二代目。
「なんで通天閣のそばに住みたいの」ニシノは聞いた。
「だって、かっこいいじゃん」昴が答えた。
「東京タワーのそばだっていいのに」わたしが小さな声で言うと、昴は首を横に振った。
「東京タワーって、なんかさみしい」
そうかな。さみしいかな。ニシノは言う。さみしくないよ。わたしと二人で住めば、東京タワーのそばだってどこだって、さみしくなんかないよ。わたしも言う。声には出さずに。頭の中だけで。・・・(略)>>
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<<またじきに、ふらっと帰ってくるよ。通天閣、一度見てみれば、気がすむでしょ。島さんは言い、皿を洗いはじめた。>>  *(右写真)初代通天閣、1943年火災で崩壊。絵葉書より
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<<外に出ると、小雪がちらついていた。通天閣にはビリケン像があってさ。足の裏を撫でてあげると、あらゆる願いをかなえてくれるんだよ。ニシノは前を向いたまま、言った。ビリケンって、あの頭のとがったひと? わたしは聞いた。そうそう。昴がすきそうな。ニシノはゆっくりと答えた。
もういちど昴の髪を撫でたいな、とわたしは思った。ニシノはまだまっすぐ前を向いている。ニシノとももう会うことはないんだろうな。次に思った。それから、通天閣のことを想像してみた。わたしも通天閣を見たことがない。にぎやかで、あかるくて、よく灯っているタワーを想像してみた。タワーのてっぺんで笑っている昴の姿も。>>
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2014年06月02日

大阪 かやくめし「大黒」 小津安二郎の「手帖」から

映画監督・小津安二郎の「手帖」より
 ○カヤクめし(大黒屋)
     大阪道頓堀から一つ南の筋。
     御堂筋を西入る角から二軒目

小津の手帖に書き留められた「大黒」(小津は「大黒屋」としている)に関するメモは以上で、実際に訪問したかどうかは不明(小津が残した詳細な「日記」には記載がない)。
訪問していたとすれば、1961年(昭和36年)の宝塚映画「小早川の秋」(東宝配給)の制作準備の期間(同年5月か6月頃)であろう。この時期に頻繁に訪れていた淀屋橋の和菓子老舗「鶴屋八幡」を除いては、一度きりの訪問であったと思われる大阪市内の店舗がいくつか「手帖」と「日記」にそれぞれ記されている。江戸焼うなぎの「菱冨」(宋右衛門町)、「美々卯本店」(平野町)などがそうだが、おそらく「大黒」にも足を運んだと思われる。 
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「大黒」は小津のメモ通りの場所で現在も営業している (左写真)御堂筋西側 画面左端の路地 <大阪道頓堀から一つ南の筋。御堂筋を西入る角から二軒目> (右写真)簡単な修繕を施したぐらいで当時と同じ佇まいのまま
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暖簾に染め抜かれた「創業明治35年」 (右写真)暖簾の向こう側を店内から
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小津安二郎が<カヤクめし(大黒屋)>と店名より先に書いた「かやく御飯」(中550円) 大・小サイズもある (右写真)さわら焼物
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小津安二郎、池波正太郎が目にした店内や座ったであろう椅子に感慨を深めながら箸(はし)をすすめる・・・そのせいか「かやく御飯」の脇にスマホのコードが写り込んでいることに気が付かなかった

また、作家・池波正太郎も芝居の脚本を書いていた頃の「大黒」訪問の回想を文章に残している。 「大阪ところどころ」より抜粋。<<むかし、芝居の脚本と演出で暮していたころの私のホーム・グラウンドは{新国劇}であった。(略)(定宿の大宝ホテルで)朝飯をすますと、道頓堀を歩いて新歌舞伎座へ出かけ、公演中の劇団の人たちと打ち合わせなどをするうち、昼すぎになる。自分の出番を終えた辰巳(たつみ)柳太郎と共に昼飯に行くのが、御堂筋の西を少し入ったところにある{大黒}(だいこく)である。名物の{かやく飯}に、熱々の粕汁(かすじる)か味噌汁。それに焼魚をとって食べるそのうまさは、旅に出ていることだからというのではなく、どこの家庭の日常にも食膳に出されるような変哲もないものが、これほどにうまいのは、やはり大阪の、知る人ぞ知る食べ物屋だからだ。>>(「散歩のとき何か食べたくなって」に収録)
「大黒」大阪市中央区道頓堀2-2-7
    営業時間11時30分〜15時(中休み)17時〜20時
    定休日 日曜(祝も)・月曜
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難波(御堂筋沿い)の新歌舞伎座(閉鎖) 池波正太郎がここで台本の打ち合わせなどをしていた 右方向に御堂筋をゆくと「大黒」
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参考
池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」新潮文庫1976年刊
小津安二郎の「手帖」(「東京グルメ案内」巻末収録)朝日文庫

小津安二郎記事のリンク
目白台 関口フランスパン 小津安二郎の日記からhttp://zassha.seesaa.net/article/384278954.html
京都 縄手通 茶漬鰻 かね正 小津安二郎の日記からhttp://zassha.seesaa.net/article/383973123.html
横浜中華街 広東料理 海員閣 小津安二郎の日記からhttp://zassha.seesaa.net/article/383659808.html
大阪 江戸焼うなぎ 菱冨 小津安二郎の日記からhttp://zassha.seesaa.net/article/384355963.html
大阪 美々卯本店 小津安二郎の日記からhttp://zassha.seesaa.net/article/387889255.html
京都 漬物「八百伊」と「村上重本店」 小津安二郎の手帖からhttp://zassha.seesaa.net/article/387443287.html
大阪 菓子司 鶴屋八幡本店 小津安二郎の「手帖」からhttp://zassha.seesaa.net/article/392456668.html
神戸 ユーハイム本店 小津安二郎の「日記」からhttp://zassha.seesaa.net/article/389886202.html
神戸 生田町 フロインドリーブ (旧神戸ユニオン教会)http://zassha.seesaa.net/article/385179644.html
北鎌倉 小津安二郎 山ノ内の新居(終焉の地) 「日記」からhttp://zassha.seesaa.net/article/390097307.html
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2014年04月15日

大阪 宗右衛門町界隈 池波正太郎「大阪ところどころ」より

雑誌「太陽」に連載された「散歩のとき何か食べたくなって」(平凡社1977年刊)の一章「大阪ところどころ」で紹介された店舗の跡を巡ってみる。池波正太郎が定宿としていた「大宝(だいほう)ホテル」、その並びの菓子舗「友恵堂(ともえどう)」、時の流れに沈みこみ、その姿はすでに認められない。
「大阪ところどころ」より
<私の常宿は、道頓堀川に架かる相合(あいおい)橋を北へわたった右側にある〔大宝ホテル〕という小さな宿であったが、この宿の居心地のよさは、たとえば、寝具にかけてあるカバーというカバーは客がだれであっても、毎夜かならず、クリーニングに出したものと替えてくれるし、食事は自由、昼夜ぶっ通しに玄関を開けておいてくれるという、本格のホテル同様の便利さがあって、芝居関係の人びとには何よりだった。後年、芝居の仕事をはなれ、小説の世界へ入ってからも、私は三月に一度は大阪へ出かけた。それというのも、この定宿があったからだが、現在は〔グリーン・ハウス〕という貸しビルになってしまい、おかみさんも京都へ引きこもってしまい、主人(あるじ)はいま、貸しビルの社長になってしまった。>
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相合橋上から西方に道頓堀川の夜景を望む。右側が宗右衛門町。右方向に「大宝ホテル」があった。
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池波が紹介するように、現在は貸ビル「グリーンハウス」と名を変えている。写真右側の照明が煌くビルがかっての「大宝ホテル」。 (右写真)かっての「大宝ホテル」もこの幅であっただろう。

<この宿の朝飯は、かならず食べた。前日に道頓堀の〔さの半〕という百年もつづいた蒲鉾屋へ寄って、大阪では〔赤てん〕という、すなわち〔さつま揚げ〕を買って来て宿の台所へ行き、「明日の朝、ちょっと焙って、大根おろしといっしょに出しておくれ」と、女中にたのんでおく。>
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 宇野浩二(店名は出てこない)・上司小剣(「鱧の皮」)・織田作之助(「夫婦善哉」)らの作品にその名を残す蒲鉾屋「さの半」は、2002年(平成14年)に閉店。ビルの2階部分に看板のみが残っている。 (右写真)道頓堀通り(奥が御堂筋方向)。左側に「さの半」の看板が見える。右の赤いビル(金龍ラーメン・かっては鰻のいづもや)の角を右折すると相合橋。中国人の団体観光客らで混雑する通りだ。 

池波正太郎の筆は、「大黒のかやく飯」(この店は映画監督・小津安二郎関連でアップ予定)、「喫茶店サンライズ」、笠屋町の寿司店「みのや」、船場の「丸冶」、法善寺横丁の焼鳥屋「樹の枝」と描き出す。
<道頓堀の東の外れにある関東煮(だき)の〔たこ梅〕は、いまや有名になりすぎてしまったけれども、だからといって、亭主の商売の仕方はむかしと少しも変わらぬ。ここへ飛び込むのも〔樹の枝〕同様のタイミングが必要だった。>
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(左写真)現在も当時と同じ場所で営業を続ける関東煮とたこ甘露煮を名物とする「たこ梅本店」。 (右写真)「たこ梅」の軒に下がる提燈に書かれた名物「関東煮」。「たこ梅」の創業は、江戸期の1844年(弘化元年)、弘化元年は12月に天保から改元されたので12月の創業であろう。

池波正太郎は、焼鳥屋「樹の枝」や道頓堀「たこ梅」に座れぬ場合は、千日前の織田作の作品で有名になった「自由軒」の近くに店を構える大阪食堂「重亭」(現在も営業中)へ足を向けた。
<安い。うまい。今度、十何年ぶりで重亭へ行ってみたが、その良心的なこと、もてなしのよさは、むかしと少しも変わらぬ。もてなしぶりの形こそ違え、これまた〔樹の枝〕同様に立派なものだ。いかにも大阪洋食風のソース(むしろタレといいたい)がとろりとかかったビーフ・ステーキのやわらかさ、その肉のよろしさに、私は満足した。>
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「重亭」も池波が訪れた当時と同じ位置で営業中。精華小学校(閉鎖解体中)の東側路地(精華通り)に暖簾を出す洋食「重亭」。

「大阪ところどころ」の終節は、池波の定宿「「大宝ホテル」の並びにあった菓子舗「友恵堂」(ともえどう)を紹介している。池波が再訪した当時は未だ営業を続けていたのだが・・。
<大宝ホテルから程近い菓子舗の〔友恵堂〕も、その一つである。この老舗の菓子の、甘味の程のよさは、大阪という町の、むかしの姿をしのばせるに足るものがある。餡に塩味がする。甘味に塩の香りがただよっている。最中もよいが、私が好きなのは求肥(ぎゅうひ)に砂糖をまぶした益壽糖(えきじゅとう)であり、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)である。大阪に滞在していて、どこかへみやげを持って行くときは、きまって友恵堂の菓子にしたものだった。>
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(左写真)相合橋から宗右衛門町の大宝ホテル・友恵堂を見る。 (右写真)友恵堂が店を構えた付近(右端あたり)。文庫版巻末の資料ページの友恵堂の住所は空欄だが、大阪市電話番号簿(戦後版)に広告付きで掲載されている。コピー禁止資料なのでアップは不可。電話は南0832と5802であった。住所は南区宗右衛門町7番(下図参照)。
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(左写真)京都・二条通で現在も営業する友恵堂から借用。 (右写真)宗右衛門町の友恵堂の名は、西心斎橋の八幡にのみに残っている。
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地図は南区(現中央区)昭和29年版を参照。 引用は池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」新潮文庫1976年版を使用。

池波正太郎リンク
京都 池波正太郎「食べ物日記・昭和43年版」(十二月の年末旅行から) http://zassha.seesaa.net/article/410379326.html
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2014年04月10日

大阪 天保山 日本一低い山の座譲る

2014年4月9日、国土地理院が仙台市の日和山(ひよりやま)を標高3m(1m以下は四捨五入)と測量・確認したため、大阪市港区築港の日本一低い山「天保山」(てんぽうざん)(4.53m)は、その座を譲ることになった。日和山が東日本大震災の大津波によって浸蝕・削平を受け、かっての標高6mが大幅に低くなってしまったため。
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かっての日本一低い山「天保山」の位置(○印) 天保山公園の見晴台など築山に隠れている 天保山渡船乗り場や遠くユニバーサルスタジオジャパン(左奥)が望める(天保山大観覧車から)
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天保山公園(1958年開設)の南東側入り口付近の石柱 天保山の位置は公園の北側だ 公園内には天保山より高い築山が多く存在するため戸惑う
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(左写真)山頂位置の2等三角点 何処って・・国土地理院の白い標柱の所 (右写真)看板に横棒1本書き足せば「日本二」にするのは簡単
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安治川河口で1831年(天保2年)より「天保の大川浚」と称される浚渫工事が始まり その土砂を利用して20mほどの築山が築かれた 工事時の元号から後年に「天保山」と銘銘される (右写真)1849年(嘉永2年)幕府は外国船が次々と沿海に現れる中 河口防衛のため天保山に砲台を築く この150POUND砲は薩摩藩鋳造の青銅製加農(キャノン)砲で天保山砲台に設置されていた 口径29c・全長4.22m 現在は靖国神社内の遊就館玄関脇に展示されている この砲台築造のため20mほどの築山は崩され明治初頭には7.2mほどの高さとなっている
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天保山船客ターミナル側の入り口(西口=上左写真)に展示されている陶板画 左は歌川貞升(さだます)画の「浪花天保山風景」 右は初代歌川広重の画「本朝名所 大坂天保山」 江戸期には山らしい山だった
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2014年03月24日

大阪 菓子司 鶴屋八幡本店 小津安二郎の「手帖」から

小津安二郎の「手帖」に、最も行数が割かれてメモされている大阪の和菓子の老舗「鶴屋八幡」。その前身である「虎屋伊織」の創業は、江戸時代の1702年(元禄15年)まで遡る。この年の12月に赤穂浪士が吉良邸に乱入しているから、憶える必要もないのだが記憶に残ってしまう。小津の「手帖」に記された店舗は、ほとんどが店名・住所・代表とする商品名1個のメモであるため、「鶴屋八幡」の菓子名の列挙は特別な印象を受けてしまう。
「日記」には「鶴屋八幡」の名は記されていないはず。「小早川家」のロケハン・撮影で、関西を動きまわった期間(1961年)に訪れたものと思われる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 鶴屋八幡<大阪>今橋五
  西王母ー卵子饀のもの他に
  鶏卵素麺、四季の友
  小倉町ーかのこ
  秋の山ーむし羊羹
  夜の梅      玉子と白水
  琥珀糖ー寒天羊羹 豆の羊羹
  真砂糖ー寒天羊羹 その中に
      道明寺が入っている
 (1店舗 略)
 鶴屋八幡<大阪>つゞき
  黍羊羹(*きびようかん)  
  最中
  千代の友
  小豆煎餅
  懐中汁粉
  つきせぬー潰し饀(*餡)のきんつバ類
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上が「鶴屋八幡」のメモ全て。
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「虎屋伊織」はその後、幕末まで代を重ねたが9代目で跡継ぎを失ってしまう。160年続いた老舗もここで暖簾を終うことになる。が、そこで・・・ (以降の店史は鶴屋八幡のHPを参照)
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喫茶室が併設されているので 販売コーナーに展示されている季節の生菓子などもその場で頂けます(分煙) (右写真)白玉・小豆餡が内に閉じられているかき氷「宇治水」
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鶴屋八幡本店(創業 文久3年)
大阪市中央区今橋4-4-9
喫茶室 営業時間10時30分〜18時 定休日 土・日・祝日
販売は8時30分より
 
*参考
鶴屋八幡本店HP http://www.turuyahatiman.co.jp/
「小津安二郎 東京グルメ案内」朝日文庫(巻末付録「グルメ手帖」)
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2014年02月09日

大阪 美々卯本店 小津安二郎の日記から  

1961年(昭和36年)6月8日、小津安二郎は鎌倉の自宅から横浜駅に出て、午後2時52分発の「第2こだま」に乗車、夜9時に大阪駅に到着、大阪駅から車に乗り換え(宝塚映画の撮影所のある)宝塚に向った。深夜、旅館門樋に到着。他社作品(東宝配給)の招聘を受けた小津安二郎(松竹大船)は、翌日から中村鴈治郎・原節子主演のカラー作品「小早川家の秋」の準備に休む間もなく取り掛かる。翌日9日は、池田・十三(じゅうそう)・神戸元町・西灘・三宮と廻り宝塚に帰っている。関西一円のロケハン・撮影準備が続くなか、6月23日(金曜)のクランクインを前にした6月21日(水曜)、前日に茨木・奈良・京都(大丸で買い物も)とロケハンで廻って「大いに草(臥)疲れ」た小津は、この日も出演助役者の衣装調べを終えた後、電車で清荒神から大阪に出て「城の見へる風景」をロケハン。そして「美々卯にてうどんすき」。小津は食後に道頓堀の夜景を見て、電車で西宮廻りで宝塚に戻っている(「全日記}P716)。映画人はタフです。
「美々卯」について、小津は(2冊の)メモ書き手帖に< <御霊社横>−そバ >と書き留めている。日記には「うどんすき」、手帖には「そバ」である。両方とも食したのであろうか。
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    東向きに落ち着いた佇まいのエントランスが設けられている
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小津は<御霊社横>と表現したが西南裏側にあたります

美々卯本店 http://www.mimiu.co.jp/
大阪市中央区平野町4-6-18
営業時間 11時30分〜L.O20時30分(12月は30分延長)
定休日 日曜・祝日
参考
「全日記 小津安二郎」フィルムアート社1993年刊
「小津安二郎 東京グルメ案内」朝日文庫(巻末付録「グルメ手帖」)
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2014年02月02日

大阪 道頓堀 いづもや 織田作之助「夫婦善哉」より

1940年(昭和15年)4月に同人誌「海風」に発表された織田作之助の短編「夫婦善哉」に登場する「出雲屋(いづもや)」を巡ってみました。「夫婦善哉」新潮文庫版からの抜粋。
<<道頓堀相合橋(あいおいばし)東詰「出雲屋」のまむし、日本橋「たこ梅」のたこ・・・(略)・・・新世界に二軒、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴(やつ)や、ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月」へ春団治の落語を聴きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。>>P12〜P14
*「まむし」とは関西圏で広義に「鰻どんぶり」の意。うなぎをご飯の間に入れて蒸すことから「間蒸す」、又はうなぎをご飯に「まぶす」ことからともいわれている。
「いづもや」は、1876年(明治9年)に看板を掲げて以来、安売りの「十銭まむし」屋として人気を集め大繁盛する。織田作が「夫婦善哉」を執筆した頃には<都合五軒の出雲屋>とかなり縮小傾向にあったようだ。新世界(通天閣周辺)の2軒は資料が見つけられず場所を特定できないでいます。千日前の1軒(閉店)は、数十年間この店で働いていた方が船場に移って独立開業(ご夫婦で)しており、閉鎖した経緯も伺うことができました。道頓堀の「中座の向い」(中座前いづもや=西櫓町101番 電話南1408)と「相合橋東詰」(相合橋いづもや=東櫓町26番 電話南506)は、昭和13年版の南区(現在は中央区)詳細地図と「道頓堀街並みイラスト一覧」、戦前の大阪市電話簿で確認してます。
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(左写真)「うまいのは相合橋東詰の奴」と織田作が書いた相合橋いづもや跡=角地の赤いビル 右は「ちくま日本文学035 織田作之助」筑摩文庫版のカバー「いづもや」イラスト

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「なにわ難波のかやくめし」巻末収録の地図(「大阪春秋」掲載地図もこの本から)と「道頓堀イラストマップ」を参考に作成
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現在ではたった1軒の「いづもや」になっている船場店で メニューには「うなぎ」の文字のみで「まむし」は死語!? (右写真)「道頓堀に中座の向いと」と織田作が書いた「中座前いづもや」跡 中座から見て右斜め前で 写真の丁度中央付近の明るい辺りに「いづもや」があった
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(左写真)左先角が 千日前店跡 さらに左先奥が大阪劇場跡(地下に織田作が通った将棋倶楽部があった) 右に曲がった所にはなじみの喫茶店「花屋」があった 撮影している場所は波屋書房前 この周辺は織田作が連日 歩き回っていた場所です (右写真)船場の地下レストラン街の「いづもや」

*「うなぎ いづもや」 中央区船場中央1-4-3 船場センタービル3号館地下2階の北通り側
定休日 日曜 営業時間 11時〜21時 2009年8月開業 
参考
「なにわ難波のかやくめし」東方出版1998年刊
「モダン道頓堀探検」創元社2005年刊
「大阪市南区詳細地図」昭和13年

織田作之助リンク
大阪 北野田の六軒長屋 織田作之助「蚊帳」「高野線」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383884815.html
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383338605.html
大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383495231.html
大阪 御蔵跡公園 織田作之助「夫婦善哉」からhttp://zassha.seesaa.net/article/384046960.html
大阪 木の實 織田作之助の短編「大阪発見」からhttp://zassha.seesaa.net/article/385693058.html
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2014年01月20日

大阪 木の實 織田作之助の短編「大阪発見」から

表題の「木の實(このみ)」が登場する織田作之助の短編「大阪発見」を紹介する前に、織田作の旧友(三高時代から死に水を取るまで)である青山光二の著作「純血無頼派の生きた時代」の中に一章(「山椒焼きとステーキ」)を設けてまで紹介しているので、そちらを先にする。
<<戎橋筋の、とある路地の「木の実」という細長い小店で、毎日のように”牛肉の山椒焼き”というのを食べた。織田が見つけて、私をその店へひっぱって行ったのだ。というのが、私が牛肉を好まないのを知っていて、これなら厭とは云うまいと思ったらしいのだ。そして結果は、厭と云うどころか私は”牛肉の山椒焼き”の病みつきになってしまったのである。昭和十一年の夏にかかる頃ではなかったかと思う。(略) 大阪で待ちかまえている織田作之助と二人でミナミの盛り場をうろつき歩いていた。説をなす人があって、食通とは大食家の謂(いい)だと書いているのを読んだ記憶があるが、その説に当てはめると、作之助も小生も食通ではなかった。栄養のある食物を少なく食べるのが、洒落れた食生活だと思っていた。「木の実」の”牛肉の山椒焼き”は、まさにその手の食通に向いていたのである。>>
織田作と青山が、食事時となると「木の実」の”山椒焼き”に足を運んだのは理由があった。「付け」がきいたからと青山は続けて述べている。近く(なんば南海通り)の波屋書房での「付け」と同じで、親代わりとなっていた長姉の夫である電気商の竹中国治郎が「付け」の始末をしていたのである。青山は、千日前の「千成」「鮨捨」でも「付け」がきいたと書いている。
織田作が「木の実」をどのように作品に表現したかを、「織田作之助全集第8巻」(講談社 1970年刊)に収められている短編「大阪発見」(P233〜239)から抜粋。
<< 「月ヶ瀬」は戎橋の停留所から難波へ行く道の交番所の隣にあるしるこ屋で、もとは大阪の御寮人さん達の息抜き場所であったが、いまは大阪の近代娘がまるで女学校の同窓会をひらいたように、はでに詰め掛けている。(P234)(略)けれども今もなお私は「月ヶ瀬」のぶぶ漬に食指を感ずるのである。そこの横丁にある「木の実」へ牛肉の山椒焼や焼うどんや肝とセロリーのバタ焼などを食べに行くたびに、三度のうち一度ぐらいはぶぶ漬を食べて見ようかとふと思うのは、そのぶぶ漬の味がよいというのではなく、しるこ屋でぶぶ漬を売るということや、文楽芝居のようなお櫃に何となく大阪を感ずるからである。(P235)>> *ぶぶ漬=ぶぶは湯の意でお湯漬け
「木の実」に興味を抱き始めたのはいいのだが、織田作も青山も<戎橋筋の、とある路地><月ヶ瀬、そこの横丁にある「木の実」>と簡潔すぎる紹介しかしていない。とりあえず店名をネット検索してみる、が該当無し。難波一帯は昭和20年の空襲で丸焼けになり灰燼に帰している。おそらく再開することもなく消えて行ったのだろう。頼りは「大阪春秋」誌とばかりに、100号以上の目次を追うが該当すると思える項目は見当たらない(織田作特集号でも除外)。結果を述べると、地図を作成できるぐらいには突き止めました。「カフェー考現学」2004年刊という分厚い単行本を何気に図書館で手にとってみると、資料として昭和初期の「カフェ・ニュース」第1号のカフェー広告が掲載されており、30軒以上のカフェー名の中に「木の實」があったのです。広告<ひきたてコーヒー 木の實 木の實ライス>。おおまかな案内地図も載っており、あとは住所調べをするだけ。そうなると「大阪市及近郊電話番號簿」(昭和13年版)です。調べた結果は<電話 戎76ー1453 南区難波新地4番5 谷垣三郎(たぶん経営者) 職種 とんかつ>。あとは戦前の南区の地図を探すだけ。
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左右写真とも下の地図の赤丸の場所 左は東から 右は逆の西を背にした方向から 現在のナンバ一番ビルの西端ぐらいの位置に木の實が存在したと思えます
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参考
「純血無頼派の生きた時代」青山光二2001年刊
「大阪市及近郊電話番號簿」昭和13年版
*青山光二著「織田作之助 青春の賭け」講談社文芸文庫においても、より簡潔に「木の実」について述べている箇所(P131)があります。
 
織田作之助リンク
大阪 北野田の六軒長屋 織田作之助「蚊帳」「高野線」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383884815.html
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383338605.html
大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383495231.html
大阪 御蔵跡公園 織田作之助「夫婦善哉」からhttp://zassha.seesaa.net/article/384046960.html
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2014年01月19日

大阪 阿部定の足跡 飛田遊郭・御園楼 

阿部定は、22歳の正月に大阪の飛田遊郭「御園楼」に住み替える。それまでの信州飯田町の「三河屋」(芸妓屋)での不見転(みずてん)芸者から、はじめて娼妓となり大阪に流れ着いたのだ。「御園楼」での新しい源氏名は「園丸」。 *不見転芸者=客を選ばず誰とでも寝る芸者の意
飛田遊郭の「御園楼」・・・東京都心部なら戦前の詳細住宅地図がほぼそろっており、苦労することなく場所を特定できるのだが、戦前の詳細地図が大幅に欠落している大阪では少々回り道をすることになる。旧住居表示の地図と、電話番号簿から「御園楼」の住所を探し出して付き合わせをする作業が必要となるのだ。西区西長堀の大阪市立図書館3階で一挙に問題は解決できた。相談カウンターで戦前の電話番号簿(貴重資料のため持ち出し不可・コピー禁止)を依頼し、同フロアの地図棚(合併前の南区・東区の専用地図棚が有る)で該当する旧表示の地図を探し出す。ページを繰るのも慎重になりほど古い電話番号簿は一部傷んでいる、。
<<「大阪市及近郊電話番號簿」昭和十三年四月一日現在>>
掲載はイロハ順になっており、707頁目の最下段に「御園楼」(同名称は他に無し)が載っていた。
<<御園樓 戎76ー0588 住、山王、四ノ二三 貸座敷>>
分かりやすく表記すると、<<御園楼 電話 戎局76−0588 住吉区山王4−23 (業種)貸座敷>>
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「御園楼」が存在した場所 下段の地図の23番に該当する場所(御園楼)は、戦後から駐車場(当時の一定期間はタカラモータープール)となったまま現在に至っており 大門通りを挟んだ向かいには戦後 御園楼と同規模と思われる大きな料亭「李青龍」が存在していた 
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(左写真)飛田遊郭の大門跡(メインゲート) 「御園楼」は大門通りの最奥部に存在していた (右写真)「嘆きの壁」と呼称される壁に遊郭は囲まれていた(後年に数箇所に門が設けられ開放される) 
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(左写真)旧・飛田遊郭内に残る遊郭風の古い建物 地図は現在と売防法実施以前の建物名など混在してます 

予審尋問調書によると、阿部定は、1927年(昭和2年)の正月から大阪西成区にある飛田遊郭「御園楼」に、前借金2800円(連判者は父親の重吉)ほどで契約し、約1年間、娼妓として住み込みで働く。その後、同じ大阪の朝日席で約半年間働いている。1929年(昭和4年)1月には満年齢で23才。調書では「翌年早々、23歳の時名古屋市西区羽衣町の徳栄楼に前借二千六百円くらいで住み替えました」とあるが、ちぐはぐになるので、翌年早々を「1929年(昭和4年)1月」と考えます。
阿部定は、この大阪飛田の一流店で「売れて三枚とは下らず可愛がられ」、「客を相手にするのが厭ではなく面白く働きました」と調書に述べ、「一年ぐらい経った頃、ある会社員の客が私を落籍してくれることになりましたところ、その人の部下も私の客であることが判ったため、落籍の話は駄目になり、客から堪忍してくれと云われ、お金をもらったことがありました。」と身請け話があったことを語っている。
参考 「阿部定手記」1998年刊 中公文庫
   「大阪市及近郊電話番號簿」昭和13年版
阿部定リンク
「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html
「浅草 阿部定の足跡 百万弗劇場」http://zassha.seesaa.net/article/319694968.html
「渋谷 円山町 阿部定の足跡 待合みつわ跡」http://zassha.seesaa.net/article/328923946.html
「宇治 阿部定の足跡 菊屋旅館跡」http://zassha.seesaa.net/article/381905711.html
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2014年01月08日

大阪 山内法律特許事務所(近代建築)

正式な旧名称は「山内香法律特許事務所」。
土佐堀川・肥後橋の南詰の西側に、1933年(昭和8年)に建てられた鉄筋コンクリート4階建て(地下1階)のレトロなビルが、川風と陽光を浴び佇んでいます。設計は不詳となっていますが、国の登録有形文化財。最初は法律事務所として建てられたのだが、現在はレトロな雰囲気を取り入れたバーやレストランが入居中。
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土佐堀川に架かる肥後橋上から 高速道路の橋脚の合間に見える山内ビル (右写真)対岸から(北側) 縦長のアーチ窓がリズムを感じさせる ステンドグラスや軒飾りが南面より表情を豊かなものにしている 4階建てだが4階部分は塔屋風
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小振りな南面の玄関 アーチ窓下のタイル貼のデザインが美しい
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建築当初の旧称「山内○法律特許事務所」が右書きでRカーブに貼られているが○部分は欠落している 元は「香」の文字 南面は道路幅の制約があり遠望は不可能
 *場所 大阪市西区土佐堀1−1−4 撮影は2013年初夏
  参考 「大大阪モダン建築」2007年刊
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2014年01月04日

大阪 江戸焼うなぎ 菱冨 小津安二郎の日記から

映画監督小津安二郎が日記に書き記した(実は日記にはその店名は残されておらず、別冊といえる住所録風メモとして使用された2冊の手帳に店名のみが書き込まれている)道頓堀川沿い(宗右衛門町)に明治年間より店を構える「江戸焼うなぎ 菱冨」です。手帳には<菱冨(鰻江戸やき)宗右ェ門町>とだけ横書きで記されている(日付けは無い)。
小津の日記に集中して「大阪」が登場するのは、1961年(昭和36年)6月以降で、6月8日に横浜より「第二こだま」に乗車し、大阪に向っている。大阪で下車し、車で宝塚入り。阪急今津線の宝塚南口駅に近い武庫川南岸の旅館「門樋」に逗留する(P714)。創立10周年を迎える宝塚映画が、松竹の小津安二郎を記念作品「小早川家の秋」(「こはやがわけ」と読み)製作のために招聘したもの。翌日6月9日には神戸元町の「ユーハイム」(旧本店=現アーケードの場所ではない)を訪れており、11日は京都にロケハン、14日は伊丹、19日は大阪の東宝でプレス会見。会見後に「吉兆」に招宴され、夜は北のクラブオータに。21日には城の見える風景をロケハンし、(ガスビル南館の西に本店を構える)美々卯でうどんすき、道頓堀の夜景をみて電車(阪急)で西宮経由で宿に帰っている。この日が「菱冨」に最接近している。23日までにロケハンは終了し、クランクイン(セット撮影の日が多くなる)を迎えている。宝塚を拠点にして関西圏に、9月まで滞在していたが、日記には「菱冨」の店名記入は無いまま。確証ある訪問日は不明。
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小津が跳ね上げただろう暖簾の位置を想って店内に 右写真は1階のテーブル席 2階が和室座敷席で写真右奥に下足棚がある 
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(左写真)鰻重(特上だったかな? 撮影2012年)関東風に蒸しが入っているのでふっくらしている 小津が何を注文したか不明 菱富名物の「う巻」(鰻の卵巻き)は食したはずと想像(1本8切1470円)

大阪市中央区宗右衛門町7-6 菱富ビル
営業時間 11時30分〜21時
定休日 木曜(7月・12月は営業)

*参考 「全日記 小津安二郎」フィルムアート社
    「小津安二郎 東京グルメ案内」(巻末付録の「グルメ手帖」)朝日文庫
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2013年12月31日

大阪 御蔵跡公園 織田作之助「夫婦善哉」から

1940年(昭和15年)4月、同人誌「海風」に発表された織田作之助の短編小説「夫婦善哉」から<御蔵跡公園>です。新潮文庫版に収められた「夫婦善哉」のページ49から引用<<柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋の御蔵跡公園裏に二階借りした。>>。
情景描写は以上、1行だけです。「夫婦善哉」の舞台(高津から難波周辺)となるエリアはほぼ理解していたつもりでいたのですが、日本橋の御蔵跡(みくらあと)公園??? ピンときません。二ッ井戸の道頓堀川に近い辺りか黒門市場のはずれだろうと見当をつけて地図に拡大鏡をあてるが、小さい公園自体が存在していない。「御蔵」で感ずいたのが、運搬手段となる船舶の利用。東京の浅草周辺から深川一帯では、江戸期を通して川・堀に沿って各藩邸の蔵屋敷(下屋敷)が建ち並び、国許から米などを運びいれていた。道頓堀川から南下する埋め立てられた堀跡のことがすぐに思い浮んできた。黒門市場の東側の民家の玄関脇に置かれたコンクリート製の橋の親柱(末広橋)の写真を撮影したばかり。地図をながめると堀の埋め立て跡は簡単に判断可能・・・・ここでお断り。もったいぶりましたが、結局、探し出せず大阪市中央図書館の助けを借りることに。3階の相談デスクに感謝。
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「夫婦善哉」のここまでのあらすじは、<蝶子・柳吉夫婦は飛田遊郭の大門脇で関東煮屋(関東でいうおでん屋のこと)を始めたが、しばらくして果物屋に転業><柳吉は胃腸が悪いと実費医院・華陽堂・天王寺の市民病院と病院を渡り歩き結局、入院><退院して湯崎温泉(和歌山)で療養するのだが、蝶子の折檻を忘れたのか、毎度の遊蕩癖が出始める>
以下はp47からの抜粋
<<蝶子が親の所へ戻っていると知って、近所の金持から、妾になれと露骨りに言って来た。湯崎にいる柳吉の夢を毎晩見た。ある日、夢見が悪いと気にして、とうとう湯崎まで出掛けて行った。「毎日魚釣りをして淋しく暮している」はずの柳吉が、こともあろうに芸者を揚げて散財していた。むろん酒も飲んでいた。女中を捉えて、根掘り聴くとここ一週間余り毎日のことだという。そんな金がどこからはいるのか、自分の仕送りは宿の払いに精一杯で、煙草代にも困るだろうと済まぬ気がしていたのにと不審に思った。女中の口から、柳吉がたびたび妹に無心していたことが分ると目の前が真暗になった。
柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋の御蔵跡公園裏に二階借りした。
相変らずヤトナに出た。こんど二階借りをやめて一戸構え、ちゃんとした商売をするようになれば、柳吉の父親もえらい女だと褒めてくれ、天下晴れての夫婦になれるだろうとはげみを出した。その父親はもう十年以上も中風で寝ていて、普通ならとっくに死んでいるところを持ちこたえているだけに、いつ死なぬとも限らず、眼の黒いうちにと蝶子は焦った。>> *ヤトナ=臨時雇いの(芸者に近い)仲居の意
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御蔵跡公園の現在の名称は「日本橋公園」に変わっています 高島屋別館の東側にある日本橋小学校と隣接 公園の南側の町名は北日東町にすぐ変わる 「御蔵跡公園裏」とは公園の北側を指しているのだろうか?
織田作之助リンク
大阪 北野田の六軒長屋 織田作之助「蚊帳」「高野線」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383884815.html
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
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大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
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大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383495231.html
 
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2013年12月29日

大阪 北野田の六軒長屋 織田作之助「蚊帳」「高野線」から

1939年(昭和14年)7月15日、阿倍野筋2丁目の料亭「千とせ」で挙式した織田作之助と(宮田)一枝は、その日のうちに南海高野(こうや)線の北野田駅に近い新居に移る。長姉・竹中タツが探してきた新築のサラリーマン向けの二階建ての六軒長屋(家賃月23円)で、東向きに開かれた窓からは尻田池と呼ばれる溜池が眼前に広がっている。住所は大阪府南河内郡野田村丈六。織物新聞社を辞した織田作は、9月1日に堂島浜の日本工業新聞社に入社し、非鉄金属を担当する。月給50円。同月、同人誌「海風」6号(東京本郷・品川力方が発行所)に「俗臭」を発表するが検閲により発禁処分(品川力が警察署に出頭)を受ける。
1940年(昭和15年)1月、織田作は妻一枝を伴い別府に旅行。2月、「俗臭」が芥川賞候補になる。4月、「夫婦善哉」発表(同人誌「海風」)。6月、「夫婦善哉」が改造社の第1回文芸推薦を受ける(選考委員は宇野浩二・川端康成ら)。同月頃、日本工業新聞社と同系列の「夕刊大阪新聞」の社会部に転籍し、文芸欄などに原稿を書く。8月、「六白金星」「大阪発見」を発表。10月、新聞社を辞して作家活動に専念する。
1941年(昭和16年)12月、同人誌「海風」解散し、大阪における統合同人誌「大阪文学」を輝文館(東区備後町4−91番屋敷・・移転後の日本工業新聞に近い)より創刊。
この頃(さらに後年か)、発表時期不明の短編「蚊帳」で野田村丈六での生活と情景を描写する。
<<彼の家は池の前にあった。蚊が多かった。
新婚の夜、彼は妻と二人で蚊帳を釣った。永い恋仲だったのだ。蚊帳の中で蛍を飛ばした。妻の白い体の上を、スイスイと青い灯があえかに飛んだ。
痩せているくせに暑がりの妻は彼の前を恥ずかしからなかった。妻は彼より一つ歳上だった。彼の方がうぶらしく恥しがっていた。
妻は池の風に汗を乾かして寝ついたが、明け方にはぐっしょり寝汗かく日が多くなった。肺を悪くしたのだ。
蚊帳の中で妻はみるみる痩せて行った。骨張った裸の体は痛ましかった。
(略)
そんな熱があっても、しかし妻は彼に抱かれたがった。病気をすると一層彼が恋しくなるらしかった。やがて死ぬものと決めている妻は、落日の最後の灯が燃えるように燃えたがっていた。>>
織田作之助全集第5巻・講談社・昭和45年6月刊行のP195〜197に収められた短編「蚊帳」からの抜粋。巻末に収められた盟友・青山光二の作品解題では「蚊帳」の発表は「夕刊大阪新聞」としているが掲載時期は不詳となっている。
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再開発によりビルが建ち並ぶ駅前(ローレルコートの2階デッキ)から織田作夫妻の住んだ六軒長屋(部分的に現存)の方向 (右写真)埋め立てられた尻田池
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六軒長屋は大部分が店舗に改築されているが建築当初のまま残されている部分もある・・ブロック塀は後年のもの 織田作夫妻の住居部分は惣菜屋 (右写真)長屋の前に広がっていた溜池は埋め立てられ平屋のスーパーマーケットが営業している
この野田村丈六での夫婦生活は、わずか5年で幕を閉じてしまう。一枝は病(子宮がん)に倒れ、昭和19年8月6日に30歳で死去する。 
「織田作之助全集第8巻」に収められた日記から、昭和19年の一枝が亡くなった日の部分を抜粋。
<<八月六日 妻一枝午前十時十分過ぎ永眠す。風強し。夜に入りて颶風となる。風の音天を恨むが如し。一枝あわれ、一枝あわれ。>>
翌日の項は、午後1時半からの激しい雨のなかの出棺の模様が記され、日記の終りは<<妻なし子なしやるせなし>>と結ばれている。翌々日の8月10日に大阪市天王寺区の楞厳寺(りょうごんじ)で告別式が執り行われている。
同全集第5巻に収められている短編「高野線」(「新文学」昭和19年11月号発表)では、妻の死を高野線の電車事故に重ね合わせる形て描き出し、激痛に耐えながら死を迎えた妻に対しての悲痛な心情をにじませている。P49〜P54から抜粋。 
<<九月三日の夕刻南海電車の高野線で死者七十数名という電車事故があった。(略) 妻が死んだのは八月の六日だから、まだ一月も経っていなかった。(略) 私は何も悪いことしたことはないのに、なぜこんなに苦しまんならんのやろと妻がいったその苦しみを、妻に負わした運命に対する怒り、いや、もっと得体の知れぬあるものへの得体の知れぬ怒りにいつかそれは変じていた。>>
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北野田駅前は戦前とは別世界のようにビル群に変わっている 長屋前の溜池のあった位置は荒涼とした雰囲気が残り、当時に想いをはせることが出来る
*織田作之助全集第7巻・講談社の口絵に長屋全景モノクロ写真の掲載有り
一枝が納骨された楞厳寺(りょうごんじ)の墓には、現在、作之助と一枝、作之助の両親が眠っている。
楞厳寺 大阪市天王寺区城南寺町1-26 http://futsu-no-otera.jp/?p=3659  
*参考 「大阪春秋」第152号(特集「大阪に生きるオダサク」)
    「織田作之助」大谷晃一 沖積舎刊

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383338605.html
大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383495231.html
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2013年12月24日

大阪 難波 雁次郎横丁 織田作之助「世相」から

難波の「雁次郎横丁」を知る人が少なくなっている。というか居なくなっている。織田作之助の短編「世相」の記述で、おおよその見当はつけていたのだが、確認のために近辺で古くから店を構えている店主らに伺ってみても、あいまいな返事に終始するだけ。
1946年(昭和21年)、敗戦の混乱の中で発表された「世相」(「人間」4月号)から<雁次郎横丁>を描写した部分を抜粋。
<<雁次郎横丁――今はもう跡形もなく焼けてしまっているが、そしてそれだけに一層愛惜を感じ詳しく書きたい気もするのだが、雁次郎横丁は千日前の歌舞伎座の南横を西へはいった五六軒目の南側にある玉突屋の横をはいった細長い路地である。突き当って右へ折れると、ポン引と易者と寿司屋で有名な精華学校裏の通りへ出るし、左へ折れてくねくね曲って行くと、難波から千日前に通ずる南海通りの漫才小屋の表へ出るというややこしい路地である。この路地をなぜ雁次郎横丁と呼ぶのか、成駒屋の雁次郎とどんなゆかりがあるのか、私は知らないが、併し寿司屋や天婦羅屋や河豚料理屋の赤い大提灯がぶら下った間に、ふと忘れられたように格子のはまったしもた家やがあったり、地蔵や稲荷の蝋燭の火が揺れたりしているこの横丁は、いかにも大阪の盛り場にある路地らしく、法善寺横丁の艶めいた華かさはなくとも、何かしみじみした大阪の情緒が薄暗く薄汚くごちゃごちゃ漂うていて、雁次郎横丁という呼び名がまるで似合わないわけでもない。ポン引が徘徊して酔漢の袖を引いているのも、ほかの路地には見当らない風景だ。私はこの横丁へ来て、料理屋の間にはさまった間口の狭い格子づくりのしもた家の前を通るたびに、よしんば酔漢のわめき声や女の嬌声や汚いゲロや立小便に悩まされても、一度はこんな家に住んでみたいと思うのであった。>>

千日前・歌舞伎座(現在はビックカメラ)の南横を入る細路地は消滅しており、目印の玉突屋(ビリヤード場)ももちろん無い。織田作が教えてくれた<精華学校裏の通り>へ廻ってみると西側からの路地は残っている。ポン引や易者の姿があれば訊ねてみるのだが・・・。寿司屋のかわりに焼肉屋の大きな看板が見える。焼肉屋の角を織田作の説明とは逆の西側(精華学校側)から入ってみる。ビルの壁の間の路地に料理屋どころか店1軒さえない状態。右側は大きなラブホにかわっていて、玉突屋のほうへ抜けられるはずの路地は閉鎖され進むことができない。行き止まりになってしまった路地の横に小さな祠がビル壁にへばりつくように祀ってある。織田作が書いた<地蔵や稲荷の蝋燭の火が揺れたりしているこの横丁>のその地蔵(建て直しだが)に違いないと確信した。
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旧・精華小学校裏の通りから「雁次郎横丁」に入った所 右側がラブホ「ハイパー」 突き当たりを左に折れると玉突屋の角に出られたのだが・・・
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北側へ抜ける道は閉鎖されている 1981年刊の大谷晃一著「カラーブックス大阪文学散歩」の「雁治郎横丁」の写真にはまだ営業している店(クラブ木暮)が写っている
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戦前の焼失する前の「雁治郎横丁」を織田作は「大阪発見」(「改造」昭和15年8月号発表)に描写している。岩おこし屋「津の清」とあわせて書かれた部分を抜粋。
<<屋根に、六つか七つぐらいの植木の小鉢が置いてあったのを見て私は、雁治郎横丁を想い出した。雁治郎横丁は千日前歌舞伎座横の食物路地であるが、そこにもまた忘れられたようなしもた家があって、二階の天井が低く、格子が暑くるしく掛っているのである。そしてまた二つ井戸の岩おこし屋の二階にも鉄の格子があって、そこで年期奉公の丁稚が前こごみになってしょんぼり着物をぬいでいたのである。そうした風景に私は何故惹きつけられるのか、はっきり説明出来ないのであるが、ただそこに何かしら哀れな日々の営みを感ずることはたしかである。>>
<楽天地が1930年(昭和5年)に閉鎖された後、1932年に跡地に松竹の「大阪歌舞伎座」が建てられ、中村鴈治郎(初代)ら歌舞伎役者が出演・・・その鴈治郎の住居がこの路地にあったことからの呼称>といわれています。
「なにわ難波のかやくめし」成瀬國晴著(東方出版)の巻末に掲載されている戦前の詳細な地図に全面的に負っています。織田作之助の「夫婦善哉」ラストに登場する日本橋南詰にあった天牛書店(現在も各地で営業中)の古本コーナーで偶然手に取った書物です。定価2000円を500円で購入。西長堀の市立中央図書館3階で参考のため「大阪春秋」(現在152号まで発行)各号に目を通していますが、そこに掲載されている戦前・戦後の難波の地図が「なにわ難波のかやくめし」を底本にしているため、書名にすぐ反応できました。
織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/383029592.html
京都 しるこ屋べにや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/383338605.html
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2013年12月19日

大阪 難波南海通 波屋書房 織田作之助

作家織田作之助が、少年時代から立ち寄っていた本屋が「波屋書房」。
難波南海通に面した波屋書房の前を東に20mほど進むと、そこの四つ角には、かって織田作が愛した馴染みの店が軒を並べるように集まっていた。織田作の陰鬱な日々を癒した大阪劇場地下の将棋倶楽部、喫茶店「花屋」、日本橋筋の姉夫婦の家から通った銭湯、まむしの「いずもや難波店」などだ。この四つ角の中に立ち止まると周囲の雑踏が渦をまいたように廻りはじめ、遠く戦前の木造家屋が居並ぶ、織田作が歩き回っていた世界に連れて行かれそうになる。黒帽子に黒マントを翻して織田作がうしろを通りすぎて、「花屋」に入って行くではないか・・・。
戦災で焼失して再建されなかった店が多いが、「いずもや」は、<時代と合わなくなってしまった(女将さん談)>と閉鎖移転し、現在まで姿を残しているのは「波屋書房」だけになっている。*「いずもや」の移転先先は船場グルメタウン地下2階。

「織田作之助全集 第8巻」(講談社刊)に収められた日記から(P343より)
<<昭和13年4月16日 ひる起きる。竹中に行く。竹中に二時間ばかり。西沢氏に行き、一緒にすし捨に行く。(注・すし捨は上記、大阪劇場の東側の路地にあった)西沢氏に別れ、トミ子と心斎橋を少し歩き、下宿への土産にこぶを買ってもらう。トミ子と別れ、ナミ屋へ行く(注・ナミ屋=波屋書房)。本を二冊(ルナアル日記、ドルジェル伯の舞踏会) 道頓堀の本屋に行く。(略)>> 
昭和13年の織田作の日記に登場するように波屋書房の創業は、さらに遡った1919年(大正8年)。創業者は画家の宇崎純一・祥二で、戦前は同人誌「辻馬車」(藤沢桓夫らが発起し武田麟太郎らが参加・・・文庫カバーに藤沢桓夫の「文学的フランチャイズだった」の言葉が残る)の発行所であった。織田作が書いたように、波屋書房も戦災で焼けているが、1ヶ月後にはすぐさまバラックを建てて店を逞しく再開している。現在は店内の半分以上の棚が料理専門書で占められるほどその道の専門書店になっている。
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正面がなんば南海通の入口 100mほど先の左側に波屋書房がある 右写真の左先に波屋書房の白い看板が見える その先の十字路に大劇や花屋があった
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現在も営業中の波屋書房
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左右とも波屋書房のブックカバー 創業者であり画家の宇崎純一(すみかず)の絵が使われている
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織田作之助の作品で「波屋書房」が詳しく描写されているのが短編「神経」だ。「文明」誌1946年(昭和21年)4月発表(春季号)。その(三)から抜粋。    
<<暫らく立ち話して「花屋」の主人と別れ、大阪劇場の前まで来ると、名前を呼ばれた。振り向くと、「波屋」の参さんちゃんだった。「波屋」は千日前と難波を通ずる南海通りの漫才小屋の向いにある本屋で、私は中学生の頃から「波屋」で本を買うていて、参ちゃんとは古い馴染だった。参ちゃんはもと「波屋」の雇人だったが、その後主人より店を譲って貰って「波屋」の主人になっていた。芝本参治という名だが、小僧の時から参ちゃんの愛称で通っていた。参ちゃんも罹災したのだ。私は参ちゃんの顔を見るなり、罹災の見舞よりも先に、「あんたとこが焼けたので、もう雑誌が買えなくなったよ」と言うと、参ちゃんは口をとがらせて、「そんなことおますかいな。今に見てとくなはれ。また本屋の店を出しまっさかい、うちで買うとくなはれ。わては一生本屋をやめしめへんぜ」と、言った。
「どこでやるの」と、きくと、参ちゃんは判ってまっしゃないかと言わんばかしに、「南でやりま。南でやりま」と、即座に答えた。南というのは、大阪の人がよく「南へ行く」というその南のことで、心斎橋筋、戎橋筋、道頓堀、千日前界隈をひっくるめていう。
その南が一夜のうちに焼失してしまったことで、「亡びしものはなつかしきかな」という若山牧水流の感傷に陥っていた私は、「花屋」の主人や参ちゃんの千日前への執着がうれしかったので、丁度ある週刊雑誌からたのまれていた「起ち上る大阪」という題の文章の中でこの二人のことを書いた。しかし、大阪が焦土の中から果して復興出来るかどうか、「花屋」の主人と参ちゃんが「起ち上る大阪」の中で書ける唯一の材料かと思うと、何だか心細い気がして、「起ち上る大阪」などという大袈裟な題が空念仏みたいに思われてならなかった。
ところが、一月ばかりたったある日、難波で南海電車を降りて、戎橋筋を真っ直ぐ北へ歩いて行くと、戎橋の停留所へ出るまでの右側の、焼け残った標札屋の片店が本屋になっていて、参ちゃんの顔が見えた。
「やア、到頭はじめたね」と、はいって行くと、参ちゃんは、「南で新刊を扱ってるのは、うちだけだす。日配でもあんたとこ一軒だけや言うて、激励してくれてまンねん」と言い、そして南にあった大きな書店の名を二つ三つあげて、それらの本屋が皆つぶれてしまったのに「波屋」だけはごらんの通りなっているという意味のことを、店へはいっている客がびっくりするほどの大きな声で、早口に喋った。
しかし、パラパラと並べられてある書物や雑誌の数は、中学生の書棚より貧弱だった。店の真中に立てられている「波屋書房仮事務所」という大きな標札も、店の三分の二以上を占めている標札屋の商品の見本かと見間違えられそうだった。
「あ、そうそう、こないだ、わてのこと書きはりましたなア。殺生だっせエ」参ちゃんは思いだしたようにそう言ったが、べつに怒ってる風も見えず、「――花屋のおっさんにもあの雑誌見せたりました」「へえ? 見せたのか」「花屋も防空壕の上へトタンを張って、その中で住んだはりま。あない書かれたら、もう離れとうても千日前は離れられんいうてましたぜ」
そう聴くと、私はかえって「花屋」の主人に会うのが辛くなって、千日前は避けて通った。焼け残ったという地蔵を見たい気も起らなかった。もう日本の敗北は眼の前に迫っており、「波屋」の復活も「花屋」のトタン張り生活も、いつ何時なんどきくつがえってしまうかも知れず、私は首を垂れてトボトボ歩いた。>>

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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2013年12月16日

大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助

作家・織田作之助が、宮田一枝との5年越しの恋を実らせ、近親者のみで結婚式を挙げた場所が大阪・阿倍野の料亭「千とせ」なのだが、現在は存在しない。場所を明示した資料が少なく、ほとんどが「阿倍野筋2丁目」という表記で終わらせている。外観や規模がわかる資料(写真)が見つからないために、おおよその位置のみを地図に記載します。
京都・三高(現・京都大学教養課程)近くのカフェー「ハイデルベルヒ」の住み込み女給であった宮田一枝を見染めて以来、4年9ヶ月が経った1939年(昭和14年)7月15日に、両家の親族の立会いで阿倍野筋2丁目の料亭「千とせ」松の間で挙式(その室内の記念写真は評伝等に掲載されている)。参列者は、宮田家の両親、作之助の親代わりの竹中タツ(長姉)夫婦ら計9名であった。
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(左写真)料亭「千とせ」跡の敷地には大きなビルが建っている 手前の道は、現在も路面電車(2両連結)が走る阿倍野筋 (右写真)料亭「千とせ」の玄関付近から見た阿倍野筋
作之助は、昭和12年5月から東京・本郷森川町(東大正門向い一帯)の学生下宿「秀栄館」(木造二階建て)に入居し、劇作修行の名目で約2年間をすごすが、この年(昭和14年)の3月に完全に東京から引き揚げ、大阪郊外の富田林の姉夫婦(竹中家)の家に寄寓していた。4月には日本敷物新聞に就職し結婚に備えているが、4月末には退社し織物新聞に移っている。結婚後の9月にはさらに中之島の日本工業新聞社に籍を移した(社屋は昭和16年に西区京町堀に移転)。
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阿倍野周辺は巨大な再開発(あべのハルカス)計画が進行しているが、以外なことに昭和初期の道筋がしっかり残っている。左写真は料亭「千とせ」の南側にあたる路地。大正末期までは福田邸の広い屋敷が存在していた。
参考
「織田作之助」大谷晃一 沖積舎 
 位置情報は阪南文化協会の大正10年発行の地図による

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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2013年12月15日

大阪 京橋 ガールズバンド<スキャンダル>誕生の地

日本を代表する4人組ガールズバンド<SCANDAL>(ボーカルHARUNA・ギターMAMI・ベースTOMOMI・ドラムRINA)の誕生秘話(かなり有名)。
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京阪京橋駅からほど近い線路際の雑居ビル(協栄ビル)の6階に入居する音楽スタジオ<BROTHERZ.>の貸しスタジオでバンド練習に励むアマチュアバンド(女の子4人組)のもとに、イベント出演決定の知らせが届く・・・バンド名を、まずは付けなくては・・・4人が思いついたのが、このビルの1階で営業する派手なネオンのセクキャバ「SCANDAL」の店名だ(貧乏な彼女たちだが、この店でバイトはしていない 年齢が無理なのだ)・・・このようにしてガールズバンド<SCANDAL>が誕生する。このビルは現在も7〜8店の風俗店が営業中で、音楽スタジオ<BROTHERZ.>の看板は風俗店の立て看板の中に埋もれている
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(左写真)京阪線路側から見た協栄ビル 練習スタジオの看板は白色 (右写真)ビルの南側1階にある風俗店<SCANDAL> その営業案内
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メンバー4人の内、関西圏出身のTOMOMIとRINAの二人が、京阪線のガード下(練習スタジオよりさらに西側)にある「キャレスボーカル&ダンススクール大阪校」でレッスンを受けていた(HARUNAとMAMIは同系列の名古屋校に在籍)・・・文字通りダンス&ボーカルレッスンをおこなうスクールだったが、指導講師の一人が、個別にレッスン生それぞれに楽器演奏を薦めたことがきっかけとなり、4人が集まったと伝わっている。当初は希望者も多かったが、最後まで残ったのがこの4人だったのだ。その後、演奏(ドラム)に自信を無くした最年少のRINAが脱落しそうになった時期もあったという。リーダーHARUNAが、バンド結成以来の目標であり、集大成のライブとなった大坂城ホールのステージ上で、「TOMOMIは、弦の本数が少ないベースギターが簡単そうだと思って選択した」と暴露したのだ。
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(左写真)4人が練習の後などに訪れ、悩みや将来の夢などを語りあっていたキャレスの向い側にある東野田公園 このベンチに座ったことは確かだ (右写真)ダイエー京橋店 メンバー御用達のショッピングセンター(当時の思い出の店は、いくつかは消滅しているという=2階フロアに専門店が並ぶ) この専門店街の洋品店で、1000円の揃いのTシャツを買い、最初のステージに立ったのだ
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(左右写真)大阪城公園内にある大阪城ホールのプロムナード(通路) 寝食を共にしてバンド練習する仲良し4人組は、2006年8月21日、ガールズバンド<SCANDAL>を結成し、大阪城ホールの通路(城天ストリート)で路上ライブを始める 右写真は通路にある売店 TOMOMIが言うには「城天ストリートの売店で、焼きそば1パックを買って4人でつついていたんや」 <SCANDAL>は大阪市内から関西各地のライブハウスへと活動の場を広げて行く 4人の夢は「この大阪城ホールの舞台にいつかは立とうな」 
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(左写真)<SCANDAL>が所属した芸能事務所キティエンターテインメントは、東京・世田谷区三軒茶屋の国道246号沿いの大きなビルの一室に入居している。写真中央の棟の6階だ。上京したメンバー4人も三軒茶屋周辺(三宿など)に部屋を借りて活動に備える。(右写真)渋谷・ファイヤーストリートのスキャンダルの期間限定ショップ(2013年10月〜12月初旬まで)(キティショップ)
<SCANDAL>は、2008年3月にインディーズデビュー(キティライツから)し、同年10月22日にエピックレコードからシングル「DOLL」でメジャーデビュー。2009年12月に、TBSのレコード大賞新人賞を受賞。日本のガールズバンドの頂点に近ずいてゆく。2013年3月3日、ついに4人の夢が現実のものとなる。結成時から変わらぬメンバー4人で目指した「大阪城ホール」の舞台に単独出演が決定したのだ。
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「大阪城ホール」公演の前日(3月2日土曜)に<SCANDAL>らしいシークレットミニライブを開催する。バンド名は<SCANDAL>でなく、またしても京橋の風俗店から命名した<ナース女学院>。彼女らの御用達のダイエー京橋店の道路をはさんだ向かい側にある風俗店だ。(右写真)前夜にシークレットライブが催されたJR福島駅近くのライブハウス「2nd LINE」 ちなみにバンド名<SCANDAL>以外の候補としては、<スチュワーデス物語>(ナース女学院と同じビル)、<電車でGO!GO!>(練習スタジオと同じビルに入る痴漢スタイルのピンサロ店で関西でチェーン化してる人気店)などであった。すべて風俗店の名だ!
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(左写真)大坂城ホールメーンゲート 城天ストリートはこの階段の下から延びているのだ (右写真)京橋周辺の<SCANDAL>関連図

youtubeから(リンク切れがあるかも)
「SCANDAL BABY」http://www.youtube.com/watch?v=1l3SwlAedGk(作詞にベースTOMOMIが参加)
「前夜のナース女学院シークレットライブ」http://www.youtube.com/watch?v=Nzvt49GZtT0(黒い帽子がTOMOMI)
*SCANDAL公式サイト http://www.scandal-4.com/
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2013年12月03日

大阪 西区 北堀江病院

大阪市西区北堀江1-10-6で開業中の現役の内科の病院・・・北堀江病院。
病院の案内ではありません。
病院の通常の出入口として使用されている玄関部分の円柱の装飾が見事なため、レトロ建築としての紹介です。1911年(明治44年)に産婦人科専門の近代的な病院として設立(東條病院)、1980年(昭和55年)に名称変更され北堀江病院に。鉄筋コンクリート3階建に建て直したのは1929年(昭和4)。
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昭和初期の建物に多くみられる柔らかなカーブ・・・丸みがモダンな印象を与える 玄関の段差は改築せずに板を渡してバリアフリー化
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左右の半円柱の最上部には壷(つぼ)がデザインされている 地図の赤丸部分が玄関位置
 *参考 大大大阪モダン建築 2007年刊
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2013年12月01日

大阪 大阪砲兵工廠遺構(大坂城北外曲輪)

戦前、大坂城の北東域(外曲輪からビジネスパーク一帯)には広大な軍事工場(大阪砲兵工廠)が敷設されていたが、米軍の重点爆撃目標にされた結果、(昭和20年8月14日の)集中爆撃で全焼し、ほぼ壊滅した。現在、その跡地は大坂城公園として整備されており、かっての面影はほとんど見ることができない。戦後、1964年(昭和39年)から1998年(平成10年)まで自衛隊・大阪地方連絡部が使用していた赤煉瓦造りの2階建の建物が唯一、残存する大型遺構といえる。建物名は「大阪砲兵工廠化学分析所」。建築年は1919年(大正8年)。設計は置塩章(砲兵工廠建築課)。「大阪砲兵工廠」は、昭和15年4月に陸軍兵器本部が設置されたため「大阪陸軍造兵廠」と改称されている(全国の工廠が改称された)。
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寝屋川に架かる京橋の上から 右側が北外曲輪の石垣 奥に大阪ビジネスパークの高層ビル (右写真)石垣の上の樹木の間に赤煉瓦の「化学分析所」が見える 天守閣上部も窺える
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左右の石垣だけ残る筋鉄(すじがね)門跡・・門柱の礎石が残っている 1620年(元和6年)からの徳川家による大坂城改築普請で設けられた三の丸の西側門で 砲兵工廠の正門に転用された (右写真)京橋から来ると近道(?)のアーチ門
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左右対称の水平ボリュームが大きい設計 1998年に自衛隊地方連絡部が使用停止した後は閉鎖状態に 窓は黒ベニヤ板で塞がれている
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(左写真)中央部分の正面玄関 (右写真)西側側面
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(右写真)筋鉄門を入ってすぐ右側(北外濠際)の赤煉瓦造りの廃墟化した1棟(砲兵工廠の遺構・守衛所)
 *参考 「大大阪モダン建築」2007年 他
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2013年11月30日

大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」より

戦時下の昭和19年3月に、「新潮」に発表された織田作之助の短編小説「木の都」。
その年の1月に、三高(現・京大教養)以来の親友で詩人の白崎礼三が故郷の敦賀市で死去し、5月には、愛妻・一枝の病状がさらに悪化(子宮がんで8月に死去)する。「木の都」は、死が次々と重ね合わさる時間の流れのなかで、自らが育った下町を舞台に、私的な回想の中に虚構をまじえて詩情豊かに描いた作品だ。文学碑が置かれている口繩坂の上に立つと、自分の傍らに茜色に染まる西の空に遠く視線を向けている織田作がいるような感覚に包まれる。織田作は視線を西の空にむけたまま、「どや、ええところやろ」と一言だけつぶやくのだ。
織田作之助「木の都」から
<<大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。それは生国魂(いくたま)神社の境内の、巳さんが棲んでゐるといはれて怖くて近寄れなかつた樟(くす)の老木であつたり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)つた時に濡れた着物を干した銀杏の木であつたり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂(げんしやうじざか)や口繩坂(くちなはざか)を緑の色で覆うてゐた木々であつたり――私はけつして木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。
試みに、千日前界隈の見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津(かうづ)の高台、生玉(いくたま)の高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。>>
短い時間で一気に読み終える短編作品です。全編紹介したくなる。
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<< 路地の多い――といふのはつまりは貧乏人の多い町であつた。同時に坂の多い町であつた。高台の町として当然のことである。「下へ行く」といふのは、坂を西に降りて行くといふことなのである。数多い坂の中で、地蔵坂、源聖寺坂、愛染坂、口繩坂……と、坂の名を誌るすだけでも私の想ひはなつかしさにしびれるが、とりわけなつかしいのは口繩坂である。>>
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「木の都」の最終節を刻んだ文学碑は口繩坂(急坂)を上りきった傍らに置かれている

<<再び年少の頃の私は、そのやうな故事来歴は与(あづか)り知らず、ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇たたずんでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧(あか)くなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。>>
夕陽丘女学校は移転し、現在は石碑だけが残っている。
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全集に収められた「木の都」(「織田作之助全集5」講談社1970年刊)を読み終え口繩坂を訪れたのは、2011年11月下旬。誰もいない坂上の碑板の横で、しばらくの間、吹き上げてくる冷たい風を受けて佇んでいた。
以下は石碑に刻まれている最終節。
<<口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。>>

織田作之助は、2年後にはもうこの世にいない。先立った妻一枝の眠る墓に入っている。遺品の中から、白い封筒に入れられた妻のものと思われる髪とボロボロに欠けた妻の写真が発見されている。その封筒は織田作が肌身離さず大切にしていたものだった。

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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2013年11月01日

大阪 九条 映画館 シネ・ヌーヴォ

映画を観るのはほとんどが単館系のミニシアター。東京では、神田神保町の「岩波ホール」、渋谷の「ユーロスペース」・「アップリンク」・「イメージフォーラム」、長年の御愛用の新宿「テアトル新宿」と池袋「文芸座」、たまに足が向く横浜の「ジャック&ベティ」(両方とも・・ジャック館とベティ館がある)、名古屋ではすでにアップした故・若松孝二の「シネマスコーレ」、関西では京都の「みなみ会館」(もう1館は潰れた)、大阪では十三の「第七芸術劇場」、そして今回アップの「シネ・ヌーヴォ」。
近年ではシネコンの座席数の少ないフロアでミニシアター系といえる作品の上映機会が増えており、一概に単館系とかの分類では特定が出来なくなっていますが、運営方針や特集企画が肌に合うため、上映スケジュールを常にチェックしているのが上記の映画館。九条駅に近い「シネ・ヌーヴォ」は大阪では個人的にトップに位置する映画館です。知り合いの女性に「九条に映画を観にゆくんだ」と伝えると疑いの視線・・・「なんで映画みるのにあんな遠くゆくんや?」(同じ駅に有名な現役のちょんの間の松島新地があるために疑われる)。
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 場所 大阪市西区九条1-20-24
 シネ・ヌーヴォHP http://www.cinenouveau.com/
1997年1月に設立された(株)ヌーヴォがシネ・ヌーヴォを運営 アート系映画館として館内外の装いを一新して同年にオープン(元から映画館だった) 2006年8月に2階部分にデジタル上映設備の「シネ・ヌーヴォX」を開館
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(左写真)設立にあたり趣旨に賛同した一般映画ファンが多数出資 その株主名が館入口のプレートに刻まれてます
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ホール天井に注目・・・アート系映画館です スクリーンに向かって右側の外通路の壁にぎっしり書き込まれた監督・俳優らのサイン
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(右写真)中央下にサインされた岩佐監督・・2012年に来館されたよう この管理人 同監督のスタッフとしてテレビドキュメンタリー作品(文学名作シリーズ「田舎教師」)に参加したこと有り(出演は吉行和子さんだった・・打ち上げで撮った文学碑前での記念写真が残ってます)* 岩佐寿弥(ひさや)監督は2013年5月に事故で亡くなられました
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かなり出合ったことのある方の名が・・・原監督って和泉聖冶の若かりし頃に一緒の事務所にちょっと出入りしてたかなあ 大島監督と組んでいた石堂ライターの名も 分からないのが右写真の左上すみっこの「寺山」?・・・
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大島監督追悼企画では見逃してた2作品(右のちらしに○で囲み)・・・「忍者武芸帖」は以前に新宿ATG(日劇文化)で観た記憶があるような・・・
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地下鉄中央線九条駅からアーケード商店街を抜けて行かないと迷います 阪神電車だと地上にでると「ここは何処?」状態(地図の下=南に地下駅有り) 新地に通い慣れてはいないのにアーケードからだとお手のもの・・・地図汚いな
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2013年10月21日

大阪 梅田 ザ グランカフェ

 ザ グランカフェ
 営業時間 11:00〜23:00
 定休日 無休(不定休)
 HP http://www.the-grandcafe.com/
 場所 ヒルトンWEST 6F
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(左写真)ほぼ中央のビルがヒルトンWEST JR大阪駅側から撮影
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 ヒルトンWEST内からJR大阪駅  夜の同ビル(右方向が大阪駅・丸印がグランカフェ)
高い天井まで届く開放的なガラス窓からやわらかい日差しが客席全体を包みこみ ほぼスクエアな広い客席は華やいだ雰囲気 女性のグループ・幅広い年齢層のカップルが客席を埋めている 6階まであがってゆく価値のある空間です 
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ウオーターグラスのマリンブルーの色彩がテーブルに心地良いアクセントをもたらしている
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コールドドリンクには共通して大きな丸氷が・・ストローでついコロコロしてしまう
エントランスから見て右奥に置かれているピアノの周囲で定期(水曜の夜・30分)演奏が催されます スケジュールは要確認 
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2013年6月の撮影・・人気TBS連ドラ「半沢直樹」の1シーンにグランカフェが登場・・2段目の写真と同じ大阪駅の背景が映るので気が付きます(2013年7〜9月クール)(右写真)エスカレーターの奥にグランカフェのエントランスがある
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2013年10月20日

大阪 淀屋橋 レトロビル 大阪倶楽部

国登録有形文化財に指定されている1924年(大正13年)に竣工した社団法人・大阪倶楽部の二代目となる建物です。大阪倶楽部は1912年(大正元年)に設立された会員制の社交倶楽部で、2年後(大正3年)に初代となる木造3階建ての会館が建造されたが、1922年(大正11年)7月に焼失してしまう。
その2年後に新会館として鉄筋コンクリート造り4階建て(地下1階)の建物が安井武雄の設計(片岡建築事務所)により完成。まもなく築後90年になろうとしている。近寄ると刻まれた装飾の一部が傷んで欠落していたりするが、独創的なディテールのデザインは充分楽しめます。
東隣りの老舗和菓子店「鶴屋八幡」のカフェに寄る前後に建物鑑賞するのだが、お伴の女は古い建物の煉瓦壁にうれしそうに触れる姿を見て「こいつ何してる?」といぶかしげ。
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南面がファサード・・収まらない左部分を右写真で
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正面上部と(右写真)西面
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南面の装飾 アーチ部分の下部に刻まれた植物文様 独立して立つポールの頂部に置かれた謎のしゃちほこ風生物 
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 *参照 「大 大阪モダン建築」2007年
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2013年10月09日

大阪 北浜 北浜レトロビルヂング

北浜レトロビルヂングは、1912年(明治45年)に竣工した煉瓦造2階建(地下1階)の小体な建物で国登録有形文化財に指定されている。向かい側は大阪証券取引所で、このビルも当初は証券関連の企業が社屋として建造したもの。戦後になり別の企業の手に渡ったが、1996年に現在の「北浜レトロ」の経営者がこのレトロな不動産物件に一目惚れして購入。長期間、不使用状態だったために内部は廃墟同然になっていたが、明治時代の設計を生かした形でリニューアル工事に取り掛かり、1997年に本格的英国式ティーサロン「北浜レトロ」としてオープン。
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階段の手すり・窓枠などに多用されるエメラルドグリーンの配色が水辺とマッチして美しい アンティークなランプや家具類はオーナー自らが英国で買い付けたもの 
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2階のティーサロンは 北側(土佐堀川側)の窓から川面と中之島公園のバラ園が望めます 人気のサロンですので階段には待ち用の丸椅子が常設されているほど
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2007年に改修工事が行われ再オープン
 *「北浜レトロ」 大阪市中央区北浜1-1-26 北浜レトロビルヂング
   営業時間 11時30分〜21時30分 (土日祝日は11時〜19時)
   定休日 無休 (夏季・年末年始休業有り)

 *参考 「大 大阪モダン建築」2007年 他
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2013年10月07日

大阪 北浜 青山ビル(丸福珈琲店)

大阪のビジネス街・北浜で一際と目立つ緑(つた)におおわれた3階建ての建物(増築で5階建てに)。1921年(大正10年)に個人の住宅として建造されたが、戦後になってオーナーが交代しテナントビルに。冬場以外は建物全体が蔦(つた)に覆われており、外観は小さな窓の部分が識別できるのみ。「謎の物体」化してます。
現在、この青山ビルの1階(個人住宅時代の食堂)には、難波(千日前)で昭和9年に創業した丸福珈琲店本店(丸福商店)の北浜店が営業しており、レトロな装飾に飾られた建物内部を見ることができます。撮影当時は4階までは様々なテナントが入居していたのですが、5階部分の案内板は空白。
 名称 青山ビル(旧・野田家住宅) 大阪市中央区伏見町2-2-6 
 竣工 1921年(大正10年) 設計 大林組  国登録有形文化財
 
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ぼこっと黒っぽく窪んでいる部分が窓です
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(上下写真)青山ビルのエントランスホール部分
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以下は1階の「丸福珈琲店・北浜店」 営業時間 朝7時30分〜20時 定休日 土・日・祝日
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飾り棚・暖炉・重厚なテーブル・天井の梁(はり)のレリーフなど大正の昔の建造当時にいるのではと錯覚するほど・・・ただし 丸福を始めとする大阪の濃い深煎りコーヒーは苦手(5段階で5以上?) 丸福ではコーヒーゼリーを注文することが多い・・とても美味しいです
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相合橋筋アーケードにある千日前本店もレトロぽい内装だが ここ北浜店にはとても及ばない・・ましてや東京に進出したアキバ・ヨドバシカメラ内の店は別物(コーヒーゼリーの味は同じで美味しい) 
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左は千日前本店で買った小瓶のアイスコーヒー(フレッシュ付き)お土産で人気があります
 *参考 「大 大阪モダン建築」2007年
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2013年10月05日

大阪 長堀橋 堺筋倶楽部 AMBROSIA  

イタリアンレストラン「堺筋倶楽部 AMBROSIA(アンブロシア)」(大阪・長堀橋)での昼食の模様。
前日予約して、おしゃれして仲良くランチデートと書けばお上品なのだが・・まずはアッパーレベルのランチコースを選択・・皿が運ばれ始めると・・シェアと表現しておけば格好いいのだが・・「上に乗ってるのウチのもの!」「それちょっと欲しいけど・・・」「いやや」「それいらんわ・・Y君にあげる」「あー!残しておいて」・・いつものバトル開始。  
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昭和初期(1931年竣工)の近代建築として有名で 大阪の建築分野のほうで紹介される建物です(元銀行=川崎貯蓄銀行)
地上4階建て・地下1階 設計は川崎貯蓄銀行建築課
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内部は4階までの吹き抜け 回廊付き テーブルフロアは銀行の営業室で 奥のワインセラーに使用されている所は金庫室だった
1階がイタリアンダイニング「 AMBROSIA」・・・2〜3階は個室中心のフレンチレストランで大小の金庫室や電話交換室がプライベートルームに改装されてます 2001年オープン   
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写真を撮ってる間 「まだなの〜」が始まるので スパークリングジュースを別注(下の画像)・・おとなしく待っていてくれました
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「AMBROSIA」大阪市中央区南船場1-15-12 堺筋倶楽部 1F
ランチ11時〜14時(LO) ディナー18時〜22時(LO)
定休日=不定休 予約(06-6265-8000)したほうが良(平日でもランチタイムは満席状態)
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手打ち生パスタ数種から選択可能(コースにより種類は変動)
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地下鉄がクロスする長堀鶴見緑地線と堺筋線の長堀橋駅からすぐです
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2013年09月24日

大阪 心斎橋 オムライス発祥の店・北極星本店

大阪・中央区の西心斎橋で「オムライス発祥の店」と白暖簾に染抜いて店を構えているのが「西洋御料理 味に輝く北極星」。
1922年(大正11年)の創業で、3年後の1925年に難波の汐見橋南詰めで洋食屋「パンヤの食堂」(創業当時の「北極星」の名称)で初代主人が常連客のために作ったのが「オムライス」の発祥としています(「北極星」HPより)。
東京の銀座で長年にわたり営業を続ける「煉瓦亭」にも「煉瓦亭の元祖オムライス」が存在します。1900年(明治33年)から賄食(まかない)として作り始め、「ライスオムレツ」としてメニューに加えたのが最初と唱えています(時期不明)。製法が現在の一般的な「オムライス」とはかなり異なっており、ライスを卵でくるんでいないライス&オムレツといった具合のもの。この「煉瓦亭」を有名にしたのが作家・池波正太郎で、常連客として狭い1階に指定席があったほど。現在では、この「元祖オムライス」とは別に一般的な「オムライス」もメニューに並んでいます。
「北極星」のオムライスは、現在、一般的なオムライスとして認知されているものと同種であり「オムライスの元祖の店」と言っていいと思われます。
 大阪市中央区西心斎橋2-7-27
 営業時間 11:30〜21:30(L.O 21:00)
 北極星HP http://www.hokkyokusei.jp/

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(左写真)奥が御堂筋方向・・大通りの角から約100m
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玄関には大きな下足箱・・銭湯を思い起こす大きな番号入の木製鍵を持って部屋に向かいます
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オムライスの種類は具によって数種類ありますが見た目は一緒・・
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(左写真)北極星のオムライス   (右写真)銀座・煉瓦亭のオムライス=レトロ感があふれてます
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店内に飾られた「パンヤの食堂」という屋号だった時代の写真 「北極星」の店名は永井柳太郎により1936年(昭和11年)に命名されました
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これが下駄箱の鍵・・7番をまず探すが連続でふさがってばかり 堀江店(あみだ池近く)・京都祇園店と支店展開中です
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2013年09月12日

大阪 錫屋町 井原西鶴・終焉の地

松尾芭蕉、近松門左衛門と並び江戸時代初期の元禄文学を代表する俳諧師(浮世草子作者)井原西鶴の終焉の地(旧・錫屋町の真ん中辺りに石碑)付近です。
1642年(寛永19年)に町人の子として大阪に誕生したと各年譜に記載されていますが、その出自の詳細は不明。西鶴は自らを皆無といえるほどに語っていません。谷町筋の本町通から南に下った中央通までの細長い土地=旧・錫屋町(すずやまち)に井原西鶴の草庵・隠居所があり、辞世の句「浮世の月見過しにけり末二年」を残し、1693年(元禄6年)8月10日に52歳で没しました。墓は誓願寺(上本町西4丁目1-21・・上町筋のエネオスの隣)。
生年も不詳であるため、没年・没年齢から逆算して1642年(寛永19年)と確定されています。
西鶴の没した翌年(元禄7年)の10月12日に、ライバルの俳諧師・松尾芭蕉が51歳で没。同じ大阪の西に1.5kmほどの至近距離(難波別院前の御堂筋道路上に石碑)で、共に高架の阪神高速道路を見上げる位置に石碑が設けられています。
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谷町筋を南方向に撮影 左先の歩道に終焉の地の石碑 甲南アセット谷町ビルの真ん前
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1692年(元禄5年)10月21日 京都の藤本箕山(きざん)への書簡に「大阪谷町四丁目 すゞ屋町ひがしがハ 俳諧師西鶴」と記されており 錫屋町に住した証しが残っています 内容は大阪の旦那衆に頼まれていた京都・島原遊郭の太夫らの色紙(サイン)の依頼
俳諧師・西鶴は 41歳を迎えた1682年(天和2年)10月に初めて浮世草子(小説)を世に送り出します 主人公・世之介の7歳〜60歳までの恋に身をくだく人生を各地の遊里を舞台に描写 戯れた女3742人・若衆(少年男色)725人 世之介が枯れることなく60歳で女護の島に渡ってゆくまでの八巻八冊・・江戸期文学の最高峰のひとつ(浮世草子の創始)と評される「好色一代男」です
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辞世「浮世の月見過しにけり末二年」の句が刻まれています
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参照 「井原西鶴 新潮古典文学アルバム」1991年 「西鶴文学地図」1993年 他
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2013年09月06日

大阪 堀江 カフェレストラン MUSE OSAKA

カフェレストランMUSE OSAKA (ミュゼ大阪・1998年オープン)
堀江公園の南側に接しており、大きなガラス窓越しいっぱいにあふれる木々の緑を眺めながら食事を楽しめる店です。ランチタイムの慌しさが過ぎ去り、吹き抜けのホールはゆったりとした空気に変わりはじめる。柔らかな光につつまれた午後のひととき、テーブルには軽めの食事やスイーツ、視線の先に幸福感が形となって見えるよう。大阪でお気に入りのカフェレストランの1軒です。
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 MUSE OSAKA(ミュゼ大阪) 大阪市西区南堀江1-21-7
 HP http://www.muse-osaka.com/
ランチ 11:30〜16:00
ディナー 17:00〜24:00(LO 23:30)
カフェ 11:30〜24:00
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2013年08月09日

大阪 布施 元禄寿司本店 回転台発祥の地

おなじみの回転寿司・元禄寿司チェーンの総本部です。元禄産業(株)と元禄物産(株)の本社所在地であり、ビル1階の店舗が「廻る元禄寿司」本店。
1958年(昭和33年)4月に、それまでの大衆寿司店が「旋回式食事台」を考案してリニューアルオープン。瞬く間に日本中を席巻し類似店まで発生させました。元は割烹料理店を営んでいましたが、大衆寿司店に方向転換し、これが成功。繁盛するなかで職人の負担を軽減させられる方法はないのか、そこで発案されたのが回転台。実用化までかなりの試行錯誤を重ねましたが、日本で始めてベルトコンベア式「回転寿司」が登場したのが、この場所です。

所在地 東大阪市足代1−12−1
営業時間 10時30分〜22時45分
定休日 無給
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一条通りのこの場所で日本初の「回転寿司」店が誕生 右写真は発祥の地の石碑・・順番待ち用の椅子が撮影の邪魔なんですが どけるのも・・・
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ベルトコンベアー式回転台・・見慣れた光景ですが・・開発に5年近くもの試行錯誤が・・・ 
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**参照 週刊文春2012年6月21日号グラビアページ

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2013年07月06日

大阪 難波 高島屋大阪店の岡本太郎作品「ダンス」(タイル壁画)

2011年3月1日、大阪市中央区難波の高島屋大阪店7階のレストラン街のロビーに、修復作業を終えた岡本太郎のモザイク・タイル壁画「ダンス」(1952年作・岡本太郎41歳)が運び込まれ、関係者により除幕式が行われました。この作品は、1952年開催の第1回日本国際美術展に出品されたもの。このタイル壁画は、高島屋大阪店の開業時に7階に設けられた大食堂に飾られていたもので、昭和30年代後半から40年代前半頃に取り外され、高島屋東別館(日本橋3丁目の堺筋沿い)1階に40年以上保存されていました。高島屋大阪店のリニューアルオープンにあわせる形て、2010年10月から修復作業に取り掛かり、当時と同じ7階でお披露目されました。
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高島屋大阪店 (2011年撮影)
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右写真は高島屋東別館・・・3階に創業以来の資料類を展示する高島屋資料館(入場無料ー水・日曜休館)・・・「ダンス」はこのレトロビルの1階に長期間保存されてました



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2013年06月19日

大阪 中之島 家具・インテリア graf studio 

北区中之島の大阪市立科学館向かいの土佐堀川のリバーサイドに、2012年10月末から移転作業に入り、翌月上旬にリニューアルオープンしたインテリア・家具の店・・・GRAF STUDIO。
緑あふれる広い空間にオリジナルデザインの商品が展示され、エントランス横には小さいカフェコーナー(KITCHEN)も設置。詳細はhttp://www.graf-d3.com/shopで。 
営業時間 11時〜19時
定休日 月曜
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大型家具から雑貨まで・・時間を忘れて楽しめます 帰りがけにカフェで食事 キーマカレー(というか「ひき肉カレー」・サラダ付き)・・人参が生で硬い・・スライスするか茹でるかしてくれると・・・で 残す
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2013年02月02日

枚方市楠葉 橋本砲台場(樟葉砲台)跡

1864年(元冶元年)、幕府により淀川の防備を目的とした砲台場が築かれた。西側の対岸にも高浜砲台場(三島郡島本町・大字高浜)が構築される。高浜側が加農(カノン)砲4門と記録にあることから同数程度の門数と考えられる。黒船来航以来、全国で海防のための砲台が急ぎ設置される中、この淀川においても大阪湾から京都に侵攻する外敵に備える目的で、宇治川と桂川とに分岐するすぐ下流のこの地が選ばれている。管理は京都守護職・松平容保(会津藩主)。
鳥羽・伏見の戦の時点では、この橋本砲台場は小浜藩・酒井若狭守忠氏が守備に当たり、対岸の高浜砲台場は津藩・藤堂和泉守が任されている。共同して幕府軍を支援する形がとられるはずだったが、慶応4年正月6日午前、淀方面からの退却戦のさなかの幕府軍に対し藤堂家は薩長軍側に寝返り対岸の味方に砲撃開始、交戦は夕刻まで続く。
砲台場跡は1910年(明治43年)くらいまでその形状を残していたが、京阪電鉄の開設の工事で(淀川側の台場端に線路)土塁・盛り土などが取り崩され流用されたという。
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淀川沿いの13号から橋本台場跡(左側) 真横付近にカノン砲が設置されていた(推定) (右写真)「戊辰役橋本砲臺場跡」の石柱と説明板(堤防土手上・・砲台土塁では無い)
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(右写真)橋本砲台場のほぼ中央部分・・左窪地が掘跡で土塁風な残り盛土も・・奥方向が南門跡 左背景の山が「天下分け目の天王山」・・山の向こう側裾野で天王山から駆け下った秀吉と陣構えする光秀が激戦 写真右奥の大きな瓦屋根が久修園院=幕府軍本陣でその手前右付近に土塁に囲まれた火薬庫があった
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(左写真)砲台場の南端付近で見張台のあった付近・・広場右には池があったようです (右写真)広場のベンチ・・砲身と同じ南西の淀川に向いている

1868年(慶応4)
         1月2日 幕府軍(会津・桑名藩兵主力)、京都を目指し出陣。
             京都見廻組の約400名を佐々木只三郎が指揮。
             残存の約200名は大阪警備に就く。淀に宿陣。
         1月3日 鳥羽伏見の戦(戊辰戦争勃発)北上した京都見廻組
             は上鳥羽にて戦う。
             幕府軍、夜半、淀方向に退去。
         1月4日 京都見廻組は下鳥羽布陣し、早朝より進撃開始。
             後方支援無く退却に。
             富ノ森にて休陣。午後4時頃、新政府軍と接近戦に。
         1月5日 富ノ森と千両松(淀)で交戦。午前8時〜昼は戦闘に。
             午後には敗走開始。
            (新撰組の永倉新八の書で6日のこととして、兵300を
             引き連れる佐々木只三郎と遭遇、富ノ森は佐々木に
             任せ、新撰組は千両松に向かう)。
             富ノ森では会津藩槍隊が奮戦。大砲隊の白井五郎太夫
             ら戦死者多数に。木津川を渡り八幡・橋本方面に退却。
             橋本台場や八幡・男山に布陣。
         1月6日 早朝より銃撃戦開始。木津川を淀方面から渡河する薩摩
             藩兵に備えて新選組(土方・原田隊)は上陸地付近に・・
             永倉新八・斎藤一隊は八幡男山に布陣。
             佐々木は土方歳三に対し、「川向いの堤に兵を・・云々」
             と告げている。この後、堤から山側に移動中に
             佐々木只三郎は銃弾により負傷。現在でも畑や木々が
             生い茂る橋本周辺・・すぐ近くに迫る小高い山・・
             負傷した位置の特定は不可能。
             橋本周辺から砲台跡、そして南方の樟葉(くずは)に至る
             地域であることは間違いない。佐々木只三郎は重傷を負い、
             彼の戦いはここで幕を閉じる。
             この頃、橋本砲台の対岸(山崎側)の幕府軍の高浜砲台の
             守備を任されていた津藩藤堂家が裏切り、幕府軍に対して
             攻撃開始。夕刻には幕府軍は総崩れで枚方方面に退却。
         1月6日夜、徳川慶喜は会津藩主・松平容保らを伴い大阪城を脱出。
             戦意喪失の敵前逃亡(夜逃げ状態)、海路江戸に。
             翌7日、旧幕軍解体に。

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近年、枚方市教育委員会が樟葉台場(橋本台場)を発掘調査し、その資料を安価で販売中です。100円。
この台場一帯は樟葉中之芝で大阪府枚方市、台場のすぐ北側は橋本宿で(橋本遊郭跡・建物が残存していて撮影に訪れる方が多い)京都府。府境に当たる場所で石柱には「橋本台場」と刻まれています。
 枚方市http://www.city.hirakata.osaka.jp/life/4/23/
  <No.9に国史跡楠葉台場跡小冊子>
平成23年2月に国史跡に指定された楠葉台場跡の概要や歴史、周辺の見どころなどを地図入りで紹介したパンフレット(A4、16ページ/平成23年3月発行)http://www.city.hirakata.osaka.jp/soshiki/bunkazai/hanbaitosyo1.html 最下段のナンバー9です。
内容は<淀川両岸台場の完成と船番所の増設・楠葉台場の構造•稜堡式築城とは•幻の楠葉台場設計図•鳥羽伏見の合戦•維新後の楠葉台場•発掘調査でわかる楠葉台場跡>など。
    文化財課 〒573-1159 枚方市車塚1丁目1-1 輝きプラザきらら4階

 *参考資料 上記パンフ
      「日本城郭体系12 大阪・兵庫」1981年刊
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2012年09月29日

大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より

江戸川乱歩は、大正13年9月、大阪府北河内郡守口町外島694番(現・守口市八島町1、地下鉄守口駅前、京阪国道沿い北側)の実父の家へ一家で移転する。現在は暗渠となっているが、家の前には小川が流れ、夏には子供らが水遊びに興じていた。乱歩はこの家から、大正11年3月に大阪堂島に完成した毎日新聞大阪本社に通勤(大正12年7月営業部入社)していたが、大正13年11月末で、作家活動に専念するため退社する。そして父の家の二階床の間の天井板への興味が、乱歩初期の傑作「屋根裏の散歩者」を生みだすきっかけとなった。

「楽屋噺」昭和4年世界探偵小説全集の乱歩集跋文より抜粋。
<<当時まで、私は天井裏というものを一度も見たことがなかったので、大阪の自分の家の天井を叩き廻って、釘づけになっていない所を探すと、好都合にも、床の間の天井が多分電燈工夫の出入場所であろう、押して見ると、グワグワしている。その癖に妙に重い感じなので、多少気味悪々なおも押すと、ゴトンと音がして、板の上に重しの石がのせてあることが分った。その時の気持をいくらか誇張して、そっくり小説の中に使ってある。それから、板をはずして、首丈けを真暗な天井裏に差入れて、見廻すと、なんと仲々捨て難い眺めなのだ。私はその屋根裏の景色を、半時間も楽しんだものであるが、それがあの小説の長々しい叙景になっている訳です。>>
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(写真)守口町外島694番の実父の木造二階建て家跡。奥にみえるのが京阪国道。
乱歩が天井裏へ首を入れて屋根裏を眺めた推定位置に赤丸で印。手前の隣家が当時は空家で、
乱歩は二階を執筆部屋に使用していた。右側に小川が流れていたが暗渠に。
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江戸川乱歩「貼雑年譜」1989年刊より守口町外島(そとじま)の家見取り図。
見過ごしそうだが、天井裏を覗いた位置が印されている。赤丸印で写真と対応できる形にした。
<<この家と隣の空家とに住んでいたので「心理試験」「屋根裏の散歩者」をはじめ初期の短編小説は大部分この家又は隣家の空家の二階で執筆した。>>「貼雑年譜」より

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(写真)乱歩家の斜め前の小川が流れていた位置に表示板が設置されている。

「屋根裏の散歩者」大正14年8月新青年増刊号初出、新潮文庫版から抜萃。
<<東栄館の建物は、下宿屋などにはよくある、中央に庭を囲んで、そのまわりに、桝型(ますがた)に、部屋が並んでいる様な作り方でしたから、したがって屋根裏もずっとその形につづいていて、行き止まりというものがありません。彼の部屋の天井裏から出発して、グルッとひと廻りしますと、また元の彼の部屋の上まで帰ってくるようになっています。下の部屋々々には、さも厳重に壁の仕切りができていて、その出入口には締まりをする為の金具まで取りつけてあるのに、一度天井裏に上ってみますと、これはまたなんという開放的な有様でしょう。誰の部屋の上を歩き廻ろうと、自由自在なのです。もしその気があれば、三郎の部屋のと同じような、石ころの重しのしてある箇所が方々にあるのですから、そこから他人の部屋へ忍びこんで、盗みを働くこともできます。廊下を通って、それをするのは、今もいうように、桝型の建物の各方面に人眼があるばかりでなく、いつなん時ほかの下宿人や女中などが通り合わさないとも限りませんから、非常に危険ですけれど、天井裏の通路からでは、絶対にその危険がありません。
 それから又、ここでは、他人の秘密を隙見(すきみ)することも、勝手次第なのです。新築とはいっても、下宿屋の安普請のことですから、天井には到る所に隙間があります。――部屋の中にいては気がつきませんけれど、暗い屋根裏から見ますと、その隙間が意外に多いのに一驚を喫します――稀には、節穴さえもあるのです。
 この、屋根裏という屈指の舞台を発見しますと、郷田三郎の頭には、いつの間にか忘れてしまっていた、あの犯罪嗜好癖がまたムラムラと湧き上ってくるのでした。この舞台でならば、あの当時試みたそれよりも、もっともっと刺戟の強い、「犯罪のまね事」ができるに違いない。そう思うと、彼はもう嬉しくてたまらないのです。どうしてまあ、こんな手近な所に、こんな面白い興味があるのを、今まで気づかないでいたのでしょう。魔物のように暗闇の世界を歩き廻って、二十人に近い東栄館の二階じゅうの下宿人の秘密を、次から次へと隙見して行く、そのことだけでも、三郎はもう十分愉快なのです。(略)
 こうして、数日、彼は有頂天になって、「屋根裏の散歩」をつづけました。そのあいだには、予期にたがわず、いろいろと彼を喜ばせるような出来事があって、それをしるすだけでも、充分一篇の小説ができ上がるほどですが、この物語の本題には直接関係のない事柄ですから、残念ながら、端折(はしょ)って、ごく簡単に二、三の例をお話しするにとどめましょう。(略)>>

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(写真)大阪堂島の毎日新聞大阪本社跡(現在は堂島アバンザ)に置かれた説明板から毎日新聞ビル。
アバンザの広場に重厚な毎日新聞1階玄関部分がモニュメントとして残されている。
乱歩(本名平井太郎)は、大正12年7月から営業部員として勤務していた。

江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
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2012年08月31日

大阪 川端康成の「反橋」(住吉大社)

全国の2000社以上の住吉神社の総本宮にあたるのが住吉大社です。
海の神を祭る神社で1800年前(西暦211年)に神功皇后により創建され、平城京・平安京から遣隋使・遣唐使らの使節が渡航する前には航海の無事を祈願していました。(参考 住吉大社HP)

南海本線住吉大社駅を下車し左(東方向)に進み大きな鳥居をくぐると正面に朱塗りの太鼓橋が現れます。正式名称は「反橋」(そりはし)。川端康成の短編小説「反橋」に描かれるこの橋は単なる風景としての構造物ではなく、孤独=孤児という肉親に縁の薄かった作家の持つ原意識が橋上で現実と幻が交錯する場として表現されています。橋の上で疑ってもいなかった母が実は母の妹、母はすでに死んでいた。小説の冒頭の一行は「あなたはどこにおいでなのでしょうか」。川端の自殺さえこの橋にヒントが隠されているように思えてきます。
この橋を降りた先を右にいった池の畔に「反橋」の文学碑が設置されてます。その手前に西鶴の石碑も。
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欄干の脇に立つと空しか見えない急傾斜 川端が描写した足をかける穴はすでに無く階段に その穴が幻のように現れてきてしまいます 短編なので是非読んでから・・・
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「反橋は上がるよりおりる方がこわいものです。私は母に抱かれておりました。」 右写真が文学碑にも刻まれる一節の「降りる側」です
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                      南側からの反橋

住吉大社http://www.sumiyoshitaisha.net/
大阪市住吉区住吉2-9-89
大阪難波からは南海本線利用が早く、住吉大社駅下車徒歩3分ほど。
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2012年01月01日

大阪・生野区 作家・東野圭吾の出身中学校

大阪出身のミステリー作家・東野圭吾(ひがしの・けいご)氏(1958年生まれ)が、在学中(小・中・高)に残した数々のエピソードを、その作品(「あの頃ぼくらはアホでした」1995年3月集英社刊)からピックアップ。中学篇。
<<僕には二人の姉がいるが、長姉が小学校を卒業する直前、うちの母は何人かの人から同じような質問を受けた。それは、「おたくのおねえちゃん、どこの中学に行きはりますのん?」というものだった。
「そらH中ですけど」と、そのたびに母は答えた。H中というのは、我々の地区にある市立の中学校だ。そこに娘を通わせることに、母は何の疑問も抱いていなかった。母の答えを聞いた人たちは、一様に同じ反応を示した。まず一瞬驚いた顔をし、次に本気かどうかを疑う眼になるのだ。>>
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(左右写真)H中へ向かう通学路。直進すると「あの中学」が右側にある。卒業した小学校は後ろになる。

<<この頃H中は、泣く子も黙る無法地帯になっていたのである。姉の証言によると、その無法状態を作りだしていたのは、姉たちよりも学年が二つ上の生徒たちだった。のちに「恐怖の十七期生」と呼ばれるこの先輩たちの暴れぶりは、とにかくすさまじかったらしい。乱闘は日常茶飯事、繁華街で補導されるなんていうのはかわいいほうで、万引きや恐喝などで捕まった生徒を、教師と親が引き取りに行くなんてことはザラだった。トイレは常に煙草臭く、廊下は賭博場と化し、体育館の裏はリンチ場になっていたという。暴行を受ける教師も跡を絶たなかった。(略)
両親は結局、下の姉も僕もH中に入れてしまうのである。一体何を考えていたのであろうか。どうやら、喉元過ぎれば熱さを忘れるのパターンで、長姉が不良にもならずに何とか中学校生活を乗り切ったのを見て、まあいいやという気になったらしいのだ。両親が油断したもう一つの理由として、H中の評判が少しずつ回復に向かっていたという点があった。あの十七期生以後、それほど悪い学年は登場しなかったのだ。実際僕が入学した時も、学校全体から悪の臭いがたちこめる、なんてことはなかった。>>
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(左写真)H中学校正門。右方向が東野氏の自宅。 (右写真)正門前から見た帰り道。

<<こうして僕もまたH中に通いだした。しばらくは何事もなかった。たしかにガラの悪い学校ではあったが、それも馴れてしまえば居心地の良さに変わるのだ。だが天災と同様、人災もまた忘れた頃にやってくる。「恐怖の十七期生」の記憶が学校関係者の頭から消えかかる頃、突然その再来ともいうべき、どーしようもない生徒たちが現れたのである。彼等は「狂気の二十四期生」と呼ばれた。H中に再び暗黒の時代が到来したわけだ。その二十四期生とはほかでもない、僕のいた学年だった。(略)
中学三年というのは、いろいろとややこしい時期だ。何がややこしいかというと、肉体と精神のバランスがとれていない点である。(略)
僕の隣に座っていたW田という生徒が、数学の授業中に突然うんうんと唸りだしたことがある。何事かと思って訊いてみると、彼は机に身体をぴったりと密着させたまま、「しぼめへんねん」と答えた。
「しぼめへん? 何が?」
「これが」
W田は左手で机の下を指した。それで机の下を覗きこんでみると、彼はズボンのファスナーを開け、むさ苦しい一物をほうりだしていた。それは丸大ハムのごとく膨れ上がり、今にも机を押し上げそうな勢いで、そそり立っていた。
「なんで数学の授業中に立つんや」と僕は訊いた。わからへん、とW田は答えた。急にこうなったのだという。やがて彼は斜め前に座っていたワル仲間の女子に声をかけた。
「おい、M子」
M子と呼ばれた女子は、なんやうるさいな、という顔をして振り返った。
「ちんちん揉んでくれ」とW田はいった。
不意をつかれたらしく、M子は少しの間だけ沈黙した。しかし結局は顔色ひとつ変えず、まぶたアイシャドーを塗った瞼を二度ゆっくりと閉じると、
「水で冷やしたれや」
と、ぼそりといい、何事もなかったかのように前を向いた。>>

東野圭吾「あの頃ぼくらはアホでした」1995年3月集英社刊より抜粋

大阪・住吉区 作家・東野圭吾の出身高校http://zassha.seesaa.net/article/239445115.html
大阪・生野区 作家・東野圭吾 実家跡と出身小学校http://zassha.seesaa.net/article/243297646.html
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2011年12月29日

大阪・生野区 作家・東野圭吾 実家跡と出身小学校

大阪出身のミステリー作家・東野圭吾(ひがしの・けいご)氏(1958年生まれ)が、在学中(小・中・高)に残した数々のエピソードを、その作品(「あの頃ぼくらはアホでした」1995年3月集英社刊)からピックアップ。実家・小学校篇。
<<その夜両親は、二流高校二流大学と進ませて金を無駄にするよりは、どこかへ丁稚(でっち)奉公
に出した後、専門学校に通わせ、将来家業を継がせたほうがいいのではないかということを真剣に話し合っていた。家業というのは時計や貴金属などの小売り商だ。こういうと聞こえはいいが、実態はどこの町にも一軒や二軒は必ずある、冴えない小さな時計屋である。三越のティファニーみたいな店を想像されると、ちょっと困るのだ。>>
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 (左右写真)実家の時計メガネ貴金属店「貴宝堂」跡。現在はビルに建替えられている。この地が東野圭吾氏の少年期(小学校・中学校)の舞台。
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(左右写真)実家周辺の個人商店の佇まいは、東野氏少年時代のままのよう。大通りに出る角地には喫茶店もある。作品中に描かれている通り、路上駐車できる道幅はない。
<<僕が通っていた小学校は、家から歩いて数分のところにあった。そしてその小学校の隣には小さな神社があり、正月や祭りになると、その前にずらりと夜店が並ぶのだった。
今でも元日にはそこへ初詣に行くのだが、ついでに大阪名物のイカ焼き(注・イカの姿焼きにあらず)を食べるのが、年に一度の楽しみでもある。>>
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(左右写真)第134回直木賞作家を輩出した大阪市立小路小学校。
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(左右写真)「小学校の隣には小さな神社」と東野氏が描写した通り、小学校と接して大樹に囲まれた清見原神社が存在する。

東野圭吾「あの頃ぼくらはアホでした」1995年3月集英社刊より抜粋

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2011年12月08日

大阪・住吉区 作家・東野圭吾の出身高校

大阪出身のミステリー作家・東野圭吾(ひがしの・けいご)氏(1958年生まれ)が、在学中(小・中・高)に残した数々のエピソードを、その作品(「あの頃ぼくらはアホでした」1995年3月集英社刊)からピックアップ。高校篇。
<<中学三年も二学期の後半にさしかかると、さすがにぼちぼち進路のことが気になり始める。特にH中学という泣く子も黙る無法中学にいると、果たしてまともに高校に行けるのだろうかと本気で心配になってくるのだ。
僕が入学したF高校は、二つのことで有名だった。一つは、日本で最初に学園紛争を行った高校だということだ。大学ならともかく、高校となると、紛争があったということ自体が珍しい。しかも本格的にバリケードなどを作って、生徒が籠城したというのだから楽しいではないか。(略)
さてその紛争における生徒側の要求だが、それは制服の廃止だった。そして、それこそがまさに、我がF高校のもう一つの有名事だった。つまりこの時の紛争で生徒側の要求が通り、F高校は日本で最初の服装自由高校となったのである(と、僕たちは聞かされていたが、じつをいうと確信はない)。>>
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 府立阪南高校正門 1959年開校 

<<我々の学校では、各教室にそれぞれ更衣室がついていた。教室の後ろに小部屋があって、中には各自のロッカーが並んでいる。女子生徒たちはその中で、しよつちゅう服を交換するのだった。だから午前と午後で服の違う者などはざらで、ひどいのになると、毎時間服をかえていた。そうして一番気に入った服を借りて、放課後のデートヘ出かけていくのだった。
高校二年の時、女子の更衣室に入らせてもらったことがあるが、小さなドレッサーに姿見、そしてファンシーケースまで置いてあった。いったいどうやって運びこんだのだろうと不思議に思った。さて女子が更衣室でせっせとおしゃれをしている時、男子は何をしていたか? これはいうまでもない。彼女らを覗いていたのである。>>
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 地下鉄御堂筋線あびこ駅前の交差点 左後方が阪南高校 徒歩7〜8分で正門に

<<それは高校に入学して間もなくの頃だった。長姉が一冊のハードカバー本を持って帰ってきた。『アルキメデスは手を汚さない』というタイトルのその本は、小峰元という人が書いて、江戸川乱歩賞なるものを受賞した作品であるということだった。だが当時の僕は、江戸川乱歩という名前さえ全く知らなかった。そこで長姉に訊いてみた。彼女は自信たっぷりに答えた。「推理小説を広めた帰化人で、本名はエドガー・アラン・ポーや」 ふうんそうかと、僕は感心して頷(うなず)いた。救いがたいアホ姉弟である。>>

府立阪南高校 大阪市住吉区庭井2丁目18-81
東野圭吾「あの頃ぼくらはアホでした」1995年3月集英社刊(集英社文庫1998年版より

大阪・生野区 作家・東野圭吾 実家跡と出身小学校http://zassha.seesaa.net/article/243297646.html
大阪・生野区 作家・東野圭吾の出身中学校http://zassha.seesaa.net/article/243793455.html
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