2015年01月11日

吉行あぐりさん 逝去

吉行あぐりさんが逝去された(本名は漢字で安久利)。
夫・吉行エイスケ(本名は栄助、ダダイスト・詩人)、長男吉行淳之介(芥川賞作家)、次女吉行理恵(芥川賞作家・詩人)らが集う遠い空の彼方へ2015年1月5日未明に旅立たれた。107歳。葬儀は近親者のみで終えられている。喪主は、長女で女優の吉行和子さんだった。
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(左写真)「あぐり美容室」(1階奥)があった五番町グランドビル。夫吉行エイスケ氏が戦前に求めた土地であり、木造二階建ての「あぐり美容室」が最初に建てられた場所である(ビル玄関よりやや坂下の位置)。写真右端に理髪のサインポールが見えるが、閉店した「あぐり美容室」の場所にそのまま入居した理容室の看板。90歳を過ぎてからは馴染み客に限って予約を受け付けていたという。閉店は2005年。閉店直後の2006年3月撮影。営業中の写真を撮れなかったことが悔やまれる。 (右写真)市ヶ谷新坂の自宅マンション。美容室の斜め向い側に長年にわたって住まわれていた。
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(左写真)岡山県御津草生(みつくそう)の吉行エイスケ家へ向うJR岡山駅ホーム。あぐりさんも目にした光景だ。 (右写真)松本安久利(旧姓)が通学していた県立第一岡山高等女学校跡(現在は県立岡山操山高校、岡山市中区浜412)。在学中の1923年に吉行エイスケと15歳で結婚。*操山の読みは、そのまま「そうざん」。
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(左写真)岡山県御津草生(みつくそう)の吉行家へ向う道。中央の岐道を上った右奥に屋敷を構える吉行家に嫁いでいった。(右写真)左写真の左手方向にある小高い丘にある吉行本家の墓地。墓誌は読み難いが吉行エイスケ、吉行淳之介氏が葬られている。あぐりさんは一度、再婚(辻姓になった)したため吉行本家の墓地には迎えられない身となった。
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(左右写真)あぐりさんのために生前に建てられた青山・特報寺の墓。岡山の吉行本家の墓域から土を運び、分骨(夫エイスケと長男淳之介のみ)している。次女吉行理恵(本名は理恵子)さんが先に葬られることになってしまった。 
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(左写真)テレビ番組撮影終了後に撮った女優吉行和子とスタッフの記念写真。管理人も写っている。右は「あぐり 95年の奇跡」文庫本から、あぐりさんと長女和子さんが並ぶ帯写真。

吉行家リンク
「岡山 作家・吉行淳之介の墓」http://zassha.seesaa.net/article/346550974.html
「北青山 特法寺 吉行家の墓地」http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
「市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)」http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html
「世田谷 作家・吉行淳之介 終焉の地」http://zassha.seesaa.net/article/387061049.html
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2014年03月27日

四谷 外堀土手(土塁)の桜

JR中央線四谷駅前を通る新宿通りの北側と南側の外堀土手(土塁)上に咲き乱れる染井吉野の古木・・・土手上は遊歩道が整備されており、都内で屈指の桜を堪能できる散歩道となっています。
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(左写真)左側は上智大学キャンパス 外堀は右土手の外側下で堀は埋立てられ上智大真田堀グランドとなっている (右写真)JR四谷駅前の新宿通りが見える 外堀には四谷見附橋が架かり四谷駅前信号を渡ると紀尾井町側の土手にあがれる階段(写真下側がその石段)がある
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土手の遊歩道に咲く染井吉野 ホテルニューオータニ前(喰違門跡)まで約500m弱の桜のトンネルが続く
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左右写真はJR四谷駅から北方向の外堀土手の桜 市ヶ谷駅まで遊歩道が続く 村上春樹の小説「ノルウェイの森」に描かれた道だ 右側建物は雙葉中学・高校(住所は千代田区六番町) ブルー色が見えるが花見宴会用の席取りシート (右写真)JR四谷駅側の土手は旧江戸城四谷見附門跡の石垣(中央奥が石垣)で終わっている

*後日、さらに写真追加して保存する予定です。
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2013年08月29日

市ヶ谷 市ヶ谷八幡 小説「蒲団」の舞台

明治後期(1907年)に発表され、日本の自然主義文学の方向性を決定付けた田山花袋の小説「蒲団」の一場面の紹介です。印象的な市谷八幡神社(=亀ヶ岡八幡)の境内でのシーンを中心にして引用が多めになってます。
()内は引用した新潮文庫のページです。
(12頁)<神戸の女学院の生徒で、生れは備中の新見町で、渠(読み=かれ)の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情を以て充された一通の手紙を受取ったのはその頃であった。>
*神戸の女学院=西宮市岡田山の神戸女学院大学の前身であるミッションスクール
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市谷八幡神社・・太田道灌が江戸城の鎮守として勧請・・寛永年間に市谷御門内から現在地に移された 右写真は石段下の先に「電車の轟こそおりおり寂寞を破って通る」省線(JR)と外堀通りがかいま見えます

(32頁)<坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠さって、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如その珊瑚樹の蔭に身を躱して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。>

(33頁)<時雄は立上って歩き出した。もう全く夜になった。境内の処々に立てられた硝子燈は光を放って、その表面の常夜燈という三字がはっきり見える。この常夜燈という三字、これを見てかれは胸を衝いた。この三字をかれは曽て深い懊悩を以て見たことは無いだろうか。今の細君が大きい桃割に結って、このすぐ下の家に娘で居た時、渠(読み=かれ)はその微かな琴の音の髣髴(読み=ほうふつ)をだに得たいと思ってよくこの八幡の高台に登った。かの女を得なければ寧そ南洋の植民地に漂泊しようというほどの熱烈な心を抱いて、華表(読み=とりい)、長い石階、社殿、俳句の懸行燈、この常夜燈の三字にはよく見入って物を思ったものだ。その下には依然たる家屋、電車の轟こそおりおり寂寞を破って通るが、その妻の実家の窓には昔と同じように、明かに燈の光が輝いていた。何たる節操なき心ぞ、僅かに八年の年月を閲(読み=けみ)したばかりであるのに、こうも変ろうとは誰が思おう。その桃割姿を丸髷姿(読み=まるまげ)にして、楽しく暮したその生活がどうしてこういう荒涼たる生活に変って、どうしてこういう新しい恋を感ずるようになったか。>
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左写真は市谷山伏町(大久保通り)・・左奥方向が(p25)の時雄が自宅に帰った牛込矢来町方向 右写真は奥に見えるガラス張りビルの所に右に折れる細道がある・・時雄はこの道を下って市ヶ谷八幡の境内に入ってゆく・・坂道は左内坂 江戸初期に名主・島田左内により開発され町名・坂名にもなった(「御府内備考」)

(87〜88頁)<別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、微かに残ったその人の面影を偲ぼうと思ったのである。武蔵野の寒い風の盛に吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が凄じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るるように射し込んだ。机、本箱、罎(読み=びん)、紅皿、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗(読み=ひきだし)を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。暫くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団――萌黄唐草(読み=もえぎからくさ)の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨(読み=びろうど)の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた。>
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市谷八幡宮の急な石段 右写真は石段上の銅製の鳥居
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左写真は多磨霊園に眠る田山花袋の墓・・島崎藤村の筆刻 「蒲団・重右衛門の最後」新潮文庫・1952年発行(平成3年版より)

田山花袋・超略年譜
明治4年(旧暦) 栃木県館林町生まれ
明治32年 2月9日 27才で詩人・太田玉茗(ぎょくめい)の妹リサ(18歳)と結婚 
明治36年 6月頃 「蒲団」のモデル(主人公・横山芳子)岡田美知代との文通始まる
明治37年 2月末 岡田美知代19歳・・父親に伴われ上京 この年、花袋は32歳で2男1女の父親
         妻リサの姉の住居(土手三番町)に下宿させる
         美知代の恋人(京都同志社)が追って上京・・花袋は山伏町の自宅に美知代を移す 
明治39年 代々木3-9に移転
明治40年 9月 「蒲団」発表(「新小説」に)
昭和5年 5月13日 代々木3-9の自宅で死去 58歳 多摩墓地に埋葬 墓石に島崎藤村の筆刻
*年譜参照「田山花袋 作家の自伝25」日本図書センター

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2013年03月18日

市谷柳町 近藤勇道場・試衛館跡

子母澤寛の「新選組始末記」(中公文庫版)の第1章「近藤勇(いさみ)の道場」(冒頭のP19より)・・・<近藤勇の道場は、小石川小日向柳町の坂の上にあった。養父の周助邦武は、なかなか使った人だが、すでに七十に近い老体で、名前も周斎と改め、言わば大先生として、時たま道場へ若い者の稽古を見に出る位のもので、自ら竹刀(しない)を手にするような事は無くなっていた。道場は三間に四間の稽古場と、外に住居がついて試衛館といっていた。流儀は天然理心流。武州三多摩に育った剣法で、江戸には余りはやらなかったが、それでもこの道場には、毎日五十名から六十名の門弟が稽古にやって来る。>
続けて塾頭・師範代が沖田総司であること、土方歳三や井上源三郎、藤堂平助、山南敬介の名が紹介されています。
永倉新八(新選組の生き残りで、晩年の大正2年に懐旧談が小樽新聞に連載開始・私家本出版は昭和2年)の「新撰組顛末記」(新人物文庫版)のP24にも、子母澤寛に参考にされたのとほぼ同様の文言の一節が・・上記の門人紹介にさらに原田左之助の名も含まれている。
また資料によって道場位置の紹介は様々だが、ほぼ下の地図の赤丸で記入した周囲に限定されています。「市谷甲良町20番」と住所記載した資料には<近藤周助は天然理心流の三代目を継ぎ、江戸へ出て1839年頃に、市谷柳町甲良屋敷西門に試衛館を開いた>と紹介。さらに<上石原村の豪農の三男・宮川勝太を養子にし、後に天然理心流四代目を継がせた、それが近藤勇昌宜>。宜の文字については子母澤寛がこだわりを持って強調しています・・「宣」を使う者がいるが間違いだと。永倉新八が建立した碑文では逆さまにして「宜昌」となっているとも指摘しています。近藤周助はその後、隠居して四谷舟坂横丁(四谷3丁目から北の舟町に通じる路地)に居住するが、慶応3年に76歳で死去。養子の近藤勇の斬首(慶応4年)はもちろん知る由もなかったのです。
甲良屋敷の地名は明治2年に、市谷甲良町と改称されます。また別の資料では道場位置を「市谷甲良町1番」と紹介されてますが住居表示の変更で旧20番=現1番。市谷甲良町(旧20番)と市谷柳町(旧21番)にまたがって甲良屋敷西門前に「試衛館」が存在したことは間違いないようです。このT字路の脇の石段下の古い稲荷まで含めた敷地に住居と道場(約30畳ほど)を構え、後に新選組の中心メンバーとなる面々が剣術の稽古に汗していたのです。
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大久保通りの歩道から路地奥・・ゆるい坂上が試衛館跡(左右とも同じ方向から)
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試衛館跡柱は市谷柳町側の稲荷社の手前に・・江戸末期から傾斜地だと思われるので(建物は建てにくい)道場位置はマンション(コスモ市ヶ谷)のT字路西角側付近だと推測・・敷地は100坪ほど・平屋建て・道場は約30畳・他に隠居部屋・居候用の部屋・客間・近藤勇の書斎など
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右の地図で赤〇をつけたマンション角・・表示板があるこの場所が道場の横っ腹(!?)

*参考資料・書籍は上記2冊のほか大判の辞典類・「幕末維新人物百話」など
*新選組リンク
「京都 壬生村遊女屋(壬生寺・新選組)」http://zassha.seesaa.net/article/318429007.html

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2013年03月06日

四谷 斎藤實内大臣邸(2・26事件)

海軍大臣・朝鮮総督・第30代内閣総理大臣(5・15事件で倒閣した犬養毅内閣の後継)・外務大臣・文部大臣を歴任し、前年(昭和10年)12月26日に第10代の内大臣に就任した斎藤實(まこと)邸への襲撃の模様です。
昭和11年3月2日に大塚憲兵分隊で行われた襲撃指揮者・歩兵第3聯隊第1中隊の坂井直(なおし)中尉(中隊長)の取調(襲撃理由)によれば「斎藤實内大臣が君側の奸臣であるということは5・15事件の被告及び相沢中佐殿の公判廷でその理由を天下に知らしめたので今更下手な意見を此処で申し上げる迄もありません」と誰でも知っている通りだと陳述し、また「相沢中佐殿の理想を貫徹し国体を顕現するために兵力を以って国家の逆賊を討ち取り・・」と続けています。

1935年(昭和10年)
2月23日(日曜)
歩兵第3聯隊の週番司令室で週番司令の安藤大尉と野中大尉と村中孝次の3名が計画協議。遅れて坂井直中尉も参加。2月26日午前0時に準備着手し午前5時を期して決行と決定。ここで坂井中尉に「斉藤内大臣邸を襲撃し任務達成後に高橋少尉と安田少尉が渡辺教育総監襲撃を担当し残余は坂井中尉の引率を以って陸軍省東北角付近に集結する」案が示される。
2月25日
夕点呼後に週番司令室・第7中隊将校室等で具体案を立案。安藤大尉が週番司令として坂井中尉に命令。「坂井中尉は第1中隊及び機関銃4銃を指揮し午前5時を期し斉藤實邸を襲撃し任務達成後なるべく速に高橋少尉(第1中隊附)と安田少尉(砲7・砲工在学中)をして軽機2分隊小銃2分隊を以ってトラック2台に分乗し渡辺教育総監私邸を襲撃し薾余の部隊は坂井中尉の引率を以って陸軍省東北角付近に終結し半蔵門、三宅坂、平河町1丁目に亙る間を警戒すべし・・・」と下命。  
午後11時 坂井中尉は下士官を起こし準備行動に。下士官を将校室に集合させて決行の方針理由並びに処置の大要を示し各下士官に任務を与える。
2月26日
午前0時 第1中隊に非常呼集命令。将校4名、下士官17名、兵191名 合計212名。命令下達後に2名の下士官が行方不明に(末吉曹長・中島軍曹・・末吉は谷町側で警戒分隊指揮要員)。襲撃参加は210名に。機関銃=MG4銃・軽機関銃8銃。小銃弾薬7200発・軽機2880発(MGは不明)・拳銃1につき30発。部署=警戒長は末吉曹長(不明で未参加)・第1突撃隊は坂井中尉と麦谷少尉(正門担当)・第2突撃隊は高橋と安田両少尉(通用門担当)。経路=歩3営門(正門・・現在の新国立美術館正門の南横)から青山1丁目ー信濃町ー斉藤邸。
午前3時20分 準備完了し第1中隊営舎前に集合。ここで下士官2名の行方不明発覚し弾薬分配に手間取り30分遅れる。部隊配置計画も崩れる。坂井中尉の陳述「断乎たる決心を以って方針を変更しませんでした」
午前3時55分 坂井中尉は全部隊に決起趣意書に基き訓示「此れから皆と一緒に天皇陛下の御為に尽くそう」。
午前4時10分 歩3営門を出発。  
午前5時 東京市四谷区仲町3丁目44番の斎藤實内大臣邸に突入。
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(左写真)道路右側の大きなMSが斉藤内大臣邸跡・・北角付近から (右写真)左奥が内大臣邸の北角・・突き辺り右に警戒軽機関銃配置
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(左写真)逆の南側から内大臣邸・・左付近に正門 第2突撃隊は通用門の開錠に手間取り正門に合流して突入 正門入って右奥の玄関前の警官詰所にいた約20名の巡査らが狼狽している所を突撃隊が殺到し包囲制圧 (右写真)内大臣邸の北側は谷町1丁目・・名の通り崖状の低地で2個分隊が散開して警戒配備=指揮予定の下士官(末吉)が逃走したため別の下士官が指揮担当(配備は地図に黒丸)
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(左写真)左奥が内大臣邸・・撮影位置は道路が東に90度に曲がっている所(レの字の角から) 襲撃終了の集合ラッパで正門に再終結しこの道路を通り省線(JR)の陸橋を渡り坂井中尉指揮の主力部隊は陸軍省東北角付近に・・別働隊(教育総監襲撃隊)は荻窪に移動してゆく 
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(左)昭和11年3月5日東京朝日新聞夕刊1面から内府邸正門 (右)昭和11年2月27日大阪朝日新聞から斉藤内府

内大臣邸に突入し警護の警官隊を制圧した後は、坂井中尉を先頭に高橋少尉、安田少尉、林伍長、機関銃手1名の5名が建物を北周りで裏口に。雨戸を打ち破って侵入し15歳ほどの給仕を捕らえて案内させ2階の内府の寝室に。ここで内府夫人春子が抵抗し立ち塞がるが押しのけて安田少尉が内府に向けまず発砲。続いて将校3人が拳銃乱射。寝室奥に倒れこんだ内府をかばうように夫人が覆いかぶさるが押し退けて射撃。ここで機関銃手も私にもと申し出て数発発砲。この間に夫人は銃口を押さえようとした為に腕に銃創を負っています(夫人の写真等の詳細は齋藤實記念館のHPで)。
午前5時15分 正門前で一同で「天皇陛下万歳」を三唱。集合ラッパを吹奏し警戒班らを省線橋上に終結させる。

*斉藤内大臣邸は旧表示では仲町ですが、現在の表示は新宿区若葉1丁目21番でその敷地には大きなMSが建っています。葬儀(本葬)は3月22日に築地本願寺で。斎藤實内大臣(享年77)の墓地は小山崎齋藤墓地。分骨されたと思いますが多摩霊園にも墓があります。この事件の遺品も展示されている記念館は以下です。 
齋藤實記念館(奥州市)http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/index.html
岩手県奥州市水沢区字吉小路24番地

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多磨霊園の斎藤實の墓ですが肩書きで名が余りに下方に・・

「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
「三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)」 http://zassha.seesaa.net/article/341750813.html
「駒場 歩1栗原中尉私宅と山下奉文少将私宅(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/342058218.html
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2013年03月03日

三番町  鈴木貫太郎侍従長官邸(2・26事件)

「君側の奸」を討つべく一斉に決起した皇道派青年将校(中心メンバーは磯部浅一・村中孝次・野中四郎・香田清貞・栗原安秀・中橋基明・丹生誠忠・安藤輝三)の内、最後まで決起に躊躇し消極的であり、栗原・磯部・野中らによる説得・叱責を受け、決行日寸前の2月22日になって、やっと決心を固めた歩兵第3聯隊第6中隊長・安藤輝三大尉(32歳)の行動の概要。
決行具体案は、その翌日23日夜になって歩3(六本木竜土町)の週番司令室での会合で決定する。
一旦決意した安藤大尉は、2月29日に「昭和維新」が瓦解し、全部隊が原隊に帰順してゆくなか、赤坂「幸楽」から「山王ホテル」に部隊を引き連れ、最後まで抵抗の姿勢を崩さず、野中大尉の自決の報を聞くことによって自らも拳銃自決を図る。だが銃弾は致命傷とはならず失敗に終わる。
安藤輝三大尉の遺族は、事件当時から変わらず現在も世田谷の地で暮らしている(環7・246号交差点の近辺)。

昭和11年3月3日、東京衛戍刑務所・第1拘置監房(現在の渋谷区役所の位置)で、負傷・安静中の安藤元大尉に対し行われた渋谷憲兵分隊による尋問調書からの抜粋。
<<歩兵第三聯隊安藤中隊(第六中隊) 週番司令トシテ服務中ノ安藤大尉ハ二月二十五日午後九時頃所属中隊下士官十名ヲ招致シマシテ二十六日早朝直接行動ニ依り昭和維新ヲ断行スルコト襲撃目標第六中隊ハ鈴木侍従長ヲ襲撃スル事等ヲ告ケ一同ノ決意ヲ促シマシタ処皆参加ヲ願出タノテ襲撃ノ際ニ於ケル各自ノ分担任務ヲ指示シ更ニ週番士官坂井(中尉)、鈴木、清原ノ各少尉ヲモ召致シ非常呼集ノ実施、弾薬ノ受領其他ノ準備事項ヲ指示シ又聯隊兵器委員助手タル 下士官ニ弾薬ノ配給方ヲ指示致シマシテ午後十二時頃迄ニ重機関銃実包九千発、小銃実包約四万九千発、みどり筒六箇(*)、発煙筒五箇ヲ撒出シ出動部隊ニ夫々交付セシメ更ニ機関銃隊週番士官柳下(良二)中尉ニ対シ機関銃十六分隊ヲ編成シ二十六日午前三時迄ニ各出動部隊ニ之ヲ配属スヘグ命スル等万端ノ準備ヲ整へ二十六日午前三時ヲ期シ非常呼集ヲ行ヒ弾薬ヲ配給シ靖国神社ニ参拝卜称シ鈴木侍従長邸ニ向ツタノチアリマス>>
<<第一日ノ状況(二月二十六日)鈴木侍従長襲撃
襲撃部隊(安藤大尉ノ指揮スル歩三第六中隊ノ将兵約200名、重軽機関銃九銃)
安藤大尉ハ部下中隊ヲ率ヰ午前四時五十分麹町区三番町ノ侍従長鈴木貫太郎大将邸附近ニ到着致シマスルヤ各小隊長及分隊長ヲ集メ襲撃部署ヲ定メタ上同邸表門及裏門附近ノ道路上ニ各機関銃二銃ヲ配置シテ外部ニ対スル警戒ニ当ラシメ第一小隊ハ裏門ヨリ第二小隊ハ表門ヨリ夫々邸内ニ突入ヲ命シ更ニ一部ヲ屋外ニ止メテ警戒ニ任セシメ自ラ下士官兵約二十五名ヲ指揮シ屋内ニ闖入(ちんにゆう)致シテ奥ノ八畳ノ間ニ於テ鈴木侍従長ニ対シ下士官二名ニ命シ拳銃テ射撃セシメ侍従長力重傷ヲ負フテ倒レルヤ直チニ同邸ヲ引上ケタノテアリマス>>
*みどり筒=昭和初期に開発された強力な発煙催涙ガス弾(要ガスマスク)。(兵器類に詳しくないので、違うでと言われそう。靖国遊就館の兵器展示の中に含まれていたかなあ?)
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安藤大尉指揮の歩三第六中隊将兵約200名が表門・裏門に展開するため下った鍋割坂。侍従長邸は右奥。路地は宮城内濠に突き当たる。奥の森は近衛師団の兵営が置かれていた北の丸。

憲兵隊の尋問調書は句読点がなく、カタカナ文の為、判り易く省略形にしたのが以下。MGはマシンガン。
1936年(昭和11年)2月26日(水曜)
歩兵第3聯隊第6中隊長・安藤輝三大尉は自らの中隊及び機関銃隊4分隊(MG4門)に非常呼集をかけ、午前3時30分に計204名を指揮し聯隊営門を出る。雪道を隊列を整え行軍し、途中靖国神社に参拝し、午前4時50分頃に麹町区三番町2の鈴木貫太郎侍従長官邸に到着。兵力を二分し表門・裏門に配置し警戒待機させ所定の午前5時に同時突入開始。表門は安藤大尉指揮で開いていた小門から入り大門を開け進入し、裏門は塀を乗り越えて突入。警備の警官を包囲制圧し、屋内にいた書生2名を外に追い出した後に侍従長の捜索に取り掛かり(女中を起こし侍従長の居場所を訊いている)、奥の寝室で発見(侍従長は大声に眼を覚まし寝室隣りの納戸で日本刀を探すが見つからないでいる)。安藤大尉は即座に「打て!」と命令(*侍従長は廊下で出くわし「撃つなら撃て」と両手を広げて仁王立ちに)。発射(拳銃2発)した兵に関しては、廊下は兵で混雑しており記憶にないと尋問に答えている。その場に倒れた侍従長を見て目的は達したと全員を集合させ直ちに引揚げ命令(トドメは大尉が制止して引揚げている)。所要時間は約30分位で午前5時30分頃に侍従長官邸から引揚げ、三宅坂の三叉路の付近で参謀本部・陸軍省方面の警戒任務に当る。
その後、翌日27日正午まで同所(三宅坂三叉路)にて警戒を続け、正午以降は新国会議事堂(現在の議事堂で当時は未完成)に終結し、夜に入って赤坂の料亭「幸楽」に移動、宿営する。
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鈴木侍従長官邸正門。当時とほぼ同じ構え。

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同上。正門前広場。安藤大尉の指揮する声が聞こえてきそうだ。

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(左)昭和11年2月28日付の2・26事件を伝える大阪朝日新聞。(右)鈴木侍従長の29日付病状。
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(左)侍従長の治療経過を伝える昭和11年3月22日付東京朝日新聞。(右)侍従長邸周辺見取り図。
鈴木侍従長(予備役海軍大将)は、記事にあるように直ちに救護を受け、一命を取りとめる。主治医と輸血男の話は記事を参照(「鈴木貫太郎自伝」1997年刊には更に信じられないような偶然や秘話が語られている)。襲撃時に侍従長の傍らにいた妻(たか)が、これ以上の危害は無用と懇願したため安藤大尉は敬礼をし(兵はガシャと軍靴をそろえ捧げ銃)退去している。トドメを回避したのは、安藤大尉と侍従長は過去に面識があり、侍従長の識見を知っていたためだともいわれている(侍従長の書まで頂戴している)。
その後、鈴木貫太郎侍従長は、昭和20年4月7日に小磯内閣を後継し、内閣総理大臣に就任。同年8月15日正午の天皇詔勅放送と同時に内閣総辞職する。

参考・抜粋 「2・26事件研究資料U」松本清張・藤井康栄編・文藝春秋1986年刊
リンク
「麻布十番 賢崇寺 二十二士の墓(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/21795261.html
「赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.html
「湯河原 牧野伯爵宿舎(前・内大臣)伊東屋旅館別荘(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331635880.html
「中野 北一輝 検挙現場(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331937769.html
「六本木 聯隊前 龍土軒(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/331977707.html
「赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332103469.html
「内幸町 飛行会館の大アドバルーン(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332155976.html
「荻窪 渡邊教育総監・私邸襲撃(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/332434854.html
「九段 戒厳司令部(軍人会館)(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/341259410.html
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2013年02月09日

四谷 手塚治虫 下宿跡(上京初下宿)

1952年(昭和27年)、手塚治虫(23歳)は本格的に漫画活動に専念すべく活動拠点を東京に移してます。上京した当初は都内の旅館を点々としますが、経費節約と編集者との連絡が容易になるという利点で下宿を探すことになります。結果を先に述べると、この下宿が現在に至るまで確定できてません。「四谷の八百屋の2階」とだけ判明してるのみで後は推定で述べられているだけ。手塚治虫の評伝・年譜は簡単に1行で「四谷の八百屋」というだけでさっと通過。この下宿を退散する理由が「編集者の出入りが激しく迷惑をかける」なのですが、この何度も訪れている編集者たちへの取材は過去に行われなかったのでしょうか。簡単に場所の確定が可能だったのに。手塚治虫は翌年1953年(昭和28年)1月に豊島区椎名町の(こちらは伝説化するほど有名な)「トキワ荘」(解体)に移ってゆきます。
下記の評伝「手塚治虫」(竹内オサム著)のみに明確に下宿先の名称と大体の場所の説明がなされてますが、住所記載がないため特定は難しいです。また、手塚治虫の総本山といえる「宝塚市立・手塚治虫記念館」を訪れ、(恐らく)学芸員の方からのメモも頂きましたが推定でいままでいわれていた場所と同じ。
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評伝「手塚治虫」(竹内オサム著)の「四谷駅から新宿方向に向かい、文化放送局の少し手前を左に入った右側の2軒目、山崎商店の2階である(四谷2丁目)」(P176)・・ん〜ん・・ズバリ言い切ってます・・が・・この「少し」が問題なのです それと「山崎商店」ってもちろん八百屋とは思うのですが 小学校に入る現在の児童公園の路地は省くのかな・・火災保険地図(昭和26)には何故か商店・個人名が大幅に省かれており・・昭和30年代の住宅地図は道路拡張後のものになってしまう 左右写真は地図の赤丸推定の位置
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手書き地図の赤丸3ヶ所・・和菓子「坂本屋」(カステラを目の前で作ってます)のご主人は戦後からこの地で営業・・「八百屋などこの辺には無かったよ」・・道路向いの古本屋も古くて手塚治虫ファンだったから何か知ってるかも・・と情報(だがシャッター降りたままで休業中) 路地に赤丸だけの所が推定場所 
(右写真)宝塚の記念館で頂いたメモ「四谷1丁目3番の成木屋」と旧来の推定場所
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なんか可愛過ぎるアトム像(記念館のホールで) 宝塚の手塚治虫記念館は駅からやや歩く場所にありますが、展示は想像以上に充実していて大人でも楽しめます・・それと途中で宝塚音楽学校の方だと思われる美人さんに遭遇・・音楽学校に入る路地手前でファン風の女グループに話かけられていたから恐らく・・記念館への道は宝塚大劇場へのスミレ咲く歩道と共通なのです

その宝塚の美人さんの写真忘れていないのかって声が・・・もちろんポニーテールで買い物で駅のほうに行った帰り風のその後ろ姿・・・(ストーカー風の写真載せるとこのブログの気品が・・)・・で、撮っていません!


posted by y.s at 14:54| Comment(0) | 市ヶ谷・四谷・麹町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月23日

四谷 ビートたけし・バイク事故現場

1994年8月2日の午前1時40分ごろ、東京都新宿区元南町の通称「安鎮坂(あんちんざか)通り」で、タレントのビートたけし(本名・北野武47歳)氏=世田谷区尾山台2丁目=が酒を飲んでバイクに乗り、道路左側の鉄製ガードパイプに接触、路面にたたきつけられ、頭の骨を折って東京医科大学病院の集中治療室に運びこまれた。警視庁四谷署によると、意識障害があり、約1ヶ月の重傷(脳挫傷)。酒気帯び運転で書類送検(起訴猶予処分)。
 *参考資料 1994年(平成6年)8月2日(火曜)付け「朝日新聞」朝刊
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事故現場(バイクが倒れていた場所)から権田原方向 (右写真)反対側(坂上)から見た事故現場 坂下で右カーブしている
 *注 現在(写真)は下り坂の車線は1車線だが事故当時は2車線・・昇り方向(権田原方向)が逆に2車線でカラーペイントはされてなかった
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(左写真)事故現場・・横断歩道上にバイク・・近くに被っていたメットとぐしゃぐしゃに割れたゴーグル(黒縁)・・黒サングラスも落ちていた  (右写真)同色のメット(型はほぼ似てる)
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型は別だが塗装色が似てるバイク (右写真)現場推定地図(長い下り坂の底・・その先が右カーブ)
意識無く倒れていたビートたけし・・タクシー運転手が発見し110番通報・・現場検証でブレーキ痕は見つからなかった。ビートたけしと親交が深い本多圭氏は「自殺だった」と述べている(週刊文春2009年4月2日号参照)。同年9月27日に退院。顔面麻痺がかなり残った状態での記者会見・・そのショッキングな映像は忘れられないものとなっている。
管理人はビートたけし氏とよく出くわしています(5回ほど)。北野オフィスのある赤坂でなく、六本木(現在のミッドタウンに近い位置)の研音(芸能事務所)ビルの横路地が多いです(20mほど入った雑居ビル)。ほとんどスタッフらしき集団と一緒ですがやはり目立ちます・・たま〜に行く店が同じビル内にあるのですが何故か毎回通路で(夜ですが早い時間)・・視線は下向きで横を通り過ぎてゆくのです。
 *新聞記事の自宅(尾山台2丁目)は環8を等々力不動側に降りる幅広の道(目黒通り)の坂の途中を左折した所(もちろん当時です)。


posted by y.s at 19:45| Comment(0) | 市ヶ谷・四谷・麹町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月09日

市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)

2006年5月4日午後、芥川賞作家・吉行理恵さんが甲状腺がんのため都内の病院で死去したと7日報じられた。66歳。NHK連続テレビ小説「あぐり」の主人公吉行あぐりの次女で、兄は作家・吉行淳之介、姉は女優・吉行和子。
市ヶ谷駅近くで90歳を過ぎても現役美容師として店に立たれていた吉行あぐりさんの美容室が、理容室に変ってしまった。店の入口の外装は以前のままだが、看板の文字が理容室名に変ってしまっている。JR市ヶ谷駅改札を出て、右手の新坂沿いのビル(1Fが本屋)の1階奥だ。*閉店は昨年(2005年)。
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     ヘアーサロンSaitoのプレートの位置に、以前は「吉行あぐり美容室」の文字が並んでいた。

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吉行あぐりさんは、五番町グランドビルの斜め向いのビル(左写真のMS)に長期間住まわれており、この道路を横断して店(美容室)に通うのを常としていた。近所の顔見知りの人たちから、危険だから止めるべきだと注意を受けていたと長女の和子さんが自らのエッセイに書いている。坂上の信号までは上り坂、下の駅前の信号まで下っても、また坂を上ることになる・・高齢のあぐりさんでなくても横断したくなる。
右の地図は、1954年(昭和29年)に作成された火災保険特殊地図を参考にして、現在のビル群が建ち並ぶ前の様子を表してみたもの。吉行エイスケ・あぐり夫妻は上京にあたり、岡山の吉行本家より東京府東京市麹町区土手三番町(現・五番町)の土地130坪を買い与えられ、昭和4年6月に「山ノ手美容院」を開業する。「梅桃(ゆすらうめ)が実るとき」の67頁に、当時としてはモダンで斬新な設計の三階建ての「山ノ手美容院」の写真が掲載されている。
同書より抜粋。<「戦争が烈しくなり、私の美容院は市ヶ谷駅に近いとの理由で、建物疎開をされ、仕事が出来なくなり、さらに戦火のため、住居の一切を失いました。」>
<「戦後市ヶ谷の焼け跡にバラックのような家を二軒建てて私たちの戦後がはじまった。(略)戦争が終わった昭和27年に、やうやく小さな美容院を、焼け跡の元の場所に作ったのです。」>
<「昭和54年に、私の小さな美容院のあるところは、周囲の土地と一括されて大きな建物が建つことになりました。」>
このような経過で、1980年(昭和55年)11月に「五番町グランドビル」が竣工し、その1階部分に「吉行あぐり美容室」は入居、開店した。

参考
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吉行家リンク
「吉行あぐりさん 逝去」http://zassha.seesaa.net/article/412147570.html
「岡山 作家・吉行淳之介の墓」http://zassha.seesaa.net/article/346550974.html
「北青山 特法寺 吉行家の墓地」http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
「世田谷 作家・吉行淳之介 終焉の地」http://zassha.seesaa.net/article/387061049.html
posted by y.s at 22:29| Comment(1) | 市ヶ谷・四谷・麹町 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする