2016年09月30日

下北沢 レ・リヤン よしもとばなな「もしもし下北沢」より

単行本「もしもし下北沢」が発売された時点で、舞台となったフレンチレストラン「レ・リヤン」は、すでに閉鎖されて1年以上が経過しており、建物そのものも解体され更地となっていた。現状は駐車場で、なにひとつ痕跡を残していない。

<< お母さんをむりやり立たせて、ほとんど寝間着のままでふたりでタクシーに乗り込み、下北沢を目指した。何回か友達と行ったことがある、私の知っているいちばんおいしいかき氷があるお店レ・リヤンを思い描きながら。お店のドアをあけたとたんに冷たいクーラーの風と熱気が混じり合って、なんともいえないまだらな感じがきゅっと体をとらえた。私たちはいちばん奥の窓辺の二人がけの席にどちらからともなく座り、ため息を同時についた。 (略)
夏が終わり、かき氷の季節が終わり、秋が来て、冬になっても、私たちはレ・リヤンに行った。
店のある建物、露先館の角にある大きな桜の木に花が満開になる頃には、お母さんも私も普通に飲んだり食べたりできるようになっていた。 >>
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(ピュアロード入り口に並ぶレ・リヤン=茶沢通り沿い角の三角窓のある二階家と店に寄り添うように枝を拡げる桜の大木。露先館こと露崎商店は角から2軒目のレトロな建物。携帯撮影2007年。)

<< だから、一人暮らしと同時にためらいなくレ・リヤンで働き始め、それをとにかく生活の中心にしようとすぐそばに部屋を借りたのは、私にとって当然のことだった。
(略)
夜中の街の空気は澄んでいた。胸一杯に冷たい空気を吸い込んだ。体に残っている熱が奪われるのが切なかった。タクシーに乗って、私は言った。なにかを大丈夫にする呪文のように。
「下北沢まで、お願いします。」
胸がいっぱいすぎて何も考えられず、私は茶沢通り沿いの駅の入り口のところでタクシーを降りた。>>
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(下北南口前は道幅が狭く歩行者も多いため夜でも茶沢通りの駅入口信号でタクシーを下車するのが慣例となっている。深夜早朝は除く。まさにその場所で信号待ちの間に携帯でパチリしたもの。2003年撮影と年代物)
<< なによりも体中がまだ山崎さんの体のぬくもりでいっぱいだった。それをそっと宝物のように抱いて、私はあずま通りを抜けていって王将の前に出た。王将はこうこうと明るく活気に満ちて、たくさんの人たちがごはんを食べていた。それをガラス越しに見ると、いい気分になる。 >>
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(スパイス使いがぬるいカレー屋に入るなら安定の王将・・と呟きながら時々はいる店)

<< 私は左に折れてもう一回茶沢通りに出て、お店があった場所に行った。真っ暗になっているが、まだ建物は残っていた。もうすぐ空き地になって、桜も切られてしまう。あんなに美しく夜道を彩っていた命が消えてしまう。 >>
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(よしもとばなな氏と同じ頃に確認のため訪れた時の撮影。立退きの張紙が・・・)

<< 私が毎日あけたあの木の重い扉ももうすぐこの世からなくなる。>>
    文庫版「もしもし下北沢」幻冬舎より抜粋。

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経過
2008年12月31日「ブラッスリー レ・リヤンles liens」閉店。
2009年3月 古道具(アンティーク)露崎商店とともにレ・リヤン解体更地に(桜も伐採)。
2010年9月 単行本「もしもし下北沢」毎日新聞社から刊行。
2012年8月 文庫版「もしもし下北沢」幻冬舎から刊行。
参考地図
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大阪難波 一芳亭のしゅうまい 吉本ばなな「ヨシモトバナナコム2」より http://zassha.seesaa.net/article/442048722.html
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2015年06月01日

世田谷 安藤忠雄設計 東急大井町線上野毛駅

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2011年3月に完工した東急大井町線上野毛駅新駅舎。設計は安藤忠雄(東大大学院工学系研究科建築学専攻名誉教授・安藤忠雄建築研究所主宰)。所在地は世田谷区上野毛1-26-6(二子玉川駅から自由が丘方面一つ目の駅)。駅構内コンコース(地上レベル)から掘割に設置されたプラットホームを見る。溶解亜鉛メッキされたスチールの梁と柱に視線が奪われる。
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(左写真)上野毛通りを覆って東西の駅舎を繋ぐ大屋根(バス停の屋根も兼ねる)。採光のための8m径の円形の穴が穿かれている。 (右写真)東側の掘割を跨ぐ上野毛橋から駅舎を覆うガルバリウム鋼板製の大屋根。
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(左写真)上野毛通りを覆う大屋根の右側先(環状8号傍ら)に旧木造駅舎の正面出入口があった。上野毛通りを直進し多摩川に下る坂道に沿って住居を構えていた作家の故・吉行淳之介氏は、1994年(平成6年)7月に逝去したため、この斬新な駅舎への改築計画を耳にすることはなかったであろう。吉行氏のエッセイにも綴られているように、この駅前を通り過ぎた(左写真の真後ろ)ところにあるパチンコ屋に度々通われていた(吉行氏は「第1回パチンコ文化賞」受賞者)。存命していたら、この大穴めがけてパチンコ玉を親指ではじき飛ばしていたかもしれない。 (右写真と下写真2葉)駅舎の壁面に設けられている設計コンセプトと建築概要(サイン入り)。
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「安藤忠雄の建築3 日本」(TOTO出版2008年刊)のP45に安藤忠雄氏のスタディスケッチ(上野毛駅の駅舎全体のイメージ画)が掲載されている。
参考:「新建築」2011年7月号・新建築社刊
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2014年06月27日

世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家

ウインザーハイム豪徳寺を、2011年(平成23年)の大晦日に引き払った写真家荒木経惟(アラーキー)氏は、正月(2012年1月)をこの新居で迎えた。アラーキー氏は、このスタイリッシュな新居(スタジオ)で精力的に仕事を再開する。一部3階建ての建物の屋上から新しいシリーズ作品がすぐさま生まれた。「東ノ空」と「道路」だ。2014年4月に刊行された写真集「往生写集」は、ウインザーハイム豪徳寺からこの新居への橋渡しをテーマ(往生〜新生、西ノ空〜東ノ空)にしている。
しかし、荒木経惟氏は2013年10月、先年の前立腺がんに続く人生を左右する病魔に襲われてしまう。右目の視力を失ってしまったのだ。病名は右眼網膜中心動脈閉塞症。先週の土曜(2014年6月21日)に閉幕した写真展の題は「左眼ノ恋」、右目の視力のないアラーキーが新たな地平に進むテーマとして選んだタイトルであった。
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     写真集「往生写集」に映し出される隣家の植木そして道路(十字路)。
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新居(兼スタジオ)とエントランス。3階の屋上には十字路・東の空を撮影するアラーキー氏がいるはずなのだが・・・。

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渋谷区神宮前6丁目のギャラリーAM「NOBUYOSHI ARAKI Last by Leica」展から。
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「Last by Leica」展2017年1月11日〜2月22日。
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渋谷区神宮前6丁目のギャラリーAMでの「淫冬」展から。2016年。
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渋谷区神宮前6丁目のギャラリーAMでの「淫冬」展から。

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六本木AXISビル2階タカ・イシイギャラリーで恒例の2016生誕イベント(アラーキー氏の生誕は1940年5月25日)。
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六本木AXISビル3階IMA CONCEPT STOREでの「センチメンタルな旅−コンプリート・コンタクトシート」展。2016年。

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神宮前6丁目(原宿)のギャラリーAMでの「淫秋」展から。2016年9月9日〜11月11日。

参考
荒木経惟HP http://www.arakinobuyoshi.com/index.html
写真集「往生写集」平凡社の掲載年譜

荒木経惟リンク
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
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2014年02月04日

世田谷 作家・吉行淳之介 終焉の地

<<私は、きのう夜、信州の家で、テレビで吉行さんの訃報に接した。今日ひる、上野に着いて、山の上ホテルにはいったが、その部屋がまた吉行さんが甞(かっ)て愛用されていた部屋なのでうろたえ、昔の姿が、あれこれと浮んで、とても、いま上野毛のご自宅で別れてきた直後とはいえど、その死が信じられないでいる。私は五年前に心筋梗塞で死にかけ、吉行さん宅の近くの病院の集中治療室にいて(注:当時の国立第二病院)、命をとりとめたのだが、辛うじて生きている身に吉行さんから長い勇気づけの手紙をもらっていたが、まったくあべこべの気持ちで、いま、暗澹としているのである。飢餓地獄のあの時代から、終始、私に親切だった人を失って、目先に幕が降りた気持である。合掌。一九九四年七月二十七日>>
水上勉「吉行さん追悼」から 「水上勉全集第16巻」中央公論社1996年刊 

吉行淳之介は、1994年(平成6年)7月26日に亡くなった。享年70歳。母あぐり、宮城まり子、阿川弘之らに看取られて息を引き取った。遺言で葬儀・告別式は行われなかった。
<<吉行和子 七月の始めにお医者様が「あと一ヵ月半ですよ」っておっしゃって、それで七月二十六日に死んじゃったんですよ。「やっぱり癌だったのか。もうやめた」って思ったんじゃないかな。>>
「対談・吉行和子x向田邦子」より抜粋 「吉行淳之介をめぐる17の物語」2002年刊
1992年(平成4年)、C型肝炎が原因の肝臓癌と診断されたが、肝臓癌であることは同居人・宮城まり子と妹・吉行和子が相談した結果、本人と他の家族には知らせないことに決していた。

芥川賞作家・吉行淳之介は、1986年(昭和61年)11月に面白い賞を受けている。「第1回パチンコ文化賞」だ。吉行淳之介エッセイ選「街角の煙草屋までの旅」(講談社文芸文庫)に収められた一篇「パチンコ雑話」から抜粋。
<<この場所に住みはじめて五年になるが、門を出て坂道を下り五分ほど右へ歩くと多摩川の河原に出る。その反対に、左へ坂道を登って同じ時間歩くとパチンコ屋に着く。ところが、ずっと病気がちだったので、ぶらりと散歩という気分が起こってきたのは今年になってからである。そこで、門を出て左へ坂道を登ることが、しばしば起るようになった。つまり、パチンコ屋へ行くわけである。>>
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(左写真)この坂道(稲荷坂)を下った先が多摩川。「門を出て坂道を下り五分ほど右へ歩くと多摩川の河原」。  (右写真)門を左に出てすぐの神社の石垣。
左写真左側の大きな樹木は、住み始めて10年後にやっと公園だと気付いた場所。エッセイ「みどり色の板の道」に書かれている。
<<ここに引越して、はやいもので二十年になってしまった。世田谷上野毛の稲荷坂の途中の家である。
すぐ前が坂道で、かなり急な勾配を上りはじめると、隣家のとなりが神社、さらにそのとなりに途方もなく大きな石垣がそそり立って、およそ五十メートルほど坂の上までつつく。ここには二十五年ほど前、美空ひばりが小林旭と住んでいた。
向い側は、坂の上の蕎麦屋から坂の下まで背の低い石垣がつづいて、人家はない。この石垣の向う側も個人の広大な宅地だとおもっていたが、そこがじつは公園だと知ったのは十年経ってからである。さっそく眼の前の道を横切って、向う側に入り込むと、そこが公園の入口であった。『鳥獣捕獲禁止』という札が出ていた。公園といっても、樹木が雑然と生えている山の斜面という感じで、地面を歩くことはできない。手摺(てすり)の付いた細い坂の道が、何本にも別れて奥のほうへ伸びている。すべて緑に塗ってあるその色が、褪(あ)せていた。坂の上へ伸びている板の道も一つあって、そこを上ってゆくと、きれいに整備された平たいスペースに出た。その中央に辛夷(こぶし)の巨木があり、桜の木もたくさんあった。季節は春で、辛夷はたくさん花をつけていた。そのスペースにも、ほとんど人影がなかった。私はこの緑色の坂の連なりが気に入ったが、年とともに上ると息切れがするようになった。>>
「みどり色の板の道」より抜粋 「小説現代」昭和62年1月号初出
 
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「門を出て左へ坂道を登ることが・・・」門を出て左へ登る坂道。奥の青い道路標示板の所に上野毛駅がある。吉行氏は、この神社の石垣沿いの道を何度歩かれたことだろうか。
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(左写真)稲荷坂沿いの吉行淳之介氏宅。<文学碑>にかわる<表札>が宮城さんによって守られている。 (右写真)「つまり、パチンコ屋へ行くわけである」・・坂道を登った先ににあるパチンコ屋。
<<茶色の運動靴を素足につっかけて、ズボンとシャツ姿で出かける。テレビには出ないことにしているので、さいわい顔は知られていない>>

吉行淳之介リンク
「岡山 作家・吉行淳之介の墓」http://zassha.seesaa.net/article/346550974.html
「北青山 特法寺 吉行家の墓地」http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
「市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)」http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html
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2013年10月14日

世田谷 用賀 東条英機邸跡 

昭和16年1月8日、陸軍大臣東条英機の名において全陸軍に対し「戦陣訓」が下布されている。本訓その二の第八の「名を惜しむ」条項に、「生きて虜囚の辱めを受けず・・」という有名な条文がある。繰り返し叩き込まれたこの訓戒により、<俘虜(ふりょ)の辱めを受けず>に幾多の将兵が自決の道を選択していった。
予備役陸軍大将・東条英機は、1945年(昭和20年)8月15日、用賀の私邸で敗戦の詔勅(正午放送)を聴いている。その直後の午後1時には、娘婿の死を告げる電話を受けている。この日、娘婿の近衛師団所属の古賀秀正少佐(27歳)は、天皇の録音盤奪取クーデタ(宮城事件)に参加するが失敗、自決したのだ。
この宮城事件の発生で騒然としていた未明4時過ぎに、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみ これちか)は三鷹の私邸(作家太宰治の家の斜め向い)で、日本刀による割腹自決を遂げている(墓は多摩霊園)。
東条の自決も世間は当然という空気に包まれる。だが、「戦陣訓」に署名した本人が自決したとのニュースは依然として流れてこない。
8月30日、連合軍総司令官マッカーサーが厚木に降り立ち、9月2日には東京湾に停泊した戦艦ミズーリ甲板上で降伏文書の調印式が行われる中、GHQが東条以下の内閣閣僚を戦争犯罪人として逮捕する噂が流布しだす。
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1945年(昭和20年)9月11日午後2時に、GHQ(連合軍総司令部)は東条の逮捕を公表、横浜から逮捕部隊は用賀の私邸に向かうが道に迷ってしまい辿り着けない。上左右写真の私邸前(当時とは異る。敷地内の防空壕も取り壊されているだろう)には、すでに内外の報道陣多数が待ち構えている状態だった。その時分、東条は妻かつ子とお茶とおはぎで昼をすごしている・・・自決はどうしたのだ? 
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米軍別働隊は、前日(9月10日)、東条邸でのインタビューに成功していたアメリカ人記者を先導役にして、午後4時にやっと用賀に到着する。Pクラウス少佐指揮のMP(憲兵)部隊である。騒然とする玄関前の様子を耳にするに及んで、東条はやっと自決の意思を固める。応接間の椅子に座り、所有していた米国製(ブローニング社製)25口径でなく、8月15日に娘婿が自決に使用した拳銃(32口径コルト)を手にとったのだ。午後4時17分に銃声。心臓を狙ったのだが結果は失敗(通常はこめかみを撃ち抜くと思うのだが)。連合軍(米第一師団)の病棟で応急処置を受けた後、横浜本牧の米軍病院に搬送され、本格的な治療を受ける(本牧一帯は当時、無数といってよいほど多数の蒲鉾型の米軍兵舎が立ち並んでいた)。結果は見事なまでに「生きて虜囚の辱めを受ける」結果になった。
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1948年(昭和23年)11月12日の東京裁判最終判決を報じる13日付け朝日新聞朝刊
戦犯の処刑は、巣鴨刑務所(現・池袋のサンシャイン60の敷地)の絞首刑台(東池袋中央公園内の北角位置)で、同年12月23日に執行された。
参考
「東条英機 大日本帝国に殉じた男」2002年刊

*東条の娘婿の古賀秀正少佐が参加した宮城事件を描いた映画作品「日本のいちばん長い日」1967年8月3日公開・東宝作品は観る価値がある。岡本喜八監督作品で、阿南惟幾陸軍大将の自決シーンを演じる三船敏郎の演技が(セリフが無いため)印象に残る。黒沢年男が演じる畑中健二少佐が主役扱い。東条の娘婿古賀秀正少佐は佐藤允が演じている。モノクロ作品。
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2013年09月14日

下北沢 市川海老蔵暴行事件の余波・・手配落書き

2010年(平成22年)11月25日早朝に、人気歌舞伎役者・市川海老蔵が西麻布交差点から渋谷方向にゆるい坂を上った所の雑居ビル内で元暴走族の男に<半殺し>の暴行をうけた事件が発生。目黒区内の自宅に帰りついた海老蔵は、妻・小林麻央の警察通報で虎ノ門病院に救急搬送・入院に。翌月10日になって手配の容疑者が警視庁に出頭し、その場で逮捕。未だ初公判も開かれていない12月28日になり、海老蔵側が記者会見を開き事件の示談成立を発表。
その経過は連日、テレビのワイドショー番組や週刊誌誌上を賑わせていましたが、しばらくして話題にも上らなかった事件(!?)が・・・2011年(平成23年)の年明け早々、下北沢から東北沢にかけての一帯で民家の壁や駐車場のコンクリート壁に海老蔵の似顔絵がスプレー塗料で吹き付けられる迷惑行為が連続発生(10ヶ所以内だったはず)。ほとんどがすぐ消去されましたが、その内の数ヶ所分です。撮影は2011年1月上旬。
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  下北沢駅北口の茶沢通り沿いの駐車場の壁・・しばらくして消去されました
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     (左)下北沢駅南口で   (右)東北沢の井の頭通りの歩道で
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(左写真)2010年12月4日六本木通りの麻布警察暑前に詰めて 手配容疑者の出頭の噂に備える報道陣(警視庁に手配のi容疑者が出頭したのは12月10日(金曜)の午後8時前だった) 2010年12月発売の週刊誌の新聞広告

その後の経過
2011年(平成23年)2月19日 東京地裁で初公判
          3月14日 判決 被告iに懲役1年4月の実刑判決

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2013年09月13日

世田谷 桜新町 漫画「サザエさん」の「三河屋酒店」

漫画「サザエさん」に登場する酒屋「ちわー 三河屋でーす」(こうだったかな?)は、世田谷区桜新町の長谷川町子家のすぐ近くに実在していました。
まだ酒屋営業をしていた1988年(昭和63年)に、その三河屋酒店で買い物がてら経営者(上品なおばあちゃん)から話を聞いたことを思い出します。その折にフィルム撮影した1枚を初公開します。その直後に「三河屋」はコンビニ・セブンイレブン(世田谷サザエさん通り店)に業態を変えましたが、酒類のコーナーがかなり広めだったことを記憶してます。長谷川町子美術館が開館(1985年11月)して間もない頃で、新玉川線(当時の呼称)の駅から桜新町商店街は「サザエさん」一色に染まってゆきます。
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    長谷川町子美術館がオープンして間もない頃の「三河屋酒店」
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セブンイレブンとして営業中の「三河屋ビル」2007年3月撮影 長谷川町子美術館のエントランス横のボード2008年6月・公道から撮影
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1992年(平成4年)12月に刊行され大ヒットした「磯野家の謎 サザエさんに隠された69の驚き」飛鳥新社・・ざっと目を通したのですが三河屋に関する記述はなかった(はず)です。
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2013年09月09日

世田谷 経堂 作家・森茉莉 終焉の地 

文豪・森鷗外の2人目の妻・志けの長女、作家・エッセイストの森茉莉(84歳)さんが、1987年(昭和62年)6月8日午前11時頃、自宅(経堂「フミハウス」203号室)で倒れているところを通いの家政婦により発見されたが、すでに亡くなっていた。北沢警察署の発表によると死亡推定時刻は6日の午後4時頃、心不全による病死であった。父鷗外の眠る三鷹・禅林寺に同月9日に密葬された。戒名は「常楽院茉莉清香大姉」。森家の墓列の向かいには、太宰を師と仰ぐ作家・田中栄光が自殺をはかった太宰治の墓(8-5)がある。
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茉莉さんは、亡くなる2年ほど前、この「フミハウス」203号室で心臓発作をおこし、その時は自力で救急車を呼び一命を取り留めていた。心臓疾患(昭和60年2月〜4月入院治療)は癒えたかにみえていたが、帰らぬ人となってしまった。親族のアドバイスを振り払っての長年にわたる単身のアパート暮らし。代沢・淡島の独居から、経堂「フミハウス」に移ってきたのは昭和58年10月8日、80歳のときであった。

作家・吉行淳之介が葬儀の模様をエッセイに残している。
<< 昭和六十二年六月二十日(土)烈しい雨。東京信濃町・千日谷会堂で、森茉莉さんの葬式が午後一時から無宗教でおこなわれた。(略)
六月六日午後に森茉莉さんが亡くなったのはたしかだが、まだそこらにいるような気分である。
それに、弔辞を頼まれてしまった。これは大の苦手であるのだが・・・。
六月八日夜、共同通信からの電話で、はじめて森茉莉さんが心不全で急逝したのを知った。八十四歳であった。
六月九日付の読売新聞の記事の一部によると、
『文豪・森鴎外の長女で、随筆家の森茉莉さんが、八日昼前、東京・世田谷の一人住まいのアパートで、ひっそり死んでいるのが見つかった。
鴎外に溺愛され、その父を活写した随筆「父の帽子」でデビュー、ひたすら空想と美の世界を一人、歩き続けた女流エッセイスト。死後二日経過していたが、六畳一間の城″で筆をとり続けたその顔は、安らかで、夢を見ているようだったという』
この末尾を、そのまま信じることにして、むしろ安堵があった。
この記事にクレームをつけるとすれば、「随筆家、エッセイスト」という規定である。
森茉莉は一流の小説家であった。
葬儀の日、壇の上の白い菊の飾りつけが美しかった。遺影の傍に愛嬌のある茶色の熊の縫いぐるみが置かれているのも、森茉莉さんらしかった。
式は、「新潮45」編集長亀井龍夫氏の司会で、弔辞からはじまった。
(略)
もともと、森茉莉さんは宮城まり子の友人である。宮城まり子は室生犀星に気に入られて、ときどき訪問していたので、そこで会ったらしい。昭和三十七、八年ころ、北千束の私たちの家に森茉莉さんが現れ、それが初対面だった。その宮城まり子は、二日前にヨーロッパから帰ってきて、四番目の弔辞を遺影に向って語りかけた。不思議な話で、むしろ笑ってしまう内容なのだが、話のあいだから森茉莉さんの面影が浮び上り、ちょっと涙が出た。
『ある日、森茉莉さんから電話がかかってきて、「ジャーというの、知ってる。トマトを冷やして食べようと、ジャーというのを買ってきて、トマトを三つと氷を容れておいたの。一週間、一ケ月、一年と経ってしまって、こわくて開けられないけど、どうしようか」と相談されたので、「それ開けないでね、開けたら駄目よ」と言って、いそいで新しいジャーにトマトを容れて持って行きました』というような話である。
そういう話をするつもりだけど、「そのとき二人とも、ジャーの蓋を開けると、トマトがドーンと弾丸のように三つ飛び出すにちがいないとおもったのだけど」と前日に相談された。
「そこは言わないほうがいい、おもわず笑ってしまう人がいると、やはり具合が悪い」と言っておいた。 
最後に、喪主として、実弟の森類(るい)氏が参会者に挨拶された。「森茉莉の生涯」というようなもので、語り口の飄逸なところと相俟(あいま)って大そう興味があった。
森茉莉さんが上野動物園の近くに住んでおられた時期のことなど、初耳であった。昭和六十一年秋急逝された円地文子さんも動物園の傍に住んでおられたが、近所同士の時期があったろうか、などといろいろ考えながら聞いていた。
そして、「それにしても、これは喪主挨拶にしては長すぎはしまいか。しかし、僧侶の経もないことだし、神父や牧師の説教もないのだから・・・」と考えた。そのすぐあとで、森類氏がまったく同じことを言われたので、内心おかしかった。破格だが、いかにも森茉莉さんらしい葬儀だった。若い女性が多かったが、森茉莉ファンなのだろうか。会堂が狭いせいもあって、うしろに立っている人もあった。>>
吉行淳之介「森茉莉さんの葬儀」より 「新潮45」昭和62年8月号初出

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参考
「森茉莉かぶれ」筑摩書房2007年刊
「森茉莉 贅沢貧乏暮らし」阪急コミュニケーションズ2003年刊
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2012年08月02日

下北沢 北沢タウンホール 元AKB大堀恵の舞台チケットが・・・

8月4日〜5日と計4回公演の「ハートブレイクダンス!!」のチケットがまだ残ってると、先ほど更新された大堀のブログで告知がありました。公演会場は下北沢の北沢タウンホール。 
タイトルは「下北って、どうやって行くのかしら〜」http://ameblo.jp/ohorimegumi/ 
8月2日0時31分更新分です。
どうやって行くのかなんて・・・知らな〜い。先月、名古屋で美人度チェックした「美人マネージャー」がいるでしょ!主宰者(座長)の東MAXがどうもダメで・・・結論、行かな〜い。
次の更新でも大堀が泣いてるようなら・・・それでも行かな〜い。
大堀のブログに公演情報のリンク貼ってあるので興味ある方はどうぞ。
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  タウンホール南側細路地の玄関      ホールへの階段は下側左のRの部分
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 階段の2階正面がホールのロビー(照明点いてる) 写真右手奥がホール

地下は北沢支所(世田谷区の出張所)、1階の茶沢通り側はバスの発着所(三軒茶屋行き)、路地側の玄関前には女性経営の感度の良い古本屋「ほん吉」(美人度は大堀の美人マネージャーと比べて・・・ん〜業界違いで難しい 火曜休み)。すぐ近くの茶沢通り沿いに演劇の聖地!?「スズナリ」&建築フアンには安藤忠雄設計の福原病院。ギッシリです。

追記 2012年8月4日(土曜)
大堀さんの公演をスルーして、渋谷シアターコクーンで作・演出・出演 松尾スズキの「ふくすけ」の昼の部を観に行ってしまいました。帰りに下北により、タウンホール向かいの古本「ほん吉」で「小林多喜二読本」525円を購入。ご主人(女性)と「もう出店して5年になりますか・・早いものですね」なんてお話。チラッとホールのぞくと1回目はすでにはねたようで、残っていた団体のお客が帰る所。ホールには花輪がぎっしり。・・・2日間だけなのでポスター作らないのですかね?階段の壁には何も無くすっきり。

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2012年08月01日

豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家

小田急線豪徳寺駅東口から豪徳寺(大老・井伊直弼の菩提寺として有名)にむかって住宅街の路地を歩くと、古い5階建てマンションが現れる。1982年(昭和57年)以来、写真家荒木経惟(のぶよし)氏と妻陽子さんの住居であり、作品表現の舞台にもなった建物だ。生後4ヶ月のチロ(猫)が同居したのは、1988年(昭和63年)になってから。アラーキー夫妻の愛猫チロをまじえた生活は短い期間で終わりをつげる。1989年8月、陽子さんは入院し手術を受ける。手術の日、アラーキーはその病室の窓を開け「空」を写す。翌年1月、荒木陽子さん逝去(42歳)。棺に完成したばかりの写真集「愛しのチロ」を副葬としておさめる。アラーキーの人生・作品と一体化していた妻でありモデルでもあった陽子さんの早すぎる死であった。陽子さんの魂が乗り移ったような存在の愛しチロと、ウインザーハイム豪徳寺での二人の生活は続く。2009年(平成21年)になり、検査で前立腺がんが発見されたアラーキーは治療に専念するが、翌年3月に愛猫チロは先立ってゆく。22歳であった。
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この建物は、アラーキーの写真集の表紙に取り上げられ、住所表示プレートも写されている。この建物はアラーキー氏の作品世界そのものだ。室内・ベランダ・屋上、そして西側の空まで。

荒木経惟氏略歴
1940(昭和15年)5月25日 東京府下谷区(現・台東区)三ノ輪に生まれる
1947(昭和22年)東泉小学校入学
1952(昭和27年)アマチュア写真家だった父親からカメラを譲り受け、修学旅行先の
        日光東照宮で生涯初めての写真を撮る
1953年(昭和28年)下谷中学校入学
1956年(昭和31年)都立上野高校入学
1959年(昭和34年)千葉大学工学部写真印刷工学科入学
1960年(昭和35年)大学の赤城山寮にバイトにきていた女子高生相手に童貞喪失
1963年(昭和38年)千葉大学卒業 電通入社 宣伝部技術局制作企画室配属
1968年(昭和43年)電通総務局文書部和文タイプ室勤務の青木陽子(20才)と知り合う
1971年(昭和46年)7月7日 青木陽子と結婚 新婚旅行は京都、柳川、長崎
    新婚旅行を写真集「センチメンタルな旅」(自費出版)てまとめる
1972年(昭和47年)電通退社 退職金でアサヒペンタックス6x7を購入
  以降はフリーカメラマンとして活動する よく知られているので略
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老朽化を理由にウインザーハイム豪徳寺の解体決定 (右写真)建物前は古道「滝坂道」 敷地近くあるお地蔵さん    
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(左写真)写真集6「東京小説」と雑誌「ユリイカ」アラーキー特集号 (右写真)2012年7月発行の最新写真集「愛のバルコニー1982〜2011」 「愛のバルコニー1982〜2011」は、豪徳寺での生活の総括となる写真集だ。
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荒木経惟写真集「往生写集」平凡社2014年4月刊 表裏表紙はウインザーハイム豪徳寺での家族がいた夏と冬

解体が決まっていたウインザーハイム豪徳寺を2011年(平成23年)12月31日、荒木経惟氏は退去した。
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    2014年(平成26年)建物は解体され、新築ビルが姿を現してきている

 荒木経惟HP http://www.arakinobuyoshi.com/index.html
荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html 2014年06月27日
posted by y.s at 16:31| Comment(0) | 世田谷区 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする