2018年06月30日

日本橋小網町 西郷隆盛の屋敷跡

西郷吉之助がいつ東京日本橋小網町に私邸を構えたか、おおよそのことしか分らない。明治4年(1871年)正月、西郷は鹿児島を出帆し、1月中旬に土佐高知に立ち寄り、大久保利通・木戸孝允らと合流し、1月23日に大阪着、2月1日には横浜港に上陸、同月2日に東京に到着。この後の2週間ほどの間に屋敷を定めたか、それとも、一旦親兵徴集のため鹿児島に帰り、4月21日に薩摩藩主島津忠義とともに兵四大隊を率い再上京した後だったのか、確定できないが、この頃のことであったろう。
日本橋小網町の西郷邸は、現在の日本橋人形町1丁目1〜日本橋小網町14番〜日本橋牡蠣殻町1丁目10〜13番地にかけての広大な土地(2633坪)に建てられることになった。
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日本橋小網町の西郷邸跡。屋敷内の長屋には15人ほどの書生が住み込み、下僕を7人(熊吉ら)、猟犬は数頭を飼っていたと伝わる。

この年の6月、大久保利通に説得され西郷は参議になることを承諾する。6月25日に平隆盛の名で参議の辞令をうけ、正三位に叙されている。隆盛の名が初めて使われたのは、明治2年(1869年)12月25日に藩主島津忠義の名代で位記返上願いの案文を書いた時だ。この中で初めて「隆盛」の名が使われている。
翌月(明治4年7月)、勅許により委任状が与えられ、制度取調会で廃藩置県が審議され、9日に西郷は、木戸邸(現・靖国神社裏)で廃藩置県について密議。13日参朝し、朝議にて翌日の廃藩置県を決定している。封建制の廃絶という大仕事を主導したのだ。
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日本橋小学校付近一帯が西郷隆盛邸跡。

明治6年(1873年)西郷隆盛47歳、この年の10月23日、朝鮮派遣使節の中止が決まり、西郷は胸痛を理由として陸軍大将兼参議・近衛都督の辞表を提出、位記返上も申し出ている。即座に従者小牧新次郎と家僕熊吉を伴って、日本橋小網町の自邸を出立、小梅村の庄内藩御用達米問屋越後屋の別業に身を寄せる。翌々日には、副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平らの参議が一斉に辞職。28日、西郷は横浜から鹿児島に向けて出帆、以降二度と東京の地を踏むことはなかった。

参考 「西郷隆盛全集第6巻」1980年大和書房
   都中央区教育委員会の西郷屋敷説明版
西郷隆盛リンク
京都 薩摩藩定宿鍵屋跡 織田作之助「月照」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/460256257.html

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2018年06月15日

築地 海幸橋 池波正太郎「東京の情景」より

池波正太郎の画文集「東京の情景」から、今は見ることのできない築地の懐かしい情景が、さりげなく描写されている<日曜日の魚河岸>、その一部を抜萃。
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本文に登場する築地川東支川に架かっていた海幸橋(かいこうばし)があった場所。現在は、海幸橋の緑色の照明付き親柱のみが当時のまま保存されている。釣人が橋から糸を垂らしていた東支川は埋立てられ見ることはできない。

<<ある日曜日に、築地の料亭で昼間の会合があった。少し早目に家を出て、銀座で地下鉄を降り、がらんとした、人の気配もない、日曜日の魚河岸を抜けて行くのは妙な気分である。平日の雑踏とざわめきが嘘のように消え、まるで、廃墟の中を歩んでいるような気分になる。
東支川に架かる海幸橋で、近辺の人が釣り糸をたれていた。何が釣れるのだろう。
左手に見えるのは波除(なみよけ)神社だ。自動車も自転車も通らぬ夏の白い道が、暑い日ざしを吸ってあえいでいる。スケッチをしていたので、料亭へ着くのが遅れた。(略)>>
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波除神社境内より池波が<白い道>と表現した鳥居前の通り方向を見る。海幸橋は鳥居を出てすぐ左手にあった。
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関東大震災の復興事業の一環として架橋された海幸橋と東支川のかっての姿。昭和2年10月に完成。国内初のランガ―式アーチ橋。古ぼけた写真は、中央区土木部が設置した説明板に付けられているもの。
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海幸橋上から東支川(海側)を幻視する。釣り人はここから糸を垂らしていたのだろう。

池波正太郎「東京の情景」1985年朝日グラフ初出、2004年朝日文庫刊行。
池波正太郎リンク
箱根 富士屋ホテル 池波正太郎「よい匂いのする一夜」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/454046918.html
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2018年05月26日

三田 人力飛行機舎跡 寺山修司少女詩集から  

寺山修司の映像作品制作の拠点として港区三田4丁目に組織したのが<映画実験室 人力飛行機舎>であった。制作作品は、寺山の代表作(「さらば箱舟」「上海異人娼館」「田園に死す」「草迷宮」など)が網羅されている。当時、人力飛行機舎が拠点とした三田・願海寺境内の建物(写真)は、現在取り壊されており存在しない。尚、プロダクション人力飛行機舎は九條今日子(元寺山修司夫人・寺山映子)さんを代表として現在も活動を継続している。
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 詩篇「人力飛行機のための演説草案」
おれは自分を飛ばすことにばかり
熱中している一台のグライダーだった
麦は水の中でも育った
鳥が翼で重量を支えていられるのは ある速度で空気中をすすむときに
まわりの空気が抵抗で揚力をおよぼし
それが鳥のさびしさと釣合うからだ
おれはアパートの陽あたりのわるい十一月の壁に 鳥のように羽ばたいて飛ぶ オーニソプブ
ターの設計図を記述した
(略)
  寺山修司詩集「ロング・グッドバイ」から
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 詩篇「飛行機よ」
翼が鳥をつくったのではない
鳥が翼をつくったのである
少年は考える
言葉でじぶんの翼をつくることを
だが
大空はあまりにも広く
言葉はあまりにもみすぼらしい
少年は考える
想像力でじぶんの翼をつくることを
いちばん小さな雲に腰かけて
うすよごれた地上を見下ろすと
ため息ばかり
少年は考える
リリエンタールの人力飛行機
両手をひろげてのぽったビルディングの屋上に
忘却の薄暮がおしよせる
せめて
墜落ならばできるのだ
翼がなくても墜ちられるから
ああ
飛行機
飛行機
ぼくが
世界でいちばん
孤独な日に
おまえはゆったりと
夢の重さと釣合いながら
空に浮かんでいる
  「寺山修司少女詩集」から 
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*撮影は2007年。
各詩篇は「寺山修司全詩歌句」1986年思潮社より抜萃。
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江戸橋 江戸橋地下道 東野圭吾「麒麟の翼」事件現場

東野圭吾(ひがしのけいご)の長篇ミステリー小説「麒麟(きりん)の翼」(2011年)から、重傷を負った被害者が日本橋麒麟像に至って倒れ込むまでの経路を、点々と血痕が認められる移動経路をたどって事件現場に向かってみる。謎めいた事件の発生現場は、昼でも人通りの少ない首都高速江戸橋料金所(出入口)の下をくぐり抜ける歩行者用地下道であった。犯行現場周辺の描写は現実とたがわないドキュメントタッチであり、再現(写真)は容易である。

<<その後、改めて皆で安田巡査から話を聞いていると、所轄の藤江(ふじえ)という刑事課の係長が挨拶にやってきた。四十過ぎと思われる、痩せた男だった。藤江によれば、犯行現場と思われる場所が見つかったという。
「ワンブロック先です。御案内します」
藤江がそういって通行止めになっている車道を歩きだしたので、石垣らと共に松宮も後についていった。
左側の歩道では、一定の間隔を置いて鑑識課員が活動している。
「歩道に、ところどころ血痕があるようなんです。さほど量は多くないようですが。被害者は血を流しながら移動したということでしょう」
藤江が説明した。歩道のすぐ横には有名な証券会社(*野村証券)の建物がある。夜の闇の中にあっても、その外観は歴史を感じさせる。被害者は胸に刃物が突き刺さった状態で、一体何を考えながらこの道を歩いたのだろう。>>
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有名な証券会社(*野村證券(株)日本橋本社)のレトロな建物とその前にある中央警察署日本橋交番。左手が日本橋。被害者はこの交番勤務の巡査に視認される。野村證券の右側の道をたどると江戸橋際に至る。

<<「この道は、あまり人が通らないんですか」石垣の質問に、藤江は頷いた。
「昼間はともかく、夜は少ないと思います。証券会社のほかは何もない通りですから」
「重傷の人間に気づく者がいないとしても不思議じゃないと」
「そういうことです」
「被害者の身元は判明しているんでしたね。家族には連絡したのかな」
「連絡済みです。今、病院に向かっているはずです」
案内された場所は、首都高速道路江戸橋入り口のすぐ手前だった。
歩道から地下に潜る道がある。>>
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江戸橋上からみた犯行現場(地下道)への入り口。

<<だが今はテープが張られ、立入禁止になっていた。多くの機材が持ち込まれ、鑑識課員が動き回っている。
「御存じかもしれませんが、この地下道をくぐつて、あの江戸橋の入り口に出られます」
藤江が指差した先には、日本橋川にかかる江戸橋がある。
「地下道は十メートルちょっとの短いものですが、その途中に血痕が残っていたんです。そこから先では血痕は見つかっておりません」
「つまり、この地下道の中が犯行現場だと」
石垣の問いに、「そう考えております」と藤江は答えた。>>
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事件現場の江戸橋地下道へ下りる階段。
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<<地下道は思ったよりも狭く、幅は三メートルほどしかなかった。天井も低く、長身の人間ならばジャンプして手が届くだろう。長さは約十メートルといったところで、その中間あたりの地面に血痕が落ちているのがわかった。量はさほどではない。五センチほどの黒ずんだ染みになっている。
ほかには特に目立った痕跡はないようだ。松宮たちはそのまま進んだ。地下道の反対側では石垣たちが待っていた。そこからは江戸橋を渡る歩道に繋がっている。>>
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右へ折れた先で、ナイフが一瞬鈍い光を放って突き刺さり、胸から鮮血が吹き出でる。が、被害者は気丈に料金所側の出口へ向かってスロープを上がり、夜間はほとんど人通りのない証券会社に沿った並木道を点々と血をしたらせながら日本橋に向ってよろめき歩く。
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地下道出口スロープと首都高江戸橋料金所。左端のビルが、江戸橋から日本橋まで日本橋川に沿って建つ巨大な証券会社の建物。
その男がシャツを血に染めて日本橋交番の前を通り過ぎたのは、午後九時になろうかという頃だった。
そしてその男は日本橋中央に置かれた麒麟(きりん)像の装飾柱下でうずくまり動かなくなった。
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(*注釈)は原文にはありません。
東野圭吾(ひがしのけいご)長篇小説「麒麟の翼」2011年3月講談社刊(書き下ろし作品)より抜萃。
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2018年05月19日

浅草 浅草神社三社祭町内神輿(44ヶ町)連合渡御

浅草神社三社祭町内神輿(44ヶ町)連合渡御 2018年5月19日
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雷門の大提灯は神輿の通過に支障をきたすため折りたたまれる。
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浅草寺(せんそうじ)本堂裏広場に各町神輿が集結。
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2018年01月05日

上野・谷中墓地 上田敏の墓 菊池寛「上田敏先生の事」より

ポール・ヴェルレーヌの詩に初めて触れたのは、遥か遠き10代の終わりの頃であった。
上田敏(うえだびん)の訳詞集「海潮音」に散りばめられた文字のひとつひとつに皮膚が反応し、ぴりぴりと電流がはしりまわり続けた。ヴェルレーヌと上田敏が同化し一体となって脳内に流れ入り、忽ち溢れんばかりに煌めく言葉で埋めつくされてしまった。ヴェルレーヌ、ランボー、行きついたところは鮮烈な映像作家ゴダール。19歳の体内はこの3人で満たされ、ゴダールの愛した女アンナ・カリーナとアンヌ・ヴィアゼムスキーに似た表情と雰囲気を持つ女を探し求めるまでになっていた。

菊池寛(後に文藝春秋社創設)の追悼文「上田敏先生の事」より抜粋。
<<(略) 自分は先生の新婚当時の写真を見たが、豊頬明眸都会的な理智的な何とも云はれぬ感じのいゝ顔を持つて居られた、晩年は病気の故で顔色も悪かつたが眸丈(ひとみだけ)は尚(なお)先生の若き日の凡てを暗示して居た。「文學界」時代には官立の高等学校生である上に、晴やかな美貌を持つて居られたので羨望の的であつたと云ふ話である。先生は明治四十年頃迄は得意の時代であつたがそれから以後はやゝ、失意であつたと云ひ得る、大學教授たり文學博士たることによつて先生が満足して居たと観ずるものはあまりに先生を知らないものである。先生は採点なども頗(すこぶ)る寛大で七十五点より下などは決して付られなかつた。凡てに於てリベラルであつた。自分は三年の京都生活を終つて上京せんとして七條(*当時の京都駅・七条停車場)へ急ぐ途中先生の訃に接したのである。滊車の中で先生の事ばかりを思つて居た。>>
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左に上田家合祀墓、右に上田敏単独墓。
<<先生は今の日本人でかけ換へのない人と云つてよかつた。京都(*京都帝大)の英文科は先生を失うて存在の理由の大部分を失くした。日本人では一寸後継者が見当らないとの事である。英文科を教員養成所のやうに扱ふのなれば候補者が幾何(いくら)でもあるだらうが。先生はあまりに聡明で理智的であつたから創作の方面には僅に一指を触れられたのに過ぎなかつた。あれほど愛せられた詩も自分で作られたのは啄木氏の「あこがれ」に対する序詩と外一阜とである。文壇の平凡な民主化に対し先生は不満であられたが之を其向から攻撃せられることなどは決してなかつた。太陽の文芸時評を受け持たれた時などは絶好の機会であつたが、「そんな事をするとうるさいですからね」と云つて居られた、人を批難攻撃することは下品であると思はれたからだと思ふ。先生は酔余ある文學博士に真向から「君は何もロクな事をして居ないのによく博士になれたな」と浴びせかけたと云ふ話を聞いたが自分はその偽りであることを確信して疑はない。先生に対する世評若(も)しくは他人の批評は知らない。自分は先生を気障だと思つたことも不快だと思つたことも、嫌ひだと思つたこともない。自分は先生が好きであつた、先生はシュニッラアの戯曲を読むが如き感じの人であつた。終りに先生の御遺族の幸福を析つて置かう。(五、七、二十二。)(*大正5年7月22日)>>
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向って右側に設けられた上田敏単独墓(上下写真とも)。側面に生年(明治7年10月30日)と
死没(大正5年7月9日)の日付が並刻されている。
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「上田敏先生の事」1916年(大正5年)8月「新思潮」初出。                     
「菊池寛全集補巻」1999年文藝春秋・武蔵野書房刊に収録。
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2017年12月12日

御茶ノ水 開化アパート2階の明智事務所 江戸川乱歩「黄金仮面」より

明智事務所が六本木竜土町の裏路地に移転する前は、御茶ノ水の外堀沿いの近代的な外観意匠を誇った開化アパート(文化アパートがモデル)の正面側2階の一室に置かれていた。講談社発行「キング」誌に連載された「黄金仮面」(昭和5年9月〜6年10月)で初めてその詳細が紹介されている。
移転して間もないある夜、さっそく(!)未だ独身の明智小五郎は不可解な事件に巻き込まれる。開化アパートの明智事務所の窓ガラスが突然音を立てて砕けたのだ。それは明智を狙った一発の銃弾によるものであった。
文化アパートは、関東大震災復興の早い時期(大正14年竣工)に米建築家W・M・ヴォーリスの設計で建てられた最先端の仕様が施されたアパートメント(エレベーター・地下車庫完備)。戦後、戦災を免れた建物は連合軍に接収、その後旺文社によって買収されて学生の宿泊施設(日本学生会館)となっていた。1986年に解体され現存しない。
もう一つ、明智探偵事務所の帰趨と奇妙に符号する歴史的事実がある。あのゾルゲ事件(帝国を揺るがすソ連邦の諜報団事件)の中心メンバーの1人Mクラウゼンが、明智事務所が移転した後の昭和11年1月上旬にフィンランド人の妻(アンナ)を伴い文化アパートに入居、3月初旬に明智事務所の後を追うように六本木竜土町に転じている。竜土町の一軒家の南向き2階室内は無線送受信用のアンテナが張巡らされており、その2階窓からは明智事務所の屋根が望めたはずだ(距離は約150m)。2年後、クラウゼン夫妻は逮捕現場となった広尾町へ移転する。また諜報団の日本人メンバーでジョウこと画家の宮城与徳も明智竜土町事務所から100m以内に隠れ家(銭湯の横)を持っていた。
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画面右側に明智事務所(2階)が入居した開化アパートがあった。奥(水道橋方向)からやって来た自動車から明智小五郎は狙撃される。左側は深く掘り下げられた江戸城外濠。

「黄金仮面」(「江戸川乱歩全集」第6巻1979年講談社刊に収録)より「開化アパート」の記述がある部分を抜粋。
<<二美人の惨死。国宝にも比すべき古美術品の盗難。だが怪物黄金仮面の正体はもちろん、その配下の行方さえ、名探偵明智小五郎の手腕をもってしても、ついにつきとめることができなかった。それはとにかく、本ものの黄金仮面が、三度目の犯罪を企てていることがわかったのは、四月の終りに近いある日のことであった。それは、どんより曇った、へんにむしむしする、なんとなくおさえつけられるような夕方であったが、明智の部屋借りをしている、お茶の水の開化アパートの一室へ、妙な客が訪ねて来た。
 われわれの主人公明智小五郎の住居についてしるすのは、これがはじめてだから、少々説明しなければなるまい。彼は「蜘蛛男」の事件を解決してまもなく、不経済なホテル住まいをよして、ここのアパートへ移ったのだが、独身者の彼には、一家をかまえるよりも、この方が気楽であり便利でもあった。借りているのは表に面した二階の二(*ふ)た部屋、一方は七坪ほどの手広い客間兼書斎、一方は小ぢんまりした寝室になっている。(略)>>
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<<自室にとじこもった彼は、昼も夜も読書に余念がなかった。彼の室は、アパートの二階の表に面したがわにあったので、夜は用心深くしめきったガラス窓と黄色のブラインドを通して、彼の読書する影が、表通りから眺められた。机が窓ぎわに置いてあったために、彼の影は毎晩同じ窓に同じ形で映っていた。時々廻転椅子の向きをかえたり、姿勢をくずしたりする様子が、ハッキリした影絵になって、まざまざと眺められた。夜の読書は八時から十時までと判で押したようにきまっていた。十時がうつと、電燈を消して彼は寝室へしりぞくのだ。(略)
それは賊の迫害がはじまってから、ちょうど一週間目の夜であった。
いつも明智が窓際の読書から寝室にしりぞく十時に五分前というきわどい時刻、さすがの名探偵も、全く予想しなかったであろうような、思いがけぬ方角から、賊の最後の非常攻撃がおこなわれ、しかもそれがまんまと功を奏したのである。十時五分前、一台のありふれた型の自動車が、水道橋の方から、開化アパート前の電車通りを、フル・スピードで走ってきた。見たところどこといって変った様子もなかった。ただテイルの番号標の白い数字に、泥がかかって、半分ほど全く見えなくなっていたけれど、ゴー・ストップのお巡りさんも、まさかそれが、番号を隠すために故意に泥をぬったものとは気づかず、なにげなく見逃してしまったほどであった。(略)
車はフル・スピードのまま、開化アパートの前にさしかかった。車上の射手は、すわとばかり狙いをさだめた。銃口の向かうところは、ああ、アパートの二階の明智の部屋だ。そこの窓に映った名探偵の黒い影だ。この日頃の習慣といい、モジャモジャ頭をはじめ全身の恰好といい、人違いをする気づかいはない。アッと思うまに、深夜の大気をゆるがして、一発の銃声。だが、誰もおどろくものはない。まさかそんなところで鳥打ちをはじめるやつもないからだ。自動車のタイヤがパンクしたんだなと、そのまま聞きすごしてしまった。ただ、アパートの隣室の人々が、ちょっとおどろかされた。というのは、明智の部屋の窓ガラスがひどい音を立てて割れたからだ。(略)
開化アパートの前は、電車通りとはいえ、一方川(*外堀=神田川)に面した寂しい場所だが、午後十時ごろには、まだかなりの通行者があったはずである。犯人はいかにして、通行者の眼をくらまして、この兇行を演じえたかが、非常な疑問とされているが、当時アパートの前を徒歩で通りかかったという同区S町○○番地大工職Dの申したてによると、ちょうどその瞬間にはチラホラ徒歩の通行人があったばかりで、電車(*市電=路面電車)も自動車も見えなかったが、そこへ水道橋の方角から、一台の自動車が、非常な速力で走ってきて、みるみるアパートの向こう横町へ曲って行った。その自動車が、アパートの正面にさしかかった時、とつぜん、パンクでもしたようなひどい音がしたかと思うと、自動車の窓からバッと白い煙が吹きだすのが見えたというのである。>>
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地図(昭和8年当時)。最近までは文化アパートの位置には、順天堂大学10・11号館(=アパート正面玄関)が建っていた。

参考:「ヴォーリズ建築の100年」2008年創元社
   「現代史資料24」1971年みすず書房刊(ゾルゲ事件第二回被疑者訊問調書)
江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
浅草木馬館 回転木馬の心酔者江戸川乱歩と萩原朔太郎 「探偵小説十年」より http://zassha.seesaa.net/article/455118303.html
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2017年11月25日

浅草木馬館 回転木馬の心酔者江戸川乱歩と萩原朔太郎 「探偵小説十年」より

江戸川乱歩の随筆「探偵小説十年」に、彼の回転木馬への憧憬と心酔ぶりが語られている。
詩人萩原朔太郎、乱歩の弟子であり金田一耕助を生みだした探偵小説家横溝正史までが、乱歩を凌駕する回転木馬の耽溺者であったことが乱歩自らの言葉によって明かされている。萩原朔太郎の詩集「氷島」におさめられた詩「遊園地(るなぱあく)にて」に因んで命名された前橋公園の「るなぱあく」に、現在も稼働し続けている国内最古の電動木馬(国の登録有形文化財指定)があることは有名。
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旧浅草四区にあった浅草木馬館(元は昆虫館)。手前が現在の木馬館(演芸場として営業)で奥隣は旧水族館、その2階に川端康成の小説「浅草紅團」で有名なカジノフォーリーがあった。二つの建物の間にある細路地について語ることができれば、かなりの浅草通といえるだろう。戦前から木馬館の場所は変わっていない。

江戸川乱歩「探偵小説十年」より。
<<「探偵趣味」には初めての小説(*「木馬は廻る」)であった。取るに足らぬ小篇であるが、私自身はそんなに嫌いではない。この小説も前の「浅草趣味」の続きみたいなもので、浅草の哀調(哀調なんて当時時世おくれの調子であったが)を語らんとしたものだ。木馬と云えば、私達はよく浅草散歩をして、子供の仲間入りをして木馬に乗ったものである。横溝君(*弟子の横溝正史)など最も屢々乗ったのではないかしらん。按(おも)うにこれは、どうやら宇野浩二の小説の影響らしいのである。メリー・ゴー・ラウンドから転がり落ちる善人の物語を、私達はどんなに涙ぐましく、且つほほえましく耽読したことであろう。>>
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イメージ画像=浅草花屋敷の回転木馬(メリーゴーラウンド)、戦前はゲートを入った左側に設置されていた。

<<乗って見ると、木馬の適度の震動と、あの耳を聾(ろう)するジンタ楽隊の音楽が、身体にも心にも、快い按摩(あんま)の作用をして、それを降りて、子供の見物の群れをかき分けて、館の外に出た時には、シーンと心が静まって、何とも云えぬすがすがしい気持になっているのだ。
 ごく近頃、去年の秋であったか、まことに久方振りで、私はあの懐しい浅草木馬に乗ったことがある。連れはその頃知合いになった詩人の萩原朔太郎氏で彼も亦(また)木馬心酔者であったから、私が恥しがるのを無理に誘って、彼は木馬に、私は自動車にゴツトンゴツトンと乗ったのである。その時、萩原氏と公園の古風な茶店でお茶を呑みながら、通行の人々を眺めながら、博覧会の余興について、昔々のパノラマ館の魅力について、それらの醸し出すノスタルジアについて (ノスタルジアとは何と久万振の言葉であったろう)語り合ったことである。>>
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木馬館1階の壁面を利用して懐かしい木馬(レプリカ)が展示されている。

江戸川乱歩「木馬は廻る」大正15年9月執筆、雑誌「探偵趣味」に同年10月発表。

江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html 1
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
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2017年11月23日

両国 斎藤緑雨の終焉地 「清張日記」より

松本清張は、新作小説の準備取材で、明治の小説家斎藤緑雨(別名・正直正太夫、本名・賢)の終焉の地(両国)を訪れる。真夏の炎天下を歩く清張、汗混じりの文字が日記に綴られている。
<<昭和四十七年夏の暑い日、わたしは「正太夫(しょうだゆう)の舌」という小説を書くために、麻布十番に近い三ノ橋に住んでいた和田芳恵(よしえ)さんに同行をたのんで両国駅付近へ行った。正直正太夫の斎藤緑雨が明治三十七年四月十三日午前九時、三十八歳で息を引き取ったのは本所横網町(よこあみちょう)一丁目十七番地であった。緑雨は同番地の「金沢タケ方に寄寓」と筑摩書房版「明治文学全集」の年譜にあるが、これだと、まるで独身の緑雨が世帯主金沢タケ方に下宿したようにみえる。正確な表現ではない。タケは鵠沼の料理屋東屋(あずまや)の女中で、緑雨がそこに滞在中に関係が出来、小田原十字町に転居いらい、本所横網町まで緑雨と世帯をもった(江見水蔭「自己中心明治文壇史」。馬場孤蝶「春窓漫筆」)。>>
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緑雨が女中・金澤タケと知り合った湘南鵠沼海岸の旅館・東屋跡(路地の左側一帯)。

<<しかし、緑雨は彼女との同棲を知人にいっさい隠し、手紙の住所もただ「本所」とのみ書いた。彼が肺患の重い身体をひきずって自分で金策に歩いたのもそのためである。金沢タケ方「寄寓」となっているのは、「同棲」をごまかしているからで、それを昭和女子大近代文学研究会の若いグループが素朴にうけとったのは無理からぬこととしても、同研究会資料を文学専門の筑摩書房がチェックもせずにそのまま使っているのは、後進の研究者に誤解のもととなろう。>>
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両国の斉藤緑雨住居跡付近。当時の住居表示は本所横網町1丁目17番地。

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旧17番地は広く、この周辺を清張は歩きまわっただろう。現在の両国1丁目17〜18番地に該当する。

松本清張が指摘した昭和女子大近代文学研究会の基礎的研究調査により作成された筑摩書房版(1966年初版)「明治文学全集」収録の年譜を大幅に省略して抜粋。
有野照子 斉藤緑雨−文學遺跡巡礼・日本文學篇(101)(「學苑」昭二七・一)
有野照子 斉藤緑雨(昭和女子大近代文學研究室『近代文學研究叢書』第七巻昭三二・一二)

明治33年(1900年)緑雨34歳
  12月 療養のため神奈川県鵠沼に転地。旅館東屋に身を置き、ここで金澤タケを知った。
明治34年(1901年)緑雨35歳
  4月 小田原の緑新道に転居、一戸を借りて療養生活を続ける。
明治35年(1902年)緑雨36歳 
  3月頃、小田原の十字町に転居。
  12月末 東京に戻り、浅草須賀町に一戸を借りて住む。
明治36年(1903年)緑雨37歳
  5月 本郷千駄木林町に移る。
  10月 本所横網町1丁目17番地金澤タケ方に寄寓した。
明治37年(1904年)緑雨38歳
  3月頃より急速に肺患が重くなる。
  4月 肺患が重くなり、11日医師から望みのないことを告げられたため、使いを出して孤蝶の
    来訪を乞い、樋口家から預っていた一葉の日記、遺稿の返却と、新聞に載せる死亡広告の
    ことを依頼した。
   十三日午前九時半頃永眠、野崎左文、馬場孤蝶、輿謝野寛、幸徳秋水、幸田露伴、坂本紅蓮洞
    等が集まった。
   十四日、孤蝶に口授筆記させた「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段広告仕候也 緑雨齋藤
    賢」の死亡広告が「萬朝報」に掲載された。同じ十四日、最も親しかった露伴、寛、孤蝶の三人と
    親族四人に送られ、日暮里火葬場で茶毘に附された。
    戒名の「春暁院緑雨醒客」は、火葬場への途次、露伴が考え、寛、孤蝶がこれに同意してきまった。
    遺言により葬儀は行われず、十六日、本郷駒込東片町の菩提寺大圓(*円)寺で埋骨式が営まれ、
    この時は、上田萬年、坪内逍遥、幸田露伴、輿謝野寛、馬場孤蝶、内田魯庵のほか知友多数が
    出席、友人代表として露伴が、新詩社代表として寛が弔辞を読んだ。
  5月「明星」、6月、「明星」「新小説」が追悼の文を掲げた。
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現在の住居表示図より。赤枠内が旧表示17番地。明治中頃は未だ省線(=JR)は両国駅止まりで
隅田川に線路橋は架かっていなかった。

<<馬場孤蝶、幸田露伴、幸徳秋水などのごく親しい友人は緑雨と金沢タケとの同棲を知っていたが、孤蝶以外は書いてない。「その人の身の上を見れば、年齢も既に三十八と云ふのであるのに、妻もなく子もなく、一人で寂しくこの世を送つて」と孤蝶が緑雨のことを書いているのは表面上の辻褄(つじつま)合せである。世帯をもった金沢タケは緑雨の死まで看とり、その後、ひっそりと姿を消した。横網町一丁目十七番地は、嘉永期の江戸切絵図によると、川岸にのぞむ藤堂和泉守の蔵屋敷があり、その前が町家になっている。明治四十一年の「風俗画報」附録「新撰東京名所図絵」の「横網町一丁目」は陸軍被服廠(ひふくしょう)、本所郵便局、総武・東武両線両国停車場などの施設に町内の大半がとられているが、長屋の一画だけは片隅に小さく残っていた。とはいってもその後の関東大震災で本所は壊滅。戦後はまた様相の一変で、「長屋ではあるけれども、三間(ま)に台所付、三坪位は確にあらうと思はれる立派な飛石の敷てある庭のある、何れかの隠居所といふやうな」小綺麗な陋屋(ろうおく)(孤蝶「緑雨醒客」)を和田さんとわたしは探し当てるべくもなかった。炎天の下で歩きまわって、わたしの猿又は汗で太腱(ふともも)の上までめくり上がり、和田さんも浴衣の袖をたくり上げて扇を使い、今日はいやに暑いですな、と懐(ふところ)から何度もたたんだ手拭いをとり出した。(略)>>

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明治37年(1904年)4月13日午前、緑雨逝去。向丘の大円寺に葬られる。
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大円寺の斎藤緑雨の墓。

「松本清張全集65 日記エッセイ」1996年文藝春秋社刊に収録の「清張日記」より。
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2017年10月30日

霞が関 経済産業省特許庁 夏目漱石「断片」より

文豪夏目漱石が書き残した数行の断片の中に、農商務省の内局特許局を揶揄する言葉が残っている(明治32年〜34年頃の執筆)。
特許局は、大正14年4月に農商務省の分割により商工省の外局となり、現在地(霞が関)に移転してきたのは、かなり古くて昭和9年8月末のこと。当時の番地表示では東京市麹町区三年町一番地となる。
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虎ノ門方向から溜池交差点を望む。画面中央が特許庁が入るビル。

現在の役所名に変更されたのは、通商産業省(現在の経済産業省)の設置に伴ってその外局となった昭和24年5月、それ以降は特許庁本庁舎の場所は変わっていない。
夏目漱石が特許を出願した明治30年代の農商務省特許局の在所はよくわからない。明治中期には、2・26事件に倒れた高橋是清が初代所長を兼任していたが、登庁していたのは、おそらく現在地から徒歩圏内であったろう。
夏目漱石に日本に生まれたことを恥だと謂わしめた役所、夏目漱石を門前払いにあしらった特許局、役人側に立ってみれば同情する余地はあるようだ。出願のキーワードは、イカ・キンタマ・インキ。
キンタマから絞り出す云々では、門前払いは当然か。
<<烏賊(いか)ノ睾丸を絞ってインキを製造する事を発明す。
  すなはち専売特許を願ふに審査官冷淡にして取り合はず。
  吾(われ)日本のごとき地に生れたるを恥づ。>>

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中央分離帯に特許庁前の標識が設置されている。2005年携帯のカメラで撮影。

「夏目漱石全集第1巻」1973年角川書店刊より。
夏目漱石リンク
難司ケ谷 夏目漱石墓改葬式典 井伏鱒二「五十何年前のこと」から http://zassha.seesaa.net/article/448168179.html
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2017年03月04日

茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」より

「十三の時から五、六年の間、殆ど自転車気違い」と「自転車」の冒頭に書かれているが、志賀直哉が本格的に東京市内を乗り廻したのは、学習院中等科3年(14歳)の6月に麻布三河台(現六本木4丁目)に一家とともに移転してからだろう。それ以前は、芝公園の増上寺の元学寮だった家から初等科に通い、さらにそこから中等科(12歳)に進んでいる。自転車で遊び呆けていたせいか、落第を一度ならず繰り返し、中等科6年をやっと卒業できたのは19歳をむかえて半年がたった明治35年7月であった。
志賀直哉68歳時の執筆になる少年時代の回想物語「自転車」から。、
<<私は十三の時から五六年の間、殆ど自転車気違ひといつてもいい程によく自転車を乗廻はしてゐた。学校の往復は素(もと)より、友達を訪ねるにも、買物に行くにも、いつも自転車に乗つて行かない事はなかつた。当時は自動車の発明以前であつたし、電車も東京には未だない時代だつた。乗物としては芝の汐止から上野浅草へ行く鉄道馬車と、九段下から両国まで行く円太郎馬車位のもので、一番使はれてゐたのは矢張り人力車だつた。箱馬車幌馬車は官吏か金持の乗物で、普通の人には乗れなかつた。尤(もっと)も、囚人を運ぶ馬車はあつて、私達はそれを泥棒馬車と云つてゐたやうに記憶する。
その頃、日本ではまだ自転車製造が出来ず、主に米国から輸入し、それに英国製のものが幾らかあつた。英国製は親切に出来てゐて、堅実ではあつたが、野暮臭く、それよりも泥除け、歯止めなどのない米国製のものが値も廉(やす)かつたし、私達には喜ばれた。
(略)
恐しかつたのは小石川の切支丹(きりしたん)坂で、昔、切支丹屋敷が近くにあつて、この名があるといふ事は後に知つたが、急ではあるが、それ程長くなく、登るのは兎に角、降りるのはそんなに六ヶ(*むずか)しくない筈なのが、道幅が一間半程しかなく、しかも両側の屋敷の大木が欝蒼と繁り、昼でも薄暗い坂で、それに一番困るのは降り切つた所が二間もない丁字路で、車に少し勢がつくと前の人家に飛込む心配のある事だつた。>>
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(写真)切支丹坂の位置には別説もあるが、この坂が切支丹坂と認定され、地図に記載されている。
現在、坂下は地下鉄線路を潜る隧道となり、旧小石川区役所側(竹早町電停)へ抜けられる。
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<<私は或る日、坂の上の牧野といふ家にテニスをしに行つた帰途(かへり)、一人でその坂を降りてみた。ブレーキがないから、上体を前に、足を真直ぐ後に延ばし、ペダルが全然動かぬやうにして置いて、上から下まで、ズルズル滑り降りたのである。ひよどり越を自転車でするやうなもので、中心を余程うまくとつてゐないと車を倒して了(しま)ふ。坂の登りロと降り口には立札があつて、車の通行を禁じてあつた。
然し私は遂に成功し、自転車で切支丹坂を降りたのは恐らく自分だけだらうといふ満足を感じた。
私の自転車はデイトンといふ蝦茶(えびちゃ)がかつた赤い塗りのもので、中等科(*学習院)に進んだ時、祖父に強請(せが)んで買つて貰つた。普通の大人用のもので、最初の頃はペダルに足が届かず、足駄の歯のやうな鉄板を捩子(ねぢ)でペダルに取りつけ、漸(ようや)く足を届かす事が出来た。私はそれで江の島千葉などへ日帰りの遠乗りをした。>>
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(写真)切支丹坂の中途付近から坂上を見上げる。
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(切支丹坂周辺見取り図)江戸初期の切支丹屋敷跡(大目付井上家下屋敷)に隣接する坂のために切支丹坂と呼称されたのだろう。昭和初期の地図と比べても道路はかなり変化している。

「自転車」新潮 昭和26年11月初出、「志賀直哉集」筑摩現代文学大系1976年刊より抜粋。

志賀直哉リンク
京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
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2017年03月02日

御茶ノ水 聖橋の凹んだ欄干 武田百合子「遊覧日記」より

外堀(神田川)に架かる聖橋(ひじりばし)の東南側に、そういわれてみれば、たしかに欄干の中央部に2ヵ所の凹んだ(屈折した意匠)ところがある。都心でも一、ニを争うダイナミックな景観に眼を奪われて、欄干にまでは注意が向かず、気が付かないでいた。その凹みに身体を挟んで快感をえていた女がいたとは・・・。
<<駿河台の坂を上ったところのお茶の水橋と、小川町の坂を上ったところの聖橋、あの二つの橋が好きだった。サマータイムの妙に長たらしい明るい一日にくたびれて、大酔いに酔ったあげく、坂をせっせと上ってきて、お茶の水橋から神田川へ、ナンダイ、コンナモノ、と日傘を放ったり、靴を脱いで投げ捨てたりした。どっちかといえば、聖橋の方が、凭(もた)れかかった具合がよかった。>>
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(写真)明治年間に架橋されたお茶の水橋上から関東大震災の復興橋である聖橋を見る。右手は外堀を埋め立てて築造されたJR御茶ノ水駅、美しいカーブを描くアーチ橋が聖橋。その奥の鉄橋に地下鉄丸の内線の電車が走っている。遠方のビル群はアキバ電気街。酔っ払い女が、日傘や靴を投げ捨てたあたりだ。2007年撮影。
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(写真)聖橋。欄干にこれといって変化は見られない。

<<ある晩、聖橋の欄干のまん中へんについている飾りの凹みのところに脇腹を挟んで (冷たくていい気持なのだ)、頬杖ついて上り下りの電車の灯りを見下ろしていたら、遠くの向うの闇空に、花火が三つばかり重なって、ふうっと湧いて消えた。少しして音が鳴った。戦争中途絶えていて、久しぶりに揚がった隅田川の花火だった(それは、あとになって知ったことで、あのときは、ただ、ぼ一つとしで涙ぐんで見ていた)>>
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(写真)注意して欄干をチェックしながら渡ってゆくと、たしかに凹んでいるところが・・・。もちろん、いうまでもなく脇腹を挟んで追体験したのだ。
 
エッセイ「あの頃」東京人1986年1月号初出。武田百合子随筆集「遊覧日記」中央公論社1995年刊より。
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2017年02月25日

上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より

昭和6年初頭から雑誌連載が始まった長編「盲獣」「白髪鬼」の2作品を抱えながら、3月に「目羅博士」を執筆発表、同月には「中将姫」も書き上げている。
乱歩氏38歳、東京市外戸塚町で経営する旅館緑舘の2階西側6畳間で髪振り乱して大忙しである。
このころ、振り乱すほど髪は生えていなかったか。
乱歩氏の6畳間は、客室とは独立しており、旅館玄関とは別に出入口が設(しつら)えてあった。この専用玄関に昼夜を問わず原稿催促の編集人が押しかけており、「目羅博士」のプロローグに、その催促からの逃避の心情が書かれている。書斎兼居室の西側窓は目隠しで覆っており、執筆に集中していたようだ。執筆当時、旅館緑舘は営業中で、閉鎖するのは、9ケ月後の11月であった。
雑誌「文藝倶楽部」増刊号初出のタイトルは「目羅博士の不思議な犯罪」、その後、数度にわたり改題されている。
眼科の医師「目羅博士」はまだ登場しない、謎の連続首吊り自殺もまだ起こっていない、冒頭の薄暗くなった上野動物園サル檻前の不気味なシーンから・・・
<<ところで、お話は、やっぱりその、原稿の催促がきびしくて家にいたたまらず、一週間ばかり東京市内をぶらついていたとき、ある日、上野の動物園で、ふと妙な人物に出合ったことからはじまるのだ。
もう夕方で、閉館時間が迫ってきて、見物たちはたいてい帰ってしまい、館内はひっそりかんと静まり返っていた。芝居や寄席なぞでもそうだが、最後の幕はろくろく見もしないで、下足場の混雑ばかり気にしている江戸っ子気質はどうも私の気風に合わぬ。動物園でもその通りだ。東京の人は、なぜか帰りいそぎをする。まだ門がしまったわけでもないのに場内はガランとして、人けもない有様だ。>>
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<<私はサルの檻の前に、ぼんやりたたずんで、つい今しがたまで雑沓していた、園内の異様な静けさを楽しんでいた。サルどもも、からかってくれる相手がなくなったためか、ひっそりと淋しそうにしている。
あたりがあまりに静かだったので、しばらくして、ふと、うしろに人のけはいを感じた時には、何かしらゾツとしたほどだ。
それは髪を長く伸ばした、青白い顔の青年で、折目のつかぬ服を着た、いわゆる「ルンペン」という感じの人物であったが、顔付のわりには快活に、檻の中のサルにからかったりしはじめた。
よく動物園にくるものとみえて、サルをからかうのが手に入ったものだ。餌を一つやるにも、思う存分芸当をやらせて、さんざん楽しんでから、やっと投げ与えるというふうで、非常に面白いものだから、私はニヤニヤ笑いながら、いつまでもそれを見物していた。
「サルってやつは、どうして、相手のまねをしたがるのでしょうね」
男が、ふと私に話しかけた。
(略)>>
「目羅博士」江戸川乱歩全集第8巻1979年講談社刊より抜粋。

参考 「貼雑(はりまぜ)年譜 江戸川乱歩推理文庫特別補巻」1989年刊

江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
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2016年10月24日

神田南神保町 谷崎潤一郎の文壇デビュー 「青春物語」より

<<「三田文學」に「谷崎潤一郎氏の作品」(?)と題する永井先生の評論が載つたのは、多分明治四十三年の夏か秋だつた。永井荷風先生はその前の月の「スバル」か「三田文學」にも、私の「少年」を推擧する言葉を感想の中に一寸洩らしてをられたが、今度のは可なりの長文で、私のそれまでに發表した作品について懇切丁寧な批評をされ、而も最大級の讃辭(さんじ)を以て極力私を激賞されたものだつた。私は前に新聞の文藝欄の豫告(よこく)を讀み、それが掲載されることを知つてゐたので、雑誌が出るとすぐに近所の本屋へ駆け付けた。そして家へ歸(かえ)る途々、神保町の電車通りを歩きながら讀んだ。私は、雑誌を開けて持つてゐる兩手の手頸(てくび)が可笑しい程ブルブル顫へるのを如何ともすることが出來なかつた。あゝ、ついに二三年前、助川の海岸で夢想しつゝあつたことが今や實現されたではないか。果して先生は認めて下すつた。矢張(やはり)先生は私の知己だつた。私は胸が一杯になつた。足が地に着かなかつた。>>
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(文芸誌「三田文學」に掲載された永井荷風の激賞の言葉に歓び震えながら歩き読んだ自宅近くの南神保町の電車通り。*大正7年オープンの「矢口書店」はまだ無い。)

<<一朝にして自分の前途に坦々たる道が拓(ひら)けたのを知つた。私は嬉しさに夢中で駆け出し、又歩調を緩めては讀み耽つた。私の喜びは、家へ歸り着くとやがて一家の喜びに變つた。當時私の一家族は窮迫と不幸の絶頂にあつて、私の父は矢張蛎殻(かきがら)町の取引所に通つてゐたものゝ、元來相場師に適しない几帳面な性質だつたから、一度失敗してからは容易に盛り返すことが出來ず、神田南神保町のとある路次の奥の裏長屋に逼塞してゐた。その上两親の最愛の長女で、私の妹になる十八歳の娘は腸結核に罹り、死の床にあつた。>>
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(三田文學を手にした谷崎青年が「路次奥の裏長屋」に戻るために曲った角地。南神保町10番地に現在残る路地といえばここだけ。)
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(左側が10番地で裏長屋推定地。現在は北沢ビルが旧10番地いっぱいに建っている。右側は旧4番地。当時の路幅は半分もない狭さだったろう。西を背にして東方向を撮影) 

<<現にその後の「スバル」へ載せた「少年」や「幇間」等も、私はたゞで書いたのである。が、荷風先生の推挙があつてから間もなく、「三田文學」へ「飈風(ひょうふう)」を書いた時は、黙つてゐてもちやんと先方から稿料を届けて寄越した。次いで中央公論主筆瀧田樗陰(たきたちょきん)氏が神保町の裏長屋へやつて來た。私は直ちに「秘密」を書いて中央公論社へ送り、一枚一圓(=円)の稿料を貰つたが、その次に書いた「悪魔」からは一圓二十銭になつた。私は忽ち賣れつ兒(うれっこ)になり、順風に帆を張る勢ひで進んだ。>>
以上、谷崎潤一郎「青春物語」昭和7年9月号〜昭和8年3月号「中央公論」連載より抜粋。
「谷崎潤一郎全集第13巻」中央公論社1982年刊に収録 (ルビは一部原文に無し)
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(死蔵中だった昭和42〜43年刊の「三田文学」2冊。学生時代に何処かの古本屋で購入したもの。)

谷崎潤一郎(24歳)の明治43年(1910年)
 4月 日本橋區箱崎町より神田區南神保町10番地(神保町2-5)の裏通りの長屋に転居。
 5月 永井荷風(作家・慶應大学文科教授)主幹の「三田文學」創刊(5月号)。
   <<永井先生の評論が載つたのは、多分明治四十三年の夏か秋>>
 9月 小山内薫を中心に、大貫晶川、和辻哲郎、木村荘太らと共に「新思潮」(第二次)を発行。
 11月 「刺青」発表。
     日本橋大伝馬町の三州屋で開催された「パンの会」に出席。永井荷風に初めて面会。
 12月 「麒麟」発表。
年譜参考:「谷崎潤一郎全集第26巻」中央公論社より
 
参考地図 明治末期の神田區南神保町 谷崎潤一郎の裏長屋
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2016年10月15日

神田神保町 三省堂書店本店 西村賢太「下手に居丈高」より

「神保町一景」の章より抜粋
<< 先日、角川書店より新刊が出たのに合わせて、またぞろサイン会を開いて頂いた。昨年夏の、池袋においてのそれ以来、都合五度目となる今回の場所は、神保町の三省堂本店(注1)であった。これは以前に別のところでも書いたことなのだが、私はこの三省堂本店には格別の思い入れがある。十四、五歳の頃から神保町の古書店街をウロウロし、中学卒業後(注2)に一人暮らしをするようになってからは更にその頻度が高まり、往時の夏場はもっぱら該店で涼を取るようになっていた。即ち、鶯谷の三畳間(注3)から歩いて神保町までゆき、目当ての数店の古書肆をのぞく前に冷房の効いた該店(か、東京堂書店のどちらかで)にて涼みがてら新刊書の立ち読みをするのである。
往時、滅多に銭湯に入らなかった私の手は、二六時中汗と脂とでネチャネチャになっていたに相違ないが、その手でもって・・・・・(以下、ばっちいので略) >>
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(靖国通り沿いの三省堂書店神保町本店ビル。神保町古書店街で三〜四指に入る明治期からの老舗。)
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(左写真:2階のカフェコンフォート 右写真:昭和56年竣工の本店ビルだが、内外装とも築年よりかは老けてみえる。イベント等の特設会場は8階。)

注1 1881年(明治14年)4月、現在と同じ場所で創業(初代店主亀井忠一、個人経営)。創業当時は古本屋だったが、明治25年4月10日の神田大火災で初代店舗焼失、再建時に新刊書専門店に転換。
注2 東京都町田市立М中学校(秘匿されているようなので伏字*独自調査)。
注3 JR鶯谷駅北口から徒歩5分ほどのラブホ街を抜け切る寸前附近。正岡子規邸跡の少し駅寄り。木造2階建てのアパートの惨状間。その反動からか、売れ出してからは、御苑前・滝野川と高層マンションの上層階暮らしが続いている。

「下手(したて)に居丈高」西村賢太2014年刊(週刊誌「アサヒ芸能」連載)
参考 「三省堂書店百年史」(社史)1981年刊
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2016年10月13日

五反田 桐ケ谷駅空襲 大佛次郎「敗戦日記」より

「大佛次郎 敗戦日記」昭和19年11月27日の{空襲経過}の項より抜粋。
<< 〇雨勢やや加わる。乞食大将(*10月初旬に起筆。執筆中の小説タイトル。後に朝日新聞に連載。)一回半書きし時 岸君来たり東京の模様を知らしてくれる。
清水のアルミニウム工場(日本全産額の三分の二)が大分やられた。東京は青山赤坂方面と深川大島附近、青山学院女学部に焼夷弾、原宿駅、海軍館、赤坂区役所などがやられた。
外苑入口の高射砲陣地を狙いしものか。
   〇前の空襲で吉祥寺中島工場は死傷五百名出す、池上線の桐ケ谷駅が破壊され今二十七日なお不通。 >>
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(池上線桐ケ谷駅跡。島式ホームの名残りが右側擁壁の窪みとして現在も残る。ホームが取払われた後、線路は直線に敷設し直された。)
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(桐ケ谷駅跡を通過する東急池上線下り電車。右写真は桐ケ谷駅ホーム端に現在も残る踏切。)

鎌倉在住の大佛次郎の元には、報道統制をかいくぐるように、友人知人らの見聞による戦況・被害の情報が随時もたらされている。昭和20年5月の桐ケ谷駅空襲が多く語られているが、その前年から鉄道を標的とした米軍の攻撃は繰り返されている。当時、五反田駅近くに下宿し、芝浦の沖電気に通勤していた作家山田風太郎の日記(「戦中派虫けら日記・昭和17〜19年)には、五反田近辺の空襲被害については何も書かれていない。山田は、昭和19年11月当時、東京医専(東京医科大)に合格し通学を始めたばかりで、校舎(西新宿)近辺の空襲については書き残している。
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(2008年度に実施された擁壁改修工事「沿線の皆さまへ」の看板から。丁度駅跡に楕円のマークがついている。発着駅池上線五反田からの下り駅順は、五反田→大崎広小路→桐ケ谷→戸越銀座)

「大佛次郎 敗戦日記」1995年草思社刊は、後に「終戦日記」と改題され文庫化されている。
鎌倉在住の大佛次郎が書き残した日誌風原稿には、題らしきものは附与されておらず、タイトルは何でもいいようだ。
参考
「東京急行電鉄50年史」 東京急行電鉄社史編纂事務局編1973年刊
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2016年10月12日

浅草 関東大震災と富士小学校 川端康成「空に動く灯」より

震災直後の大正13年に発表された短編小説「空に動く灯」から。「我観」誌5月号初出。
<<秋空が高く澄んでゐる。
その頃、東京に住む人が高臺(たかだい)に登つて展望を得た瞬間には、ふと我を忘れた歓喜で心が新しくなる習はしであった。大地震の大火で焦け死んだ大地を、二月とたたぬうちにバラツクの假(かり)建築が飾り覆うた。それには人の心を感動で染める多くのものがある。
浅草公園の裏で、✖✖警察署と✖✖尋常小學校とだけがあの火焔のなかに姿を崩さなかった。
小學校は鐵筋コンクリイトの三階建の建築である。
日曜日である。金原訓導は古い友人とその學校の屋上庭園の塔に登って、復興の門出をした都(みやこ)を見晴してゐた。通り一つを距つて警察署の屋上で、黒服の警察官がゆつたりと東西南北を見遥かしてゐたが、突然帽子を脱いだ。金原訓導は笑ひながら、クレオンで寫生してゐる小學生の傍らに立つてゐた友人を呼んだ。(略) 友人は訓導から渡されたクレオン畫と實景(じっけい)とをちよつと見較べてから、子供に畫を返した。平田はこの學校では、繪(え)の天才である。青空と、浅草観音の五重塔と、塔の前の立樹と、焼け焦げた電柱一本と、バラツクを一軒畫いてある。>>
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(川端は、向いあう象潟(きさがた)警察署と浅草區立富士尋常小學校の名称を伏字にして震災直後の様子を描く。現在も両者は、建物の形を変えながらも隣りあっている。写真は富士浅間神社側の正面玄関。)

<<一階の教室は浅草區役所の配給品の倉庫に使はれてゐて、その手拭も配給品である。庭の一方には醬油樽、炭俵、梅干などが積み上げてある。(略) 浅草公園やその近くに露宿したり掘立小屋(ほったてごや)を立てたりしてゐた焼け出されを、この小學校に収容したのは地震の後八日目であつた。(略)水道が永く止つたきりだつたから、水は初め✖✖警察署の裏の井戸から汲んでゐたのだが、衛生上危険だといふので、役所のタンク自動車が遠くから清水を運んで來ることになつてゐた。學校が始まる時分には、水道も通じ、風呂桶も二三据ゑつけられた。>>
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(小学校西面の写真。奥に浅間(せんげん)神社が見える。警察署は左側。地図は戦前=昭和初期。)

<<少し物語じみるが、この小學校は鐵筋コンクリイトに新築された真新しさを、夏休みの終つた九月一日の午前に唯一度兒童を入れただけで、焔になめられたのであつた。(略) 大震災の強い刺激の後の混亂の中では、人々は異常なものを眺めても異常とは感じなかつた。殆ど何物にも驚かなかつた。人間が鐵棒で叩き殺されるのを見ても、道の真中で雙兒が生まれても、三日も食はず飲まずにゐても、あたりまへのやうな氣がしてゐた。>>
 「川端康成全集第2巻」新潮社1980年刊から抜粋。

「浅草の生活記、風俗記としては、甚だ残薄なのは自分も認めるが、それでも尚、浅草見聞記、印象記として、恐らくこの作品は不滅であらうと考へてゐる」と川端の云う新聞連載小説「浅草紅團(くれなヰだん)」にも✖✖警察署と✖✖尋常小學校校が登場する。その部分を抜粋引用。
<<弓子と男は煤(すす)けた石油ランプの火影にゐるのだ。
「象潟(きさがた)警察の向ひだわ。分る?富士尋常小學校だわ。」
「ああ。」と、男は思はず釣り出されたらしい。
「それごらんなさい。おとぎばなしでもなくなつたわけね。だけど、あの學校からして、少しお話じみてるわ。鐵筋コンクリイトの三階に新築して、九月一日の朝・・・・>>
内容は「空に動く灯」とほぼ重複する展開なので、以下略。

尚、川端康成は、関東大震災発生後、直ちに本郷から浅草まで駆けつけている。燃え盛る街路を黒煙に視界を妨げられながらの所要時間2時間なのだから、これは疾走といっていいだろう。幾つかのエッセイに後日談を混えて、震災見聞を書き残しているが、人気を博した初期の代表作「浅草紅團」にも当日の行動が書かれている。
<<十二階の塔は、大正十二年の地震で首が折れた。私はその頃まだ本郷に下宿住いの學生だつた。昔から浅草好きの私は、十一時五十八分から二時間と経たぬうちに、友だちと二人で、浅草の様子見に行つた。>>

富士尋常小學校略史(富士小学校HP、他参照)
明治33年(1900年)12月 浅草區馬道二丁目十一番(現・台東区浅草4-48)の校舎にて開校式。
大正6年(1917年)2月 総2階建木造校舎竣工。
大正10年(1921年)4月6日 浅草田町の大火で全校舎類焼。午前8時半、東京市浅草区田町1-38宮戸座俳優中村富右衛門方から出火。焼失戸数千数百戸に及ぶ。11時過ぎ象潟署・富士尋常小学校(9時類焼?)が火炎に包まれる。昼過ぎ浅草公園六区から十二階裏手一帯類焼。
大正12年(1923年)6月 鉄筋コンクリート3階建の新校舎竣工。東洋一の新式校舎と宣伝される。
大正12年(1923年)9月1日 富士尋常小学校4校に分散した児童を一堂に会して始業式を挙行。数時間後(11時58分)、関東大震災発生。新校舎の一切の設備が灰塵に帰す。甚大な被害を被った横浜を始めとして死者・行方不明数は10万5千余名。特に両国の陸軍被服廠跡の惨状は悲惨そのもの(死体の山)。
大正15年(1926年)3月 富士尋常小学校復興工事完成。
昭和20年(1945年)3月 米軍空襲で校舎全焼。
昭和46年(1971年)11月 鉄筋コンクリート4階建の新校舎落成。
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(左写真)象潟警察は現在、浅草警察署と名称変更。富士浅間神社境内から。 (右写真)富士尋常小學校時代の緊急用水の井戸ポンプなのか? 位置は地図に印。 
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2016年10月08日

千駄木 森鴎外邸前の幽霊下宿 佐藤春夫「天下泰平三人学生」より

<< 先生(*生田長江)と相談の上で仮りに笈(きふ=背負う籠・箱のこと)を解いたのは林町に近い大観音前のむさくるしい下宿で、その後は同じく附近に宿を求めて隅々団子坂上の観潮楼(*森鴎外邸)の門と面したあたりに、崖に沿うて建てられた二階屋の壁板に「貸間有り」の貼紙があるので入って見ると取次に出たのが二十ばかりの小ざつぱりとした容貌の女中で、部屋を見たいといふと改めて出たのは女中が「奥さん」と呼ぶ三十前の赤てがら大まるまげの年増で黒繻子(しゅす)の襟のかかった着物を着てこれはその風俗にふさはしい濃艶な細君であった。家は見かけは二階だが、地上に二階、地下に崖に沿ひ崖にかくされてまた二階かくれてゐるというやふな妙な建て方の二階で、空いてゐる部屋といふのは低い階段を二つおりた最も奥まった最も下の部屋であった。 (略) 東と南とに開けた肘かけ窓には上野の満開の桜や不忍の池水が春先にどんよりと白くかがやいて一望のうちに見える。夕方には上野の鐘が聞えて、街の燈が遠く連って見えるであらう。よい眺めである。既に観潮楼門前といふ事が大に気に入つてゐるところへ、三人の美女あり、またこの眺望があるために部屋もしばらく居るうちには入つた瞬間ほどには陰気でもなくなつた。 >>
佐藤春夫「天下泰平三人学生」昭和28年1月「小説公園」初出。「佐藤春夫・作家の自伝」1994年刊より。
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(観潮楼門前の下宿屋があった場所。建物は崖下に2階分、地上(=藪下通り側)に2階分、計4階建の元遊女屋の木造の寮であった)

佐藤春夫(当時18歳)が、和歌山県新宮町の新宮中学校(旧制)を卒業し、再上京後、森鴎外邸の真ん前に数カ月間住んだのは、明治43年4月であった。生田長江に本格的に師事、与謝野鉄幹の新詩社に参加した時期であった。9月には永井荷風が教鞭をとっていた慶応義塾大学予科(三田)に入学する。
この下宿の「その後」が語られている随筆「化け物屋敷一号」(佐藤春夫「詩文半世紀」収録)から抜粋。

<< 近ごろ観潮楼址に行ってみると、コンクリート建ての学校敷き地となって、わたくしのしばらく住んだ危っかしく奇態な家ももう無くなってしまっていた。
その家は、むかし根津の遊女屋の寮として建てられたもので、遊女がひとりこの家で客と心中しそこなって死んでからは化け物屋敷として、しばらくは住む人も無かったのに、後にそんな噂などは気にしない人がこれを買い取って住み、部屋が多いから貸し間にしていたのだというが、いつも病人が出たり、何か不祥事があって、それらの貸し間には住みつく人がなかったと後に聞き知ったが、わたくしの住んだのもそんな部屋であったと見えて、わたくしはわけもなくわが居室に妖気を感じて夜などひとりわが部屋に帰ることが忌まわしく、後にはいやな夢を毎晩見るので、このすばらしい眺望と大丸まげの親切に美しいおかみさんのいる、そして長江先生の家も近いこの下宿には百日とは住まず、あまり健康な家ではないと気づいて移転した。(略)
この化け物屋敷のわたくしの部屋の背後の路面に出たところにあった便所の窓からは、観潮楼の二階の一室の鴎外漁史の書斎らしく思われる東向きの窓が、ま向かいに見えたものであった。(略)
近年、鴎外令息、森於菟(おと)博士に質してみると、わたくしの見た窓の灯はやはり老先生の書斎のもので、但し鴎外はいつも電灯をつけっ放しで外套を引っかぶって机にうつ伏せに眠り、眼がさめると読んだり書いたりするのが習慣であったとか。 >>
  *森於菟(森鴎外の長男・異母妹に作家森茉莉)1967年12月21日没。

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(左右写真とも建替え前の観潮楼址に立つ鴎外記念館。左写真は18歳の佐藤春夫が見た角度)

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(左写真 藪下通りの北東側は崖。上野の山が一望でき、汐見・観潮の名が残るように東京湾が遠望できたのだろう)
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2016年10月03日

銀座 有賀写真館 詩人中原中也のあのポートレイト

詩人中原中也の肖像といえば、あの御釜(おかま)帽子の写真しか思い浮かばないほど有名なのだが・・・実は・・・。
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<< 中原中也の生前、私は彼の写真は一枚しか見たことがなかった。それは現在中也像として最もポピュラーなお釜帽子の肖像写真である。大正十四〜五年、十八〜十九歳と推定、その頃有賀という、銀座の有名な写真館でとった。主に中流の上ぐらいの家のお嬢さんが見合写真をとる写真屋だった。
この写真が彼の死後、詩集の表紙や挿画になるうちに修正されーー特に瞳が拡大されーー美化されて行った経過については、五年前に書いたことがある。中也はなぜこんな写真をとったのか。(略)
この写真を見せられたのは昭和三年だったが、現物の中也とあんまり違っているので、「何だ、こりゃあ」といったら、彼はくさって、それから自分の写真を見せなくなった。それが今日、彼の代表的写真像になっているのだから、皮肉である。(略)お釜帽子と当時いわれたのは、黒ソフトのてっぺんを平らにつぶしたものである。短頭であった中原にはこの方がかぶり易く、昭和三年にもこの形にしていた。 >>
   「大岡昇平全集」第18巻に収録の「詩人と写真」より抜粋(筑摩書房1995年刊)

昭和3年当時、旧制成城学院高等科文科の学生だった大岡昇平(小説家)は、小林秀雄を介して中原中也と知己になっている。よって中也の写真を見たのは知り合った直後のことのようだ。その時、何時に撮ったものか話題に上がらなかったようで、このエッセイでは撮影時期は幅を持たせた言い方になっている。大岡は京都帝大文学部に進んだ後、中原中也・河上徹太郎らと同人誌「白痴群」を創刊(昭和4年4月)している。大岡が推定した大正14〜15年の中原中也を取りまく情況は・・・・
大正14年2月20日に京都・上京区寺町今出川一条目下ル中筋角の山本方(建物現存)に移転、1ケ月も経たない3月10日(〜19日までの間)に長谷川泰子を伴い上京。下宿を探す間、早稲田鶴巻町の旅館早成館に投宿(旅館は現存せず)。数日滞在した後、早稲田3丁目の下宿に引き移る。3月26日、落ち着いたのか(家財道具はほとんど無いので元から落ち着いているのだが)、友人(正岡)と浅草に散歩に出かける。正岡の日記には<映画「シラノ・ド・ベルジュラック」を観た後、銀座に行く>、全集の詳細年譜(角川書店版)に「銀座」の2文字が現れるのはこの箇所だけなのだ。この時点で中也17歳、泰子20歳。

上の写真の下部に文字らしきものがモヤッているのに気づくだろうか。
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拡大してもたいして変わらないが、なんとかARIGA・・・有賀写真館のスタンプと判る。 
 
有賀写真館は現在、銀座外堀通り沿いに本店を構えている。
本店住所は、中央区銀座7-3-6有賀写真館ビル。
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が、中也がカメラの前に座った大正14年当時の写真館はここではない。昭和9年に数寄屋橋に先代の有賀写真館ビルが建設されたところまでは辿れるのだが、大正4年創業の場所(銀座)と、恐らく大震災で被災した後の新写真館(中也はここで撮っている)の位置が不明なのだ。
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昭和9年、数寄屋橋に建てられた先代の有賀写真館ビルの位置。戦後、阪急ビルが区画いっぱいに建てられ、現在地に移転した。
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参考 「中原中也全集別巻 写真・図版篇」角川書店2004年刊
    中央区特殊火保図・昭和30年版
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2016年09月24日

上野不忍池 聖天宮のフェリシズム石像 高見順「都に夜のある如く」から

<< 不忍池は、上野寛永寺創立のとき僧天海の發意で作られたもので、その當時、中島は、それとこつち岸とをつなぐ橋はなくて池中の島だつたといふ。のちに石橋を架して通行の便を計つたといふが、それはいつ頃かは詳らかでない。
中島には辨財天が祀つてある。
古いその社殿は戦災焼失して、今は假(かり)建築である。摟門(ろうもん)も焼けて、石造りの洞門風の下部だけが、焼けただれた壁面を見せて残つてゐる。
(略)
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(上野山から見た不忍池・辨財天社。聖天宮は辨財天社に向って右手方向の小島)
辨天さまの右うしろに出た。そこに小さな出島があって、その周囲が蓮池になってゐる。
もとは池一面に見られた蓮が、今はここにだけ小さく片寄せられてゐる。
蓮は花をつけてゐたが、花辨をもう閉ぢてゐる。
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その出島の方に好奇の眼を向けて、「あれ、あるかしら?」と京子は言った。
丁度私もそのとき、あれ、あるかしらと思ってゐたところだから、驚いた。
驚いたといふのはーーー私のそのあれとは、ある意味で大変に有名な地蔵なのであつて、それに正面から見た分には、長髯(ひげ)を蓄へた人物が笠をかぶり、杖をついて、足駄を穿(は)いてゐるといふ、珍妙と言へば珍妙な、しかし、それだけの石像だが、裏から見ると、これがいけない。
田縣神社のお守りを大きくした、つまり、そのーーー男のあれの形をした代物だったから、私も、あれ、あるかしらなどと、京子の前で迂闊に口にできないとしてゐたのだが、京子は、平然と口に出して言った。
言ふだけでなく、京子は平然と足を進め、「ああ、やっぱり」平然と石像に顔を向けてさう言つて、私を更に驚かせた。
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石像の人物は役の行者だといふ説もあって、それは池に向って立ってゐるから、正面を見るには池の岸に廻らなくてはならない。こっちには背を見せてゐて、はっきりと例の形を現はしてゐる。
女の辨天さまを祀つた島に妙なものがあるのだが、「江戸名所図繪」を見ると、ここは中島とは別の離れた島になってゐて、間に橋がかかってゐる。そして中島には「辨天」の字が見え、この島には「聖天」とあって、辨財天社とは別にここに聖天宮のあったことが分る。
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(弁財天のある中島とは別の離れた島に聖天宮は祀られており、小さい橋が存在している)
(略)
私は例の石像に眼をやって、「僕はまた、君があれ、あるかしら言ったときは、てっきり、あれかと思った」と顎を向けた。京子はキョトンとしてゐた。
「フェリシズム(性器崇拝)の面白い石像だ」
そして私が暗示的な説明をすると、京子も気づいて、「知らない!」と身をひるがへした。
逃げる京子のあとから
「鐘の音の方しか、知らなかった?」
「ちょっとも知らなかった。あなたは、變(へん)なもの、知つてるのね」
「あれは學生時分から知ってゐる」
「いやなひとね」 >>

**京子が「あれ」と表現した対象は、同じ聖天祠にある「地獄の釜の音」であった。
高見順「都に夜のある如く」昭和29年「文別冊藝春秋」4月号より8回連載。

高見順リンク
北鎌倉 横須賀線北鎌倉駅ホーム改札のこと 高見順日記より http://zassha.seesaa.net/article/234212068.html
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2014年12月04日

外神田 神田明神 アニメ「ラブライブ!」の聖地(穂乃果の実家の和菓子屋「穂むら」付き)

アニメ版「ラブライブ! School idol project」(東京地方の放送はTOKYOMX)に登場する神田明神(千代田区外神田2丁目)。エンディングタイトルロールに神社名が正式にクレジットされ、「ラブライブ!」の聖地と化している。神田明神が物語に登場するのは、第2話の明神男坂(江戸時代からある急勾配の石段)を利用してダンスの基礎体力をつけるシーンから。ラブライバーなら、<穂乃果>と<ことり>が体力アップのトレーニングをしたこの石段から参拝することが常識(!)。<西木野真姫>もこの石段を登り、<海未>らに会いに来ている(第3話)。そして何よりも<東條希>がこの神社で巫女(みこ)として働いているのだ。
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    江戸総鎮守の神社・神田明神の神殿(昭和9年竣工)
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(左右写真)<穂乃果>と<ことり>がトレーニングした明神男坂(高低差約12m)を上・下から。男坂の南側にくの字形に曲がった女坂も存在する。神田明神で巫女として手伝いをする<東條希>が、ホウキを持って登場するのも明神男坂を上りきった境内。
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祈願のために奉納された多くの絵馬(境内の納所は3箇所)。アニメ版放送を受け、「ラブライブ!」関連の絵馬が圧倒的多数を占めるようになった。
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(右写真)アニメ第9話、夕闇に包まれた明神男坂石段上で、<ほのか・ことり・うみ>の3人が「いつまでも、ずーと一緒にいようね」と誓いあった場所。
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<にこにー>のコス(下の写真)をしたレイヤー<みあたん>のツイッターから。2014年11月下旬に友人と神田明神を訪れた際の画像(本人から直接使用許可済み)。<東條希>の絵馬をゲットした直後の左の眼鏡さんが<みあたん>(ノーメイクで辛そう)。
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<みあたん>ツイッターhttps://twitter.com/VmeromeromeronV
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以下は、AKIBAカルチャーズZONEに今年10月にオープンしたアニメイトの新店内に設置された「ラブライブ!」の簡易絵馬(紙)の奉納所。願いは叶うかは疑問。
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「ラブライブ! School idol project」アニメ版の放送期間
第1期2013年1月6日〜3月31日 13話
第2期2014年4月6日〜6月29日 13話
神田明神の詳細はHPで http://www.kandamyoujin.or.jp/

アニメ版「ラブライブ! School idol project」の第1話から登場する<穂乃果>の実家の和菓子屋「穂むら」は、神田須田町の老舗和菓子「竹むら」をモデルとしている。店名も「竹」を「穂」に変えただけ。2006年12月撮影。
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「竹むら」の開店は昭和5年。当時、すぐ近くの老舗「神田やぶそば」の娘が、和菓子職人に嫁いで開いた甘味処(お汁粉屋)がこの店。現在のご主人は二代目(のはず)。第1話で「穂乃果」のお母さんが顔を出す玄関のガラガラ戸や暖簾はそっくりそのまま。
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玄関を入った床には白い目地は入っていないが(改装したらしい)、内部の雰囲気はアニメにそっくり。2階から<穂乃果>が駆け下りてきそうだ。「竹むら」を代表する「あわぜんざい」760円は、作家・池波正太郎のお気に入りだった。
<穂乃果>の実家の住所は、神田須田町1-19。定休日は日曜・祝日。営業時間は11時〜20時。

「竹むら」リンク
神田須田町 甘味処 竹むら(竹邑)http://zassha.seesaa.net/article/30787736.html
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2014年10月08日

「イスラム国」戦闘員募集の求人広告を出した秋葉原の「古書 星雲堂」

10月6日に警視庁公安部外事三課が明らかにし、一斉に報道された<「イスラム国」に加わろうとした疑い 日本人学生を聴取>のニュース。警視庁は関係先数ヵ所(千代田区・杉並区内など)を家宅捜索したが、「イスラム国」に関する求人に関与したとみられる古書店の関係者からも事情を聴いている。公安部は、「勤務地:シリア」「詳細:店番まで」とのみ書かれた求人広告があるとの情報(貼り出しは4月)を受け、捜査に本格的に着手したようだ。求人広告を貼り出した古書店のある場所は、JR山手線のガード下にある雑居ビル内の1階。「星雲堂」は今年4月1日から同所で営業を開始していた。

*10月第3週に同古書店はテナント契約を解除したようだ。第2週までは<報道関係者各位 許可の無い者の建物および敷地内への不法立入および撮影を禁じます 家主>という内容を書いた貼り紙が閉じたシャッターに掲げられていたが、今週末には全てはがされていた。
音沙汰の無かった北大生N氏は10月16日、久しぶりにTwitterで「弁護士つけてくれ」と呟いた。
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古書店「星雲堂」の入居(1階通路右奥)するニュー秋葉原センターの向って左側の棟2階にあるメイドフットケア店「キューティーリラックス」でも従業員が負傷する傷害事件が発生している。写真の右方向に数十メートル進むと警視庁万世橋警察署がある。撮影は2007年。
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「星雲堂」のドア(2ヶ所ある扉のどちらかは不明)に貼られていた求人広告(Twitterから)。レトロな書体(白舟篆書というのか)の小さな看板が建物2階部分に掲げられている。
求人広告を見た北海道大学理学部数学科に在籍する男子学生N(26・休学中)は、イスラム教スンニ派の組織「イスラム国」(首都テッカ)の戦闘員として活動する目的で同組織が活動するシリアに渡航しようと企てた。事情聴取された翌日10月7日が出発日(成田からトルコ共和国イスタンブールへの片道チケット保有)であった。8月上旬段階で最初の渡航計画を実施しようとしたが、「パスポートを盗まれた」ため中止(本人が警察に通報・被害届提出)となったことが判明している。このシリア渡航を企てた「私戦予備・陰謀」(刑法93条)事件で、警視庁公安部外事三課は関係先のひとつとして元大学教授の男性(54)を10月7日、北大生をイスラム国幹部に戦闘員志願者として仲介した容疑で家宅捜索(豊島区内)を実施し、同元教授を任意聴取している。元大学教授とは、イスラム法学を専門とする神学者・中田考氏(京都上京区の同志社大学神学部教授・東京大学文学部イスラム学科卒業)であり、8日付で代表取締役を務める法人から実名で見解を発表している。
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右写真は星雲堂の店内。星雲堂@秋葉PX @seiundoさんが公開したツイッターの画像数葉からRT(?)。星雲堂のツイッターhttps://twitter.com/seiundo (内容はリツイートがほとんど)

北海道大学の男子学生が上京以来、居住(8月から数人と同居)していたのは、杉並区阿佐谷北の住宅街の一角にある木造平屋建ての住宅で、秋葉原の古書店に関係する人物「大司教」(31才・東京大学理学部数学科除籍)が賃借(管理人か?2012年より居住)していた物件。「大司教」と称される人物と元大学教授とはTwitterを通じた知り合いで、求人広告を見て応募してきた北大生を紹介し、渡航の手配を依頼したようだ。
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北大生が8月から居住していた阿佐ヶ谷の「アジト」。表札・住居表示(電柱も)はモザイク加工。

フォロワーが3100名(10月8日現在)ほどいる北大生NのTwitterから事情聴取を受ける寸前までの「つぶやき」を抜粋し、彼の人となりを紹介する。
彼のTwitterネームは「障害者」。2011年7月に登録している。
 10月5日 またチキンレースで障害者が勝利したニュースだ。健常者本当に弱いな
10月5日 アジトで肉会があったんですが、肉を焼くというただそれだけの所作がどれだけ高度な機能を必要とするのか次々と判明していく最高の会になった
10月5日 @各位 もうすぐ死ぬのでお勧めの風俗に連れて行って下さい
10月5日 異常者に首を切られる体験が出来るの貴重だし、モスクは最高の場所
10月4日 は?よど号なんてしらねえよ。帰ってユーチューブでイスラーム国見ようぜ
10月4日 新大久保に行ったら路地裏で20万ぐらい金髪の若い女が若い男に渡してる場面見れたし新宿に行ったらタクシーの運転手と男がカラーコーンを使った肉弾戦の喧嘩をしてるのを見れたのでいい一日だった
10月2日 障害者がリタリン飲むと俺になる
 10月3日 戦後に戦争犯罪者として裁かれそうな艦娘一覧
10月3日 艦これで学ぶ南京大虐殺
10月3日 何が来世だ。まず現世で中東に行け
10月3日 まず俺が警察に行って説教されなかった事が無い
 10月3日 人間性に問題があるので警察行くたびにはぐれ刑事純情派が出てきて数時間説教される
10月3日 アニオタに障害者が多いかは知らないけど秋葉原駅に行くと壁に向かってアニソンを叫んでる人がいるし出てきてはいけない人が太陽の下に出てきてる感がある
10月2日 アジト、楽しそうにしている様子をツイッターなどにあげると勤務中の医者から電話が掛かってきて楽しそうですねとコメントされる
10月2日 アラビア語を使うと最高にツイートがバグる
10月2日 リタリンを飲んだ大司教の肉体が面白反応を示している
10月2日 死にたいにゃんinイスラーム国
10月1日 障害者にシャブを与えたらシャキっとして社会に帰っていった(日本昔ばなし)
10月1日 はるかぜちゃんに殺害予告してる人の語尾がナリなの本物の風格を感じさせる
 10月1日 ミリオタが集まって添い寝してる邪知暴虐の家があるらしい
10月1日 オスタラ姫、とんかつ食ったら酒が回ってきたと宣言した後に阿佐ヶ谷駅前に座り込んで完全に静止したので置いて帰ってきた
10月1日 阿佐ヶ谷アニメストリートにオスタラ姫と行きます
 10月1日 ★☆★絶対イスラーム国宣言☆★☆
9月30日 秋葉原で死ぬ事を考えている
9月25日 モテキ読んでるけど最高の漫画だと思った。最高にモテたい
  *アジト=「革命的非モテ同盟」が置かれた阿佐ヶ谷の平屋建て住宅のこと。
  *艦これ=来年1月よりTVアニメ化され放送開始される艦隊コレクションの略。人気のピークが訪れると予想。
  *大司教=古書店の東大除籍になった家主。阿佐ヶ谷の平屋住宅の家主でもある。
     *は管理人の独断で付けた注釈
     
北大生Nが「最高にモテたい」とTweetした前日、9月24日に国連安保理で決議(9月24日採択)された「外国人テロ戦闘員に関する安保理決議」が重大な意味を持ってくる。国連広報センターのHPに日本語に翻訳された決議文が紹介されている。http://www.unic.or.jp/news_press/info/10438/
安保理は決議を全会一致で採択し、テロに資する過激主義を非難しテロ戦闘員の国際的な移動の防止を求めた。この決議の採択とタイミングを合わせるかのように日本の治安当局は即座に動いた。事情聴取のみで処理される案件にすぎない事件をもって世界中に成果をアピールしたのだ。2014年10月10日付の東京新聞朝刊の「外交的な体面上、治安当局が何とかひねり出した」記事を参照。
        2014 11 19 seiundo.JPG秋葉原の星雲堂跡。撮影11月上旬。
11月30日の星雲堂@秋葉PXからのコメント<<星雲堂@秋葉PXは、移転のための撤去作業を完了しました。来春を目標に再開しますのでいましばらくお待ち下さい。(それまではTwitterで・・)>>

12月3日(水曜)19時〜21時、五反田「ゲンロンカフェ」http://genron-cafe.jp/のプログラム(対談イベント)に、北大生Nに密着取材をしていた(事情聴取を受けた)フリーの報道記者・常岡浩介氏が登場する。
プログラム名は、<池内恵×常岡浩介「イスラーム国とはなにか?――カリフ制再興運動、イスラーム法、そしてアサド政権19万人の虐殺」>。詳細はhttp://peatix.com/event/59314で。
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(左右写真)「ゲンロンカフェ」は、山手線五反田駅西口から徒歩3〜4分、目黒川を渡ってすぐ左側の司ビル6階。

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2014年04月30日

築地市場 場内・場外の玉子焼の店

築地市場の場内(魚がし横丁)と場外には玉子焼の看板を掲げる店舗が現在、10数店ある。支店を含めると20店舗以上の玉子焼店がそれぞれのスタイルを打ち出し営業している。テレビ・雑誌等で繰り返し紹介されている店が多いので、個々の店舗紹介は大幅に省略。
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場内(魚がし横丁)の店舗から。
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1927年(昭和2年)創業の(有)山勇(やまゆう)商店。現在の社長・山岸雅行氏で三代目となる。屋号は初代の名「山岸勇松」から。
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卸売り専門の雰囲気がするが一般客へも対応している。玉子焼は全品が自社工場での手焼き製品。しょうゆは使わずに出汁を効かせて美味しく仕上げている。主力商品は早い時間帯でなくなり、陳列ケースには売切れの札が出される。テレビでレギュラー出演番組(キャスター・タレント)を持つ山岸舞彩(まい)さんは三代目の実娘で、店内にはポスターが飾られている。
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山岸(青井)舞彩さんは、2015年7月始めに結婚入籍、同年9月末で出演契約を更改することなくそのまま放送(芸能)業界を引退する予定。
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山勇の東側の棟で営業する「すし玉青木」 白身魚を練りこんだすし玉の元祖店 店頭ショーケースには玉子焼(手焼と機械焼で値段が異なる)を始めとして寿司関連商品が並ぶ かんぴょう巻が好物の為 ここのパック入かんぴょうを数度買い求めたことがある 真向かいに「大定(だいさだ)」の場内支店がある
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築地市場の場内の一角にある魚がし横丁の概略図 (右写真)正門から入った付近

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以下は 場外の玉子焼店
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(左写真)場内と場外を隔てる波除通り (右写真)テリー伊藤の実兄が経営する「丸武(まるたけ)」本店 同じ並びに2号店が営業している テリー伊藤が自らが出演する番組内などで度々紹介するため有名店となる 創業は大正末期
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タレント色を前面に押し出している 取材クルーを引き連れてパフォーマンス中のテリー伊藤氏
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(左写真)店奥で電話中の伊藤光男社長 一般客相手に日曜も営業(1月・8月は休業)
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波除通りの「丸武」の先を 中通りに折れた右側に「つきぢ松露(しょうろ)」の本店がある 1924年(大正13年)に江戸前寿司「松露寿司」として初代が築地(現在地)に出店 戦後の混乱期(昭和21年)に玉子焼専門店に転じて当代で三代目となる 業務用卸専門であったが昭和58年より一般客相手に小売りも開始
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「松露」の店頭
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「築地 山長(やまちょう)松江」(昭和24年創業) 築地7丁目に本社を置き寿司屋専門に卸してきたが 2009年9月に築地市場休憩室のある建物(波除通り)に小売部門「山長」を出店
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「山長」の鰹だしの効いた食べ切りサイズの串玉
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「玉友(たまとも)商店」 上記の「山長」と同じ建物に店舗があるが 写真は支店と思える中通りの諏訪商店の奥の小さな店舗 上級品の赤玉玉子焼(地養卵か?)は だしが効いているが甘みが強く苦手
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波除通りの「大定(だいさだ)」 整理券をもらって順番待ち
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「大定」自信の一品 売れ筋1位の手焼きの「つきじ野」 地養卵(漢方処方の特殊飼料のみで育成した鶏卵)を使用した程よい甘さの高級品
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場内7号館の「大定」支店
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2014年04月17日

小石川 幸田文のハンカチの木と蝸牛庵

明治の文豪・幸田露伴の娘・幸田文(あや)ゆかりの「ハンカチの木」(ダビディアDAVIDIA)が、文京区春日1丁目の礫川(れきせん)公園の1画で、まもなく開花し、花についた白い大きな苞(ほう)葉が風に揺れる光景を目にすることができる。
この「ハンカチの木」は、小石川植物園の山中寅文(東大農学部技術専門員)から、作家・幸田文に譲られた木であるが、伝通院東辺の善光寺坂の自宅に根を下すものの、文は生前、ついにその木の開花を目にするすることはなかった。説明板(文京区教育委員会設置)に、幸田文の長女(露伴の孫)で随筆家の青木玉(84歳)の「縁のある木」(平成16年1月)と題された一文が添えられている。<この木はたまたま私の家の庭に根を下してから開花を迎えるまで、実に二十年近い年月を過した。(略)(母は)木を贈られた日は初花を楽しみにしたが、平成二年他界し、ついに花を見ることはなく、私は花を待つことを忘れた。> その後、2002年(平成14年)12月になり、<母から私に引き継がれたこの木が、新しい場所で、更に多くの方々との御縁を結ぶよう心から願って止まない。>と青木玉は「ハンカチの木」をこの公園に寄贈した。
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  幸田文ゆかりのハンカチの木 白い大きな苞葉が風に揺れる 撮影2010年5月初旬
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緑葉に漏れる日差しに白色がより輝く苞葉 このめずらしい木の開花は4月下旬から5月にかけてである (右写真)落葉樹のため冬季は裸木となる

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(左写真)伝通院東辺の幸田露伴旧邸(蝸牛庵)・現青木邸 慈眼院西側角で善光寺坂に面している この旧邸の庭から「ハンカチの木」は移植された (右写真)露伴旧邸の目前にある善光寺坂の椋(むく)の老樹 露伴が榎(えのき)と思い込んでいたというエピソードがある 元の高さは25mほどであったが昭和20年5月の空襲で露伴邸も炎上 その炎は木の北側面を焼き焦がし上部は朽ち枯れてしまった しめ縄が巻かれたこの神木には「祟(たた)り伝説」が囁かれる(道路の真ん中にある為、伐採工事に取り掛かると関係者に不幸が相次ぐのだ)

露伴の娘・幸田文(こうだあや)が離縁し、1人娘の玉を連れてこの地に転居してきたのは1938年(昭和13年)。玉は9歳であった。幸田文は「ハンカチの木」の開花を見ることなく1990年10月31日に86歳で逝去。現在、玉は84歳。玉の娘(長女)で随筆家の青木奈緒はすぐ近所に住んでいる。
明治中期、椋の大樹を見上げながら善光寺坂を足しげく通る小柄な若い娘がいた。本郷から源覚寺(こんにゃくえんま)前を右折し、伝通院参道から安藤坂を下る途中の中島歌子主宰の歌塾・萩の舎(はぎのや)に通う樋口一葉(夏子)であった。一葉が見上げた頃は緑の葉を枝いっぱいにたたえた巨木であっただろう。

参考
文京区教育委員会「ハンカチの木」説明板
東京新聞2010年3月31日付け朝刊
野田宇太郎「新東京文学散歩」
青木玉「小石川の家」
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2014年03月06日

上野公園 (西郷隆盛像と)薩摩犬ツン


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       「ツン」という名の薩摩犬 飼い主は西郷隆盛
1898年(明治31年)12月18日、上野恩賜公園山王台で除幕式が行われた時、すでに「ツン」はこの世を去り、飼い主も薩摩の城山岩崎台で銃弾を浴び、首のない屍体となっていた。西郷の死後、21年2ヶ月が経ったこの日、除幕式に招待された西郷の未亡人糸子は「主人はこんな人じゃなかった」(薩摩弁で)と漏らしたと伝わっている。問題は「ツン」。高村光太郎の実父・高村光雲(東京美術学校彫刻科教授)が西郷像と一対で「ツン」を製作したのだが、「ツン」を見知った者から「耳は垂れていなかった」と証言が出たため作り直すことに。耳がツンとした現在の「ツン」(雌でなく雄犬)は後藤貞行の作。
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1873年(明治6年)10月24日、朝鮮遺使の無期延期(征韓派敗北)を受け、西郷は即座に参議を辞職し下野する。薩摩(鹿児島)に帰った西郷は、東郷町藤川の藤川天神に詣でた折に地元在住の前田善兵衛という者からウサギ狩り用の猟犬を贈られている。その犬が、ツンと立った耳と左尾が特徴の薩摩犬「ツン」(雌犬・命名者は不明)であった。
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西郷とウサギ狩りを共にし野山を駆け回っていた「ツン」のその後の運命はわからない。維新の元勲・西郷隆盛は、1877年(明治10年)9月24日午前4時の政府軍の総攻撃を受け、数百発の砲弾が炸裂するなか城山で自刃。48歳の人生を終えた。

参考 鹿児島県川内(せんだい)市東郷支所産業建設課のHP http://www5.synapse.ne.jp/furusato/sub2tougou1.htm
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2014年02月25日

本郷 鐙坂から御茶の水橋に 樋口一葉「日記」より

明治24年10月15日夜、本郷菊坂の借家(菊坂町70番)から樋口一葉一家(母子三人)はそろって「きょう開橋」した御茶の水橋の見物に出かける。
「蓬生日記」の10月17日の記述の後の部分に書き込まれている10月15日の詩篇ともいえる一節を抜粋。
<今宵は旧菊月十五日なり。空はたゞみ渡す限り雲もなくて、くずの葉のうらめづらしき夜也。「いでや、お茶の水橋の開橋になりためるを、行きみんは」など国子(*妹の邦子)にいざなはれて、母君も「みてこ」などの給ふに、家をばでぬ。あぶみ坂登りはつる頃、月さしのぼりぬ。軒ばもつちも、たゞ霜のふりたる様にて、空はいまださむからず、袖にともなふぞ行々て橋のほとりに出ぬ。>
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菊坂の借家の玄関を出て左に曲り 井戸の前を通ると南西側の外に出る石段になる (左写真)一葉の70番の借家は右フェンスの先を右に折れた右側 左端のポンプ式井戸は当時はからから(滑車)と手で桶をたぐり上げる「つるべ井戸」であった
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鐙(あぶみ)坂方向に抜け出られる石段 (右写真)石段上の木戸
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鐙(あぶみ)坂 坂名の由来は単純に鐙の形に似ていることから(鐙の製造に携わる子孫の住居があったからとの説も)右の石積み側は上野(群馬)高崎藩6万2千石の松平右京亮の中屋敷の跡地で右京山と呼ばれていた 一葉母子は月明かりの中 この坂道をお茶の水橋を目指して上っていった  *菊坂周辺の撮影は2005年

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昭和6年に架け替えられた現在の御茶ノ水橋(開橋当時とは構造が異なる 右の初代の絵葉書写真参照) 一葉母子が開橋した日の夜に訪れた時は未だ鉄道は走っていない 御茶ノ水停車場が完成し電化鉄道が開通するのは13年後(明治37年の大晦日に開通) 右の絵葉書の画像は鉄道開通後の明治44年のもの ホーム・駅舎とも現在とは反対側の新宿寄りに設置されていた
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当時は未だ架橋されていなかった聖橋から見た御茶ノ水橋(2代目は昭和6年5月に完成)
一葉の10月15日の日記の続き
<するが台のいとひきくみゆるもおかし。月遠しろく水を照して、行かふ舟の火(ほ)かげもをかし、金波銀波こもごもよせて、くだけてはまどかるるかげ、いとをかし。森はさかさまにかげをうかべて、水の上に計一村(はかりひとむら)の雲かゝれるもよし。薄霧立まよひて遠方(をちかた)はいとほのかなるに、電気のともし火かすかにみゆるもをかし。(略) するが台より太田姫いなりの坂を下りてくるほど、下よりのぼりくる若人の四(よ)たり計(ばかり)、・・・(略)>
実は、樋口一葉の描写と同じく夜の水面のきらめきを撮ったのだが、ほぼ真っ暗・・2007年〜2009年撮影分の昼の写真を差し替えずに使用。一葉母子は御茶の水橋を渡った後、紅梅河岸(紅梅町からの呼称)と呼ばれた駿河台側の道を昌平橋方向に坂を下ってゆく。一葉は<太田姫いなりの坂>と描写しているが、太田姫稲荷神社は 現在は駿河台下方向に遷座しており存在していない。
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太田姫稲荷の神木だった椋(むく)の木のみが残っている 一葉が昌平橋方向に下った坂は淡路坂(江戸嘉永年間の切絵図に石段付きで書かれている) 神社にちなみ一口(いもあらい)坂の別称もある 天然痘(疱瘡)の治癒(いも=潰瘍の意)に霊験があることからの坂名(太田姫稲荷の古社名は一口稲荷神社)
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(左写真)椋の木の箱におかれた「御守」 上段写真の椋の木の横に御茶ノ水駅の臨時改札口が設置されているが 昭和6年の総武線拡張工事により神社は立退くことになった 遷座先は南方向に本郷通りを下って右に入った所(神田駿河台1丁目2番)
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一葉と視線を合わせたかもしれない白キツネ
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一葉ら母子が中天に差しかかる月光に照らされて坂下に消え去ってゆく 樋口夏子19歳の秋

参考
「樋口一葉全集第三巻日記編」小学館1979年刊
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2014年02月21日

本郷区菊坂町 伊勢屋質店と樋口一葉

明治23年(1890年)9月、樋口夏子(一葉)一家が本郷区菊坂町の狭く古い借家に移ってきた頃には、樋口家にはかっての裕福な生活は失われ、逼迫した日々を送る貧しい母娘だけの家庭(母多喜と妹邦子の3人暮らし)となっていた。
一葉が短い一生(24歳)を終えた後、間もなく母親の多喜も過労から亡くなる。残された妹邦子が15年以上も散逸させることなく守り抜いた姉の日記から、苦しい生活ぶりを抜粋してみる。一葉の没年は明治29年11月23日。日記の刊行は明治45年です。
*引用は「全集樋口一葉」小学館版第3巻でページ数も同書のもの
明治25年5月に、菊坂町の路地奥の借家(70番)から話し声が聞こえるほどの距離の借家(69番)に移転した後から、日記には「我家貧困」「衣類質入」「金子の事」等の文字が数多くなってゆく。
<九月一日 母君は鍛冶町(神田)に金子(きんす)かりんとて趣き給ふ。我脳痛いとはげし。(略)午後、母君帰宅。鍛冶町より金十五円かり来たる。午後直に、山崎君に金十円返金に趣き給ふ。>P115
明治26年
<三月卅(30)日 晴天。早朝j国子と少し物がたりす。我家貧困日ましにせまりて、今は何方(いづく)より金かり出すべき道もなし。>P157
<四月三日 空晴れに晴れて、いと心地よし。(略)この夜、伊せ屋がもとにはしる。>P158
最初に「伊勢屋質店」の名称が登場する明治26年4月3日の記述は有名で、一葉関連の解説書には度々引用されている。だが3日前の3月30日の記述にも注目すべきで、方策尽きて困惑してる一葉の様子が伺え「伊勢屋質店」へ走った状況が理解できる。
以降、5月3日<いせ屋がもとに又参り給ふ。>P173 さらに龍泉寺に移転直前の7月10日の日記には、現代でも身につまされる方もいるのではという記述が残されている。数日前より衣類(きもの)の売却に走り回っていた一葉は、<十日 晴れ。田部井より金子(きんす)うけとる(*着物の売却代金)。此夜さらに伊せ屋がもとにはしりて、あづけ置たるを出し、ふたゝび売(うり)に出さんとするなど、いとあはたゞし。>P193 現代風にいうなら、返却期日に元金利息を払って又その場で借りるということ。このページ(P193)には、一葉が売った着物の種類の詳細が注釈付きで記されている。このように金銭を工面した5日後に一葉一家は、下谷龍泉寺に引っ越して行く。
明治26年7月、新吉原の廓(くるわ)を取り巻く「どぶ」に近い下谷龍泉寺368番の長屋で一葉は荒物・駄菓子店を開店する。だが龍泉寺に移った後も菊坂の「伊勢屋質店」(菊坂町32番)まで、一葉は歩きとおし通うのです。8月6日<夕刻より着物三つよつもちて、本郷の伊せ屋がもとにゆく。>P209
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菊坂の「伊勢屋質店」(撮影2005年) 蔵の左手前の果物・野菜の看板を掲げた八百屋は取り壊されて駐車場に 二階建て瓦葺出桁造の店舗部分(明治40年築)と土蔵(明治20年に鹿浜から移築) 裏に廊下で接続された旧住居部分の座敷(明治23年築)で構成 所有者は永瀬家 
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蔵の前に設置された文京区教育委員会の説明版には<伊勢屋質店の創業は1860年(万延元年)で廃業は1982年(昭和57年)>と記され 下段には「日記」から明治26年5月2日分の一部が引用されている(全集「日記」のP165) その部分は説明板に譲って上記には引用していません 
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玄関をはいってすぐ右側の「見世」部分 質店営業当時の資料が展示されている
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土蔵の鉄扉や外壁は関東大震災で被害を受け交換・修理をしている
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土蔵(左)と奥の八畳の座敷の間の坪庭 都登録有形文化財(建造物)に2003年登録
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*旧伊勢屋質店は一葉命日(11月23日)の「一葉忌」に一般公開(予定) 問い合わせは文京区に
参考
「樋口一葉全集第三巻日記編」小学館1979年刊
「樋口一葉 新潮日本文学アルバム」新潮社1985年
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2014年02月20日

She's eternity

1979 1 17 〜 eternity
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*説明・コメントは無しです
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2014年02月14日

日本橋呉服町 竹久夢二の港屋絵草紙店跡

大正浪漫(ロマン)の叙情画家として名を残した竹久夢二が、東京・日本橋呉服町(現在の呉服橋交差点東角)に開いた「港屋絵草紙店」の跡地を訪ねた写真です。現在では何ひとつその痕跡を残していませんが、夢二の詩「宵待草」と絵をあしらった「夢二港屋ゆかりの地碑」が跡地付近のビルの敷地内に設けられています。
略年譜の月日の頭に印した●から●までの2年弱の期間が、日本橋呉服町2番地の「港屋絵草紙店」が営業していた期間です。開店日は確定できましたが、閉店に関する記述は残っておらず、2014年1月に刊行された河出書房新社「竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔」に収められた「みなと屋の夢二」の一節によってやっと推定できました。当時、「港屋」で働いていた吉田ソノさんの娘廣田知子さんが、母親の語ってきた話をまとめた文章で、閉鎖の理由までも判明できます(同書を読んでください)。
年譜が最も混乱せずに簡素に理解可能だと考え「略年譜」を作成しました。「竹久夢二正伝」(求龍堂)に収められた年表を主に参考にし、その他、岡山の竹久夢二郷土美術館の資料なども参照してます。
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日本橋呉服町2番地は現在の中央区八重洲1丁目で呉服橋交差点の東側付近 道路幅・道路形状も大正初期とは大きく変更されており左写真に推定位置を書き込みました (右写真)木造2階建の二軒長屋・・イメージ写真として京都清水二寧坂の「みなと屋」の画像
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新呉服橋ビルの敷地内の「夢二港屋ゆかりの地碑」 他万喜と彦乃と夢二の関係を思い出さずにはいられない絵と<待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ>の詩が刻まれている (右写真)上記の京都・二寧坂の「みなと屋」入り口

1884年(明治17年)9月16日 岡山県邑久(おく)郡本庄村にて竹久夢二(本名は竹久茂次郎(もじろう))次男として出生
(略)
1907年(明治40年)23歳
 1月 岸他万喜(たまき)と結婚 牛込区宮比町4番に居住
 4月 読売新聞社入社(時事スケッチ画担当)
1908年(明治41年)24歳
 2月27日 長男・虹之助(こうのすけ)誕生
  年内に小石川区で3回転居繰り返す
1909年(明治42年)25歳
 5月 他万喜と協議離婚
 7月・8月 富士登山(8月は他万喜を伴う)
 12月15日 初著作「夢二画集 春の巻」刊行 成功する
1910年(明治43年)26歳
 1月 麹町区四番町1番倉島方に転居 再び他万喜と同棲
 2月 離婚後 九州八幡の祖父母宅に預けていた長男を他万喜が呼び戻す
 (この頃 八幡在住の神近市子が後に上京し靖国神社裏の夢二家(倉島方)に出入り
 (=書生)したことを文章に残す)
 4月 転居 同区内の山元町2-17に  
 5月25日 大逆事件検挙開始
      夢二 大逆事件関与容疑で2日間拘留される    
 8月 房総・銚子町海鹿(あしか)島で離婚した他万喜と過ごす
   2歳の虹之助も伴い宮下旅館に滞在
   「宵待草」のモデルとなる長谷川賢に出会い恋心抱く
1911年(明治44年)27歳
 1月18日 大逆事件判決(大審院)24名に死刑判決(翌19日 大逆事件減刑12名無期に) 
 1月24日 牛込区牛込東五軒町に転居
 1月24日 大逆事件の幸徳秋水ら12名処刑
 2月 「夢二画集・野に山に」洛陽堂
 3月 会津若松市に 東山温泉に
 5月1日 次男・不二彦出生  たまきと別居
 6月 「絵ものがたり京人形」洛陽堂
 8月末頃 下谷区上野桜木町の「上野倶楽部」に居住
 9月 「月刊夢二 ヱハガキ」第1集発売 以降毎月刊行102集まで
1912年(明治45年)28歳
 3月21日 夢二主宰雑誌「櫻さく國 紅桃の巻」刊行
 6月 雑誌「少女」誌上に<さみせんぐさ>の筆名で「宵待草」の原詩を発表
 <7月30日大正に改元>
 11月23日〜12月2日 京都府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」開催
1913年(大正2年)29歳
 2月 戸塚村源兵衛59番に転居
 10月頃 戸塚村戸山新道18番に転居
 11月5日 「どんたく」刊行 「宵待草」が現在の詩形で発表される
 <待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな>
1914年(大正3年)30歳
 1月 他万喜と岡山に行き 大阪・京都・名古屋へ旅行
 2月 戸塚村源兵衛59番に居住
 7〜8月 福島市・郡山に旅行 7月中旬 福島ホテルで「夢二画会」開催
 8月 那須へ旅行(後から他万喜も行く)
●10月1日 日本橋区呉服町2番に 「港屋絵草紙店」を開店
 夢二は記念作「江戸呉服橋の図」を描く 「港屋」は版画・千代紙・絵葉書・手ぬぐいなど夢二がデザインした小物を販売した
「港屋」は夢二が離婚後も同棲していた他万喜(たまき)の自活を考慮して開いた店 案内状のサインは「岸たまき」で店を取り仕切っていたのは岸他万喜 店頭に吊るされた1mほどもある赤い長ちょうちんの横でポーズをとる着物姿の他万喜の写真が残されている(夢二の写真も残っている) 二軒長屋の1軒で間口はわずか2間余り(1間=1.8m)の狭い店であった 2階は6畳一間の和室でミシン刺繍を担当する吉田ソノが住み込み 他万喜とともに店を切盛りしてゆく 夢二と面接した翌日からソノは働き始めており 夢二が千代田町28番に住んでからは食事のため連日訪れて泊り込むこともあったようだ  
 11月 夢二 神田区千代田町28番へ移転 不二彦4歳も同居 2階8畳間が画室
 (場所は竜閑橋交差点の東側で現在はオフィスビルが立ち並びこの頃の道路は消滅している)
夢二は一回り年の離れた日本橋紙問屋の娘笠井彦乃と親しくなり この家に招いている 路地の入り口に和裁の教室があり そこへ通う笠井彦乃と顔を合わすうちに親しくなったとソノはばあやから聞いている 彦乃と他万喜はこの家で出くわしてしまうことなる
<10月に来店した笠井彦乃と出会う>とほとんどの伝記に記載されているが 当時 店は他万喜に任せており夢二はほとんど店にはいなかったようだ 彦乃は他万喜が店に出た後を見計らって鎌倉河岸の路地奥の借家を訪ねていたようだ 彦乃23歳 ソノ21歳
1915年(大正4年)31歳
 1月20日 「草の実」刊行
 1月 富山へ旅行
 2月 他万喜(たまき)を呼び寄せ 泊温泉に
 2月10日〜11日 富山県泊町の小川温泉で「夢二画会作品展覧会」開催
 4月1日 婦人之友社の雑誌「新少女」創刊 同誌の編集局絵画主任となる 
 4月 落合村下落合丸山370番に転居
 5月22日 彦乃と結ばれる 
 6月頃 高田村雑司が谷大原に転居
 12月20日 「小夜曲」刊行
1916年(大正5年)32歳
 2月下旬 三男・草一(そういち)が出生(戸籍では3月25日) 
 4月18日 セノオ楽譜第12番に「お江戸日本橋」装丁(表紙絵)
     以後昭和初期まで楽譜表紙280に及ぶ装幀を行う
 7月 栗原玉葉と初めて対面
 8月22日 「夜の露台」千章館刊行
●<この頃(9月?) 呉服町「港屋絵草紙店」閉鎖>
 10月 渋谷町下渋谷伊達跡1836番に移る
 11月9日未明 葉山・日蔭茶屋事件 神近市子(29歳)による伊藤野枝(22歳)と同宿の
     大杉栄(32歳)刺傷事件
 11月 京都に移る(上出水の堀内家に身を寄せる)
1917年(大正6年)33歳
 1月 次男不二彦が守屋東により京都に送り届けられる
 2月1日 清水二寧坂に家を借り移転
 2月3日〜5日 京都・四条倶楽部で展覧会
 2月 次男不二彦を連れて兵庫・室津へ旅行
 4月 高台寺南門鳥居脇に転居(以後3年間ここに落ち着く)
 6月 彦乃が上洛し夢二と同棲始める 
 8月〜9月 金沢市・粟津温泉・湯湧温泉などへ旅行
 8月25日 金沢市藤屋旅館で「夢二画会」開催
 9月15日〜16日 金沢市金谷館で「夢二抒情小品画展覧会」を開催

*地図は大正8年当時 呉服橋町1番には富士銀行グループの前身である安田信託銀行が出店しており現在はみずほ信託銀行となっている
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参考
「竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔」河出書房新社
「竹久夢二正伝」求龍堂
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2014年02月13日

本郷 言問通りと東京図書館 樋口一葉「日記」より

1891年(明治24年)7月17日、樋口一葉(=樋口なつ。この年の秋に始めて筆名「一葉」を使うのだが便宜上、一葉にする)は本郷菊坂町70番の家を昼前に出て、谷中に墓参がてら友人の家で催される歌会に出席する。以下はこの日の日記全文。
<<七月十七日、みの子ぬしが月次会(つきなみかい)なり。ひる少し前より家をば出づ。道しるべにとて、母君も出立(いでたち)給ひぬ。高等中学の横手の坂下るほど、雨少し降来ぬ。空は薄墨の様なるくも(雲)やうへ立重なりて、「やがて夕立しぬべし」など、通行人もいひぬ。真下まき子の墓なれば、母君と共に墓もうでする程、空いよへくらく成て、雨いよへ降にふる。こゝにて母君に別れ参らせ、みの子ぬしの家は直(すぐ)其むかひの道なれば、やがて行ぬ。集会者は十人計(ばかり)成し。>>
*みの子=田中みの子 島根県出身で「萩の舎」(中島歌子主宰)の友人。下谷区谷中町3番の自宅でこの日、月例の歌会を主催。  
*真下まき子 明治23年頃他界。
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本郷菊坂町70番の借家跡 路地奥の左に入った右側 69番の家は右後ろ側 一葉はこの路地から萩の舎や東京図書館に通い 平河町の半井桃水の元へ歩を進めた (右写真)弥生坂下から本郷方向(言問通り)左坂上の森は旧浅野侯爵邸=東大工学部等の敷地
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7月17日樋口一葉が谷中に向かった時点ではこの道路は未開通 (右写真)一葉はこの暗闇坂を歩いて図書館に向かったはずだ 左側は射的場であった

本郷菊坂町から谷中方面に向かうには、現在では道路が整備されており、ほぼ一直線の経路を辿ることができるのだが、明治20年代までは幕末と変わらぬ道路状態だったと思える。「高等中学の横手」の帝大との間の道は、明治10年頃には部分開通していたのだが(射的場使用開始とほぼ同時期)、弥生坂は未だ着工されておらず(明治28年の開通)、暗闇坂方向に接続されているだけだった。小学館刊行の日記の「高等中学の横手」の注釈(六)には「根津に出る弥生坂」となっており、これでは一葉の苦労が半減されてしまう。一葉はこの時期、未だ言問通りが本郷通りと接続していない為、迂回路(暗闇坂をくだり根津宮永町方向に抜けるコース、または菊坂の家から新坂を登り帝大正門から構内を抜ける方法)を辿って、頻繁に上野の「東京図書館」に通っていた。この本邦初の公共図書館に一葉が最初に訪れたのは、この日の歌会の1ヶ月ほど前の6月10日で、田中みの子に連れられて行っている。一葉は弁当を持ち込んでまで、幅広く深い教養(特に「源氏物語」等の古典)を身に付けていく。
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(左写真)暗闇坂に隣接した旧射撃場跡 (右写真)現在の谷中6丁目信号 一乗寺は言問通りを直線に通すため敷地を削られた 右角が谷中町1番で広群鶴(こうぐんかく)石材店があった その隣が一葉の友人の田中みの子宅 現在はデニーズの駐車場)
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(左写真)言問(こととい)通りからは徒歩数分で広大な谷中墓地に入れる (右写真)現存する「東京図書館」の書籍庫
「東京図書館」は上野教育博物館付属の書籍閲覧所で木造二階建てであった。閲覧席は男女別で、二階が婦人席と特別閲覧席。1880年(明治13年)に築造された煉瓦造3階建(地下1階・高さ16m)の旧・書籍庫は現存している。現在は東京芸代音楽学部の1号館として使用されている。目の前に新道路が敷設され、旧東京音楽学校の敷地に組み込まれている。道路ができる前は東京美術学校の敷地の奥に存在していた。一葉がどのようにアプローチしたのかは古地図からも想像しがたくなってしまった。
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東京音楽学校と美術学校は錦小路という細道が境界線だった そこにあった出入り口が図書館への通路だったかも
参考
「樋口一葉全集第三巻日記編」小学館1979年刊
「樋口一葉 新潮日本文学アルバム」新潮社1985年
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2013年12月01日

麻布竜土町 明智探偵事務所をさがして 江戸川乱歩「人間豹」より

江戸川乱歩は、1933年(昭和8年)の春に、東京市戸塚町の下宿屋「緑館」(昭和6年11月まで営業)を引き払い、家族とともに、芝区車町8番地(都営浅草線泉岳寺駅・田町寄りの出入口すぐ)の借家に移転した。庭付き木造二階建ての大きな家だが、移転の決め手となったのは、一階の廊下とつながっている土蔵造りの洋間があったためだったという。乱歩はその土蔵を書斎として使用する。その翌年(昭和9年)の5月より、その土蔵で執筆した猟奇的長編探偵小説「人間豹」が、雑誌「講談倶楽部」(講談社)に連載(昭和10年5月に完結)される。乱歩の別次元の世界に迷い込んだような異常な発想を生み出した要因は、「京浜国道と東海道鉄道線に近く、二階の私の部屋は終日終夜、轟々と鳴り響いて安眠出来ず、神経衰弱となった」に起因するのではなかろうか。乱歩は、お気に入りの土蔵の書斎がありながら、わずか1年で再移転してしまう。

「人間豹」昭和9年5月〜10年5月講談社倶楽部連載初出より。
<<それは窓の少ない薄暗い部屋であったから、彼の両眼の螢火のような怪光をハッキリ見てとることができた。青く黄色く燃える眼底の妖火は、彼が激すれば激するほど、その光輝を増して行くように思われた。その眼、その日、その四肢をもって、黒い人間豹は、今や彼の美しい餌食(*神谷青年の恋人弘子)に飛びかかって行った。掴み合うたびごと、つき倒されるたびごと.ころがり廻るたびごとに、服も下着も引きちぎられ、今はもう身を蔽うものも残り少なくなっていた。>>
 神谷青年は、人間だか野獣だか判別のつかない怪物に、かって目の前で恋人弘子を殺されている。呪うべき日から1年あまりが過ぎ去り、神谷青年には新しい恋人(江川蘭子)ができ、脳裏からは野獣の記憶が一日一日と薄らぎつつある。人間とも獣ともつかない男は、美しい容貌の若い女を次々と食いちぎり、(明智小五郎の新妻の)文代さんまで衣服を剥ぎとり、裸にして熊のぬいぐるみに押し込めてしまう。
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(写真)かって竜土町の路地奥には瀟洒な洋館が建っていた。その洋館があった路地よりやや南よりの
細路地に現在も古い煉瓦塀が残っている。御茶ノ水外堀際の「開花アパート」から文代さんを連れて、
移り住んだ新たな「明智探偵事務所」は、この付近なのだ。

<<明智小五郎は「吸血鬼」の事件の後、開花アパートの独身住いを引き払って、麻布区竜土町に、もと彼の女助手であった文代さんという美しい人と、新婚の家庭を構えていた。その家庭が同時に探偵事務所でもあった。低い御影石の門柱に「明智探偵事務所」と、ごく小さな真鍮の看板がかかっている。そこをはいって、ナツメの植え込みに縁とられた敷石道を一と曲がりすると、小じんまりした白い西洋館、玄関の呼鈴を押せば、直ぐさまドアがあいて、林檎のような頬っぺたをした詰襟服の愛くるしい少年が顔を出した。これも「吸血鬼」事件でおとなも及ばぬ働きをした少年助手小林である。>>

人間豹は、神谷青年の新しい恋人、レビュー団の女王江川蘭子に襲い掛かる。
<<その朝、神谷芳雄の宅へ、奇妙な贈り物が届けられた。差出人は誰ともわからない。それを運んできた運送店へ、夜の白々明けに一台の自動車がとまって、神谷芳雄の所書きを示し、これをすぐに届けてくれと依頬されたとのことである。(略)
神谷青年はある予感にうちのめされて、心臓は早鐘をつくように騒ぎはじめたのだが、といって、見ないわけにはいかぬ。ソッと花束をかきのけて行くと、ああ、果たして、果たして・・・名探偵の予言はむごたらしくも的中したのだ・・・そこには、全裸体の江川蘭子の死骸が、まるで蠟人形のように美しく横たわっていたのである。その白蠟のようなからだのうちに、ただ一箇所美しくないところがあった。蘭子を殺したものは、美しくない部分であった。喉のところにパックリと口をあいた赤黒い傷痕。それは何か猛獣のするどい牙でもって喰いちぎられたように見えた。>>
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<<棺桶配達事件は、被害者が帝都興行界の花形江川蘭子であった上に、殺人者が世人を戦懐せしめていた怪物人間豹とわかっているので、その騒ぎは一と通りでなかった。その日の夕刊は、あらゆる激情的な形容詞を濫費して、ほとんど社会面全ページをこの報道でうずめた。被害者蘭子の写真、明智小五郎の写真などが、見世物のようにデカデカと掲載せられた。(略)>>
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(写真)明智小五郎新事務所付近見取り図。

「江戸川乱歩全集7巻」収録「人間豹」1969年10月講談社刊より
参考
「江戸川乱歩 貼雑(はりまぜ)年譜」講談社1989年刊
江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html 
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html
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2013年11月28日

本郷 喫茶店「紫苑」の織田作之助と太宰治

昭和11年(1936年)の夏、22歳の織田作之助は、大阪で沈鬱な日々を送っている。喀血の不安を抱きながら、読書と劇作執筆に埋没していた。
3月の三高(現・京都大学教養課程)卒業の失敗と退学、6月には支援を受けている姉夫婦(竹中家)への欺瞞の露呈、8月には、習作「青春の逆説」を懸賞小説に応募するも落選。
織田作之助は、孤独を癒すかのように血痰を吐きながら、道頓堀・心斎橋・千日前をあてどなく徘徊する。一日の会話は、煙草屋での「チェリー1個」以外は何ごとも話さない日もあった。
時折、訪れる恋人・宮田一枝とのひと時と、将棋倶楽部(千日前の大阪劇場地下)で1時間5銭で将棋をさすこと以外に暗い心を慰めるすべはなかったという。
10月に入ると、前年に同人誌「海風」を共に創刊した東京帝国大学美術史学科に進学していた青山光二から知らせが入る。東京本郷で喫茶店経営をしてみる気はないか、という打診であった。
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織田作之助や太宰治が出入りしていた喫茶店「紫苑」(しおん)跡 (右写真)「紫苑」の建物の裏側にある旅館「更新館」へ入る路地から フェンスを蔽う樹木・・現在は東大農学部キャンパス

<<東中野の二十六号館というアパートで、対い合わせの部屋に私たちは住んでいたのである。私は大学へはほとんど出かけなかったけれど、本郷の街へは、三日にあげず出かけて行った。農学部の建物に沿って千駄木の通りへ折れた所に、仲間のあつまる「紫苑」という、うらぶれた喫茶店があったからである。・・・「紫苑」のマダムは四十近い年増で、のちに聞いた噂ではドイツ人の妾だったとかいうことだが、かくべつ小柄な人で、首筋の所でそろえた断髪をオカッパにし、何時も厚化粧していたので、迂闊な私はさいしょ、十七、八の娘かと間違えたほどであった。と言うのが彩光のわるいこの店は昼なおほの暗く、夜は夜でうっとうしい明りがシミだらけの天井にただ一つともっているだけなので、カウンターのむこう側にひっこんでいるマダムの顔立ちも、容易には弁じがたいのであった。常住ショパンのレコードが流れているこの店は、六畳の部屋ほどな(ママ)広さの、いたんでデコボコになった三和土(たたき)に四組のボックスが詰めこまれ、どの椅子もバネがこわれていて、具合よく座るのに難渋した。が、実に奇妙な事ながら、この店のそういうところこそが、当時の文学青年どもの心を、離れがたくこの店に牽きつけていたのである。そして、この店をタマリにしていた常連のグループの中では、太宰治、檀一雄らの「日本浪漫派」の仲間と、私たちの「海風」の仲間とが、主なものであると言えた。>> 青山光二「青春の賭け 小説織田作之助」講談社文芸文庫P245〜246より
この「ガタガタの椅子に囲まれた、うらぶれ果てた店構え」の喫茶店を、マダム(三潴ハル)は他人に譲って、故郷の十和田湖畔にひっこみたいと青山に持ちかける。青山は、東中野で対い合わせの部屋に住んでいる三高からの親友である白崎礼三に同意を求め、大阪にいる織田作之助を正式に紹介することになったのだ。
上京した織田は、青山と白崎とをまじえて、マダムと対面する。ものの30分と経たぬうちに織田と二人で相談に出ていたマダムは、青山らの前に一人でただならぬ顔をして戻って来る。
<<「織田さんの宿は何処なんですか」「上野の駅前ですよ。・・・どうかしたんですか」「あんな頼りない人ってないですよ。あんなあやふやな態度で文学なんかやったって、ゼッタイだめよ!あたしの面目まる潰れだわ・・・」>>(「青春の賭け」より)
織田作は資金のあてもないのに大阪から出てきていて、金の話しになると「便所へ行く振りして逃げ出しちゃった」のである。青山と白崎は言葉に窮してしまう。もちろん隙をみつけて二人は半駆けに逃げ出すことになった。青山らはそれきり、「紫苑」に近寄ることができなかったのだ。
まもなく新しい経営者が決まり、内外装は一新され、明るくこざっぱりした店に変身した。ところが、いままでの常連だった文学青年らは、誰一人として足を向ける者がいなくなってしまったという。織田作は、宮田一枝と店を持つことを「夢」見たのだが、東中野の青山のアパートで喀血している。その後、すぐに帰阪し、織田作が再び本郷の地に現れるのは、翌年の5月になってからであった。
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    地図記載情報は昭和8年〜15年の本郷区火災保険特殊地図を参照
 
太宰治が、檀一雄ら「日本浪漫派」の仲間とこの店を訪れていたのは、織田作が、10月に譲渡の相談にくる以前だったと思われる。昭和11年の太宰は、パビナール中毒で入院(済生会芝病院・武蔵野病院閉鎖病棟)を繰り返しており、前年4月の篠原病院入院時から鎮痛に用いたパビナールが習慣化していて、7月には経堂病院から千葉の船橋町に療養のため転地していた。心身ともに消耗状態に陥っている。
<<太宰治はしばしば車代をせびるので、三潴(みつま)ハルに嫌われていた。手がこんでいた。カンバンになり、いったん店を出ていってから、引き返してきて、トントンと扉を叩く。マダムが開けると、「五十銭、用立ててくれないか」とささやいている声が、まだ店にいた私の耳にきこえる。カウンターの陰へ取りに戻って、しぶしぶ五十銭を渡したマダムに、「車代を借りている太宰は仮の太宰。ほんとうの太宰は、通りの角に檀君と、いる」つまり、返さないという意味だ。>> 青山光二「純血無頼派の生きた時代」P45から
太宰が喫茶店「紫苑」で、このエピソードを残したのは、太宰が第一創作集「晩年」を上梓する直前のことだった。「晩年」が砂子屋書房から刊行されたのは6月であった。青山ら「海風」のメンバーは、この店で太宰と面識を得たという。織田作と太宰が、この時点では未だ視線をあわせるには至っていなかった。
参考
「太宰治の年表」大修館書店2012年
「青春の賭け 小説織田作之助」青山光二 講談社文芸文庫
「純血無頼派の生きた時代」青山光二

織田作之助リンク
京都 三嶋亭 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/380550110.html
京都 織田作之助が執筆に使った「千切屋別館」http://zassha.seesaa.net/article/379223394.html
大阪 阿倍野 料亭「千とせ」跡 織田作之助http://zassha.seesaa.net/article/382857023.html
大阪 口繩坂 織田作之助「木の都」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/381516708.html
京都 書店そろばんや 織田作之助「それでも私は行く」からhttp://zassha.seesaa.net/article/382937234.html
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2013年11月26日

飯倉片町 梶井基次郎「ある崖上の感情」より

20数篇の珠玉の短編作品を残し、肺結核により31歳で早逝した梶井基次郎が、東京帝国大学文学部英文科の学生時代に移り住んだ下宿が、飯倉片町の細坂道が交錯する崖上の木造二階建の堀口方。
1924年(大正13年)3月に、三高(京都)を5年がかりで卒業した梶井は、親友の中谷孝雄・外村茂(後に繁)と共に上京し、大学のある本郷で、最初の下宿(本郷3丁目の蓋平館支店)に入居する。同年12月には、中目黒の下宿に移転。翌年(大正14年)1月に、梶井の生涯の代表作となる「檸檬」(れもん)を、中谷・外村らとともに創った同人誌「青空」(創刊号)に発表する。創作活動に行き詰り、神経衰弱が昂じる中、5月31日に移転した下宿が、この飯倉片町の堀口方であった。
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(左写真)手前の広い通りは外苑東通り。右方向が六本木。ビルの間に見える路地が急激に南に下る「イタチ坂」。坂下すぐ右側には島崎藤村が18年間(47〜65歳)暮らした借家の跡がある。 (右写真)坂下から見上げた「イタチ坂」。左手が島崎藤村旧居跡。ここで長編小説「夜明け前」を執筆している。

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(左写真)イタチ坂を下りると左右に道は分岐する(江戸期からの細道)。左にさらに下る細い坂が「鼡(ねずみ)坂」(池波正太郎の時代小説に登場する)。右に再び上る坂が「植木坂」。 (右写真)「植木坂」を少し上った右手に梶井が下宿した堀口繁蔵方跡がある。梶井が下宿した堀口方は、茶庭師の父親庄之助が引退し、目黒に隠居したため、二階部分が空部屋になった。それを下宿として業(なりわい)にしたものであった。梶井が借りた部屋は、写真とは反対側の二階北側の4畳半であった。

移転半月後の1924年(大正14年)6月16日に「泥濘」を脱稿。8月上旬から東大の夏休みを利用し、外村・淀野隆三と京都の宇治へ旅行する。さらに実父と連れだって道後温泉へ。9月初旬になって東京に戻ってくる。10月7日、短編「路上」を脱稿。11月に「橡の花」を発表。
1926年(大正15年)、外村の住所に置かれていた同人誌「青空」の発行所を、3月1日付けで梶井の下宿(堀口方)に移転させる。4月になって、東向きの窓から眺められる島崎藤村宅を、初めて外村と連れだって訪問。同人誌「青空」を藤村に献じる。8月に「ある心の風景」を発表するが、この頃より病状が悪化して血痰を度々見るようになる。堀口方に詩人三好達治を誘い、10月に入って三好は隣室に引越してくる。12月末に三好の勧めで伊豆・湯ヶ島温泉を療養の為訪れる。
翌1927年(昭和2年)、同温泉で川端康成の知遇を得て、「伊豆の踊子」の校正に加わる。6月、同人誌「青空」を全28号をもって廃刊。東京の堀口方に再び戻るのは、翌年(昭和3年)の5月上旬になってからであった。この間、東大文学部は、昭和3年3月31日付けで除籍処分になっている。
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(左写真)堀口方玄関前から見下ろした植木坂。 (右写真)堀口方付近見取り図。

短編「ある崖上の感情」は、「文芸都市」誌の昭和3年7月号に発表。この崖上の下宿(堀口方)で最初から推敲・執筆された作品ではない。大正15年7月に大阪阿倍野の実家で、新潮社の依頼で書けずに放棄した作品ではないかと推察されている。
新潮文庫の創作集「檸檬」に収められた「ある崖上の感情」から抜粋。
<<「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕は何時(いつ)でもそのことを憶(おも)い出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そして何時もそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。――しかし、それよりも僕はこんなことが云いたいんです。つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに駆る或るものがあるんじゃないか。誰でもふとそんな気持に誘われるんじゃないか、と云うのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」もう一人の青年は別に酔っているようでもなかった。(略)>> 

昭和3年5月上旬、梶井は堀口方に再度戻り、「ある崖上の感情」を仕上げている。7月23日には堀口方を引き払い、杉並・和田堀の松ノ木町にあった中谷孝雄の借家に移り、同居を始める。高熱・血痰の症状は続き、衰弱が著しくなり、中谷ら友人の説得で、9月3日に実家(大阪・阿倍野)に戻り静養する。
その後、梶井は病弱な母親の介護に携わるまで回復する。だが病魔(肺結核)は梶井の身体を虫食み、1932年(昭和7年)3月24日に母親らに看取られ逝去する(実家近くに借りた住吉区王子町2丁目13番の家で)。梶井が下宿した堀口方は、飯倉片町一帯を襲った昭和20年の米軍の空襲で、島崎藤村が長年生活した2階建て木造の借家ともども灰燼に帰している(「東京都35区区分地図帳」昭和21年刊より)。

参考
 「年表作家読本 梶井基次郎」1995年刊。
 「梶井基次郎 日本文学アルバム」1985年刊。
梶井基次郎リンク
京都 丸太橋加茂磧 梶井基次郎「ある心の風景」より http://zassha.seesaa.net/article/431707460.html?1494601854
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2013年11月24日

谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」から

人気誌「キング」に、<<待ちに待たれた二年ぶりの大快作「妖蟲」江戸川乱歩氏作>>というキャッチコピーで連載(昭和8年12月〜昭和9年11月)された小説「妖虫」の一場面は、乱歩氏自ら教示しているように、そのモデル地は現実に存在しており、その一部(レンガ塀)は70年が経った現在でも確認できる。

相川青年(大学生)は、妹・珠子と妹の家庭教師である京子を連れて、料理がうまいと評判の日本橋川沿いのレストラン「ソロモン」に食事に出かける。京子はレストランの別のテーブルにいる青目がねの男から「人を殺す話」を唇の動きから読み取ってしまう。京子は読唇術を心得ていて、その言葉をメモ用紙に書きとめる。新聞はさかんに「妖虫事件」という大見出しで、その異様な事件を書き立てている。

<<「アスノバン十二ジ」京子はその青目がねの男から視線をそらさず、手元を見ないで鉛筆を動かすものだから、仮名文字はまるで子供の書いた字のように、非常に不明瞭であったが、兄妹はメニュを覗き込んで、やっと判読することができた。
「何を書いているんです。それはどういう意味なのです」
相川青年が思わず訊ねると、京子はソッと左手の指を口に当てて、眼顔で「だまって」という合図をしたまま、又青目がねの男を見つめるのだ。
しばらくすると、鉛筆がたどたどしく動いて、また別の仮名文字がしるされた。
「ヤナカテンノウジチョウ」
それからまた、
「ポチノキタガワ」
「レンガベイノアキヤノナカデ」
とつづいた。メニュの裏の奇妙な文字はそれで終ったが、鉛筆をとめてからも、やや五分ほどのあいだ、向こうの隅の青目がねともう一人の紳士とが、勘定をすませて食堂を立ち去ってしまうまで、京子の視線は、青目がねの顔を追って離れなかった。
「どうしたんです。わけを言ってください」
京子のたださえ青い顔が一そう青ざめていることといい、このなんともえたいの知れぬ、気違いめいた仕草といい、ただ事でないと思われたので、相川青年は、真剣な顔をして、ヒソヒソ声になって、きびしく訊ねた。
さっきの青目がねの男は、最初短刀で一寸だめし五分だめしにすると言ってから、このメニュに書きつけてある日と場所とを言ったわけですね。つまり「明日の晩十二時」「谷中天王寺」「墓地の北側」「煉瓦塀の空家の中で」と。相川青年は、メニュの仮名文字を判読しながら言った。>>
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(写真)谷中墓地の西端、江戸川乱歩が昭和初期に見たものと同じ光景が残されている。

<<相川守は、その翌晩の十一時ごろ、もう人影もない上野公園の中をテクテク歩いていた。
昼間はほかのことに取りまぎれて、忘れるともなく忘れていたが、日が暮れて、夜が更けて行くにつれて、彼の病癖と言ってもいい猟奇の心が、ムグムグと頭をもたげて、もうじっとしていられなくなった。彼は家人に言えば止められるにきまっているので、それとなく家を出て、しばらく銀座で時間をつぶしてから、バスで上野公園へやってきたのだ。彼は暗い公園を歩きながら、彼のいささか突飛な行動を弁護するように、こんなことを考えていた。
(どう考えなおしてみても、あれは小説の筋ではないようだ。青目がねの男は「あすの晩十二時」と言ったが、小説の筋を話す時に「あす」なんて言いかたをするはずはない。「その翌日」というのが当たり前だ。それに、あいつは空家の町名や位置を詳しく言っていたが、小説にしては、あんまりはっきりしすぎているではないか)
(確かめてみればわかるのだ。もし青目がねがいった位置に、実際そういう煉瓦塀の空家があれば、もう疑うところはない。煉瓦塀の住宅ば非常に珍らしいのだし、小説の中へそんな実際の空家を取り入れるなんて、考えられないことだ。ただその空家が実在するかどうかが問題なのだ。それがすべてを決定するのだ)
谷中天王寺町の辺は、大部分が墓地だけれど、墓地に接して少しばかり住宅が並んでいる。その中に、小さな仮小屋のような煙草店があって、まだガラス戸の中に火があかあかとついていたので、そこで訊ねてみると、「ああ、煉瓦塀の空家なら、この墓地を突き切った向こう側に、一軒だけポッツリ建っているアレのことでしょう。まっ直ぐにお出でなさればじきわかりますよ。もっとも暗いには暗うございますけれど」
おかみさんが、丁寧に教えてくれた。相川青年は半信半疑でいた空家が実在のものだとわかると、何かしらハッとして、心臓の辺が妙な感じであった。>>
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(写真)「谷中の煉瓦塀に囲まれたポッツリ建つ空家」、現在では周囲には住宅が建ち並び、昔の風景は望むべくもない。古ぼけた空家は取り壊され、かわりに大きなマンションが敷地いっぱいに建っている。だが、乱歩が見た煉瓦塀はそのまま残っている。
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(写真)古いレンガ造の門柱。その横には、これも昭和初期のものと思わせる新聞受けが口を開けている。

<<煉瓦塀の空家までは、そこから墓地を通りぬけて二丁あまりの距離であった。
彼は用心深く、他人が見たら、彼自身が黒い物の怪(もののけ)のように感じられることだろうと思いながら、わざとその物の怪の歩き方をして、破れた煉瓦塀の前にたどりついた。眼が闇に慣れるにしたがって、星空の下の墓地や建物が、うっすらと見分けられた。
その煉瓦塀は、ところどころ煉瓦がくずれていた上に、むかし門扉があったとおぼしき個所が、大きく、何かの口のようにひらいて、その内部は、一面に足を埋める草叢(くさむら)であった。
(略)
三時間ほどにも感じられた闇の中の二十分が、やがて経過したころ、正面のまっ黒な家屋に、縦に長い糸のような線が三本、クッキリと現われた。誰かが屋内にともし火をつけたのだ。それが雨戸の隙間から漏れているのだ。相川青年は、ほとんど這うようにして、まるで一匹の黒犬の恰好で、その光を慕って近づいて行った。そして、注意深く内部のけはいをうかがった上、一ばん太い雨戸の隙間に眼を当てた。雨戸のほかに障子もない荒屋(あばらや)なので、八畳ほどの部屋の向こうの襖(ふすま)まで見通しであったが、隙間の幅が狭いために、左右は限られた範囲しか見ることができなかった。先ず眼に入ったのは、はだかロウソグらしい赤茶けた光に、チロチロと照らされている正面の襖と、その表面一ばいに映っている、巨人のような人間の、鳥打帽子らしいものをかぶって、目がねをかけている横顔であった。それが焔のゆれるにつれて、伸びたり縮んだりしながら、異様に大きな唇を動かして、物を言っていた。>>
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(写真)縛られて、弄ばれている・・・「えっ、マジ?、ダメよ、やめて」と哀願するModelはHちゃん。

<<「さあ、縄を解いてやったんだから、そうピグピグしていないで、もっとまん中へ出てくるがいいじゃないか。姉さん、お前寒いのかい。いやに震えているね。ハハハハハ」
雨戸を隔てているためか、その声は陰にこもって異様に物凄く聞こえた。
・・・・今度は女の胸から腰にかけて、胴体の一部が区切られて見えることになった。その胴体が俯伏せになって、観念したもののように、じつと動かないでいた。艶々として恰好のいいからだだ。秋のはじめではあるが、こう丸はだかにされては耐らないだろうと、痛々しかった。
(略)
相川青年は、ほとんど、一刹那ではあったが、女の全身を見ることができた、アッと叫びそうになる「あれは春川月子だ」
どんな春川ファンもまだ見たことのない、彼女の全裸の姿を、どんなシナリオもまだ考え出したことのない、陰惨奇怪な場面を、彼はいま見届けたのだ。>> 

「江戸川乱歩全集第8巻 妖虫」1979年講談社より抜粋。
「妖虫」は文庫化されており、創元推理文庫1994年3月刊で読める。

江戸川乱歩リンク
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443495724.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
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2013年11月23日

日本橋北槙町 桜田門外ノ変 関鉄之介と遊女瀧本(いの)

吉村昭の歴史小説「桜田門外ノ変」(上)より、大老井伊直弼の行列襲撃の現場指揮者であった水戸藩浪士・関鉄之介と新吉原の遊女・瀧本との<なれそめ>を語った部分を引用。
<<その夜、かれは、日本橋北槙町に足をむけた。そこには、いのという女が住んでいた。いのは、以前、新吉原の谷本楼で瀧本という名で遊女をしていた。鉄之介は、江戸へ出た折に藩の者と谷本楼に登楼し、瀧本を知った。(略)半年ほどした頃、鉄之介は、瀧本の姿が谷本楼から消えたのを知った。楼の者にきいてみると、瀧本は、老齢の裕福な商人に身請けされて谷本楼から去ったという。(略)それから一年後、かれは小石川の藩邸近くの路上で、偶然、瀧本(実名いの)と出会った。立話をしたが、それによると身請けしてくれた老人が病死し、今では日本橋北槙町の兄熊二郎の家に身を寄せているという。いのは、今後も鉄之介に会いたいとしきりに言い、鉄之介もそれに応じてしばしば夜を共にするようになった。やがて、かれは、いののために熊二郎を店請け(身元保証人)として北槙町中橋に家を借りてやり、そこにいのを住まわせた。 鉄之介は、いのの親が伊予の大洲藩関係の者であったことを知り、気性がしっかりしていて立振舞いも尋常であり、書に巧みなのも当然である、と思った。彼女は、二十二歳であった。>> P269より 
「桜田門外ノ変」の後、関鉄之介ら逃亡した浪士を追跡する幕吏の探索の網に引っかかり、瀧本(本名いの)は隠れ家を提供したかどで捕らえられ、伝馬町の牢獄送りとなる。実話だ。大老襲撃計画を知っていたはずだと、厳しい詮議(拷問)を受け、瀧本は獄死する。伝馬町で果てた者は小塚原(現在の南千住・処刑場と死体捨置場があった)に運ばれ、捨てられるのだ(浅く埋められ土を被せられる)。瀧本は短い23歳の人生を終えた。
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小塚原処刑場跡に建てられた回向院にある桜田烈士の墓列 その中に伊能(いの)の墓も在る 「関鉄之介妾伊能遺墳」と刻まれている 墓石右面には命日が刻印

以下の写真は、瀧本(実名いの)が獄死した伝馬町牢獄跡
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現在の地下鉄日比谷線小伝馬町駅の近隣にある伝馬町牢獄跡。明治8年5月27日の市ヶ谷監獄完成・移転により廃止され、牢屋跡地は火除地(火災延焼防止用空き地)になる。現在は保育園(旧小学校)敷地・十思公園となり、南隅に設置されていた処刑場(首切り土壇場があった)跡には大安楽寺が建てられている。*「土壇場」は現在では日常の言葉として使用されている。
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傳馬町牢獄の簡易見取り図を作ってみた(左図)。拷問・病気等で牢死した囚人は裏門(東側門)から運び出され、小塚原に大八車で運ばれた。いのもこの東側門から桶に入れられ運ばれたのだろう。(右写真)東京駅八重洲口。右斜め前付近が、襲撃直前まで関鉄之介の隠れ家があった日本橋北槙町(町人地)。中央通り寄りの地名が北槙町中橋、いののために借りた家があった。
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(左写真)江戸期の日本橋北槙町に該当するブロック。現在の東京駅八重洲口を背にして右斜め前が北槙町であった。明治初期になって始めて地番が付けられ、外堀側から右廻りに順に1・2・3とふられた。隠れ家(北槙町中橋)はどのあたりであったのか? 武家の出で遊女となったいのにこれ以上は近づけない。

小説「桜田門外ノ変」(下)P214から
<<「妓女瀧本、万延元年申(さる)年の七月六日牢死、二十三歳、旧吉原谷本楼の娼(しょう)、本名いの、日本橋北槙町常吉地借り熊二郎方同居、大洲藩へ引渡さる」>>
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(左写真)遊郭吉原のメーンストリートであった仲之町。後ろを振り向くと大門(おおもん)方向。(右写真)瀧本(いの)が在籍した谷本楼を、明治10年の吉原細見図で探してみるが・・・・。
参考
「幕末維新全殉職者名鑑」(瀧本の名が掲載されている)

桜田門外ノ変リンク
愛宕 桜田門外ノ変 水戸・薩摩浪士集結地http://zassha.seesaa.net/category/837931-1.html
鎌倉 桜田門外ノ変 広木松之介の顕彰墓碑http://zassha.seesaa.net/article/375779732.html
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2013年11月20日

千駄木 喫茶 乱歩°

<<それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけの喫茶店で、冷しコーヒーを啜っていた。>>
江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」に触発されたかのような、S坂の中ほどにある(乱歩仕様の)喫茶店で温かいコーヒーを啜りながら、向かい側にあるはずの古本屋を眺めようとしてしまう(窓はあるが外は見えない)。明智小五郎の幼馴染で、官能的で男をひきつける美人の女房が店番でいるかもしれないのだから。
ここは急勾配のD坂ではないし古本屋などあるわけがない、気付くのが遅いのだ。緩く長いS坂の中ほどで、店の名も違っているではないか。ここは「白梅軒」でなく「蘭歩亭」だ。
<<マスターがお客相手に、上野駅際のガード下で起きた陥没事故の話をしていた。お客といっても、近所の馴染みで、繭美(まゆみ)も顔見知りの時計屋のだんなだ。蘭歩亭はフリの客も少なくないけれど、近所のひま人の、ちょっとした溜まり場のようになっていることが多い。客はひとり客ばかり四人いた。>>
あれっ、内田康夫の「上野谷中殺人事件」ではマスターは普通におしゃべりしているが、目の前では店の手伝いの女が大声でオーダーを伝えている。老マスターは耳が遠く、女は更に声を張り上げる。客と会話するはずもなくカウンターの向こうに消えるように座っている。
ここは「白梅軒」でなく「蘭歩亭」でもなく、歩に°が付く喫茶店「乱歩°」だった。
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「D坂より308歩」は正しい 不忍通りの団子坂下交差点から三崎(さんざき)坂を200mちょっと歩くと店に着く
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店の営業情報は左右写真で 「平日だからすいてるだろう」と安心してリピートしたら(定休日は月曜)右写真の貼り紙・・・
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内田康夫「上野谷中殺人事件」文庫版1991年刊 「乱歩°」は「蘭歩亭」として登場します 上記の引用はP17から 地図の三崎坂の「菊見せんべい」も名称だけですが書かれています
地図の左(西)端に記入した団子坂上の「三人書房」は江戸川乱歩が自宅を兼ねて開業した古書店です ここを舞台にして乱歩の代表作の一篇「D坂の殺人事件」が執筆されました

 
西ヶ原 作家・内田康夫 生誕地http://zassha.seesaa.net/article/202012896.html
沼津・獅子浜 作家・内田康夫小学校時代疎開地(本能寺)http://zassha.seesaa.net/article/237786553.html
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2013年11月13日

神田小川町 笹巻きけぬきすし総本店

1702年(元禄15年)に初代・松崎喜右衛門が江戸・竈河岸(へっついがし)(=現在の日本橋人形町2丁目10番くらい?=江戸・住吉町裏河岸=細い運河が人形町通で行止りになる町人地・吉原が新吉原に移転した跡地の東端付近)で笹巻鮨を世に広め、評判を得て以来、現存している江戸最古の鮨屋として現在も神田小川町で営業を続けています(店の由来書を参照 現在は13代目宇田川浩氏)。
現在では主流となっている江戸前握り寿司が出現したのは、笹巻鮨の出現から100余年後の文政年間のこと。江戸最古の笹巻毛抜鮨と両国橋を渡った回向院前で握り寿司を考案した花屋(小泉)与兵衛、深川・安宅六間堀の松が鮨(堺屋松五郎)を江戸三鮨(えどさんすし)と称してます。
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靖国通りの小川町交差点を聖橋方向(本郷通りをJR御茶ノ水駅方向)に60mばかり進むと江戸元禄からの老舗・笹巻鮨に
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強めの酢でしめた飯に塩漬けしたネタを押し巻き殺菌効果のある笹葉でくるんだ元来は携行保存食として考案された鮨(戦国期の腰帯に付けた兵糧をヒント) 近年は食べやすく調理されているがそれでも酢・塩分はやや強い 一部のネタは季節により変わります(由来書に詳細な説明有り) 営業情報が入ってないので・・日曜休み 9時〜18時30分(土曜17時まで)
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以下は、江戸三鮨に名が挙がっている両国橋東詰の町人地・元町にあった花屋(小泉)与兵衛
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江戸前握り寿司を創り出した老舗は昭和5年に閉店し歴史は断絶
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この老舗の名をピックアップしたチェーン食事処があるが無関係
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2013年11月11日

三田 綱町三井倶楽部の武家屋敷長屋(解体)

三田2丁目3番の旧・三井家綱町別邸に、三井家の賓客接待用として建設された「綱町三井倶楽部」(ジョサイア・コンドル設計で大正2年に完成)。その敷地の北西角に、江戸期の旧藩邸の屋敷の一部と思える建物一棟が残されていました。三井家綱町別邸は、西隣のオーストラリア大使館の敷地と合わせて、江戸時代末期までは島津家の上屋敷。明治期には蜂須賀侯爵邸と移り変わっている。現在はオーストラリア大使館と綱町三井倶楽部は道路で隔てられているが、その道路が造られた位置に島津藩邸時代は屋敷門が存在していたはず(江戸切絵図は屋敷門の位置に家紋を印していた)。綱町三井倶楽部内にあった土壁造りの建物は、取り除かれた屋敷門の東脇にあたり、屋敷門の警備にあたる下級武士か足軽の長屋(住居)としてあったものと考えられます。
2008年8月になると外壁解体工事が開始され、建物周辺は工事フェンスで覆われてしまったのです。貴重な文化財であるはずの長屋構えの建物は間をおかず解体処理。歩道設置工事が完成しても、あの「長屋」は復元された気配がないようです。
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  道路側のコンクリート壁は昭和20年代は木柵であった 歩道は無く車道路肩のみ
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道路側長屋の上部外壁は白漆喰(しっくい)塗 下側は下見板張
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(左写真)2008年8月撮影 外壁工事開始 (右写真)2008年11月撮影 外壁・歩道拡張工事終了間際 長屋遺構は消滅
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工事標示により長屋遺構の面積・高さが分かります 地図*長屋のあった所は現在は信号付き十字路・・藩邸の表門位置と推測 向い角に辻番所がありました
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2013年11月10日

日本橋 丸善と女店員・佐多稲子(作家)

1920年(大正9年)、後にプロレタリア作家として名を成す佐多稲子(窪川稲子の筆名で)は兵庫県相生町の父親の元から単身上京(当時16才)し、上野不忍池湖畔にあった料理屋「清凌亭」の座敷女中となる。翌年には丸善日本橋店用品部に女店員として就職。丸善の前身は、1869年(明治2年)に横浜で創業した書店「丸屋」。翌年には日本橋店を開業している。1910年(明治43年)に、日本橋店は4階建煉瓦造の新店舗に建て替えられる。佐多稲子が入店した当時はこの煉瓦造りの建物。2階が洋書売り場で1階に和書と文房具の売り場が配置されていた。洋品部所属の佐多稲子は、入口に近い正面脇の化粧品売り場に配属。佐多稲子著「私の東京地図」に、丸善時代のエピソードが語られている。19才の彼女はこの建物であの関東大震災に遭遇する。 
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煉瓦造4階建てだったのは関東大震災以前のこと 佐多稲子が女店員だった頃には真向かいの高島屋日本橋店はまだ建てられておらず空き地だった
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(左写真)煉瓦造時代の正面玄関の位置は正確には判らないが・・化粧品売り場はこの辺り(中央通り側)? (右写真)丸善のフロア案内に載ってる大正期の売り場風景

「私の東京地図」から <外国書の購入を一手に引受けて、日本最高の知識層もその店に居るのに何かしかの誇と愉悦とを感じるにちがいない丸善書店でさえ、店員の大半は縞の着物に前だれ姿であった。客もまた下駄ばきが多い。>
19才の着物姿(?)の女店員佐多稲子は、1923年(大正12年)9月1日に死者9万1802人、行方不明4万2257人の犠牲者を出した関東大震災に遭う。
<丁度食事どきで、店員たちの半分は食堂へ行っていたし、客の姿も少なくて、店は閑散としていた。私は女店員のひとりと抱き合って店の中ほどの飾りケースのそばに揺すられるままになっていた。(略)最初の揺れがひと先ず終ったとき、みんな外へ出ろ、と誰かにうながされて、私は抱き合っていた連れといっしょに、入口から外へ出た。出たとたんに、筋向うの野沢組の赤煉瓦の建物が、ざぁと前へ崩れ落ちた。あっ、これが大地震なのだ、と私はその瞬間にはじめて、今の経験を見定めた。(略)私たちは真向かいの荒囲いの空地へ集まった。>
丸善の店員たちは、未だ建設されていない高島屋百貨店予定地の広い空地に避難して無事を確認したことがわかる。佐多稲子ら女店員たちが丸善店内で目撃して、その容姿に見惚れていた作家(革命家)大杉栄は大震災から15日後の9月16日に、新宿・柏木の自宅近辺で憲兵隊に連れ去られ、九段の憲兵隊本部で虐殺される。
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(左写真)丸善のブックカバー (右写真)「作家の自伝34 佐多稲子」1995年刊・・「私の東京地図」が収められている
佐多稲子は、大震災の翌年4月に資産家小堀家の慶応大学の学生だった長男と20才で結婚し蒲田に移り住むが、大正14年を迎えると夫とともに自殺を計る。命は取りとめ、父親のいる相生の実家に引き取られる。6月に長女を出産するが、小堀家には戻ることはなく離婚に。佐多稲子21才・・つづきは「私の東京地図」で。
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2013年11月06日

愛宕 桜田門外ノ変 水戸・薩摩浪士集結地

この愛宕神社が水戸・薩摩浪士18名の襲撃直前の集結地とされたのは1860年(安政7年)3月3日、桜田門外ノ変の当日の早朝のこと。元号が安政から万延に改元されるのは桜田門外ノ変の15日後のことです。
襲撃前日(3月2日)に、東海道品川宿にある遊郭(薩摩藩藩士・増上寺の僧らの御用達の遊所だった)内の引手茶屋稲葉屋・妓楼相模屋で浪士らは最後の打ち合わせを行っている。井伊大老の登城時刻が五ツ半(午前9時)である探索情報が伝達され、その為に外桜田門には用心して五ツ(午前8時)に待機、その前に芝の愛宕山山上に集結することが指図されている(品川・鮫洲の川崎屋で待機していた指揮者・金子孫二郎の指図を木村権之衛門が伝達)。金子はまた、襲撃現場の指揮を関鉄之介に一任(襲撃作戦の概要5ヶ条は金子がすでに決定済み)している。この時に金子が用立てていた短銃5挺が弾薬とともに関に手渡されている。妓楼相模屋で最後の酒宴の後、目立たぬよう近くの稲葉屋に三々五々移動し、夜更けまで細部の打ち合わせが関鉄之介を中心にして行われている。
3月3日は未明から大雪。先発隊5名(薩摩の有村・増子・大関・杉山・広木)が愛宕山に登る。前日の打ち合わせ通りに六ツ半(午前7時)までに山上に一同勢揃いする。関が到着する頃には全員が茶店の縁台などに待機していた(茶店というのは・・参考:吉村昭の小説「桜田門外ノ変」)。外桜田門へのコースは急石段を下ってすぐ左、新シ橋(あたらしばし)で外堀を渡るのが最短である。虎ノ門方向は大名屋敷に遮られてT字路が多く直線路は無い(直近の寛永年間に刷られた麹町の尾張屋版江戸切絵図から)。おそらく2〜3人の小グループに分かれて寒風の雪道を決意に震えながら桜田門へ歩を進めたことだろう。
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愛宕山愛宕神社・・・徳川家康の江戸開府にあたり1603年(慶長8年)9月24日に建立 主祭神は江戸の防火・防災の守神として「火産霊命(ほむすびのみこと)」が祀られている また家康の持仏であった「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も祀られている 浪士18名が襲撃前の集結地にこの神社境内を選んだ理由は 勝運をもたらすこの神前で必勝の祈願をするため・・・だったに違いない
左写真は愛宕神社正面の86段ある急勾配(斜度は約40度)の男坂と称される石段 右写真の右端に桜田烈士の石碑
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神社本殿の前に置かれた桜田烈士の顕彰碑 稲田重蔵(桜田門外で闘死にした最年長者47歳)の名と四天王寺の文字が明確に読める(大阪の天王寺で事変の20日後に幕府の捕方に包囲され切腹して果てた薩摩藩への対応を受け持っていた高橋父子のことと推測)
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現在でも山上の境内には料理を出す店が(複数)ある・・・江戸初期から参拝客相手の休み処として茶店があったに違いない

鎌倉 桜田門外ノ変 広木松之介の顕彰墓碑http://zassha.seesaa.net/article/375779732.html
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2013年10月10日

深川小松町 伊東甲子太郎(鈴木大蔵)道場跡

鈴木大蔵(おおくら)は常陸国新治郡の出身。1842年(天保13年)に、父親(鈴木専衛門)は仕えていた本堂家の家老と争いを起こして蟄居閉門の処分を受けてしまう。翌年、一家はそろって藩外に寓することに。大蔵8歳の時であった。大蔵は10代で江戸・水戸にて剣術を学び、また学問も修める。1860年(万延元年)頃に、深川小松町に北辰一刀流の道場を構えていた伊東誠一郎の門下に入り、修行の末に北辰一刀流の免許皆伝を受ける。師・誠一郎の臨終に際し、遺言により一人娘「うめ」の婿となり伊東道場の跡継ぎに・・・北辰一刀流・伊東大蔵道場が誕生する。
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(左写真)伊東甲子太郎道場の跡(南側から撮影)・・当時は道路は無く松代藩・真田信濃守の下屋敷と接していた(右写真の左側の樹木が茂る所が真田家下屋敷) 大島川西支流の土手側に道場の玄関があったと思われ 北側の松平家下屋敷の角から小松町の町人地を通り抜けて道場に出入りしていたと想像・・嘉永の尾張屋版切絵図に描かれた道路配置からです
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道場の南東(大島川)側・・手前左右の道路は無く行き止まりだった かってこの道場で剣を学んだことのある新選組副長助勤の藤堂平助が伊東(30歳になっていた)を隊に勧誘するため訪れたのもこの道だろう
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1864年(元冶元年) 藤堂平助に入隊の内諾を与えた伊東大蔵は 10月9日に江戸に着いた局長・近藤勇と市谷甲良町の近藤の道場で会見する 入隊を正式に応諾した上で門下の師範代や友人らを推挙する 10月15日 伊東は道場を閉鎖して妻うめを三田台町に預け 元冶元年の干支(えと)にちなみ 「甲子太郎」(かしたろう)と改名 大森の宿場で実弟・三木三郎を含む同志らと落ち合い東海道を京に向かう 池田屋騒動のあと禁門の変で焼け野原となった京に
 *地図の水色=松代藩(真田家)下屋敷内では佐久間象山が砲術塾を開設しており勝海舟らが塾生でした 後に木挽町(銀座)に移り坂本龍馬らが砲術の講義を受けます 伊東甲子太郎が江戸を旅立つ約3ヶ月前に 佐久間象山は京の三条小橋の近くで斬殺されてます
 *参考 「新選組史跡事典」
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2013年10月02日

蔵前 古書店 浅草・御蔵前書房

古本屋の建物が右に傾いて、隣りのビルに寄りかかっているって?
目の錯覚だ。いくら情が深い下町といえど、寄りかかったら隣りの栄ビルに迷惑だ。
よく見ると、数センチのところで堪えており、寄りかかってはいない。
崩落防止のネットを被せられたボロい木造二階建て看板建築は、昭和23年の竣工(多分です)。文庫本を1冊買った時に、店番をしていたおばあちゃんに聞いたのだが、答えは一言「23年」。23年前では有り得ないし、おそらく昭和23年と言ったのだろう。
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江戸通り(国道6号)沿いに<大江戸・大東京関係・相撲文献>の看板を掲げる「御蔵前書房」。近辺(蔵前橋北詰)には、1984年(昭和59年)9月秋場所まで蔵前国技館が存在していた。ここから現在地の両国に移転したのだ。
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店内奥の棚は相撲関連の文献が占有している。店頭の棚は壺がブックエンド。
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外観は右に傾いているが、店内もしっかり右傾斜。懐かしいLPが飾ってある(売り物?)。
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おばあちゃんとそろって店番をしている猫君。客が訪れると、すっと通路を空ける。帰りは邪魔して通せんぼ・・「買ったじゃない」と本を見せると納得顔をして通してくれる。
*撮影2007年7月(最初の1枚のみ)、残りは2009年4月。
*蔵前国技館の竣工は、1954年(昭和29年)9月。30年間にわたり大相撲のメッカであった。跡地は公共施設(東京都下水道局処理場と蔵前水の館)の敷地となっている。
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2013年09月28日

上野 唐十郎の下谷万年町の長屋(生家跡)

ダンディスト・・純白のスーツの襟元には血糊り・・右手には海釣り用の竿・・緩めたズボンからのぞく六尺ふんどし・・1983年(昭和58年)1月に決定・発表された第88回芥川賞を「佐川君からの手紙」で受賞した作家・唐十郎に抱いていたイメージです。
選考委員の一人だった安岡章太郎の評は「これは候補作中抜群であり、あらゆる意味で新人ばなれがしている。しかし、それはアタリマエで唐氏の奇才は劇作家として知れ渡っているからだ」・・さらに10年を遡った1970年代前半での劇団「状況劇場」を率いていた唐十郎への評価は・・「アングラ演劇の旗手」「天才劇作家」。今回は、さらに遡って戦前の「下谷万年町」の生家跡に。現在は消滅してしまったこの町名は、唐十郎の小説・戯曲によって知られているのですが・・・何処?
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万年町2丁目15番(旧表示)の唐十郎の生家跡・・正確には木造二階建ての家屋の先に見える白いビル(北側奥の塔屋がある下)の裏手・・以前は手前の長屋が連続して続いていたのですが取り壊されてビルに (右写真)ビルの裏手・・ブロックが積まれたこの位置が唐十郎の生家=長屋の玄関があった跡
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唐十郎の小説「下谷万年町物語」(昭和56年刊)の冒頭に、生家周辺の描写・・<上野駅と鶯谷の真ん中、山の手の谷中から言えば、上野陸橋大橋の下ったところ、そこに下車坂という都電の駅があり、そこから浅草六区に向かって一歩踏みだした辺りに、下谷万年町という変てこな名前の、江戸の頃から屑屋の寝ぐらで有名な長屋があって、ここに二人は住んでいた。>
唐十郎(本名・大鶴義英)は 1940年(昭和15年)2月11日に 九州出身の映画プロデューサーの大鶴日出栄の次男としてこの路地裏で誕生(母は東京出身) (右写真)同じ棟続き(だったと思われる)の長屋の玄関 *大鶴家の位置はこの長屋に撮影当時(2010年)にお住まいの方から「そこだよ」と聞いています 
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昭和19年 空襲が激しくなる直前に大鶴家は福島県大野に疎開 昭和20年 敗戦直後の焼け野原になった上野一帯でぽっこりと焼け残った下谷万年町の長屋に帰りつき 昭和21年 6才の義英少年は下谷区立の坂本小学校に入学 この焼け残った万年町には様々な人種が流れ込み住みつく・・闇屋・置引き屋・家出娘をだますスケコマシ その後にオカマの大群も 異端の道に踏み込む唐十郎の原風景がこの万年町にひろがっていたはず
昭和33年4月 明大文学部演劇学科に入学 演劇に没頭する学生生活をスタート 大学3年時に父親の作品の助監督を務めていた故・若松孝二と出合う(昭和43年公開の若松作品「犯された白衣」に主演) 昭和38年7月 「シチュエーションの会」(状況劇場の前身 昭和39年に改名)を旗上げ公演 万年町の長屋の2階を劇団事務所として使いながら 昭和39年 24才の夏に杉並区西荻窪のアパートに移ることに
(右写真)状況劇場の紅テント公演は新宿花園神社側の拒否にあうなど紆余曲折があったのですが・・現在は「唐組」旗が境内に高く掲げられてます
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この2冊は 数行の引用と巻末の年譜を若干参照 多くは昭和49年秋号「別冊新評 唐十郎の世界」(管理人の愛蔵している雑誌)を参照(ボロボロでアップに耐えられないのです)
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2013年09月18日

谷中 みかどパン・ヒマラヤスギと映画「初恋・地獄篇」 

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三叉路にそびえる大きな樹は、2006年(平成18年)11月に台東区の保護樹木に指定されたヒマラヤスギだ。このアングルから撮られた写真が度々、雑誌等に紹介されており、荒木経惟の写真集「トーキョー・アルキ」(2009年刊)の谷中・根津・千駄木の章では見開きページとして使われている。
今日では知られたポイントだが、映画「初恋・地獄篇」のロケで取り上げられたのが最初だと思われる。1968年(昭和43年)5月25日に公開されたATG作品で、監督・脚本(共同脚本・寺山修司)は、「不良少年」を撮った羽仁進。実の娘の羽仁未央(当時4歳?)がロケに参加している。この作品の撮影が行われた当時のヒマラヤスギの大きさに驚かされる。樹が無いのだ! 否、よく見ると有るには有るのだが、大人の背丈ほどの大きさなのだ。50年ほどでこれほどの巨木になるのだろうか。  
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孤独な少年シュン(高橋章夫)が、ヒマラヤスギの無い「みかどパン屋」の三叉路に立つシーンが印象に残る。「みかどパン屋」周辺で撮影された思案坂の石段シーンも印象深い。その石段脇の古井戸(個人所有)から玉林寺までの曲がりくねった細い道(道の真ん中に巨木が並ぶ)は都内屈指の散歩コースだ。映画の撮影は、1967年末から年明けにかけて行われたのだが、ロケハン中に羽仁組スタッフはこのコースを知ったのだろうか。映画はモノクロ作品。
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主人公シュンが見つめていた「みかどパン屋」の建物は、ヒマラヤスギが覆い被さり見えづらくなっている
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「みかどパン屋」の外壁に貼付けられている旧住居表示板 現在は谷中1丁目

 *撮影2008年10月
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2013年09月16日

谷中 作家・吉本隆明の谷中初音町への移転(作家・吉本バナナ生誕地)

1963年(昭和38年)7月、吉本隆明夫妻は6才の長女・多子を連れて御徒町から台東区谷中初音町4丁目に移転します。終焉の地となった駒込の家とともに(2010年7月現在)現存している貴重な吉本家の旧住居跡です。この地で、のちに人気作家となる次女・真秀子(=吉本ばなな)が、移転して丁度1年後の1964年7月に誕生します。吉本家は2階部分の全てにあたる板の間の台所付き和室3間を借りており、1階は大家のHさんの住居でした。
成長した真秀子(吉本ばなな)さんは、1987年(昭和62年)11月発表の「キッチン」で新人文学賞ほか各賞を受賞。1988年(昭和63年)5月より「TUGUMI」を雑誌に連載開始し、2作品とも映画化・公開されて人気・知名度ともにアップ、作家としての地位を築きあげます。「ばなな」のペンネームは、<ばななの花を見て、一人で泣きながら決めた>そうです(「B級BANANA 吉本ばなな読本」より)。
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   吉本一家が間借りした木造2階建てのHさん宅(中央奥右)2010年7月撮影
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(左写真)路地奥の左側に見える草地が上写真の空き地(現在はマンションが建設済)です
吉本家は更新時期が迫ると、この2階の間借り住宅から約1km離れた田端2丁目に移転してゆきます。現在、この移転先・田端2丁目の吉本家は紹介不可能なほど再開発工事が進行しており跡かたも無い状態です。
 参考 「吉本隆明の東京」2005年
    「B級BANANA 吉本ばなな読本」1995年
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2013年08月31日

大手町 逓信総合博物館(閉館)

大手町(1〜2丁目)で長期に渡る再開発計画の一環で、本日(2013年8月31日)をもって「逓信総合博物館」が閉館しました。サンケイビルの東側に建つ古めかしいビルで、閉鎖もほとんど話題にならずに忘れ去られてゆこうとしてます。
展示物のなかには国の重要文化財に指定されているものが数点あり、特に興味をもったのが平賀源内の「エレキテル」。展示はレプリカですが、博識・多才を誇った平賀源内の最高の偉業(?!)なのです。江戸期(1700年代)に静電気の実験(実験場所の石碑の写真を撮影して保存してありますが行方不明・・隅田川沿いの東岸のビルの敷地内だった)をしていたのですから。プロペラの発明・人形浄瑠璃などの作者・土用の丑の日(うなぎ)の宣伝コピー等々・・多岐にわたりその才能を発揮した英才の眠る墓・・白鬚橋近くの橋場2丁目にある源内の墓を訪れたのは、この「エレキテル」を見学した後(2008年12月)のことでした。
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逓信総合博物館の外観
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左写真は創業期の郵便旗 右は1887年(明治20年)制定の逓信旗・・〒マークは逓信(テイシン)のテの字からデザインしたものといわれてます 
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国の重要文化財に指定されている「エレキテル」(平賀家伝来)(左)とペリー提督の幕府献上品であるエンボッシングモールス電信機(右)(展示はレプリカ)
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かなり多数の展示品がありましたが割愛して数枚のみアップ
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                        右は2008年4月発行のパンフから位置情報

1902年(明治35年)に開館した郵便博物館を前身として、移転を重ねて逓信博物館と改称、1964年(昭和39年)に現在地にて逓信総合博物館(ていぱーく)となりました。2013年8月17日〜31日の期間で閉館特別企画と閉館セレモニーが催されていました。
2014年3月1日に再度、名称を「郵政博物館」と改称し、東京スカイツリータウンにて開館予定です。
郵政博物館(仮HP)http://www.postalmuseum.jp/
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2013年03月20日

日本橋 日本銀行本店

民主党が政権を掌握していた時代(反経済・円高デフレ容認の労組政権)が、本日を持って完全に終止符を打ちました。昨日、前任の日銀総裁・副総裁が退任し、黒田総裁と二人の副総裁の新体制がスタートし、名目だけでない実質的なデフレ脱却の量的緩和政策が確実に復活します。「2年間でインフレ目標2%」に即座に対応し、次々と積極的な金融緩和政策が実行に移されるはずです。今後100兆円規模のマネーが投入され、日経225平均は年内に2万円(ちょっと期待大)を目指し、不動産価格・価値の上昇が顕著になり、日本経済復活への明るい光が差し込み始めます。前政権時代の円高容認政策で、生産拠点を海外に次々とシフトさせた輸出関連大企業も国内に重心を移動させるでしよう。雇用も増加し、給与も上昇に向かうはずです。
新体制発足初の金融政策決定会合が4月3+4日に予定されてますが、もたもたすることなく連休前に臨時会合を開いて機敏な対応第1弾が発表されると予測(いつもの個人の希望)します。日銀本店の前庭で副総裁の一人(教授)の切腹(目標2%不可能なら詰め腹と表明)なんて見たくないし、その必要も無いことでしょう。
昨日の東証2部「コメ兵」(宝石・ブランド品販売)の株価は一気に10%を越える暴騰・・新体制への期待が象徴されてます(株式市場はいつも連想ゲーム・・気分はバブル先取りで「コメ兵」株が上昇・・TPP交渉本格化予想で海運・倉庫株が暴騰・・東京ドーム株が3日間で2倍近く急騰したのも不動産価格上昇の期待から)。
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日本株は4月から年内中に100%以上の上昇が予想されます(昨年11月から約4ヶ月で30%上昇)。管理人の証券会社の口座残高は確実に30%以上増加中、年内に日銀の強力プッシュ(株価下降は日銀+安倍政権が許さない)で倍以上にさせてくれるはず。個人の金(財産)は自らダイレクトに増やせる時代になりました(戦争が始まらない限り大丈夫)。更に証券会社の窓口の列は長く延びてゆきます。

新体制発足で(記念のつもり)・・・日銀の明治29年建造の本館(重要文化財指定)と少し後(昭和4年〜)の新館の写真をアップ。明治洋風建築の重厚なたたずまいが更に神々しく見えてきます。
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左右ともに日本橋の日本銀行本店の南側の正面・・日銀設立(開業)は1882年(明治15年)10月10日・・江戸幕府の金座跡地(金貨鋳造)に明治29年に本店本館が竣工(工期5年半=地上3階・地下1階))し日本橋北新堀町から移転してきました
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本館南側のゲート・・確か休日は閉じているはず 設計は辰野金吾(日銀各支店・奈良ホテル等)
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南門側から入った内側(中庭)の正面(左右とも)
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上と同じ
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右写真は南門を内側から・・意外と簡単なかんぬき(閂)です
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左写真は一見して当時の消火栓・・違います 明治の頃の運搬輸送手段は馬・・この中庭まで馬車が乗り入れていた為に馬の給水用水飲み場として設置
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左は西側(外堀側)からの本館(この1枚だけ2005年携帯で撮影・・他は全て2007年デジカメ撮影) 右写真は昭和4年から3回にわたり建造された新館(本館の東側)・・以下の写真も日銀通り側からの新館(地上5階・地下3階)です 右写真の後ろのビルが日銀の新・新館ビル
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2013年03月17日

上野公園 会席料理 韻松亭

会席料理「韻松亭」は1875年(明治8年)の創業。
パッと上記の時代がイメージできる方は尊敬してしまいます。
新政府軍VS彰義隊の戦闘で上野の山が焼け野原になってから7年目の創業。西郷隆盛・大久保利通は元気に東京の街を動き回っているし、あの桂小五郎だって生きていた時代です。本郷(現・東大構内)から大村益次郎(長州藩)指揮の官軍砲兵隊が、彰義隊が立て籠もる上野・東叡山寛永寺の広大な境内に向けてアームストロング砲を一斉砲撃。砲弾はうなりをあげて飛び交い瞬時に一帯は焼け野原に。現在の上野公園内の清水観音堂の扁額(絵です)の上にその砲弾が乗っかってます(飾ってある)。現在の正面口の交番横付近の黒門で激戦・・彰義隊は数刻で崩壊・逃走して散りじりに・・・それからわずか7年後の創業なのです。もちろん西郷さんの銅像より韻松亭(いんしょうてい)のほうが先に建っているのです。維新政府のお墨付きの店(上野公園建設は東京府の計画でその構想内の飲食施設)といっても言い過ぎではないでしょう。
店の詳しい情報はHPのほうで http://www.innsyoutei.jp/main.html・・「ぐるなび」とかでもチェックして下さい(いつもの手口)。
なにか他に紹介することは無いのかと問われそうなので・・実はこの店に行ったのは2回だけ(甘味の茶店は別にして)、ですがその2回で2回ともあの「電通」さん御一行と遭遇(下足番の所で名乗っていた)。会合とか接待の感じで(AKBメンバーがべったり寄り添って・・は無かったです)、皆さんタクシーで次々と到着。これが言いたかっただけ・・公園内ですが店の前まで車で乗り付けられるのでとても便利なのです。
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韻松亭の正面側・・建物左の1室が茶店(入口別) 玄関には下足番・・靴を預けます 看板には「御貸席 韻松亭」・・こちらが正式?
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玄関左に茶店というか「喫茶去」の入口 右は「韻松亭」内部の左奥の座カウンター席・・グループ用の和室も大小揃ってます
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料理はお昼のランチっぽいメニュー(夜よりは手頃です) 千葉から通っている管理人と同姓の仲居のSさんとお喋りして・・「結婚しても旧姓だかどっちだか分らなくて困りますね」なんてアホ話に上手に付き合って頂いて料理が更に美味しくなったのです かなり以前に(婦人服関係の)仕事絡みで夜に訪れて以来だったので・・印象は昼のほうが(室内が)明るくて緑の木々も窓越しに映えて・・次も昼です(キレイな女性と一緒に)
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いろいろと店の情報です
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韻松亭(左の竹垣)の周囲・・間もなく「桜」の季節 寄ってみる価値のある店です 右写真は茶店の玄関
上野公園の開園は1873年(明治6年)5月・・東京府公園として芝公園などと同時に指定を受けてます 西郷さんの銅像(高村光雲作・犬は別人の作)の除幕式は明治31年で韻松亭オープンよりはるか年月を経た後のことです
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以下は茶店の紹介画像です 靴も脱がずに椅子席中心なので手軽に利用できます
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2013年03月10日

六本木 歩兵第1聯隊(2・26事件)

2月26日未明の決起で、歩兵第1聯隊からは3班の部隊が雪の降り積もる営門を出発していった。第1班は栗原安秀中尉指揮の機関銃隊が首相官邸に。第2班は栗原中尉と同期(陸士41期)の丹生誠忠中尉指揮で第11中隊が陸相官邸・陸軍省・参謀本部の占拠に。そして第3班(湯河原班)は河野大尉指揮(計8名)で牧野伯の襲撃に。

1936年(昭和11年)
2月25日
夕刻 栗原中尉は演習用名義で機関銃隊兵器係助手に機関銃空包600発、みどり筒、発炎筒各40個及び拳銃を準備させる。
午後7時頃 陸相官邸占拠を担当する丹生中尉の聯隊居室に香田、村中、磯部、山本らが集合し協議。各自の部署等を決定。
午後8時頃 栗原中尉は林少尉と共に学科若しくは演習に名を借り第1中隊及び第10中隊から軽機関銃、弾薬匣(ハコ)各3個及び付属品を借り受け準備。
午後10時過ぎ、歩1の栗原中尉に面会を求め、常人(=民間人・・水上源一ら)と予備役下士官ら計7名(内予備役2名)が到着。歩1の機関銃隊内で4名に軍服を着せ、指揮の河野大尉に紹介し湯河原班を編成し兵器・弾薬を交付。
午後12時頃 栗原中尉は聯隊の兵器委員助手の石堂軍曹を機関銃隊将校室に呼び付け林少尉と共に拳銃をもって脅迫し弾薬の交付を無理に承諾させる。弾薬庫から小銃実包2万8千8百発、重機関銃実包3千3百7十余発及び拳銃実包3千2百発を持ち出して準備。
2月26日(水曜)
午前0時40分 所沢飛行学校の飛行12連隊附の河野寿大尉指揮の湯河原班が雇い入れてあった2台の自動車に分乗し歩1営門(正門)を出発。
午前2時30分頃 丹生中尉が第11中隊の下士官全員11名を集め決起趣意書を配布し、更に読み聞かせる。丹生中尉はその上で「決心ヲ云エ」と参加の有無を問い質す。全員参加を誓う。
午前2時30分頃 栗原中尉は内務班長の下士官8名を事務室に集合させて、昭和維新断行の為に首相官邸を襲撃する旨をつげて決起趣意書を読み聞かせる。
午前3時 丹生中尉が第11中隊に非常呼集をかける。
午前3時 栗原中尉は機関銃隊に非常呼集をかける。機関銃隊全員を小銃3ヶ小隊と機関銃1ヶ小隊に編成する。
又、丹生中尉の第11中隊に機関銃2ヶ分隊を応援に配属させる。
午前4時 丹生中尉の第11中隊が舎前に集合整列。丹生中尉は決心を下達。
午前4時30分 栗原中尉指揮(参加将校:林八郎少尉は当日の週番士官・池田俊彦少尉=無期禁錮)で機関銃隊が歩兵第1聯隊の営出発、首相官邸を目指す。栗原中尉指揮の機関銃隊に続いて丹生中尉の第11中隊も陸軍大臣官邸(陸軍省・参謀本部)を目指し営門を出る。
 *歩兵第1聯隊の週番司令・山口一太郎大尉は部隊出動を黙認している。山口大尉は東京軍法会議で反乱者を利した間接関与者として有罪判決(昭和11年7月29日)を受け無期禁錮刑。
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(左写真)中央やや右付近が歩兵第1聯隊の正門(=旧防衛庁の正門)(右写真)当時は塀が有りT字路 手前中央に市電「聯隊前」停留所があった 左後脇に龍土軒 撮影は2012年2月29日大雪の日
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歩兵第1聯隊の隊内に建てられた石碑(筆は陸軍大将・岡村寧次)東側庭園にある
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歩1の碑誌・・聯隊の概略が刻まれている 地図は昭和8年〜16年当時です
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まだ東京ミッドタウンの計画も無かった防衛庁時代(撮影は2003年6月14日)・・銃を携えた正門警備にビビッて正面写真無し 右前方の樹木が多い所が歩1跡
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現在の東京ミッドタウンの北側の芝生広場(高台で歩1時代は営舎が東南の向きに立ち並んでいた)・・東側の庭園(池)は低地で以前はよくある普通の出入り自由な檜町公園だった 北側の端に古いコンクリート壁が残っていたがそれも撤去されて遺構は皆無(篠山紀信事務所の向い側から赤坂方向)

2・26事件リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
「四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343167821.html
「青山 第1師団司令部・師団軍法会議と相沢中佐(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343499701.html
「渋谷 東京陸軍軍法会議臨時法廷・陸軍刑務所(衛戍監獄)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/343700967.html

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2013年03月02日

九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件) 

今回は、2月26日午前5時に一斉に決起した皇道派青年将校の指揮する各部隊が目標の襲撃を終えて永田町を中心にした国家中枢機関を占拠し緊張の内に夜営に入った時点からです。場所は翌未明に戒厳司令部が設置された九段・軍人会館で、そこを中心にした動きです。新聞記事の紹介が中心になります。

1936年(昭和11年) 
2月26日 
午前8時 内務省警保局が電話により各新聞社に事件に関する記事掲載を全面禁止通達。
午前9時頃 川島陸軍大臣が宮中に参内し事件を奏上。
正午 陸軍軍事参議官が参内。
午後3時 東京警備司令官・香椎浩平中将は第1師管に戦時警備を命令(決起部隊の占領地域も含む)。
午後3時20分 「陸軍大臣ヨリ」を告示。
午後7時 ラジオ放送が東京に戦時警備令の発令を知らせる。
2月27日
午前2時40分 枢密院が戒厳令の施行決定。
午前3時50分 帝都=東京市に戒厳令公布。東京警備司令官・香椎浩平中将が戒厳司令官に、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐が戒厳参謀に任命。当初の司令部は三宅坂。
午前4時40分 戒厳司令部より「戒作令第1号」下令。  
午前6時 戒厳司令部が九段・軍人会館に移動。
午前8時15分「戒厳司令部告諭第1号」発表。
午前8時20分 天皇が参謀本部から上奏された奉勅命令を裁可(発令は28日未明)
午前10時30分 九段坂上の偕行社に軍事参議官らが川島陸相と協議に。真崎大将に決起将校より連絡入る。
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九段坂下交差点南側の「軍人会館」(現在は九段会館)(右写真)北側駐車場側のホール玄関
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2月27日
午後2時〜3時(午後5時証言も有り)皇道派トップの真崎大将に2名の軍事参議官が同行し陸相官邸で決起将校と会見(栗原中尉・林少尉を除く)。軍事参議官3名は偕行社に戻る。  
午後4時 東京湾台場沖に海軍の戦艦「長門」を始めとする40隻の艦隊が終結し砲門の標準を永田町一帯に。
夜 決起部隊は宿営命令に従い各拠点に。本部は鉄道相官邸に設置。
午後8時30分 香椎中将(戒厳司令官)が宮中に参内し28日夕刻までの解決を奏上。
<27日、本庄侍従武官長は天皇に決起将校の精神だけでも認められないかと奏上してますが、「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス此(かく)ノ如キ凶暴ノ将校・・・」との返答。老臣らを殺害された怒りから徹底して「凶暴ノ将校」・・「暴徒」(川島陸相への返答)と言い捨てて繰り返し早急な鎮定を催促しています。>
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地図の軍事参議官らが拠点とした偕行社本部は軍人会館から九段坂を上った所 現在は道路向かい側の堀端に移った常燈明台が戦前はこの偕行社の前庭に設置されてました
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九段の戒厳司令部となった軍人会館(現・九段会館)の柱脇で直立して警備に当たる憲兵の写真はほとんどの2・26事件関連の書物に掲載されていますが右写真がその柱。左の新聞記事にも柱写真が載ってますがどうも別の場所っぽい?(柱左上奥の天井は同じよう)・・似たような意匠の柱が各玄関に存在してるので特定が難しいです。
続きの写真を全て見る
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2013年02月27日

内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)

2月28日に至って反乱事件は最終局面に差し掛かり、戒厳司令部では反乱部隊への武力討伐方針が午前中に決定、午後には決起将校が部隊の下士官兵に対し檄文を発し「皇軍相撃」が迫る状況に。

1936年(昭和11年) 
2月28日 
午後8時 香椎戒厳司令官(中将)が指揮下の各部隊に29日午前5時以降に攻撃可能にする準備命令を発する。
 同時刻に憲兵隊司令部(現・千代田区役所ビル東隣り)は中野・桃園町の自宅で北一輝を逮捕。
午後10時すぎ戦闘に備えて料亭「幸楽」(現・プルデンシャルタワー)の安藤隊が「山王ホテル」(現・山王パークタワー北側広場上一帯)へ移動。
午後11時 戒厳司令部(現・九段会館)「戒作命第14号」発令。29日午前5時までに攻撃準備を完了し、住民避難を行った後の午前9時を期して反乱各部隊への攻撃を命令。

2月29日 
午前3時すぎ、陸軍省新聞班の大久保少佐が偕行社(九段坂上)を訪れて軍事参議官らに下士官兵への帰順勧告文の作成・配布を提案。
 <朝、飛行会館の屋上より「勅命下る軍旗に手向かうな」と帰順を促す大アドバルーンが揚げられる>
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     昭和11年3月22日東京朝日新聞号外のアドバルーンの写真
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田村町交差点(現在は西新橋交差点)近くの日比谷通り沿いに当時と同じ場所に建つ会館ビル(交差点角の黒いビルの隣り・現在のビル名は「航空会館」)
飛行会館(6階建て)の屋上建屋(2階)の上にアドバルーンは括り付けられたという

午前8時 立川飛行場から「下士官兵ニ告グ」のビラを乗せた飛行機が出発。三宅坂周辺にビラ投下(宮城内堀に多く落ちて失敗)。反乱部隊のバリケード周辺では戦車でビラを撒く。
午前8時55分 戒厳司令部に反乱部隊の兵がラジオを聞いているとの情報が入り、即座に司令部内の特設放送室から中村アナウンサーが繰り返し「兵に告ぐ」をラジオ放送(原稿は大久保少佐)・・「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が・・・」。
午前9時30分頃より警視庁方面の反乱部隊から一部が帰順開始。
午後0時45分 反乱部隊将校15名の免官が内閣より発表(下の新聞号外参照)。
午後1時前 山王ホテルの安藤隊を除く部隊が帰順。反乱部隊将校は陸相官邸に集められる。
午後2時すぎ 陸相官邸で野中四郎大尉が拳銃自決。
午後3時頃 山王ホテルで安藤大尉が拳銃自決を図るが失敗。重傷を負い衛戍病院に搬送。
午後3時 戒厳司令部の午後3時発表の終結宣言・・「全く鎮定を見るに至れり」。
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「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html

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2013年02月26日

六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)

2・26事件に至る数ヶ月の間に、皇道派青年将校らが主に相沢中佐の軍法会議に関連した会合で使用した場所「龍土軒」に関してです。

1936年(昭和11年) 
 1月28日 第一師団常設軍法会議にて、歩41聯隊付き相沢三郎中佐の陸軍軍務局長・永田鉄山少将斬殺事件の初公判が開始。夜、龍土軒での第1次会合。歩1・歩3の中尉・少尉ら12〜13名参加。裁判傍聴の渋川善助からその模様を報告受ける。
 2月4日 夜、龍土軒での第2次会合。参加将校の顔ぶれが2・26事件の中心メンバーらになる。
 2月8日 夜、龍土軒での第3次会合。参加人数が極端に減少。憲兵報告では5名。
 2月10日 夜、歩兵第3聯隊週番司令室で歩3第6中隊長の安藤大尉、歩1聯隊付の栗原中尉、近衛歩3第7中隊の中橋中尉、所沢飛行学校の河野大尉、磯部元・一等主計らが集合し、決起の準備の申し合わせ。
 2月12日 相沢公判が初の非公開に(橋本近衛師団長の証人出廷)。皇道派将校に不満噴出。  
  <憲兵司令部作成「2・26事件の概況」に・・行詰りの状態を見るに至りましたる為、何等かの方法により之を打開せんとする焦燥的機運が醸し・・><一部青年将校は身を挺して之を排撃し以って公判の公正を期すべしとの強硬意見台頭し・・2月初旬以来不穏空気は醸成され・・>
   夜、龍土軒での第4次会合(*最終会合)。この会合で不満組が生じ、栗原中尉は20分で中座する。栗原や磯部は最初から公判と実力行使を区別しており裁判の行方は問題視していなかった故の中座。栗原・磯部を中心として中橋・河野らがこのグループ。 
 2月16日夜 衝撃事件発生・・週番司令の常盤少尉が午後11時に中隊下士官兵150名に非常呼集をかけ、駈足で警視庁東側に。一列横隊で「斉藤」「牧野」を連呼し銃剣で直突3回実行(銃剣で突き)・・相手は10日後に襲撃した重臣の名前。
   ・・・決起まであと9日。
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「龍土軒」の位置に赤丸付けました 店があった場所には龍土町ビル・・ビルの端に表示板が・・以前はありましたがビルもろとも撤去され何も残っていません 雪が降った2012年2月に再撮影に出かけたのです 撤去されたのは4年ほど前だったか?
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(左写真)かっての龍土軒の位置です (右写真)龍土軒前から市電「聯隊前」とその向こうの歩兵第1聯隊・・跡地には工事中のミッドタウン

フレンチレストラン龍土軒は地理的に歩1と歩3の間に在り、軍法会議の行われた第1師団司令部(青山1丁目)からの帰り道上にあたるため頻繁に青年将校らの公判の連絡・会合に利用されたのでしょう。2・26事件で名が挙がるのは迷惑のようで、もっぱら明治期からの文人のエピソードが店の「売り」で現在も西麻布1丁目の新店舗(ビル)で営業中です。クラブ「イエロー」のあった通りっていっても不明だろうな。
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*参考資料 主に「2・26事件研究資料U」1986年
      「昭和史発掘8」文春文庫  その他

「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監・私邸襲撃(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html

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2013年02月21日

銀座 うなぎ 竹葉亭銀座店

竹葉亭銀座店には戦前から文豪・文士の来訪が見受けられ、小説・随筆などに店名が残されています。
好物第1位に「鰻」を序してしまう管理人が、この銀座店を訪れたきっかけは(銀座方面では別の店か日本橋の「野田岩」に行ってしまうことが多かった)永井荷風の「断腸亭日乗」 断腸亭日記巻二十(昭和11年)の2月12日の記述を読んだためなのです。あの2.26事件の2週前に荷風散人58歳は銀座「竹葉亭」に食しているのです。これはこの店に行かずにはいられないと・・・これが最初。
「晴。燈刻尾張町竹葉亭に食して後茶館久邊留に憩ふ。」・・燈刻は燈のともる頃なので夕方。尾張町は銀座4丁目付近。竹葉亭の後はサ店でのんびり・・・荷風の流麗で簡潔な描写は日記でも随所に散りばめられております。日々の日記文章なのでより簡潔です。膨大な戦前から戦後に至る日記「断腸亭日乗」に共通しているのは何を食べたかなどは略してあり、店名さえ書かれておらず「銀座」「浅草」等の場所のみが多いこと。
この「竹葉亭」の3文字も、荷風が2.26事件の前後に何をしていたか調べている時に偶然見つけたもの。
この日記の2月26日には2.26事件のことが取り上げられており、事件当日の何時に都心の雪が降り止んだか・・雪はどのような降り方をしていたか・・の記述もあります。映画で描かれる雪のシーンのリアリティが試されてしまいます。竹葉亭の名はこの箇所だけでなく戦前の各巻に時たま登場してきます。
銀座店は銀座4丁目交差点の三越の南向かい側の超1等地で、しかも地下鉄出口の真ん前。雨の日でも傘いらずで玄関の扉を開けられます。最高の席(人によりますが)は2階(座敷席・靴を脱ぎます)の窓際・・4丁目交差点を見下ろして食事ができます。
 竹葉亭HP http://www.unagi-chikuyoutei.co.jp/ginza.html

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2006年12月撮影
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2階の座敷席・・窓際に座るため2番目に入店(高競争率です)・・お伴はばっさりトリミング(モザイクが顔だけではすまない=体型)
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数回訪れてますがきまってこの鰻丼A1890円+肝吸い210円ばかり・・2011年撮影
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最新の単価表はお店のHPでチェック要
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2013年02月19日

神田淡路町 そば かんだ やぶそば(火災で店舗焼失)

本日(2月19日)夜、午後7時20分頃に神田淡路町2−10番地のそばの老舗「かんだ やぶそば」(堀田康彦さん方)より出火、消防車32台が出動・消化、ほぼ2時間後の午後9時20分頃に鎮火したようです。店は営業中で、客と従業員合わせて40人ほどは避難しケガ人はいない模様。
普段はすぐ近くの老舗そば店「まつや」を訪れることが多く、たまには店内に響きわたる従業員のおばちゃん達の声を聞こうと思っていた矢先の火災発生。関東大震災直後に建てられた木造2階の店舗は確認してませんが使用不可能だと思われます。この一帯は太平洋戦争の米軍の空襲からも焼失を免れており、歴史的建造物が多く残っている地域です。

*ニュース速報で作成しましたので訂正する可能性あります。
 店舗所有者名は2007年1月撮影時点での表札からの名前です。
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やや細打ちで緑がかった独特のせいろそば 浅草の老舗「並木藪そば」も古店舗を取り壊して再スタートを切っているし、時間をおかずに再建されると期待してます。ってまだ鎮火して2時間しか経ってない・・・。


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2013年02月10日

浅草 阿部定の足跡 吾妻橋

阿部定は1969年8月27日公開の「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」(石井輝男監督・東映作品)というオムニバス形式のエロ・グロ映画に出演しています。芝居はかなり出演してますが映画はこれだけのようです。
「阿部定事件」のエピソードに本人自身がインタビュー(本編の頭より27分ほどの所と52分少し前の2ヶ所・・DVDでは予告編内の会見場でも登場)を受ける形で登場。和服姿の阿部定は当時64歳の誕生日を迎えてすぐくらいのはず(周囲の通行人は半袖なので撮影は5月以降?)だが、かなり老けてみえる・・・平成の時代の60歳代と比較するほうが間違っているのかも。主演の吉田輝雄にインタビューを受けるロケ場所は、まだ赤色にペイントされる以前の水色の浅草・吾妻橋(あづまばし) 。時々、視線を足元に落としながら返答しているのだが「阿部定の声」を聞くことが出来る貴重な作品となっています。この映画に出演当時は三ノ輪で「若竹」(おにぎり屋の看板を出す飲み屋)を経営( 1967年=昭和42年開業)しており、1年も経たない1970年3月に借金トラブルに巻き込まれて蒸発するように行方不明となってしまいます。

映画は「新東宝」の色彩が強い仕上がりで、グロシーンが苦手の方にはつらいものがあります。定役は賀川雪絵。他のエピソードは「東洋閣事件」・「小平事件」・「高橋お伝」など。史上最後の斬首処刑(明治12年・首切り浅右衛門に関連する処刑史で取り上げられる)となった「高橋お伝」に最も興味を持った作品なのです。墓は南千住の回向院にあるのだが、谷中墓地の供養碑の傍らにある処刑時の絵が強く印象に残っているために観たかった映画なのです。相当男(恋人)に未練を残し暴れながら首を打たれていきました。なんかお定よりお伝のほうに行ってしまいそうなのでここまで。
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(左写真)東岸からー白い橋桁の真上付近でインタビュー(右写真)画面左端付近で阿部定が立ち止まっていた・・炎のオブジェはもちろん当時は無し
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インタビュー位置から雷門方面 奥に地下鉄出入口の和風建屋=昨家・永井荷風がその前で写真を残している 撮影2005年〜2007年
 *渋谷・ハチ公広場向かいのツタヤで5年ほど前にこの映画のDVDをレンタル。


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2013年02月08日

浅草 阿部定の足跡 百万弗劇場

阿部定は、戦後の混乱もやや収まりかけた昭和23年に、劇作家・長田幹彦が主宰する劇団で自ら「阿部定」役を演じる。演目は「昭和一代女」。1936年(昭和11)5月に尾久の待合で起こした猟奇殺人事件を、自ら出演して浅草の芝居小屋で再現してみせる。地方巡業をこなした後、浅草の<観音寺裏にあった百万弗劇場>で上演開始(「阿部定正伝」では芝居を観た浅香光代のインタビューを紹介P315している)。そのインタビューでは、この劇場の場所を「観音様の裏手にあったんです」と紹介している。裏手? 観音様の裏手(浅草寺本堂の裏手=北側)って大きな浅草寺病院がある辺りかなと思い、戦後の火保図(火災保険特殊地図)で調べると、病院の東側に「百万弗ホテル」の記載がある。ホテルの付属らしき2つの建物もある。だが芝居小屋の記載はない。(現在、百万弗ホテルは痕跡もなく消滅している)
結局、「百万弗劇場」の位置は、興業街・六区のほぼド真ん中・・・せめて「観音様の隣り」と言っていたら迷わなかったのに。日本最大の歓楽街のその中心「六区」。映画館「キリン館」は「観音劇場」と名称を変えた後、戦後しばらくして「百万弗劇場」になっている。阿部定が舞台に立った場所は、「六区」メーンストリートにある「大勝館」の西隣りだったのです。実際の詳細地図での記載を確認できてないので推定です。
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(左写真)左の大きなビルの一画が「百万弗劇場」 跡地はいくつかのビルに分割されている 地番・浅草2−11の南側部分
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大勝館側から見た一画 屋上の塔が印象に残る歴史ある大勝館も解体更地に(2013年秋頃にドンキ浅草店ビル完成) 2012年末から「六区」メーンストリートはかってないほど変貌する

参考資料
「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html
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2013年01月27日

日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園

東京市荒川区尾久町4丁目1881番地の待合「満左喜」(まさき=正木志ち方)に、石田吉蔵と阿部定は1936年(昭和11年)5月11日の午後10時頃に赴いて同家に流連(連泊)、連日連夜に渡り情欲の限りを尽くす内に(1日にほぼ5回、合間に食事や睡眠)、5月18日午前2時頃、「突如遂に吉蔵を独占せんには同人を殺害するに若かずと決意し・・「さくら」の間に於いて熟睡中なりし、吉蔵の頚部を腰紐を二重に巻き付け・・」(判決文より)て殺害(窒息死)。殺害後も数時間、吉蔵の死体を「痴戯」しているうちに、午前5〜6時頃更に吉蔵の死体をも独占せんとして、その情痴の象徴たる局部(陰茎・睾丸)を切断。午前8時頃に待合「満左喜」から局部を懐中に収めて逃走。

 *1985年(昭和60年)12月13日号の「フォーカス」誌に突如として阿部定事件の警察撮影の現場写真が流失・掲載されました(無修正)。敷布の「定吉二人キリ」の血文字と左太もも外側の「定吉二人」の包丁による刻み文字、そして左上腕部の「定」の文字が初めて確認できました。局部周辺はモノクロ写真のため陰毛の影か血糊か判別のつかない黒っぽい影に覆われてます。写真は載せません・・グロいのは苦手です(エロいのは止せと言われても載せるのですが)。ネットで画像検索すれば見れます。

午前8時頃に1階に降りた阿部定は「水菓子を買ってきますから、昼頃まで2階の旦那は起こさないで」と女中に頼み、自ら電話をして満左喜と提携している呼び付けのタクシー(三業タクシー・運転手小林某)で待合「満左喜」を去って行きます。犯行発覚は阿部定の言葉もあったため午後2時半になった頃・・・阿部定30歳・・21世紀まで語り継がれる大猟奇事件の発生です。
待合「満左喜」を去ったタクシーは新宿に・・阿部定は伊勢丹の角で下車(午前8時半)し徒歩で新宿駅に。ここで円タクに乗り込み午前9時頃には松坂屋上野店前に。阿部定はここで逃走準備のため衣服を買い改め(小野古着店で着物・履物)、神田に宿泊(神田区淡路町2-8萬代家旅館)していたパトロンの名古屋・中京商業学校校長(市会議員)の○宮五郎氏(46歳)(尾久署で参考人として取調べを受けるが釈放・・とばっちりです・・新聞に実名どころかその出自も詳細に発表される)に電話連絡、神田須田町交差点の萬惣果物店前(現存・営業中)で待ち合わせる(午前10時)。落ち合った二人は日本橋の喫茶店に入るがすぐに昭和通り沿いのそば屋に移る(午前11時半)。定が食したのは天丼。そして正午頃、西巣鴨の「みどり屋旅館」に円タクで向かいます。ここで大宮と情交し(定は精神的に乗れずおざなりで1回))、金10円を受け取る。午後1時過ぎ頃、旅館を出た二人は又も円タクに乗り込み校長は本郷・壱岐坂で下車、定は一人で新橋6丁目に向かうのです。(時間経過は「阿部定正伝」は場所・時間の表現が違ったり記されていなかったりなので当時の新聞を参照してます)
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神田須田町交差点角の現在の万惣ビル 本店の果物店は変わりなく営業中 当時から有名店なので待ち合わせの場所に使われたのでしょう

新橋6丁目の中通りで阿部定は再び古着屋「あづま屋本店」(写真が新聞に載る)で衣服を買い変装を行っている(午後3時)。眼鏡まで買い求めているのです。この頃、午後2時半すぎになって待合「満左喜」では物音の聞こえないことを不審に思った女中が2階に上がり・・・絶叫!。
午後3時40分、浜松町方向に。発覚したことを知るすべもない阿部定は新橋6丁目の市電停留所前の寿司店で食事、食べきれない分を持ち帰りにしてもらい銀座方向に歩いて向かう。喫茶店コロンバンに入った後、再び歩き昭和通りに。
ここでやっと表題の「浜町公園」の登場です。昭和通りから円タクに乗った阿部定は「局部」を入れた紙包みと持ち帰りの寿司を抱えて浜町公園に入ってゆきます。この公園のベンチに座り寿司(海苔巻き)を食べながら4時間ほど黙然と「行く末」を考えていたようです。公園前の喫茶店で新聞で事件の確認をし、発覚していない事に安心して東京市内で泊まることに決してます。夜10時頃に浅草の旅館に宿泊・・そして阿部定は翌朝の新聞で自身が全国に知れ渡る犯罪者になったことを知るのです。
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現在の浜町公園は中央区により昭和55年6月に改修 関東大震災からの復興事業で敷設された公園で1929年(昭和4年)完成
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阿部定が何処に座ったかはもちろん不明 建設当時の設計図でベンチの位置は調べられるかも
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公園入口前のビル1階にカフェがあるが阿部定が新聞を見た喫茶店は不明 (左写真)のベンチに座り管理人は着物姿で寿司を食べる定の姿を夢想 (右写真)阿部定が翌日になり浅草の旅館で見た朝刊(東京朝日新聞かは不明)

翌日は日本中が阿部定の姿を探して「てんやわんや」(この表現久しぶりだがピッタリ)の騒動に。噂だけで銀座を通行止めにして捜査したり、横浜にも捜査本部が置かれたり、高飛び説を説く新聞。神田や日本橋、いや東京駅にいたという目撃情報が乱れ飛ぶ。芝の喫茶店では遂に定が捕まったとのデマに愛宕署員が急行。大阪・難波駅では怪しい女が苦悶・逃げ足で立ち去る・・・ついに新聞の見出しには自己批判の「お定の影を追うナンセンス」。こうして「阿部定」の名は日本中に喧伝されたのです。


「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html

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2013年01月25日

谷中 宗林寺 京都見廻組・佐々木只三郎の供養碑 

1868年(慶応4年)1月6日、京都見廻組与頭・佐々木只三郎は、京都南方の橋本〜樟葉(くずは)間での新政府軍との戦闘で銃弾を浴び重傷を負う。幕府軍は総崩れとなり大阪方面に退却。この夜、徳川慶喜はいち早く会津藩主・松平容保らを伴い、大阪天保山から幕府軍艦で海路脱出している。1月7日の段階で幕府軍は解体状態に陥ってしまう。
1月8日朝方から、一部の敗走する幕府軍が和歌山に到着し始める。新政府軍に恭順の意を表している紀州徳川家は、城下で救助の手を差し伸べるわけには行かず、城下から離れた東方の紀三井寺村付近で糧秣の配布を行っている。1月9日には新政府軍の先遣隊が大阪城及び市中を制圧。佐々木只三郎は1月8日頃までは生存していたようで紀三井寺の近辺で死亡している。由良という小さな漁村付近で、1月12日に死去したとの情報も残されている・・・。遺骸は、紀三井寺に運ばれ、本堂の裏山に葬られた。

1974年(昭和49)、紀三井寺で佐々木只三郎の墓碑が二つに折れた状態で発見される。上部部分は100mも離れた草むらから発見されている。1976年(昭和51)に改葬式が行われ、折れていた旧墓石は修復され、会津若松市内の会津武家屋敷内に安置される。旧墓石から忠実に再現された新墓が、紀三井寺の裏山墓地の同じ場所に建てられている。2004年(平成16)になって谷中・宗林寺(しゅうりんじ)の墓地内に佐々木家により供養碑が建立される。
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谷中・宗林寺の東方向に開いた門
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佐々木只三郎の戒名「賢浄院殿義岳亮雄居士」が刻まれた表面 右に佐々木高城=只三郎 左に実弟・佐々木高嶽=源四郎の名が並記されている
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(左写真)裏面の下側に「高城 妻 津」・・・只三郎の妻の名

*参考資料
 「京都見廻組秘録」洋泉社2011年刊
 「京都見廻組史録」新人物往来社2005年刊
 「会津戊辰戦争写真集」新人物往来社2002年刊
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2013年01月22日

浅草 ビートたけし 第二松倉荘跡

「第二松倉荘は浅草三丁目の、言問通りから千束通りにちょっと入った、富士銀行の裏手にあった」(「浅草キッド」新潮文庫P90)
ビートたけしが芸能界に入るきっかけとなった浅草のストリップ劇場「フランス座」の下積み新人時代に住んだアパート「第二松倉荘」・・ビートたけしの原点でありスタート地点でもある浅草での二つの記念碑的建物のひとつ。この「第二松倉荘」は現在は先述の「富士銀行」とともに解体されてます。もうひとつの「ストリップ劇場」のほうの建物は健在(ストリップ興行は廃止)。富士銀行の前身は安田銀行・・といえば簡単そうだが、この浅草3丁目の言問通りには少し前まで後身たる「みずほ銀行」が100mと離れていない場所に2行が並ぶように存在していたのです。「さあ、どっち?」状態に陥ります。現在、旧第一勧銀の「みずほ銀行」が生き残っており、旧富士のほうは再開発されて大きなMSに・・・しかし、「第二松倉荘」があった敷地の向かい側に旧富士銀行時代の駐車場が残されています。「浅草キッド」の文章に基いて調べ始めると現在、残っている旧第一勧銀の「みずほ銀行」につい誘導されてしまいます。ちょっとしたミステリーのトリックです。
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「言問通りから千束通りにちょっと入った・・・」ちょっと入った千束通りのここを右折 (右写真)左奥に旧・富士銀行の駐車場が見える
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自動車回転板の位置に4階建てアパート「第二松倉荘」があった 1階は駐車場への出入り口で2階の空き部屋にたけしはもぐり込めた(1973年たけし26歳)のです (右写真)再開発で設置された敷地表示板=二重丸の位置が「第二松倉荘」
「玄関から二階への階段を上ったすぐの、管理人室のとなりの三畳間だった」(「浅草キッド」)。このアパートは浅草フランス座を経営していた東洋興業が建てたもので、社員やフランス座の従業員・踊り子たちの社員寮として使用していたのですが、たけしの入居した頃は興業街とは無関係の一般人がほとんどだったようです。
「浅草キッド」の第7章「いのうえという昨家志望のやつが入ってきた」の冒頭に「第二松倉荘」への移転の経緯が記述されており、井上雅義氏との交友も描写。井上雅義「幸せだったかな ビートたけし伝」2007年刊・白夜書房に「第二松倉荘」の貴重な写真一葉掲載有り。
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地図は当時、たけしと関係があった箇所を赤文字で表示 (右写真)「小料理ふみ」跡・・たけし談「4人でいっぱいの店」・・かなり以前、バラエティ番組でたけしが軍団を引き連れてこの店を訪れていたのを見たことがあります。尚、たけしがよく訪れていた「捕鯨船」は地図で赤丸の場所で営業していた時代の話。現在は一等地(六区通り)に移転し繁盛してます。
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「捕鯨船」旧店舗跡 撮影時は空テナント(右写真)「花やしき」近くの治安が悪そう(?=近くの路上に数人倒れていた)な路地のフェンスに古い地図板=旧・捕鯨船の場所が判りました(店に聞けばすぐわかるのにね) 昭和52年開店〜平成12年に移転
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現在の「捕鯨船」(17時開店) 平成12年に六区通りの中ほどの場所に移転 店はテレビ番組で度々紹介されており観光客も来てしまう人気の魚介系(鯨)居酒屋に (右写真)「捕鯨船」のまん前にある六区通り名物の芸人プレート(赤丸の所)には「予約済み」の文字が・・・もちろんビートたけしが故人になればここに名前が記されます  *予約プレートの背景にネットを被った古ビル=大勝館(六区最後の興業館)は解体され現在(2013年1月)更地です 今年12月に新ビル完成予定でドンキ浅草店(仮称)がオープン たけしのいたフランス座は大勝館の画面左(元は三友館)隣りです 
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たけしの予約プレートの裏側には「でん助」のトレードマークのメイク顔 そのうち後頭部に「でん助」のお面を貼り付けて<死後>のギャグやってほしい(すでにやったかどうかは不明)

年表は「コマネチ!」(1998年刊・新潮文庫)の巻末「おいらの自分史」を参照。

「四谷 ビートたけし・バイク事故現場」http://zassha.seesaa.net/article/74282035.html

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2013年01月14日

神田 阿部定の足跡 出生地と小学校

阿部定は取調べで生い立ちから逮捕までの経過を詳細に供述しており、その記録が後年になり世に出回りました。その「予審尋問調書」を基礎資料として、さらに当時の新聞報道などを追加参考資料としてポイントとなる地点を「阿部定の足跡」と題して取り上げてゆきます。ですが、何分にも素人の趣味の範囲なのでミス等多々あると思います。(先に陳謝しておきます・・これで気楽)

今回は「予審尋問調書」で述べられた、出生から幼年・少女時代までの写真です。その「予審尋問調書」は何処にあるかというと「阿部定手記」1998年刊(中公文庫)に収録されております(文庫本なので手軽に入手できます)。
第1回尋問調書から・・・被告人名の次に「本籍 名古屋市東区千種町通7丁目79番地」「出生地 東京市神田区新銀町19番地」の記載。出生地の地番はもちろん旧表示で新銀町は現在、神田司町と多町の一部がそれにあたります。手書き地図に旧の地番を所々載せました。
阿部定の学歴については「東京神田尋常小学校」(現在の区立千代田小学校)を卒業。調書では「卒業してからは家庭に先生を呼び習字を少し習いました」と簡単に述べてます。畳屋「相模屋」の主人・阿部重吉と妻カツの末娘として新銀町に生まれた定は、小学2年位から三味線を習い始め、以降在学中、夢中になるほど打ち込みます。家業の畳屋は常時6人ほどの職人が働いており、多忙期には10人〜15人ほどまで雇い入れていたと証言しています。その職人らから男女の話を色々と吹き込まれ、10歳くらいで性的な事は理解していたと述べ、更に15歳での初体験から16歳の暮れから月経が始まったことまで調書には記されています。
15歳(数えなので14歳)の夏に、女友達の福田ナミ子宅でその兄の友人(桜木という慶応の学生)と2階でふざけているうちに初体験・・・猟奇的事件の裏付けを取るためか調べは性関連を重点にして積み上げられてゆきます。その後、16歳の4月に芝区聖坂のお屋敷に奉公に出されますが、その家の娘の着物や帯を勝手に持ち出し浅草で憂さ晴し、見つかったあげく初めての警察沙汰に。17歳の春、親は家業の畳屋を廃業して神田の家を売り払い埼玉県坂戸町に定を連れて移転します。ここで定の生まれ故郷は消滅・・・以後、長い流転の人生が始まって行くのです。
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新銀町19番地と思われる地点 道路の向こう側左の区画 手前の路地は当時ありません (右)左のビルが神田尋常小学校跡 100周年記念で建てられた「神田の子」像(名称は不明)先の道路を右折した所が阿部定の出生地と想定した地点
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現在の千代田小学校の玄関は西側の路地に 反対側の東側路地に「神田小学校」名が記載された100周年記念像 西側は旧表示の地番が細かく記載(民家があった?) この像がある側に当時の木造校舎はあったものと想像します 「神田の子」像は下の地図の赤丸の位置
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阿部定の足跡 坂本町の長屋跡http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
阿部定の足跡 星菊水http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
阿部定の足跡 篠山・京口新地http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html


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2013年01月13日

上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡

「上野 阿部定の足跡 星菊水」 http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
上記アップ分の勤務先「星菊水」と対をなす住居篇です。

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右の白っぽいビルの位置に3棟の戦後に建てられた木造長屋が奥に向かって軒を連ねていました・・おそらく最も奥側の長屋に住んでいたものと推定(下の地図参照) 幅広の言問通り側は建物が連なり通路はなく塞がれており、出入り出来るのはこの細路地側のみ (右)中央のビルの真下が阿部定の住んだ長屋だった(昭和29年頃〜約10年間)
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左のビルのガレージ部分が布袋湯の位置 奥が北方向でやや左奥に小野照崎神社 (右)写真が神社正面鳥居下・・出勤前にここで社殿に向かって手を合わせていました
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阿部定が午後3時頃に連日通っていた銭湯・布袋湯(ホテイユ)は北隣りの旅館とともに解体され、現在はビル(MS)に建て替ってます。 布袋湯の真向かいの阿部定の長屋に注文を取りに来ていたクリーニング店もビルにとってかわられてます(推定)。阿部定は都内最古の3階建てアパート「鶯谷アパート」の前の道路を銭湯に通うために往復していたと思われます。玄関には美しいタイル模様が現在も残っています・・・阿部定も飽きるくらい見ていたはずです。(「阿部定正伝」でインタビューを受けた内の一人の方がこのアパート住まい)
銭湯からひとまず長屋に引き上げて、身支度を整えてから夕刻になると「星菊水」に出勤するために自宅を後にしますが、直接向かうことはなく北方向にある小野照崎神社の鳥居前で手を合わせてから、その場でタクシーを拾う・・・これが10年近く続いた日課とのことです。尚、帰宅時間は22時前後だったとのこと。「星菊水」を辞めて暫くして「若竹」を開店するまで、この坂本町の長屋住まいが続きます。

「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html

参考資料
 裁判予審調書
*主なる資料=「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局
 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」)
「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」)
 その他
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上野 阿部定の足跡 星菊水

荒川区尾久町四の一八八一待合「まさき」(正木しち方)の2階「さくらの間」にて1936年5月18日午前2時頃吉田屋主人・石田吉蔵を殺害(窒息死)、死後もなお独占(夫人らから)する為に牛刀を以って吉蔵の陰莖及び陰嚢を切取り、右上膊部外側に自らの名「定」の文字を刻み込む。さらに傷口の血を指につけ吉蔵の左大腿部に「定吉二人」、白敷布にも「定吉二人キリ」の血文字を書き残した上で、切取った陰莖及び陰嚢を持って午前8時頃に逃走。5月20日になり品川駅近辺(品川館)で逮捕。1936年11月24日より公判が開始され判決は懲役6年。主な服役先は栃木刑務所。1941年の皇紀紀元2600年の恩赦で出所。戦後もこの特異な事件は忘れ去られることなく「阿部定」の名は人々の記憶に刻み込まれたままに。
戦後、阿部定は各地を転々とする中で好奇な眼にさらされ続けますが・・・昭和29年(28年?)になり、現在の上野・稲荷町の近くの割烹「星菊水」(閉店)で初めて永続する(約10年間)仕事に就くことが出来たのです。
入谷(旧坂本町2丁目)から定が通い続けた「星菊水」・・・勤め先・住居の場所は一般にはほとんど知られていません(ネット検索しても不明)。昭和34年8月19日に、定は「星菊水」での精勤が認められ東京料飲組合から優良従業員として表彰されてます。「週刊現代」の該当号(昭和34年9月13日号)には表彰を受ける阿部定、そして住居(長屋2階)での本人の写真までも掲載されているのです。
当時の話を聞こうにも長屋のあった付近はほとんど高層ビル・MSに建て替えられており、地域に詳しい方も入院中(加藤炭店の方)だったり・・・坂本町2丁目の住居の特定は難しいですが約30m四方の圏内までは絞れてますので別項としてアップします。
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(左)写真中央の茶色の建物が割烹「星菊水」跡 (右)は大通り=浅草通りから路地奥方向
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路地に入る角・・阿部定はほぼタクシー通勤だったのでここで降りていたはず(推定)
「星菊水」での勤務を続ける中で阿部定に独立のチャンスがめぐってきます。上野の国際通りにバー「クィーン」を開店・・半年後には台東区竜泉でおにぎり屋「若竹」を開業。すでに阿部定は60歳を過ぎた年齢に達しています。

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
       「星菊水」に勤めていた当時の阿部定の住居篇です。
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html

参考資料
 裁判予審調書
「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局
 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」)
「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」)
 その他
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2013年01月08日

六本木 cafe FRANGIPANI(前田敦子が座った席に・・・)

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真後ろがテレビ朝日(スタッフ通用口兼搬入口のある側) 前方の止まれの通りが芋洗い坂
左側がカフェ・フランジパニ 小奇麗にキッチリときめてなくユルイ感じが良い・・・けやき坂下のツタヤ+スタバが混んでいる場合はこの店を利用(逆も有り)・・ここでは食事をする機会が多いのですが、カレーかオムライスを注文することがほとんど(ソースは変えるけど)・・メニューは豊富です(南十字星をイメージすれば料理が思い浮かぶ)
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店の奥のスペース写真2枚 奥の壁際でPC使用しても電波状態(wimax)は良好(電源コンセント無し)・・店の方に頼めば家庭用タップコードを使わせてもらえます 親切でサービス良好(基本はほっといてくれるので◎)

・・・・で 前田敦子が何処に座ったかというと・・・入口の近くの緑色のワーゲン(車)に接したテーブル席(壁側の椅子)。下左が前田の目線・・右写真は真っ直ぐ前を見た感じ・・SDN48の佐藤由加理が向かいに座っていた
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この店での収録の模様はhttp://www.youtube.com/watch?v=XCUT83Ln4VU(ユーチューブ)で見れます 前田の座った席からの写真4枚(携帯ばかりいじっていて周囲は余り見てないけど)・・以前、韓国の人気グループが店内で撮影をしたようでファンが休日に訪れてくる=ワーゲンの中の席が人気!・・・前田のファンは知らないみたいで来ないみたい・・・
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右を見るとガラス窓越しに路地 上を見上げると車の上に変な奴が・・・

 港区六本木6-8-21 六本木眞興ビルSK六本木ハイム1F 
 11:30〜25:30LO
 無休
続きの写真を全て見る
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2013年01月02日

日本橋 フジTV女子アナ・三田友梨佳(ミタパン)の実家料亭

昨年(2012年)の10月3日で終了したフジテレビの深夜バラエティ「ミタパンブー」で、制服フェチの視聴者を釘付けにした同社の女子アナ・三田友梨佳(ミタパン)・・航空会社の制服も良かったが、なんといってもミニスカのセーラー服姿が圧巻だったのだ。女子アナ人気ランクのトップは別の女子アナに譲るが、管理人の一推しはこの人。その彼女、都内でもトップクラスの老舗料亭の娘さんで、話は江戸初期の徳川家三代将軍家光の世まで遡ってしまう・・ので省略する。料亭の名は、懐石・会席料理の「玄冶店(げんやだな)・濱田家」。現在地での料亭としての開業は大正元年から。2007年度のミシュランガイド東京版で、料亭としては初の三つ星を獲得している。また三田家は、都内屈指の大劇場である明治座の経営にもあたっている(現社長は実父・三田芳裕氏)。ミニスカ・セーラー服でそこらをうろつくことなど許されない(!?)お家柄なのです。
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人形町交差点の信号から東に少し行った付近・・大通り側からは料亭の一部しか確認できない 北側の路地に玄関がある
この地は江戸初期(明暦年間)までは遊郭「吉原」が置かれていて、その名残りの通り名が現在まで伝っている。「大門通」が濱田家の東側に接している(江戸初期の吉原の北端辺り)。明暦の大火で一帯は焼き払われ、以降は新吉原と呼ばれる地(浅草の北側)に幕府の主導で移転した(元吉原と称されるのがこの日本橋人形町2丁目一帯で、移転した先は新吉原という呼称)。
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料亭周辺の撮影は2010年6月 その頃のミタパンは青山学院大学4年在学中・・・この日は静まりかえっており人影はなかった
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      人形町交差点にある「玄冶店」の石碑と説明版
昨年12月31日午後3時の受け渡しで終了した「濱田家特製おせち料理」の値段は、大三段重で126.000円(税込)。1万〜2万の有名デパートのおせち料理が安物に見えてしまう。
青山学院高(高3の時に1年間シアトルに留学)から青学大国際政治経済学部に進学。大学時代は実家の濱田家で着物姿でバイトをしていたそうだ(「週刊文春」7月26号参照)。2011年4月にフジテレビ入社。女将は母親の啓子さん・若女将は巳恵さんだ。

濱田家 http://hamadaya.info/
フジテレビ・三田友梨佳 http://www.fujitv.co.jp/ana/mita/index.html
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2012年09月12日

麻布十番 元AKB・前田敦子の「カラオケ合コン」現場

「週刊文春」2012年9月12日発売号で、元AKB前田敦子とAKBメンバー大島優子・仲川遥香の3人が「カラオケ合コン」スクープされた麻布十番の現場カラオケ店です。
当初は新宿が現場なのかと思いましたが、写真集発売イベント終了後にスタッフと新宿から六本木に移動し、出版社関係者・秋元氏らをまじえての打ち上げが行われたようです。23時30分頃に打ち上げ終了・・・あっちゃんは麻布十番に独自に移動しカラオケ店に入店・・という流れだったようです。大島ら5人とここでおち合ったのかは不明ですが、仲川遥香の当夜(9月4日)のググタス更新時間の23時には自宅(自分の部屋か前田の部屋かは不明)に帰りついていたという内容を信じると、24時くらいにこの場所に集合したと考えられます。JKT48の仲川遥香(プロダクション尾木所属20才)はメンバーのなかで最も前田とべったりで(高校時代から同級)、最近は前田の部屋にいることが連日のようだったようです。
27時10分(午前3時すぎ)頃にカラオケ店前で写真を撮られたので約3時間の「カラオケ合コン」(男女3対3)。・・・この前後は週刊文春のコピーになるので省略。男の素性や大島優子の行動については文春誌上でチェックしてください。それにしてもあっちゃん遊び慣れてないようで・・十番や西麻布などで夜遊びするとボロボロにされそう。大島と元はるごんはお付き合いしたという感じで酒もそれほど飲んでないようです。
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   あっちゃんの宣伝ボードと「るろうに剣心」が仲良く並んでいる・・偶然発見
   右は公開中の映画館で・・主演・佐藤健(たける23才)とヒロイン・武井咲
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   1階はカフェレストランで2階がカラオケ個室 バスルーム・トイレ付きの個室も有り 
   右は2階のカラオケ個室からの非常階段 あっちゃん泣きながら佐藤とズリズリおりる
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    週刊文春グラビアページ・・泣きべそのあっちゃんと大島優子がこの場所に

 *「AKBメンバー週刊文春にスクープされたカラオケ店」の修正・写真追加です。
「週刊文春」2012年9月12日発売号を参照してます。記事冒頭で再び誇示するように「文春はガチ」宣言してます。他のメディアではまずAKBの裏やマイナス面を発表できないので・・テレビでは一言足りと話題にさえしてないのでは・・・映画「るろうに剣心」これでますます増収確実!
「元はるごん」こと仲川遥香は前田の世話で明け方まで大変・・翌日昼にはあきちゃと寿司ランチ、元気者だ(実パパが元プロレスラーのせい?)・・JKT行きもからんで運営側の点数もアップ・・名前も売れたし、待遇アップも期待出来る。

だけど同日発売の「週刊新潮」のAKB記事はお粗末。ネットにかなり以前から転がっているネタをコピペしたような内容。「48」のイワレなど検索すると腐るほど出てくる。せめて「48」の取締役I氏の父君のビルの話題でも書けば面白いのに(これもネットに転がってるけど)。シリーズ記事のようなので、これから「48」暗部にまで迫ってゆけるのでしょうか。「シュシュ」とか「ダイヤモンド」(曲のタイトルですぐ想像できる)・・西麻布のI氏の関連ビルに入居していた(今もしている)お水系の店名・・秋元氏もこの頃出入りしていてイメージが強く残っていたのでしょう。総選挙のアイデアもキャバ嬢・ホステスさんの指名獲得数競争からのヒントを得たといわれている。このビルの前通ると「大声ダイヤモンド」の珠理奈の「麻里子様〜!」と叫ぶ声が管理人には聞こえてくるし、海老蔵のK連合に追われてI氏の関連ビルの非常階段から逃げおりる姿も浮かびあがってくる。そういえば、あっちゃんと一緒だった佐藤健もこのビル内の店の常連だよという声も・・・。
 *「シュシュ」は現在も営業中。「ブラック・ダイヤモンド」は閉店。「48」経営のとんかつ屋(「いまかつ」)が、六本木の松井玲奈所属の事務所(泣く子も黙るバーニンググループ)の向かい側奥で営業中(ランチもやってて合格点です・・管理人2回食事にいってます(黒基調の内装で落ち着く)・・食べログとかに載ってるけどAKB関連とは知られてない)。

 六本木 cafe FRANGIPANI(前田敦子が座った席に)     http://zassha.seesaa.net/article/312086837.html
*臨時:interval(写真日記7月23日 本日発売の「週刊文春」はスルー)(前田敦子交通事故現場)http://zassha.seesaa.net/article/422883782.html
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2012年08月10日

三ノ輪 浄閑寺門前 写真家・荒木経惟(のぶよし)の実家跡

三ノ輪の浄閑寺門前、父親は下駄職人荒木長太郎、母親はきん、7人兄弟の5番目として1940年(昭和15)5月25日にこの地でアラーキーは出生。
経惟(のぶよし)と命名したのは道路を渡った東側の浄閑寺の住職。旧番地で14番(角)か15番(やや入った所)の表示位置に、黒い鼻緒の大きな下駄を看板代わり貼り付けた2階建ての木造銅板ぶきの履き物屋があった。そこが生家の「にんべんや履物店」。

「にんべんや」の店前の道路中央でカメラを首から提げた帽子にサングラス姿のアラーキーが突っ立ているポートレイトが写真集に収められている。
早速、おなじ位置にでかけて近所のおばちゃんに頼んで空間合体写真。アラーキーの足元には当時マンホールは無かった・・・位置決めが難しい。
もちろん「にんべんや」は解体されていて現状は駐車場。
デジカメ構えるおばちゃんの後ろには浄閑寺の山門が見える。永井荷風がのっそりと現れそう。アラーキー氏の写真集には、荷風の「墨東綺譚」にアイデアを得た「墨東エロス」(1994年 モデル水島裕子)がある。

1977年8月に「にんべんや」は空き家に。
1978年、37年間暮らした三ノ輪の地を去り、狛江に転居。
  荒木経惟オフィシャルサイト http://www.arakinobuyoshi.com/main.html

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この地図の浄閑寺のすぐ近くに昔、知り合いの女が住んでた。いまでも表札は昔のままの苗字。S・Tさん。・・・アラーキー・荷風・数万人の遊女の死・・・濃密な空間です。
 
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)居住MS  http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
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2012年07月25日

押上 東京スカイツリー

高層ビル等による電波障害に対応するために、東京タワーの代替としてより高度を増した設計のテレビ電波送信塔が今年、墨田区の押上地区に完成しました。
ですが、当ブログの管理人は埋立地と鉄塔にはほとんど興味を抱かないためスルーです。
眺めている分にはいいのですが昇る気には全くなりません。先日、大阪でビリケンさんの足裏が擦り減って新品に交換されましたが、交換前に先代(2代目)を写真に撮ろうと通天閣の下まで行くもののどうでもよくなり中止(ビリケンさんは展望台に設置してあります)。埋立地や鉄塔などはいつまでたっても気分がどうも乗らない状態が続いてます。

で、写真はまだ鉄塔の工事が開始される以前の元の姿です。かえっていいかな? 撮影2006年
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      旧名・業平橋駅のホームから              業平橋の上辺りから
   敷地になった写真の風景はまったく残っていません。駅名も変更されました。


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2012年01月17日

日本橋小伝馬町 東野圭吾・小説「新参者」の同名銀行トリック

東野圭吾の小説「新参者」の舞台となった日本橋人形町一帯ですが、都心部の新陳代謝は激しく、小説刊行前にすでにトリックのアイデアに使われたビルから肝心の銀行が移転してしまいました。
刊行後に舞台となった場所を訪れてみても、なんだフィクションだったのかという状態です。
実際に明確にふたつの銀行が記入されていない地図を渡されたら、「あれっ、どっちの角だよ?」と迷われてしまいます。小伝馬町交差点から見ると三菱東京UFJ銀行の目立つ縦長の赤い看板が視界にふたつ重なるようにあったのですから。

東野圭吾「新参者」<第5章洋菓子屋の店員>より(ハードカバー本180頁より抜粋)
<加賀は上着の内ポケットから一枚のコピーを出してきた。簡単な地図が描かれている。小伝馬町の交差点近辺だとわかった。
 「何ですか、これは」 「藤原さんはあなたたちを目撃した後、青山亜美さんが働いている店の場所を三井さんに教えたわけですが、その時にこういったそうです。小伝馬町の交差点から人形町に向かって歩いていくと、左角に三協銀行のある交差点に出る。そこを左に曲がったら、銀行のすぐ隣に喫茶店がある。弘毅さんの彼女は、その店で働いているらしい。この説明を聞いて、どう思いますか」・・・略・・・「たしかに間違ってはいません。その時点では」「どういう意味ですか」
「藤原さんがあなた方を目撃したのは三月の初めです。その二週間後、三井さんは初めて小伝馬町を訪れています。そして藤原さんにいわれた通り、人形町に向かって歩きました。ところがここで大きな間違いをしてしまうんです。藤原さんのいった三協銀行があるのは堀留町の交差点なんですが、そのふたつ手前にある大伝馬町の交差点にも、同じ名前の銀行があったからです。三協大都銀行ー御存知の通り、三協銀行と大都銀行が合併したものです。この合併が行われたのは、藤原さんがあなた方を目撃した直後でした。わかりますね。その時点では、大伝馬町の交差点にあったのは、大都銀行だったのです。ところが合併があったために、三井さんが行った時には三協大都銀行に変わっていました。これでは間違えても仕方がありません。三井さんは、その角で曲がってしまったんです」・・・略・・・「まさか」「その、まさかなんです」加賀はいった。「大伝馬町の銀行の隣にも、そういう店があるんです。厳密にいえば喫茶店ではなくケーキ屋さんですがね。・・・>

銀行名は仮名が使われてますが実際に存在してました。堀留町にある「三協銀行」は旧UFJ銀行、大伝馬町の交差点にある「大都銀行」は旧東京三菱銀行のこと。角をまがったところの喫茶店・ケーキ屋はトリックのための創造物で実際のモデルとなる店はどちらにも無くオフィスビルが連なっているだけです。
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2006年(平成18年)1月 「東京三菱銀行」と「UFJ銀行」が合併し「三菱東京UFJ銀行」となる。
ー以後、この小伝馬町の人形町通りには約3年間すぐ近く(100m)に同名の銀行が並立することになる。
 しかも同じ道路側で角地も同じ。東野圭吾氏もこの時期に人形町方向に歩かれた時、この合併による不合理をトリックの材料にピックアップしたと思います。
2009年(平成21年)9月7日 堀留支店は大伝馬町支店内に移転。堀留支店のビル看板取り外し。
          今度はひとつのビル内に同名の銀行が2店舗ある状態に。これもトリックに使えるかな?
2009年(平成21年)9月18日 銀行支店移転11日後に講談社より小説「新参者」第1刷発刊。
続きの写真を見る
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2011年11月24日

大手町 鎌倉橋の米軍機・機銃掃射跡

日本橋川に架かる鎌倉橋のコンクリート製の欄干に、1944年(昭和19年)11月に受けた米軍による本土空襲の機銃掃射の跡が現在でも残っています。
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鎌倉橋は関東大震災の復興事業の一環で1929年(昭和4年)に完成
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数十発の弾痕が生々しく残っています ここにいた人々を狙い撃ったものだろうか 昭和20年に入ると焼き払った街中にいる人々を標的にして艦載機が襲い掛かったという(疎開していた家族の友人=女学校生徒が撃たれた)
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撮影2010年


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2011年11月22日

本郷 川端康成と喫茶・白十字跡

川端康成全集補巻「日記」より・・・
大正12年1月7日付けに「白十字」に関しての記述があります。
<<(略)・・本郷通りに廻り、喫茶店白十字に寄りしに北村喜八と高橋喜一あり。
同卓につき話す。・・略・・北村の下宿に寄り、表現派ダヾの話。>>
短い記述ですが、「白十字」の名は川端の日記に数回登場してきます。
落第横丁入口角に、芥川龍之介が愛用していた原稿用紙で名を知られる紙屋「松屋」が存在していた当時、その2軒隣りに喫茶店「白十字」が存在していたと地元の方から話を聞いています。戦争中の昭和19年に<建物疎開>で取り壊しになってるはずです。現在の本郷郵便局の敷地の東角地に「白十字本店」の存在は確認できてますが、戦前の本郷6丁目の詳細図には確かにその位置に「キッサ」の記入があるのです。ただ名称が確認できません。「白十字」の支店があった可能性が・・・。
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下地図の18番から22番は全て取り壊されてひとつのビルになってます・・・ビル名は赤門ロイヤルハイツ クリニックの付近に奥行きのある「カフェー」がありました・・・ビルの裏手に居住する方は・・・「白十字でしたよ」
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「白十字本店」のあった位置には現在 本郷郵便局が建っています 東角=写真の赤ポストの位置が「白十字本店」の入口でした 間口は10mくらい
戦前(昭和初期から空襲前)・・・この付近には「喫茶店」「玉突屋」「質屋」「古本屋」「下宿屋」などが軒を連ねており「白十字」が2軒あっても不思議でありません
posted by t.z at 16:43| Comment(0) | 東京東南部tokyo-southeast | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする