2018年05月28日

逗子 平家嫡流の断絶・六代御前の処刑 「平家物語」より

平家の嫡流(長兄相続)平清盛・重盛・椎盛・六代と続く正統が、正治元年(1199年)、文覚流罪の年、将軍頼朝の死去の直後、ついに六代の処刑執行により断絶する。平家嫡流の六代御前の斬刑を以て、平家の子孫はここに途絶え、そして「平家物語」(百二十句本)も巻第十二第百十八句をもって終る。
平家諸本においても年次、刑場場所などがまちまちで異説が多いが、正治元年説・逗子刑場説をもって仮定する。
平家物語巻第十二(新潮日本古典集成「平家物語 」新潮社)より抜萃。

<<(文治元年のこと)都の守護に上られける北条(*時政)がもとへ、源二位殿(*頼朝)、言ひ上せられけるは、「平家の子孫さだめて多かるらん。尋ね出だし、失ひ給へ(*殺せ)」とのたまひければ、(北条時政が)「平家の子孫尋ね出だしたらん人は、何どとも望みのままたるべし」と、披露しければ、京の者、案内は知りたり、尋ねもとめけるこそうたてけれ。(略)
そのなかに、「小松の三位(さんみ)中将椎盛(これもり)の子息(*長男)、六代御前とて年もおとなしくおはするうへ(*大きくなっている)、平家嫡々の正統なり。これを失はれよ」と、鎌倉よりのたまひ上せられければ、北条、(六代を)尋ねかねて、すでに下らんとするところに、ある女房、六波羅(*かっての平家根拠地跡に置かれた時政の舘)へ来たりて申しけるは、「これより西、遍照寺(*嵯峨野大覚寺の別院)の奥、小倉山のふもと、大覚寺と申すところに、小松の三位の中将殿の北の方、若君、姫君あひ具してこの三年(みとせ)住み給ふぞ」と、教へけるほどに、北条、やがて人をつかはして見せられければ、使、この房中に入り、人を尋ぬるよしにて、籬(まがき)のひまより見入れたれば、をりふし、白き狗(ゑ)の子(*白い子犬)の走り出でたるを取らんと、いつくしげなる若君の走り出で給ひたるを、乳母かとおぼしき女房の、あわてて続いて出で、「あな、あさましや。人もこそ見候ふらめ(*誰がみているかわからないでしょうに)」とて、急ぎ入れたてまつる。>>
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六代御前捕縛に六波羅北条勢が押し寄せた京・嵯峨野の大覚寺

<<「一定(いちぢょう)こめ人なるぺし」と心得て、使、帰りて申せば、北条五百騎ばかり、大覚寺へ押し寄せ、打ちかこめて、「これに小松の三位の中将殿の若君のましますなる。北条と申す者、御迎へに参りて候」と、人を入れて言はせければ、母御前、「ただわれを先にうしなへ(*殺してください)」とてぞ泣かれける。(略)>>
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京・北条六波羅亭跡付近、六波羅裏門通(平家六波羅の池亭を占拠し北条時政亭を建設)

<<北条、駒の足を早めけるほどに(*東下)、駿河の国千本の松原にもかかり給ふ。ここにて輿(こし)かき据ゑ(*輿を下し)、敷皮しき、若君をおろしたてまつる。(いよいよ千本松原で処刑かというところへ頼朝からの御教書が届く。)
  小松の三位の中将維盛の子息、尋ね出だして候ふなるを、
  高雄の聖のしきりに申さるるの条、預け申すべし。
      北条の四郎殿へ        頼朝
とぞ書かれたる。御自筆なり。御在判なり。>>
(かねてより命ごいを行っていた高雄山神護寺の文覚上人に預けよという頼朝直々の命令書であった。)
(文治2年1月、文覚は六代を伴い、京へ戻る。大内裏の東南、二条猪熊の「岩上」というところの里坊に入る。)
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逗子田越川、左手の小高い森の中で処刑(伝)

<<正治元年正月十三日に、鎌倉殿五十三(*頼朝53歳で)と申すに、失せ(*死去)給ひてのち、文覚(もんがく)、この事(*二の宮擁立)とり企てけるほどに、たちまちに聞こえて、文覚召し出だされ、年八十にあまりて、隠岐(おき)の国へぞ流されける。上皇(*後鳥羽)、あまりに手毯(てまり)を好ませましましければ、文覚、追立(おつたて)の庁使(*流罪人を護送する検非違使庁の役人)、領送使に具せられて、都を出でしときも様々の悪口ども申して下りけり。(略)
六代御前は、三位禅師とて行ひ(*修行)すましておはせしを、文覚流されてのち、「さる人の弟子、さる人の子なり、孫なり。髪は剃りたりとも、心はよも剃らじ(*心は出家していない)」とて、宮人資兼(すけかね)に仰せて、鎌倉へ召し下さる。このたびは、駿河の国の住人、岡部の三郎大夫(*岡部泰綱)、うけたまはつて、鎌倉の六浦坂(むつらざか*三浦半島六浦から朝比奈切通を経て鎌倉口に至る上り坂。諸説あり処刑地は定まらず。逗子田越川説には跡碑あり)にて斬られけり。十二歳より三十二まで保ちける(*命を永らえた)は、長谷(はせ)の観音の御利生とこそおぼえたれ。それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけれ。>>
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逗子田越川河畔の処刑地に建つ六代御前墓碑

「平家物語」巻末の六代処刑までの経緯(千本松原の六代と文覚上人の故事)の一部が、谷崎潤一郎の中編「羹」(あつもの)に旅の車窓からの風景にからめて取り上げらている。
<<「沼津は海岸よりも却つてあの邊(*辺)の街の方が面白いぢやないか。空が如何にも青々として居て、まるで廣重の五十三次の繪(え)を見るやうだ。先づ東海道では彼處邊が一番だな。」
「へえ、そんなに好い景色なの。」と、お品は夫と忰の顔を見廻して、合槌(あいづち)を打つたが、宗兵衛はそんな事に頓着なく、夢中になつて話を続けた。
「あの千本松原で、六代御前が頼朝の使に首を切られさうになつたのを、文覺上人(もんがくしょうにん)が命乞ひに駈け着けたといふんだ。あんな所で殺されたら、死ぬにしても好い氣持だらう。たしか高山樗牛と云ふ文學博士の墓も、江尻か何處かにあつたぢやないか。」
「えゝ」と云つて、宗一はちよいと意外の感に打たれた。六代は兎に角として、父が高山樗牛を知つて居るのは可笑しいと思つた。
「六代御前と云ふのは誰のこと?」
と、お品は團扇(うちわ)の手を止めて、宗兵衛の方を向いた。
「六代と云ふのは、平維盛(これもり)卿の子供よ。義太夫の「餅屋(すしや)」の文句にあるだらう、「内侍は高野の文覚に、六代が事頼まれよ。」ッてえの彼(あ)れのことだ。浄瑠璃と云ふものも、満更(まんざら)嘘は書かなかつたんだな。」汽車が嫌ひで、生れてから一寸も東京の地を離れないお品は、旅行談になるといつも手持無沙汰で困る代りに、芝居の事なら一番の物識であつた。(略)>>
谷崎潤一郎「羹」 明治45年7月〜大正元年11月、東京日日新聞(*戦後大阪毎日と合併し毎日新聞に)連載。「谷崎潤一郎全集第一巻」中央公論社に収録。

*注釈・ルビは本文に無いものも含まれています。


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2018年05月24日

葉山の海 堀口大学「月かげの虹」(詩集)より

詩集「月かげの虹」からの一篇、「海ぬるむ」より抜萃。

今日は三月ついたちだ
湘南の葉山の海は浅みどり
稚海藻(わかめ)の色に透きとおり
富士も遠くにかすんでる
海軟風が頬なぜる
飛び飛びの岩づたい 磯へ出て
渡津海のいろこの宮を覗く僕
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やわらかい水雲(もずく)の指がゆれながら
となりの指にからみつく
人間の男おみなのするままの
恋慕のしぐさ・・・・
そばで見ている磯巾着が息をのむ

浪が沈めた小さな碇(いかり)
さざえが海星(ひとで)ににじり寄る
あっ! 洞門の入口かけて一面の
藤壷はクリトリス 百にも余る!

*詩集「月かげの虹」堀口大学 昭和46年8月筑摩書房刊
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2017年10月09日

箱根 富士屋ホテル 池波正太郎「よい匂いのする一夜」より

東京から一日で来れる(明治初頭頃)ことができ、富士の景観と豊富な温泉に恵まれる箱根が、欧米人(米・英)の人気を集めていると知った山口仙之助は、外国人専門のホテル経営に着手した。1877年(明治10年)、宮之下の藤屋(安藤堪右衛門かんえもん)を買収し、同時に温泉の使用権も獲得、名称を富士屋ホテル(富士屋ホテル株式会社)と改め、翌年(1878年)に開業した。
この事業は、初代仙之助から入婿の正造に引き継がれ、さらに繁栄を重ねる。 
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池波正太郎の「よい匂いのする一夜」(1981年平凡社刊)の一章「箱根 富士屋ホテル」より抜粋。
初出は「太陽」誌1979年7月号〜1981年5月号にかけて連載。
<<富士屋ホテルは明治十一年の創業というから、日光の金谷ホテルの創業よりも古い。
おそらく、日本で最初の洋式ホテルではないだろうか。
富士屋ホテルの創立者で、初代の山口仙之助は、明治という時代でなければ生まれなかった人物だろう。若いころには、日本最初の欧米使節一行と共にアメリカへわたり、辛酸をなめつくした上、七頭の種牛を買って帰国した。牧畜業をはじめるつもりだったのだが、どうも、うまくゆかない。そこで牛を売りはらい、慶応義塾へ入学したというのである。現代の青年たちが味わうこともできぬ青春だといえよう。
そして慶応で、福沢翰吉に国際観光の重要さを説かれ、ホテル創業を決意し、箱根宮ノ下に五百年の歴史をもつ藤屋旅館を買収し、洋館に改築した。これが、富士屋ホテルだ。(略)>>
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富士屋ホテル大食堂(メインダイニング)。昭和5年(1930年)築造。下階は当時ビリヤード場。
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池波が皇居の食堂のようと表現した主食堂。

<<当時のホテルの食堂の典雅な雰囲気には、びっくりした。そのころ、私は何度かホテルに泊っていたが、趣きが全くちがっていた。私たちの目には、見たこともない皇居の大食堂のようにおもえた。
昭和初期の日本風洋館の極美をつくしたもので、格天井の一つ一つに、日本アルプスの高山植物と野鳥が描かれてい、窓外の、したたるような新緑と山気をたのしむ外人客で一杯だった。
その、何ともいえぬ融合が富士屋ホテルの特色である。>>
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池波正太郎らが宿泊した五階建の花御殿。昭和6年(1931年)築造。全室に花の名がついている。

<<当時の富士屋ホテルは、増築を重ねて繁栄の絶頂期を迎えようとしていた。
今度、私たちが泊った五階建、四十三室の〔花御殿〕の大きな棟も、そのころの建築だが、この一室へ泊ったのは今度がはじめてだ。いまから十五年ほど前に泊ったときは、戦後に建てられた新館だった。
花御殿の大きな客室へ泊ってみると、昭和初期の最高の贅沢というものが、どんなものか、よくわかるだろう。新しい現代のホテルを知っている若い人たちの目には、それがどのように映るだろうか。興味ふかいことである。夕暮れとなって、長い廊下を何度も曲ったり、上ったり下ったりして、私たちは食堂へ入った。(略)>>
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明治24年(1891年)築造の本館内部。贅沢なまどろみが約束されるサンルーム。
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本館内部。

松本清張も昭和初期の「富士屋ホテル」を舞台にした衝撃的事件を描いている。
昭和4年(1929年)11月29日未明に一号館で発生した支那(中華)公使佐分利貞男の怪死事件だ。
号外が街頭にまかれ、帝都は騒然とする。清張は、時代の背景(政府の対支政策、軍部の動向)を精査し、軍部による他殺説を展開する。富士屋ホテルを舞台にした推理小説として読んでも面白い。
松本清張「佐分利公使の怪死」として「昭和史発掘」第3巻に収録。文春文庫で手軽に読める。

「箱根 富士屋ホテル」「太陽」1979年7月号〜1981年5月号連載初出
「よい匂いのする一夜」池波正太郎1981年平凡社刊より抜粋
参考:「小田原・足柄の歴史下巻」1994年

池波正太郎リンク
大阪 宗右衛門町界隈 池波正太郎「大阪ところどころ」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/394678865.html
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2016年09月30日

横須賀 横須賀線と芥川龍之介「蜜柑(みかん)」

東京帝大文科大学英文学科を卒業した芥川龍之介は、大正5年12月、恩師の推薦で横須賀の海軍機関学校の教授委託(英語担当)の職に就く(約2年4カ月間・週12時間)。下宿先は鎌倉和田塚(由比ガ浜)の野間西洋洗濯店の離れで、通勤は、翌年10月に横須賀市内汐入(尾鷲方)に移転するまでは、汽車(明治22年6月に大船〜横須賀間が開通した横須賀線)を利用していた。

<< 或曇つた冬の日暮である。私は横須賀發上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり發車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。
外を覗くと、うす暗いプラツトフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。
これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。
私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。
私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云う元気さへ起らなかつた。が、やがて発車の笛が鳴つた。
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(大正時代の面影を色濃く残すJR横須賀駅正面玄関。昭和15年に完成した駅舎。芥川が利用した当時を彷彿とさせるレトロな雰囲気を漂わせている)

私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。
所がそれよりも先にけたたましい日和下駄(ひよりげた)の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵る聲と共に、私の乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中へはいつて来た、と同時に一つづしりと揺れて、徐(おもむろ)に汽車は動き出した。
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(横須賀駅ホーム。大正時代のままのよう。駅玄関からホームまで階段がなく平らなのだ。)

一本づつ眼をくぎつて行くプラツトフオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の禮を云つてゐる赤帽ーーさう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。
私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶(ものう)い睚(まぶた)をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。
それは油気のない髪をひつつめの銀杏(いちょう)返しに結つて、横なでの痕のある皹(ひび)だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄(もえぎ)色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱ひた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。
(略)
すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に變つて、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前へ浮んで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいつたのである。
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(横須賀駅から最初の大きな隧道(すいどう)を抜け出た場所。鉄道敷地に侵入せず、限界まで腕を伸ばして撮影したもの。画面右端下に煉瓦造?のトンネルが見える)

それから幾分か過ぎた後であつた。
ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻(しきり)に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。あの皹だらけの頬は愈(いよいよ)赤くなつて、時々鼻洟(はな)をすすりこむ音が、小さな息の切れる聲といつしよに、せはしなく耳へはいつて来る。
これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかつた。
しかし汽車が今将(まさ)に隧道の口へさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側に迫つて来たのでも、すぐに合点の行く事であつた。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、ーーその理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。
だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡(もた)げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。
すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同時に、小娘の開けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤を溶したやうなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になつて、濛々と車内へ漲(みなぎ)り出した。
(略)
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(上下線が重なるように通過。下りだけかと思っていたら、トンネルから突然、小娘と芥川を乗せた列車が・・・・あ、蜜柑が。)

しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷(すべ)りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或(ある)貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶(ものう)げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふーーその時その蕭索(しょうさく)とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。
彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。
さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。
それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声(かんせい)を一生懸命に迸らせた。

するとその瞬間である。
窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。
私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。
小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆(いくくわ)の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
(略)
ーーすべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。
が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体(えたい)の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。
私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変皸(ひび)だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。・・・・
私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。 >>
「芥川竜之介全集第3巻」岩波書店刊

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(恐らくこの付近に踏切があったのだろう。現在、公園の横須賀寄りの位置に記念碑が設けられ、脇には蜜柑の木が植えられている。植樹は芥川也寸志・瑠璃子両氏に寄る。)
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(横須賀駅から最初のトンネルまでの見取り図)

**芥川龍之介「蜜柑」関連の略年譜
大正5年7月 東京帝大文科大学英文学科卒業 大学院在籍(後除籍)。
   12月1日 恩師推薦で横須賀の海軍機関学校教授委託(英語担当)に就く(週12時間)。
        下宿先は鎌倉和田塚(由比ガ浜)の野間西洋洗濯店の離れ。
大正6年9月14日 横須賀市内汐入580番尾鷲方に移転。
大正8年2月1日 大阪毎日新聞社入社内定。
    2月 海軍機関学校退職願提出。
    3月8日 大阪毎日新聞社社員決定の辞令。
    3月31日付 海軍機関学校退職(最終講義は3月28日)。
    4月3日 「蜜柑」脱稿。
    5月1日 「新潮」誌第5号に「私の出偶つた事」発表(「蜜柑」「沼地」の併せ)。
    5月3日 親友菊池寛と長崎旅行に(約半月間)。帰途、大阪毎日新聞社に出社。
      *参考「芥川龍之介・年表作家読本」河出書房新社1992年刊
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(海軍機関学校の跡地。芥川が勤務していた海軍機関学校は関東大震災で罹災し移転、その跡地には海軍機工学校が建てられるが敗戦により米軍に接収されている。現在、南側の湾口は埋立てられ、海軍施設のあった広大な跡地には神奈川歯科大学・横須賀学院のキャンパスとなっている。)
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湘南・鵠沼 旅館東屋での狂気の交差 宇野浩二と芥川龍之介 http://zassha.seesaa.net/article/386256370.html
京都 芥川龍之介と宇野浩二の女買いの顛末記 http://zassha.seesaa.net/article/394984566.html
鎌倉 芥川龍之介の野間洗濯店下宿跡(和田塚) http://zassha.seesaa.net/article/22009376.html?1475175742
横須賀 横須賀線と芥川龍之介「蜜柑(みかん)」 http://zassha.seesaa.net/article/442379617.html
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2014年02月08日

小田原 川崎長太郎の物置小屋跡

川崎長太郎は、小田原市出身の私小説作家。
相模湾の海岸縁にある電燈のない黒塗りの物置小屋に逼塞し、蝋燭(ろうそく)の灯りを頼りに小説の執筆に従事し、小説の鬼・宇野浩二に<半ばあきれ、半ば畏敬の眼ざし>をむけられ、昭和の文壇に足跡を残した作家だ。以前は、川崎長太郎の実家(箱根の温泉旅館を得意先とする魚屋)の店頭道路側に文学碑が設置されていたが、平成23年6月頃に「物置小屋」のさらに海岸寄り(波打ち際近く)に移動している。
「物置小屋に逼塞」と表現すると閉じ籠っていた印象を与えるのだが、それは大間違いだ。閉じ籠るどころか連日のように出歩いていたようだ。代表作「抹香町」に結実した度重なる抹香町通い(物置小屋から北東方向・徒歩圏内にあった私娼窟で40〜50軒の平屋建ての娼家が固まっていた)、小田原駅西方の小田原競輪場に足を運んだり、市内で人妻との逢瀬を楽しんだり、小田原城址の市立図書館に通ったり、「チラシ丼」を食べに「だるま料理店」を度々訪れていたのは有名なエピソードだ。昭和28年頃、筆名が上がるにつれ、川崎にあこがれる女性ファンが次々と、薄暗い蝋燭(ろうそく)の灯りがたよりの「物置小屋」を訪れ始める(川崎が黙って返すわけがない)。<「物置小屋」を訪れる女性ファンが次々と現れ、娼婦を抱くのと変わらない一石二鳥のえげつなさ>と彼が書いたのは「「日没まえ」だ。
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小田原・万年町(現在は浜町)の実家(魚屋・左写真左側)と裏(海岸寄り)にあった黒ペンキで塗られた物置小屋跡(右写真)・・現在は文学碑以外に何も残されていない
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「川崎長太郎 小屋跡」の文学碑 上段は「抹香町」からの一節 下段には「・・千度小路の魚商太三郎の長男として生れた」と略歴が刻まれている

 川崎長太郎「歩いた路」に収められた「海辺の小屋から」より抜粋
<<魚屋のあととり息子の私が、両親や一人きりの弟を捨てて東京へ飛び出し、かれこれ十五、六年たっていながら、一家をなすこともなく、永住のつもりで故郷へ舞い戻ってきた。父親は数年前死亡しており、商売を継いだ弟が、中風病みの母親や、女房子と魚市場へ近い二階家を買取って移り、ふた間しかないもとの家は蒲鉾職人に貸し、裏の物置小屋へただで私が住みついたとしても、別にどこからも苦情の出る筈はなく、時たま東京方面からくる私宛の郵便物の配達先が、弟の住居の方になっていたりした。>>
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物置小屋跡から (左写真)現在は西湘バイパス(有料自動車道)が眺望を損なっているが足元が波打ち際だった (右写真)西側の防波石垣

「新編水上勉全集」第16巻から「川崎長太郎を偲ぶ」
<<川崎長太郎さんにはじめて会ったのは、本郷森川町の宇野浩二邸だった。昭和二十二年だから川崎さんが復員してまもない頃だったと思う。夏なので菜っ葉色の海軍シャツに半ズボン、雑嚢のようなものをさげておられた気がする。(略)川崎さんの文章によると、宇野さんを囲む「日曜会」が箱根で開かれた際、川崎さんが案内役をつとめられたようだが、もともと師匠は徳田秋声だった「あらくれ会」の川崎さんだが、宇野さんとも川崎さんは親しくしておられた。小田原駅前火事の直後に、海岸の物置小屋を訪問した日のことを鮮明におぼえている。物置小屋で、トタン囲いの階下は地べたで、魚のウロコのへばりついた板箱がいっぱいかさねられ、住まいはその二階で、うす暗く、たてかけた梯子(はしご)が階段の用をなし、穴が出入り口だった。何かの箱が机がわりの様子で、もちろん電燈はなかった。>>
「雁の寺」「五番町夕霧楼」などを著した直木賞作家・水上勉の追悼文(川崎長太郎は1985年に小田原市立病院で死去)によって始めて彼自身がこの場所を訪れていたことを知り、物置小屋の内部の様子も知ったのです。
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*抹香町の地図も作成したが埋立てられた川などの詳細が不明(川跡はコンクリート蓋で判る)のためこの地図に差替え   「歩いた路」河出書房新社1981年刊

小田原 川崎長太郎 早川観音の文学碑とだるま料理店http://zassha.seesaa.net/article/378455346.html
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2014年01月27日

鵠沼 旅館東屋での狂気の交差 宇野浩二と芥川龍之介(付記・王子脳病院と青山脳病院)

 芥川龍之介「或阿呆の一生」より
<<彼の友だちの一人は発狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤独の、――軽快な仮面の下にある孤独の人一倍身にしみてわかる為だつた。彼はこの友だちの発狂した後、二三度この友だちを訪問した。 「君や僕は悪鬼につかれてゐるんだね。世紀末の悪鬼と云ふやつにねえ。」 この友だちは声をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇の花さへ食つてゐたと云ふことだつた。彼はこの友だちの入院した後、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。それはこの友だちの愛した「検察官」の作者の半身像だつた。彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。>>  

1926年(大正15年・昭和元年)
 1月7日 新潮合評会。田山花袋、芥川龍之介、宇野浩二、広津和郎ら出席。
    東京駅前で芥川、斎藤茂吉と会い花月で食事を馳走になる。
 1月15日 芥川、湯河原の中西屋旅館に湯治・療養に出発。
    震災で中西屋は別の場所に移動している(主治医下島への書状)。 
    芥川、胃腸悪く神経衰弱も昂じる。不眠症にも陥る。
    (胃アトニー・胃酸過多症=斉藤茂吉に紹介された内科医による診断結果)
 1月 宇野浩二、報知新聞の客員となり(里見ク・菊池寛・佐藤春夫とともに)、
    長編小説各自2篇の執筆を約す。宇野が最初の番を担当する(「魔都」)。
    以後、約1年間月給が入るようになる。    
 4月9日 不眠症で佐佐木茂索から勧められたアロナアル・ロッシュを
    2錠のんでもきかず、しばらく服用をやめていたアダリンを
    1グラム飲んでやっと眠る。以後これらの睡眠薬を常用する。
 4月15日 小穴隆一を下宿に訪ね自殺の決意伝える。 
 4月中旬 宇野浩二、八重と東山温泉に。ここで愛人と逗留していた八重の叔母と会い、
    塩原温泉まで旅行。(「思ひ川」に記)
 4月22日、芥川、鵠沼の旅館東屋(あずまや)に滞在。妻子(文・三男)を伴う。
    1ヶ月の滞在予定が翌年1月まで延びる。
 5月1日 芥川、佐佐木茂索への手紙に「定刻散歩」と体調は「割合に好い」と記す。 
 6月初旬 芥川、湯河原1泊旅行(中西屋旅館)、田端に数日帰る。
 6月下旬 芥川、胃の不調で田端に戻る(下島医師の診察受ける) 
 7月初旬 芥川、旅館東屋に戻る。見舞いに来た斎藤茂吉の勧めで東屋の
    貸別荘「イ-4号」に移る。妻の文、三男・也寸志と共に住む。
    夏休みに入り、7月20日過ぎに遅れて比呂志、多加志も来る。
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    鵠沼海岸 旅館東屋跡
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   芥川龍之介の「蜃気楼」(婦人公論1927年3月発表)から 
<<或秋の午頃、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼を見に出かけて行った。鵠沼の海岸に蜃気楼の見えることは誰たれでももう知っているであろう。現に僕の家の女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞に出ていた写真とそっくりですよ。」などと感心していた。僕等は東家の横を曲り、次手ついでにO君も誘うことにした。不相変赤シャツを着たO君は午飯の支度でもしていたのか、垣越しに見える井戸端にせっせとポンプを動かしていた。(略)僕等は引地川の橋を渡り、東家の土手の外を歩いて行った。松は皆いつか起り出した風にこうこうと梢を鳴らしていた。>>
*芥川は「東屋」を「東家」と表記している
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東屋の遺構 鵠沼公民館の庭に保存される海浜口(裏門)門柱=内側から見て右側の門柱
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(左写真)海浜口の門柱跡プレート (右写真)鵠沼公民館の門柱説明板の東屋写真=画面中央に海浜口門が見える
   芥川龍之介「鵠沼雑記」から 東屋での鬼気迫る一文を引用
<<僕は鵠沼の東屋の二階にぢつと仰向けに寝ころんでゐた。(略)
僕は全然人かげのない松の中の路を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。僕は風向きに従つて一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪ゆがんでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。これは不気味でならなかつた。>>
1926年(大正15年・昭和元年)
 7月下旬 芥川の誘いで、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて
    住む(1軒おいた隣 翌年2月まで)。
 7月末 宇野浩二、村上八重と修善寺、湯ヶ島、伊東を巡る。
    宇野、この頃より神経衰弱気味になる。、
 8月12日 芥川、佐佐木茂索夫妻に来訪を勧める手紙。
    土産のかわりにアロナアル・ロッシュ2瓶を依頼。下島医師にも来訪促す。
 8月下旬 芥川、新婚生活を送った鎌倉大町の家(約1年居住)を妻と訪問。
    (「追想 芥川龍之介」芥川文P119より)
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(左写真)鎌倉の芥川夫妻の新婚時代の住居跡(小山別荘跡) 右側に芥川龍之介旧居跡の説明板有り 右は鵠沼の旅館東屋見取り図

 9月22日 土屋文明から25日頃に訪問したいとの問い合わせに、芥川、承知の返信。 
    当日、斎藤茂吉を伴い見舞い来訪する。
    (「追想 芥川龍之介」には東屋に1泊と記憶)。
 10月1日 芥川、「点鬼簿」を改造に発表(この作品で「僕の母は狂人だった」と
    出生の秘密を初めて明かす)。
 10月中〜下旬 芥川、東屋「イ-4号」から西裏手の二階家に移る。
    (写真が残っている。玄関前に井戸)

*随筆「追想 芥川龍之介」芥川文(芥川夫人) 中公文庫1981年より
<大正十五年末、主人と私と三男也寸志と三人で、私の実家のある鵠沼海岸の東屋旅館に滞在しました。>

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   旅館東屋にほど近い鵠沼海岸3丁目の芥川夫人・文さんの実家(右端付近)
   右端車庫付近が旧表示の5501番
 11月21日 芥川、斎藤茂吉にアヘンエキスの送付を依頼。
 11月28日 芥川、斎藤茂吉にオピアム送付の礼状書く。
   28日夕方、宇野浩二(35歳)が母と箱根・熱海旅行の帰途、母と別れてから
    鵠沼・東屋旅館の芥川を見舞いに訪れる。
    (「宇野浩二伝」水上勉全集第16巻P506より)
    芥川は激しい神経衰弱に陥っていたが、宇野自身も神経衰弱を自覚しており、
    二人は東屋で食事を共にし、中央公論新年号への原稿依頼が来ている話をする。
    夜、宇野は横須賀に行く。
 12月13日 芥川、斎藤茂吉にアヘンエキス2週間分の送付を依頼する。
 12月14日頃より芥川、田端に帰り、執筆続ける。 
 12月16日 芥川、宇野との中央公論1月号同時掲載を話題にした「玄鶴山房」
    を完成できず、中央公論1月号(1〜2章のみ)・2月号に分載とする。
 12月 宇野、八重と湯河原を旅行。
 12月20日頃、芥川、鵠沼・東屋に戻る。
 12月31日 芥川、体調崩し、単身で鎌倉小町園に行き静養する。

1927年(昭和2年)
 1月2日 芥川、鎌倉・小町園から引き上げて田端に帰る。 
 1月4日 芥川の義兄の西川豊(次姉ヒサの夫)が、放火と保険金詐欺の嫌疑を
     かけられ取調べを受ける。西川は、6日午後8時に千葉県内で鉄道自殺。
    この頃、芥川、平松麻素子の父親の世話でt帝国ホテルに部屋を取り仕事をする。
 1月19日 芥川、「玄鶴山房」の残りの章を脱稿・完成。
 1月30日 宇野浩二が「玄鶴山房」をほめたことに対し礼状を書く。
 2月12日 鵠沼の旅館東屋にいる親友の小穴隆一に長い留守をわびる手紙を書く。
    (1月20日くらいまでには東屋に帰る予定でいたと書かれている) 
 2月16日 芥川、ヴェロナアルを常用する。
 2月19日 芥川、改造社招待の歌舞伎座観劇に室生犀星と出かける。
    斎藤茂吉、広津和郎らと挨拶。閉演後、里見ク(さとみとん)に連れられて多勢で
    吉原の引手茶屋にゆく。帝国ホテルに宿泊。
 2月27日 芥川、改造社の宣伝講演会参加のため佐藤春夫らと大阪に出発。
 2月27日 芥川、大阪中之島公会堂で講演。谷崎潤一郎宅に佐藤と共に1泊。
 3月1日 芥川、「河童」「蜃気楼」を発表。この日、大阪弁天座で谷崎・佐藤夫妻と共に
    文楽を見る。夜、谷崎を宿に誘い歓談。宿の内儀の紹介で根津松子が訪ねてくる。
    谷崎は2児の母である松子と後に結婚(3番目の妻)する。
     *松子と昭和10年に結婚。「細雪」幸子のモデル。1991年2月1日没。
 3月6日 芥川、大阪より帰る。
 3月 宇野浩二、小説「日曜日あるひは小説の鬼」を雑誌「新潮」に発表。
    (宇野の「文学の鬼」の呼称の由来となる)
 3月中旬 宇野の神経衰弱、次第に強くなる。
 3月28日 芥川、文と多加志を連れて鵠沼に行く。「歯車」の執筆。
 4月2日 芥川、単身で帰京。
 4月6日 芥川、下島勲と室生犀星を訪問。 
 4月16日 芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父親・弁護士平松福三郎で妻・文の
    幼友達)と、仕事場として使っていた帝国ホテルの一室で心中を企てるが
    未遂に終わる(7日説有り)。当日になって麻素子が小穴隆一に打ち明けた
    ことから、家族に知られ、説得されたため。
  *この頃、宇野浩二はしばしば田端に芥川龍之介を訪ねている。
  (芥川は田端435番地に終生の家を、1914年(大正3年)10月に新築)
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(左写真)芥川龍之介の終焉の地 左側一帯が芥川邸跡 戦災ですべて焼失し痕跡はない 古いブロック塀も戦後のもの わずかに山茶花のみが往時を偲ばせている 左写真の道路左奥に玄関となる門戸があり、芥川自筆の「忙中謝客」の札が下げられていた (右写真)芥川邸跡地に建つお宅が、旧表示の住所プレート(芥川邸の住所)を残している <北豊島郡滝野川町字田端四百三十五番地>

1927年(昭和2年)
 4月 斎藤茂吉、養父の紀一が引退、青山脳病院院長を後継する。
 5月2日 芥川の妻・文、也寸志を連れて鵠沼の実家に行く(4日に帰る)。  
 5月5日 芥川、内田百閧フ訪問受ける。
*「芥川龍之介雑記帖」内田百1986年河出書房新社(文庫版)に収録された芥川竜之介の「内田百間氏」から<内田百間氏は夏目先生の門下にして僕の尊敬する先輩なり。文章に長じ、兼ねて志田流の琴に長ず。>
 5月13日夜 芥川、改造社の「現代日本文学全集」の宣伝講演旅行のため
    上野駅から里見クと共に東北・北海道方面に出発。
 5月14日 仙台で講演。
 5月16日夜 青函連絡船で函館到着。以降、20日まで道内で講演続ける。 
 5月21日 青森で最終講演(旧制弘前高校の太宰治が聴衆)。 
 5月22日 芥川、単身、新潟に。 
5月27日 田端の自宅に戻る。
 5月 斎藤茂吉、次男宗吉(北杜夫)が誕生。

 5月30日 宇野浩二、発狂する。芥川、広津和郎と善後策協議する。
 6月2日 広津和郎は宇野の病気を案じ、青山脳病院に斎藤茂吉博士を訪問。
    偶然に玄関で芥川龍之介と出会う。

 以下、広津和郎「あの時代」を参考
前日(6月1日)、広津は大森馬込の自宅に宇野夫人キヌの使いの訪問を受け、「病状悪化」を知らされ、上野桜木町の宇野宅に急行している。広津は「伊香保に行こう」という宇野を誤魔化し、上野駅には向かわずにハイヤーで牛込の新潮社に連れてゆく。宇野は新潮社社屋でアイスクリームやハムエッグ・トーストを持ってくるよう言い放ち、周囲を唖然とさせる。さらに宇野は、改造社に行こうと駄々をこね、改造社からさらに新橋、浅草と転々と広津に同行を求めている。浅草では「芥川も知ってる女がいる」からと小さい待合にあがっている。広津が女将に聞いた話によると「芥川先生も宇野先生も近頃、様子がおかしいと云って、芸者たちもこわがりまして・・・・」。広津は、二人連れ立って来ては女たちも気味わるがるのも無理あるまいと感想を書いている。広津が翌日、ただちに青山脳病院を訪れ、面識のあった斎藤茂吉博士に往診を請い、玄関に出てきた時に丁度、芥川が車で乗り付けてきたのだ。芥川は広津に手を振り「やっぱり宇野か?」。芥川は続ける「今朝宇野を訪ねたんだよ。実に吃驚したよ。・・・」。診察を終えた斎藤博士をハイヤーに乗せ、三人は上野桜木町の宇野宅に向かう。宇野は斎藤博士の診察を素直に受ける。博士が「鎮静剤を上げましょう」というと、芥川が横から「鎮静剤なら僕がいいのをもっている」と愛用のヴェロナールらしきものを出そうとするが、斎藤博士は芥川を無視して白い粉薬を宇野にわたしている。このエピソードの後、芥川と広津は宇野宅から歩いて帰るのだが、芥川は「君は眠れるか」と広津に問い、「僕はいい薬をもっているからあげよう」と自分の薬を広津にもすすめる。翌日から広津は馬込から宇野宅へ連日通っている。宇野宅の玄関をくぐるとそこにはすでに芥川がいた。

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 (左右写真)歌人斎藤茂吉博士が院長を務めた青山脳病院の跡地

 6月 宇野は母キョウ、画家の永瀬義郎らに伴われ、東京駅から静養のため箱根強羅に向かう。小田原で下車するが、宇野が一人で突然姿を消し、永瀬らが探し回る。小田原市内の料理屋の2階の座敷で宇野は発見されるが、床の間にあった花瓶の薔薇の花をむしりとって食べていたのだ。強羅での3日目には、家に帰ると言い張り、数日で帰京することに(強羅に八重は呼ばれている)。(永瀬義郎「宇野浩二回想」より)
この奇行(薔薇の花さへ食つてゐた)は芥川に聞こえることになり、冒頭に引用した「或阿呆の一生」の終章<五十 俘(とりこ)>に描写される。(1927年10月改造に発表)
 6月15日 青山脳病院は全焼(1924年12月)被害を受けていたため、設備の整った病院を斎藤茂吉博士の紹介を受けて、宇野は入院する。斎藤茂吉博士と広津、キヌに伴われ、宇野は滝野川区王子の小峰病院に向かう。ここで宇野は3日後の入院を強く主張し、小峰院長の許可を得てしまう。帰宅を許してしまった広津に対し、翌日、斉藤博士は珍しく強い叱責をしている。宇野は3日後、再び斉藤博士に連れられて小峰病院に入院する。退院は70日後であった。その退院日には、すでに芥川はこの世にはいない。この日、芥川は鎌倉に佐佐木茂索を訪ねる。川端康成の来訪もあり、共に夕食に招かれる。夜、タクシーで鵠沼に泊まる。
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青山脳病院から斎藤茂吉らに付き添われ宇野が入院した「小峰病院」跡(下図参照)  現在の西ヶ原郵便局が入るビル周辺の広い敷地に「小峰病院」が存在していた 戦時中、南側にあった王子脳病院に吸収合併される (右写真)本郷通り向かい側から
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王子脳病院(旧王子精神病院)跡地は現在北区立飛鳥中学校のキャンパスになっている かっての脳病院への正面玄関への通路が残っている

 6月20日 芥川、「或阿呆の一生」を脱稿。
 6月25日 芥川、小穴隆一と浅草の待合「春日」に行き、なじみの芸者・小亀に
      別れを告げる。
 7月1日 芥川、「冬の手紙」「三つの窓」発表。 
 7月15日 芥川、永見徳太郎を電報で田端に呼び寄せ、形見分けのつもりで「河童」
    の原稿を与える。(「芥川龍之介氏と河童」より)
 7月15日 芥川、妻の文と観劇。
 7月21日 芥川、内田百閧フ訪問を受ける。芥川は睡眠薬で半覚醒状態。
    内田百閧ニ小峰病院に入院中だった宇野の留守宅を訪ね、見舞いに行けない
    ことを謝罪し、ネマキと菓子箱を届ける。
    夜、堀辰雄を通じて会見を申し込んでいた佐多稲子と7年ぶりに再会する。
    自殺未遂経験のある佐多に、芥川はその詳細を尋ねている。   
 7月22日 異常な暑さの中、下島医師が来訪し、芥川を診察する。
    小穴隆一が遊びで訪れ、雑談する。
    夜、葛巻義敏(甥)に「今夜死ぬつもりが「続西方の人」が完成しないので
    やめにした」と話す。  
 7月23日 朝9時頃に起床。書斎にこもって「続西方の人」を執筆、深夜に脱稿する。
 7月24日午前2時、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲み込んで自殺。
 7月27日午後3時、谷中斎場で葬儀。
斎藤茂吉は、芥川が自ら処方した睡眠薬を飲み自殺したことに大きな衝撃を受けている。使用した薬品は、ベロナールとジェノアルとする説が一般的である。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百閧ノよれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。

 8月24日 宇野浩二 退院する。

参考
「芥川龍之介 新潮日本文学アルバム」1987年 新潮社
「年表作家読本 芥川龍之介」1992年 河出書房新社
「芥川龍之介雑記帖」内田百1986年河出書房新社 文庫版
「宇野浩二全集第5巻」中央公論社1972年刊
「宇野浩二全集第12巻」中央公論社1972年刊
「水上勉全集16」(宇野浩二伝)中央公論社1977年刊
「追想 芥川龍之介」芥川文 中公文庫1981年
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2013年10月27日

川崎 国内最大規模のハロウィン仮装パレード

三千人が参加する国内最大規模のハロウィン仮装パレードが、JR川崎駅東口の恒例コース(約1.5km)で毎年10月末の日曜日の午後に開催(約2時間)されています。第1回開催は1997年(平成9年)10月。主催は複合商業施設ラ・チッタ・デッラ(チネチッタやクラブチッタなど)を主体としたカワサキ・ハロウィン・プロジェクト(川崎の企業が多数参加)。地元商店街を巻き込んでの振興イベントにいち早く「ハロウィン」を取り入れて成功した一例(10万人規模の見物客動員)です。同時期のディズニーのハロウィン企画も同規模の動員力だと思います。
ハロウィンといえば西麻布のAライフ(閉店)や 新木場のコースト(クラブ・アゲハ)などの大箱クラブがクリスマスイブと並んで最大動員を計算できたイベント。一時期、JR山手線などへの「おぞましい」悪戯が連鎖的に発生していたがそれも沈静化し、健全な明るい商業イベントに発展しています。
 *ハロウィン(halloween)は毎年10月31日の祭り・・商業イベントとしては休日が最適なので勝手に変更してる・・・クリスマスも日曜(イブは土曜)に動かせば? そのハロウィン当日(10月31日)に仮装パレードパレードが行われたのが2009年度。写真は2009年10月31日撮影分です。祭り・各種の公道使用許可イベントについては同意あるものとしてモザイクは不使用です。
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右のマップ(公式配布)が仮装パレードコース・・紫色のラインを時計廻りに行進します
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市役所通りを横断する仮装パレード
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(右写真)個人的判断ですが「おぞましさ」総合1位の仮装(もともとの素顔もかなり・・・)
続きの写真を全て見る
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2013年10月24日

小田原 川崎長太郎 早川観音の文学碑とだるま料理店

川崎長太郎「日没前」より(「抹香町」講談社文芸文庫に収録)
<<夜分は太いローソクの明かりで、原稿用紙へ余念なくペンを走らせ、宿命の如く日の目もみずに生きてきたあぶれ者の心情を吐露するところがあった。何年振りかで人肌恋しく、娼婦のたむろする「抹香町」へ出かけ、ゆきずりな接触を重ねる模様ともなった。物置小屋へ住んで娼婦を買いに行く、軈(やが)て五十歳に近いひとり者の日常をなりふりかまわずあけすけ書き抜く作品は、ものみ高い世間の人眼をひき、私を一寸した流行作家如きに仕上げ・・・・>>
小田原海岸の波打ち際の物置小屋2階で執筆し、時折、抹香町(私娼窟)へ出かけ、早川観音へ日参し、小田原城下で寿司を食べる・・・異才私小説作家・川崎長太郎。
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早川観音(俗称)の傍らに設けられた川崎長太郎文学碑(句碑)(1991年平成3年に5百余人の有志によって建立) <春きたる 海辺のみちで 鳥のまね>と川崎長太郎の句が刻まれている
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また「偽遺書」からの一文も刻まれている<<日に一度は、早川の観音さまに出かけ、おまいりはせず、そこの茶店の縁台に腰をおろし、黄金色の茶をのみ、一文菓子をつまんだ。往復に、ざっと二時間、かけがいのない日課であり、その日その日の色どりだった。>>
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(左写真)早川観音前で似かよった縁台を見かけた・・・右は「川崎長太郎 抹香町 路傍」講談社文芸文庫1997年刊

川崎長太郎 簡略年譜
1901年(明治34年)11月26日 神奈川県足柄下郡小田原町万年3-470番地に生まれる
          家業は箱根温泉の旅館相手の魚商
1917年(大正6年) 県立小田原中学校入学(現・小田原高校)(翌年に退校)
1924年(大正13年) 23才 東京・下戸塚の法栄館に下宿
          徳田秋声・宇野浩二らを識る
1934年(昭和9年) 33才 「道草」刊行 
1935年(昭和10年) 34才 「余熱」ほかの作品で第2回芥川賞候補となる
           本郷に住む
1938年(昭和13年) 37才 小田原・万年町の実家に引き上げる 実家の物置小屋に住む
           近くの遊所(抹香町)に通う
1948年(昭和23年) 47才 「淫売婦」 「偽遺書」発表
1950年(昭和25年) 49才 「捨猫」 「抹香町」 「路傍」など発表
1953年(昭和28年) 52才 「色めくら」 「伊豆の街道」発表、
        この頃 物置小屋に読者の女性の来訪が増える
1954年(昭和29年) 53才 作品集「抹香町」刊行
          小田原・だるま食堂にて出版祝賀会が開催される
1958年(昭和33年) 55才 「消える抹香町」 発表・・・4月 売防法実施される
1985年(昭和60年) 11月6日 肺炎のために小田原市立病院で逝去 享年83才
            墓は静岡県御殿場市の富士霊園にある
  参考 「川崎長太郎 抹香町 路傍」の巻末収録年譜より
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川崎長太郎が通った「だるま料理店」(小田原市本町2丁目) 明治26年に創業、金沢出身の初代・達磨仁三郎の姓にちなみ屋号とした 大正12年の関東大震災で倒壊するが 大正12年に贅(ぜい)を尽くした唐破風入母屋造りの建物を再建した 平成14年に国指定有形文化財に登録される 川崎長太郎が「ちらし寿司」を食べに訪れた当時と同じ建物が現存してます  
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長太郎もおそらく視線を投じた天井を見つめながら彼の好物「ちらし寿司」1160円(2011年現在)を味わう

小田原 川崎長太郎の物置小屋跡http://zassha.seesaa.net/article/387706453.html

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2013年02月24日

湯河原 牧野伯爵宿舎・伊藤屋旅館別舘光風荘(2・26事件)

昭和11年2月26日(水曜)の早暁、決起趣意書を携えた陸軍の青年将校の指揮する千四百数十名の将兵らは、国体破壊の元凶たる元老・重臣・財閥・軍閥・政党・官僚らを「尊皇討奸」の合言葉のもと一斉襲撃、大義を正し国体を擁護せんとして、雪に覆われた帝都中枢部を占拠した。
湯河原の山奥の温泉郷に宿して静養していた牧野伸顕伯爵(前内大臣)を襲撃した河野寿大尉指揮下の部隊7名の行動を憲兵司令部の訊問調書から抜萃する。
まずは事件に先立って、湯河原温泉郷に潜入偵察活動に従事した渋川善助に対する陸軍衛戍刑務所内(現・渋谷区役所敷地を含む一帯)弁護人接見所における訊問から(昭和11年3月6日)。
問 二月二十三日湯ケ原二旅行シタルヤ
答 二月二十三日午後五時半頃ノ汽車テ妻(キヌ)ト共ニ東京駅発湯ケ原へ行キマシタ湯ケ原テハ前カラ牧野  伯カ滞在シテ居ルト云フ話ヲ聞イテ居マシタ駅ヲ降ルト伊東(藤)屋ト云フ宿屋ノ客引カ来マシタカラソ  レト一緒ニ伊東(藤)屋ニ行ツテ泊ルコトニシマシタ
問 二十四日カラ帰京迄ノ行動如何
答 二十四日ハ朝食後妻卜共ニ伊東(藤)屋ヲ出テ一時間余り附近ヲ散歩シマシタ外ハ特ニ申立ツルコトハア  リマセン 二十五日ハ昼食前自分一人テ約三十分程外出シテ菓子、絵葉書等若干買ツテ帰リマシタソレカ  ラ夕食ヲ済マシテ終列車テ夜半道場ニ帰ツテ就寝シマシタ
問 湯ケ原へ旅行シタ目的ハ何力
答 主トシテ保養ノ目的テアリマスカ牧野(牧野伯爵)カ湯ケ原ニ居ルト云フコトヲ聞イテヰマシタノテソレ  ヲ確メル考へナトモアリマシタ
問 牧野ノ居所ヲ如何ニシテ確メタルヤ
答 伊東(藤)屋へ着イテカラ家人二偉イ人力泊ツテ居ルソウタカト尋ネタラ牧野サント徳大寺(実厚)サン  トカ泊ツテ居ルト言ヒマシタノテ牧野ノ居ルコトハ確実ニ解リマシタカ別ニ其ノ行動ヲツケネラツタリ探  ツタリスル様ナコトハ出来マセンテンタ
問 湯ケ原へ写真機ヲ携行シタルヤ
答 妻力写真機ヲ持ツテ行ク様ナ話ヲシテ居リマシタカ アチラへ着イテカラ一回モ使用シタコトカアリマセ  ンノテ持ツテ行ツタノカトウカ確実テハアリマセン
以上、叛乱被告人渋川善助第二回訊問調書より一部分抜萃。

渋川善助は、元陸軍士官学校39期生で退学処分を受けた経歴があり、蹶起に際しては常人(一般民間人)として伊藤屋旅館本館に夫妻で宿泊、偵察情報収集を担った。
指揮者河野大尉の尋問から「湯河原ノ偵察」に関する部分を抜萃。
<<渋川善助ハ二月二十三日村中カラ当時決定シテ居リマシタ襲撃計画ノ大要ヲ聞キ且ツ神奈川県湯河原町ニ滞在中テアル牧野前内大臣ノ所在探知方ノ依頼ヲ受ケマシテ之ヲ承諾シ妻ヲ同伴湯治客ヲ装ヒ同町ニ赴キマシテ牧野伯カ伊藤旅館別館ニ滞在中テアルコトヲ確メ二月二十五日偵察ノ為メ来マシタ河野大尉ト連絡シ又河野大尉ハ渋川カラ牧野前内大臣ノ所在ヲ聞キ該別館附近ノ地理及襲撃警戒等ノ要領ヲ研究シテ一旦帰京シタノテアリマス 二月二十五日午後十時頃(歩兵第一聯隊栗原中隊に)牧野伯襲撃担任ノ常人七名力到着シタ為メ其内四名ニ軍服ヲ着セ全員ヲ河野大尉ニ紹介シテ牧野伸顕襲撃部隊ヲ編成シ之ニ兵器弾薬ヲ交付シテ予テ雇ヒ入レテアツタ自動車テ二十六日午前零時三十分頃湯河原二出発サセタノテアリマス >>
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(左写真)正面右側坂上が伊藤屋旅館別舘光風荘。 (右写真)同位置から振り返ると伊藤屋旅館本館が見える。下の道路に車両2台を停めて、襲撃部隊は光風荘前に展開した。

牧野前内大臣襲撃指揮者河野大尉への憲兵隊尋問調書から。
<<(二月二十六日)襲撃者(河野大尉ノ指揮スル現役下士官二名、在郷軍人四、常人一及軽機関銃二銃)自動車二台ニ分乗シ午前零時四十分歩一ヲ出発致シマシタ河野大尉ノ指揮スル牧野襲撃部隊ハ一路湯河原ニ向ツタノテアリマスカ途中河野ハ一同ニ対シ伊藤旅館別館ノ要図ヲ示シテ襲撃上ノ注意ヲ与へ且ツ運転手二名ニ対シテモ計画ヲ打チ明ケ拳銃ヲ突キ付ケ威赫シテ運転ヲ強制シ午前五時頃湯河原二到着シタノテアリマス ソウシテ伊藤旅館別館カラ二百米許リ離レタ所テ下車シテ一先ツ勢揃ヒヲシ別館ノ周囲ニ軽機ヲ据へテ四名ヲ配置シ外部ニ対スル警戒ヲ命シ河野ハ一人ヲ率ヰ勝手口カラ又他ノ二名ヲシテ玄関カラ屋内ニ闖入セシメ伯爵ノ居室ニ行カウトシタノテアリマスカ護衛ノ皆川(義孝)巡査ヨリ拳銃射撃ヲ受ケ負傷シタノテ之ヲ射殺シ一旦外ニ出テ拳銃ヤ軽機テ屋内ニ向ケ乱射ヲ行ヒ尚玄関附近ニ炭俵ヲ立テ掛ケ之ニ火ヲ放チ同家ヲ焼キ払ヒ牧野伯ハ焼死シタモノト思ツテ引揚ケタノテアリマスカ、此ノ間牧野伯ハ身ヲ以テ避難セラレタノテアリマス>>
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(左写真)光風荘正面。説明板・内部公開の案内板などが立ち並んでいる。(右写真)左側通路の奥が玄関。ここに炭俵を立掛けて放火、光風荘は焼け落ちる。

カタカナ文の憲兵隊の尋問調書に補足説明を加えると、
1936年(昭和11年)
2月26日(水曜)
 午前0時40分 所沢飛行学校の飛行12連隊附・河野寿大尉指揮の湯河原班が車両2台に分乗し、歩兵第一聯隊営門(旧萩藩下屋敷・元防衛庁・現東京ミッドタウン)を出発。途中、根府川駅(神奈川県)近辺で休憩。そこより10分程の行程の人家の無い場所で再停車し、総員に計画・命令を伝達。
午前4時過ぎ、湯河原に到着。宮下の西方で消燈・停車待機する。
午前5時 栗原隊が首相官邸を襲撃開始。各蹶起部隊も一斉に分担目標を襲撃開始。
午前5時15分 伊藤屋本館目指し行動開始。
湯河原班 伊藤屋本館前で2台の車を下車し、徒歩にて別舘光風荘手前の橋を渡る。
軽機関銃2(実包約1000発)・小銃1を別荘周辺に配して逃走に備える。
午前5時30分 河野大尉ら6名(日本刀のみの2名含む)が光風荘内に侵入(勝手口から)、警備の巡査の発砲により河野大尉・他1名が負傷。突入部隊は巡査1名(警視庁護衛課・皆川巡査)を射殺。他の護衛巡査と銃撃戦を展開。河野大尉は放火命令を下し、光風荘は全焼する。
午前6時30分頃 牧野伸顕伯爵は焼死したと判断し、引き上げ命令。
午前6時50分 2台の自動車に分乗し、湯河原から東京に向うも途中での警官との衝突を恐れ、熱海分院方向に転進。牧野伸顕伯爵は負傷するも地元消防団に救出される(伯爵付きの森看護婦は銃創を負う)(消防団長の岩本亀三も銃創)。
午前7時20分 湯河原班が東京第一衛戍病院熱海分院に到着。三島憲兵分隊により拘束される。  
午前7時20分頃までに全蹶起部隊が目標の襲撃完了。
午後3時20分 「陸軍大臣ヨリ」告示。同30分に決起将校に「陸軍大臣ヨリ」伝達。
午後4時 蹶起部隊は歩3連隊長指揮下に入り、占拠地の警備任務の命令受ける。
2月27日
午後3時30分 勅令により帝都に戒厳令公布。 
3月5日
午後3時30分頃 東京第一衛戍病院熱海分院に負傷入院中の河野寿大尉が果物ナイフで割腹自決をはかる。 
3月6日
河野寿大尉死亡。
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(左写真)「光風荘」は週末(土・日・祝日)のみ10時〜15時まで一般公開され、事件関連の写真・遺品・散布ビラなどを展示している。(右写真)現場見取り図。
参考 「二・二六事件研究資料U・V」松本清張・藤井康栄編1986年文藝春秋刊
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html
「青山 第1師団司令部・師団軍法会議と相沢中佐(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343499701.html
「渋谷 東京陸軍軍法会議臨時法廷・陸軍刑務所(衛戍監獄)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343700967.html
「六本木 歩兵第1聯隊(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343813659.html
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
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2013年01月15日

藤沢 大島渚監督 逝去

本日(2013年1月15日)、午後3時25分藤沢市内の病院で肺炎により映画監督・大島渚氏が逝去されました(80歳)。当ブログの管理人が最も敬愛する映画人であり、また多大な影響を受け人生の道標をも示して頂いた人物でした。過去1度だけ新宿で(同じ店で)プライベートの場でお会いしたことがあります。ご冥福を祈ると共に感謝の気持ちをここに表します。
1959年「愛と希望の街」で本篇監督デビュー、以後、日本映画史に残る革新の波をもたらしました。「青春残酷物語」・「太陽の墓場」・「白昼の通り魔」・「忍者武芸帳」・「日本春歌考」・「絞死刑」・「新宿泥棒日記」・「愛のコリーダ」・「戦場のメリークリスマス」・・・脳裏に各々のシーンが次々と浮かびあがってきます。1度だけでなくさらにお会いしてるかも・・新宿の「ゴールデンゲート」でかな?・・・。
大島氏の創造社メンバーである俳優・渡辺文雄氏とはテレビ番組ロケで一緒させてもらい食事の席で周辺の話はよく伺っていました・・何を聞いたのかとっくに忘失してるけど。
鎌倉の聖テレジア病院で奥さん(女優・小山明子さん)の介助を受けリハビリに励む姿をテレビ映像で見ましたが・・・その後は情報がないままでいた・・・さらなる作品を望んでいたのに。

大島氏の住まいは小田急江ノ島線・鵠沼海岸駅が最寄り駅で、駅北方数百mほどの閑静な住宅街(藤沢市鵠沼松が丘4ーxx−x)にご自宅を構えております。
線路の反対側の近所といってよい距離に住まわれいるもう一人の映画監督(大ヒットした映画「相棒」シリーズの監督)、遠い昔は遊び仲間(先輩)で・・小田急線東北沢駅近くのオーストラリア人の女らが暮らすアパートに連れられて行き泊まり込み・・・なんか笛を吹いてXXXしたのを思い出してしまった。あきXXちゃん(本名)にも会いたくなってきた・・奥さんは小田急車内でつり革にぶら下がって遊んでいたあの女性だよね?(結婚式の招待状いただいたが海外ロケが重なり欠席・・たしか京王プラザホテルだった?)
大島氏の「日本春歌考」の影響で、入った大学は雪のロケシーンが印象的だったその大学(講堂の壇上に小山明子が寝そべっていた)。出演していた立教大の学生だったi氏にもその後お会いできた・・・主演女優の方の舞台も見に行ったし(西麻布だったか?)・・様々な過去が次々と思い浮かんでくる。
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写真は最寄駅の鵠沼海岸駅 (右写真)大島邸のわりと近所の鵠沼松が丘公園(東京帝大教授の別荘地跡) この鵠沼海岸駅の海側には旅館「東屋」跡があり芥川龍之介・谷崎潤一郎らの滞在で有名なスポット

 最新情報は(株)大島渚プロダクション http://www.oshima-pro.jp/
        東京都港区赤坂7-6-9 赤坂ONビル201
   告別式の日時等はこのHPで発表されます。

*1月16日になり藤沢の自宅前の狭い路地に取材・インタビューのため報道陣が集結・・・住所の枝番は迷惑がかからぬよう伏字に修正しました。

*1月16日に葬儀・告別式の日時が大島渚プロダクションより発表されました。
     1月22日(火曜)築地本願寺 午前11時〜午後2時
          喪主 大島明子
          葬儀委員長 崔洋一(映画監督)

*2月1日〜3月31日の期間で、鎌倉市の川喜多映画記念館において企画展「監督大島渚&女優小山明子」が開催されます。http://www.kamakura-kawakita.org/ 開催2日目の2月2日(土曜)の午後2時〜「小山明子さん講演会&サイン会」がきまってます。詳細はHPでチェック。
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旧川喜多邸の傾いた外塀が好きだったのですが、2010年4月1日に大規模工事も終わり新装なった「川喜多映画記念館」がオープン。展示スペースは広くはないですが映画ファンなら(特に大島ファンは)この機会に1度は訪問する価値大です・・・大島作品の上映も企画されてますので、JR鎌倉駅から小町通りを散策しながら訪れてみては。小町通りが八幡宮に達するわずかの手前で左折・・・記念館は前方右側すぐ。


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2013年01月10日

川崎 若宮八幡宮・金山神社かなまら祭

●注意 「かなまら祭」は日本が世界に誇る(!)奇祭。判り易くいえば男根(魔羅=まら)祭りで、祭当日の神社周辺は、巨大「ちんぽこ」から実物大「ちんぽこ」、かちかちの鉄製「ちんぽこ」まで、「ちんぽこ」で溢れかえる。放送コードに引っかかるため、NHK始め民放各局、マスメディアは自主規制し、無視をきめこんでいる。知る人ぞ知るというのが、この神事の現状。海外の一部メディアが毎年のように取材チームを送り込んでおり、そのためか見物客は外国人の比率が高い。
やたら「ちんぽこ」「ちんぽこ」と、なんて下品なんでしょうと拒否反応を示す方は、ここまででストップ。
以下、さらに「ちんぽこ」だらけになる。


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若宮八幡宮の境内社・金山神社の例大祭が「かなまら祭」。祭神は、金山比古神と金山比売神=鍛冶の神で、商売繁盛・夫婦和合・子孫繁栄・縁結などの願掛けに霊験があるとされ、境内のあちこちに男根(金物が多い)が奉納されている。「かなまら祭」は、毎年4月の第1日曜に開催され、午前10時〜16時の間に様々な祭事が執り行われる。
去る東北大震災の直後においても境内外での祭事を控える形で対応し、中止にはならなかった。本年2013年は4月7日(日曜)に開催される予定。
金山神社は、京急大師線の川崎大師駅で下車して、駅前ロータリーを右方向に100mほどの所。午前10時くらいから周辺には見物客が増えはじめ活気づいてくる。
境内は異様なまでに「ちんぽこ」への一体感に包まれ、誰しも表情は自然と崩れ、ニンマリ、笑顔、笑顔、若い女達は、「ちんぽこ」を握り、抱きしめ、上気した顔で記念撮影をしたり、開放感に包まれている。
人気の「ちんぽこ」キャンディをなめたり、くわえたりしながらお参りするのが定番。金床にくっついた鉄の「ちんぽこ」に騎乗位でまたがり「入れ」ようとする女が続出。時間を忘れるお祭りなのだ。
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(左写真)町内巡幸から戻り、鳥居をくぐる「かなまら舟神輿」。 (右写真)ピンクの巨大張形、その名も「エリザベス神輿」。
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(左右写真)「かなまら大神輿」。浅草橋に本店を置く女装クラブ「エリザベス会館」から贈られた「エリザベス神輿」。担ぎ手は、目が悪い人には綺麗に見える女装した皆さん。
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(左写真)「かなまら大神輿」。小さい「ちんぽこ」が鎮座している側が正面。  (右写真)「かなまら舟神輿」。
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(左写真)神輿の台(脚部)に描かれた絵だが、体位がノーマルすぎて面白くない。(右写真)でかすぎて大変そう、女に嫌がられるだろうと同情する。
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(左右写真)外国人グループが目立つ。横須賀等の米軍基地から繰り出してくるようだ。「ちんぽこ」キャンディをぺろぺろしているだけでなく、プレゼント用にまとめ買いしている女がかなりいる。
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 外国人女性のほうが以外とおしとやか。日本の女は、咥えるマネではなく、実際になめながら記念写真を撮っている。
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「やっぱ太い方がいいよね」「でもカリがデカすぎない?」「え〜カリがデカくないとよくないじゃん」  「ん〜どっちもいいな」
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小さいお友達も喜んでキャッキャッしてるけど・・・大丈夫?
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 巨大木製「ちんぽこ」の周囲は女がぎっしり(オカマも含む)。またがるのに順番待ちの行列。
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  説明は上と同じ。
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土産物売り場。置き場所を考えてしまう「ちんぽこ」。やはり床の間に飾るのがベストか。
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説明は上と同じ。説明が面倒になってきた。
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めっちゃかわいい子が何度も握りしめては固さを確かめていた(ちがうな、太さのチェックだな)。
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正式名称はチンコキャンディというそうだ。1本600円って、けっこう強気の高額設定だが飛ぶように売れてゆく。マンコキャンディも売っていて、売場には「チン・マン」入りダンボールがうず高く積み重ねられている。
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(左写真)チンコキャンディ売り場は大人気で千円札をにぎりしめた女らでぎっしり。(右写真)女が群がっているのはチンコキャンディをちっちゃくしたチョコチンコ。
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(左写真)チンコを持った女に、(私の)マンコをつっつかれているところ。「深くいれないでね」と痛がったらメッチャぐりぐりされた。 (右写真)ヘンテコなオブジェを理解しようと頑張ってる女。スタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ 」にこれが使用されていた。
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(左写真)夫婦和合・子孫繁栄の願掛けに訪れた方々の子宝祈願の絵馬。(右写真)巫女さんは美形の学生バイト(?)。黒色「ちんぽこ」の真ん前でお札を授与中。
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(左写真)画面右端に外国放送局の女性リポーターがいる。スペイン語で「チンコ」を連呼している(ように聞こえる)。(右写真)お囃子も付いて普通の祭りと変わりないのだが・・・。
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以下は、美形の学生バイト(?)の巫女さんがいる真ん前の黒光りする「ちんぽこ」。境内でトップ人気の記念撮影スポット。
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やっぱり「ちんぽこ」はカリが命。いとおしそうにカリをさする女が次々と・・・右写真の女はイッチャてます。
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鍛冶に使う金床に「ちんぽこ」がついている。これを見たら女は自然とまたがるのか。いれようとする女、ピストンする女、この白Tの女は知り合いではありません。
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2009年度かなまら祭のワースト・カップル。前後で2穴同時挿入にチャレンジ。   

*「エリザベス会館」は、JR浅草橋駅北口(秋葉原よりの出口)近くに店舗があり、マニアの支持を集め続けている女装クラブです。
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(左写真)浅草橋のエリザベス会館本店。  (右写真)新大久保・百人町の支店(地下)。2011年初頭に閉店している。
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2011年10月08日

小田原 小田原城落城 北条氏政・氏照の墓 小瀬甫庵「太閤記」より

天正18年(1590年)7月、秀吉軍包囲下の小田原城(第六代当主北条氏直)は落城する。
小瀬甫庵「太閤記」巻十二に降伏の模様が書き残されている。

「氏政氏照兄弟切腹之事」より抜粋。
<<哀乎痛乎(あはれなるかな、いたましきかな)。盛者必衰之習(ならい)、昨日七日までは数万騎之主として有しが、今日は引かへ七月八日(*北条記など九日とするものが多い)医師安清軒が宅(*安斎小路に住居、現在の南町)に移り、浮世之日数迫り来て、時を待(まつ)有さま物に越て哀なり。関白殿仰けるは、今度是(これ)まで数十万騎寄(よせ)来りしも、北条家を可打果(うちはたすべき)ためにて有ぞかし。然るに氏政以下悉(ことごと)く助なば、兼ての言葉も空しきに似たり。氏政氏照には切腹させ、氏直兄弟(*1)は可相助旨家康卿へ御相談ましませば、尤(もっとも)宜(よろ)しき御事に奉存由に付(つき)て、検使(けんし)をぞ定(さだめ)られける。(略)>>
 (*1)7月5日付の北条氏直宛の秀吉朱印状には、「親候氏政(*第五代領主左京太夫氏政)并(ならび)陸奥守(*氏政弟の氏照)、大道寺(*駿河守政繁)、松田(*尾張守憲秀、大道寺と松田は北条家老臣)四人諸行ニテ表裏之段、聞合被居候条、両四人腹ヲ切ラセ」とある。
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(写真)北条氏の氏寺伝心庵跡地に再整備された墓域。五輪塔に附けた名称は全て(伝)である。

また「北条記」巻第六によれば、切腹の介錯は、北条美濃守氏規(うじのり*氏政の弟、韮山城主として10倍以上の秀吉軍と抗戦)と書かれ、「御首を討て落し、即ち自害に及ぶ処に、井伊兵部(*直政)走り寄り抱きとりて助け申。」と田村安清軒宅での粛清の模様を伝えている。自害を止められた氏規は、その後北条氏直に伴って高野山に蟄居させられるが、翌年(天正19年)秀吉に許されている。
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(写真)北条氏政・氏照が切腹した平らな生涯石。医師田村安清軒の旧地より運んだものなのだろうか。
これも(伝)にしておこう。

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(写真)北条氏政・氏照の戒名が刻られた笠塔婆墓碑。撮影は2010年5月。

「太閤さま軍記のうち」(太田牛一著*「信長公記」著者)には、両四人切腹以外に笠原新六郎の名が連なっている。
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2011年01月10日

横須賀 映画館 金星劇場(成人映画専門)

*2012年8月末日閉館
京急横須賀中央駅から駅前通りを直進し、千日通りを左に曲がるとレトロな映画館が出現する。
成人映画(ピンク3本立)専門館で名は金星(きんせい)劇場。地元ではキンボシと呼ぶ人もいる。
神奈川県横須賀市若松町1-9 早朝割引有り
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夜でもトレードマークの金星は暉くことなく・・朽ち果てるように閉館。撮影2010年12月(携帯)。
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                  閉館後、建物は解体更地に。
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2010年09月15日

茅ヶ崎 稲村ジェーンとアンデルセン

茅ヶ崎・菱沼海岸のラブホテル「アンデルセン」が閉鎖されました。
ラブホテル1軒無くなってもどうでもいいのですが、サザンデビューの頃よりのファンには
おなじみのホテルで問題はありませんが、新しい若い世代のファンには何のことやら意味不明
になると思われます。
アルバム「稲村ジェーン」の「忘れられたBIGWAVE」が終わると曲の間にせりふ・・・・
映画終わったらさ、よってくか・・どこに?・・どこにって・・ほら・・ねぇ近いの、遠いいの?
・・近いの・・だからアンデルセン・・馬鹿・・・・このアンデルセンのことなのです。
アンデルセンのカフェでパンとコーヒーじゃなくて上記のラブホのことなのですが、隣りの
パシフィックホテルと同様に、すでに地図からも消滅しています。
東から西に順に「アンデルセン」「パシフィックホテル」「第一中学」と並んでいました。
解体と聞いて行ってみたらもう更地、写真撮ってなかったのです。残っているのは部屋でいたずらに
撮られた自分の写真1枚だけ。アップできない・・ヌードだし・・自分の場合、全身がワイセツ物だし。
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 134号から茅ヶ崎ゴルフのクラブハウスに向かう道      クラブハウスの先の角を右折
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  電柱の先5〜6mの所にアンデルセンの入口   手前の空地に南欧風2階建てのアンデルセン

アルバム「稲村ジェーン」リリースの頃は左右とも真っ暗で奥にアンデルセンのネオンが輝いていました。
かなり人家が増えてきて、現在は住宅地に変わってきています。
ラブホというよりモーテル形式で、独立した部屋ではなく長屋風の連棟の造りでした。
それぞれの1階部分が車庫で脇に2階への急な階段がついていました。

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2010年08月31日

大磯 新島襄終焉の地(旅館百足屋跡)

1889(明治22)年11月28日、大学設立の募金活動中の前橋で新島襄は腹部の激痛に襲われ、徳富蘇峰の薦めもあり、ここ大磯の東海道に面した百足屋旅館にて静養の日々を送ることになる。翌年の正月を百足屋旅館の離れ座敷で迎えるのだが、明治21年の夏に妻・八重は医師より夫が不治の病に冒されていると告げられている。この間の看病の逸話を八重は「亡愛夫襄の発病覚」に残している。この大磯での静養中に八重は重ねて看病を願い出るが、襄は病気がちな老母の看病こそが大事と配慮の言葉を八重に返している。
1月17日になり、襄の容態は急変する。20日午後11時頃に八重が駆けつけた時にはすでに危篤状態に陥っていた。死を覚った新島は徳富蘇峰に遺言を筆記させる。同志社のための十ヵ条と門下、友人らにあてた30通に及ぶ遺書。八重に対する最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」。1月23日、47歳の生涯を終える。
翌日、同志社の全校生徒と職員が迎えるなか新島の遺体は京都駅に着く。一旦、自宅に運ばれ、26日に同志社チャペルで追悼会、27日に4千人を越える参列者のもと告別式。実父の眠る南禅寺の塔頭・天授庵(横井小楠の墓が有名)に埋葬する予定でいたのだが南禅寺側は突如、キリスト教による葬儀は禁止の旨を通告。従うわけにはゆかず急遽、市の共葬墓地である若王子墓地(南禅寺の並びの永観堂禅林寺の裏山付近)に変更し埋葬することになったのです。
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正面の三角地が百足屋旅館跡で「新島襄終焉之地」石碑が建つ 左が東海道旧道・右は国道1号 (右写真)百足屋の敷地だった国道側から
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昭和15年10月に百足屋の旧地に徳富蘇峰の筆による石碑建立 「年」の文字に・・・納得
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(右写真)説明板に新島襄の略歴と百足屋の外観
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(左写真)石碑の位置から国道1号  この付近一帯は東海道・大磯宿の南組問屋場跡で井上蒲鉾店(駐車場が広くて良い)や真壁豆腐店、菓子の新杵など老舗が集まっていて立ち寄る価値大・・・管理人は以前、旧百足屋前の信号を曲がり「大磯港の岸壁釣り」(子供の遊びレベル)に数回訪れたことがあるのですが近年、港が整備され入りにくくなったようです(以前は堤防近くに駐車できて1日中楽しめた)

 *参考 「山本覚馬伝 闇はわれを阻まず」鈴木由紀子1998年刊
     同志社大学HP http://www.doshisha.ac.jp/
     同志社墓地 http://www.doshisha.ac.jp/information/history/neesima/graveyard.html

 
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2009年12月18日

横須賀 京急大津 信楽寺 お龍の墓

坂本龍馬の妻お龍の明治維新以降の略歴。
お龍は、明治8年7月2日三浦郡豊島村深田222番地(横須賀米が浜通)の西村松兵衛と再婚、入籍する。入籍時に「西野ツル」と改名している。晩年、在横須賀の退職海軍軍人・工藤外太郎の庇護を受け余命を送っている。明治39年1月15日午後11時に永眠。67歳。遺骨は信楽寺の好意で同寺の墓地に葬られる。
 浄土宗 信楽寺(しんぎょうじ) 横須賀市大津3−29−1

横須賀市の除籍簿写には 嘉永3年(1850)6月6日生まれと記載されているが、信楽寺の墓碑には明治39年(1906)1月15日没と刻印されている。享年66歳。逆算すると天保12(1841)生まれになり、除籍簿写とは9歳の差がでてしまう。龍馬が、慶応2年(1866)12月4日に姉乙女へ送った書簡で、お龍を紹介する文面には「今26歳」とあり、天保12(1841)生まれが正しいようだ。
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 信楽寺山門
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 信楽寺本堂

楢崎龍。天保12(1841)京都府下京区柳馬場生まれ。 
町医師(漢方医)楢崎将作の長女。母は近江八日市重野庄兵衛の娘お貞。楢崎将作には、5人の子(娘3人男2人)がいた。長女龍、次女光枝(7歳下)、三女起美(キミ)(11歳下で墓は南麻布光林寺)、長男太一郎(16歳下・大正14年9月死去69歳)、次男健吉(18歳下)。
父楢崎将作は安政の大獄に連座し捕縛される。その後、病死。楢崎家は柱を失い、離散する。妹2人は大阪と島原に売られるが、お龍は取り戻しに走った逸話が残っている。
お龍の父親の死から2年後の元治元年(1864)に、龍馬は現在の三十三間堂の南門前・本瓦町付近で河原屋五兵衛の隠居所を借り、中岡慎太郎・菅野覚兵衛らと隠れ住んでいる(正確な位置は不明)。ここに出入りしていた米商・菊の紹介で、お龍の実母お貞は、四条木屋町の借家(正確な位置不明=京都龍馬会により同本部前に石柱が建つ)から留守番と賄いを兼ねて、娘起美を連れ移り住んでくる。木屋町の借家に残ったお龍も、七条新地の旅館扇岩に手伝い女中として住み込む。龍馬とお龍の運命の接点がここに生まれたのだ。元治元年5月頃、お龍23歳のことであった。

お龍が幕末の歴史に名を残すのは、慶応2年(1866)1月23日の寺田屋事件で、26歳の時のことだ。二日前の1月21日に、京都薩摩藩邸で龍馬同席のもとに薩長同盟が成立した。龍馬らを探索した幕府方は、ただちに伏見奉行所に下命し、捕方100名余を伏見の船宿寺田屋に遣わして、龍馬・三吉慎蔵の両名を包囲急襲する。お龍は、寺田屋一階北奥の風呂場で入浴中で、その肩先に槍の穂先が突き出され、気丈に誰何(すいか)するも捕らえられ、客の名を問いただされる。出鱈目の名を告げて釈放されると、袷(あわせ)1枚を引っ掛けて勝手(風呂場隣)より、龍馬の部屋に駆けつけ、敵が槍を持ち梯段を上ってくると襲来を知らせる。この知らせで竜馬・慎蔵は応戦準備に取り掛かる余裕ができ、不意打ちをまぬがれたのだ。龍馬は長刀と高杉晋作より贈られた六連砲(ピストル)を手にとり、慎蔵は襷(たすき)をかけ得意の槍を構えた。龍馬は、6発全弾発射している(内5発が捕方に命中)。だが、龍馬は捕方の刃を銃で受け止めた際、指を負傷。右手の親指と人指指の間に受けた深傷は、動脈を切断し、数日出血が止まらなかったと伝わる。お龍、慎蔵の相次ぐ伏見薩摩屋敷への急報(それぞれ別に走っている)により、吉井幸輔ら薩摩藩士60余名が救出に駆けつけ、龍馬は夜のうちに薩摩屋敷内に運び込まれ、潜伏する。その後、西郷らの勧めで薩摩屋敷から京を離脱し、鹿児島に療養(右手負傷)の旅に出発する。日本初の新婚旅行といわれる船旅(薩摩の蒸気船三国丸)であった。慶応2年(1866)3月10日、鹿児島港着。3月17日に霧島に10泊以上の温泉巡りの旅に出発する(現地から土佐在住の姉宛の手紙が有名。高知県立坂本龍馬記念館でその霧島の図絵入り手紙を見たが、独特の下左に曲がり流れる癖も確認できた=あの展示の手紙はレプリカだった?)。

慶応3年(1867)11月15日夜、四条河原町近江屋井口新助方の2階で、京都見廻組与力・佐々木只三郎の配下7名の急襲をうけ、龍馬・中岡慎太郎両名は斬殺される。龍馬33歳。この時、お龍は妹の起美と共に、下関・伊藤家に預けられていた。
お龍は、慶応4年(1868)4月より、龍馬の実家土佐の坂本家で乙女の口添えもあり暮すことになるが、ほどなくして、明治2年には京伏見の寺田屋(鳥羽伏見の戦いで全焼)を頼り、龍馬の眠る東山霊山近くで借家住まいをしている。さらに明治6年、妹の起美の嫁ぎ先の菅野覚兵衛(海援隊隊士)を頼り、寄寓(東京の築地)する。ここで再婚する西村という商人と出会ったのだ。起美は16歳で龍馬のとりなしで覚兵衛に嫁ぎ、昭和9年9月に神奈川県大磯で83歳で亡くなっている。
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 信楽寺本堂の左手奥のお龍の墓
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               墓石台に刻まれている坂本家の桔梗紋
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井桜直美氏所蔵の「伝・おりょう」門前の説明版から まるで日差しを気にもしない山登りや女中仕事に汗した女には見えない 三業地にいる女の姿だ

信楽寺門前の説明版にある写真は、裏面に「たつ」と記入がある井桜直美氏所蔵の浅草・内田九一堂写真館(明治8年まで営業)で撮られた腰掛ポーズの1枚だ。同じ写真スタジオで撮られた立ちポーズのもの(「お竜」と鉛筆で記入)が龍馬暗殺の現場近江屋井口家の所蔵で残されている。「伝・おりょう」とあるように本人だと確定された写真ではない。お龍は、明治6年後半の33歳の時に、京都から東京に転居しているので、浅草の内田九一堂はまだ存在しており営業していた。写真スタジオに出掛けた可能性を否定できない。晩年の写真とは比べようもないほどの美人なので、本人であってほしいという願望が多いのだろう。明治37年12月15日の「東京二六新聞」にのった記事「阪本龍馬未亡人龍子」にある64歳の老境の写真(横浜日本新聞博物館所蔵)が唯一の本人自らが名乗って残した写真なのだ。その写真と同じ表情の集合写真が、横浜で働いた料亭・田中家に所蔵されている。
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京急大津駅 浦賀方向最前部に改札 奥の踏切を渡る
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信楽寺への曲がり角にある目印看板 信楽寺への途中にある「ローゼンベッカー」
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*お龍に関する各項目はそれぞれ別個に作成予定
平成17年、再婚先の西村家の子孫が、京都右京区寿寧院(嵐山)に父楢崎将作とお龍の永代供養塔を建立している。

参考
「史料が語る 坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる 新人物往来社刊2007年発行
料亭・田中家の「おりょう」 http://zassha.seesaa.net/article/380154207.html
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2009年12月12日

相模大野 陸軍通信学校跡(現・相模女子大学)

神奈川県相模原市の南部、小田急線相模大野駅を最寄り駅とする私立相模女子大学の敷地には
かって陸軍通信学校の校舎・兵舎が立ち並んでいた。

昭和12年8月より地主らとの買収交渉開始
昭和13年4月1日 通信学校駅 新駅として営業開始=現相模大野駅 まだ通信学校は山林状態 
昭和13年7月9日 地鎮祭 大野村谷口の7万5千坪の敷地
昭和14年5月20日 陸軍通信学校転営式 

大正14年に杉並区馬橋に創設された陸軍通信学校は、終戦までこの地で通信に関する学理・技術の教育を行ってゆく。尉官=甲種(10ヶ月間)、下士官=乙種(6ヶ月間)の各々の就学期間であった。
今では知る人も少なくなった伝書鳩の技術も教えていた。伝書鳩とは言わずに軍用鳩という名称で。

終戦後の昭和21年2月に、大塚の校舎を戦災で焼失した相模女子大学の前身・帝国女子専門学校が、
通信学校跡地を移転候補地に決定している。
昭和21年4月2日に、共立女子学園の間借り校舎より晴れて自前の校舎に全面移転が完了している。
校舎は荒地の中に陸軍通信学校の2階建て木造建物が残っており、昭和50年くらいまでに順次
鉄筋コンクリート校舎に建て替えていった。昭和53年の空撮写真を見るとほとんど新校舎ばかりに
見える。面白いのは旧通信学校の建物の配置や東西の向きがほぼ同じなのです。
陸軍通信学校の校域範囲は相模女子大の敷地よりも広く、市立谷口台小学校・県立相模台工業高校
・市営住宅などの区域をも含む広大なものであった。

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    陸軍通信学校正門と同じ位置の相模女子大正門
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  正門はいったすぐのマンホール蓋の陸軍☆マーク
続きの写真を見る Article of the continuance
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