甲斐武田氏(武田勝頼)が、織田・徳川軍に滅亡に追い込まれる数ヶ月を、井上靖の短編小説「天目山の雲」の後半部分から抜粋して紹介する。短編「天目山の雲」は、1953年に文芸誌に発表された後、短編集「異域の人」(6篇収録・角川文庫)に収めらたが絶版に。角川文庫から再版された短編集「天目山の雲」(6篇を含む全12篇収録・1975年刊)に表題作として再び収められた。
<<勝頼は、半造りではあるが、新府の城で最後の一戦を試みようと思った。ところが三月三日の朝、最後の頼みとしていた高遠城の落城が伝えられた。三月三日に高遠城は、信忠の五万の大軍に包囲され、守将の仁科五郎盛信以下、城中の婦女小童に至るまで、よく防ぎ闘い、全員華々しく討死したのであった。高遠の城が落ちれば、最早これまでと、勝頼は、時を移さず、その日、去年十二月末に行列の装い美々しく移った許りの新府の城に火を放って、ここを退去することにした。主従は男女併せて僅か二百人を数えるだけであった。>>「天目山の雲」P114より
甲斐武田氏の守神・武田八幡宮参道付近から新府城址を望む。周囲は武田氏初代・武田信義(のぶよし)の館跡。1582年(天正10年)3月3日朝、武田勝頼は新府城廃棄を命じ、城内の館に火を放つ。先立つ2月19日、勝頼の室・九条夫人(北条氏康娘19歳)は、武田八幡宮に武田家安泰の祈願文を奉納している(残存=県指定有形文化財)。写真の左後方に武田八幡宮がある。
(左写真)小山田信茂の居城だった岩殿城 (右写真)JR中央線大月駅ホームに置かれた岩殿城案内板
<<勝頼は小山田信茂の勧めで、彼の居城である岩殿が要害の地であることを知って、そこへ退くことにした。漸く火の手が高く上ろうとしている城を出た時、勝頼はまだこの時再起を諦めてはいなかった。(略)勝頼は駒飼を出発して、岩殿へ向おうとしたが、意外にも笹子には関が設けられてあり、鉄砲を打ちかけられ、この時、初めて、勝頼は小山田信茂に騙されたことをしった。>>「天目山の雲」P115より
ここで、甲斐・田野で武田家(武田勝頼・信勝)が滅亡する直前1ヶ月余の経過を時系列で略記しておく。
1581年(天正9年)
12月24日 武田勝頼は、古府中・躑躅ヶ崎館から釜無川の北岸に切立つ七里岩の上に築いた新府城(現・韮崎市)に移る。(月日は「理慶尼記」より・「甲陽軍鑑」では1月)
1582年(天正10年)
2月1日 勝頼の義兄・木曽義政(昌)が武田家から離反し織田方に内通する。(その日中に信長に使いが走る)
2月2日 武田勝頼、木曽の謀反を知り新府城を発し、諏訪・上原城に1万5千の人数で陣をはる。
2月3日 信長、信州・甲斐への諸口より乱入を下知する。三位中将(織田)信忠軍は、伊那口、徳川家康は駿河口、北条氏政は関東口、飛騨口からは金森五郎八を大将にした軍を配す。ただちに森勝蔵らの先陣が木曽口・岩村口から武田領に侵攻開始。
2月9日 信長、武田氏討伐の全軍への(戦略配置)指図書を発する。
2月14日 先陣が木曽峠を越える。
2月16日 木曽谷への要地である鳥居峠で戦闘始まる。
2月18日 徳川家康軍、浜松を出陣。
2月19日 勝頼の妻(九条夫人)が、武田八幡宮(韮崎市神山町北宮地・新府城の南約4km)に願文を奉じる。
2月25日 駿河国江尻(現在の清水市江尻)で遠州口の押さえを担っていた武田家親類衆の穴山信君(梅雪)が、家康の調略によって寝返る。梅雪は夜、雨のなか古府中に人質になっている妻子を脱出させる。穴山信君は、勝頼の姉(見性院)の夫であった。
2月28日 武田勝頼、諏訪の上原城を引き払い新府城に帰る。新府城内で軍議。新府籠城・上州吾妻の真田昌幸領への転出・小山田信茂の岩殿城籠城の各案が討議される
3月1日 穴山信君が江尻城を徳川家康勢に開城。三位中将信忠は、飯嶋より天竜川を越え伊那・高遠城を包囲。
3月2日 未明から織田勢が高遠城に取り掛かる。織田信忠自ら武具を持って斬り入る。仁科盛信以下城兵四百余名(=首級数)は全員討死に。武田方の諏訪勝右衛門の女房が城中で男勝りの奮戦。「信長公記」に特記される。
3月3日朝 勝頼は新府城廃棄を命じ、城内に放火。同時に人質も多数焼き殺す。三位中将信忠軍は諏訪表に至り各所に放火。家康は穴山信君を案内人として、駿河から甲斐河内領に乱入。この日の武田方のパニック状態を「信長公記」は克明に記している。夜 勝頼一行は古府中を通り抜け、勝沼の大善寺に宿泊。(「信長公記」には「落人の哀れ」の語有り)
3月4日 勝頼、駒飼に移動。
3月5日 信長が出陣。翌日、高遠城主仁科盛信の首を検める。
3月7日 三位中将信忠が、諏訪より古府中(甲府)に陣を進める。一条蔵人邸に宿陣。武田一門の捜索・成敗を命令。岩殿城の小山田信茂が逆心し、勝頼一行の郡内への通過を阻止する。「武田三代軍記」に<小山田、鶴瀬から郡内の間に逆茂木(さかもぎ)を引き、城戸を構う。>の記述。
3月8日 信長、岐阜より犬山に着陣。
3月10日 勝頼の使番が笹子峠を偵察。小山田配下が発砲する。勝頼一行の駒飼(東山梨郡大和村)の山中への逃亡を滝川一益が知り捜索を開始。勝頼は天目山栖雲寺を死地と定めて移動。田子(田野)の平屋敷に居陣するところを、滝川勢に発見される。
3月11日 朝、滝川勢の先陣に包囲され、勝頼親子以下41人の侍分と50人の女房衆、すべて自刃討死する(巳刻=午前10時頃)。勝頼親子の首級は、三位中将信忠の元に差し出され、直ちに信長のもとに進上される。信長は岩村に着陣。
3月14日 信長は浪合(長野県下伊那郡)の陣で勝頼親子の首を検分。
3月16日 飯田の陣にて、信長のもとに勝頼が最後に差していた刀と仁科五郎の芦毛馬などが差し出される。
*「信長公記」角川文庫版から年譜作成
<<勝頼は天目山に入ろうとした。勝頼が最後に選んだ拠点であった。併し、村人は一団となって、山上から鉄砲を放って、勝頼の入るのを拒んだ。勝頼は天目山で再起の機会を掴むつもりだったが、それも許されなかった。この時勝頼につき従う者は四十四人になっていた。田野という山中の部落に入った。そこの平屋敷に名ばかりの柵を造って休憩した。三月十二日の午(ひる)下りであった。織田方の滝川一益(かずます)の部隊が山中を捜索していた。その気配を知って、勝頼はこの時初めて自刃を決意した。>>「天目山の雲」P116より
以下の写真は、勝頼主従が自刃或は討死した田子(田野)の平屋敷。甲斐武田氏滅亡の地。寺院は後に家康の命によって建立された。
山門は、1779年(安永8年)に再建されたもので景徳院では最も古い伽藍といわれる。
景徳院本堂前の旗竪松。武田家累代の重宝旗(日の丸御旗=日本国旗の元になった)を世子である信勝の元服の折りに竪(た)てかけたことからと伝わる。
信長が本能寺に倒れた後、徳川家康は甲斐国を手中に収め、勝頼が自害した最期の地に、勝頼親子の菩提を弔うため寺院を建立する。甲斐・中山広厳院の僧・拈橋(ねんきょう)に命じ、1588年(天正16年)に創建した田野寺がそれに該当する。後に寺名を勝頼の戒名である景徳院に改めている。田野寺を開いた僧・拈橋は、戦闘が終った直後に田野の山中に入り、討たれた武田家臣に戒名をつけて回ったと伝わる。(左写真)本堂の方向からの甲将殿。甲将殿には勝頼・信勝・九条夫人の三体の坐像と従者の位牌が祀ってある。甲将殿の左側(裏手)に勝頼主従の墓が見える。(右写真)甲将殿の正面。武田菱に注目。
(左写真)中央が勝頼墓・右奥側が九条夫人の墓・左手前が信勝墓。その外両側に殉難従者を祀っている。この墓は、1775年(安永4年)に設けられたと伝えられていたが、1779年(安永8年)3月15日から21日までの7日間に執り行われた「200年遠忌」の際に建立されたものと判明。(県指定史跡=昭和33年6月指定) (右写真)発掘調査の説明板。
(左右写真)没頭地蔵尊。後年、勝頼親子を偲び、地元の人々により首のない三体の地蔵尊が置かれた。
<<敵が間近に迫った気配を察して、勝頼は己が室の介錯を土屋に頼んだ。勝頼の室は法華経五ノ巻を誦し、誦し終ると小刀を口に含み前に倒れた。土屋が刀を降しかねている間に、勝頼自ら介錯した。勝頼の室は十九歳であった。(略)間もなく、山下から攻上って来る敵方の声が聞えて来た。勝頼、信勝、土屋三兄弟を初めとして、三十数人の武田勢は最後の合戦をし、敵の最初の攻撃を撃退、次の攻撃を仕掛けられるまでの僅かな時間をぬすんで、勝頼は、「土屋、敷皮を!」と言った。土屋は言われるままに敷皮を直した。勝頼はその上に座った。その背後に土屋は立った。勝頼は三十七歳であった。信勝の介錯は弟の土屋が承った。信勝は十六歳であった。>>「天目山の雲」P116より
(左右写真)武田勝頼の生害石(享年37歳)。「信長公記」の記述は<歴々討死相伴の衆、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、・・>とある。文字通り討死と取ってよいのだが、江戸期に成立した軍記(物語)は混乱状態だ。討死説を採る「甲陽軍艦」(江戸初期成立)や「武田三代軍記」(正徳5年成立)、自刃説は「理慶尼記」「甲乱記」(成立不明・刊行は正保3年)等である。また「甲乱記」の九条夫人の自害の様子は<腹に脇差を突き立て>と記している。
(左右写真)九条夫人(北条氏康の六女・享年19歳)の生害石。勝頼と信勝の説明板が読めたことから、九条夫人のものと判明。
(左右写真)嫡男・信勝(享年16歳)の生害石(実母は死別した織田信長の養女・遠山夫人。信の一字は信長から)
九条夫人の辞世の句碑 <黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒> 小田原の実父にすがることなく勝頼とともにこの地にて果てた。
甲州市塩山の武田氏の祈願所である雲峰寺に、日の丸の御旗・孫子の旗(風林火山)・諏訪神号旗などの武田家家宝が、家臣に託され運び込まれた。現在、雲峰寺の寺宝として宝物殿に展示されており見学可能。月曜休館。
*雲峰寺宝物殿HP
http://unpoji.ko-shu.jp/treasure.html(左写真)「理慶尼記」の写しが景徳院境内に置かれている。江戸後期1809年に勝沼で発見された<史料>(?)。理慶尼(りけいに)は武田信玄の従兄妹(いとこ)で、1611年(慶長16年)に82歳で没(墓は田野に近い大善寺にある)。山深い渓谷の崖道での戦闘を尼が見聞していることが疑われ、価値は疑問視されている。勝頼の府中から新府城への移転の日付けは、この書では12月24日と記されている(江戸期に成立した甲陽軍鑑には1月)。(右写真)田野から南方(大善寺方向)を見る。
田野から県道218号を日川渓谷沿いに遡った道路沿いに<土屋惣蔵片手切碑>が置かれている。勝頼一行は、田野よりさらに山中の天目山栖雲寺を目指したが、滝川左近(一益)の軍勢に阻まれ退却する。土屋惣蔵昌恒が殿(しんがり)を務め、崖道の狭所で片手で藤蔓につかまりながら もう片方の手で長刀を振るって奮戦する。討たれた滝川勢の血で日川は赤く染ったという伝説が残る。県道開通以前は、説明板の写真のように細い崖道であったようだ。
勝頼親子の首級の行方を追ってみる。
3月11日、勝頼親子の首級は、三位中将信忠の元に差し出され、直ちに信長のもとに進上。信長は岩村に着陣。
3月13日 信長、岩村から根羽村(穪羽根)へ移陣。は浪合の陣で勝頼親子の首を検分。
3月14日 信長は平谷を越え、浪合(長野県下伊那郡)に陣。勝頼親子の首を検分。矢部善七郎が飯田へ首級を運ぶ。
3月15日 信長 飯田へ陣を移す。勝頼親子の首を飯田で晒す。
3月16日 飯田の陣にて、信長のもとに勝頼が最後に差していた刀(滝川左近が差出)と仁科五郎の芦毛馬などが差し出される。勝頼親子、武田典廐、仁科五郎盛信の四人の首級、長谷川宗仁によって京都へ運ばれ。後日、六条河原(正面橋の約150m上流付近)で獄門に懸けられる。
<<法泉禅寺の三世・快岳禅師は、京都妙心寺塔頭の玉鳳院の南化和尚(後の定慧円明国師)の助けにより、勝頼の首級(歯髪とも)をもらい受けることに成功する。甲斐の法泉禅寺に持ち帰り、勝頼の首級を葬ろうとするが、当時は法泉禅寺は織田勢の陣所として使われていたため、寺内への首級の持ち込みは困難で、法泉禅寺よりさらに北の山中にあった上帯那の三上家を頼ってゆく。快岳禅師の様子に不審を抱いた織田家の家来衆によって、あやうく首級が見つかりそうになったという。禅師は咄嗟に三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中に首級を隠し、難を逃れたと伝わる。禅師はさらに山奥の大馬籠という栗林の中に仮の庵(信向庵)を建て、首級を守り通す。織田信長が本能寺に倒れた後、法泉禅寺に陣していた織田勢は引き払う。その機会をもって禅師は勝頼の首級を寺に移し、丁重に葬ったという。これが現在、「勝頼公首塚」と呼ばれている。>>法泉禅寺のHPから要約。
(左右写真)甲府五山・臨済宗妙心寺派法泉禅寺(甲府市和田町)。武田勝頼廟所にある説明板には、勝頼公の首級を塡(うず)めと明記されている。
法泉禅寺の武田勝頼の墓。甲府市指定史跡。首塚の脇に山桜が植えられている。
*武田勝頼の菩提寺・甲府五山法泉禅寺
http://www4.nns.ne.jp/pri/hosenji/
参考(引用) 短編集「天目山の雲」井上靖 角川文庫1975年刊 「信長公記」太田牛一 角川文庫版
2013年09月23日
2012年2月19日に開館30周年を迎えた映画館「シネマスコーレ」(名古屋駅・新幹線口=中村口から徒歩2分)。「スコーレ」と聞いただけで反応してしまうあなたは超絶映画通です。千駄ヶ谷5丁目に本社を置くスコーレ(株)・・今は亡き若松孝二氏の本拠地・若松プロの建物に、その会社名の表札が掲げられています。 映画館「シネマスコーレ」(映画の学校の意)は、1983(昭和58年)年2月19日に映画監督・製作者である若松孝二氏(当時47歳)をオーナーとして開館しました。以来30年にわたり、メジャー系列では発表の場を得られない作品にスポットをあて、アジア系映画・インディーズ作品などをも巻き込んで上映プログラムを組んできてます。また上映だけでなく外国映画の配給にも積極的に進出。小さい館でありながら有名監督・俳優らが度々舞台挨拶に訪れていることを付記。 1983(昭和58年)の開館第1回目のプログラムは 2月19〜28日 「犯された白衣」若松孝二+「テロルの季節」若松孝二+「聖少女拷問」若松孝二 オーナーである若松孝二のピンク映画製作時代の若松プロ作品3本で幕開け。同年の以降のラインアップは長谷川和彦・高橋伴明・黒木和男・横山博人・東陽一らの監督作品が上映され、4月からは「愛のコリーダ」の大島渚・「セーラー服と機関銃」の相米慎二・「転校生」の大林宣彦ら人気監督作品が続いて上映されました。 全上映作品と若松氏のインタビューなどが同館のHPに掲載されており、地図・上映予告等の情報もあわせて確認できます。シネマスコーレ http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/客席数 51席 名古屋市中村区椿町8-12 アートビル1階 続きの写真を全て見る
2013年09月20日
1973年(昭和48年)当時の名古屋駅前の風景写真を現在(2012年撮影)と並置してみました(2枚だけです)。 1973年の名古屋駅前の毎日新聞中部本社ビル(右端・屋上に毎日新聞の広告)です 2006年に高層ビル「ミッドランドスクエア」竣工に伴い再度同じ場所に移転してきました(右写真の高層ビル) 左写真は1973年撮影の桜通口・・駅ビル(右端)と奥の名鉄百貨店 右写真は外装は変化してますが現役で活躍中の名鉄百貨店ビル・・駅ビルは解体され現在はJRセントラルタワーズがそびえてます 1965年5月竣工の「名古屋ビルヂング」(設計・三菱地所 12階建 地下4階) 2013年に解体・新高層ビルは2015年10月に完成予定 左右共に桜通口 駅前ロータリーに1989年完成のステンレスのモニュメントが設置 左端は解体された名古屋ビルヂング 右写真は2段目左の古写真に対応・・タクシーロータリーに大きな樹が植えられている 右写真は駅前で注目のモード学園スパイラルタワーズ(専門学校 HAL名古屋等入居)2008年3月竣工・・新宿西口のモード学園コクーンタワーと比べるとだいぶ小振りです
2013年09月16日
三島由紀夫の異彩を放つ小説「美しい星」を読み進むうちに、金星人や円盤の世界に引き込まれ始めます。すると季節は12月に。舞台は金沢に移り、兼六園の霞ヶ池を訪れる場面で三島の美しい描写に読み進めなくなります。繰り返し、繰り返し読み返してしまいます。その描写に陶酔するうちに幸福感に包まれてゆきます。 小説「美しい星」で兼六園を訪れる季節は遠い紅葉の落葉が届いている12月・・未だ雪の到来は先ですが、写真は雪の霞ヶ池・・まあ冬ということで デジャブ(いつか視たことがあるという感覚)にとらわれながら女主人公暁子は丘の頂きの霞ヶ池のほとりに達します・・「目(ま)のあたり三羽の白鳥は、それぞれあらぬ方へ朱(あか)い嘴(くちばし)を向けて、ゆるやかに泳いでいた。池の対岸に張り出した内橋亭の茶室の、閉(た)て切った障子の白さが目にしみた。琴柱燈籠(ことじとうろう)のところで池と接する細流(ささなが)れは、清らかな水を運んで倦(う)まなかった。・・・」(P93より)霞ヶ池の描写は続きます。たまたま以前、フィルムで撮影した兼六園のポジに該当するかもと思えるカットがありましたので公開です。 小説をコピーするのは苦痛なので、この先は読んでみてください。刊行は1962年(昭和37年)10月に新潮社より。文庫化は5年後で重版されてます。
2013年03月14日
1994年(平成6年)7月26日午後6時半、吉行淳之介氏は永眠しました。 肝臓がんのため、入院中の築地の聖路加国際病院で亡くなりました。70歳。 故人の遺志によって葬儀・告別式は行われなかったようです。 吉行氏は、老いや病気を前にしても「男のダンディズム」の粋(いき)を貫き、その人生は最後まで「余裕」を失うことはありませんでした。 岡山県岡山市北区御津金川(岡山駅から約15キロ北)の作家・吉行淳之介の眠る吉行家墓地(近年、母あぐりさんにより都内・メトロ外苑前駅近くの寺院に分骨) 1924年(大正13年)4月13日に、ここ岡山の地で吉行エイスケ(詩人)とあぐり(美容師)の長男として誕生。戦後、大学(東大英文科)を中退して雑誌社に入社。1952年「原色の街」が芥川賞候補作品になるが、肺結核を患い入院生活に。会社を休職・退職。清瀬病院に入院中の1954年、娼婦との交情を描いた「驟雨」で第31回芥川賞を受賞。「娼婦の部屋」「寝台の舟」「星と月は天の穴」「暗室」「夕暮れまで」(夕暮れ族という流行語を生む)・・主な文学賞をほとんど受賞したその作品群のなかからこの一篇をと問われれば、「砂の上の植物群」と即答。管理人が最初に吉行氏にふれたのは、作品が映画化されたスクリーンで。映画を観てから「砂の上の植物群」の活字をおったのです。小説・エッセイ・対談集などの読者から、とうとう「吉行家」全体のファンに。妹の吉行和子さんに初めてお会いした時の顛末は別項目で紹介済み。 吉行氏は容態悪化で、最初は5月9日に都内港区の虎ノ門病院に入院、亡くなる1週間前に重篤な状態となり聖路加国際病院に転院。最後を見守ったのは家族(母あぐり・妹の詩人吉行理恵・和子は海外滞在中で間に合わず)や親友の作家阿川弘之氏、実質の伴侶であり寝ずの看病をしていた女優・宮城まり子さん。 (左写真)JR岡山駅の一番西北側(判り易く云うと賑やかで無い方)の津山線のホーム・・この列車に乗って金川駅を目指しました (右写真)その金川駅のホーム・・降りたのは数人 きれいに整備された金川駅前前には3台のタクシー・・実は吉行淳之介の墓地の場所ははっきりと把握しておらず・・有名人なので訪れる方も多いはず・・地元のタクの運転手ならもちろんご存知・・先頭のタクシーに乗り込む・・(衝撃のお言葉)「知りません」・・「テレビ(NHK朝ドラ「あぐり」)でやってた頃はよく来てたみたいだけど、最近は・・・」・・ど、どうすれば (左写真)やっと辿りついた吉行家墓地・・小高い山すそに白塀に囲われた吉行家墓地が見えます(右写真)同じ位置から吉行家本家がある方向・・生家は岡山市で土建「吉行組」を経営しており叔父が後継ぎに・・ 坂下でタクシーを降りて一気に坂を駆け上り(たかったのですが・・実はゆっくり写真を撮りながら歩く)・・吉行家墓地入口に・・やっとお会いできました 右写真の中央後方に見える本家の付近 (左写真)墓誌に刻まれた淳之介氏の戒名・・隣りには最後まで離婚に同意しなかった夫人の名・吉行文枝・・淳之介氏の死後までも果てしなく続く女の自我の争い・・実質的伴侶の宮城まり子さん(上野毛の多摩川に下る坂の途中の自宅に淳之介氏の遺体は病院から戻り、棺の中でなく書斎兼寝室のベッドに横たわって親しい方の弔問を受け付け、京都から駆け付けた瀬戸内寂聴さんの読経・散華の後、7月27日午後3時に出棺・・宮城さんは母あぐりさんの許可で葬式の一切を取り仕切ったのです)の住まいには現在も「吉行淳之介」の表札・・ほかの愛人もそれぞれ淳之介氏との日々を本にして出版してます・・読んだのは大塚英子の「暗室のなかで」だけ・・渋谷のMSにその部屋はあったようだがあいまいにしか記述されてなく場所は不明 (右写真)吉行家墓地からの眺め・・この崩された山が唯一の目印(それと草生の地名)・・この風景を目指してタクシーは出発したのです・・あとは近所(勝手に近くまで来たと判断)で農作業中の方に訊いたら「そこだよ」と指さしてくれたのです (左写真)JR金川駅の岡山方面の時刻表・・本数が少ないので注意 *吉行淳之助氏と宮城まり子さんが生活していた上野毛の住所は、1994年(平成6年)7月27日付けの訃報を伝える朝刊各紙に掲載されてます。妹の詩人・吉行理恵(子)さんは2006年(平成18年)5月4日に逝去され、墓は青山(外苑前)の寺院・・下記リンク参照。 *参考資料 上記日付けの朝日新聞朝刊 「吉行淳之介 街角の煙草屋までの旅」講談社文芸文庫2009年刊(P214に岡山の叔父の会社の記述) 「お墓参りは楽しい」2005年刊 (吉行淳之介墓地の項目・・地図はおおまか) リンク 「北青山 特法寺 吉行家の墓地」 http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html「市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)」 http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html
2013年01月27日
阿部定が千葉県市原市の「勝山ホテル」(従業員勤務)から姿を消して以来、その消息は全く掴めない状態になります。行方不明なのです。 昭和50年前後になると、その「噂」があちこちから聞こえ始めます。 滋賀県の琵琶湖のほとりでの死亡説。同じ滋賀県の尼寺での死亡説。名古屋市内の尼寺での死亡説。熱海の保養所で変名で暮らしている説。 根拠のない「噂」が流れるなかで、「週刊文春」昭和50年3月12日号にかなり確実な情報の記事が掲載。昭和48年11月下旬に滋賀県大津の尼寺「地蔵寺」に尼になりたい者がいてそちらに向かうので宜しくというハガキが舞い込み、翌月の12月中旬になると実際に「阿部定」と名乗る老女が現れたという内容。そして尼である住職へのインタビュー。当日は住職本人は留守でお茶の稽古に来ていた若い女性が応対したと延べ、その老女の写真等による確認は拒否しているのです。「週刊文春」の記事は要領を得ない形で終わっているのですが、参考にしている「阿部定正伝」の筆者は追加確認取材で平成9年に地蔵寺を訪れるのです。健在でいる当時の住職に再取材し、実は留守ではなく、(5人も抱えていて)受け入れられない為に直接応対に出なかったことと京都の寺からの紹介だったことを明かし、さらにその老女は2度と現れてはいないと断言するのです。「阿部定」と本人が名乗ったことが唯一の証しで、それ以上の確証は得られないまま現在に至っているのです。 地蔵寺の近くを流れる早朝の瀬田川 右後方の山の麓に有名な石山寺 紫式部が「源氏物語」の着想を得た地との伝承があります (右写真)石山寺駅に向かう京阪・石山坂本線のローカルな電車 奥正面が阿部定が訪れたと推測される地蔵寺 最寄駅の唐橋前駅方向から撮影・・阿部定もこの方向から来たものと想定できます(右写真)左写真の反対側からの地蔵寺(画面切れの左に墓地) 地蔵寺の玄関 阿部定はこの扉戸を明けた所まで尼になる希望を抱いて・・・・以後全くその消息は途絶えてしまいます 1905年(明治38年)5月28日生まれの阿部定、2012年現在で107歳。地蔵寺の山側(東南側・道路沿い)にある墓地を「もしかしたら」とつい立ち入りたい気持ちになってしまいました。実は「阿部家之墓」と刻まれた墓石が!?奥中央のコンクリ壁の手前にあるのです(もちろん没年等未確認)。また人騒がせなことを・・失礼。 *今回の地蔵寺訪問は早朝というか未明で、主目的は明智光秀の謀反時の唐橋での戦闘の場所の撮影(幕末どころか戦国時代の合戦があった場所にも趣味拡散気味の管理人なのです・・興味ある人も少なく誰も撮影に付き合ってくれないのが現状(特に女性・・甘いものスポットには次は何処とか積極的なのに))。この日は琵琶湖南岸を廻る楽しい?企画の最初のスポット・・で、早朝なのです。阿部定らしき老女が訪れたのは午後・・時間も合わせてシャッターを押したかったのですが。 「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」 http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」 http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」 http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」 http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html「上野 阿部定の足跡 星菊水」 http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」 http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
2013年01月15日
阿部定が名古屋の中村遊郭に娼妓として紹介屋を介して住み替えて来たことは間違いないのですが、「予審尋問調書」だけ読んでいると混乱が生じて年月日があいまいになってくるのです。年表を作成したいのですが、「22歳の正月に」とかが満年齢なのか数えで言ってるのか・・・資料によっては別の場所で短期間だけ働いていたり・・その期間があいまいだったりして・・時間経過がゆがんでくるのです。 1927年(昭和2年)の正月から大阪・飛田遊郭の御園楼に約1年間住み込み、その後、同じ大阪の朝日席で約半年間働く(調書ではこの間が欠落してる)・・1929年(昭和4年)1月には満年齢で23才・・調書では「翌年早々、23歳の時名古屋市西区羽衣町の徳栄楼に前借二千六百円くらいで住み替えました」・・ここでは翌年早々を「1929年(昭和4年)1月」にしておきます。 阿部定は調書で「徳栄楼では二年ぐらい働きましたから、この頃は思い出の多かった時代です」と述べ、「貞子という源氏名で一生懸命働きましたので、売れっ子になり、可愛がられるようになりました」と続ける。この中村遊郭で働くうちに「チフスを患ったりして、だんだん商売が厭になったので、どこかえ住み替えようとして、無断で店を出て・・・」となり結局その後、大阪の松島遊郭に流れて行きます。 当時、この中村遊廓は、大須観音の近くにあった旭遊郭が廃止になり1923年(大正12年)4月に移転・開設されたもので、阿部定が住み替えてきた時はまだピカピカの状態。遊郭内は南側から順に賑町・羽衣町・大門町・寿町・日吉町の5町で構成され、この町名は現在もそのまま存続してます。阿部定の「羽衣町の徳栄楼」は下図で見ると下から2段目の通り・・通りの両側の建物がその町名となるのですが・・調査不足というか資料が見つからないまま。戦後の妓楼名はかなり詳細に判明してるのですが・・・。ここでまた永井荷風を尊敬してしまいます。空襲で焼け野原となり灰燼にきした玉の井の姿を見取り図に残していたのですから。昭和初期の妓楼名・位置が判る資料はあるのだろうか。 中村遊郭跡の羽衣町の通りを名古屋駅方向(東向き)を奥にして撮影 かってはすぐ左側に遊郭「金華」その先には「第2松岡」がありました 現在は後ろにソープ・アラビアンナイトとハーベストムーンが向かいあって営業中 阿部定が在籍した「徳栄楼」は・・・この通りの前なのか後ろの方なのか・・・辿りつけません (右)地図は上が北方向・・中村遊郭の敷地面積は約3万2千坪で東京・新吉原より広いといわれてます・・樋口一葉が描写した「お歯黒どぶ」と同様の堀が、この中村遊郭でもかっては存在してました。現在は全て埋め立てられ細い路地がその痕跡として残ってます・・その路幅は吉原とほとんど同じです。 中村区史には、大正12年の客数65万5千・・昭和12年が全盛で貸座敷数138軒・娼妓2千人。戦後はすぐに「名楽園」と改称し、売防法施行前の昭和32年12月27日に一斉に廃業。現在はその遊郭跡の所々で10軒ほどのソープランドが営業してるのみです(地図にSのマーク)。 現在は営業形態を料理店や一般の会社などに変更して存続しているかっての独特の建物・・「中村遊郭跡」として別にアップする予定です。 「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」 http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」 http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」 http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html「上野 阿部定の足跡 星菊水」 http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」 http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」 http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html参考資料 裁判予審調書 「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開 「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」) 「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」) その他
2013年01月14日
管理人のアルバムに眠っている古写真の公開です。 「秘蔵ネガフィルム発見!ついに近日公開!」とか言ってもったいぶりたいのですが・・・それほどの価値は無くただ古いだけの写真。過去の街並みなどの変遷がわかる古写真等もあるので関連する機会があればアップする予定です。今回は「なんのために・・いつ」撮ったかも失念している室戸岬のモノクロ写真。 幕末の京都で坂本龍馬と会合中に急襲され殺害された土佐・陸援隊を組織し隊長にも就いていた中岡慎太郎(変名・石川誠之介 行年30歳)。高知県室戸岬の突端に昭和10年4月7日にその栄誉を留め置くための像の除幕式が行われ、現在でもその中岡慎太郎像は太平洋に向いて屹立しています。 中岡慎太郎に関する知識は上っ面だけで、昨年11月に高知を訪れた際も「中岡慎太郎館」はパス。京都・四条河原町を40mほど上ったあぶらとり紙屋の前にある「寓居の地」碑には通る度に必ず視線を向けるほど気にはなるのですが、すぐ近くの近江屋に(大声なら会話可能な距離)事件当日、この家から出かけたのかどうかも判らないでいる。陸援隊屯所が置かれていた白川土佐藩邸(百万遍の京大農学部敷地)から近江屋にやってきたのだろうか。幕末期の河原町通は現在の3分の1ほどの狭さで近江屋はほとんど道路の上。「寓居の地」碑を見る度に当時の通りの狭さを何故か意識してしまいます。 室戸岬に立つ中岡慎太郎像 現在とは周囲の様子がかなり違ってます 磯釣りセンターの建物は無くなり駐車場に 写真のおばちゃんは今でもお元気にしてますでしょうか? 像の台座には「贈正四位中岡慎太郎」と縦書きで記され、台座脇のプレートには安芸郡連合青年団と室戸岬町連合青年団の2団体が建立者として並記。慎太郎は脱藩後に長州に逃亡してます。 (右)写真は室戸岬の岩場に砕ける波・・磯釣りに行った記憶無いし・・・?? (左)四条河原町交差点近くの中岡慎太郎寓居の地碑 (右)白川土佐藩邸跡=京都大学農学部の駐車場脇にある石仏群 参考:ブログ「よさこい高知歴史木漏れ日」 http://noburu.blog92.fc2.com/blog-entry-98.html 除幕式のあった月日が不明だったので参考にさせてもらいました。昭和10年とだけプレートには記述されています。
2013年01月13日
阿部定が17才の時、両親は神田新銀町19番地の家を売り払い、埼玉県坂戸町に移り住む。まもなく定の周辺には近所の男との情交の噂が流れ始める。父親の怒りは収まらず、母親らの反対を押し切り、定は横浜に娼妓として売り払われる。だが年齢不足のため当面は芸妓としての扱いとなる。大正11年7月のことであった。芸妓を手始めとしたが、18才を迎えるとすぐさま娼妓に身をやつし客を取り始めている。各地の妓楼を流転する日々がここから始ったのだ。横浜から富山へ、東京に一度は戻るが、次は信州飯田町の妓楼へ移り住む。その後は大阪に新設されて間もない飛田遊郭に住み込み、名古屋の中村遊郭、再び大阪の松島遊郭に移った。阿部定が娼妓として最後の生活を送った地が、山々に囲まれた丹波篠山(ささやま)だったのだ。 1932年(昭和7年)、すでに東京を離れて10年が過ぎ去り、阿部定は27才も終わろうとする年齢になっていた。阿部定の名が全国に喧伝されたあの猟奇事件まで、あと3年と数ヶ月・・・。 *阿部定の出生地は上記のように東京市神田区新銀町19番地で、出身小学校は実家(畳屋「相模屋」)のすぐ西側にあった神田尋常小学校(現在の千代田小学校)。阿部定は15才の時に、この町(神田多町)で始めて男を経験した。これが契機となり奔放な男遊びを繰り返すうちに、17才で父親の怒り買い売り飛ばされることになったのだ。 篠山・京口新地の南方向に位置する御刃代神社前の細道から。現在も田畑に囲まれている。現在の表記は兵庫県多紀郡篠山町。 (左写真)阿部定が在籍していた大正楼。現存している。建物の痛みは顕著だが、所々修理の形跡が見える。(右写真)南に向いた玄関口。大正楼の地番は379-26。現在の住宅地図を調べると所有者名は無記載になっている。 (左写真)正面玄関に向って左の壁面に瓢箪形の明り取りがある。(右写真)向って右の東側の壁面(奥に風呂場がある) (左右写真)上の右奥角の風呂場 ガラス窓は割れたままで内部が見える。アルミサッシ製ドアが確認できる。近年の改修のようだ。 京口新地(遊郭)時代の建造物・遺構はほぼ失われている。新地時代の意匠が残る建物は、大部分が個人の住居として使用されているため位置情報は削除する。27才の阿部定は、この妓楼で最初は「おかる」、その後は「育代」の源氏名を使っていた。近くに駐屯地を設けていた陸軍歩兵第170聯隊の兵隊が主な客であったという。阿部定はこの妓楼で数多くの兵隊の相手を勤めていたのだ。 (左写真)京口新地南側の新地端の用水路 (右写真)かって妓楼として使用されていたと思われる建物 阿部定は、取調べのなかで大正楼では玉ノ井の淫売以下の扱いを受けていたと述べている。27才の阿部定は、極寒の季節にこの妓楼から逃亡した。未明の足元も覚束ない道を3キロ以上離れた駅を目指し歩いたのだ。追手の姿に恐怖し、寒さに震えながら始発の列車に乗り込んだのだ。逃げた先は神戸だった。 *参考にした「阿部定正伝」(1998年刊)P76の「陸軍歩兵第70連隊」の記述は、陸軍第104師団隷下の「歩兵第170聯隊」の誤記だと思われる。 参考 裁判予審調書 「阿部定正伝」情報センター出版局1998年刊 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開 「坂口安吾全集5」(「阿部定さんの印象」)筑摩書房1998年刊 「織田作之助全集5」(「妖婦」)講談社1970年刊 「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」 http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」 http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」 http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html「上野 阿部定の足跡 星菊水」 http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」 http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」 http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html「浅草 阿部定の足跡 百万弗劇場」 http://zassha.seesaa.net/article/319694968.html「渋谷 円山町 阿部定の足跡 待合みつわ跡」 http://zassha.seesaa.net/article/328923946.html「宇治 阿部定の足跡 菊屋旅館跡」 http://zassha.seesaa.net/article/381905711.html「大阪 阿部定の足跡 飛田遊郭・御園楼」 http://zassha.seesaa.net/article/385605810.html
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