2018年10月23日

渋谷 第10回渋谷ファッションウイーク・SHIBUYA RUNWAY

Amazon Fashion Week Tokyoと連動し、西武渋谷店・東急百貨店・SHIBUYA109など渋谷を代表する大型店が合同で開催したファッションキャンペーン<第10回渋谷ファッションウイーク>(10月11日〜21日)。その最終日に開催されたSHIBUYA RUNWAY(路上ファッションショー)。文化村通りに敷き詰められたレッドカーペットをプロのモデルらに続き元E-girlsメンバーのDream Amiがアンバサダーとして練り歩いた。
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2018年10月20日

表参道 イッセイ・ミヤケ<FACE>展

表参道GYRE(ジャイル)3FのEYE OF GYREでイッセイ ミヤケ(三宅一生)のバッグブランドBAO BAO ISSEY MIYAKEのポップアップイベント<FACE>が開催されている。
期間は2018年10月18日〜10月31日。
今回の企画は、平面(素材パーツ)が立体化される過程で、三角のパーツの幾何学的組み合わせに色違いの円形・楕円形を組み込み意識的にFACEのような形状を導きだそうと取り組んだもの。光の反射・屈折により生み出される表情の変化が商品化されている。詳しくは<FACE>のコンセプトボード(最下段の写真)を参照してください。
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2018年09月13日

渋谷 渋谷ストリームshibuya streamオープン

東急が開発を進めていた大規模複合商業施設<渋谷ストリームshibuya stream>が2018年9月13日(木曜)午前11時に開業する。低層階には30店舗が入居し飲食店中心の商業ゾーンとなる。 
ビル直下の渋谷川に架かる稲荷橋の橋名となった田中稲荷はとうの昔に消え失せ、稲荷橋下の川底をJK4人が水しぶきをあげながら歩いた映画「ラブ&ポップ」(原作・村上龍)のラストタイトルロールの風景も失われた。最近では欅坂46「サイレントマジョリティー」のジャケット撮影(川底)がおこなわれた現場の一部ももう見ることができない。誰の記憶からも消え失せた忠犬ハチ公が行倒れた場所がこの<渋谷ストリーム>(地上35階・約180m)のビル敷地内にかってあった路地であったことを誰が語り継ぐのだろうか。また稲荷橋南際に新しく広場橋(明治通りから渋谷ストリームへの動線)が架けられたが、同様の橋が戦前にも存在し、なんと橋上に5〜6軒の家屋まで建っていた(作家・大岡昇平のイラスト参照)ことを知る人は皆無だろう。大資本によって激しく変容する都市に記憶の破片をいくら撒き散らかしてもたちまち抹消されて忘れ去られてゆく。
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国道246号(手前)からみた渋谷ストリーム(工事中)。
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奥がJR渋谷駅と稲荷橋。稲荷橋のすぐ下流側に明治通りからの動線とイベント広場を兼ねる橋が架けられた。渋谷川沿いと東横線旧線路跡には遊歩道が整備される。9月上旬に撮影。
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渋谷ストリーム9月13日開業。
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かっての東横線渋谷駅ホーム跡。線路がモニュメントとして敷設されている。
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東横線渋谷駅ホーム跡。ホームを覆うかまぼこ型屋根もモニュメントとして新たに建設された。
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稲荷橋のひとつ下流側の橋となる金王橋から。この川底で欅坂46「サイレントマジョリティー」のジャケット撮影がおこなわれている。同曲のミュージックビデオの撮影は左側の渋谷ストリームビル建設現場で夜間に行われた。ラストの坂道シーンは渋谷ストリームの西側にあたる桜丘町の桜並木の急坂で早朝に撮影。
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かっての渋谷川と稲荷橋。2005年12月撮影。奥に東急東横線渋谷駅ホームのカマボコ型屋根が見える。
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新しく架けなおされた稲荷橋。右側ビル1階で営業していた山下書店が消え、新たにコンビニが入居。
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かっての稲荷橋。上側の路地角付近(渋谷ストリームビル建設で路地は消滅)でハチ公が行倒れ、当時画面上側奥にあった省線(のちの国鉄・JR)渋谷駅舎に収容されたが息を吹き返すことはなかった。
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東急東横線(地下鉄副都心線と直通連絡・地下駅)渋谷駅からの渋谷ストリーム直結出口(16b)。
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2018年08月23日

早稲田 三朝庵(閉店) 井伏鱒二「大正七・八・九年ごろ」より

早稲田通り馬場下町交差点角地で明治年間(明治39年に借地で営業開始)より蕎麦屋を営業し、「早稲田最老舗」の看板を掲げる<三朝庵(さんちょうあん)>が、7月31日(火曜)の営業をもって突然閉店した。
元大隈家御用・元近衛騎兵連隊御用の掛看板が入口にかかる老舗の暖簾をくぐると、銭湯の番台に似た食券売り場があり、これがとてもユニークで、そこに座る4代目女将・加藤峯子さんの姿と共にいつまでも記憶にとどまる。三朝庵の初代店主・朝治郎から代を重ねた(五代目加藤浩志まで)早稲田の老舗蕎麦屋の灯が消えた。
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7月31日の営業終了後に貼られた閉店の挨拶。

太宰治の師で早稲田大学出身の作家井伏鱒二のエッセイ「大正七・八・九年ごろ」から<三朝庵>に関した部分を抜粋。
<<せんだって用件があって早稲田大学の門前街に行ったので、ついでだと思って、殆ど四十年ぶりに三朝庵の蕎麦を食った。土間の壁に「大隈家御用」という昔ながらの看板を掛けてあった。黒く塗った板に刻字は胡粉の白である。看板というよりも掛札と云った方がいいかもしれぬ。早稲田大学の歴史に興味を持つ人は、この掛札を一応は注目する筈である。よくも焼けないで残っていたものものだと思う。私は大正六年に早稲田大学の予科に入学し在学中は学校をよく休んだが三朝庵にはよく行った。(略)>> 
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初代朝治郎の考案になる<卵とじかつ丼>780円
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番台で注文した食券の半券。撮影は2007年9月。

参考
「井伏鱒二全集別巻2」筑摩書房2000年
五代目の弟(?)であり漫画家の<レイジロさん‏ @reijirosan>のツイッター
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2018年08月12日

原宿表参道 FR2ブティック梅 ニューオープン

2018年4月27日に原宿(神宮前4)にオープンした路面店<FR2HARAJUKU>に引き続生き、TENGA社とセクシャルコラボしたブランチ<FR2ブティック梅>が7月21日にオープンした。こちらも路面店でFR2HARAJUKUのすぐ近く、ファンタスティック表参道店があった場所。店内はピンク色で統一され、コンセプトデザインの<rabbit's doggy style>がプリントされたTシャツや女性向けの雑貨類が展示販売されている。ウサギなのにdoggyスタイル(後背位)と呼ぶのが引っかかる(笑)。
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オープンしたばかりの<FR2ブティック梅>
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イルミ<パチンコ>のパの字が接触不良でいつも消えている。
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コンセプトデザインの梅の木でバックスタイルで励む白ウサギ。
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明治通り(写真奥)から少し路地に入った場所に店舗を構える<FR2 HARAJUKU> 
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FR2 HARAJUKU 渋谷区神宮前4-31-6 吉野ビル1F 11:00〜21:00
FR2ブティック梅 渋谷区神宮前4-29-7 原宿V1ビル1F 11:00〜21:00
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2018年06月26日

原宿 Stephen Powersのグラフティストリートアート

2014年4月11日にマークジェイコブスジャパン社の招きで来日した米グラフィックアーティストStephen Powers(スティーブン・パワーズ)が、同月17日までに、いっきに4ヶ所(神宮前4丁目)の壁絵を完成させた。4年後の今日でもパワーズが描いたペインティングは残されており(3ヶ所のみ)、いつでも目にすることができる。
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キャットストリート(旧渋谷川歩道)沿いのマークジェイコブスジャパン社経営のブックストア<ブックマーク>(BOOKMARC)のエントランス横の壁面アート。

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BOOKMARC斜め向いのマークバイマークジェイコブス原宿店横の壁面アート(モデルUZU)。

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2014年4月15日・16日の2日間に渡って個人宅のブロック塀にエアゾールスプレーで描かれたグラフティアート<NOW IS FOREVER>。裏原の記念撮影の名所となっている。巨大すぎてNOWの文字が欠けてしまった。
撮影2014年〜2017年
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2018年06月17日

世田谷・経堂 経堂病院 太宰治入院先(昭和10年)

新進作家として認められはじめていた太宰治は、1935年(昭和10年)3月、在籍していた東京帝大(現東京大学)文学部仏文学科の落第が決定(除籍は9月30日付け)した後、単身鎌倉に赴き、鶴岡八幡宮の裏山で首吊り自殺を図るが未遂に終る。この失踪事件に知友らが暗然とする中、太宰は首に包帯を巻いた姿でふらりと天沼1丁目の自宅に舞い戻った。翌月(4月)初旬、太宰は腹痛を訴え、杉並区阿佐ヶ谷4丁目の篠原病院(外科)で診察を受ける。急性虫様突起炎(盲腸炎)と診断され、即入院。翌日手術を受けるが腹膜炎を併発して危篤状態に陥る。やがて回復に向かうが、入院中に連日のように患部鎮痛のためパビナール注射を受ける。一ヵ月後(5月1日)、予後静養のため世田谷区経堂町の経堂病院に転院。院長は太宰の長兄津島文治の友人で沢田という医師だった。
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小田急線経堂駅西口の住宅街の一画に残る児玉経堂病院。
 
経堂病院入院中の書簡(昭和10年5月〜6月)を「太宰治全集15書簡集」(1960年筑摩書房刊)より抜萃。
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5月10日付け 東京市世田ケ谷区経堂町経堂病院内より東京市杉並区馬橋四丁目四百四十番地 木山捷平(しょうへい)宛(はがき)
  当分左記に居ります。
  世田ケ谷区経堂町 経堂病院内 太宰治
  このあひだはお見舞ひありがたう。
  一日一日、元気恢復(かいふく)してゐます。
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6月3日付け 東京市世田ケ谷区経堂町経堂病院より東京市本郷区駒込千駄木町五十番地 山岸外史(がいし)宛(はがき三枚つづき)
  お手紙、いま読んだ。よい友を持つたと思つた。生涯の記念にならう。こんなときには、ダラシナイ言葉しか出ないものだねえ。歓喜の念の情態には、知識人も文盲もかはりはない。「バンザイ!」これだ。君は僕の言葉を信じて呉れるか。文字のとほりに信じて呉れ。いいか。「ありがたう」
 佐藤春夫氏への手紙は、二三日中に書いて出します、「おほいなる知己(ちき)」を得たよろこびを書き綴るつもりです。実は二三日まへ、緒方(*隆士)氏へ、歓喜の初花をささげたばかりなので、どうも書きにくいのだ。(同じ文句になりさうで。)
 二三日してから、書いて出します。
 陶エが粘土をこねくりながら、訪問者とお天気の話をしてゐる。僕の文学談など、陶工のそのお天気の話と大差なし。ロとは全く別なことを考へながら、仕事のための粘土をこねくつてゐる。「自由の子」といふより「すね者」と言つたほうが自由の子の真意をつたへうる。
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7月1日付け 干葉県船橋町五日市本宿干九百二十八番地より東京市本郷区駒込千駄木町五十番地 山岸外史宛(はがき)
  病気全快して左記へ転居いたしました、とりあへず、お知らせ申上げます。
  千葉県船橋町五日市本宿一九二八
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本館は大正10年の築造。細部を見ると、レトロな装飾がそれとなく施されている。*経堂病院は老朽化等の理由により、2018年現在、解体再築工事中(一部11月末完成予定)。

経堂病院入院中の昭和10年6月中旬より第1回芥川賞・直木賞の銓衝委員会が初開催され、太宰は芥川賞候補となる(候補作品「逆行」、銓衝委員は11名で川端康成、谷崎潤一郎ら、8月10日に両賞発表があったが太宰は落選)。6月30日、太宰はパビナール中毒症状をかかえたまま経堂病院を退院。早速、小山初代(芸妓、仮祝言を挙げ内縁関係)と転居先を探すため船橋に赴く。棟上式を終えたばかりの建設中の借家(家主吉沢太吉、船橋市船橋町五日市本宿1928番)を見つけ、手付金を支払って帰る。翌7月1日さっそく転居する。  

*撮影は2007年10月。ルビ・注釈は原文に無いものも適宜入れてあります。
参考 「太宰治全集15書簡集」1960年筑摩書房
   「太宰治の年譜」2012年大修館書店
   児玉経堂病院HP(改築計画のお知らせ) 
太宰治リンク
本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治http://zassha.seesaa.net/article/381424205.html
山梨御坂峠 御坂隧道と天下茶屋 太宰治「富嶽百景」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/454248408.html
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2018年06月14日

南青山・青山霊園 中江兆民の墓 幸徳秋水「兆民先生」より

土佐藩足軽の長男であった中江兆民は、後に自由民権運動の徳富蘇峰と並ぶ理論的指導者となり、仏の思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本に紹介したことでも知られる。
中江兆民の中央政府との関わりは、1871年(明治4年)11月(12日横浜出発)、政府派遣の岩倉使節団に司法省の下等役人として出仕したことに始まる。1873年(明治6年)9月、岩倉大使らが帰国した翌10月、明治政府内の征韓派が敗北し、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが参議を一斉に辞職、下野。翌年1月、副島、板垣らは民選議院設立建白書(国会設立等)を左院(明治4年7月設置)に提出。時期尚早と反論する加藤弘之らとの間で論争が行われる。この建白書提出が自由民権運動の始まりとされている。大久保利通、木戸孝允(旧姓・桂小五郎)、板垣退助らで開かれた大阪会議(大阪北浜)の1年前にあたり、西南戦争勃発の3年も前のことだ。1875年(明治8年)に中江兆民は東京外国語学校校長として赴任(現在の竹橋・毎日新聞社を含む広大な敷地)するが教育方針をめぐって文部省(明治5年8月学制制定により設置)と対立し辞任。大阪会議で発議、のちに設置された元老院において中江は書記官に任命されることになる。これ以降は、大逆事件首謀者として抹殺された弟子の幸徳秋水の「兆民先生」 に依りたいのだが、なにせ長文なので、生誕と終焉のみを概略に置き換える形て抜萃してみる。
 幸徳秋水「兆民先生」明治35年5月記より。「現代日本文学大系22」1972年筑摩書房刊に収録。

<<中江兆民先生は、弘化四年高知城下新町に生る。幼名は竹馬(たけま)。長じて篤介(とくすけ)と改む。兆民は号。別に青陵(せいりょう)、秋水(*弟子幸徳伝次郎の号となる)、南海仙漁、木強生(ぼくきょうせい)等の号あり。考(こう*亡父の意)は卓介、妣(ひ*亡母の意)は柳子(りゅうこ)。一弟あり、虎馬(とらま)と云ふ、不幸短命にして逝けり。先生年十三にして、卓介君卒(しゅっ)す。家甚だ貧、而(しか)も母堂貞烈にして気胆あり、紡織(ぼうしょく)自ら給し、其(その)二児を訓誨(くんかい)する極めて厳、人皆な其賢(けん)を称せりと云ふ。予亦(また)後年先生の家に在りて、親しく母堂の薫陶(くんとう)を受くるを得て、其真(まこと)に先生の母たるに恥ぢざるの人なることを知れりき。(略)>>
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青山霊園の中江家墓地。右端が母・柳子の墓。
<<「終(つい)に行く道とは兼て知りながら、昨日今日とは思はざりしを」先生、明治三十四年十二月(*1901年12月13日)を以て、小石川武島町の自邸に没す、享年五十有五(*数え年)。其(その)初めて余命一年有半の宣告を受けてより、未九ケ月に充たず。天下知ると知らざると、皆な悼惜(とうせき)せざるなし、哀哉(かなしいかな)。(略)
越(こえ)て二日、葬儀を青山に行ふ。先生の遺教に従ふて、又一切宗教上の儀式を用ゐず。式は板垣退助(*旧土佐藩)君の弔文朗読に始まり、大石正巳君一場の演説を為し、野村泰享(たいきょう)君又弔文を朗読し、土居通予君輓詩(ばんし)一律(いちりつ)を吟じ、他二三の諸君追悼の詞を朗読し、皆枢前(きゅうぜん)に敬礼して散ぜり。此日(このひ)会する者五百余名。(略)>>
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*撮影は2012年。
*ルビは原文にないものも適宜振ってあります。(*注釈)は原文に無し。
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2018年06月05日

青山キラー通り(神宮前3) キース・ヘリングの壁画解体

ワタリウム美術館の真向いのキース・ヘリングKeith Haringの壁画(2階部分)が描かれていた建物(当時はON SUNDAYSの建物)が老朽化などを理由に解体(2018年4月工事中)された。いったん壁画の修復作業と保管を行い、何らかの方法で公開される予定という。
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キース・ヘリングの壁画が描かれていた建物。3年前(2015年4月)の人通りの少ない朝方に撮影。1階部分はバリー・マッギーの描画。

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開催中の「理由なき反抗」展に際して、建物の解体工事の告知がなされていた。上写真の道路(キラー通り)の向う側で解体工事進行中。
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ワタリウム美術館では35年間地域のランドマークというが(この建物がという意味か?)、このガラケー携帯カメラで撮った画像には別の広告看板が写っている。2006年12月撮影。

この建物の壁画は、ワタリウム美術館(当時はギャルリーワタリ)での個展にあわせて来日(1983年2月21日〜3月9日)した際、わずか一日(1983年2月23日)で仕上げたものという。現在開催中の「理由なき反抗」展(来月7月29日まで)でも、来日時のキース・ヘリングのドキュメンタリー映像記録(45分)が上映されている。
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キース・ヘリングは、1990年2月16日、エイズによる合併症でわずか31歳で夭逝。
今夏、表参道ヒルズ地下のイベント会場「スペース オー」で、キース・ヘリングの生誕60年特別展「Pop, Music & Street キース・ヘリングが愛した街 表参道」の開催が予定されている。会期は、2018年8月9日〜19日。カメラフリーなら無料なので足を運ぶ予定。
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2018年06月04日

渋谷・百軒店 文紀堂書店とストリップ道頓堀劇場 安西水丸「東京美女散歩」より

文芸誌「小説現代」に連載されたイラストレーター安西水丸のエッセイ「東京美女散歩」より、「懐かしさと空しさ」(渋谷あたり篇)の章に描写された道玄坂百軒店(ひゃっけんだな)付近の今では見られなくなった風景を探ってみる。
文中の道玄坂沿いの看板建築の商店(7店舗)は、長い間閉鎖され廃墟化していたが、近年解体されて更地となり、空き地は駐車場として運営されている。文紀堂書店の位置は何処であったのか、知るすべもない状態だが、地図と写真で明確にしてみたい。また、ストリップ劇場として登場する道頓堀劇場は、長期間の閉鎖処分(8ヶ月間)を受けながらも、現在までしぶとく営業を続けている。
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道玄坂沿いのかっての看板建築群はすべて解体され跡かたもない。2018年3月撮影。

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かって道玄坂沿いにこの看板建築群が建っていた。左端のオレンジとブルーの縦じまサンシェードの店が<文紀堂書店>。<文紀堂書店>の屋根は変形マンサード(フランス屋根)といってよいのか。
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古書買入の看板が残っていた<文紀堂書店>。2005年11月撮影。
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マンサード屋根とともにスクラッチタイルも当時の流行。
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看板建築群を裏の道玄坂駐車場脇から撮影。

<<信号を反対側に渡り、(*道玄坂を)下ると「三業通り」(料理屋、待合、芸者屋の三種のある通り)、「百軒店」、「恋文横丁」の通りとなる。「百軒店」から反対側を見ると、今はすべてシャッターを下した看板建築が並んでいる。関東大震災(一九二三年)以後流行した商店建築のスタイルだという。看板と建物を一緒にしたもので、パラペット建築(胸壁建築)とも呼んでいた。このなかの一つ、「文紀堂書店」にはよくお世話になった。
「百軒店」に入る坂を上った右手にストリップ劇場の「道頓堀劇場」があるが、ぼくが高校生の頃はまだなかった。その頃のストリップ劇場は、百軒店の奥まったところにあった「テアトル渋谷」だった。(略)>>
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解体寸前の看板建築群端から見た百軒店入口。上り坂の右側に道頓堀劇場がある。2005年11月撮影。 
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2005年11月撮影。
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都公安委員会による(有)日本ワーナー(渋谷道頓堀劇場)に対する約8ヶ月の営業停止処分(平成21年3月〜10月まで)。撮影は営業停止中の2009年3月。
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道頓堀劇場再開初日にファン一同が贈った花輪。2009年11月1日撮影。今も昔もホール入口は花輪で飾られるストリップ劇場。
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安西水丸「東京美女散歩」2015年3月講談社刊より抜萃。
「東京美女散歩」は、文芸誌「小説現代」(2007年2月号〜2014年4月号までの隔月連載)に初出。

安西水丸リンク
渋谷 のんべい横丁 安西水丸「東京美女散歩」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/441992175.html
吉祥寺 旅荘和歌水 安西水丸「東京美女散歩」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/452747671.html
江古田 日大芸術学部+ミス日芸2017 安西水丸「東京美女散歩」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/453972631.html
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2018年06月02日

元赤坂  紀の國坂 小泉八雲 「怪談」(「むじな」)より

外堀(弁慶濠)と仮皇居(*明治初期は明治帝の仮御所、旧・紀伊和歌山藩徳川邸跡地)の間の坂道を紀の國坂(紀之国坂)と呼ぶ。現在でも人通りは少なく車だけが行きかう寂しい坂だ。夜などゾッとして歩けたものでない。小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)はこの坂道に材を求め、「耳なし芳一のはなし」「お貞のはなし」「食人鬼」等と並べて「むじな」を「怪談kwaidan」(1904年) の一篇とした。 
 
<<東京の赤坂に紀の國坂という坂がある。紀の國坂とは、紀伊の國の坂という意味である。なぜこの坂が紀伊の國の坂といわれるのか、わたくしはその故を知らない。この紀の國坂の片側には、古くから大きな深い濠があって、濠の上には青草のはえた高い土手がそそり立っており、その土手の上は、なんとかいう公園になっている。坂の一方は、御所の、長い、見上げるような高い土塀がずっとつづいている。まだ街燈や人力車なんぞのなかった時代には、このへんは夜になると、人っ子ひとり通らない、ごく寂しいところであった。日の暮れ過ぎ、遅くなってひとりで通る通行人は、この紀の國坂は通らずに、何町もまわり道をしたものであった。なぜそんなことをしたかというと、あのへんは、よくむじな(*タヌキ)が出たからなのである。
ごく近年、あすこのむじなを見たという人は、京橋へんのさる年配の商人であった。この人は、もう三十年ほども前に物故してしまったが、その人の語った話というのは、こうである。(略)>>
・・・・このあと、紀の國坂に眼や鼻や口のないのっぺらぼうの女がぬっとでてくる。商人は恐怖から逃れようと必死に紀の國坂を駆け上がる。坂上の闇のなかに蛍火のような灯が見える。蕎麦売りの灯であった。濠っぺたに出たのっぺらぼうの女の事を息も絶え絶えに話すが、むこうを向いたままの蕎麦売りはつっけんどんだ。蕎麦売りは顔をぺろりと撫でて、「その女の顔はこんなふうでなかったかい」と振り向く。「ぎゃああああああ」・・・・怖いので、だめ、ここまで。
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のっぺらぼう女が出たのはこの辺り。右の長塀内側が広大な仮皇居(現赤坂御用地)。
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紀の國坂上の喰違見附から弁慶濠(外堀)と首都高4号線を眺める。首都高の向う側の桜の木の下が紀の國坂。奥のビル群は赤坂の街。

「小泉八雲 明治文学全集」1989年筑摩書房収録の「怪談」より抜萃。
小泉八雲 リンク
姫路 おきく井戸 小泉八雲「日本瞥見記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/459682995.html
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2018年02月03日

四谷 外濠公園野球場 井上ひさし「ナイン」より

井上ひさしの青年時代のホームグラウンドだった四谷の町に取材した短編作品「ナイン」から、フェイントをかけずに直截的に「外濠公園野球場」と表現した野球場シーンをピックアップ。
井上作品に登場する多くの固有名詞にかかわる表現が、置き換え・ぼかし・モザイクで処理でされており、疑いを持たずに信じたら危ういことになる。四谷新道(しんみち)通りの新婚時代に移り暮らした住居も、ある年譜には小説に登場する「畳屋」の作業場の2階のままであったり、「モッキンポット師」シリーズでも迂闊に信じてイメージしてはいけない場面が散見できる。本文に登場する「中村畳店」も実際には存在せず、「中村」は大家さん所有の作業場のすぐ北隣の家から名義を拝借したものであろう。
短編「ナイン」に登場する野球場は、変わりなく同じ場所に存在し、そのまま現在も残っている(設備等が若干バージョンアップされている)。表現にいちいち疑いをはさまずに読み進めて大丈夫だ。ナインを結びつける西日にも素直に感情移入していける。西日をチームメイトが遮る肝心な場面は割愛、抜粋していないので小説を各自読んでください。
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四谷駅から<外堀通りをだらだらと市ヶ谷の方へくだって>きて、堀跡へ下りる公園のプロムナード。
写真右側が外堀通り、左に四谷駅とJR総武線。

「ナイン」1987年講談社刊より抜萃。
<<四ツ谷駅を新宿側に出て外堀通りをだらだらと市ヶ谷の方へくだって行くと三角形の公園がある。そこが外濠公園野球場だ。公園は外堀通りから一段低い堀を埋めてつくられている。当時は、野球場はまだ金網でかこわれてはおらず、外堀通りから土手を下りて球場に立つことができた。土手には桜の木が植えてあったが、この土手が一塁側とネット裏スタンドになった。つまり三塁側のチームはいつも陽に灼かれていなければならないが、一塁側のチームはすくなくとも自軍の攻撃中は桜の土手のつくる日陰の下で汗を拭くことができる。あの夏の一日、三塁側に陣取った新道少年野球団はきっと死ぬほど辛かったろう。
(略)>>
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日陰の1塁側から日差しのきつい三塁側ベンチを見る。
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三塁側に陣取ったのが新道(しんみち)少年野球団。現在は日除けが設置されている。
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現在もこの野球場は地元周辺の少年野球チームの息詰まる熱戦が繰り広げられている。

<<中村畳店から、わたしは外堀通りを市ヶ谷へ向った。金網越しに野球場を見ると、木枯しに吹き上げられた砂煙がグラウンドを走り回っている。振り返えって西を見ると、大会社の巨きなビルが野球場に覆いかぶさるように立っていた。この十何年かのうちに、ここには西日がささなくなってしまったようである。
(略)>>
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*撮影2015年7月
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2018年01月12日

渋谷宇田川町 ラブホ・オリエント 「荒木陽子全愛情集」より

渋谷宇田川町のパルコパート1(本館)・パート3の周辺はかってラブホテルが点在していた。
パルコパート3のエントランスの対面にあったのが、ラブホ・オリエント。パルコ周辺は1980年代には現在と変わらぬ人気エリアとなり、週末は混雑が終日続いていた。入るときは、すっとインすれば問題ないが、おわって出る時が精神的なプレッシャーがマックスとなる。どの出口(パート3側・スペイン坂階段途中)を選んでも、左右どちらに向っても、衆人環視の状態に変わりはなかった。晒しものになること数分間は覚悟しなければならなかった。
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2007年当時のパルコパート3正面。ラブホ・オリエントの位置は真後ろ。

写真家アラーキー氏の愛妻陽子さんの小説風エッセイ「七月の黄昏は恋のような時間」から。
<<渋谷のパルコ3に入っているアフタヌーン・ティーで、ロゴ入りのTシャツと卵型のピル・ケースを買い、その後アルフレックスやオレンジ・ハウスを見て回り、散々時間をつぶしたように思って時計を見てみると、まだ六時。待ち合わせの時間には一時間もある。
 どうしようかな、と思いつつ、ケイコはパルコ3のビルを出た。向い側には、この前まで緑色のビニール短冊を入口に吊してあったラブ・ホテル(*ホテルオリエント)に変って、映画館が二つ(*シネマライズ最大3スクリーン)入っているという不思議な雰囲気の建物ができている。一階にはローズ・ルームというカフェ・レストランがあり、テーブルの上のバラ模様と濃い緑のテーブル・クロスが、ダークな店の中でオブジェのように浮かんで見える。(略)>>
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ラブホ・オリエントのスペイン坂石段側。本文通り<緑色のビニール短冊>が吊り下がっている。
撮影1982年(ビデオテープからキャプチャー)。
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ラブホ・オリエントが、映画館シネマライズビル(左側)に建てかえられる。2008年撮影。
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映画館シネマライズも閉館し、2017年現在では<WWW>(ライブハウス、読みはスリーW)が入居中。

撮影1982年ビデオテープからと書いたが、当時の機材がコレ。
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現在では小さいスマホで動画はこと足りるが、個人用ビデオカメラ+デッキが発売された当時は
写真のような重装備。機材費総額50万円ほどで、文字通りに重い上に画質は最悪。
パートナーの親友で原宿に住んでいた服飾デザイナーMさんと明治神宮で。1982年1月。

本文中の(*)は原文に無い。
荒木陽子「七月の黄昏は恋のような時間」(1985〜1986)より抜粋。
「荒木陽子全愛情集」2017年港の人(鎌倉市)収録。
荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
京都・四条河原町 喫茶・築地http://zassha.seesaa.net/article/455847835.html
渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場http://zassha.seesaa.net/article/455890811.html
長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455985556.html
鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456022608.html
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2017年12月31日

渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場

荒木経惟(のぶよし)氏と青木陽子さんが知り合ったのは、たがいに広告代理店電通に勤務する社員(カメラマンと文書部タイプ室タイピスト)同士であった1968年冬のことであった。付き合い始めた二人は1970年秋に婚約し、翌年の初夏、渋谷4丁目の結婚式場アイビーホール青学会館で挙式。陽子さん(当時24歳)は結婚を機に電通を退社し、翌年(1972年5月)荒木経惟(のぶよし)氏も電通を退社し、フリーカメラマンとして独立する。
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(上下写真)現在も変らず同じ場所にあるアイビーホール青学会館。 

<<知り合って4年目の夏(1971年7月7日)に、青学会館で結婚式を挙げた。私は母に縫ってもらったウエディング・ドレス、彼は一張羅のスーツで、牧師の問いかけに、神妙な面持ちで「誓います」と答えた。結婚式の最中彼はあがっていたようで、リングを逆さまに私の指にはめようとしたり(デザインリングなので)、ウエディング・マーチにつれて歩く時の足を出す順序を間違えたりして、私をハラハラさせた。そんなことに気を取られていた私は、式の間一滴の涙もこぼさずに終わり、後で母からイヤミをいわれた程だった。
式の後の大変な披露宴(新婦のヌードがスライドで写し出され、それを見ていた田舎のおばあちゃんは、家に帰ってからショックのあまり2、3日寝込んだという)も終わり、冷汗をかきながら新幹線に乗り込み、そこでやっと正常な神経に戻れた私であった。>>
「わが愛、陽子」1978年朝日ソノラマ刊(荒木陽子の書下しエッセイ7篇収録)より結婚シーンを抜粋。
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荒木氏のアシスタントがニコンFで撮った青学会館での記念写真(「天才アラーキー写真ノ愛・情」より)。
記念写真とともに、この写真についても語っている。一部を抜粋。
<<うちの一の子分に「一発撮れ」って言ってカメラ渡して、ぽ〜んと撮ったやつなんだけど、ルール違反なの、こういうのは。写真館の収入にならんでしょ。(略)>>
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青学会館のフロントロビー。仰々しくなく落ち着いた雰囲気の結婚式場で青山学院大学の隣と立地環境も華やか。最寄駅は地下鉄表参道駅。
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上下2枚の青学会館内の写真はフロアマネージャー氏の許可有り。

結婚までの経過(いきさつ)をエッセイ「あー夫婦だなあ」(文・荒木陽子)でも語っている。
<<モディリアニの杏型の瞳の女や、ゴダールの映画や、インドシルクのスカーフや、ニーナ・シモンの弾き語り・・・の魅力を私に伝えてくれたのは彼である。
彼は私の中に眠っていた、私が大好きな私、を掘り起してくれた。彼に逢っていなかったら、そんな事には気づかずに過ぎたかも知れない。ごくフツーの感性の男の人と結婚し、寝ぼけ眼のまま一生を送ったかもしれない。男の人と大人のつきあいをしたのは荒木が初めてであった。であるからして、アラ、この人、××が××で××なのねー、などと他の男と比較する事もなく、あー男ってこーゆーモノだったのか、と素直に納得しちゃった私は、三年間のツキアイの後、母や友達の不安をヨソに、彼と結婚したのである。互いに自宅に住んでいたものだから、同棲もしなかったし、彼に隠し女がいてスッタモンダ、なんて事もなかった。ただ結婚式が、実に冷や汗もんだったのだ。まず、結婚式の案内状が変テコだった。普通は、両家の名前が入った寿のシールつきの角封筒である。ウチの場合は、封筒を開けると中にハデな祝儀袋が入っていて(これを受け取った人達は皆一様にギョッとしたと言う)、その中に、二人の写真入りの、私達は結婚します云々の文字が記された葉書が入っていた。更に引出物はというと、民芸店などでよく見かける竹製のフクロウの飾り物(風が吹くと、下に下がっている竹筒が鳴る)。極めつきは披露宴のスライド上映である。私のヌード写真がデカデカと写し出され、親戚一同はシーンと静まり返り、この余りにぶっとび過ぎている状況をどう理解すればよいのか、という顔をしていた。この披露宴のショックがもとで、ウチの親戚のお婆ちゃんは寝込んでしまったのだった。略)>>

参考:「荒木陽子全愛情集」2017年港の人(鎌倉市)刊
   「天才アラーキー写真ノ愛・情」2011年集英社新書刊
荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
京都・四条河原町 喫茶・築地http://zassha.seesaa.net/article/455847835.html
長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455985556.html
鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456022608.html
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2017年10月18日

成城 横尾忠則アトリエ 「千夜一夜日記」より

yokoo world in seijoシリーズ。
今回は、森林の緑につつまれた横尾忠則第一アトリエ(第二アトリエは東宝スタジオ内)と読書・散歩・日光浴と多用途使いの横尾氏お気に入りの緑地公園のビジターセンター。ポップアートの旗手から画家へと進化(深化)し、歩みを止めないevolution氏の足跡を、横尾氏自身の「横尾忠則千夜一夜日記」から追い求めてみる。
*原文の日付は全て漢数字が使用されているが、便宜上変更した。

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2013年9月15日 日曜日
朝から台風十八号がもたらす大雨。足の痛みで歩行困難なり。降ったり止んだりの中、自転車で増田屋(*横尾氏が普段使いする駅近くのそば屋)へ。打撲には鮭、餅、豚は禁物。冷しきつねうどんを注文。薬局で消毒液とパテックスを買ってアトリエヘ。100号キャンバスに向かうが気力が湧いてこない。

2013年9月28日 土曜日
午後足を引きずりながらアトリエ横の神明の森の遊歩道を抜けて野川辺の公園へ。陽当りのいいテラスでココアを飲みながら日光浴。時々川面を駆ける風がテラスまで吹き上げてきて気分爽快。足の不自由さによって長い休養時間を天からいただいているような気がするんですよね。
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野川緑地広場のビジターセンター(世田谷トラストまちづくりビジターセンターが正式名)。

2013年11月26日
アトリエ横の森を抜けて野川公園へ。昨夜の風雨で森の地面は枯葉で埋まっている。松葉のヤニの匂いが鼻を掠める。公園の芝生のベンチで清張の「点と線」を読む。天才的アリバイ作りの犯人を片端から崩していく作家は、賽(さい)の河原に積み上げた石の山を自ら壊していく、そんな一人遊びに似ている。(略)
(*松葉のヤニの匂い・・アトリエ近くの市民緑地の遊歩道は、アカマツ・桜などの樹木に覆われている。)
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横尾氏が読書した野川公園芝生のベンチ(数は少ない)。ここだろうと独り合点。

2013年12月31日
森の遊歩道の入口(アトリエの入口と並んでいる)に土屋嘉男さん(*俳優)の電動式自転車が止めてあるので、公園に様子を探りに。案の定ご本人を発見。タマ(*愛猫)の眼薬とパテックスと、葛根湯と爪切りと、風呂の腰掛けとスティック糊を買う。アトリエで年忘れ描き納め (未完のまま)。

2014年1月7日
低気温ながら好天なり。森の中の空地の切株に腰を下して日向ぼっこ。この寒いのに公園の日陰で女子中学生二人黙々と剣道の稽古に励んでいる。骨が折れるような竹刀のぶつかる音にわが身に気合が入る。ヨツシャ! 事務所のパソコンが電脳梗塞を起こし、半死半生。これも有為転変なりか。
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森の中の切り株は、これか? 他には見当たらない。

2014年1月17日
午前中野川公園へ。遊歩道を登ってくる土屋さんに会う。
アトリエのベランダの柵にからみついて密林化していた樹木の太い蔓を植木屋さんに切ってもらったので、西の空がうんと明るく広がって、富士山が遠望できる。特に夕焼は絶品。アトリエの外部はスッキリしたけれど、内部のキャンバスの中の絵は逆に蔦がからまって身動きがとれなくなつてしまった。

2014年1月22日
冷んやり快々晴。アトリエで絵のマネごとをする。合間に座右の書「キリコ回想録」(立風書房)を読む。キリコのぼやき節はモダニストの耳に銃弾だ。

2014年2月9日 日曜日
一夜明けると目も覚めるような快晴。アトリエと公園に行きたい。雪と凍結の道路を考えるとこの足では無理。覚悟を決めて読書に徹しようと書庫から古書化した本を揃えてみるが、やっぱりこの好天を見ると憎悪が湧き、どうしても外出したい。整体院の萩原さん(*この頃の整体院はケーキカフェ・マルメゾンに隣接)と連絡をとると車で迎えに来てくれるという。

2014年2月20日
薄日が差すアトリエのマーラー、ブルックナー、ワーグナーの大音響が不眠の毒素を放出させる。あとはヤケクソになって描く。
そのヤケクソにこそ神宿るのである。肖像画は似顔と違う。似ないように描く勇気が必要。絵のリアリティは自然の否定や。なんぼでも描ける時は危険。
身を引く術を知らなきや。中庸ってやつをね。また行きづまるのは自己定義するからや。(略)

2014年2月21日
青天。裏庭(*自宅)の桜の巨木の枝が蜘昧の巣のように空を覆い始めた。花をつける準備や。
春近し♪ アトリエ横の森の遊歩道が氷結状態で歩行が困難。野川の公園にも行けない。本来は公園管理係の仕事なのにやらないので、スタッフと道を作る。腰に来たけれど潜在的体力を確認。
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氷結したアトリエ横の遊歩道。先は崖道になり野川方向に下っている。
管理は世田谷区砧公園管理事務所が担う。開園時間は年間通して8時30分から。
土屋さんが電動自転車を停めたのもこの辺り。

2014年3月10日 
アトリエのリニューアルの件で、設計者の了解を取らなきや、と磯崎新さん(*建築設計理論家、「新」の読みはアラタ、横尾アトリエの設計者)に電話。お互いに体調の情報交換をしている内に草津温泉に行こうともり上る。(略)

2014年3月11日
自宅の外観とアトリエの内部のリニューアルのため業者に会う。老年意識に抵抗するためにも前向きの生活空間にクリエイティブパワーを導入。

2014年3月28日
快晴無風。野川のビジターセンターヘ。テラスで土屋嘉男さんトロトロ居眠中。
カワセミとアトリエの外観を撮った写真を見せてくれる。俳優の写真はどことなく映画的。誉めると「絵を描きたいので弟子入りしたい」と。プロこそ素人に弟子入りしたいのよ。(略)
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ビジターセンター前を流れる野川の川面には野鳥ものんびり日光浴しながら居眠中。

2014年4月 パリの大北斎展(グラン・パレ)の北斎ドキュメンタリー映画に出演、ジャン=ピエール・リモザン監督がアトリエで撮影。
フリードマン・ベンダ画廊(ニューヨーク)のマーク・ベンダ氏が翌年の個展依頼にアトリエ来訪。
ボストン美術館のキュレイター、ジャッキー・エルガー氏がアトリエ来訪。

2014年6月21日 土曜日
点滴の眠剤のせいか五、六時間眠るが、みぞおちが少し痛む。
山田さん(*自宅が近所でなかよし。映画「寅さん」シリーズの監督)を自宅にお呼びする。妻は山田さんの話に聞き入る。カルティエの肖像画がフランスに渡ると帰ってこないので、親しい人には見てもらっておこうと山田さんをアトリエにお誘いする。

2014年8月 オノ・ヨーコ氏がアトリエ来訪。
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オノ・ヨーコ(故ジョンレノン夫人)も座った客人と兼用の黒いチェア、壁に貼ってあるポップアートポスターなどが森の遊歩道から垣間見ることができる。窓際に置かれた黒いチェアに座って瞑想する横尾氏のもじゃもじゃ頭も見ることができる。プライバシ―保護のため、室内部分は大幅にトリミング。

2014年9月 アトリエ改装工事のため東宝スタジオ・山田洋次監督ルームの仮設アトリエで制作開始。

2014年10月19日 日曜日
日曜日、晴。喫茶店、アトリエのバルコニーで終日東野圭吾「秘密」読む。小説の醍醐味は分離したもうひとつの現実を獲得すること? 死が宇宙をもたらすと同時に愛が現実を奪う。得ることは失うことなり。この作家のことを今まで知らなかったのは不覚。このあと「流星の絆」も読みます。

2014年11月30日 日曜日
寝室の窓の外の台の上に黒猫が寝そべっている。タマの後継者としてクロタマと命名。タマのテリトリーを占拠し、野良の分際でタマのエサには見向きもせず。なのに肥満体。
アトリエのバルコニーで森林浴。毎日バルコニーの床にお寺の庭みたいに黄色い落ち葉がピッシリ。散歩がてらに街に出たついでに古本シャガール展のカタログ買う。彼のアトリエの一枚の写真から決定的な霊感を得る。シャガールからはいつも多くの賜物を与えられる。なにげない時にそれは降ってくる。
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アトリエのバルコニー。樹木が茂り南西に向いたベランダはよく見えない。

2014年12月28日 日曜日
終日、アトリエで孤独を友に無為な一日。台風の目の中で惰眠を貪り、ゆく年を見送り、くる年を迎えながら大あくび。つまんない年の瀬。

2015年3月7日 土曜日
どんより日和。自宅近くの喜多見不動堂、神明の森辺りをぐるりと小一時間散策。いつの間にか野川近くに南国リゾート風の建物増殖、日本型富の象徴? アトリエで途上の絵を眺めて一日終る。
(*小田急線ガード近くの成城側の野川沿いに新しい地中海リゾート風の住宅が建ち並んでいる)

2015年4月16日
アトリエのゲートの色が退色したので明るいエメラルドグリーンを加色。

2015年5月17日 目曜日
快晴。天婦羅蕎麦、鯛焼を食べて「荘子」を読む。(略)
アトリエの二階から室外に張り出した手すりつきの台はテラス?パルコ二―?ベランダ?
どっち?辞書によるとわがアトリエの建造物はバルコニーであることがわかった。今日の午後はそのバルコニーから森の樹木の間からチラホラ見える遊歩者(相手からは見えない)の盗み見を愉しむ。

2015年5月27日
快晴真夏日和。早朝から富士見橋でメラトニン日光浴。
終日アトリエで制作。同一主題を連歌の如く変化させていくプロセスを作品とする連作。作品の複数化であると同時に私の増殖化、そして私の消滅化。

2015年5月28日
午後、東宝で山田監督と映画音楽のミーティングが終った直後、坂本龍一さん(*元YMOメンバー)が突然アトリエに。七年前NYの個展の時、向こうで会って以来。「三年前かと思っていた」と坂本さん。地球の自転が速くなっているのでは? と思うほど時間の速さには怖いものがある。体力的に海外旅行はキッイのでそっちには行けないけど、秋のNYの個展にはぜひ、ぜひ、来てくれない?

2015年6月7日 日曜日
日曜日は辺りも静かで午睡の時間が漂っている感じ。アトリエでぼんやり無為の中にいる時、山田さんが現われる。アポなしの思いもよらぬ来訪者は嬉しいものだ。ロケが早く終ったそーだ。山田さんとの共有時間はほとんど映画の話だ。今日は黒澤さんの絵画のような絵コンテの話。この絵を見たカメラマンは絵を再現させるために望遠レンズを使用したそうだ。遠近感を無くすためだ。浮世絵を見た印象派の画家の発想みたい。

2015年12月13日 日曜日
思いもよらずよく眠れた。午前中のストレッチを夕方に延期。
昼、増田屋で今最も注目、露出度1の山田さんと。昨日「母と暮せば」が全国一斉封切り。上々のスタートを切ったそうだ。二次会はあんやで焼麩ぜんざい。山田さんストレッチに。傘をさすほどでもない雨。
アトリエで今週の日記をまとめる。

2016年2月6日 土曜日
一・五キロほど杖なしで歩く。アトリエまでが六百メートル位だから、倍以上の計算になるがスピードは十倍位のろい。ケガのリハビリもあるが、一ケ月以上も入院していると免疫力が極端に落ちているので体力の復活も目的だ。よく入院期間の倍の期日が退院後の養生に必要だというが、その通りの生活ができるかどうか? だ。

2016年3月10日
自転車でアトリエの道みち、田村正和さんに会う。「正和さん!寒いね」。一言「寒いですね」。以上、田村正和風でした。
箱根に運ぶ150号に最後の一筆。画竜点晴といきたいところ、やっぱり未完で終る。

2016年3月25日
アトリエの玄関のドアがボロボロになったので新しく造り直して、バルコニーの柵と同じ黄色に塗装する。ドアを黄色に変えただけで、建物のイメージががらりと一新する。
森の遊歩道から樹木越しに眺めると、黄色のドアが異次元の入口に見える。
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アトリエ玄関の黄色いドア。

2016年3月26日 土曜日
(略)アトリエの下の公園に降りてカフカの短篇集を読むが、今日の気分ではないので戻って、ヘッセの「老年の価値」(何度読んだことか)を持って再び公園のビジターセンターのテラスで読み始める。
辺りは多からず少なからず花見客が動いている光景には幸福の瞬間が出入りしている。

2016年4月9日 土曜日
ぼくはわりかし自然と親しむ時間が多い。アトリエが森に囲まれているということもあって、仕事の合間に公園に散歩にでかける。人間には自然治癒力があるが、普段から自然と接触をしているとその効力を発揮するという。病院の先生は「治る時はいつも自然治癒力です。だから横尾さんはやりがいのない患者さんです」。ほんまか?
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ビジターセンターエントランス脇のメダカの水槽(水瓶)。   

2016年4月17日 日曜日
昨夜、ぼくの寝室に例のホームレス猫が闖入。気がついたおでん(*猫名)は半分脅えている。
昼、山田さんと増田屋へ。表へ出ると嵐。自転車もダメ傘も駄目。ズブ濡れになつて帰った頃、突然ビーカン(*快晴)。アトリエヘ。日記の整理。書評の校正。次回書評本読む。

2016年4月27日
玉川病院で院長と栄養士を交えて食事療法の見直しを。
背後から迫って来る車の音が聴こえないので自転車にバックミラーを装着する。ミラーの中で去って行く風景は過去の風景。手前に迫る風景は過去(*??)。それを見るぼくは現在。
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本邦初公開、横尾氏の愛車「疾走号」(!)。サドル・後部荷台・難聴者用バックミラーなどの
特徴のある部分はトリミングカット。この自転車は一度盗難にあうが、無事に生還。

2016年4月30日 土曜日
アトリエの外壁塗装工事完成。地下の秘密基地も完成。「エリア51」とでも名付けようか。

2016年5月6日
地下の秘密基地で山田さんとピンポン(*えっ、地下に卓球台があるんだ)をする。全身運動と疲労が紙一重。飛蚊症の診察で宮地眼科へ。眼底出血のため日大病院眼科の先生を紹介さる。
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以上、大部(たいぶ、分厚いの意)の「横尾忠則千夜一夜日記」からほんの一部分を抜萃。
日記に関して、「あとがき」に横尾忠則氏の言葉が添えられているので付け足す。
<<真面目に日記をつけるようになって四十六年になる。そんな日記帖が四十六冊になった。一日の記述はそんなに長いものではないが、生活の一部になっていて、朝、歯を磨いて、髭を剃り、洗顔する行為とそう変らないので、別に苦にならない。
今回上梓した日記は、毎晩書いている日記とは別に、公開を前提にした日記のための日記である。「週刊読書人」に連載を始めた二〇一三年七月八日から一日も休まずに書き続けた千三十六日の日記ということで「千夜一夜日記」と名付けた。日記は今後も書き続けると思うが、年齢のことを考えるとどうなんだろう。ある日突然プツンと糸が切れるように記述が終るかも知れない。あっちが悪い、こつちが悪い、さあ病院だ、入院だなんて騒々しいのは読んでいただいた方にはぼくの単なる趣味ととらえて、そう特別驚かれることもなかろう。日記があるから騒いでいるのかも知れない。日記が結構ストレスのはけ口になっており、このことが躰と心のバランスをとってくれているのかも知れない。>>
その後の日記は、書籍化されていないが、連日のように横尾忠則サイトのなかで「ネット日記」として公開されている。
以下、ネット日記からアトリエに関連する部分を抜萃。

2017年9月7日
土屋嘉男さんの死が半年後に報道された。人をかついだり、騙したりするのが好きな大好きな土屋さんらしい。土屋さんはアトリエの横の遊歩道を散歩コースにしていたので、よく窓の外から手を振って合図をしていた。だからよく会っていた。ところが去年から音信不通になって、電話も掛からなくなっていた。2度も階段から落ちて入院していたのは知っていた。
ぼくの事務所のスタッフと、今年の初めの頃、「実は土屋さんはすでに死んじゃってて、その死を発表しないように家人や事務所に伝えているんじゃないかな?」と話したことがある。土屋さんはお遊びの大好きな人だから、こんなことをいつも考えている人だったので、ぼくは「あり得る」と思っていた。 今、思えば自分の死まで、遊んじゃったような気がする。

2017年9月11日
兵庫県立美術館の「怖い絵」展も大好評。タイトルで得をしていると思う。これが「ヨーロッパのロマン派展」なら、敷居が高い。お化け屋敷を見るつもりで来るといわれているみたいだけれど、それは違う。お化け屋敷は身体的な体験だけれどこの展覧会は教養的心理主義みたいなところがある。北朝鮮の外的恐怖ではなく、霊的恐怖に近い。しばらく絵から遠ざかっていたが、郷里で10点ばかり制作したので、制作ぐせがついたのか、帰京して早速、キャンバスに向っている。労働習慣をつけなきゃ。
留守の間にアトリエと庭がきれいになっていた。さあ、お仕事を始めましょうと言われている感じだ。アトリエの一部に畳を敷いて日本間を作ることにした。環境を変えるのが気持を変えるのに一番てっとり早い。

2017年09月20日
現在、六本木の青山ブックセンター(*六本木通り沿い)で、ぼくの書評集「本を読むのが苦手な僕はこんなふうに本を読んできた」(光文社新書)に載っている133冊の内で仕事と人生に影響を受けた本が相当数、展示即売しています。現物と書評を見比べて下さい。
今日から東宝スタジオの山田組の監督ルームの一角にアトリエが設置されます。2つのアトリエを行ったり来たりして制作します。
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東宝スタジオ。撮影所内に入るには通行パスを提示せねばならない。

2017年09月25日
今日から東宝スタジオの山田組の監督ルームの一角にアトリエが新設された。早速、午前中から絵を描きに。あと50点描く予定のタマ(猫)の絵を。
メインとサブの2つのアトリエで異なる絵の制作。2つでも3つでも、4つでも、アトリエは多いほどいい。場所が変れば絵が変るからだ。今日の夕方、デュラン・デュランのジョン・テイラーに続いて、ニック・ローズがアトリエに来ることになっている。

2017年10月11日
アトリエでの履物を健康サンダルから藁草履に変えた。体内を流れる電流が足の裏からアースに抜けるためだ。ゴム製品はアースに抜けないで、そのまま戻ってくる。その戻ってくる電流と下へ流れる電流がぶつかると、体内が汚染して病気を発生すると直感したので藁草履に変えた。ぼくの勝手な科学知です。(略)

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以降分は、つづき ません(歯切れが悪い)。

「横尾忠則千夜一夜日記」2016年日本経済新聞出版社刊より。
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2017年10月16日

目黒緑ヶ丘 三島由紀夫旧居跡 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」より

三島由紀夫は、敗戦をはさんで13年間にわたり居住した渋谷大山町の家から、昭和25年7月末〜8月初めにかけての時期に、目黒区緑ヶ丘2323番地(旧住居表示)の瓦ぶき木造二階建ての大きな邸に移転した。この新邸は、東横線都立高校駅(後に都立大学駅)から徒歩8〜9分の坂を上りきった陽当りの良い一等地にあった。東西南北すべての方角から坂を上らないとこの場所には辿り着けない、まさにTOP OF THE HILL といえる。この邸の書斎から、「金色(きんじき)」、「夏子の冒険」、「潮騒」、「沈める滝」(主に伊東川奈ホテルで執筆)、「金閣寺」(熱海ホテルで擱筆)、「橋づくし」、「美徳のよろめき」、「鏡子の家」などの三島の代表作が産み出されている。
*擱筆(かくひつ)=筆を置く、脱稿の意。
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緑ヶ丘2323番地の三島邸跡。

瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」2008年日経新聞出版社刊より抜粋。
<<三島由紀夫さんがボディビルで肉体の改造をしたことは、つとに有名な話だが、私は改造前の三島さんに一度だけ逢っている。まだ緑ヶ丘の旧(ふる)いお家に御両親と住んでいた頃で、一度だけ招かれて私はお宅に伺ったことがある。文通はしていても初対面で、私の方はたいそう緊張していた。
玄関脇の小さな部屋で待つほどもなく現われた三島さんは紺絣(こんがす)りの着物を裾短かに着て、まるで書生っぼく、まぶしいほどの流行作家とは見えなかった。どうかした拍子に覗く胸元の胸毛の濃さと、立居の折に見える貧相な葱(ねぎ)のような脚に似合わない堂々とした体毛に圧倒された。顔色は蒼白く、体つきもきゃしゃで、濃い体毛を見なければ、女性的といえる体つきであった。
ただ向かいあってひたと見合せた二つの瞳がきらきらと暗闇の猫の目のように金色に輝いていて、その光の強さに思わず目を伏せずにはいられないほどであった。ああ、これが天才の目というものかと、私はひたすら感動してしまった。その後もあんな目をした人に出逢ったことがない。お互い手紙の中のふざけた調子は忘れ、ひどく生真面目な話をしたように思うが、よほど上っていたのか、今、何も覚えていない。
その後間もなく芝居の招待を受け、そこで母上と、まだ学生服の弟さん千之さんに紹介された。
その後新築された世評に高い豪壮な洋館には一度も行ったことがない。大人の小説を書いて作家の末端を汚すようになってからは、こちらの方で遠慮して、つとめて距離を置くようにした。もう新刊書の批評や感想などはふっつりと送らなくなった。それが礼儀だと思った。それでも文壇のパーティーなどでは、たまに顔を合わすことがあると、遠くから目礼を交しあって、それで十分心が充たされた。(略)>>
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三島邸跡を坂下から望む。

瀬戸内晴美(のちに寂聴と改名)の三島邸訪問は、昭和26年7月12日。友人と連れ立って二人での訪問であった。
他にも、緑ヶ丘在住時代の三島には様々な転機といえる事象が起こっている。
昭和31年1月に後楽園ジムのボディビルコーチに弟子入りして肉体改造に本格的に着手したこと。その肉体は写真家・林忠彦によって写し撮られている(昭和31年3月、緑ヶ丘の自宅にて)。その鍛えられた体は、自由が丘駅近くの熊野神社例大祭(昭和31年8月)の神輿担ぎでも確認できる。虚弱な肉体と別れを告げ、ボディビルの成果が顕著に表れた写真が何枚も残されている。
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自由が丘駅近くに社を構える熊野神社の例大祭。2009年9月の神輿巡行。

そして昭和33年6月1日、川端康成を媒酌人として杉山瑤子と鳥居坂の国際文化会館で挙式。
結納は杉山家で5月9日に執り行われている。
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鳥居坂町(六本木5丁目の一部の旧名)の旧岩崎邸庭園の敷地に建てられた国際文化会館。
その内部写真。三菱財閥所有の建物群は空襲で焼失、庭園のみが戦前の面影を残していた。

挙式間もない昭和33年10月、清水建設と新居の建設契約が締結され、昭和34年5月10日、
三島夫妻は緑ヶ丘の古い木造屋敷から南馬込の新邸(洋館)に移転する(大田区馬込東1丁目1333番)。

参考:「決定版三島由紀夫全集42」(年譜・書誌)2005年新潮社刊
   「三島由紀夫 年表作家読本」1990年河出書房新社刊
三島由紀夫リンク
奈良 円照寺 三島由紀夫「春の雪」(豊饒の海・第一巻)より http://zassha.seesaa.net/article/442450850.html
京都土御門町 安倍晴明邸址 三島由紀夫「花山院」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/372786698.html?1494827046
目白 学習院 三島由紀夫「春の雪」(豊饒の海・第一巻)よりhttp://zassha.seesaa.net/article/454213185.html
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目白 学習院 三島由紀夫「春の雪」(豊饒の海・第一巻)より

三島由紀夫の長篇「豊餞の海」4部作(遺作)の初巻「春の雪」、壮大な物語の最初の主人公松枝清顕は、学習院の高等科(旧制)に通う18歳の青年、彼と同窓であり親友である本多繁邦とともに冒頭から登場する。まだ悲恋・死の予兆のかけらも感じさせない若者の日々の姿が描かれる。時は日露戦争が終結して間もない明治末年、ここに現在にまで至る「夢と転生」の物語がはじまる。

「春の雪」(豊餞の海・第一巻)新潮文庫1969年新潮社刊より抜粋。
<<(略) こうして十八歳になった清顕(*松枝清顕まつがえきよあき)が、だんだん自分の環境から孤立してゆく思いにとらわれたのは当然だろう。孤立してゆくのは、家庭からばかりではない。学習院が院長乃木将軍のあのような殉死を、もっとも崇高な事件として学生の頭に植えつけ、将軍がもし病いに死んでいたら、それほど誇張した形であらわれなかったろう教育の伝承を、ますます強く押しつけてきたことから、武張ったことのきらいな清顕は、学校に漲(みなぎ)っている素朴で剛健な気風のゆえに学校を嫌った。
友だちと云っては、同級生の本多繁邦だけと親しく附合った。もちろん清顕と友だちになりたがる人は多かったけれども、彼は同年の野卑な若さを好まず、院歌を高唱してうっとりしたりする粗雑な感傷を避け、その年齢にしてはめずらしい本多の、もの静かな、穏和な、理智的な性格にだけ心を惹かれた。そうかと云って、本多と清顕は、外見も気質もそんなに似通っているというのではなかった。(略)>>
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学習院正門(1970頃撮影)。乗用車が年代を表している。
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学習院構内(南西位置)に残る旧学生寄宿舎総寮部(乃木舘、明治41年9月築)。乃木希典第10代院長(伯爵、任期は明治40年1月31日〜大正元年9月13日)は開寮と同時にここに起臥し、学生と寝食をともにした。

<<しかしこの二人が、世にも親しい友だちであったことはたしかで、学校で毎日顔を合わせるだけでは足りずに、日曜には必ずどちらかの家へ行って終日すごした。もちろん清顕の家のほうがはるかにひろく、散策の場所にも恵まれていたので、本多が来る数のほうが多かった。
大正元年の十月、紅葉が美しくなりかけた或る日曜日に、本多は清顕の部屋へ遊びに来ていて、池のボートに乗ろうと云った。例年なら紅葉の客がそろそろ多くなる季節であるが、この夏の御大喪(ごたいそう)のあと、松枝家はさすがに派手な交際を慎しんでいたので、庭もいつにまして深閑として見えた。(略)>>
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松枝清顕家(侯爵家)のモデルは、その描写からも「渋谷の高台に建つ」広大な西郷従道邸であることは明白。明治10年代に築造された邸内中心部の洋館は現存する。描写にある通り明治天皇の行幸も仰いでいる。西郷隆盛も鹿児島に退く直前のわずかな日々をここで過している(母屋に宿泊*西郷隆盛全集参照)。主人公と親友の二人の青年が談笑する姿が幻視できる、はずだ。
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西郷邸洋館の寝台。清顕君のベッドなのだ。

<<清顕は学習院高等科の最上級生になった。来年の秋は大学へ進むことになるので、入学試験の勉強を一年半も前からはじめる者もある。本多にはそういう素振(そぶり)もないところが、清顕の気に入っていた。 乃木将軍の復活させた全寮制度は、建前としてはきびしく守られていたけれど、病弱の者には通学が許され、本多や清顕のように、家庭の方針で寮に入っていない学生は、それ相応のもっともらしい医者の診断書を持っていた。この贋(にせ)の病名は、本多は心臓弁膜症であり、清顕は慢性気管支カタルであった。よく二人はお互いのいつわりの病気を冷やかし合い、本多は心臓病の息苦しさをまね、清顕は空咳(からぜき)をしてみせるのだった。
 誰一人かれらの病名を信じている者もなく、二人はまことらしさを装う必要もなかったが、日露戟役生残りの下士官たちがいる監武課だけは例外で、そこではいつでも形式的に、意地わるく彼らを病人扱いにした。教練の訓示の折などは、寮生活もできない病弱の徒が、一朝(いっちょう)事あるときにどうしてお国の役に立とうか、などとあてこすりを言うのであった。(略)>>

*ルビは原文にないものも振ってあります。
参考:学習院HP http://www.gakushuin.ac.jp/

三島由紀夫リンク
奈良 円照寺 三島由紀夫「春の雪」(豊饒の海・第一巻)より http://zassha.seesaa.net/article/442450850.html
京都土御門町 安倍晴明邸址 三島由紀夫「花山院」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/372786698.html?1494827046
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2017年10月13日

成城 こばやし動物病院と成城外科整形外科 横尾忠則「千夜一夜日記」より

成城駅南口近くで、兄(動物病院)・弟(整形外科)の経営するクリニックが隣接して患者を待ち受けている。動物病院の世話になったのは横尾忠則の愛猫タマ、整形外科のほうは横尾本人。
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手前に成城外科整形外科、奥のビル1階に成城こばやし動物病院。

以下、「横尾忠則千夜一夜日記」2016年日本経済新聞出版社刊より抜粋。
原文の日付は漢数字使用。
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2013年9月24日
タマが具合悪く成城こばやし動物病院で診てもらう。心配していたガンはなく、腎臓機能が低下とのこと。
二年前にはぼくと同い年の七十五才だったのが、今年は九十才とか? 来年には百才越えるでえ。

2013年9月25日
タマ今日も病院へ。老齢のため人恋しいのか、ぼくの後ばかりついて廻る。食卓、トイレ、風呂、ベッドと。ぼくも老齢のためネコ恋しい。

2013年10月18日
入院中、足の骨折に関して特に治療がなかったのが少々気になり、近くに二ケ所ある整形外科医を訪ねる。最初に覗いた所は内装が殺風景で老人患者ばかりで、どことなく淋しい。次に行った成城外科整形外科は室内が明るく、熱帯魚の水槽があり、看護師さんも多い。出入りの患者も女優さんのような美人もいる。
「よし、ここに決めた」。わが家のタマがお世話になっている成城こばやし動物病院の先生の弟さんがここの外科医だ。足の親指の骨折は回復に向っているそうだ。足のレントゲン(まるで鳥の足みたい)には回復の徴侯がみえるのでここでも特に治療なし。二〜三ケ月の辛抱だって。とにかく精神的ストレスの解消は大きい。
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成城こばやし動物病院、ここで治療を受けた老猫タマは一時は元気になったが・・・。

2013年12月12日
タマ五日間食欲なし。衰弱の体。妻が成城こばやし動物病院へ連れていく。
杖を買うつもりにしていたが、杖に依存しそうなので、杖は本物の老人になるまで延期。そう心に決めたら不思議に歩けるんです。

2013年12月13日
点滴を打ったタマがウソのように回復した。わが足の骨折も今日の最終チェックで痛みを残したままほぼ完治。成城外科整形外科の帰りに、ダンテ「神曲・天国篇」(河出文庫)を買う。
特に「天国篇」は信仰者の眼で読んでみよう。

2014年1月31日
タマ激ヤセ心配。妻、タマを成城こばやし動物病院へ。百才以上の猫まれなり、と言われてもひとつ何んとか、これ親心なり。
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2014年5月25日 日曜日
昼、山田さん、冷しきつねそば、横尾、鳥なんばんうどん。二次会は風月堂で両者白玉ぜんざい。
タマの好物のちくわを0]ストア(*小田急経営のスーパーストア)で、山田さん(*映画監督山田洋次、横尾と大のなかよし)もつき合って下さる。

2014年5月31日 土曜日
深夜〇時二十分頃、二階の妻の部屋で空咳五、六回のあと、妻に看取られて息を引き取る(*タマ死去)。まさか、今夜逝くとは思わなかったぼくは不覚だった。妻の手でタオルに包まれたタマは神棚の前に横臥姿で。早朝六時過ぎアトリエにキャンバスを取りに行って、タマの亡骸二点描く。声なき声で慟哭。

2014年6月2日
長男、長女、スタッフ、隣りの菊地さんの立ち会いで、裏庭の棕櫚の樹の下がお気に入りだったタマをその場所に埋葬する。
午後、玉川病院でMRI、前立腺検査など、いずれも問題なし。気持がタマから離れない。

2014年6月3日
タマの墓に白い砂利を敷きつめ花の植木鉢を並べて、小さい「タマ霊園」をこしらえる。

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その後、横尾忠則は、とめどなく愛猫タマの絵をキャンバスに描き続けている。
いつかキャンバスからタマが歩き出て、足元にまとわりつくのを待ち焦がれるように。


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2017年10月06日

江古田 日大芸術学部+ミス日芸2017 安西水丸「東京美女散歩」より

安西水丸氏の日大芸術学部在学時期は、キャンパスが黒ヘルグループ(「芸」の白文字がヘルメット正面に浮き出ていた)に占拠封鎖される以前なので、現在と同様に穏やかな学生生活を送ることができたと思われる。封鎖された後に校舎前広場に築かれたバリケードは巨大で、戦国時代の防御柵でもこれほどの規模のものはなかっただろうと思われるほどだ。出入り口はなく、長いハシゴをよじ登る以外に方法はなかったはず(16ミリカメラで日大闘争の記録映画を撮ったS女史やカメラマンM氏からの話、歌舞伎町の飲み屋ゴールデンゲートで聞いた記憶がある)。日芸を何度か訪れたことはあるが、思い出すことは少なく、付き合っていた女は反対側の武蔵大学(文学部、写真は数枚どこかにアップ済み)だったし、21世紀に入ってからは、西口のベトナム食堂「マイマイ」と芸術学部近くのアンデルセンに入ったことぐらい。
11月初旬の恒例の大学祭(2017年度)を久方ぶりに訪れてみようと思っているが(なんと、あのレイヤーだったアヤネ氏がミスコンに参戦中で、最終エントリー5人に残っている)、もう一歩動機付けが弱く逡巡している。
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日芸の最寄り駅は西武池袋線池袋駅(始発着駅)から三つ目。武蔵野音大・武蔵大のキャンパスと比べて、はるかに駅に至近で恵まれている。
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では、安西氏の思い出話、日芸の女がむかつく話を。
イラストレーター安西水丸のエッセイ「東京美女散歩」の一章「江古田、練馬、石神井公園あたり」より抜粋。
<<(略) 日本大学の芸術学部美術学科を受験したのは昭和三十六(一九六一)年の二月だった。その時ぼくは西武池袋線の江古田駅にはじめて降り立った。試験に合格するかどうかわからないのに、駅から大学まで歩く道すがらこんなところに毎日通うのは嫌だなぁとおもった。何とも気分の滅入る街だった。しかし運命のいたずらで、ぼくはこの街に毎日通うようになったのだ。結局日大の芸術学部美術学科で四年間学び卒業した。専攻したのはグラフィックデザインだった。(略)
日大の芸術学部は西武池袋線の江古田駅の北口へ出て歩いて五、六分で着く。当時日大芸術学部は「江古田」という別称で知られていたが、住所は練馬区の旭が丘二丁目だ。江古田駅を利用する大学は、武蔵大学(南口)、日大芸術学部(北口)、武蔵野音楽大学(北口)だ。ふしぎなことに、日大芸術学部にはほとんど美女はおらず、その点武蔵野音楽大学は粒が揃っていた。この二校は江古田駅の北口を出て左右にそれぞれの校門へと向うわけだが、池袋から電車に乗って、車内の大学生らしき女性を見た時、なかなか素敵だなあとおもえるのはたいてい左へ、つまり武蔵野音楽大学へ、これはひどいといったのは、まぎれもなく右、日大芸術学部へ歩を進めていた。
 その後時が流れ、何とぼくは日大芸術学部美術学科の講師を依頼された。専門はイラストレーションだったが十二年間勤務し、馬鹿馬鹿しくなってやめた。それでも当時ぼくのゼミなどを取った学生の数人はイラストレーターとしてそこそこ活躍している。(略)
 そんなことをおもいつつ、今回の「美女散歩」は、西武池袋線の沿線、江古田駅から石神井公園あたりまで歩いてみることにした。まずは江古田駅北口へ出て、日大の芸術学部まで歩いてみた。通りはそのままだが、建物等はすっかり変っている。入学した頃のことを思い出してみた。応援団長は演劇学科におり、映画監督になつた山本晋也さんだった。小柄な人だったが妙な迫力を身につけていた。写真学科の三年生に、今や世界的写真家である篠山紀信さんがいた。ぼくと同年に入学した串田和美さんは今や役者としても演出家としても大活躍している。理由は不明だが、とにかくマスコミで活躍している日芸出身者は多い(少ないのは美女だけである)。まだ新しい日芸キャンパスを眺め、また江古田駅北口へもどった。>>

以下は2017年度日芸ミスコン。
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この画像は、ツイッター「ミス日芸コンテスト」@NUA_missconよりRT(お借りした)。元コスプレイヤー
綾音(あったん)氏はセンターにいる。レイヤー(高校時代)として高校1年当時から人気があり、ツイッターのフォロワーも早くから1万人をはるかに超えていた。日芸に入学してからは、局アナが最終目標。
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授業が終わってから、終了間際のコスプレ会場に駆けつけ、制服のままポーズ。一緒に来たクラスメート(ただの付き添い)の子、足許に転がっていたスクバのことが思い出される。ネクタイに日大の「N」が織り込まれている。高校は知られていないと思われるが、両国にある附属高校。
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高校3年当時のコスプレ。アマチュアカメラマン50人ほどに取り囲まれる人気レイヤー。高校時代から物怖じせず堂々としており、その点では訓練できている。ミスコンのトップは確実だろう(ほぼ応援)。
結果は、「ミス日芸コンテスト」https://twitter.com/NUA_missconで発表される。
で、結果は、ミス日芸としては「芸度」が不足しており、1位は、No.5斉藤瑞季が獲得。

「小説現代」2007年2月号〜2014年4月号隔月連載初出
エッセイ「東京美女散歩」安西水丸2015年3月講談社刊より抜粋
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2017年10月04日

高円寺 駅前ガ噴水ガ広場ガ  園子温「孤独な怪獣」より

映画監督園子温(その しおん)は、愛知県の高校を卒業後(1980年)、直ちに上京。自らの居場所を求めて彷徨を始める。麻布十番のはずれにあった天井桟敷館で寺山修司とまみえたのもこの頃だ。その後、法政大学に入学するが、まもなくして中退。
1994年、高円寺を拠点にしてパフォーマンス集団「東京ガガガ」を結成、その集団を率いて都内各地で街頭演劇的なパフォーマンスを繰り広げる。翌年、「東京ガガガ」の活動は頂点をむかえるが、終息も早かった。この間の「うらぶれた青春の遍歴」を園子温自らがエッセイ「孤独な怪獣」で述べている。
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高円寺での園子温監督作品「ひそひそ星」パブリシティ現場。高円寺にはガガガがよく似あう。

<<中央線沿線に住んでいた頃はやけくそだった。その中でも、高円寺に住んでいた時代は、格別にヤケクソだった。八十年代の終わりの頃。あっという間に二十代が過ぎて、三十代にさしかかっても、まだ映画監督になれるチャンスなどなく、その気配もなく、「さあて今日、どこかへ行こう」と思いつくもその金もなく、金の入る気配もなく、つまり俺にはその頃、何にもなかった。
中央線沿線を上り列車で通過する各駅停車の駅名を読み上げていくと、俺のくだらない青春時代を走馬灯のように回想するハメになる。
長い日本列島縦断放浪の末、二十二才で大学に入った年に正式に東京に引っ越した。最初の最寄駅は、西荻窪駅だった。一年間、西荻窪に住んだ。西荻窪で二回引っ越している。大学中退。くすぶり始めた青春。次が荻窪駅。くすぶりまくる青春。そのあと阿佐ヶ谷駅ときて、ついに聖地、高円寺に辿り着く。
その頃俺はもう立派に青春をこじらせて完壁なダメ人間に成長を遂げていた。ダメ人間の終着駅、それが燦然と輝く高円寺駅だった。略)>>
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高円寺駅南口前の噴水広場。

<<そこに住む奴はみんな似た者同士だし、何しょうが、どうせお互い様って思ってたから。当時、高円寺というぬるま湯につかって暮らしている俺達はどっぷりとこの町に甘え切って、最低の生き方をしていたと思う。俺達はだから、高円寺から出たがらなかった。高円寺から一歩外に出ると、地球は暗くて寒くてつらい。現実的すぎる。偶然、鏡を見てしまって呆然(ぼうぜん)と突っ立っている野良猫が、自分の姿に驚くように、見たくもない自分を知るハメになる。
そうだ、俺たちにとって下北沢なんてオシャレすぎる。原宿はまぶしすぎる。渋谷は軽すぎる。われら貧乏人の反吐(へど)や涙の土砂をのせて中央線上り列車で行く最高の賛沢は新宿駅に降り立つ事だった。最も豪華な駅が新宿。だから、そこはたまにしか行かない。なぜってお金がないから。金がある時に勇気をふりしぼって、ネオン輝くあこがれの町、ネオン輝く新宿の巨大居酒屋で豪華に飲むのだ。ビールをおかわりしてしまうのだ。常日頃は、もちろん高円寺のそのへんで飲む。そのへんとは、高円寺駅前の噴水広場のあたりのそのへん。そのへんで地べたにしゃがみこんで飲むのもいいし、金のありそうな(といってもせいぜい二、三千円だが)そのへんの若者にたかって、そいつのおごりで、そのへんの部屋でオールするもよし。そのへんの女をナンバして、「飲ませて! やらしてあげるから」などという不条理なナンバも、高円寺では不思議と許された。そんな時、いつだって高円寺のおおらかな女たちはちょっと困って笑いつつも優しく「いいわよ」と部屋に入れてくれた。彼女の家の彼女の冷蔵庫から彼女のビールを何本も支給してくれたし、しまいには彼女の体もくれた。何てありがたき高円寺。我々の聖地だったんだ!!(略)>>
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<<今日、久しぶりに高円寺を歩いたばかりだ。二〇一五年型の高円寺は、味のない綺麗な普通の町に見えた。あの頃の高円寺で見かけた尻軽の、途方に暮れた貧乏人に施す素敵な尼さんのような女はもう見当たらない。>>

大資本が次々と資金を供給する人気監督となった園子温氏は、現住、当時の高円寺とやや似た顔をもつJR大塚駅近くに拠点を構えている(連絡事務所だけか?)。フィルモグラフィーは憶えきれないほど数多くの作品が居並んでいるが、いまだに執心する作品「うつしみ」(1999年)を凌駕する一本は見いだせないでいる。「うつしみ」は園子温の「気狂いピエロ」なのだ。
「うつしみ」の渋谷円山町ロケ現場(廃虚のアパートに女子高生役澤田由紀子がパンツをみせながら金網を乗り越えるシーン)から1枚。
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フェンスを乗り越えて入り込んだアパートは解体され、跡地にはツタのからまる人気カジュアルブランドの建物(galaxxxy本店)が建っている。金網は当時のままだ。

参考:「園子温 悪魔のDNA」2013年祥伝社刊
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代々木上原 代々木上原駅千代田線ホーム 松本清張「清張日記」より

昭和56年2月17日の日記から。内容は記述の通り、執筆の鬼たる松本清張氏ただ一人、小田急線からの乗り換え千代田線3番ホームに、雪が舞うなか寒さに身を縮めポツンと立ち続けている。想像し難い光景なのだ。
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代々木上原駅千代田線3番ホーム、清張氏下唇を寒さに震わせながら、この辺に立っていた気がする。
清張氏はヘビースモーカーなのだ。4〜5本は燻らせただろう。現在ホームは全面禁煙。

<<二月十七日(火)
午前十一時半、小田急代々木上原駅で待合せ。桜井君来たらず。電車を何台もやりすごす。我孫子(あびこ)行のホームにぼつんと立っていると、森繁久弥(*俳優)来る。帝国劇場(「屋根の上のヴァイオリン弾き」公演)に行くにはこの線(千代田線)の利用がよいとのこと。女性座員を随えたる森繋が問う。「こんなところに一人で何をしているんですか?」。ホーム寒し。桜井君来る。十一時五十一分発の電車に乗る。我孫子まで一時間十五分。雪やまず。>>
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「松本清張全集65日記エッセイ」1996年文藝春秋社刊より抜粋。

松本清張リンク
京都 円山公園 いもぼう平野屋本家 松本清張「球形の荒野」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/322024530.html
奈良 薬師寺から唐招提寺への道 松本清張「球形の荒野」より http://zassha.seesaa.net/article/448074331.html
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2017年09月30日

渋谷道玄坂 ラブホ青トカゲ猟奇事件 横溝正史「夜の黒豹」より

渋谷道玄坂のラブホ「女王」の8号室で、昭和35年11月の深夜、奇怪な事件が発生した。  
アベック客の黒ヒョウを思わせる雰囲気の男の方は何処かへ姿を消し、ベッドに残された女の首にはナイロンの靴下が巻き付けられ、動くたびに喉を締め付けるように細工されていた。苦悶に白い裸身をくねらせる女の乳房には、なんと青いトカゲが・・・。
金田一耕助シリーズ(「八つ墓村」「犬神家の一族」「病院坂の首縊りの家」など)の一篇であるこの作品は、先に発表された短編「青蜥蜴(あおとかげ)」を長編化したもので、刊行(昭和39年8月)に際しタイトルを「夜の黒豹」に改めている。
横溝正史(よこみぞせいし)「夜の黒豹」春陽堂書店(春陽文庫)1997年刊より抜粋。

<<あのとき犯人がもっと用心深くドアを閉めていったら、葉山チカ子と名乗るあの女もあのまま絶命していたのではないか・・・と、後日そのときのことを思い出すたびに、山田三吉は身震いをせずにはいられなかった。犯人もはじめてのことだったのであわを食ったにちがいない。ホテル女王のベル・ボーイ山田三吉がその部屋のそばを通りかかったとき、ドアが細目に開いていた。三吉はそのときおなじ三階の三号室へ、ウィスキー・ソーダとコカコーラを運んでいってのかえりだった。三号室の客は、男と女のアベックで、泊まりではなかった。二時間ほどのショート・タイム。ホテル女王では、こういう種類のお客様を御商談様と呼んでいる。
 ホテル女王・・・と、名前は堂々としているが、じっさいはわりと安直な建物である。三階建ての地下室がバー、地階がレストランで、二階と三階がホテルになっている。場所は渋谷の道玄坂百軒店(ひゃっけんだな)のほどちかく。もちろん、ホテルだからほんものの泊まり客があることはいうまでもないが、渋谷にちかい場所柄もあって御商談様も多いのである。ホテルのほうでも心得ていて、そういうお客様とみると、だまっていても三階へご案内することにきめている。
 三階には部屋が七つある。三つずつ並んでむかいあっており、ひとつだけ離れた部屋が階段とエレベーターをあがっていった左側にある。それが問題の八号室だ。部屋が七つしかないのに八号室まであるのは、いうまでもなく四号室が欠番になっているからである。(略)>>
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渋谷道玄坂上(正確には円山町)のラブホ街。めずらしく人の気配がない・・・不気味だ。

<<八号室のこんやの客を山田三吉はおほえていた。
男と女のアベックだった。女は一見してストリート・ガールかコール・ガール。ただし、服装からそうにらんだだけで、顔はほとんど見えなかった。ネッカチーフのようなもので額のうえまで包んでいた。大きなサングラスをかけていた。服装はあんまりよいとはいえなかった。男は黒ヒョウのようにつやつやとした漆黒のオーバーをゾロリと着ていた。オーバーのえりをふかぶかと立てているうえに、これまた黒いつやのあるマフラーであごから鼻までかくしていた。まぶかにかぶった帽子も、黒ヒョウの毛皮のようにつやつやとした光沢をおびていた。これまた大きなサングラス。ひっそりとした、足音のない歩きかたがネコを連想させるような男であった。しかし、それはこういうホテルの、しかも御商談様にはありがちのことである。>>
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<<意を決した三吉は、ドアのなかへ首をつっこんだ。廊下からさしこむ光線で、べッドのうえに白い裸身がうごめいているのが見え、三吉はいっしゅんひるんであとじさりした。しかし、女の下半身が毛布におおわれているようなので、いくらか安心して部星のなかを見まわした。男の姿は見当たらない。
「もしもし、どうかしたんですか。お連れさんはどこに・・・?」
返事はなくて、そのかわりなにかを訴えるようなうめき声が聞こえ、白い裸身がムクムク動いてベッドがきしんだ。三吉は思いきって壁際のスイッチをひねったが、そのとたん、心臓がロからとび出しそうに躍動した。女の首にナイロンのくつ下が巻きつけてあり、その端がベッドの頭の鉄柵にゆわえつけてある。女が身動きをするたびに、首にまきついたくつ下が女ののどにくいこむのだ。女のロにもナイロンのくつ下の片っぽがさるぐつわのようにはめてある。胸のうえで組み合わされた手首は、バックル性のベルトで縛られていた。(略)
三吉は女のロからさるぐつわを解きにかかったが、そのとき組み合わされた両手の下から、妙なものが見えたのに気がついた。
「なんだい、こりや・・・」
女はいやいやをするように首をふった。両手で胸をかくそうとした。三吉はむりやりにそれを押しのけて、おもわず大きく目をみはった。女の胸には、むっちりとふたつの隆起が盛りあがっている。ピンと張りのあるよいふくらみだ。そのふくらみの頂点に、ふたつの紅玉(*乳首のこと)がぬれたような色をしてちりばめられている。しかし、いま三吉が目をうばわれたのはそれではない。盛りあがった乳房と乳房のあいだに、妙な彫り物がしてあった。いや、彫り物ではない。そんな危険な場所に入れ墨ができるはずがない。それに、マジック・インキの強いにおい! トカゲのようである。乳房と乳房のあいだのなめらかな素膚(すはだ)のうえに、青いマジック・インキでかかれたトカゲが一匹吸いついている。青トカゲの上半身は、女の左のふくらみにはいあがり、前脚で張りのある乳房に吸いついている。ニョッキリもたげたかま首は、いままさに貴重な紅玉にむしゃぶりつきそうだ。しつぽは右の乳首につよく巻きついていた。(略)>>
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<<ちょうどそのころ、金田一耕助は警視庁の第五調べ室で、等々力(とどろき)警部や新井刑事をあいてに、駄弁を弄していた。金田一耕助は相変わらずだ。えりあかによごれた大島の対によれよれのはかま、スズメの巣然としたもじゃもじゃ頭をかきみだして、イスに埋まったかっこうはいまにもズッコケそうである。ちかごろ不眠症で困るなどといいながら、眠そうな目をショポつかせているところへ、高輪署から一件の報告が入ってきた。電話で報告を聞きおわった等々力警部は、金田一緋助をふりかえってニヤリと笑った。
「金田一先生、どうやらあなたの不眠症を治療するにゃもってこいの事件ですぜ」
「なんのこってす、そりや・・・」
金田一耕助はたいぎそうに目をショポつかせた。いまやこの世になんの興味もないといわんばかりの顔色である。
「高輪のホテルで、女がひとり殺されたって報告がいま入ったんです。さあ、いっしょにいこうじゃありませんか」 (略)>>

(*)注釈は原文には無し。ルビは適宜振りました。
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2017年03月20日

難司ケ谷 夏目漱石墓改葬式典 井伏鱒二「五十何年前のこと」から

井伏鱒二のエッセイ「五十何年前のこと」に、たまたま散歩中に遭遇した夏目漱石の墓の改葬式典の模様がリポートされている。漱石の弟子筋の久米正雄や芥川龍之介らの参列がチェックされている。漱石の娘筆子の姿には筆が及んでいない。参列していないはずはない。筆子と久米正雄のスキャンダラスな恋愛事件を井伏鱒二は気にとめる様子はない。

井伏鱒二「五十何年前のこと」から。
<<難司ケ谷墓地の漱石の墓は、私が上京當時には西側の大きな銀杏の木のそばにあつた。
高さ一丈ぐらゐ、六寸角の白木の墓標に「夏目金之助墓」と書かれてゐた。土を少し盛りあげて立て、太い竹筒の花立が打ちこんであつた。いつ見ても清掃が行きとどき、花立には新しい榊が供へてあつた。たぶん清掃は、西側出入ロのわきにあつた花屋が受持つてゐたのではないかと思ふ。
そのころ私は難司ケ谷墓地を自分の散歩区域に入れてゐた。>>
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(写真)井伏鱒二の散歩道、難司ケ谷墓地。2007年撮影。

<<それから間もなく、大正七年か八年か確かなことは覺(おぼ)えないが、現在の漱石の墓が出來た。ある日、私が西側の出入ロから墓地に入つて行くと、漱石の墓標のあつたところが掘り返されて赤土が乱雑に盛りあがつてゐた。何ごとかと思つて見廻すと、西側出入口から正面につづく道に二十人あまりの人が一團(いちだん)になつて、そのほとりに四十人あまりの人がゐた。私はその場へ行つて、今日は漱石の墓が改葬される日だといふことに氣がついた。四十人あまりの人は主に女子大學生や漱石の愛讀者ではなかつたかと思ふ。嚴粛にして立つてゐた。私も脱帽してその人たちの群れに入つた。二十人あまりの人の一團は改葬の式に参列した人たちである。そのなかに寫眞(しゃしん)で私の知つてゐる人たちがゐた。
久米さんと芥川さんはすぐ分つた。久米さんは焼香しに進み出るとき、上體(*上体)を前にちよつと突きだすやうにして大胯(おおまた)に歩を運んだ。>>
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(写真)六寸角の白木の墓標の「夏目金之助墓」から正式墓に改葬された「夏目漱石墓」。

<<私は漱石の作品に魅力を感じてゐた。今でもさう思ふが漱石は見上げるやうな大作家であると思つてゐた。私が初めて漱石の作品を讀んだのは、中學の二年生か三年生ごろの春休みのときであつた。「彼岸過迄」であつたか「門」であつたか忘れたが、大阪朝日新聞の連載を讀んでゐると、同じ文章のものが二日つづけて出た。どうも不思議だと思つたので、近所のうちへ春休みで歸省中の學校先生のところへ質問に行つた。すると先生は、自分もその連載は毎日愛讀してゐるが、昨日と今日と同じものだとは気がつかなかつたと云つて新聞を出して來た。見ると、矢張り二日とも同じ文章である。先生は不思議さうにして、「どうして気がつかなかつたらう。しかし、何度でも讀める文章だからな」と云つた。(以下、略)>>
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   (写真)墓石正面。
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   (写真)墓石陰面。
*ふり仮名は原文には無い。新旧字体混在(理由:変換が大変なので)。
「五十何年前のこと」「漱石全集 月報一」昭和40年12月初出
井伏鱒二「文士の風貌」福武書店1991年刊に収録
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2017年03月18日

目白 谷崎潤一郎の仕事部屋 谷崎松子「倚松庵の夢」より

昭和38年(1963年)4月、谷崎は、あれほど気に入っていた熱海伊豆山の山荘(雪後庵と命名、「細雪」の印税で購入したことに由来する)を売却し、湯河原に新たな土地を取得し移住を決める。完成までの間、とりあえず熱海市西山町の故・吉川栄治別荘に身を移すが、同年10月には都心に仕事場を兼ね備えた新たな仮住まいを探し出す。ここで翌年(昭和39年)早々からライフワークとも位置付けられる「源氏物語」(新々訳)にとりかかり、湯河原の邸の完成を待つ。昭和39年7月に湯河原町吉浜蓬ヶ平に新邸が完成し、文京区関口町の目白台アパートでの仮住まいは終る。
目白台アパートの6階に住んでいた瀬戸内寂聴のエッセイによれば、「地下に大きな部屋を二つ借りられ、六階に仕事部屋を一つ持たれている」という。驚きの同階エピソードを読むと微笑ましく、笑ってもしまう。

谷崎潤一郎の愛妻谷崎松子のエッセイ「倚松庵の夢」から。
*倚松庵(いしょうあん)とは谷崎が名付けた関西時代(東灘区)の住居名で、「松」は、松子の一字で、松子に倚(よ)るの意。
<<上田教授は二年目位に再発があるかも知れない、その時には生命の危険があると私に話された。怖れた二年目は無事に過ぎ、三年目の夏から、又も軽微な発作に襲われ、検査を受ける為にもと、心臓研究所の附属病院に入院、一カ月以内で退院を許され、生命を脅かされることもなく過ぎたが、あくる年の一月、目白台アパートに仮住居していた頃、発作頻々、再び心研へ入院、此の時は二時間にわたる大発作があり、心電図もSTが逆転と云う変化が起り、先生方も首をかしげられた。薄氷を踏む思いの目がつゞきはじめた。三月に入って東京の空にも春色がおぼめき出し始めると、先生が何と云われても退院すると聞き入れなかった。幸い心電図も安定したので退院した。日に三十分位の散歩は心臓の為にもよく頭も呆けない、と云われたので毎日散歩を欠かすことなく、よく江戸川公園や、元細川邸祉の新江戸川公園へ同じ目白台アパートにいた観世の孫を誘って出懸けた。>>
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(写真)目白台アパートから坂を下り、杖を携えた谷崎がゆったりとした足取りで散策した姿が思い浮かんでくる。退院直後には川沿いの桜並木は満開を迎えていたであろう、桜花を愛(め)でた谷崎には、病院のベッドにいることは耐え難かったのだろう。 
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江戸川公園を川沿いに遡ると、芭蕉庵(芭蕉が河川工事を督していた期間、庵を結んだ)・水神社と過ぎ、やがて新江戸川公園があらわれる。細川家下屋敷(抱え屋敷)跡が公園として整備され、庭園・建物が一般開放されている。 
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(写真)新江戸川公園。

同じ屋根の下というか、おとなりさんであった瀬戸内寂聴の谷崎潤一郎観察記を紹介。
<<私が現実に谷崎さんの実物に逢ったのは、昭和三十九年(一九六四)の正月一日だった。その頃私は東京の文京区関口台町の目白台アパートに住んでいた。椿山荘の近くにあり、その頃はやりだしたマンションのはしりだった。入ってみたら、芸能人や、銀座のバーのマダムなども住んでいて、作家たちの仕事場にもされていた。そこへ谷崎さん一家が越してこられたのだった。>>
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<<最後のお住いになる家を湯河原に建てている間、臨時に住まわれたというわけらしい。アパートのエレベーターに急に若い美しい娘さんが多くなったと思ったら、その人たちは谷崎さんの『台所太平記』に出てくるお手伝いさんたちであった。松子夫人と妹の渡辺重子(*しげこ)さんも御一緒だった。地下に大きな部屋を二つ借りられ、六階に仕事部屋を一つ持たれている様子。私の部屋も六階で、エレベーターを降りると、谷崎さんの仕事部屋の前を通らなければ、自分の部屋に辿りつけない。私はそのドアの前を、足音をしのばせて息をつめて通りすぎていた。時たま、「あやかりますように」とドアを撫で、その掌で自分の頭を撫でていた。>>
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<<お手伝いはよく見かけるが、谷崎夫妻には出逢ったことがなかった。
三十八年も暮れて、三十九年の新春を迎えた時、ふと窓から外を見ていると、アパートの入口で車を降りる舟橋聖一さんの姿が見えた。私はたちまち身をひるがえして廊下を走り、エレベーターで階下にとんでいった。
「先生! おめでとうございます。谷崎先生のところにいらっしゃるんでしょう。私もつれてって下さいませんか」舟橋さんは呆れたように私の顔を見たが、
「谷崎先生に伺ってからでないと。あなたの部屋は何番ですか」
と、言い捨てたまま、さっさと地下へ降りていった。
「先生がお逢い下さるそうですから、すぐ来なさい」
電話が部屋にかかり、舟橋さんの声でそう言われた時、自分で頼んでおきながら、夢ではないかと思った。廊下を走り、エレベーターに飛び乗り、地下まで降り、谷崎さんの部屋に行きつくまで雲の上を歩いているような気持だった。ドアをあけると、広いリビングに大きな応接セットがあり、右側の椅子に埋められたように小さな老人がかけていた。(略)>>
瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」日経新聞出版社2008年刊より抜粋。

参考 年譜「谷崎潤一郎全集第26巻」中央公論社1983年刊

谷崎潤一郎リンク
神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より http://zassha.seesaa.net/article/443072199.html
京都嵯峨朝日町 車折神社 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442840656.html
京都伏見 淀古城 谷崎潤一郎「盲目物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443206554.html
大阪船場・御霊神社 御霊文楽座 谷崎潤一郎「青春物語」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443158094.html
大阪南 旅館(待合)千福とカフエ・ユニオン 谷崎潤一郎「芥川龍之介が結ぶの神」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/432273298.html?1493981055
京都宇治 平等院鳳凰堂 谷崎潤一郎「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/423690257.html
京都島原 角屋(すみや) 谷崎潤一郎 「朱雀日記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/424681960.html?1494858522
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2016年11月02日

荻窪清水町 井伏家に身を寄せる太宰治の元妻小山初代 井伏鱒二「琴の記」より

昭和12年(1937年)3月下旬、太宰治は水上村谷川温泉の山あいで、不倫が発覚した妻初代と心中未遂事件を起こす。初代は離別を告げられ、太宰の師である井伏鱒二家に一ヶ月余り身を寄せる。

<<私のうちには、琴、三味線を弾くものは一人もいない、しかるに、昭和十二年の初夏から去年の十二月下旬まで、朱色の袋に入れた山田流の琴が一面あつた。その附属品として、琴爪を入れた桐の小箱もあつた。この琴は、太宰治君の先の細君が(初代さんといふ名前だが)太宰君から離別された直後、いろんな家財道具と共に私のうちに預けておいたものである。当時、初代さんは青森県の浅虫の生家へ引きとつてもらふ話をつける間、私のうちへ一箇月あまり泊つて待機してゐた。離別された事情が事情(注1)だから、初代さんは生家へ引きとつてもらへないかもしれぬといふ不安があつて、はたの見る目もあはれなほど途方に暮れてゐた。茶の間の濡縁(ぬれえん)に私の家内(注2)と並んで腰をかけ、涙をぽたぽたこぼしてゐるのを見たことがある。
太宰君は初代さんに離別を云ひ渡したとき、家財道具いつさい初代さんに遣つてしまつた。理由は、初代の不快な記憶のつきまとふがらくたは見るのもいやだからといふのであつた。そこで太宰君自身はどうかといふに、自分の夜具と机と電気スタンドと洗面道具だけ持つて、私のうちの近くの下宿(注3)に移つて来た。着のみ着のままであつた。>>
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初代が身を寄せた当時の井伏家(昭和2年9月竣工)は、昭和34年4月の建替工事を前にして
取り壊された。写真は昭和34年7月に完成した井伏家。
昭和2年当時の住居表示は、豊多摩郡井荻村下井草1810。
その後、杉並区清水町24番と変更になり、現在は清水1-17-1。

<<太宰君は初代さんが私のうちにゐる間にも、たびたび私のうちへ将棋を指しに来た。そのつど初代さんは茶の間か台所にかくれたが、書斎と居間を兼ねた私の部屋は台所と壁一重である。わたしのうちは建坪が少くて、茶の間から便所へ行くには私の居間につづく廊下を通らなければならないので、初代さんは便所へ行きたくても我慢しなければならないことになる。だから私は将棋は一番だけにして太宰を誘つて外出する。外出してから一緒に飲むやうなことがあると、太宰の上機嫌になつてゐるところを見はからつて、どうだ君、初代さんとよりを戻す気はないかと云ふ、すると太宰は、居直つたかのように、きつとして、その話だけは絶対にお断りしたいと、きつぱりした口をきく。そんなことが二度か三度かあつたと思ふ。そのくせ彼は、別れた女房が万一にも短期を起しはせぬかと、はらはらしてゐるやうなところがあつた。>>
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注1 不倫。相手は太宰の親類(義弟)で当時、帝国美術学校西洋画科(武蔵野美術大の前身)の
  学生だった小舘善四郎(こだてぜんしろう)。太宰が薬物治療で東京武蔵野病院に入院中に
  小舘と姦通。昭和12年3月上旬、小舘は友人と太宰夫妻が住む碧雲荘(地図参照)を訪れた際、
  二階(?)の便所で横に並んだ太宰に前年の初代との事を喋ってしまう。太宰は初代を厳しく詰問。
  初代は過失を告白せざるをえなくなる。太宰と初代は、直後(3月20日頃)に水上村谷川温泉の
  山間で薬物による心中未遂事件を起こす。
注2 井伏鱒二の妻節代。昭和2年9月下旬に新居(現在地と同じ場所)が完成した直後の10月に結婚。
注3 昭和12年6月21日、太宰は碧雲荘から同じ町内(天沼1丁目213番)の下宿鎌滝富方の
   二階(四畳半)に単身で移転する。
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「琴の記」昭和35年3月週刊朝日別冊初出 「井伏鱒二自選全集第9巻」新潮社1986年刊より
参考 「井伏鱒二全集別巻2」筑摩書房2000年刊収録の年譜他
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2016年09月30日

下北沢 レ・リヤン よしもとばなな「もしもし下北沢」より

単行本「もしもし下北沢」が発売された時点で、舞台となったフレンチレストラン「レ・リヤン」は、すでに閉鎖されて1年以上が経過しており、建物そのものも解体され更地となっていた。現状は駐車場で、なにひとつ痕跡を残していない。

<< お母さんをむりやり立たせて、ほとんど寝間着のままでふたりでタクシーに乗り込み、下北沢を目指した。何回か友達と行ったことがある、私の知っているいちばんおいしいかき氷があるお店レ・リヤンを思い描きながら。お店のドアをあけたとたんに冷たいクーラーの風と熱気が混じり合って、なんともいえないまだらな感じがきゅっと体をとらえた。私たちはいちばん奥の窓辺の二人がけの席にどちらからともなく座り、ため息を同時についた。 (略)
夏が終わり、かき氷の季節が終わり、秋が来て、冬になっても、私たちはレ・リヤンに行った。
店のある建物、露先館の角にある大きな桜の木に花が満開になる頃には、お母さんも私も普通に飲んだり食べたりできるようになっていた。 >>
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(ピュアロード入り口に並ぶレ・リヤン=茶沢通り沿い角の三角窓のある二階家と店に寄り添うように枝を拡げる桜の大木。露先館こと露崎商店は角から2軒目のレトロな建物。携帯撮影2007年。)

<< だから、一人暮らしと同時にためらいなくレ・リヤンで働き始め、それをとにかく生活の中心にしようとすぐそばに部屋を借りたのは、私にとって当然のことだった。
(略)
夜中の街の空気は澄んでいた。胸一杯に冷たい空気を吸い込んだ。体に残っている熱が奪われるのが切なかった。タクシーに乗って、私は言った。なにかを大丈夫にする呪文のように。
「下北沢まで、お願いします。」
胸がいっぱいすぎて何も考えられず、私は茶沢通り沿いの駅の入り口のところでタクシーを降りた。>>
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(下北南口前は道幅が狭く歩行者も多いため夜でも茶沢通りの駅入口信号でタクシーを下車するのが慣例となっている。深夜早朝は除く。まさにその場所で信号待ちの間に携帯でパチリしたもの。2003年撮影と年代物)
<< なによりも体中がまだ山崎さんの体のぬくもりでいっぱいだった。それをそっと宝物のように抱いて、私はあずま通りを抜けていって王将の前に出た。王将はこうこうと明るく活気に満ちて、たくさんの人たちがごはんを食べていた。それをガラス越しに見ると、いい気分になる。 >>
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(スパイス使いがぬるいカレー屋に入るなら安定の王将・・と呟きながら時々はいる店)

<< 私は左に折れてもう一回茶沢通りに出て、お店があった場所に行った。真っ暗になっているが、まだ建物は残っていた。もうすぐ空き地になって、桜も切られてしまう。あんなに美しく夜道を彩っていた命が消えてしまう。 >>
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(よしもとばなな氏と同じ頃に確認のため訪れた時の撮影。立退きの張紙が・・・)

<< 私が毎日あけたあの木の重い扉ももうすぐこの世からなくなる。>>
    文庫版「もしもし下北沢」幻冬舎より抜粋。

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経過
2008年12月31日「ブラッスリー レ・リヤンles liens」閉店。
2009年3月 古道具(アンティーク)露崎商店とともにレ・リヤン解体更地に(桜も伐採)。
2010年9月 単行本「もしもし下北沢」毎日新聞社から刊行。
2012年8月 文庫版「もしもし下北沢」幻冬舎から刊行。
参考地図
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大阪難波 一芳亭のしゅうまい 吉本ばなな「ヨシモトバナナコム2」より http://zassha.seesaa.net/article/442048722.html
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2016年09月17日

渋谷 のんべい横丁 安西水丸「東京美女散歩」より

作家村上春樹の古い友人で、イラストレーターを本業とする安西水丸(本名渡辺昇、元・日大芸術学部講師)のエッセイ「東京美女散歩」は、文芸誌「小説現代」に2007年2月号〜2014年4月号まで隔月で長きにわたり連載された。そのエッセイ群のなかから、安西水丸氏の美女遍歴(美女でなさそうな人も含む)のエピソードのひとつが語られている「のんべい横丁」部分を抜萃(「渋谷あたり」篇より)。
再開発の波に飲み込まれそうで飲み込まれず、しぶとく山手線渋谷駅のすぐ脇のエリアで営業を続ける戦後闇市の残滓、誰が呼んだか「のんべい横丁」。戦後まもなく飲食関係の店の営業が統制(飲食営業緊急措置令)され、ほどなく廃止(1949年)されると同時に各地(池袋・新宿・渋谷など)に生れた飲食街のひとつで、新宿西口のしょんべん横丁(東口のハモニカ横丁は区画整理で消滅)と並び今日まで存続している。

<<山手線のガード下、宮下公園入口へのびているのが「のんべい横丁」だ。
三十代半ば、はじめてこの横丁に連れられて来た時、何でこんなところで酒を飲まなければいけないのかとおもったが、しつかりと酒道に入った今、案外こういうところが好きになっている。
雨の日や雪の日の「やつれ酒」には、こんな場所がいい。>>
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<<「のんべい横丁」では「野川」という飲み屋に何度か入っている。一番記憶にあるのは田中美佐子(仮名)と行った時のことだ。彼女とはぼくが某大学で講演した時に知り合った。ぼくは四十代に入ったばかりで、田中美佐子は二十三歳の大学生だった。その時飲む約束をしたのが何とも貧乏臭いことにこの「のんべい横丁」の「野川」だった。ここでしか飲めないという凍結した日本酒を教本飲み、ヘベれけになった。
「そろそろ帰りますか」
ぽくは言った。彼女は東急東横線の日吉に家族と暮していた。終電が近かった。
「これからどうしますか?」
彼女がぼくをじっと見て言った。どうするかって、何考えてんだよ、とおもつたが、意外にもぼくは機に際して敏である。今でも円山町のホテルの一室の造花のバラのオペラピンク色は鮮やかに頭の奥に焼きついている。(略)>>
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安西水丸氏は逝ってしまった(2014年3月19日71歳で逝去)が、のんべい横丁「野川」は今も健在である。営業は夕方から始まる。年齢の離れた、付き合いの浅い女と一緒だったなら、20時くらいには店に入り、23時過ぎには、酔いでとろんとした瞳で見つめあって、視線をねっとり絡み合わせてから円山町のラブホ街へ移動するのが水丸流だろうか。ヒントが「造花のバラ」だけではラブホの特定は困難、捜すなということだ。
なお「野川」の定休日は、土曜・日曜。

エッセイ「東京美女散歩」安西水丸2015年3月講談社刊より抜粋。  
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2015年06月01日

世田谷 安藤忠雄設計 東急大井町線上野毛駅

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2011年3月に完工した東急大井町線上野毛駅新駅舎。設計は安藤忠雄(東大大学院工学系研究科建築学専攻名誉教授・安藤忠雄建築研究所主宰)。所在地は世田谷区上野毛1-26-6(二子玉川駅から自由が丘方面一つ目の駅)。駅構内コンコース(地上レベル)から掘割に設置されたプラットホームを見る。溶解亜鉛メッキされたスチールの梁と柱に視線が奪われる。
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(左写真)上野毛通りを覆って東西の駅舎を繋ぐ大屋根(バス停の屋根も兼ねる)。採光のための8m径の円形の穴が穿かれている。 (右写真)東側の掘割を跨ぐ上野毛橋から駅舎を覆うガルバリウム鋼板製の大屋根。
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(左写真)上野毛通りを覆う大屋根の右側先(環状8号傍ら)に旧木造駅舎の正面出入口があった。上野毛通りを直進し多摩川に下る坂道に沿って住居を構えていた作家の故・吉行淳之介氏は、1994年(平成6年)7月に逝去したため、この斬新な駅舎への改築計画を耳にすることはなかったであろう。吉行氏のエッセイにも綴られているように、この駅前を通り過ぎた(左写真の真後ろ)ところにあるパチンコ屋に度々通われていた(吉行氏は「第1回パチンコ文化賞」受賞者)。存命していたら、この大穴めがけてパチンコ玉を親指ではじき飛ばしていたかもしれない。 (右写真と下写真2葉)駅舎の壁面に設けられている設計コンセプトと建築概要(サイン入り)。
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「安藤忠雄の建築3 日本」(TOTO出版2008年刊)のP45に安藤忠雄氏のスタディスケッチ(上野毛駅の駅舎全体のイメージ画)が掲載されている。
参考:「新建築」2011年7月号・新建築社刊
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2015年04月27日

小向美奈子被告 東京地裁 覚せい剤取締法違反で実刑判決

2015年4月27日(月曜)午前10時、東京地裁刑事第4部にて事件名・覚せい剤取締法違反(所持・使用)に問われた小向美奈子被告(29歳)に対する判決公判(鈴木巧裁判官)が開かれる。事件番号:平成27年特(わ)第319号等
判決公判の傍聴は、開廷30分前の9時30分から第1回公判(4月16日)と同じく地裁正面指定場所1番交付所で抽選となった。この事件は第1回公判で結審し、検察側は懲役2年を求刑(通常は執行猶予付き判決が出る)したが、「常習性が顕著」として「矯正施設への収容が必要」と補述していた。
午前10時の開廷後、直ちに判決が言い渡され、鈴木巧裁判官は再犯に同情する余地はないと検察側の要求通り実刑判決(懲役1年6月)を下した。
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2015年2月4日、東京都渋谷区恵比寿の自宅(当時)で覚醒剤を気化吸引したとして逮捕された事件現場。上写真は逮捕連行された自宅マンション玄関(ぼかし写真使用)。
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(左写真)2015年2月6日早朝、内偵中の小向美奈子容疑者が帰宅するのを待ち、小向と共に自宅マンションに踏込んだ関東信越厚生局麻薬取締部(千代田区九段)は、室内で覚醒剤約0・1グラム(正式には約0・05グラム)と吸引器具を発見したため午前7時頃に所持容疑で現行犯逮捕。マンション前(白の路上駐車枠)に停めてあった麻薬取締部の車両に酩酊状態の小向は捜査官に脇を固められながら押し込められた。小向の覚せい剤取締法違反関連での逮捕は3回目となる。 (右写真)逮捕前夜の小向の様子をレポートした「アサヒ芸能4月2日号」の新聞広告(2015年3月24日発売)。
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2015年01月30日

渋谷 大盛堂書店 藤田佳世「大正・渋谷道玄坂より

農村風景が広がっていた渋谷が「町」へと変貌をとげ始める明治後期、道玄坂下の宇田川沿いで一軒の本屋が創業した。宇田川は消滅したが、変わらずその場所で現在もその本屋は営業している。大盛堂書店である。
藤田佳世(かよ)の「大盛堂書店の後日」(「大正・渋谷道玄坂」1978年1月青蛙房刊収録)にその歴史が述べられている。
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創業地(渋谷センター街入口角)で営業を続ける大盛堂書店本店。2012年12月撮影。

<<渋谷駅前の大盛堂書店は、すでに七十年に近い歳月を道玄坂と共に歩んで来た店である。初代の般坂米太郎氏は山梨県の造り酒屋の次男として生まれたが、父の代に至って倒産の悲運に遭い、立身の道を東京に求めて上京した。米太郎氏が渋谷に来たのは明治四十二年であった。
渋谷には明治三十四年に与謝野鉄幹が道玄坂の裏手に、三十八年には国木田獨歩が坂の途中の「ばれん屋」という旅館に半年以上も滞在していた、というように、従来の農村の気風の中に、文士とよばれる人たちが新しく入って来てはいたが、明治四十二年になって、やっと町と呼ばれるようになった道玄坂は、まだ多分に残っている泥くささの中で、新しい街づくりに手をつけ始めたばかりであった。
米太郎氏は開業の資金を得るために屋台を引き、それに本を立て並べて、農大、国学院など、この周辺の学校を主にして書籍を売り歩き、二年間の刻苦の末に、道玄坂下、十字路の右側に書店をひらいたのである。まだ宇田川橋の欄干がここにあった明治四十四年八月のことであった。
(略)
二十年の歳月が飛んで、大盛堂は戦時「戦火による被害を最少限度に喰い止めるために」という名目で行なわれた強制疎開の枠に入り、なんら損傷もない店をむざむざ取りこわされた。>>
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左から右へ(現在の歩道あたりに)宇田川が流れ、大盛堂前には宇田川橋が架かり、省線(JR)の下をくぐったところで宇田川は渋谷川(現在は暗渠)と合流していた。

<<昭和二十年五月、道玄坂は焼夷弾の雨によって灰燼(かいじん)に帰し、一望の焼け野の中で終戦を迎えた。大盛堂の若き当主、舩坂弘氏は先ず一坪の地所に戸板を置き、その上に本を並べて売ることから焦土の街の第一歩を再起に踏み出したのである。
今は道玄坂下、渋谷センター街入り口(元の位置)と、西武デパート前に、営業面横八百坪に及ぶ綜合ブックセンター(*閉鎖)、いわゆる本のデパートを持つ大盛堂であるが、いま私がここに書きたいのは、店の規模の増大ではない。現当主舩坂弘氏の高邁な人柄とそれに伴う行為の真実である。>>
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大盛堂ブックセンター跡(渋谷区神南1−22−4)。現在はZARAビルに名称を変えている。通り側にジグザグに上階に向うエスカレーターが窓越しに見えていた。左手前のビルは西武渋谷店西舘。

著者藤田佳世は1912年(明治45)生まれ。3歳から渋谷で育つ。少女時代からの記憶をたぐり寄せた貴重な証言の数々を「大正・渋谷道玄坂」等の著作に残している。
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2015年01月11日

吉行あぐりさん 逝去

吉行あぐりさんが逝去された(本名は漢字で安久利)。
夫・吉行エイスケ(本名は栄助、ダダイスト・詩人)、長男吉行淳之介(芥川賞作家)、次女吉行理恵(芥川賞作家・詩人)らが集う遠い空の彼方へ2015年1月5日未明に旅立たれた。107歳。葬儀は近親者のみで終えられている。喪主は、長女で女優の吉行和子さんだった。
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(左写真)「あぐり美容室」(1階奥)があった五番町グランドビル。夫吉行エイスケ氏が戦前に求めた土地であり、木造二階建ての「あぐり美容室」が最初に建てられた場所である(ビル玄関よりやや坂下の位置)。写真右端に理髪のサインポールが見えるが、閉店した「あぐり美容室」の場所にそのまま入居した理容室の看板。90歳を過ぎてからは馴染み客に限って予約を受け付けていたという。閉店は2005年。閉店直後の2006年3月撮影。営業中の写真を撮れなかったことが悔やまれる。 (右写真)市ヶ谷新坂の自宅マンション。美容室の斜め向い側に長年にわたって住まわれていた。
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(左写真)岡山県御津草生(みつくそう)の吉行エイスケ家へ向うJR岡山駅ホーム。あぐりさんも目にした光景だ。 (右写真)松本安久利(旧姓)が通学していた県立第一岡山高等女学校跡(現在は県立岡山操山高校、岡山市中区浜412)。在学中の1923年に吉行エイスケと15歳で結婚。*操山の読みは、そのまま「そうざん」。
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(左写真)岡山県御津草生(みつくそう)の吉行家へ向う道。中央の岐道を上った右奥に屋敷を構える吉行家に嫁いでいった。(右写真)左写真の左手方向にある小高い丘にある吉行本家の墓地。墓誌は読み難いが吉行エイスケ、吉行淳之介氏が葬られている。あぐりさんは一度、再婚(辻姓になった)したため吉行本家の墓地には迎えられない身となった。
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(左右写真)あぐりさんのために生前に建てられた青山・特報寺の墓。岡山の吉行本家の墓域から土を運び、分骨(夫エイスケと長男淳之介のみ)している。次女吉行理恵(本名は理恵子)さんが先に葬られることになってしまった。 
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(左写真)テレビ番組撮影終了後に撮った女優吉行和子とスタッフの記念写真。管理人も写っている。右は「あぐり 95年の奇跡」文庫本から、あぐりさんと長女和子さんが並ぶ帯写真。

吉行家リンク
「岡山 作家・吉行淳之介の墓」http://zassha.seesaa.net/article/346550974.html
「北青山 特法寺 吉行家の墓地」http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
「市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)」http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html
「世田谷 作家・吉行淳之介 終焉の地」http://zassha.seesaa.net/article/387061049.html
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2014年08月12日

中野ブロードウェイ まんだらけ 警告のタイムリミット迫る(万引き犯逮捕)

中野ブロードウェイの「まんだらけ」で万引きを働いたとされる男に対し、同店は警察に届け出たが、未だ検挙に至らず、独自に同店のHP内で「手配書」を作成し「自首」(返却)することを要求している。話題となっているのは、その「手配書」(顔モザイクがかかっている)に返却期限(8月12日内)が設定されていること。期限までに返却しない場合は、万引き犯の顔モザイクを外すと警告している。
警告文<8月4日17時頃 まんだらけ中野店4F変やで25万円の野村トーイ製鉄人28号No.3 ゼンマイ歩行を盗んだ犯人へ 1週間(8月12日)以内に返しに来ない場合は顔写真のモザイクを外して公開します>原文ママ
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JR中野駅北口前の中野サンモールを抜けると、サブカル系の店舗が各階に並ぶ<おたくの聖地>中野ブロードウェイだ。なかでも「まんだらけ」各店は、中野ブロードウェイの中核となる店舗だ。右写真は、「まんだらけ」の一部の店舗(廊下から)。
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右写真が盗難にあった商品(同店の警告文ページから)、「鉄人28号No.3ゼンマイ歩行」だ。
まもなくタイムリミットの24時が迫る。「まんだらけ」は、顔写真公開に賛否両論が交錯するなか、モザイク外しに踏み切るのであろうか。年間を通した万引き被害額は、外部からは計り知れないが、相当経営にダメージを与えているのだろう。断固たる姿勢を示さないと、つけ込まれ、万引きが蔓延する事態を招くことが予想される。12日23時15分現在、警告文のモザイクがかかった手配写真はそのままの状態だ。
警告文 http://news.mandarake.co.jp/2014/08/05-1.html

8月13日午前0時10分、「まんだらけ」HP内の警告文にある手配写真のモザイクは外される気配がない。警視庁中野署の意向を受け入れたかは不明。
13日午前0時10分頃、「まんだらけ」は、HPトップページで顔写真公開の中止方針を発表。警視庁の要請によるものと中止理由を述べている。また、12日夜、万引き犯の身内らしき女性から、返却に関する内容の電話があったことも付け加えている(捜査により無関係)。中野ブロードウェイ周辺には報道陣多数が待機していたようだ。
顔写真公開中止発表文http://news.mandarake.co.jp/2014/08/13-1.html

8月18日午後、警視庁中野署は、千葉市若葉区在住の50歳の男を任意同行し、万引き(窃盗)容疑で取り調べ中。盗んだ25万円税抜き相当の「鉄人28号」のブリキ製おもちゃは、3日後の8月7日夕方、同じ中野ブロードウェイ内の古物商に持ち込まれ、6万4千円で買い取られていた。当初は犯行を否認するものの、19日朝になり犯行を認めた為、窃盗容疑で岩間和俊容疑者(50歳・アルバイト)を逮捕した。売却先の古物商で使用された身分証明は健康保険証。その表記住所から特定され、任意同行に至った。盗品に相違ないと確認した「まんだらけ」は、「鉄人28号」を買い戻す形をとるのか同社HPは発表していない。
「まんだらけ」側も2度目のモザイクはずしのカウントダウン(警視庁へのブラックジョーク)を始めることなく収束することになった。
    *写真撮影は2009年2月

10月31日午前10時30分、東京地裁にて中野区の古物商「まんだらけ」から「鉄人28号」のブリキ製商品を盗んだとする窃盗罪に問われていた千葉市若葉区都賀の台に住む岩間和俊被告(50才・港湾荷役作業員)の判決公判が開かれ、園原敏彦裁判官は懲役1年、執行猶予3年を言い渡した。検察側の求刑は懲役1年だった。
事件番号 平成26年刑(わ)第2173号
尚、傍聴希望者は当日午前10時から指定場所(1番)で抽選となった。
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2014年07月02日

目黒・学芸大学 貧乏アイドル上原美優の自殺

2013年7月、元関東連合の幹部だった工藤明男氏の著書「いびつな絆 関東連合の真実」が宝島社より出版された。読み進むと、元グラビアアイドルの小向美奈子が2009年に覚せい剤取締法違反容疑で逮捕され、その後の執行猶予中に2度目の逮捕に至った知られざる裏側(ストリッパーになる経緯)は、ある程度だが書き込んである。期待したのは、2011年5月12日未明に自殺した<貧乏アイドル>のキャッチフレーズで人気を得ていたタレント上原美優についての新事実。自殺に関係したのではないかと噂の出ていた元関東連合のメンバーの関りについての記述を期待していた(「関東連合の石本太一と上原美優の交際の噂」が盛んにネットで囁かれていた)。結論を書くと、その「交際の噂」について、同書には掘り下げた記述はなく、事実関係が報じられた新聞記事(2紙)を引用したのみ。同書が引用した2012年8月21日の「東スポ」WEB版を要約してみると<<(石本太一のインタビュー)特に親しくさせていただいたのは2009年の終わりぐらいから、半年ぐらいですね。その後も連絡は取り合ってたのですが、亡くなる2~3ヵ月前は自分のほうも忙しくなったりしてなかなか連絡ができなくなりました。>>と、自殺の1年ほど前には親しい関係は終わっていたと告白している。このインタビューは上原の自殺後、1年余が過ぎた頃に行われたものだ。
期待はずれだったので、同書と同じように新聞記事で事実関係を少々引用しておく。平成23年(2011年)5月13日(金曜)付の「東スポ」紙から。<<芸能界に衝撃が走った。貧乏アイドルとして人気を博したタレントの上原美優さん(24)が12日未明、東京・目黒区の自宅マンションで首をつって亡くなっているのが発見された。自殺と見られる。>>詳細は省略。当時の彼女の所属事務所は、プラチナムプロダクション。上原美優(みゆ)は芸名で、本名は藤崎睦美(むつみ)。
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上原美優の自宅マンション 彼女の部屋は4階の南角部屋だった (右写真)南側の部屋の辺り
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東急東横線学芸大学駅が最寄り駅 若い女性に人気の沿線だ(目黒区中央町) (右写真)「いびつな絆 関東連合の真実」宝島社 2014年1月文庫版が発行された
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2014年06月27日

世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家

ウインザーハイム豪徳寺を、2011年(平成23年)の大晦日に引き払った写真家荒木経惟(アラーキー)氏は、正月(2012年1月)をこの新居で迎えた。アラーキー氏は、このスタイリッシュな新居(スタジオ)で精力的に仕事を再開する。一部3階建ての建物の屋上から新しいシリーズ作品がすぐさま生まれた。「東ノ空」と「道路」だ。2014年4月に刊行された写真集「往生写集」は、ウインザーハイム豪徳寺からこの新居への橋渡しをテーマ(往生〜新生、西ノ空〜東ノ空)にしている。
しかし、荒木経惟氏は2013年10月、先年の前立腺がんに続く人生を左右する病魔に襲われてしまう。右目の視力を失ってしまったのだ。病名は右眼網膜中心動脈閉塞症。先週の土曜(2014年6月21日)に閉幕した写真展の題は「左眼ノ恋」、右目の視力のないアラーキーが新たな地平に進むテーマとして選んだタイトルであった。
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     写真集「往生写集」に映し出される隣家の植木そして道路(十字路)。
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新居(兼スタジオ)とエントランス。3階の屋上には十字路・東の空を撮影するアラーキー氏がいるはずなのだが・・・。
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ギャラリーAM「文化写真」展から。開催2017年11月3日〜2018年1月21日。
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ギャラリーAM「写真真昼の夢精」展から。開催2017年8月15日〜10月15日。
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「写真真昼の夢精」展2017年8月15日〜10月15日。
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渋谷区神宮前6丁目のギャラリーAM「NOBUYOSHI ARAKI Last by Leica」展から。
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「Last by Leica」展2017年1月11日〜2月22日。
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渋谷区神宮前6丁目のギャラリーAMでの「淫冬」展から。2016年。
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渋谷区神宮前6丁目のギャラリーAMでの「淫冬」展から。
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六本木AXISビル2階タカ・イシイギャラリーで恒例の2016生誕イベント(アラーキー氏の生誕は1940年5月25日)。
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六本木AXISビル3階IMA CONCEPT STOREでの「センチメンタルな旅−コンプリート・コンタクトシート」展。2016年。
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神宮前6丁目(原宿)のギャラリーAMでの「淫秋」展から。2016年9月9日〜11月11日。
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参考
荒木経惟HP http://www.arakinobuyoshi.com/index.html
写真集「往生写集」平凡社の掲載年譜

荒木経惟リンク
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
京都・四条河原町 喫茶・築地http://zassha.seesaa.net/article/455847835.html
渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場http://zassha.seesaa.net/article/455890811.html
長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455985556.html
鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456022608.html
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2014年05月19日

歌手ASKA(本名・宮崎重明)、覚醒剤取締法違反容疑で逮捕起訴・有罪判決

CHAGE and ASKA(略称チャゲアス)のASKA(本名・宮崎重明 56歳)容疑者が、5月17日(土曜)朝、知人女性の栩内(とちない)香澄美容疑者(37歳)の自宅(社宅)マンションから出てきたところを、玄関前路上で覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで警視庁組織犯罪対策5課に任意同行を求められた。警視庁が2人の尿検査を行った結果、ASKA容疑者からは覚せい剤と合成麻薬MDMAの陽性反応、栩内容疑者からは覚せい剤の反応が検出された。直ちに両名を逮捕し、警視庁湾岸署に拘留した。翌18日午前、ASKA容疑者を送検。現在(19日未明)、取調べに対し両容疑者はともに否認している。 *新聞各紙参照
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(写真)白っぽい壁の向う側にMS玄関がある。ASKAが任意同行を求められた場所。目黒区東が丘1丁目の自宅に戻るため、栩内香澄美容疑者のマンション玄関を出た付近の路上で任意同行を求められた(2010年2月撮影)。
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(左写真)任意同行された現場 栩内香澄美容疑者の住むMS玄関前 (右写真)B・Mマンションの西側の路地から撮影 
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  ASKA容疑者と栩内香澄美容疑者の関係を暴く「フライデー」誌(5月23日発売)
   
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(写真)二人が拘留されている東京湾岸警察署。2008年3月31日の建物完成直後の撮影。栩内香澄美容疑者も同時に取調べるため、最新の女性監房が完備する湾岸署が選ばれた。この女性監房には、酒井法子・小向美奈子も入所経歴がある。

逮捕現場は見覚えのある場所で、TVニュース映像から即座に位置確認ができた。栩内(とちない)香澄美容疑者の居住するマンション名の略称はB・M。隣の敷地の所有者はS氏。その経営する施設が完成する以前から時々利用していたところ(銭湯)。

「週刊文春」2014年5月29日号(5月22日発売)が発行されると、事件の様相は、芸能界から政財界にまで巻き込む展開を見せ始める。栩内香澄美容疑者(37歳)の経歴が明らかになるにつれて、彼女からのルートが俄然、注目され始めてきたのだ。以下は、「週刊文春」デジタルサイト(5月21日配信記事)からの部分引用。
<<栩内容疑者は、人材派遣大手パソナグループのグループ会社に勤務後、同グループの南部靖之代表に気に入られた。パソナグループが政財界の要人や芸能人を接待するために東京・元麻布に設けた「仁風林」で行われていたパーティーでは、同社の女性社員が要人たちを接待していたといい、その中のひとりが栩内容疑者だったという。このパーティーで栩内容疑者とASKA容疑者は出会ったとも。また、この仁風林には、安倍晋三首相をはじめ、森喜朗元首相や民主党の前原誠司元国土交通大臣も訪れたことがあるという。さらに、「文春」によれば、栩内容疑者が住んでいた南青山の高級マンションも会社が借り上げたものだというから、南部代表の溺愛ぶりがうかがえる。>>
南部靖之氏が率いるパソナグループは、東証1部に上場する大企業(証券コード2168 取締役会長は竹中平蔵氏)。1976年2月、大阪市で(株)テンポラリーセンターとして設立。2007年12月に株式移転を行い(株)パソナグループが誕生した。なお同社の株価は、5月21日の終値502円から22日寄付きで460円に急落した。現在(後場)は470円台まで持ち直してきたが、5%以上の落ち込み。南部靖之氏の公式プログは閉鎖されたままの状態だ。
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(左)南部靖之代表が率いるパソナグループ本部が入居する東京駅近くの大和呉服橋ビル(画面奥右角)(右写真)ASKA(本名・宮崎重明)容疑者と栩内(とちない)香澄美容疑者が初めて顔を合わせた場所と推定されるパソナグループの接待施設(港区元麻布)

5月22日の警視庁湾岸署での取り調べで、ASKA容疑者は所持容疑を認める供述をした。栩内香澄美容疑者は依然として否認している。(5月23日付け朝刊各紙より)
5月25日午後、警視庁はASKA容疑者が所属する事務所ロックダムアーティスツ(世田谷区三軒茶屋)を家宅捜索し、スケジュール書類などを押収。
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(左写真)ASKA容疑者の所属事務所(18階)が入居するビル(右)ASKA逮捕!の特集記事を掲載した「週刊文春」2014年5月29日号(22日発売) 栩内香澄美容疑者のパソナグループ内(関連会社)での仕事の役割やASKA容疑者の自宅の家宅捜索の模様などが、2013年のスクープ記事(7月31日号)以降の経過とあわせて紹介されている。

5月27日、警視庁組織犯罪対策5課は覚醒剤取締法違反(使用)容疑で、ASKA容疑者と栩内香澄美容疑者を再逮捕。栩内容疑者は覚醒剤の所持・使用を依然として否認している。
5月29日午前、ASKA容疑者(本名・宮崎重明)との栩内香澄美(とちないかすみ)容疑者を東京地検に身柄送検。捜査は薬物類の入手ルートの解明に移る。

6月17日午前、ASKA(宮崎重明)容疑者を3回目の逮捕。容疑は覚醒剤取締法違反(所持)と麻薬取締法違反(所持)。使用目的は「眠気をとって集中するため」、入手ルートは「暴力団等から入手」と自白している。また使用時期は「2ー3年前から」と答えている。この日、東京地検はASKA(宮崎重明)容疑者と栩内香澄美容疑者を覚醒剤取締法違反(使用)等で起訴。栩内容疑者からは尿・毛髪に覚醒剤陽性反応が検出されているが容疑を依然として否認している(新聞各紙より)。

6月27日、ASKA(宮崎重明)被告の所属事務所ロックダムアーティスツは、ASKA(宮崎重明)被告との契約解除を正式発表。同事務所はチャゲアスの2名が実質的なオーナーだ。

7月3日午後、警視庁湾岸署に勾留されていたASKA(宮崎重明)被告が保釈される。その後(4日)、薬物依存を専門に治療する千葉市緑区(JR外房線K駅から北側正面ゲートまで約1.2km)のS医療センターに入院したことが確認されている。病院関係者の所見によれば、覚醒剤使用の主目的が眠気覚ましと性行為だったことから、3ヶ月前後の期間で退院可能と説明している。早期更生を図る意思があるということと初犯ということで、過去の例から裁判長は執行猶予(おそらく2年半=管理人の推定)を申し渡すことは確実だ。決まり文句は「社会的制裁は十二分に受けている」。初公判直前現在では、S医療センターの大部屋病室で治療中。

2014年7月22日(火曜)栩内(とちない)香澄美被告の初公判 起訴内容否認する
 事件番号 平成26年特(わ)第811号 一般傍聴は抽選に 21席に940人並ぶ

8月21日までに、警視庁組織犯罪対策5課は、ASKA被告へMDMA100錠を売り渡した密売容疑で住吉会系暴力団員ら2人を逮捕。いずれも容疑を否認している。新宿歌舞伎町の事務所は「薬局」と呼ばれ、MDMAの供給先として有名であった。

2014年8月28日(木曜)ASKA(宮崎重明)被告の初公判
 東京地方裁判所刑事第3部425法廷 事件名・番号ー覚せい剤取締法違反等 平成26年特(わ)第812号等
傍聴希望者が多数となることが予想され、地裁内の通常の指定場所ではなく、抽選整理券交付は日比谷公園桜門付近(テニスコート)にてリストバンド型で配布となる。交付開始は9時30分〜11時。当選発表掲示は,桜門,祝田門,霞門付近及び西幸門付近。開廷時間は13時15分。
法廷は、傍聴席定員が多い大法廷が使用され、前列か中央部に報道席が用意される。一般傍聴は数千人が抽選券を求めて行列し、高倍率になるはず。
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(左写真)ASKA被告の初公判の傍聴21席の抽選整理券を配布する日比谷公園内特設テント (右写真)整理券はリストバンド型
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(左写真)東京地裁北側入り口 画面左にTV中継などが行われるゲートがある (右写真)傍聴希望者に配布された案内

8月28日午後1時15分、東京地裁4階425号法廷(植村幹男裁判長)で歌手ASKA(本名・宮崎重明56歳)被告の覚せい剤取締法違反(所持・使用)の初公判が開廷した。検察側は「長期間、違法薬物を使用し、常習性がきわめて高い」として、懲役3年を求刑した。弁護側は執行猶予付きの判決を求めた。即日結審し判決言い渡しは9月12日となった。
ASKA被告は、弁護人質問で昨年の11月以降になってからの覚醒剤使用を認めた。昨年8月に「週刊文春」誌で薬物疑惑の記事が掲載された前後は、覚せい剤を使用することはなく、再び手を出したのは昨年11月と述べた。検察官の被告人質問には「我慢できなかった。恐ろしい薬だ」と答えた。
また、栩内香澄美被告に関した検察官の質問「あなたにとって栩内被告はどんな人ですか」には、ASKA被告は「大事な人です」と答えた。さらに「あなたからすれば、栩内被告から薬物反応が出たのは信じられないのでは」の質問には、「信じられません。特にMDMAが髪の毛から出たことは、まったくもって分かりません」と答えた。 *新聞各紙参照

2014年9月9日(火曜)栩内(とちない)香澄美被告 第2回公判 開廷午後1時30分 鈴木巧裁判長
 事件番号 平成26年特(わ)第811号 傍聴は抽選(傍聴席26席に1007人が並ぶ)
弁護側は栩内被告の覚醒剤使用を改めて否定。栩内被告の部屋から出たゴミ(ティッシュなど)から覚醒剤成分が検出されたことについては、「ASKA被告が使用」と主張。検察側は、栩内被告の部屋のエアコンから覚醒剤成分が検出されたとする鑑定結果を証拠提出。弁護側はそれに対し、「栩内被告に隠れてASKA被告が覚醒剤を吸引した際にエアコンのフィルターに付着」と主張。3回目公判は10月2日に予定。

2014年9月10日 警視庁組織犯罪対策5課は、新宿歌舞伎町他の住吉会系事務所などを、ASKA被告へMDMAを密売した容疑で家宅捜索。写真は「薬局」と呼ばれた歌舞伎町の中心地区にある事務所が入居するビル付近。家宅捜索の間、写真の路地は警官隊によって封鎖された。
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2014年9月12日(金曜) ASKA(宮崎重明)被告に判決言い渡し 午後2時開廷
 事件名・番号ー覚せい剤取締法違反等 平成26年特(わ)第812号等 植村幹男裁判長
覚醒剤と合成麻薬MDMAの使用したとして、覚せい剤取締法違反(所持、使用)罪に問われたASKA=本名・宮崎重明被告(56才)の判決公判が開かれた。まず判決主文が読み上げられ、裁判長から懲役3年、執行猶予4年(求刑懲役3年)が言い渡された。起訴事実を認めたことと初犯ということから予想通り執行猶予が付けられた。
ASKA=本名・宮崎重明被告のコメント全文 *産経ニュースから
<<私は、本日、裁判所より、執行猶予付きの有罪判決を受けました。判決を受け、罪の重さをあらためて認識いたしました。私は、現在医師の指導に従って治療を受けております。本日の判決を真摯に受け止めて、家族の支えのもとで人として立ち直り、健康を取り戻す決意です。ファンの皆さま、関係者の皆さまにおかれましては、直接お詫びを申し上げることに代えて書面でコメントさせていただきますことを、どうかお許しください。あらためまして皆さまに心よりお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。 ASKA >>

9月下旬、9月12日に懲役3年、執行猶予4年の判決が確定しているASKA元被告が、12週にわたる薬物依存症の治療を受けた千葉市内の病院を退院。そのまま薬物依存症の更生施設「ダルク」へ向ったと報道される。

10月2日(木曜)栩内(とちない)香澄美被告 3回目公判(東京地裁)
この日、かって覚せい剤使用容疑で逮捕・起訴されたタレント・ストリッパー小向美奈子(29才)が、栩内被告の公判を傍聴するため東京地裁を訪れ、報道陣の前に現れ、カメラに向いポーズをとった。傍聴希望多数のため抽選となり、小向の傍聴は適わなかった。

10月8日(水曜)東京地裁、栩内香澄美被告の保釈決定。 
保釈保証金は300万円。検察側は不服として東京高裁に直ちに抗告する。
10月9日(木曜)東京高裁が保釈決定を不服とする検察側の抗告を棄却。栩内被告は同日の午後4時45分、保釈保証金300万円を納付し、東京拘置所から保釈された。栩内被告は迎えの車に乗り込み、都心の有名ホテルに向った。5月17日の逮捕から145日ぶりに拘束を解かれた。
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(左写真)小菅の東京拘置所。数々の有名人がこの門から入り、出ていった。面会者もこの門を使用する(2007年2月撮影)。 (右写真)南部代表が率いるパソナグループ本部のサポートによって栩内被告の宿泊先に選ばれたと伝わる紀尾井町のホテルニューオータニ(写真は本館だが、新館タワーもあり、どちらかは不明。週刊新潮10月23日発売号の記事参照)(2003年撮影)。

10月21日(火曜)栩内香澄美被告、東京地裁で第4回公判。


*この項目の書き込み継続中
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2014年05月05日

奥沢 直木賞作家・渡辺淳一氏 逝去

2014年4月30日(水曜)午後11時42分、世田谷区奥沢1丁目の自宅で直木賞作家・渡辺淳一氏が逝去された。80歳。病名は前立腺癌。発表は本日(5日)午後で、すでに葬儀・告別式は親族で行われている。喪主は妻の敏子(としこ)さん。(新聞各社ニュース速報より*住所は記載無し) 
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(左写真)昭和53年1月、中野区鷺宮から世田谷区奥沢の新築戸建てに移転。この家(写真右側)が終焉の地となった。同時に渋谷公園通りに執筆デスク兼事務所を設け、人気作品「化粧」を発表(「週刊朝日」昭和54年4月13日号より連載開始)する。(右写真)渡辺淳一氏の作品群の一部
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渡辺氏は、昭和8年10月24日に北海道空知郡砂川町字上砂川3番地、炭鉱の町に生まれた。父親(教員)の赴任地であった。その後、旭川を経て、11歳の時に札幌に移住。昭和21年4月に札幌第一中学に入学(現・札幌南高校)。昭和27年4月、北海道大学理類に進学し教養課程(2年)を終了。札幌医科大学医学部に進む。この医学部時代に文学同人誌「くりま」に参加し、初期の作品群を執筆。昭和34年6月に医師国家試験に合格する。以降、札幌医科大学整形外科学教室で講師を務めるが、日本初となる心臓移植手術(和田教授)に対し内部批判を展開する。昭和44年4月、大学を辞職し、東京に移転。同5月に墨田区石原2丁目に落ち着く。
(左右写真)東京で最初に勤務した石原2丁目の「山田記念病院」 住まいも病院に隣接したマンションであった
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(左右写真)昭和45年4月、東急東横線都立大駅近くの「都立大第2コーポラス」に移転。このマンションで、小説「光と影」の第63回直木賞受賞(同年7月)の知らせを聞く。以降、文筆1本の生活を送り始める。
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(左右写真)昭和47年、2年足らずで都立大学(八雲)から中野区鷺宮6丁目の一戸建て住宅に移転した(建物はボカシ処理)。 6年後の昭和53年1月に終焉の地となった奥沢の閑静な高級住宅地の一画に移住したのだ。

「渡辺淳一文学館」札幌市中央区南12条西6丁目414(中島公園近く)
http://www.ac.auone-net.jp/~bungaku/
参考
「渡辺淳一 ロマンの旅人 北海道文学ライブラリー」北海道新聞社1997年刊
「渡辺淳一の世界U」集英社2008年刊
 
*速報段階なので、詳細が判明次第に追加・修正します。

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2014年03月01日

原宿 歩行者天国の「竹の子族」

1980年初頭、原宿・歩行者天国を埋め尽くした「竹の子族」。国内外のメディアが注目し社会現象化した「竹の子族」のピークの頃(1982年撮影)の姿です。
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数千人の「竹の子族」とその数倍の見物人で歩行者天国は埋め尽くされていた
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*1982年(昭和57年)初夏、アナログビデオカメラで撮影したVTRテープからのキャプチャー画像。
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2014年02月10日

新宿 歌舞伎町 スカラ座(旧)

かって新宿・歌舞伎町で営業していた名曲喫茶「スカラ座」の写真をひっそりと公開。ネガフィルムの台帳(ネガ保存ケース)をチェックしていたら「喫茶王城」(現在はカラオケビル)が写った数コマの隣に「つたの絡まる窓枠」の画像を1コマだけ発見。窓枠だけですが「スカラ座」なのです。
「スカラ座」は新宿区歌舞伎町1-14番の角地で、1954年(昭和29年)春にオープン。つたに覆われた2階建ての名曲喫茶は多くの常連客に親しまれ、48年間にわたり支持されてきたが、建物の老朽化等により2002年(平成14年)12月末に惜しまれながら閉店している。周辺のジャズ喫茶などはよく出入りしていたが、「スカラ座」の記憶は残っていない。2階の東側の窓際席に座ったこの時の1回だけの訪問だったと思われる。
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「スカラ座」の窓から見た「喫茶王城」 屋上のネオンロゴは「王城ビル」に変わっている
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(左写真)現在の「スカラ座」跡 (右写真)閉鎖の翌年(2003年)10月に新宿西口地下に移転し再オープン 小田急エース北館の地下1階です
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2014年02月04日

世田谷 作家・吉行淳之介 終焉の地

<<私は、きのう夜、信州の家で、テレビで吉行さんの訃報に接した。今日ひる、上野に着いて、山の上ホテルにはいったが、その部屋がまた吉行さんが甞(かっ)て愛用されていた部屋なのでうろたえ、昔の姿が、あれこれと浮んで、とても、いま上野毛のご自宅で別れてきた直後とはいえど、その死が信じられないでいる。私は五年前に心筋梗塞で死にかけ、吉行さん宅の近くの病院の集中治療室にいて(注:当時の国立第二病院)、命をとりとめたのだが、辛うじて生きている身に吉行さんから長い勇気づけの手紙をもらっていたが、まったくあべこべの気持ちで、いま、暗澹としているのである。飢餓地獄のあの時代から、終始、私に親切だった人を失って、目先に幕が降りた気持である。合掌。一九九四年七月二十七日>>
水上勉「吉行さん追悼」から 「水上勉全集第16巻」中央公論社1996年刊 

吉行淳之介は、1994年(平成6年)7月26日に亡くなった。享年70歳。母あぐり、宮城まり子、阿川弘之らに看取られて息を引き取った。遺言で葬儀・告別式は行われなかった。
<<吉行和子 七月の始めにお医者様が「あと一ヵ月半ですよ」っておっしゃって、それで七月二十六日に死んじゃったんですよ。「やっぱり癌だったのか。もうやめた」って思ったんじゃないかな。>>
「対談・吉行和子x向田邦子」より抜粋 「吉行淳之介をめぐる17の物語」2002年刊
1992年(平成4年)、C型肝炎が原因の肝臓癌と診断されたが、肝臓癌であることは同居人・宮城まり子と妹・吉行和子が相談した結果、本人と他の家族には知らせないことに決していた。

芥川賞作家・吉行淳之介は、1986年(昭和61年)11月に面白い賞を受けている。「第1回パチンコ文化賞」だ。吉行淳之介エッセイ選「街角の煙草屋までの旅」(講談社文芸文庫)に収められた一篇「パチンコ雑話」から抜粋。
<<この場所に住みはじめて五年になるが、門を出て坂道を下り五分ほど右へ歩くと多摩川の河原に出る。その反対に、左へ坂道を登って同じ時間歩くとパチンコ屋に着く。ところが、ずっと病気がちだったので、ぶらりと散歩という気分が起こってきたのは今年になってからである。そこで、門を出て左へ坂道を登ることが、しばしば起るようになった。つまり、パチンコ屋へ行くわけである。>>
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(左写真)この坂道(稲荷坂)を下った先が多摩川。「門を出て坂道を下り五分ほど右へ歩くと多摩川の河原」。  (右写真)門を左に出てすぐの神社の石垣。
左写真左側の大きな樹木は、住み始めて10年後にやっと公園だと気付いた場所。エッセイ「みどり色の板の道」に書かれている。
<<ここに引越して、はやいもので二十年になってしまった。世田谷上野毛の稲荷坂の途中の家である。
すぐ前が坂道で、かなり急な勾配を上りはじめると、隣家のとなりが神社、さらにそのとなりに途方もなく大きな石垣がそそり立って、およそ五十メートルほど坂の上までつつく。ここには二十五年ほど前、美空ひばりが小林旭と住んでいた。
向い側は、坂の上の蕎麦屋から坂の下まで背の低い石垣がつづいて、人家はない。この石垣の向う側も個人の広大な宅地だとおもっていたが、そこがじつは公園だと知ったのは十年経ってからである。さっそく眼の前の道を横切って、向う側に入り込むと、そこが公園の入口であった。『鳥獣捕獲禁止』という札が出ていた。公園といっても、樹木が雑然と生えている山の斜面という感じで、地面を歩くことはできない。手摺(てすり)の付いた細い坂の道が、何本にも別れて奥のほうへ伸びている。すべて緑に塗ってあるその色が、褪(あ)せていた。坂の上へ伸びている板の道も一つあって、そこを上ってゆくと、きれいに整備された平たいスペースに出た。その中央に辛夷(こぶし)の巨木があり、桜の木もたくさんあった。季節は春で、辛夷はたくさん花をつけていた。そのスペースにも、ほとんど人影がなかった。私はこの緑色の坂の連なりが気に入ったが、年とともに上ると息切れがするようになった。>>
「みどり色の板の道」より抜粋 「小説現代」昭和62年1月号初出
 
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「門を出て左へ坂道を登ることが・・・」門を出て左へ登る坂道。奥の青い道路標示板の所に上野毛駅がある。吉行氏は、この神社の石垣沿いの道を何度歩かれたことだろうか。
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(左写真)稲荷坂沿いの吉行淳之介氏宅。<文学碑>にかわる<表札>が宮城さんによって守られている。 (右写真)「つまり、パチンコ屋へ行くわけである」・・坂道を登った先ににあるパチンコ屋。
<<茶色の運動靴を素足につっかけて、ズボンとシャツ姿で出かける。テレビには出ないことにしているので、さいわい顔は知られていない>>

吉行淳之介リンク
「岡山 作家・吉行淳之介の墓」http://zassha.seesaa.net/article/346550974.html
「北青山 特法寺 吉行家の墓地」http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
「市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)」http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html
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2014年01月13日

渋谷 金原ひとみ「蛇にピアス」

金原(かねはら)ひとみ(1983年生)のデビュー作「蛇にピアス」。
「すばる」誌2003年11月号に掲載され、第27回すばる文学賞を受賞。翌2004年1月15日、第130回芥川賞を同作で受賞した。また、同名タイトルで映画化(2008年9月20日全国公開)されている。主演の吉高由里子(ルイ役)は、この作品によって女優としての地位を一挙に確かなものとしている。

「蛇にピアス」集英社文庫版2006年刊より抜粋。
<<スプリットタンていうのは主にマッドな奴らがやる、彼等の言葉で言えば身体改造。
舌にピアスをして、その穴をどんどん拡張していって、残った先端部分をデンタルフロスや釣り糸などで縛り、最後にそこをメスやカミソリで切り離し、スプリットタンを完成させる。と、彼は手順を教えてくれた。ほとんどの人はこのやり方で改造するらしいけど、中にはピアスなしでいきなりメスをいれる人もいるという。大丈夫なの? 舌噛み切ると死ぬんでしょ? つていう質問に、蛇男は淡々と答えた。焼きゴテを当てて止血するんだよ。手っ取り早いけど、さすがに俺はピアス使ったね。
(略)
そして数日後、私はその蛇男ことアマと二人でパンクなDesireに来ていた。その
店は繁華街の外れの地下にあって、入るなり目に飛び込んできたのはもろに女性器がアッ
プの写真。ビラビラの部分にピアスが刺さっていた。他にも、タマにピアスが刺さってい
る写真や、刺青の写真。そんなのが壁に貼ってあった。中に進むと普通のボディピアスや
アクセサリーもあったけど、ムチやぺニスケースまで並べてある。私から言わせてもらえ
ば変態向けの店だった。アマが声を掛けるとカウンターの中から頭がひょこっと現れた。
その頭はスキンヘッドで、つるつるの後頭部に丸くなっている龍が彫ってあった。>>
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<<鏡の前で舌を出して、先端から二センチほどの中心を指さすと、シバさんは慣れた手つ
きで私の舌をコットンで拭き、指さした部分に黒い印を付けた。
「テーブルに顎載せて」私は舌を出したまま言われるままに体を低くした。舌の下にタオルが敷かれ、シバさんがピアッサーにピアスをセットした。私は思わずシバさんの腕をパシバシこづき、首を振った。
「ん? 何?」
「それ12Gじゃないの? いきなりそんなん入れるの?」
「ああ、12だよ。だって舌に16とか18とか入れてる奴いないっしょ。大丈夫だよ」
「14にして。お願い」
 私は必死になって、反対するアマとシバさんを説得した。耳のファーストピアスだって、
いつも14か16だった。シバさんは14のピアスをセットし、もう一度「ここね?」と確認した。
私は軽く頷(うなず)き、拳に力を込めた。すでに手は汗ばんでいて、ぬるぬるした感触が気持
ち悪かった。シバさんはピアッサーを縦にして先端をタオルに押しつけた。そろりと舌をはさみ、
舌の裏に冷たい金属が当たった。
(略)
「みして」
シバさんは私の顔を自分の方に向かせて自分の舌を出してみせた。私は少し涙目になりながら
感覚のない舌を突きだした。
「うーん、オッケーだね。真っ直ぐ入ってるし、位置もばっちり」
「ほんとだ。ルイ、良かったじゃん」
アマが割り込んで来て、私の舌をジロジロ見た。私は舌がじんじんしていて喋るのも億劫だった。
「ルイちゃん、だっけ? 痛いの強いんだね。女の方が耐えられるんだってね、こういうの、
舌とか性器とか、粘膜に開けると失神する人とかいるんだよ」>>
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<<「イッていい?」アマの苦しそうな声がだらしなく宙を舞う。私はうっすら目を開けて、小さく頷(うなず)いた。アマは引き抜くと、私の陰部に放出した。まただ・・・。
「ちょっと、お腹に出してって言ってるじゃない」
「ごめん、ちょっとタイミングが・・・」
アマは申し訳なさそうに言ってティッシュを引き寄せた。アマはいつも私の性器に射精する。
何が嫌って、毛がバリバリになる事。そのまま余韻に浸って寝てしまいたいのに、アマのせいでいつもシャワーを浴びる事になる。
「お腹に出せないんだったらゴム使ってよ」
アマは俯(うつむ)いてもう一度ごめん、と言った。私はティッシュで軽く拭き取ると立ち上がった。
「シャワー、浴びるの?」アマの声があまりに寂しそうで思わず足が止まった。
「浴びる」
「俺も一緒に入っていい?」
思わずいいよ、と言いかけたけど、全裸のまま情けない顔をしているアマを見てバカらしくなった。
「狭い風呂に二人で入るなんて嫌よ」
私はバスタオルを取ると風呂場に入り、鍵を閉めた。洗面台の鏡に向かって舌を出して
みた。舌の先には銀の玉が付いている。これが、スプリットタンへの第一歩だ。一ケ月位
は拡張しないように、とシバさんは言っていた。道は、まだまだ遠い。

「濡れてんの?」
小さく首を縦に振ると、シバさんはまた私を抱き上げ寝台に座らせた。私は無意識に脚を開いていた。
軽い緊張が私を包む。Sの人の相手をする時、いつもこの瞬間私は身を硬くする。何をするか、分からないからだ。浣腸だったらいい、おもちゃもいいし、スパンキングも、アナルもいい。でも、出来るだけ血は見たくない。昔、膣にファイブミニの瓶を入れられ、危うくトンカチで割られそうになった事があった。あと、針とか刺す人も苦手。手首から手の平がじっとりしていて、肩から二の腕にかけては鳥肌が立っていた。シバさんは、物を使う気はないらしく、私はホッとした。シバさんは指を二本入れ、何度かピストンさせるとすぐに引き抜き、汚い物を触ったように私の太股に濡れた指をなすりつけた。シバさんの表情を見て、また濡れていくのが分かった。
「入れて」
そう言うとシバさんは太股でぬぐった指を私の口に押し込み、ロの中をまさぐった。
「まずいか?」
シバさんの言葉に頷くとロから指を引き抜き、そのままマンコに入れ、また口の中に戻し、口の中をまさぐつた。チンピラのロの中を探るアマの姿がフラッシュバックした。
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「お願い、早く入れて」
うっせーな、シバさんはそう吐き捨てて私の髪をつかみ、枕に押しつけた。シバさんは私の腰を高く上げるとマンコに唾を吐き、また指で中をグチャツとかき混ぜるとやっとチンコを入れた。
初めからガンガン奥まで突かれ、私の喘ぎ声は泣き声のように響いた。気づくと本当に涙が流れていた。私は気持ちいいとすぐに涙が出る。満たされていくのが分かった。シバさんは突きながら私の手首を縛っていたベルトを外し、私の手が自由になると勢い良くチンコを抜いた。抜かれた瞬間、また一筋涙がこぼれた。
(略)
「何て呼べばいいの?」
「キヅキでいいよ」
こういう、普通のカップルならあるはずの会話が、アマと私にはなかった。だから、思い残す事がたくさんあるのかもしれない。もっと、普通の会話をすれば良かった。家族の話とか、過去の話とか、名前とか、歳とか。そう、葬式の時初めて知った。アマは十八歳だったって事。
私は、生まれて初めて年下の男と付き合っていた事を、彼が死んでから知った。私は十九歳で、アマの一個年上だった。そんな事、出会ったその日に話すべきだったのだ。
(略)
ピアスを見ていたら、アマの事が頭に浮かんだ。あれからというもの、舌の痛みもおさまってきたというのに、私は舌ピを拡張する気になれない。褒めてくれる人もいない今、私の舌ピは意味を持たないのだろうか。もしかしたら、私はアマが言っていたように、アマと同じ気持ちを共有したくてスプリットタンを目指していたのかもしれない。後一つ拡張すれば、アマがメスを入れた00Gになる。00Gにしたら切ろうと思っていたっていうのに、後一歩のところで私の抑えきれない程の熱意はなくなってしまった。
アマも熱意もなくなってしまった今、この舌ピに一体何の意味があるんだろう。
私はまたカウンターに戻ってパイプ椅子に座るとボンヤリ宙を見つめた。何もする気がない。
何かをする事にも、それで何かが動くという事にも、今の私は関心がない。
「ルイ、お前の名前、聞いてもいいか?」
「聞きたいの?」
「聞きたいから聞いてるんだろ」
「私のルイはルイ・ヴィトンの・・・」
「本名を聞いてるの」
「・・・中沢ルイ」>>

*映画「蛇にピアス」予告編YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Qa4K02yQp8w
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2014年01月03日

目白台 関口フランスパン 小津安二郎の「日記」から

名匠・小津安二郎監督の「日記」から抜粋
<<1959年(昭和34年)5月31日(日)宿酔 板尾君運転にて 椿山荘に赴く 山本富士子招宴 山本母君 佐野 厚田 山内 富二 款談 関口パンにより銀座おた幸 厚田 清水を送り車にて鎌倉に帰る>>P574
前日の5月30日(土曜)、小津は昼前に大映本社を訪れ、重役と面談して次回監督作品「浮草」の制作を決定している。祝宴が続き、夜は田園調布の佐田夫妻邸に宿泊。翌日、宿酔を抱えたまま、上記のように車に揺られて椿山荘に招かれている。宿酔は、北鎌倉の自宅に戻ってからも「終日在宅 宿酔去りやらず」と6月1日の日記に記されているように、連日の深酒だったようだ。
椿山荘での宴席の後、小津一行は、目白坂を南下した大通り沿いに店を出す国内初の本格的フランスパンを製造した「関口パン」に寄ったようだ。パンを買うためだけに立ち寄ったと思える文脈だ。
*山本富士子=「彼岸花」松竹大船1958年公開の主演女優 
*厚田雄春=小津組撮影監督
*「浮草」=小津の初となる大映作品1959年公開 出演は京マチ子・若尾文子・中村鴈治郎・笠智衆ら
*佐田夫妻=俳優・佐田啓二(37歳で交通事故死 墓は小津や田中絹代と同じ北鎌倉の円覚寺) 実子に俳優の中井貴一・中井貴惠
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目白坂の関口フランスパン店LE PAIN FRANCE SEKIGUCHI DEPUIS1888(創業1888年明治21年)
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目白坂側にエントランスがある 販売コーナーを奥に進むと喫茶室 緑に囲まれた日差しが溢れるテラス席も設けている(喫煙可)
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デニッシュにポテトをのせた「スイートポテト」158円 カスタードクリームとレモンジャムをスイートロール生地でくるんだ「クリームレモンパン」168円 コーヒー350円
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(地図)関口パンの下側(南側)の永泉寺は 太宰治とともに三鷹の玉川上水に入水した山崎富栄の菩提寺 (右写真)「全日記 小津安二郎」(フィルムアート社)の表紙帯紙

関口フランスパンHP http://www.sekiguchipan.co.jp/
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2013年12月19日

池袋 I.W.G.P. 国際クジラ・・?

マコト「IWGPってなに?」
マサ「国際クジラ、守る、プロ・・・・」
カオル「ブブー」
テレビドラマを観なくなって久しい。放映を毎週楽しみに待っていたのは、このドラマが最後になってしまっている。現在では、人気脚本家として地位を不動のものにしている「クドカン」(宮藤官九郎) の初の連ドラ脚本担当作品。クドカンのコメディセンスが全シーンに溢れており、疾走感のある構成・組み立てに時間の経過を忘れてしまう。原作(石田衣良)とは別物になっているので、クドカンの脚本版からの引用になります。I.W.G.P.の意味をヒロイン・ヒカルの連れのリカのセリフで語らせたかったが、疾走感ありすぎで、リカは第1話(イチゴの回)で死んでしまう。リカ役の酒井若菜のファンだったので未だにくやしさが忘れられない。せめて3話(みかんの回)くらいまで登場させてもらいたかった。TBSの連ドラ「池袋ウエストゲートパーク」(2000年4月14日〜6月23日 全11話)から池袋周辺の写真です。酒井若菜っぽい子がタイプなので、なんとなく雰囲気の似てるガールズバンド「スキャンダル」のともチャンもお気に入り。女の好みなど余計だ〜 よな。
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リカ「・・・星がキレイだね」
マコト「見えねえよ星なんか」
リカ「見えるよ・・・・マコトくんの目の中に」
マコト「・・・・」
リカ「バックレちゃう?」
第1話(イチゴの回)のシーン64(カラオケボックス・階段)から 次のシーン(ホテルの室内)では<<リカ、マコトの上に乗ってロデオのようにガンガン攻めている。>>と激しいベッドシーンになるはずだが撮影台本では削除されて、マコトがインポだったことをリカに詫びるカットから始まっている。この2シーンの酒井若菜がイイ、とくにラブホに誘う「バックレちゃう?」のセリフを言うアップのカット。
(左写真)JR池袋駅東口側に設置されている「いけふくろう」 1987年に那須の石材店によって制作 シーン46で登場する・・シュン(山下智久)が工事現場のネコ車にブルーシートで隠して盗んできてしまう マコト「バカ!いけふくろうじゃん!」「いけふくろうは池袋のシンボルなんだぞ(激怒)」 (右写真)ちょっと古めのIWGP
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「真島フルーツ」ロケセット前・・・シーン15の設定は<<西一番街のアーケードの下に仁王立ちしているマコトの母・リツコ>> 放映では母リツコ(森下愛子)が仁王立ちしてマコトの帰りを待っていたのは東池袋4丁目5番の空き倉庫(真島フルーツ)前 店先で東京福祉大学の方向を向いて仁王立ちしている 撮影終了後にこの一帯は再開発され高層ビル「ライズシティ池袋」(豊島区立中央図書館も入居)が建設されている 右写真の手前の樹木付近に「真島フルーツ」のロケセットがあった  
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脚本版のニンジンの回(第2話)のラストのページ(P98)にイラストマップが掲載(ドラマ設定上の地図)されている 撮影協力にクレジットされているGボーイズの溜り場設定の「トキワボウル」は「池袋西警察」(本物の池袋警察と同じ位置)の近辺になっているが実際は東池袋1丁目のボーリング場(現在は「ハイパーレーン」に名称変更)

*「宮藤官九郎脚本 池袋ウエストゲートパーク」角川書店2003年刊 
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2013年12月02日

乃木坂 萩原朔太郎の「乃木坂倶樂部」 (改訂)

1934年(昭和9年)6月1日に第一書房より刊行された、詩人・萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)の詩集「氷島」に収められた一篇「乃木坂倶樂部」に描写された<アパート乃木坂倶樂部>の写真です。

乃木坂倶樂部
十二月また來れり。なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み荒漠たる洋室の中壁に寢臺(べつと)を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや すでに人生の虚妄に疲れて 今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな。
我れは何物をも喪失せず また一切を失ひ盡せり。
いかなれば追はるる如く歳暮の忙がしき街を憂ひ迷ひて晝もなほ酒場の椅子に醉はむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く 情緒もまた久しき過去に消え去るべし。
十二月また來れり なんぞこの冬の寒きや。
訪ふものは扉どあを叩のつくし われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく煖爐もなく 白堊の荒漠たる洋室の中 我れひとり寢臺に醒めて
白晝もなほ熊の如くに眠れるなり。
殺せかし! 殺せかし!
いかなればかくも氣高く 優しく 麗はしく 香はしく すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。
我れは醜き獸けものにして いかでみ情の數にも足らむ。
もとより我れは奴隷なり 家畜なり
君がみ足の下に腹這ひ 犬の如くに仕へまつらむ。
願くは我れを蹈みつけ 侮辱し 唾つばを吐きかけ また床の上に蹴り きびしく苛責し
ああ 遂に――わが息の根の止まる時までも。
我れはもとより家畜なり 奴隷なり
悲しき忍從に耐へむより はや君の鞭の手をあげ殺せかし。
打ち殺せかし! 打ち殺せかし!

荒廃と寂寥の心情が吐露された一篇です。詩人としての評価を決定づけた1917年(大正6年)2月刊行の第一詩集「月に吠える」、続いて1923年(大正12年)1月に上梓された詩集「青猫」によって、日本の口語詩表現の領域を大幅に拡大させ「口語自由詩の確立者」と称されるに至った萩原朔太郎。
「乃木坂倶樂部」の<去年はアパートの五階に住み荒漠たる洋室の中壁に>の「去年」とは、第一詩集の発表から12年後の1929年(昭和4年)の12月のこと。44歳の朔太郎は、家庭の不和(離婚)による精神的な苦悩と生活の荒廃の中、苦渋の年の瀬の日々をアパート乃木坂倶樂部で送っている。前年(1928年)からの稲子夫人の所業(男狂い)により、7月初旬には離婚を決意(10月14日付けで協議離婚届出)し、馬込(現・大田区)の家を引き払い、2児を伴って前橋(群馬県)の実家に帰っている。朔太郎の人生で最も苦渋に満ちた悲痛な日々となった時期です。10月下旬に至って上京の決意をし、11月14日に単身で<赤坂区檜町6番地(現在の港区赤坂8丁目 10番地か?)のアパート「乃木坂倶楽部」の2階28号室に入居>する。三好達治(世田谷代田に居住時代も近辺に住む)が探し出した「乃木坂倶楽部」は、近代的で高級なモルタル2階建ての大降りなアパート(メント)であったという。詩中の<去年はアパートの五階に住み>の5階は虚構だ。上京後、朔太郎は、辻潤(大杉栄と共に虐殺された伊藤野枝の女学校時代の語学教師であり元旦那)らとの交友も復活させている。詩集の「詩篇小解」(朔太郎自らの解説)に<乃木坂倶樂部>を語っている。
<<乃木坂倶樂部は麻布一聯隊の附近、坂を登る崖上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二兒を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白晝はベットに寢ねて寒さに悲しみ、夜は遲く起きて徘徊す。稀れに訪ふ人あれども應へず、扉に固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女等、ひそかに我が孤窶を憫む如く、時に來りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日辻潤來り、わが生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑ひ、共に酒を汲んで長嘆す。>>
あの辻潤が「荒蕪を見て唖然とせしが」のフレーズに驚いてしまう。辻潤の荒蕪しきった生活ぶりを知っている者には、その程度がわかりすぎる程理解できる・・・。
この「麻布一聯隊の附近」で「坂を登る崖上」にあるアパートメントについては、朔太郎の長女・萩原葉子の随筆集「父・萩原朔太郎」(1959年刊)においてもまったく触れられていない。参考になる「新潮日本文学アルバム」でも写真は掲載されていない。 
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(左写真)「坂を登る崖上」方向・・実際の「乃木坂倶楽部」は(写真右側の樹木の場所)崖下の坂の途中に存在していた この坂は明治期の地図にも記載されている (右写真)崖上から石段の下(北方向)を見る 左奥が「乃木坂倶楽部」
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(地図)崖下は檜町10番地にあたる 山脇高女寄宿舎とアパート乃木坂倶樂部(6番地にまたがっていたかも)があった敷地は宗教法人(末一稲荷神社)の所有地となり立ち入りできない (右写真)檜町の町名が残る町内会連絡板  
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山脇高等女学校寄宿舎の旧門跡から南方向 手前が寄宿舎跡 奥にモルタル二階建の乃木坂倶樂部があった

参考
「現代詩読本 萩原朔太郎」思潮社1983年
「新潮日本文学アルバム 萩原朔太郎」新潮社1984年

萩原朔太郎リンク
鎌倉坂ノ下 萩原朔太郎の海月楼跡 http://zassha.seesaa.net/article/198000356.html
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2013年10月14日

世田谷 用賀 東条英機邸跡 

昭和16年1月8日、陸軍大臣東条英機の名において全陸軍に対し「戦陣訓」が下布されている。本訓その二の第八の「名を惜しむ」条項に、「生きて虜囚の辱めを受けず・・」という有名な条文がある。繰り返し叩き込まれたこの訓戒により、<俘虜(ふりょ)の辱めを受けず>に幾多の将兵が自決の道を選択していった。
予備役陸軍大将・東条英機は、1945年(昭和20年)8月15日、用賀の私邸で敗戦の詔勅(正午放送)を聴いている。その直後の午後1時には、娘婿の死を告げる電話を受けている。この日、娘婿の近衛師団所属の古賀秀正少佐(27歳)は、天皇の録音盤奪取クーデタ(宮城事件)に参加するが失敗、自決したのだ。
この宮城事件の発生で騒然としていた未明4時過ぎに、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみ これちか)は三鷹の私邸(作家太宰治の家の斜め向い)で、日本刀による割腹自決を遂げている(墓は多摩霊園)。
東条の自決も世間は当然という空気に包まれる。だが、「戦陣訓」に署名した本人が自決したとのニュースは依然として流れてこない。
8月30日、連合軍総司令官マッカーサーが厚木に降り立ち、9月2日には東京湾に停泊した戦艦ミズーリ甲板上で降伏文書の調印式が行われる中、GHQが東条以下の内閣閣僚を戦争犯罪人として逮捕する噂が流布しだす。
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1945年(昭和20年)9月11日午後2時に、GHQ(連合軍総司令部)は東条の逮捕を公表、横浜から逮捕部隊は用賀の私邸に向かうが道に迷ってしまい辿り着けない。上左右写真の私邸前(当時とは異る。敷地内の防空壕も取り壊されているだろう)には、すでに内外の報道陣多数が待ち構えている状態だった。その時分、東条は妻かつ子とお茶とおはぎで昼をすごしている・・・自決はどうしたのだ? 
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米軍別働隊は、前日(9月10日)、東条邸でのインタビューに成功していたアメリカ人記者を先導役にして、午後4時にやっと用賀に到着する。Pクラウス少佐指揮のMP(憲兵)部隊である。騒然とする玄関前の様子を耳にするに及んで、東条はやっと自決の意思を固める。応接間の椅子に座り、所有していた米国製(ブローニング社製)25口径でなく、8月15日に娘婿が自決に使用した拳銃(32口径コルト)を手にとったのだ。午後4時17分に銃声。心臓を狙ったのだが結果は失敗(通常はこめかみを撃ち抜くと思うのだが)。連合軍(米第一師団)の病棟で応急処置を受けた後、横浜本牧の米軍病院に搬送され、本格的な治療を受ける(本牧一帯は当時、無数といってよいほど多数の蒲鉾型の米軍兵舎が立ち並んでいた)。結果は見事なまでに「生きて虜囚の辱めを受ける」結果になった。
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1948年(昭和23年)11月12日の東京裁判最終判決を報じる13日付け朝日新聞朝刊
戦犯の処刑は、巣鴨刑務所(現・池袋のサンシャイン60の敷地)の絞首刑台(東池袋中央公園内の北角位置)で、同年12月23日に執行された。
参考
「東条英機 大日本帝国に殉じた男」2002年刊

*東条の娘婿の古賀秀正少佐が参加した宮城事件を描いた映画作品「日本のいちばん長い日」1967年8月3日公開・東宝作品は観る価値がある。岡本喜八監督作品で、阿南惟幾陸軍大将の自決シーンを演じる三船敏郎の演技が(セリフが無いため)印象に残る。黒沢年男が演じる畑中健二少佐が主役扱い。東条の娘婿古賀秀正少佐は佐藤允が演じている。モノクロ作品。
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2013年09月14日

下北沢 市川海老蔵暴行事件の余波・・手配落書き

2010年(平成22年)11月25日早朝に、人気歌舞伎役者・市川海老蔵が西麻布交差点から渋谷方向にゆるい坂を上った所の雑居ビル内で元暴走族の男に<半殺し>の暴行をうけた事件が発生。目黒区内の自宅に帰りついた海老蔵は、妻・小林麻央の警察通報で虎ノ門病院に救急搬送・入院に。翌月10日になって手配の容疑者が警視庁に出頭し、その場で逮捕。未だ初公判も開かれていない12月28日になり、海老蔵側が記者会見を開き事件の示談成立を発表。
その経過は連日、テレビのワイドショー番組や週刊誌誌上を賑わせていましたが、しばらくして話題にも上らなかった事件(!?)が・・・2011年(平成23年)の年明け早々、下北沢から東北沢にかけての一帯で民家の壁や駐車場のコンクリート壁に海老蔵の似顔絵がスプレー塗料で吹き付けられる迷惑行為が連続発生(10ヶ所以内だったはず)。ほとんどがすぐ消去されましたが、その内の数ヶ所分です。撮影は2011年1月上旬。
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  下北沢駅北口の茶沢通り沿いの駐車場の壁・・しばらくして消去されました
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     (左)下北沢駅南口で   (右)東北沢の井の頭通りの歩道で
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(左写真)2010年12月4日六本木通りの麻布警察暑前に詰めて 手配容疑者の出頭の噂に備える報道陣(警視庁に手配のi容疑者が出頭したのは12月10日(金曜)の午後8時前だった) 2010年12月発売の週刊誌の新聞広告

その後の経過
2011年(平成23年)2月19日 東京地裁で初公判
          3月14日 判決 被告iに懲役1年4月の実刑判決

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2013年09月13日

世田谷 桜新町 漫画「サザエさん」の「三河屋酒店」

漫画「サザエさん」に登場する酒屋「ちわー 三河屋でーす」(こうだったかな?)は、世田谷区桜新町の長谷川町子家のすぐ近くに実在していました。
まだ酒屋営業をしていた1988年(昭和63年)に、その三河屋酒店で買い物がてら経営者(上品なおばあちゃん)から話を聞いたことを思い出します。その折にフィルム撮影した1枚を初公開します。その直後に「三河屋」はコンビニ・セブンイレブン(世田谷サザエさん通り店)に業態を変えましたが、酒類のコーナーがかなり広めだったことを記憶してます。長谷川町子美術館が開館(1985年11月)して間もない頃で、新玉川線(当時の呼称)の駅から桜新町商店街は「サザエさん」一色に染まってゆきます。
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    長谷川町子美術館がオープンして間もない頃の「三河屋酒店」
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セブンイレブンとして営業中の「三河屋ビル」2007年3月撮影 長谷川町子美術館のエントランス横のボード2008年6月・公道から撮影
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1992年(平成4年)12月に刊行され大ヒットした「磯野家の謎 サザエさんに隠された69の驚き」飛鳥新社・・ざっと目を通したのですが三河屋に関する記述はなかった(はず)です。
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2013年09月11日

新宿 淀橋浄水場(更地直前のレンガ壁) 

1965年(昭和40年)3月31日に正式に廃止された「淀橋浄水場」が、更地に整備される直前の写真です。新宿副都心建設計画の区画整備と新道路は建設されていて、高層ビル予定地に浄水場のレンガ壁などが未だ残されている状態(1969年と推測=写真は管理人個人所有)での撮影です。高層ビル群は1棟も完成しておらず、唯一「京王プラザホテル」が建設中だった時代です。
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現在の新宿住友ビル(通称三角ビル)予定地付近から南方向・・奥に文化服装の円筒形校舎が見えます 斜面は浄化沈殿池(名称?)の盛土
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(左写真)浄水場の内側(手前が赤レンガ壁)から見た建設中の京王プラザホテル (右写真)新宿駅(小田急デパート)方向からの浄水場
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かっての淀橋浄水場正門付近に置かれている跡碑・・赤レンガの色をイメージしているのかな

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2013年09月09日

世田谷 経堂 作家・森茉莉 終焉の地 

文豪・森鷗外の2人目の妻・志けの長女、作家・エッセイストの森茉莉(84歳)さんが、1987年(昭和62年)6月8日午前11時頃、自宅(経堂「フミハウス」203号室)で倒れているところを通いの家政婦により発見されたが、すでに亡くなっていた。北沢警察署の発表によると死亡推定時刻は6日の午後4時頃、心不全による病死であった。父鷗外の眠る三鷹・禅林寺に同月9日に密葬された。戒名は「常楽院茉莉清香大姉」。森家の墓列の向かいには、太宰を師と仰ぐ作家・田中栄光が自殺をはかった太宰治の墓(8-5)がある。
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茉莉さんは、亡くなる2年ほど前、この「フミハウス」203号室で心臓発作をおこし、その時は自力で救急車を呼び一命を取り留めていた。心臓疾患(昭和60年2月〜4月入院治療)は癒えたかにみえていたが、帰らぬ人となってしまった。親族のアドバイスを振り払っての長年にわたる単身のアパート暮らし。代沢・淡島の独居から、経堂「フミハウス」に移ってきたのは昭和58年10月8日、80歳のときであった。

作家・吉行淳之介が葬儀の模様をエッセイに残している。
<< 昭和六十二年六月二十日(土)烈しい雨。東京信濃町・千日谷会堂で、森茉莉さんの葬式が午後一時から無宗教でおこなわれた。(略)
六月六日午後に森茉莉さんが亡くなったのはたしかだが、まだそこらにいるような気分である。
それに、弔辞を頼まれてしまった。これは大の苦手であるのだが・・・。
六月八日夜、共同通信からの電話で、はじめて森茉莉さんが心不全で急逝したのを知った。八十四歳であった。
六月九日付の読売新聞の記事の一部によると、
『文豪・森鴎外の長女で、随筆家の森茉莉さんが、八日昼前、東京・世田谷の一人住まいのアパートで、ひっそり死んでいるのが見つかった。
鴎外に溺愛され、その父を活写した随筆「父の帽子」でデビュー、ひたすら空想と美の世界を一人、歩き続けた女流エッセイスト。死後二日経過していたが、六畳一間の城″で筆をとり続けたその顔は、安らかで、夢を見ているようだったという』
この末尾を、そのまま信じることにして、むしろ安堵があった。
この記事にクレームをつけるとすれば、「随筆家、エッセイスト」という規定である。
森茉莉は一流の小説家であった。
葬儀の日、壇の上の白い菊の飾りつけが美しかった。遺影の傍に愛嬌のある茶色の熊の縫いぐるみが置かれているのも、森茉莉さんらしかった。
式は、「新潮45」編集長亀井龍夫氏の司会で、弔辞からはじまった。
(略)
もともと、森茉莉さんは宮城まり子の友人である。宮城まり子は室生犀星に気に入られて、ときどき訪問していたので、そこで会ったらしい。昭和三十七、八年ころ、北千束の私たちの家に森茉莉さんが現れ、それが初対面だった。その宮城まり子は、二日前にヨーロッパから帰ってきて、四番目の弔辞を遺影に向って語りかけた。不思議な話で、むしろ笑ってしまう内容なのだが、話のあいだから森茉莉さんの面影が浮び上り、ちょっと涙が出た。
『ある日、森茉莉さんから電話がかかってきて、「ジャーというの、知ってる。トマトを冷やして食べようと、ジャーというのを買ってきて、トマトを三つと氷を容れておいたの。一週間、一ケ月、一年と経ってしまって、こわくて開けられないけど、どうしようか」と相談されたので、「それ開けないでね、開けたら駄目よ」と言って、いそいで新しいジャーにトマトを容れて持って行きました』というような話である。
そういう話をするつもりだけど、「そのとき二人とも、ジャーの蓋を開けると、トマトがドーンと弾丸のように三つ飛び出すにちがいないとおもったのだけど」と前日に相談された。
「そこは言わないほうがいい、おもわず笑ってしまう人がいると、やはり具合が悪い」と言っておいた。 
最後に、喪主として、実弟の森類(るい)氏が参会者に挨拶された。「森茉莉の生涯」というようなもので、語り口の飄逸なところと相俟(あいま)って大そう興味があった。
森茉莉さんが上野動物園の近くに住んでおられた時期のことなど、初耳であった。昭和六十一年秋急逝された円地文子さんも動物園の傍に住んでおられたが、近所同士の時期があったろうか、などといろいろ考えながら聞いていた。
そして、「それにしても、これは喪主挨拶にしては長すぎはしまいか。しかし、僧侶の経もないことだし、神父や牧師の説教もないのだから・・・」と考えた。そのすぐあとで、森類氏がまったく同じことを言われたので、内心おかしかった。破格だが、いかにも森茉莉さんらしい葬儀だった。若い女性が多かったが、森茉莉ファンなのだろうか。会堂が狭いせいもあって、うしろに立っている人もあった。>>
吉行淳之介「森茉莉さんの葬儀」より 「新潮45」昭和62年8月号初出

参考
「森茉莉かぶれ」筑摩書房2007年刊
「森茉莉 贅沢貧乏暮らし」阪急コミュニケーションズ2003年刊
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2013年08月30日

新宿 歌手・藤圭子 終焉の地


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        撮影2009年7月(新宿歌舞伎町)
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(左写真)中央に残る痕跡・・藤さんの転落死現場 (右の石碑)撮影2008年5月(新宿抜弁天)
新宿区出身の作詞家・石坂まさを氏は2013年3月9日に死去。
藤圭子(本名・阿部純子)さんは2013年8月22日に62歳で死去。
1969年、もっとも暗かった闇の時間から抜け出せないで、未だ彷徨っていた新宿の街の暗がりから聞こえてきた怨歌・・2013年、あの暗い時代に引きずり込まれるように去っていったように思えてならない。
you-tubeから「藤圭子 圭子の夢は夜ひらく」 http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM 1970年「紅白」から(藤圭子19歳・リリース時=1970年4月25日は18歳)
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2013年08月29日

市ヶ谷 市ヶ谷八幡 小説「蒲団」の舞台

明治後期(1907年)に発表され、日本の自然主義文学の方向性を決定付けた田山花袋の小説「蒲団」の一場面の紹介です。印象的な市谷八幡神社(=亀ヶ岡八幡)の境内でのシーンを中心にして引用が多めになってます。
()内は引用した新潮文庫のページです。
(12頁)<神戸の女学院の生徒で、生れは備中の新見町で、渠(読み=かれ)の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情を以て充された一通の手紙を受取ったのはその頃であった。>
*神戸の女学院=西宮市岡田山の神戸女学院大学の前身であるミッションスクール
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市谷八幡神社・・太田道灌が江戸城の鎮守として勧請・・寛永年間に市谷御門内から現在地に移された 右写真は石段下の先に「電車の轟こそおりおり寂寞を破って通る」省線(JR)と外堀通りがかいま見えます

(32頁)<坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠さって、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如その珊瑚樹の蔭に身を躱して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。>

(33頁)<時雄は立上って歩き出した。もう全く夜になった。境内の処々に立てられた硝子燈は光を放って、その表面の常夜燈という三字がはっきり見える。この常夜燈という三字、これを見てかれは胸を衝いた。この三字をかれは曽て深い懊悩を以て見たことは無いだろうか。今の細君が大きい桃割に結って、このすぐ下の家に娘で居た時、渠(読み=かれ)はその微かな琴の音の髣髴(読み=ほうふつ)をだに得たいと思ってよくこの八幡の高台に登った。かの女を得なければ寧そ南洋の植民地に漂泊しようというほどの熱烈な心を抱いて、華表(読み=とりい)、長い石階、社殿、俳句の懸行燈、この常夜燈の三字にはよく見入って物を思ったものだ。その下には依然たる家屋、電車の轟こそおりおり寂寞を破って通るが、その妻の実家の窓には昔と同じように、明かに燈の光が輝いていた。何たる節操なき心ぞ、僅かに八年の年月を閲(読み=けみ)したばかりであるのに、こうも変ろうとは誰が思おう。その桃割姿を丸髷姿(読み=まるまげ)にして、楽しく暮したその生活がどうしてこういう荒涼たる生活に変って、どうしてこういう新しい恋を感ずるようになったか。>
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左写真は市谷山伏町(大久保通り)・・左奥方向が(p25)の時雄が自宅に帰った牛込矢来町方向 右写真は奥に見えるガラス張りビルの所に右に折れる細道がある・・時雄はこの道を下って市ヶ谷八幡の境内に入ってゆく・・坂道は左内坂 江戸初期に名主・島田左内により開発され町名・坂名にもなった(「御府内備考」)

(87〜88頁)<別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、微かに残ったその人の面影を偲ぼうと思ったのである。武蔵野の寒い風の盛に吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が凄じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るるように射し込んだ。机、本箱、罎(読み=びん)、紅皿、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗(読み=ひきだし)を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。暫くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団――萌黄唐草(読み=もえぎからくさ)の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨(読み=びろうど)の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた。>
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市谷八幡宮の急な石段 右写真は石段上の銅製の鳥居
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左写真は多磨霊園に眠る田山花袋の墓・・島崎藤村の筆刻 「蒲団・重右衛門の最後」新潮文庫・1952年発行(平成3年版より)

田山花袋・超略年譜
明治4年(旧暦) 栃木県館林町生まれ
明治32年 2月9日 27才で詩人・太田玉茗(ぎょくめい)の妹リサ(18歳)と結婚 
明治36年 6月頃 「蒲団」のモデル(主人公・横山芳子)岡田美知代との文通始まる
明治37年 2月末 岡田美知代19歳・・父親に伴われ上京 この年、花袋は32歳で2男1女の父親
         妻リサの姉の住居(土手三番町)に下宿させる
         美知代の恋人(京都同志社)が追って上京・・花袋は山伏町の自宅に美知代を移す 
明治39年 代々木3-9に移転
明治40年 9月 「蒲団」発表(「新小説」に)
昭和5年 5月13日 代々木3-9の自宅で死去 58歳 多摩墓地に埋葬 墓石に島崎藤村の筆刻
*年譜参照「田山花袋 作家の自伝25」日本図書センター

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2013年08月02日

原宿 コンドーム専門店 コンドマニア

六本木交差点から飯倉片町に向かって2本目の細い路地を左に折れた奥右側にあったコンドマニア六本木店が閉鎖されて久しい。神宮前交差点の原宿店(路面店)は、オープン以来20年を経過しているが健在だ。現在の国内コンドマニアグループの店舗展開は3店舗(原宿店・台場店=デックス東京ビーチ3F・神戸三宮店=グレース神戸ビル地下)。客層は若い女性グループとカップルが中心で、土日曜の午後になると狭い店内はスタッフも移動困難なほどに混雑する。
 コンドマニア通販のサイト http://condomania.jp/
 コンドマニア・フェースブック https://www.facebook.com/condomania.jp
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1992年オープンの原宿店。表参道と明治通りがクロスする神宮前交差点の西側角に立地している。
明治通り斜め向いの東急プラザ表参道前から。

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夜の交差点側。常に何かしらのメッセージを発信している。出入り口は細い路地側にある。

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コンドマニアのオリジナルパッケージは大阪・堺の中西ゴム工業製が主力商品となっている。オカモト・サガミ・不二ラテックスなどの有名メーカーの商品ももちろん揃っている(SサイズからXLサイズまで対応)。ローション(潤滑)などの周辺商品も豊富に扱っている。

コンドマニア原宿店 渋谷区神宮前6-30-1 営業時間 11:00〜21:30
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2013年03月18日

市谷柳町 近藤勇道場・試衛館跡

子母澤寛の「新選組始末記」(中公文庫版)の第1章「近藤勇(いさみ)の道場」(冒頭のP19より)・・・<近藤勇の道場は、小石川小日向柳町の坂の上にあった。養父の周助邦武は、なかなか使った人だが、すでに七十に近い老体で、名前も周斎と改め、言わば大先生として、時たま道場へ若い者の稽古を見に出る位のもので、自ら竹刀(しない)を手にするような事は無くなっていた。道場は三間に四間の稽古場と、外に住居がついて試衛館といっていた。流儀は天然理心流。武州三多摩に育った剣法で、江戸には余りはやらなかったが、それでもこの道場には、毎日五十名から六十名の門弟が稽古にやって来る。>
続けて塾頭・師範代が沖田総司であること、土方歳三や井上源三郎、藤堂平助、山南敬介の名が紹介されています。
永倉新八(新選組の生き残りで、晩年の大正2年に懐旧談が小樽新聞に連載開始・私家本出版は昭和2年)の「新撰組顛末記」(新人物文庫版)のP24にも、子母澤寛に参考にされたのとほぼ同様の文言の一節が・・上記の門人紹介にさらに原田左之助の名も含まれている。
また資料によって道場位置の紹介は様々だが、ほぼ下の地図の赤丸で記入した周囲に限定されています。「市谷甲良町20番」と住所記載した資料には<近藤周助は天然理心流の三代目を継ぎ、江戸へ出て1839年頃に、市谷柳町甲良屋敷西門に試衛館を開いた>と紹介。さらに<上石原村の豪農の三男・宮川勝太を養子にし、後に天然理心流四代目を継がせた、それが近藤勇昌宜>。宜の文字については子母澤寛がこだわりを持って強調しています・・「宣」を使う者がいるが間違いだと。永倉新八が建立した碑文では逆さまにして「宜昌」となっているとも指摘しています。近藤周助はその後、隠居して四谷舟坂横丁(四谷3丁目から北の舟町に通じる路地)に居住するが、慶応3年に76歳で死去。養子の近藤勇の斬首(慶応4年)はもちろん知る由もなかったのです。
甲良屋敷の地名は明治2年に、市谷甲良町と改称されます。また別の資料では道場位置を「市谷甲良町1番」と紹介されてますが住居表示の変更で旧20番=現1番。市谷甲良町(旧20番)と市谷柳町(旧21番)にまたがって甲良屋敷西門前に「試衛館」が存在したことは間違いないようです。このT字路の脇の石段下の古い稲荷まで含めた敷地に住居と道場(約30畳ほど)を構え、後に新選組の中心メンバーとなる面々が剣術の稽古に汗していたのです。
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大久保通りの歩道から路地奥・・ゆるい坂上が試衛館跡(左右とも同じ方向から)
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試衛館跡柱は市谷柳町側の稲荷社の手前に・・江戸末期から傾斜地だと思われるので(建物は建てにくい)道場位置はマンション(コスモ市ヶ谷)のT字路西角側付近だと推測・・敷地は100坪ほど・平屋建て・道場は約30畳・他に隠居部屋・居候用の部屋・客間・近藤勇の書斎など
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右の地図で赤〇をつけたマンション角・・表示板があるこの場所が道場の横っ腹(!?)

*参考資料・書籍は上記2冊のほか大判の辞典類・「幕末維新人物百話」など
*新選組リンク
「京都 壬生村遊女屋(壬生寺・新選組)」http://zassha.seesaa.net/article/318429007.html

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2013年03月10日

渋谷 東京陸軍軍法会議臨時法廷・陸軍刑務所(衛戍監獄)(2・26事件)

2・26事件の裁判(軍法会議)は計3ヶ所で行われました。名称が似ていて混乱しますが、決起将校・下士官・兵らの拘留・審議・判決が行われたのが渋谷の「東京陸軍軍法会議(臨時仮設法廷)」。相沢中佐と真崎大将の審議・判決は青山1丁目の第1師団司令部内の常設軍法会議(相沢中佐の拘留は渋谷の陸軍刑務所)。北一輝・西田税の審議・判決は第1師団歩兵第3聯隊内の臨時軍法会議(東京陸軍軍法会議が昭和12年1月に廃止撤去された為)。
東京軍法会議での公判開始は、決起を主導した青年将校らが事件から2ヶ月経った昭和11年4月28日から。やや遅れて下士官・兵・湯河原班らの公判が同年5月5日から開始。判決は一斉に同年7月5日に言い渡されました。決起将校ら17名に死刑判決(5日後の7月12日執行・・磯部・村中は翌年8月19日に執行)。北一輝と西田税らの常人(一般人)組4名は遅れて昭和12年8月14日に判決(北と西田が死刑判決・8月19日に執行)。

隊列を組み、雪を踏みしめて「昭和維新」を目指し「尊皇討奸」を合言葉に突き進んでいった2月26日から4日間の叛乱の結末は、19名の銃殺刑(自決2名)で幕を閉じました。信じていたものが幻想であったと理解した後の虚しさのなかで、拳銃の銃口を自らに向けた野中大尉・安藤大尉・・その戦術に雅拙さが目立つとしても彼らの真摯さと激情は時を越えて心に震えをもたらします。
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(左写真)渋谷の東京陸軍刑務所(衛戍監獄)内の北側位置にあった処刑場の位置近くに建つ「2・26慰霊像」(右写真)永平寺71世管長の筆になる「慰霊」
麻布十番の賢宗寺に祀られる22柱のみならず重臣4柱・殉職警官5柱・諌死3柱(竹嶌中尉の親友で自決した青島中尉ら)の計34柱の慰霊の為に昭和40年2月26日に仏心会(遺族会)によって建立
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(左右写真)処刑場跡に当たる場所(渋谷地方合同庁舎)=地図記入の位置参照 処刑場は約180cm巾で濠状に掘られており斜面奥に十字架が設置・・前方には銃座(台)が固定・・十字架が5〜6列ほど横に連なって並んでいる *モノクロ映画「叛乱」(監督・佐分利信)だったと思うのですが処刑場(銃殺)シーンが強く印象に残っており俯瞰位置からの画面に広がる土(コンクリートでない)のイメージが特に忘れられないでいる(かなり以前に観たので作品名が違っているかも)
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(右写真)慰霊像の横にある赤煉瓦壁・・これは衛戍監獄をぐるりと囲んでいた赤煉瓦の高壁の一部なのだろうか?
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現在は道路になっている西側の赤煉瓦の高壁(塀)の位置
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(左写真)現在の渋谷区役所と右端の渋谷公会堂・・二つの建物の間が陸軍刑務所の正門位置 (右写真)裏門跡に残る路地=現在はレコード・CD店が集中している路地+階段
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東京陸軍刑務所敷地の南西端に残る陸軍用地の標石・・以前は右写真の黒丸の歩道端の位置にあったが5mほど移動した
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東京陸軍軍法会議の判決を知らせる昭和11年7月7日付けの東京朝日新聞(左右共に)
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     上段の東京朝日新聞から 死刑判決の決起将校の顔写真の拡大

2・26事件リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html
「青山 第1師団司令部・師団軍法会議と相沢中佐(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343499701.html

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2013年03月08日

青山 第1師団司令部・師団軍法会議と相沢中佐(2・26事件)

第1師団司令部は明治24年3月に赤坂離宮内より、この青山南町1丁目に移転してくる。明治35年1月には同構内に歩兵第2旅団司令部を新築設置。その後、第1旅団司令部、陸軍高等軍法会議、師団軍法会議、近衛師団軍法会議が設置される。構内の陸軍射的場付近は青山邸の庭園にあたり以前は蛇ヶ池と呼ぶ池があった。(赤坂区史)
この第1師団司令部内に置かれた師団軍法会議で2・26事件に多大な影響を及ぼした皇道派の相沢三郎中佐の公判が執り行われました。第1師団司令部跡には、現在その痕跡を留めるものは標柱1本も残していない。
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第1師団司令部・師団軍法会議跡 南西側の青山公園・青葉公園
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跡地北側にあった都営住宅が建て直され高層ビルに変り区立赤坂図書館も移転入居(図書館跡は赤坂警察署の臨時庁舎に)

昭和10年 
4月13日 歩41聯隊(福山)の相沢三郎中佐、借財整理の為、不動産(1万3千4百円)を手放す。
7月15日 三長官会議により真崎教育総監罷免。
7月17日 相沢三郎中佐、3日間の休暇で正午過ぎに福山を出発し上京。
7月20日 相沢三郎中佐、軍務局長を訪問。真崎大将の罷免問題を糾弾し、辞職勧告。「私と共に死して貰えぬか」と迫る。(永田軍務局長との第1回目面会)   
7月21日 相沢三郎中佐、午後6時に帰隊。 
8月1日 相沢三郎中佐、台湾赴任を知る。
8月9日 相沢三郎中佐、福山の連隊を出発。大阪で下車し東久邇師団長訪問。伊勢神宮も参拝。
8月11日 相沢三郎中佐、晩より渋谷区千駄ヶ谷の西田税宅に泊す。
8月12日 午前9時30分に陸軍省整備局長室で山岡中将に面会。午前9時45分頃 相沢三郎中佐は軍務局長室で東京憲兵隊長と会談中の永田鉄山少将を軍刀で斬殺。午前11時30分死亡(死亡診断書)。後の相沢裁判で死亡時刻が問題に。死亡後の午後になってからの中将への進級上奏疑惑。
夕方 磯部が西田宅を出て新宿に帰る。林銑十郎陸相辞任し川島義之が後任に。翌日の新聞各紙には陸軍省の規制で相沢三郎中佐の名は公表されず「某隊付某中佐」と発表。また「危篤」の文字が午後の段階まで使用され続けている。
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12月 歩1聯隊附の香田大尉が第1旅団旅団長附副官に転じる。旅団長は佐藤正三郎少将(翌年1月開始の相沢裁判判士長)。香田大尉は判士側の動静を察知に連絡することになる。
 
昭和11年 
1月28日 午前10時 第1師団司令部内法廷で第1回公判(判士長は佐藤正三郎少将=皇道派寄り)。
早朝より近くの赤坂憲兵分隊から憲兵30名以上が師団の内外を警備。傍聴希望者は午前9時の締め切りまでに2百数十名が集まり抽選に(一般25名)。被告相沢中佐は渋谷の東京衛戍刑務所から午前9時半に司令部裏門に到着。特別傍聴人席には小栗警視総監ら百名。法官席の後ろの椅子席には堀第1師団長、香椎東京警備司令官(2・26事件の戒厳司令官)、山下奉文調査部長、大山法務部長らが列席。公判では相沢中佐の発言が許可され、独演会状態に。
夜、龍土軒で第1回目の会合(当主2代目・文人の出入りは初代の頃)。公判を傍聴した渋川善助より歩1・歩3の中・少尉12〜3名がその報告を聞く。
この龍土軒で皇道派青年将校は度重ねて会合を持ち、対策などを協議している。2階の20畳ほどの洋間と6畳の部屋を独占して会合に使用していた。
第2回公判
相沢中佐は時局を演説後に軍務局長の斬殺場面を詳細に話し始めている。「中央廊下を通り迷わず軍務局長室の前に来ました。二人の軍人が軍務局長と会話しているのが衝立を透かして見えました。自分は抜刀して永田閣下の右から襲った・・・」。相沢中佐は指を負傷したため医事課の部屋に入ろうとした時に担架で運ばれてゆく人を見て述懐する。「自分は永田閣下を殺しそこねたと感じ、かって戸山学校で剣術を担任していた自分が一刀両断に出来なかったのを恥ずかしいと感じました」。
2月1日 第3回公判
午前10時25分開廷 相沢中佐は斬殺の意図を聞かれ新聞の大見出しとなった言葉を述べている。「永田鉄山中将は悪魔の総司令部」
2月4日 第4回公判
午前10時04分開廷 真崎教育総監更迭の事情について問われると、相沢中佐は「南、林閣下が元老、重臣、官僚、財閥等と共に背景となり、永田閣下にやらせたと聞いていました。」
夜、龍土軒で第2回目の会合。2・26事件の中心メンバーが参加してくる。
2月6日 第5回公判
午前10時05分開廷 島田検察官による訊問。北一輝著「日本改造法案」を何故4冊も持っているのか、他人にやるつもりだったのかの問いに相沢中佐は「貰ったから持っていたのです。」 ここで鵜沢総明弁護人(貴族院議員・政友会顧問)から「相沢は村中が書いた総監更迭事情を深く信じ、その信じた点をさらに述べるつもりだが公開の席では述べられぬと思う。」と非公開なら述べると示唆。
2月8日 夜、龍土軒で第3回目の会合。参加少なく5名。香田大尉の他は村中ら民間メンバーのみ。
2月12日 第6回公判
午前10時08分開廷 開廷直後から非公開公判に。 傍聴人125名を退廷させて午前10時30分に再開。内容伝わらず。証人出廷が伝えられるのは橋本虎之助近衛師団長(相沢事件当時の陸軍次官)。橋本は永田軍務局長の元老・重臣らとの関係(結託)を否定している。また10月事件の処理での永田中将の裏工作も認知してないと否定。教育総監罷免を決定した三長官会議において真崎大将本人が最後まで同意しなかったことも証言(橋本の残した覚書)。この三長官会議で林陸相は真崎免職に強硬であり、その陸相の後押しをしたのが渡辺錠太郎参議官。真崎罷免後に皇道派の怪文書に渡辺錠太郎参議官攻撃が増加し襲撃目標になってゆく。
*真崎免職当時の陸軍三長官会議=陸軍大臣(林)・参謀総長(閑院宮載仁)・教育総監(真崎)・・罷免の多数決2対1で可決。閑院宮が真崎罷免の主唱者であり、その身代わりとなり襲撃を受けたのが渡辺錠太郎教育総監といわれる。
夜、龍土軒で歩3の安藤輝三大尉の申し込みで第4回目の会合。歩1・歩3から皇道派将校17名参加。憲兵隊報告では「相沢事件は全軍の負うべき責任なるを以ってこの機会を利用し皇軍の絶対的統制を計るの協議の如し」。急進派の栗原が20分で中座したのがこの会合。法廷闘争派は村中・西田・渋川・亀川ら。21時半に散会するが急進派の安藤と磯部、公判闘争派の村中の3名が残り約1時間激論。龍土軒での会合はこの日が最後で以降は部隊内将校室や個人宅などで行われ情報漏えいに敏感になり警戒している。
2月17日 第7回公判
憲兵の非常警戒の中で非公開公判に。林銑十郎元陸相(現軍事参議官)を証人喚問。連続の非公開公判は公判闘争派の西田・村中らに挫折感をもたらし、次回の真崎喚問も非公開が予想され絶望感にも包まれる。憲兵司令部作成報告では「何等かの方法により之を打開せんとする焦燥的気運が醸しだされてきた」。村中が態度を急変させて武力実行派に転じる(2月19日夜の駒場の栗原宅での実行打ち合わせの中枢メンバー会合に参加)。
2月20日 第8回公判 
昨年12月から準備命令のあった第1師団の満州派遣が正式決定(臨参令第48号)。予定時期は5月上旬。結果的に急進派将校ごとそっくり満州に移駐することに。
夜、西田宅で香田・安藤・村中・渋川らが実行協議。 
2月25日 第9回公判 軍事参議官の真崎大将が証人出廷。
2月26日 午前5時 皇道派青年将校指揮の各部隊が目標に突入開始。
 
<2・26事件を受け第1師団軍法会議では一部判士の更迭が行われ、審理を更新し、4月22日より5回の非公開公判を重ねる>

5月7日 第1師団司令部内法廷で相沢三郎被告に死刑判決。
5月8日 相沢中佐が陸軍高等軍法会議に上告。
5月9日 第1師団が満州に移動開始。
6月20日 相沢中佐の上告棄却。
7月3日 早朝 相沢三郎中佐の死刑執行。
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2・26事件リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html

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2013年03月06日

四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)

海軍大臣・朝鮮総督・第30代内閣総理大臣(5・15事件で倒閣した犬養毅内閣の後継)・外務大臣・文部大臣を歴任し、前年(昭和10年)12月26日に第10代の内大臣に就任した斎藤實(まこと)邸への襲撃の模様です。
昭和11年3月2日に大塚憲兵分隊で行われた襲撃指揮者・歩兵第3聯隊第1中隊の坂井直(なおし)中尉(中隊長)の取調(襲撃理由)によれば「斎藤實内大臣が君側の奸臣であるということは5・15事件の被告及び相沢中佐殿の公判廷でその理由を天下に知らしめたので今更下手な意見を此処で申し上げる迄もありません」と誰でも知っている通りだと陳述し、また「相沢中佐殿の理想を貫徹し国体を顕現するために兵力を以って国家の逆賊を討ち取り・・」と続けています。

1935年(昭和10年)
2月23日(日曜)
歩兵第3聯隊の週番司令室で週番司令の安藤大尉と野中大尉と村中孝次の3名が計画協議。遅れて坂井直中尉も参加。2月26日午前0時に準備着手し午前5時を期して決行と決定。ここで坂井中尉に「斉藤内大臣邸を襲撃し任務達成後に高橋少尉と安田少尉が渡辺教育総監襲撃を担当し残余は坂井中尉の引率を以って陸軍省東北角付近に集結する」案が示される。
2月25日
夕点呼後に週番司令室・第7中隊将校室等で具体案を立案。安藤大尉が週番司令として坂井中尉に命令。「坂井中尉は第1中隊及び機関銃4銃を指揮し午前5時を期し斉藤實邸を襲撃し任務達成後なるべく速に高橋少尉(第1中隊附)と安田少尉(砲7・砲工在学中)をして軽機2分隊小銃2分隊を以ってトラック2台に分乗し渡辺教育総監私邸を襲撃し薾余の部隊は坂井中尉の引率を以って陸軍省東北角付近に終結し半蔵門、三宅坂、平河町1丁目に亙る間を警戒すべし・・・」と下命。  
午後11時 坂井中尉は下士官を起こし準備行動に。下士官を将校室に集合させて決行の方針理由並びに処置の大要を示し各下士官に任務を与える。
2月26日
午前0時 第1中隊に非常呼集命令。将校4名、下士官17名、兵191名 合計212名。命令下達後に2名の下士官が行方不明に(末吉曹長・中島軍曹・・末吉は谷町側で警戒分隊指揮要員)。襲撃参加は210名に。機関銃=MG4銃・軽機関銃8銃。小銃弾薬7200発・軽機2880発(MGは不明)・拳銃1につき30発。部署=警戒長は末吉曹長(不明で未参加)・第1突撃隊は坂井中尉と麦谷少尉(正門担当)・第2突撃隊は高橋と安田両少尉(通用門担当)。経路=歩3営門(正門・・現在の新国立美術館正門の南横)から青山1丁目ー信濃町ー斉藤邸。
午前3時20分 準備完了し第1中隊営舎前に集合。ここで下士官2名の行方不明発覚し弾薬分配に手間取り30分遅れる。部隊配置計画も崩れる。坂井中尉の陳述「断乎たる決心を以って方針を変更しませんでした」
午前3時55分 坂井中尉は全部隊に決起趣意書に基き訓示「此れから皆と一緒に天皇陛下の御為に尽くそう」。
午前4時10分 歩3営門を出発。  
午前5時 東京市四谷区仲町3丁目44番の斎藤實内大臣邸に突入。
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(左写真)道路右側の大きなMSが斉藤内大臣邸跡・・北角付近から (右写真)左奥が内大臣邸の北角・・突き辺り右に警戒軽機関銃配置
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(左写真)逆の南側から内大臣邸・・左付近に正門 第2突撃隊は通用門の開錠に手間取り正門に合流して突入 正門入って右奥の玄関前の警官詰所にいた約20名の巡査らが狼狽している所を突撃隊が殺到し包囲制圧 (右写真)内大臣邸の北側は谷町1丁目・・名の通り崖状の低地で2個分隊が散開して警戒配備=指揮予定の下士官(末吉)が逃走したため別の下士官が指揮担当(配備は地図に黒丸)
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(左写真)左奥が内大臣邸・・撮影位置は道路が東に90度に曲がっている所(レの字の角から) 襲撃終了の集合ラッパで正門に再終結しこの道路を通り省線(JR)の陸橋を渡り坂井中尉指揮の主力部隊は陸軍省東北角付近に・・別働隊(教育総監襲撃隊)は荻窪に移動してゆく 
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(左)昭和11年3月5日東京朝日新聞夕刊1面から内府邸正門 (右)昭和11年2月27日大阪朝日新聞から斉藤内府

内大臣邸に突入し警護の警官隊を制圧した後は、坂井中尉を先頭に高橋少尉、安田少尉、林伍長、機関銃手1名の5名が建物を北周りで裏口に。雨戸を打ち破って侵入し15歳ほどの給仕を捕らえて案内させ2階の内府の寝室に。ここで内府夫人春子が抵抗し立ち塞がるが押しのけて安田少尉が内府に向けまず発砲。続いて将校3人が拳銃乱射。寝室奥に倒れこんだ内府をかばうように夫人が覆いかぶさるが押し退けて射撃。ここで機関銃手も私にもと申し出て数発発砲。この間に夫人は銃口を押さえようとした為に腕に銃創を負っています(夫人の写真等の詳細は齋藤實記念館のHPで)。
午前5時15分 正門前で一同で「天皇陛下万歳」を三唱。集合ラッパを吹奏し警戒班らを省線橋上に終結させる。

*斉藤内大臣邸は旧表示では仲町ですが、現在の表示は新宿区若葉1丁目21番でその敷地には大きなMSが建っています。葬儀(本葬)は3月22日に築地本願寺で。斎藤實内大臣(享年77)の墓地は小山崎齋藤墓地。分骨されたと思いますが多摩霊園にも墓があります。この事件の遺品も展示されている記念館は以下です。 
齋藤實記念館(奥州市)http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/index.html
岩手県奥州市水沢区字吉小路24番地

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多磨霊園の斎藤實の墓ですが肩書きで名が余りに下方に・・

「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
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2013年03月05日

駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)

昭和11年3月1日の2・26事件の中心メンバー栗原(歩兵第1聯隊元中尉)に対する赤坂憲兵隊分隊の取調べでは事件の4日前の「2月22日の晩に私の宅に磯部浅一・村中孝次・香田清貞の4人」で会合を持ち「2月26日払暁に決行しようと話はついた」と陳述。空川という小川が流れる岸辺にある栗原中尉の私宅で「2・26事件」の決行日がはじめて具体化したのです。ほとんど知られていないこの陸軍の町の北辺にある駒場町のさらに細い路地奥で歴史に残る大事件の導火線に火が点けられたのです。「2・26事件決行日決定の地」という小さい碑が建てられていてもおかしくはないのです。
この駒場町804番地の栗原中尉宅から陸軍将校らの住宅地であった偕行社目黒住宅をはさんだ西側には当時は陸軍省軍事調査部長であった山下奉文(ともゆき)少将(終戦時は大将)の私宅がありました。栗原中尉宅の脇を流れる空川を西に250mほど遡った御成橋のすぐ東側の傾斜地に皇道派と目された将軍の私宅があったのですです(駒場町775番・位置関係は下の地図参照・空川・御成橋等は現在暗渠となったため地図上でのみ確認できます)。
3月3日の東京衛戍刑務所(渋谷)での第2回尋問で栗原元中尉は「山下少将については同志から昭和維新については考えが同じと聴いていた」と返答してます。占拠した陸相官邸の早い時間帯での入邸許可メンバー一覧にも「調査部長・山下少将」名があり、その陸相官邸内で26日午前中に山下は青年将校らの行動が「天聴に達した」と直接伝達してます。29日朝には山下少将(三原中佐も同席)は青年将校3人(栗原と高橋・麦谷両少尉)への説得で自決を勧め、侍従武官長を通じ天皇へ差遣を要請しますが決起の最初の段階から怒りの収まらない天皇は「自殺したければ勝手にしろ」と返答(別項目で詳細有り)。また別の決起将校の陳述では(憲兵隊本部による坂井中尉への調書)、2月15日に山下少将の自宅へ歩兵第3聯隊・坂井中尉(四谷の内大臣邸襲撃指揮)は聯隊将校十数名と連れ立って訪問し相沢中佐公判の関連情報を聴いたとの証言もあります。
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(左写真)右角付近が栗原中尉宅跡 (右写真)栗原中尉宅付近から西側の崖上の偕行社目黒住宅方向
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上写真の右に曲がった位置 栗原中尉宅は右側 右写真は逆から=この撮影位置に空川(暗渠に)
*以下は栗原中尉宅の西側台地にあった偕行社(かいこうしゃ)目黒住宅跡地です。現在も一部分ですが細い路地(車通行不可)も残っており地図では全体の半分くらいは跡地が確認できます。当時の建物は空襲で焼失しており皆無。西側の裏門から山下少将宅へ向かう途中に旧表示板が貼られた古い平屋建てがあり当時を思い起こされます(将校住宅は平屋建だった)。
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(左写真)写真の中央に路地があり偕行社目黒住宅の正門だった(右写真)西側にあった裏門位置
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(左写真)坂の右側(北側)が旧表示の駒場町775番で山下奉文少将の私邸付近 (右写真)坂上の古い平屋建物に残る旧表示
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(左写真)山下少将邸の西側坂下の空川に架かっていた御成橋跡 帝都電鉄の駅に近い場所です
山下少将は敗戦後、フィリピン・マニラでの戦犯裁判で死刑判決を受け1946年(昭和21年)2月23日に執行されました。*地図記入の店舗等は昭和初期のもので現時点の目印ではありません。

*以下は多摩霊園の山下将軍(敗戦時は陸軍大将)の墓です。大きな顕彰碑が脇にありますが墓石には肩書きもなく無骨な武人らしさが漂ってます。
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 *三島由紀夫の短編小説「憂国」のモデルについて
以上のように偕行社目黒住宅の東西に2・26事件に密接した場所があるのですが、さらに(未だに確認中ですが)2・26事件に関連した夫妻の自決事件(2月29日朝に発見)が近辺で起こっています。三島由紀夫の短編小説「憂国」のモデルになった青島中尉(31歳)夫妻の自決です。陸軍教導学校所属で決起将校の一人・竹嶌中尉が親友(士官学校第40期の同期)であったため様々な苦悩の末に自宅で割腹をはかり、妻(キミ子25歳)も喉を突き果てています。地図の左端に記入した近衛輜重(しちょう)大隊が青島中尉の勤務先(士官学校輜重科トップ成績)で、当初はこの偕行社目黒住宅内が現場と早合点したのですが「世田谷区池尻の偕行社住宅」と記事掲載の新聞には明記。勤務地の近衛輜重大隊を目黒区と書き分けているので(新聞を疑っている)住所は池尻で間違いないようです。さあ、判リません。管理人が調べた昭和初期の地図で偕行社目黒住宅はすぐマークできたのですが・・現在、鋭意調査中です。この項目では「もうひとつの2・26事件 死が凝縮された3つの現場・駒場」とするはずだったのにひとつが抜け落ちたままのアップです。三島の短編では現場は彼の出身小学校「学習院初等科」の近く(=襲撃目標の斉藤実内大臣邸近く)に設定された為に余計にここの場所がマイナー化してしまったと思います。
*場所が判明次第、ここに追加するか別項目にするか決めます。情報が全くないので(何処かに書かれているとは思ってます。史学科の卒論の関連項目で取上げてもいいかも)苦闘が確実・・・青島中尉の墓は実家のある静岡県・・・どうしよう。

2・26事件リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監・私邸襲撃(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html

 
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2013年03月03日

三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)

「君側の奸」を討つべく一斉に決起した皇道派青年将校(中心メンバーは磯部浅一・村中孝次・野中四郎・香田清貞・栗原安秀・中橋基明・丹生誠忠・安藤輝三)の内、最後まで決起に躊躇し消極的であり、栗原・磯部・野中らによる説得・叱責を受け、決行日寸前の2月22日になって、やっと決心を固めた歩兵第3聯隊第6中隊長・安藤輝三大尉(32歳)の行動の概要。
決行具体案は、その翌日23日夜になって歩3(六本木竜土町)の週番司令室での会合で決定する。
一旦決意した安藤大尉は、2月29日に「昭和維新」が瓦解し、全部隊が原隊に帰順してゆくなか、赤坂「幸楽」から「山王ホテル」に部隊を引き連れ、最後まで抵抗の姿勢を崩さず、野中大尉の自決の報を聞くことによって自らも拳銃自決を図る。だが銃弾は致命傷とはならず失敗に終わる。
安藤輝三大尉の遺族は、事件当時から変わらず現在も世田谷の地で暮らしている(環7・246号交差点の近辺)。

昭和11年3月3日、東京衛戍刑務所・第1拘置監房(現在の渋谷区役所の位置)で、負傷・安静中の安藤元大尉に対し行われた渋谷憲兵分隊による尋問調書からの抜粋。
<<歩兵第三聯隊安藤中隊(第六中隊) 週番司令トシテ服務中ノ安藤大尉ハ二月二十五日午後九時頃所属中隊下士官十名ヲ招致シマシテ二十六日早朝直接行動ニ依り昭和維新ヲ断行スルコト襲撃目標第六中隊ハ鈴木侍従長ヲ襲撃スル事等ヲ告ケ一同ノ決意ヲ促シマシタ処皆参加ヲ願出タノテ襲撃ノ際ニ於ケル各自ノ分担任務ヲ指示シ更ニ週番士官坂井(中尉)、鈴木、清原ノ各少尉ヲモ召致シ非常呼集ノ実施、弾薬ノ受領其他ノ準備事項ヲ指示シ又聯隊兵器委員助手タル 下士官ニ弾薬ノ配給方ヲ指示致シマシテ午後十二時頃迄ニ重機関銃実包九千発、小銃実包約四万九千発、みどり筒六箇(*)、発煙筒五箇ヲ撒出シ出動部隊ニ夫々交付セシメ更ニ機関銃隊週番士官柳下(良二)中尉ニ対シ機関銃十六分隊ヲ編成シ二十六日午前三時迄ニ各出動部隊ニ之ヲ配属スヘグ命スル等万端ノ準備ヲ整へ二十六日午前三時ヲ期シ非常呼集ヲ行ヒ弾薬ヲ配給シ靖国神社ニ参拝卜称シ鈴木侍従長邸ニ向ツタノチアリマス>>
<<第一日ノ状況(二月二十六日)鈴木侍従長襲撃
襲撃部隊(安藤大尉ノ指揮スル歩三第六中隊ノ将兵約200名、重軽機関銃九銃)
安藤大尉ハ部下中隊ヲ率ヰ午前四時五十分麹町区三番町ノ侍従長鈴木貫太郎大将邸附近ニ到着致シマスルヤ各小隊長及分隊長ヲ集メ襲撃部署ヲ定メタ上同邸表門及裏門附近ノ道路上ニ各機関銃二銃ヲ配置シテ外部ニ対スル警戒ニ当ラシメ第一小隊ハ裏門ヨリ第二小隊ハ表門ヨリ夫々邸内ニ突入ヲ命シ更ニ一部ヲ屋外ニ止メテ警戒ニ任セシメ自ラ下士官兵約二十五名ヲ指揮シ屋内ニ闖入(ちんにゆう)致シテ奥ノ八畳ノ間ニ於テ鈴木侍従長ニ対シ下士官二名ニ命シ拳銃テ射撃セシメ侍従長力重傷ヲ負フテ倒レルヤ直チニ同邸ヲ引上ケタノテアリマス>>
*みどり筒=昭和初期に開発された強力な発煙催涙ガス弾(要ガスマスク)。(兵器類に詳しくないので、違うでと言われそう。靖国遊就館の兵器展示の中に含まれていたかなあ?)
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安藤大尉指揮の歩三第六中隊将兵約200名が表門・裏門に展開するため下った鍋割坂。侍従長邸は右奥。路地は宮城内濠に突き当たる。奥の森は近衛師団の兵営が置かれていた北の丸。

憲兵隊の尋問調書は句読点がなく、カタカナ文の為、判り易く省略形にしたのが以下。MGはマシンガン。
1936年(昭和11年)2月26日(水曜)
歩兵第3聯隊第6中隊長・安藤輝三大尉は自らの中隊及び機関銃隊4分隊(MG4門)に非常呼集をかけ、午前3時30分に計204名を指揮し聯隊営門を出る。雪道を隊列を整え行軍し、途中靖国神社に参拝し、午前4時50分頃に麹町区三番町2の鈴木貫太郎侍従長官邸に到着。兵力を二分し表門・裏門に配置し警戒待機させ所定の午前5時に同時突入開始。表門は安藤大尉指揮で開いていた小門から入り大門を開け進入し、裏門は塀を乗り越えて突入。警備の警官を包囲制圧し、屋内にいた書生2名を外に追い出した後に侍従長の捜索に取り掛かり(女中を起こし侍従長の居場所を訊いている)、奥の寝室で発見(侍従長は大声に眼を覚まし寝室隣りの納戸で日本刀を探すが見つからないでいる)。安藤大尉は即座に「打て!」と命令(*侍従長は廊下で出くわし「撃つなら撃て」と両手を広げて仁王立ちに)。発射(拳銃2発)した兵に関しては、廊下は兵で混雑しており記憶にないと尋問に答えている。その場に倒れた侍従長を見て目的は達したと全員を集合させ直ちに引揚げ命令(トドメは大尉が制止して引揚げている)。所要時間は約30分位で午前5時30分頃に侍従長官邸から引揚げ、三宅坂の三叉路の付近で参謀本部・陸軍省方面の警戒任務に当る。
その後、翌日27日正午まで同所(三宅坂三叉路)にて警戒を続け、正午以降は新国会議事堂(現在の議事堂で当時は未完成)に終結し、夜に入って赤坂の料亭「幸楽」に移動、宿営する。
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鈴木侍従長官邸正門。当時とほぼ同じ構え。

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同上。正門前広場。安藤大尉の指揮する声が聞こえてきそうだ。

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(左)昭和11年2月28日付の2・26事件を伝える大阪朝日新聞。(右)鈴木侍従長の29日付病状。
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(左)侍従長の治療経過を伝える昭和11年3月22日付東京朝日新聞。(右)侍従長邸周辺見取り図。
鈴木侍従長(予備役海軍大将)は、記事にあるように直ちに救護を受け、一命を取りとめる。主治医と輸血男の話は記事を参照(「鈴木貫太郎自伝」1997年刊には更に信じられないような偶然や秘話が語られている)。襲撃時に侍従長の傍らにいた妻(たか)が、これ以上の危害は無用と懇願したため安藤大尉は敬礼をし(兵はガシャと軍靴をそろえ捧げ銃)退去している。トドメを回避したのは、安藤大尉と侍従長は過去に面識があり、侍従長の識見を知っていたためだともいわれている(侍従長の書まで頂戴している)。
その後、鈴木貫太郎侍従長は、昭和20年4月7日に小磯内閣を後継し、内閣総理大臣に就任。同年8月15日正午の天皇詔勅放送と同時に内閣総辞職する。

参考・抜粋 「2・26事件研究資料U」松本清張・藤井康栄編・文藝春秋1986年刊
リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監・私邸襲撃(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
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2013年02月27日

荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)

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荻窪4丁目の南端境界線と省電線路との間の閑静な住宅街に渡邊錠太郎教育総監(大将)の私邸があり、反乱部隊の襲撃を受け、1階日本間で死亡、凄惨な現場となった(布団に横たわる死体写真が公開されている)。
*渡辺邸の住所は資料によっては上荻窪2丁目12番地(旧表示)の記載が見受けられるが、それは角側の隣接地であって、事件直後の新聞記事でも確認できるが、正確には上荻窪2丁目13番地である。
教育総監の私邸と同じ2丁目内の97番地(直線距離で200mほど)に、決起部隊の安田少尉の義兄が住んでおり、安田少尉自身も寄宿していた。四谷區仲町の斉藤実(まこと)内府私邸(内大臣・子爵・元首相・海軍大将)を襲撃した後、坂井中隊(第一中隊及第二中隊ノー部)から分隊した教育総監襲撃隊(指揮は高橋及安田少尉)を先導したのはもちろん土地勘のある安田少尉であった。
襲撃理由は、相沢中佐が軍事法廷公判で述べた「天皇機関説を肯定する大逆不道の人」であった。

憲兵司令部作成の「二・二六事件ノ概況」(昭和11年5月)の渡辺大将襲撃の項から。
斎藤邸襲撃終了後高橋及安田少尉ハ下士官兵約三十名ヲ率ヰ軽機関銃二銃ヲ携行午前六時頃予テ打合セノ上用意シテアリマシタ野重七ノ軍用自動車ニ分乗シ杉並区上荻窪ノ教育総監渡辺大将私邸ニ向ヒ到着致シマスルヤ直チニ軽機一分隊ヲ以テ表門附近ヲ警戒セシメ其他ノ者ヲ以テ玄関前ニ突入シ軽機ヲ以テ玄関ノ扉ヲ射撃破壊シ此処カラ家内二侵入セウトシタノテアリマスカ内扉カアツテドウシテモ之ヲ開ク事力出事(来が脱字)スゴタゴタシテ居ル時護衛トシテ同家二階ニ起居シテ居リマシタ憲兵ノ拳銃射撃ニ遇ヒ之力為安田ハ右下腿ニ一弾ヲ受ケ下士官兵中ニモ負傷者カ出来タノテ之ニ酬ユル為高橋ハ部下ニ命シ二階窓口目蒐(掛)ケテ射撃セシメ
次テ裏庭ニ廻リ茶ノ間ニ侵入シテ安田カ襖ヲアケタ途端座敷ノ方カラ総監ノ発射シタ拳銃弾力安田ノ軍刀ニ命中シ更ニ其左肘ヲ掠メ衝撃ノ為メ縁側ニ倒レタノテアリマスカ此時既ニ家内ニ侵入シタ軽機関銃手ハ直チニ総監ニ対シ発射シ又高橋、安田モ拳銃テ射撃シタ為メ総監ハ其場ニ倒レタノテアリマス
高橋ハ倒レタ総監ニ対シ更ニ軍刀テ斬り付ケタノテアリマス

時系列で渡邊教育総監私邸襲撃を表記すると、
1936年(昭和11年) 
2月26日 
 午前5時 歩兵第3聯隊・坂井中尉を中心とする約150名をもって斉藤内大臣私邸を包囲攻撃開始。 
 午前5時15分頃 斉藤実内大臣・即死(高橋・安田両少尉とも2階の内府寝室で拳銃乱射)。
       終了集合ラッパ吹奏し南側の橋に部隊集結。
 午前5時30分頃 内大臣襲撃後に主力部隊から分れた第2次行動の部隊(歩3聯隊1中隊付きの高橋
       太郎少尉と陸軍砲工学校の安田優砲兵少尉・約14〜5名・20名説も・軽機関銃2)が
       田中中尉の準備したトラック2台に分乗。先導は我が家に帰るごときの安田少尉。
       四谷見附から新宿・中野を経由して雪道を荻窪に。
 午前6時過ぎ(30分くらいか) 荻窪の教育総監私邸に到着。軽機1を私邸への路地角に警戒設置。
       主力は表門より突入。表玄関の開錠が厳重なため軽機関銃で扉を破壊(砕け散った
       ドアの写真が当時公)。次の扉を開けようと体押し時に中から発砲あり応戦。
       裏側(南側庭)からの報告により主力は建屋東側より迂回し庭側より進入。
       安田少尉は(すゞ子)夫人と問答するも突き除けて次の間の唐紙打ち開ける。
       教育総監は蒲団を被り盾にして拳銃を発砲。襲撃側も軽機・拳銃を乱射応戦し高橋
       少尉が軍刀でとどめ。教育総監は身体の右側に集中して被弾・即死(現場写真から)。

<警戒中の憲兵2名(伍長と上等兵)は2階で就寝中(この時、牛込憲兵分隊から軍決起情報の電話が入るが直後に襲撃を受ける・・玄関での応戦で安田少尉ら2名を負傷させている)。すでに起床して勝手支度中の夫人は物音に気付きすぐ奥10畳で就寝中の教育総監に声をかけている。一緒に就寝中のおかっぱ頭の二女和子(10歳)も起きて一度は母親のほうに。再び奥の間に戻った和子を教育総監は拳銃を握りしめながら立てかけてあったテーブルの隅に(防弾の為)足蹴にして押し込んでいる。テーブルには銃弾貫通痕が。(昭和11年3月22日付け東京朝日新聞朝刊より)>
 午前7時20分 2台のトラックに分乗し陸相官邸前に引き上げ。負傷者(銃創)2名(安田少尉
       ・木部伍長)の処置の命令を受け前田外科病院に入院させ、午前9時〜10時の間に
       三宅坂の参謀本部前で朝食(乾麺)。坂井中尉の指示で三宅坂上の五差路付近の
       中隊主力と合流。
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(左写真)襲撃部隊が突入した正面玄関。この位置からの憲兵による警戒中の写真が残されている。 (右写真)正面玄関に向かって左側の「くぐり戸」(通用口)。
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(左写真)正面玄関右側門柱の表札。2・26事件当時のものと思われるが判読不能。(右写真)南側の外壁。安田少尉が偵察の際、進入困難と判断したと思われる。
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(左写真)トラック降車後に直ちに軽機関銃を警戒設置した位置(左奥が教育総監私邸)。(右写真)軽機設置位置からの教育総監私邸への路地を見る(距離が判ると思う)。

つい先年まで渡辺家の遺族・子孫の生活の場であり続け、また近隣には渡辺姓(家族)の表札が見受けられる。2008年(昭和20年)2月より解体工事に取り掛かり、2009年1月には更地となっていた。同年5月頃よりマンション建設工事が開始されている。
解体を前にして、渡辺邸の建具など一部の寄贈を受けた杉並区立郷土博物館が、2009年2月21日から2ヶ月半ほど玄関部分や和室を復元して特別展示。同時に同邸を設計した柳井平八氏の紹介もなされている。又、襲撃時にテーブルの影に隠れ無傷だった二女・和子(ノートルダム清心学園理事長)さんの特別講演も行われた。
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*以下は、多磨霊園の渡邊教育総監の墓(12区1種10側)。
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参考:「二・二六事件=研究資料」U・V(編 松本清張・藤井康栄)文藝春秋1986年刊

2・26事件リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html
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2013年02月26日

中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)

2・26事件の理論的指導者として民間人ながら軍法会議にかけられ、非公開・無弁護人・一審制のもとで銃殺刑に処せられた北一輝が憲兵隊に逮捕された現場であるとともに最後の住居であった中野区桃園町の旧居周辺の写真です。当時とは道路も新しく敷設されているようで「おそらくこの付近」です。
管理人は学生時代(夏)に北一輝の故郷・佐渡の両津を訪れたことがありますが・・新潟港をでた連絡船が佐渡の山々が近くに見えているのにえらく時間がかかったこと+相川の海岸(公園だったか?)にサーカスのテントが張られていたこと(初めてサーカステントを見た)ぐらいしか記憶に残っていないのです。両津港周辺の町並みを歩いた記憶はなんとなくあるのですが、北一輝を意識して訪れているので生家跡などは訪れているはずなのですが・・・思い出せないでいます。
鈴木清順監督の日活映画「けんかえれじい」でラストのワンシーンに登場するのが北一輝・・主演の高橋英樹が上京する時に「大きな喧嘩」が起こっていたのです。北一輝というとこのシーンが強烈に焼きついてしまっています。北一輝は幼年時代に眼病で右眼を失明しており義眼・・左眼のみで世間を観察していました。
「国体論及び純正社会主義」の天皇制問題などから始めると途轍もなくなるので興味ある方は、参考に読んだ文庫本を挙げておきます(長期間本棚の隅にいまだに居座っている)。
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昭和10年10月に梅屋庄吉の別荘に移転します・・旧表示で中野区桃園町40番地・・2枚とも北側からです・・南側の低地側の道路からも撮りましたが地番が違ってくるので省略 当時はおそらく樹木に覆われた建物だったと思います
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3月10日の夜になりようやく戒厳司令部から拘束・取調べ中の発表(東京朝日新聞3月11日付朝刊)
右の地図・・かなり広い別荘だったようで周辺の地番は細かく並んでますが40番地のみ周囲が空白
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昭和6年2月に移転してきた大久保・百人町2丁目の住居跡です・・現在はテニスコートに・・かなり広い敷地 JR大久保駅から細路地を北に200m(地図にテニスコート出てるので・・手製地図は省略)

  *北一輝周辺の略年譜
1931年(昭和6年)48歳
 2月 牛込より大久保百人町に移転 
 10月 十月事件未遂に(桜会・大川周明ら軍部内閣樹立クーデタ発覚 北一輝・西田派も参加)
1932年(昭和7年)49歳 
 2〜3月 血盟団事件 井上準之助(2月9日射殺)・団琢麿(3月5日射殺)暗殺相次ぐ。
 4月 北一輝「対外国策ニ関スル建白書」執筆。
 5月 5・15事件 犬養首相暗殺。夜、西田税が撃たれ重傷。
   北、西田の看病中に後の2・26事件参加の陸軍青年将校の多くを知る。 
   北、この年より三井財閥・池田成彬から盆暮れに多額の金を送付され始める。
1933年(昭和8年)50歳
 11月 救国埼玉挺身隊事件が発覚。事件背後の中心人物は栗原安秀中尉。
1934年(昭和9年) 51歳
 3月5日 永田鉄山が陸軍省軍務局長に就任・・統制派進出開始。
 11月20日 陸軍士官学校事件(クーデタ計画摘発)により、村中孝次大尉・磯部浅一主計逮捕(不起訴処分)
1935年(昭和10年) 52歳
 4月6日 真崎教育総監、全陸軍に「国体明微」を訓示。
 夏 北一輝、大久保百人町から岩田富美夫方に移る。
 7月11日 村中・磯部「粛軍に関する意見書」配布。
 7月16日 真崎教育総監罷免され後任に渡辺錠太郎着任・・統制・皇道両派の対立深刻に。 
 8月12日 陸軍省軍務局長・永田鉄山、省内局長室で皇道派・相沢三郎中佐に斬殺される。
 10月 北一輝、梅屋庄吉の別荘に移転。中野区桃園町40番地(現在の中野3丁目)。
1936年(昭和11年) 53歳
 2月 2・26事件勃発。
 2月27日 帝都(東京市)に戒厳令発布(7月18日に解除)
 2月28日午後 北一輝、憲兵隊に検挙
 3月17日〜21日 北一輝、警視庁で取調べ。
 4月22日 北の取調調書が軍法会議に送られる。
 7月12日 2・26事件第1次15名処刑。
 10月1日 北の第1回公判。
 10月22日 北一輝、論告求刑。
1937年(昭和12年) 54歳
 1月18日 磯部・村中に判決。
 8月14日 北・西田(元騎兵少尉34歳)に叛乱罪(首魁)で死刑判決。
 軍法会議は非公開・無弁護人・一審制。青年将校らへの理論的指導者とされ、直接関与も無い民間人でありながら事件の首魁として死刑判決に。
 8月19日 午前5時50分 北一輝・西田税・磯部浅一・村中孝次ら東京陸軍刑務所で銃殺刑執行。
  *東京陸軍刑務所は現在の渋谷区役所の位置・・処刑場はお決まりの敷地北側隅(別項目でアップ予定)

以下は、昭和33年建立の目黒不動尊の境内の「北一輝先生碑」。碑文は大川周明。
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この写真だと判読不可能・・大きくしてみると・・下の写真
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大きくしても・・白い説明板でお願いします
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          1983年3月10日の新聞広告です

 *参考資料 松本健一氏の労作はまだこの2巻のみ読了しただけ・・
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2013年02月23日

渋谷 円山町 阿部定の足跡 待合みつわ跡

昭和11年4月、阿部定(31歳・当時は変名使用=田中加代)は、新井薬師の割烹料理屋「吉田屋」(中野区新井538番地=現在の新井1丁目)に住み込み女中として働き始める。「吉田屋」の主人は、石田吉蔵(42歳・新井三業組合組合長)。4月中旬頃、「吉田屋」内の離れ座敷で、初めて定は吉蔵と関係をもつ。4月19日に吉蔵との情交現場を女中仲間に見られたことから、内儀(吉蔵の妻とく=当時43歳)の知るところとなってしまう。石田と定は関係を続けるために「吉田屋」を出て、各所の待合に泊り歩くようになる。定が「吉田屋」に女中奉公に入った理由は、定の援助者であった名古屋市にある中京商業の元校長大宮五郎が、定に小料理店を出させる為の準備として見習い修行に送り出したことによる。
「予審訊問調書」より
<<そうです。本年四月十九日の晩、私と石田が応接間の電気を消して、そこで関係しようとしている時、女中に見つけられてしまい、家人に知れたので、石田がゆっくり外で相談しようと云い、四月二十二日の朝、示し合せて家出し、渋谷丸(ママ)山町の待合「みつわ」に行きました。>>
4月22日の朝方、定は新宿駅で石田と会うことを示し合わせたて家出する。その後、渋谷円山町の待合「みつわ」(円山町85番地)に入る。交通手段は省電を使ったのか円タクに乗り込んだのかは分からない。
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円山町の待合「みつわ」跡地(写真の右端 植木付近は84番地になる) 地図で5の位置の下側(奥)の赤文字85番のところ 
戦前の詳細地図「火災保険特殊図」渋谷地区の大部分が欠落しており、戦時下の空襲で地番85〜86番は焼失している。終戦直後の詳細地図でも待合「みつわ」の位置は確認できない。待合「みつわ」は米軍の焼夷弾攻撃で灰燼に帰しているはずだ。なお待合「みつわ」の住所は判決文に記載されている。*読者からの投稿により判明した内容を追加。「みつわ」跡は、戦後、旅館「千賀(センガ)」へと変わったが、昭和50年代になり取り壊されたという。
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(左写真)赤のコーンのある所が地図の赤数字5の位置で、かって妓楼・花隅柳の建物があった (右写真)その正面 
**花隅柳の裏(南側)が待合「みつわ」があった場所。地図の1と薬局の間の路地には戦前から存在する石段の道が残っている。そこを上がり、コの字に進むと待合「みつわ」跡に辿りつく。
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(左写真)「くすり」の看板の位置が地図黒丸の吉田薬局(現・ドラッグヨシダ)に該当する。85番地との境界83番地の端の店だ。薬局の先が85番地となり、地図赤数字の1・2・3・4・5の位置となる。現風景とはまったく異なる木造の妓楼が建ち並らぶ艶っぽい軒並みであった。
阿部定は、この待合「みつわ」について予審訊問調書で多くを供述している。<<「実際、私が今までに接した数多くの男の中で、石田は一番情事が濃厚で上手でした。>> 定はこの待合に来るまでは、ほんの浮気をするくらいの気持ちでいた答えている。すぐに帰るつもりでいたようだが、吉蔵の「ここに来てまで旦那と呼ぶなよ」という言葉を聞いたあたりから定の気持ちに変化が現れ始める。この夜から流連(泊り歩く)するうちに、定には吉蔵がこの世におけるすべてとなってゆく。
参考
「阿部定手記」中公文庫1998年刊 
「阿部定正伝」情報センター出版局1998年刊
映画「愛のコリーダ」大島渚監督1976年10月公開
事件当時の新聞各紙

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html
「浅草 阿部定の足跡 百万弗劇場」http://zassha.seesaa.net/article/319694968.html
「宇治 阿部定の足跡 菊屋旅館跡」http://zassha.seesaa.net/article/381905711.html
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2013年02月22日

広尾 小林多喜二 最後の隠れ家(地下活動)

作家・小林多喜二が、1933年(昭和8年)2月20日に赤坂・福吉町でスパイ三船留吉(共産青年同盟)の手引きで特高に検挙されるまでの約1ヶ月間、隠れ家としていた下宿跡です。場所は、渋谷区羽沢町44番地で国井喜三郎方。同年1月20日に、それまでの隠れ家(麻布区桜田町=現在のテレ朝通りの両側周辺)が特高に踏み込まれ捜索を受けた際に移ってきた最後の住まいとなった隠れ家跡です。
桜田町の家には前年の4月に結婚した伊藤ふじ子とその母親とで同居しており、捜索を受ける10日ほど前にふじ子は勤務先で検挙されていたのです。
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(左写真)表通り側から路地奥を撮影 右写真は路地奥からの逆向きで 赤坂・福吉町での昼の連絡の当日は多喜二は隠れ家前のこの路地を歩んだことと思われます(推定)
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尚、戦時中の空襲被害は路地に入る通りを境界として北側は焼失・・羽沢町の南側(旧・羽沢ガーデンも含む)は類焼も無かったようです 国井方の建物がいつまであったかは不明
 *参考資料
 「新潮日本文学アルバム 小林多喜二」1985年刊
 「小林多喜二」2008年刊(補訂初版・筑摩書房)(評伝)
  その他
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2013年02月20日

赤坂 2月20日・小林多喜二虐殺 (検挙場所) 

作家・小林多喜二は1933年(昭和8年)2月20日正午過ぎ赤坂區福吉町(旧町名)での連絡活動中、特高のスパイの罠に陥り今村恒夫とともに赤坂・田町6丁目の芸妓屋街を中心に逃走、溜池の市電通りで検挙され、連行された築地署の特高の激しい拷問により同夜・午後7時45分に絶命。今日が命日です。やっと花を手向ける代わりとしてこの写真と気持ちを捧げることができました。 *このブログは政冶的性格を有していませんし・・まして日共とは無縁です。
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道路右側が旧・福吉町です 左側は新町・田町になります 多喜二らの連絡場所といわれるそば屋「更科庵」は詳細な戦前の火災保険地図等で調べましたが・・田町6丁目のそば店「やぶそば田中」のみがチェックできたのみで不明です 空襲で赤坂一帯は灰燼に帰しており調査はストップしたままです 恐らく右側のどこかだと想像してます (右写真)道路左に樹木の辺りに「やぶそば田中」(地図の赤斜線) 
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上段の右写真から田町芸妓屋街の細路地に・・現在も料亭街として・・夜は政治家の方々がお出ましです ほとんどビル化して風情は無くなってます 多喜二はこの路地を縦横に着物のすそをからげて疾走したに違いないです
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「・・前の広い道を左に曲がれば市電の走る大通りに出れるぞ・・市電の通りだ・・多喜二は右の溜池停車場のほうに逃げろ・・私は山王下に逃げる・・さらばだ!・・(多喜二が一瞬だがこちらに顔を向けて微笑む)・・」
このシーンだけが夢の中によく現れます。場所もこの辺りのようで周囲の風景は戦前の木造2階建てが軒を並べている。何故だか多喜二と一緒に逃げている・・後ろには何も言わずに特高が迫っている。
文学者としての小林多喜二のファンです。それ以上に心優しい人間としての多喜二に寄り添ってしまいそうなくらい惹かれます。昨年、奈良駅から志賀直哉邸まで小林多喜二の辿った道を想像しながら歩みました。彼の視た風景を追体験するうちにいつものように涙が溢れ出て、前方から人が来る度に顔を見られないように苦労することに。死の前年(昭和7年)の4月上旬に多喜二は単独で志賀直哉を訪ね、帰京後に地下活動に入り隠れ家を転々としながら死に向かって行きます。なんの恐れもなく春の陽を浴びながら広々とした風景のなかを歩く多喜二。すぐそこに29歳の死が(満29歳)。
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情報統制の中で資料そのものが限られてます ほとんどを想像するしかないのです 多喜二が視た街並みを当時の地図上で自分だけでも再現してみようと作ったものです もう管理人は細かな路地を走りだしてます・・多喜二の背中を追うように *地図のMの表記は「待合」のMです(三業地の内の1業態) 
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右の新聞広告は、死の2ヶ月前に多喜二が特高の眼を逃れて鑑賞したコンサートの告知・・見つけたときは反射的にデジカメを取り出しそうに・・ここは都の中央図書館・・コピー申し込みコーナーに! *昭和8年2月22日(水曜)付け東京日日新聞の多喜二の年齢は31歳と数え年齢で表記してますが、満では29歳です

*参考資料等は「多喜二の死 築地署」でまとめて表示します・・早目にアップします。

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2013年02月15日

渋谷 寺山修司住居侵入事件現場 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」より

現在、劇団「天井桟敷」を主宰する寺山修司が住居侵入容疑で拘留(2日間)された事件の現場一帯は、大規模再開発計画により更地となっており、かっての木造住宅などが密集した路地裏の様相を思い浮かべる術は失われている。
寺山のこの「事件」は、メディアが一斉に飛びつく半月ほど前(1980年7月13日)に、渋谷署に「八幡荘」への住居侵入容疑で2日間拘留されただけで略式起訴(罰金刑)を受け、すでに決着していた。その後寺山は映画ロケで中国(香港)に出国し、8月16日に帰国した頃には、国内では、すっかり「のぞき犯・寺山」が定着していた。記者会見での寺山の言い分を要約すると、天井桟敷の「市街劇」のロケハン中であった、というのだ。
だが、常習性があったという天井桟敷の内部情報もある。それを紹介している文章(瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」最終巻2011年刊)を引用してみる。
<<私は寺山さんと縁の深い友人たち、美輪さん、三島由紀夫さん、篠田正浩さん、萩原朔美さん、唐十郎さんたちとはみんな親しいのに、寺山さんとはこの世でたった二度しか逢っていない。寺山さんの句や歌や詩や文章は愛読していて、この人は恐るべき天才だと信じていた。だから晩年、のぞき現行犯でつかまり、でかでかニュースに出た時もびっくりしなかった。天才とはそんなへンなことをする妖怪だと思っていたからだ。天井桟敷で一番若い美少年だった萩原朔美さんが著書の「思い出のなかの寺山修司」で云っている。寺山さんはパリのホテルでも覗きで追い出されたことが何回もあると。>>
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(左写真)「八幡荘」があった位置は画面中央奥やや左寄り付近。(右写真)再開発で9階建てビルが着工される予定。
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(左写真)現場見取り図。現場近くに記入した「松原荘」は、かって寺山の住居だった木造アパート(現在は建て替えられてビルになっている=右写真)。かっての通り道で土地勘があり、ロケハンの対象になったようだ。「事件」当時の新聞に書かれた住所は、港区元麻布三丁目(天井桟敷館と同じ表示で港区元麻布3-12)であった。この天井桟敷館で若かりし頃の園子温氏(映画監督)のエピソードがあるが別項で。「恐るべき天才」寺山は、この「事件」のわずか3年後の1983年5月4日に満47歳で病没している。
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2013年02月09日

四谷 手塚治虫 下宿跡(上京初下宿)

1952年(昭和27年)、手塚治虫(23歳)は本格的に漫画活動に専念すべく活動拠点を東京に移してます。上京した当初は都内の旅館を点々としますが、経費節約と編集者との連絡が容易になるという利点で下宿を探すことになります。結果を先に述べると、この下宿が現在に至るまで確定できてません。「四谷の八百屋の2階」とだけ判明してるのみで後は推定で述べられているだけ。手塚治虫の評伝・年譜は簡単に1行で「四谷の八百屋」というだけでさっと通過。この下宿を退散する理由が「編集者の出入りが激しく迷惑をかける」なのですが、この何度も訪れている編集者たちへの取材は過去に行われなかったのでしょうか。簡単に場所の確定が可能だったのに。手塚治虫は翌年1953年(昭和28年)1月に豊島区椎名町の(こちらは伝説化するほど有名な)「トキワ荘」(解体)に移ってゆきます。
下記の評伝「手塚治虫」(竹内オサム著)のみに明確に下宿先の名称と大体の場所の説明がなされてますが、住所記載がないため特定は難しいです。また、手塚治虫の総本山といえる「宝塚市立・手塚治虫記念館」を訪れ、(恐らく)学芸員の方からのメモも頂きましたが推定でいままでいわれていた場所と同じ。
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評伝「手塚治虫」(竹内オサム著)の「四谷駅から新宿方向に向かい、文化放送局の少し手前を左に入った右側の2軒目、山崎商店の2階である(四谷2丁目)」(P176)・・ん〜ん・・ズバリ言い切ってます・・が・・この「少し」が問題なのです それと「山崎商店」ってもちろん八百屋とは思うのですが 小学校に入る現在の児童公園の路地は省くのかな・・火災保険地図(昭和26)には何故か商店・個人名が大幅に省かれており・・昭和30年代の住宅地図は道路拡張後のものになってしまう 左右写真は地図の赤丸推定の位置
yotsuya te03.jpg  yotsuya te04.jpg
手書き地図の赤丸3ヶ所・・和菓子「坂本屋」(カステラを目の前で作ってます)のご主人は戦後からこの地で営業・・「八百屋などこの辺には無かったよ」・・道路向いの古本屋も古くて手塚治虫ファンだったから何か知ってるかも・・と情報(だがシャッター降りたままで休業中) 路地に赤丸だけの所が推定場所 
(右写真)宝塚の記念館で頂いたメモ「四谷1丁目3番の成木屋」と旧来の推定場所
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なんか可愛過ぎるアトム像(記念館のホールで) 宝塚の手塚治虫記念館は駅からやや歩く場所にありますが、展示は想像以上に充実していて大人でも楽しめます・・それと途中で宝塚音楽学校の方だと思われる美人さんに遭遇・・音楽学校に入る路地手前でファン風の女グループに話かけられていたから恐らく・・記念館への道は宝塚大劇場へのスミレ咲く歩道と共通なのです

その宝塚の美人さんの写真忘れていないのかって声が・・・もちろんポニーテールで買い物で駅のほうに行った帰り風のその後ろ姿・・・(ストーカー風の写真載せるとこのブログの気品が・・)・・で、撮っていません!


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2013年02月06日

新宿 西口 モザイク通り(今・昔) 

新宿駅西口を出て(地上から)左に・・小田急百貨店と京王百貨店の間を甲州街道方向に抜ける通路「モザイク通り」の今と昔。管理人19歳の頃のシリーズ第?弾目。この頃の写真はほとんど全てに当時の女が写っているものばかり。風景重視でお願いします。
「モザイク通り」って当時からの呼称なのかは不明。広々とした通路の舗装はモザイク模様のタイルで覆われています。現在は張替えられて単純な普通の四角いタイルに変わっていて、しかも左右の壁がせり出すように売場が増設されて、かなり狭い通路になってしまい昔の面影は無くなってます。
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19歳になった頃に通学が大変だったので超オンボロアパートを自力で借りた時、最初に部屋に来たのが写真の彼女S(同年齢)・・あまりのすごさに2度と来ることはなかった・・場所はなんと原宿(竹下通りには当時、店舗が少々あったくらい)でトルコ大使館の真裏の路地奥の木造2階建て・・風呂はもちろん無くトイレ・水道も共同・・野宿するよりはマシとかと周囲には言っていたのだが、内心は初めて持った自分の部屋だったので「うれしい」に浸っていたのです
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最上段左の写真と同じ位置 同じ場所と思えない 年末は恒例のイルミネーション
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2013年01月09日

北青山 特法寺 吉行家の墓地

岡山県御津草生(みつ・くそう)の吉行家の南側にあたる小高い傾斜地の白土塀に囲われた墓域から、東京・北青山の特法寺の墓地に分骨し、2005年(平成17)に新しく建てたもうひとつの吉行家墓地です。
NHK連続テレビ小説「あぐり」のモデル・あぐりさんは夫エイスケ氏の死去後に再婚(辻姓に)したため本家の墓地には迎えられないための処置のようです(*想像です・・遠方という要素も・・現在は再び吉行姓に・・吉行和子さんにお会いできる機会があったら質問してみたいです)。
集英社文庫「あぐり白寿の旅」(2009年刊)のあとがきに長女・和子さん(女優)の記で、次女・理恵さんの最後の模様と母・あぐりさんのその時の様子が描かれています。
兄・妹で芥川賞受賞・・・遠い岡山からあぐりさんの暮らす東京で二人はその名を仲良く並べて・・・もちろんエイスケ氏も・・・特法寺の墓石は南からの日差しを受けて暖かそうです。
あぐりさんは今年の7月には106歳・・・美容室のあった市ヶ谷の地で元気で日々を送っています。
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東京の墓地に関しては詳細を公開することで迷惑をおかけしそうなので・・・エイスケ氏・淳之介氏・理恵氏の命日等で墓参希望の方はお寺さんで聞かれてはと思います。

 市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html

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2012年08月01日

豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家

小田急線豪徳寺駅東口から豪徳寺(大老・井伊直弼の菩提寺として有名)にむかって住宅街の路地を歩くと、古い5階建てマンションが現れる。1982年(昭和57年)以来、写真家荒木経惟(のぶよし)氏と妻陽子さんの住居であり、作品表現の舞台となった建物だ。生後4ヶ月のチロ(猫)が同居したのは、1988年(昭和63年)になってから。アラーキー夫妻の愛猫チロをまじえた生活は短い期間で終わりをつげる。1989年8月、陽子さんは入院し手術を受ける。手術の日、アラーキーはその病室の窓を開け「空」を写す。翌年1月27日午前、荒木陽子さんは入院中の女子医大の病室で逝去(42歳)。棺に完成したばかりの写真集「愛しのチロ」を副葬としておさめる。アラーキーの人生・作品と一体化していた妻でありモデルでもあった陽子さんの早すぎる死であった。陽子さんの魂が乗り移ったような存在の愛猫チロとウインザーハイム豪徳寺での生活は続く。2009年(平成21年)、検査で前立腺がんが発見されたアラーキーは治療に専念。翌年3月、愛しのチロはアラーキーを残し先立ってゆく。チロは22歳であった。
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この建物は、アラーキーの写真集の表紙に取り上げられ、
住所表示プレートも写されている。この古ぼけた建物はアラーキー氏の作品世界そのものだ。
室内、屋上ベランダ、そして西側の空まで。

荒木経惟氏略歴
1940(昭和15年)5月25日 東京府下谷区(現・台東区)三ノ輪に生まれる。
1947(昭和22年)東泉小学校入学。
1952(昭和27年)アマチュア写真家だった父親からカメラを譲り受け、修学旅行先の
        日光東照宮で生涯初めての写真を撮る。
1953年(昭和28年)下谷中学校入学。
1956年(昭和31年)都立上野高校入学。
1959年(昭和34年)千葉大学工学部写真印刷工学科入学。
1960年(昭和35年)大学の赤城山寮にバイトにきていた女子高生相手に童貞喪失。
1963年(昭和38年)千葉大学卒業。電通入社。宣伝部技術局制作企画室配属。
1968年(昭和43年)電通総務局文書部和文タイプ室勤務の青木陽子(20才)と知り合う。
1971年(昭和46年)7月7日 青木陽子と結婚 新婚旅行は京都、柳川、長崎。
         新婚旅行を写真集「センチメンタルな旅」(自費出版)としてまとめる。
1972年(昭和47年)電通退社。退職金でアサヒペンタックス6x7を購入。
以降、フリーカメラマンとして活動。
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老朽化を理由にウインザーハイム豪徳寺の解体決定 (右写真)建物前は古道「滝坂道」 敷地近くあるお地蔵さん    
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(左写真)写真集6「東京小説」と雑誌「ユリイカ」アラーキー特集号 (右写真)2012年7月発行の写真集「愛のバルコニー1982〜2011」。
「愛のバルコニー1982〜2011」は、豪徳寺での生活の総括となる写真集。

解体が決まっていたウインザーハイム豪徳寺から2011年(平成23年)12月31日、
荒木経惟氏は退去した。

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2014年(平成26年)建物は解体され、新築ビルが姿を現してきている。

荒木経惟HP http://www.arakinobuyoshi.com/index.html

荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
京都・四条河原町 喫茶・築地http://zassha.seesaa.net/article/455847835.html
渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場http://zassha.seesaa.net/article/455890811.html
長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/455985556.html
鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456022608.html
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2012年03月16日

本駒込 吉本隆明 終焉の地

3月16日の日記分から
<戦後の知の巨人>吉本隆明(たかあき)氏が本日(2012年3月16日金曜)未明、逝去された。
高校生の頃、「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」などをなんとなく理解できる箇所のみ大幅に拾い読みして、「擬制の終焉」から借りた「擬制への挑戦に・・・」なんていうフレーズを使っていた恥ずかしい自分を思い出す。
今日、幅広い分野での多数の著作を前にするとその歩みに圧倒されるのみです。
漫画家ハルノ宵子(多子)さん、次女の作家よしもとばなな(真秀子)さんの父親であります。
合掌。
吉本隆明(「りゅうめい」とずっと、これからもそう呼ぶ)の記事は夕刊か明日の朝刊になるか・・保存版にするのです。
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   千駄木から1980年(昭和55年)3月に本駒込に移転。二階建ての建売住宅を購入。
   墓地に接している東側の二階の和室8畳とベランダ。
   この住居や周囲については「背景の記憶」に収められた一篇「東京に住む」で述べられています。

参考までに・・・吉本家のお墓はかなり以前から明大前の築地本願寺別院和田堀廟所の佃(つくだ)墓所域内に設けられています。
隆明氏の祖父母が熊本より新佃島に移り、築地本願寺に熱心にかよった縁から佃島住民にのみ許される佃墓地に懇願の末に設置されたお墓だそうです。佃島住民については江戸初期にまで遡るので省略。
        
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   お墓の位置は公開を望まれないことがありますので控えます。
   探すにはかなりの労力を要します。執念でした。樋口一葉のお墓にまあ近いです。

   参考 「吉本隆明の東京」2005年など
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2012年02月20日

渋谷 タレント中島知子(と女霊媒師I)の事務所MS家賃滞納騒動

体調不良のため休養中のタレント中島知子が賃借している個人事務所用マンションの家賃滞納が半年間に及んでいることから、不動産管理会社が立ち退きを求めて東京地裁に提訴。2011年9月末で賃貸契約は終了しており、以降は不法占有状態。判決は今月2月28日に言い渡される予定。自宅用マンションには女霊媒師Iが同居していると報じられ、判決次第では強制立ち退きが執行される可能性もでてくる。(スポーツ紙各紙参照)
自宅用マンション(南側)と個人事務所用建物(北側)は玄関こそ少しずれているが一通の道路を挟みほぼ真向かい。両方の玄関をウオッチできるベストポジションに24時間数人の記者が張り付いている。寒中お見舞いです。
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 右の樹木側が事務所使用マンション 記者氏の姿も    坂上から自宅マンション 玄関は坂下側
退去・引越しとなればテレビのリポーターも大挙押し寄せ一騒動必至。
場所は報道でも伏せられているので渋谷区とだけです。
渋谷駅から車利用してXX方向へよく向かう方なら定番で通るむずかしい抜け道。

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         判決日の地裁玄関前 多数の取材陣でボカシ画像になるので地面です
中島知子(40才)の個人事務所が不当にマンションを使用しているとして、滞納分家賃と部屋の明け渡し求めて不動産管理会社など2社が東京地裁に提訴した件で、今年の2月14日に第1回口頭弁論が行われたが中島側は欠席、争わないこととみなされそのまま結審となり、2月28日に予定通り東京地裁・民事第10部で判決が言い渡された。原告の全面勝訴。中島側はまたも欠席。(堀田匡裁判官 平成23年(ワ)第38804号)
民事の小さい訴訟だが被告が有名タレントのため判決の傍聴は抽選になり、正門向かって右側の2番交付所は10倍以上の競争率になった。
報道取材関係者も40名近くが正門前歩道に集結。大事件の様相です。
(管理人は被告出廷がなさそうなので、別の覚醒剤所持使用の法廷傍聴と地下で遅い昼飯)

自宅として居座っているマンションも同様の事由でオーナーにより提訴済みなので4月中に判決となる予定です。
カメラの並ぶマンション前に先日、原告側ファミリーのロンゲ白髪の「ロックンロール」氏が期待通りに怒りの出現。再登場、再路上コメントも高確率でありそう。
それと女霊媒師の親族といわれる二人が居住マンションに荷物を運び込むうしろに密着してマンション内に突撃しようとした女は誰? 白のおそろいの霊媒師シューズまで用意したのに警備員に阻止され逃走!特攻志願した雑誌の記者?身元が深く追求されないようだし・・・

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2011年11月22日

赤坂 向田邦子・和子の小料理ままや跡

作家・脚本家の故・向田邦子が実妹・和子とともに、1978年(昭和53年)に赤坂の街に開いた店が
小料理「ままや」。以後、向田邦子の事故死を乗り越え、20年間にわたり営業を続けてきた。
開店のいきさつは、向田邦子のエッセイ集「女の人差し指」に収められた「ままや繁盛記」に詳述されている(初出「ミセス」昭和53年11月号) 。
<<おいしくて安くて小奇麗で、女ひとりでも気兼ねなく入れる和食の店はないだろうか。切実にそう思ったのは、三年前からである。仕事が忙しい上に体をこわしたこともあるが、親のうちを出て十五年、ひとりの食事を作るのに飽きてくたびれたのも本音である。
(略)
幸か不幸か、我が家は食いしん坊と同時に、嫁き遅れの血統もあるらしく、末の妹の和子が適齢期を過ぎたのに、苗字も変らずに居る。この妹を抱き込んで、店を出そうと決心した。
妹は、火災保険の会社に勤めるOLであったが退職し、一年ほど前から五反田で「水屋」という小さな喫茶店をやっていた。どうにか常連の客もつき、女ひとり食べてゆくのに不安はなさそうだったが、場所が大通りから離れていることもあって、活気という点では、いまひとつ、面白味がないように思っていた。
赤坂に十五坪の出物があると知らせが入ったのは、この一月末であった。
その前に六本木表通り角の靴屋の地下に、十二坪の居抜きのはなしがあったのだが、これは見送っている。理由は、この道五十年というベテラン不動産屋の、「履物屋の下の食べ物商売というのはねえ」というひと言と、その頃、私の知人の間で起った二件の酒の上の転落事故である。万一の時、寝覚めの悪い思いはしたくない。
その点、赤坂は一階である。場所も広さも申し分なかったが、その代り権利金もいいお値段であった。これだけで、予算をオーバーしている。しかし−「店は場所である」。ローンを払い終った私のマンションを抵当に銀行融資の詰もまとまったことだし、思い切ってここで勝負してみようということになった。三月一日大安吉日を選び正式契約。設計は高島屋設計部。工事は北野建設が引受けて下さった。
(略)
細長いウナギの寝床なので、従業員の更衣室は犠牲になったが、カウンター八席。四人のテーブルが三つ。奥に人数の融通の利くテーブルが二つ。定員二十八だが詰めれば三十二人は入る。従業員は妹と板前さんとあと三人。店の名は「ままや」。社長は妹で私は重役である。資金と口は出すが、手は出さない。黒幕兼ボン引き兼気の向いた時ゆくパートのホステスということにした。開店は予定より一月遅れて五月十一日となった。
  おひろめ
  蓮根のきんぴらや肉じゃがをおかずにいっぱい飲んで おしまいにひとロライスカレーで
  仕上げをするーついでにお惣菜のお土産を持って帰れるーそんな店をつくりました
  赤坂日枝神社大鳥居の向い側通りひとつ入った角から二軒目です 店は小造りですが味は
  手造り 雰囲気とお値段は極くお手軽になっております ぜひ一度おはこびくださいまし
案内状の文面である。開店当日は、みごとな大雨であった。しかも、開店時刻の午後五時には、暴風雨である。それにしても、客が入らない。本日開店粗品差し上げますの看板は、雨に打たれているとはいえ、入口には、スターさんたちの生花が飾ってあるのに、みな、店内をのぞくだけで通り過ぎてしまう。
(略)
はじめて四カ月。雨の日も風の日もあったが、思いがけずお客がつき、おかげさまで、まだ大の字はつかないまでも、繁昌している。>>
以上、「向田邦子全集第10巻 女の人差し指」文芸春秋2010年より抜粋。
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「ままや」が入居していたビルは、現在もそのまま残り、2011年11月時点で、「ままや」があったスペースには寿司店が入居している。

<<遺品の嫁入り〃が終わった平成十年三月、姉と始めた「ままや」を閉店した。二十年やったことになる。最初の三年三か月は二人三脚だった。いざとなれば、自称「黒幕兼ボン引き」に責任をとってもらえる。無意識のうちに甘えていた。「黒幕兼ボン引き」 にスパッと去られて、ひとりでやるしかない状況になった。
十年、店をつづけたら、姉の意志に応えたことになると勝手に思った。「よくがんばった」と褒めてもらえそうな気がして、どんな事があっても十年はやる、と誰に相談するともなく決めていた。そして十年経った時、ひょんなことで病気になり、入院するはめになった。「ままや」をたたもうと思った。母も、姉の迪子(みちこ)も賛成してくれた。ところが、店で働く人が賛成してくれない。
「ままや」は閉めないで欲しい、自分達でやって、うまく行かないなら、あきらめるが、一か月でも二か月でもやりたい、と言われた。これもいい経験だろう、と口出しせず、おまかせすることにした。私も退院後は店にこれまでの半分の労力しか傾けず、少しずつ体をならして行った。
(略)
余裕や余韻をたっぷり残して、きれいさっぱり幕をおろしたい。私の意地と見栄だったが、誰になんと言われようと、その決心は変えたくなかった。
よくつづけた、よくやった、という自己満足と肩の荷がおりる解放感、時間の自由……数えあげれば、きりがないが、熱い思いが胸のうちでうず巻いていた。
邦子が死んで十七年目。母九十歳、私は六十歳を迎えようとしていた。平成十年三月末、惣菜・酒の店、「ままや」の暖簾をたたんだ。>>
向田和子「向田邦子の恋文」新潮文庫2002年収録の「ままやの暖簾をたたむ」より抜粋(単行本1999年平成14年7月新潮社刊)
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「ままや」は、1998年(平成10年)3月31日に営業終了。その後「ままや」跡には、店内改装をすませた焼肉店が入居、さらに寿司店に変っている。向田邦子がカウンターに座り、妹和子が厨房に立つ写真に残る「ままや」の店内の面影はなにも残っていない。
寿司店「寿司むらまつ」の店主の話によると、和子さんが食事がてら訪れているとのこと(複数回来たのかどうか、記憶があいまい)。向田邦子が生前に購入して、母親と和子が暮らす赤坂氷川神社下のMSから散歩がてらやってきたのだろうか。
寿司むらまつ
  港区赤坂3-6-20 第9ポールスタービル1階
  定休日 日曜・祝日
  営業時間 平日11:30ー14:00 17:30ー23:00  土曜17:00ー22:00

<<火災保険の会社に勤めるOLであったが退職し、一年ほど前から五反田で「水屋」という小さな喫茶店をやっていた。>>
「ままや」を始める前に向田和子が経営していた喫茶「水屋」の場所は、確定とはいえないが、写真を掲げてみる。
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(左写真)右奥のトラックが停車している付近が「水屋」跡(推定、西五反田2-24付近)。 (右写真)「水屋」跡(=左後ろ)近くに流れる目黒川。
<<迪子(みちこ)姉は私と同じ実践女子学園の出だが、学校でも目立たない生徒だった私と違って、小さい頃から社交家で、利発で、勉強のできる元気のいい子だった。私が「ままや」を始める前に五反田でやっていた喫茶店「水屋」を開店するときにも、夫の仕事の関係で名古屋に住んでいたのにわざわぎ上京してきて、什器の準備や厨房の整理、メニューの用意などを率先しててきぱきと実行してくれた人で、すごく勘がいいというか、私と違って目ざとい人である。
「一千万円は私が出すから、自由に使って。ほかに五百万円、融通してもいい」
それで、ドジで不慣れな私が、迪子姉や友達の協力を仰ぎながらスッ夕モンダの末に開店にこぎつけたのが、五反田の喫茶店「水屋」(みずや)だった。
昭和五十年四月二十八日。「水屋」は、姉の命名である。開店した当座は案の定、ドジな私らしい失敗の連続で、舞い上がりっばなしだったが、幸い、気のいいお客さんに恵まれて、徐々にそれらしくなっていった。
五反田で開店したのは特に地縁があったわけではなく、たまたま手頃な物件が見つかったからここに決めたのだったが、周りに小さな会社や事務所が結構多く、そこの人たちが利用してくれた。
(略)
半年前、私の「脱サラ」に共鳴してくれた姉は、頼りない私をサポートして、この五反田の物件を決めるときにも同伴してくれたし、開店準備の作業にも何かとアドバイスしてくれたのだったが、本人はまさに仕事に脂が乗りきった時期だった。「寺内貫太郎一家」「じやがいも」などの脚本のほかにもエッセイや対談をたくさん抱えて超多忙の毎日だったから、「水屋」に顔を出したのも、ほんの二、三回だったと思う。
十月の初め、昼どきの忙しい時間が終ってカウンターでボケッとしていた私に、その姉が電話してきたのだ。「明日の朝、店に行く前に、青山のマンションに寄ってください。お母さんには、そのことを言わないでね」
翌日、言われたとおり朝早く姉に会いにいった私は、乳癌を告白された。>>向田和子「姉 向田邦子の遺書」文芸春秋2001年11月刊より
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