2018年06月23日

甲府 武田信玄火葬塚 「甲陽軍鑑」より

元亀3年(1572年)12月、武田信玄は遠江(とおとうみ、静岡県西部地域)に進撃し、浜松城北方の三方ヶ原にて徳川家康と織田信長の支援軍(佐久間信盛ら約3000)を揉み潰し、浜松城に迫った。翌元亀4年(7月改元し天正に)正月、浜松城を包囲することなく、信玄は西上(上洛)を急ぎ、三河野田城を攻囲する。織田からの援軍もないまま野田城は陥落。その頃より信玄は度々喀血を繰り返し(「甲陽軍鑑」においては死因は胃癌)、武田軍は信濃・甲州への撤退を決定する。撤退中の4月12日夜、武田徳栄軒信玄は信濃駒場にて「3年間の秘喪」を遺言し病没する。53歳。「甲陽軍鑑」は、鉄砲に当たったのではないかとの流言を、愚かな虚言と否定し取合っていない。

「甲陽軍鑑」明暦本 品第卅九目録・巻第十二より
 野田落城付信玄三州(*三河)より帰陣  
<<天正元年(*元亀4年)正月七日に、信玄公、遠州刑部(おさかべ)を御立有、本坂(*現・三ケ日町の西、本坂峠)を打越シ、同月十一日に、三河野田の城へ取詰攻給ふに、家康より信長へ小栗大六と云者を使にして、後詰(*援軍)の有ルやうにと憑申され候へども、信長不被出候。二度の使にても、信長出る事なき間に、菅沼新八郎降参いたし、野田の城をあけわたし申候(略)
其後信玄公御煩(わずらい)悪(あしく)御座候て、二月十六(七)日に御馬入。家康家、信長家雑人の沙汰に、信玄野田の城攻るとて、鉄炮にあたり死給ふと沙汰仕る。みな虚言(そらごと)也。惣別武士の取あひに、よはき方より、必(かならず)うそを申候。越後輝虎(*上杉謙信)と御取合(*合戦)に、敵味方共に、うそ申たる沙汰、終(つい)に無之。>>
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三方原(みかたがはら)古戦場跡碑。武田軍2万5千と徳川軍1万1千が激突した戦場跡。鶴翼の陣で対抗した徳川勢は、なすすべなく武田軍に粉砕され浜松城に敗走。家康は危ういとこで一命を取り留めている。

 信玄公逝去付御遺言之事より
<<四月十一日未(ひつじ)の刻より、信玄公、御気相悪(きあいあしく)御座候而、御脉(みゃく)殊ノ外はやく候。又十二日の夜、亥刻に、口中にはくさ出来、御は五ッ六ッぬけ、それより次第によは(*弱)り給ふ。既死脉うち申候につき、信玄公御分別あり。(略)
信玄煩(わずらう)なりといふ共、生て居たる間は、我持の国々へ手さす者(*侵略する者)は有間敷(あるまじく)候。三年の間、深クつゝしめ、とありて、御目をふさぎ給ふが、又(また)山県三郎兵衛をめ(召)し、明日は其方旗(*武田軍旗)をば瀬田(*近江国瀬田、京への入口)にたて候へ、と仰らるゝは、御心みだれて如此(*上洛の途にあるものと意識混濁)。然共、少有て、御目を開キ仰らるゝは、
  大底還他肌骨(きこつ)好
  不塗紅粉自風流
とありて、御とし五十三歳にして、おしむべし、おしかるべし、あしたの露ときえさせ給ふ。をのをの御遺言のごとく仕候へども、家老衆談合のうへ、諏訪の海へ(御尊骸を)しづめ申事ばかり、(御弔は)不仕。三年目四月十二日、長篠合戦一月前に、七仏事の御弔仕り候。(略)>>
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古府中の信玄の居城躑躅ヶ崎館の北東、岩窪町にある武田信玄火葬塚。

「甲陽軍鑑」品第五十一より(信玄の秘喪)
<<小田原北条氏政より、信玄公御他界かと有儀、能見届(みとどけ)申べきために、いたひえ岡江雪(*北条氏政の臣・板部岡江雪、後に秀吉お咄衆)を差越なされ候。武田の家老、各はかりことをもつて、江雪をしばらくとゞめ、(種々)仕様を仕り、其後夜に入、逍遥軒(*信玄の弟、武田信綱)を信玄公と申、御対面なされ、八百枚(の紙)にすへをき(置)給ふ御判の中にて、いかにも御判の不出来なるをえらび、御返事をかき、江雪にわたし候へば、さすがにかしこき江雪も、まことに仕り、小田原へ帰、信玄公は御在世なりと氏政へ申上候故、御他界の取沙汰なき也。>>
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3年間の秘喪の後、信玄の遺骸は土屋右衛門昌次(昌続とも、長篠合戦で戦死)の屋敷にて荼毘(火葬)に附された。葬儀は天正4年(1576年)4月16日に武田家菩提寺の恵林寺(1564年に菩提寺と定められている)にで執行された。
江戸時代の安永8年(1779年)、甲府代官中井清太夫が土屋邸跡から石棺を発掘、その銘に<天正元年癸(みずのと)四月十二日薨>とあり、信玄の墓と確定される。この時、武田家旧臣らが石板を建立し、この地を信玄公の聖域と定めた。

撮影は2011年(三方原古戦場跡碑は2014年撮影)。
***原文に無いルビ、注釈(*)も適宜振りました。
参考 乾徳山恵林寺HP http://erinji.jp/
   岩窪町自治会火葬塚説明版
   「関八州古戦録 戦国史料叢書15」1967年刊


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2018年06月16日

青森大湊町 恐山 寺山修司「田園に死す」より

荒涼とした岩場に硫黄の臭気が立ちこめ、いくつもの赤い風車が回り続ける、日本三大霊場のひとつ、
恐山。吹き抜ける風に乗って死児たちの合唱が大きく小さく流れ來る。
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<<恐山へ向かう山道
 馬車に積まれた女の死体が、橋を渡ってゆく。死体は馬車から半分ずり落ちて、
 髪の毛が地に引き摺られてゆく。
 三途の川を渡ると、橋の向こうは恐山地獄だ。からすが群れている。
 馬車の後ろから、学生帽の一人の少年が、風呂敷に包んだ遺品を抱いて、泣きながら蹝(つ)いてゆく。
     亡き母の真赤な櫛(くし)を埋めにゆく恐山には風吹くばかり

恐山の霊場
 荒涼とした恐山の霊場の本堂正面。死児たちの合唱「こどもぼさつ」
    さいのかわらにあつまりし みづこ まびきこ めくらのこ
    てあしはいわにすりただれ なきなきいしをはこぶなり
    ゆびよりいずる ちのしづく
    みうちをあけに そめなして
    ちちうえこひし ははこひし よんでくるしくさけぶなり
    ああ そはぢごく こどもぢごくの あ――  

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かって(遠い昔、TVロケで)恐山を訪れた際、長逗留した旅館(花水館)。JR大湊駅周辺を検索したが見つけ出せない。さらに下北半島の奥地であったか。記憶が薄れている。

サーカスの天幕小屋
 少年、楽屋の裏にそっとまわりこむ。中から、ふくみ笑いのようなのがきこえてくる。
 少年、立ち止まつて、そっとゴザをめくって見ると、中で蛇遣いの女と黒メガネの男が、
    全裸で、立ったままからみあっている。
 少年、ハッとしてゴザをおろす。
 少年「地獄だ!」と言うなり、一目散に逃げ出す。

     濁流に捨て来し燃ゆる曼珠沙華あかきを何の生贅とせむ

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古き時代(1977年頃)のJR大湊駅。右後方の大きな山が、霊場恐山。*曼珠沙華は合成

恐山に置かれた仏壇。時が過ぎてゆく。
少年の家の中。私と母親、向き合って二十年前と同じように御飯を食べている。
私と目が合うと、母親、満足そうに、にっと笑う。
私「(声)どこからでもやり直しはできるだろう。母だけではなく、私さえも、
私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎないのだから。そしてこれは、たかが映画なのだから。
だが、たかが映画の中でさえ、たった一人の母も殺せない私自身とは、いったいだれなのだ!?
生年月日、昭和四十九年十二月十日。本籍地、東京都新宿区新宿字(あざ)恐山!!」 >>

映画「田園に死す」台本より(1974年公開)。
「寺山修司全シナリオ1」1993年フィルムアート社より抜萃。
寺山修司リンク
渋谷 寺山修司住居侵入事件現場(再開発・更地)http://zassha.seesaa.net/article/322512179.html
三田 人力飛行機舎跡 寺山修司少女詩集からhttp://zassha.seesaa.net/article/459609007.html
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2018年06月07日

御殿場 富士霊園 作家高橋和巳と高橋たか子の墓標

高橋和巳(かずみ)は、京都大学在学中から小説を執筆する傍ら、京都大学大学院に進み、中国文学者として教職(明治大学助教授・京都大学文学部助教授)に就く。代表作は、「憂鬱なる党派」「悲の器」「日本の悪霊」「我が心は石にあらず」など。その左派的な思想は、1970年前後に先鋭的な思考を持つ学生層から圧倒的な支持・共振を得ていたが、1971年5月3日に入院中の東京女子医科大学病院で死去(39歳)。京都大学在学中に知り合った同じ京大生岡本和子と卒業後に結婚。夫人もまた小説家(ペンネーム高橋たか子)として作家活動をおこなった。高橋たか子が亡くなったのは、高橋和巳没後42年を経た2013年7月、よって2012年撮影の以下の墓誌写真には夫人の名入れは行われていない。
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39歳で散華した高橋和巳の墓は、富士山を近くに望む広大な冨士霊園の一画にある。

高橋たか子「高橋和巳の思い出」1977年初版・構想社より抜萃。
<<主人は要するに自閉症の狂人であった。私がこう書いて、驚く人があれば、その人の洞察力がにぷいのである。私との関係では、私に甘える気持から、それがはっきりした形をとり、他の人々との関係では薄らいで表われたにすぎない。主人をあたたかい人と言う人もあり、反対に冷たい人と言う人もある。どちらの言葉も当っていない。自分の想念を撫でさすってくれるものに出会った時にたまたまあたたかい顔をしたのであり、自分の想念とは異質なものに出会った時にたまたま冷たい顔をしたのである。(略)主人は閉ざされた宇宙のなかで観念の積木遊びをしていたのだ。一つ、二つ、三つ、と観念を積んでいき、黙々と、ただ一人で、積んでいく。僅かの積木ではまとまった形をつくることがむつかしいらしい。短篇は向かないのだ。おびただしい積木を巨大な形に積みあげていくのが性に合っている。或る凹みに一つ加え、それがきっかけで、そこにもう一つ加え、そうすると、そこから次々と形が思いつかれてきて、さらに膨れあがり、どこまでも膨れあがって、大長篇になる。>> 「かわいそうな人だといつも思ったこと」より
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<<昭和四十四年の夏休みに、主人は鎌倉の自宅で腹部の痛みをおぼえるようになった。休み明けに、痛みをおして緊急の仕事のために京都へ行った。そのまま京都の下宿にいて、京大での講義に出ていた。十月、京都の石野外科で、胆嚢がわるいための痛みと診断されて手術と決ったので、私が出かけていった。だが再検査の結果、胆嚢に異常がないとわかり、それでも痛みがあるので、徹底的に精密検査をすることに決めた。キリスト教関係の病院に入りたいと主人が言うので、東京の聖路加病院に入院させた。そこでの検査の結果、どこにも異常は発見されなかった。しかしその後も痛みがとまらず、鎌倉の自宅で療養し、近所の内科医には時々往診してもらっていた。昭和四十五年三月に京大退職。四月中旬に痛みが激烈になり腹の一部が膨れたので、近所の内科医が外科医を連れてきて、外科医の限局性腹膜炎という診断のもとに、東京の綜合病院での手術をすすめられた。坂本一亀氏の紹介で、四月三十日に東京女子医大消化器病センターに入院。その翌日、レソトゲソ検査によって結腸に癌ができていると判明したことを、私だけが主治医から知らされた。この衝撃的な事実を自分の心にがっちり受けとめるまでは誰にも言うまい、と私は思い、二日間黙りこんだ。その沈黙の底から浮かびあがってきたのは、宿命という言葉であった。主人は癌で死ぬべき人なのだ。その性格からもその文学からも、そういう宿命が匂っている。二日間かかってそのように納得がいった後、極秘という約束で坂本氏に知らせた。>>「臨床日記」より 
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夫人高橋たか子は、2013年7月12日に心不全で逝去。81歳。代表作は「空の果てまで」(田村俊子賞)「ロンリー・ウーマン」(女流文学賞)。
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2018年05月30日

姫路 おきく井戸 小泉八雲「日本瞥見記」より

小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)の随筆「日本瞥見記」(Glimpses of Unfamiliar Japan)に収められ、「潜戸(くけど)」の章で語られる<播磨国姫路のおきく井戸>の話、おきくさんの幽霊が自害した屋敷の井戸からもどってきては、いちまい、にまい、と悲しい声で皿を数える<あの物語>だ。姫路城内の曲輪に<おきく井戸>と伝わる大きく深い井戸が残され、インスピレーションの強い人には井戸の闇から幽かに<おきく>の悲しい声が聞こえてくる、という。
瞥見記の読みは、べっけんき。瞥見の意味は、ちらりと見ること。

<<日本の國に、キクを植えると不吉なことがあると考えているところが、一カ所ある。そのわけは後でわかるが、ところは播磨(はりま)の國の姫路という小さな美しい町である。この姫路の町には、今でもやぐらの三十もある大きな城がのこっている。むかしは三十六萬石の大名が、代々ここに住んでいたところである。その大名の重臣の屋敷に、良家の娘で「おきく」という女中がいた。「おきく」とは、キクの花を意味する名前である。おきくは、主家にある数々の貴重な什器(じゅうき=皿など)の出し入れをあずかっていたが、その貴重な蔵品のなかに、十枚そろった高價な黄金の皿があった。その皿の一枚が、にわかに紛失して見えなくなった。役目の責任を感じたおきくは、自分の身に科(とが)のないことを、ほかに證(あか)すすべもわからぬままに、屋敷の井戸に身を投げて自害した。>>
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姫路城内郭、天守の真下に<おきく井戸>が残されている。

<<ところが、井戸に身を投げて死んでから、毎夜、おきくの幽霊が屋敷へもどってきては、さめざめと泣きながら、かの皿をしずかに數(かぞ)える聲(*声)が聞こえるのである。
  いちまい にまい さんまい よまい ごまい ろくまい しちまい はちまい くまい
そこまで数えると、絶望的な聲をあげて、わっと泣き入る聲が聞こえ、やがてまた、悲しそうな聾がくりかえし皿を数えるのである。>>
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井戸の闇から<おきく>の腕がにゅっと伸びてきて足首をつかみ引きずり込もうとする、それを防止するため金網が張られている(ホントかな)。
<<まもなく、おきくの魂魄は、奇妙な小蟲(むし)のなかに宿った。その蟲は、頭のかっこうが、長い髪をふり亂した幽霊の姿にどことなく似ている。「おきく蟲」といっているが、この「おきく蟲」は、姫路以外の土地にはどこにもいないそうである。
後年、おきくのことは芝居にも仕組まれ、「播州お菊皿屋敷」という外題(げだい)で、今でもほうぼうの大衆劇場で上演される。(略)>>

*ルビ、注釈は本文にないものも適宜附けてあります。
「日本瞥見記」「小泉八雲 明治文学全集」1989年筑摩書房に収録。

参考
姫路 お菊神社 志賀直哉「暗夜行路」より http://zassha.seesaa.net/article/453968932.html
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2018年02月07日

滋賀長浜 長濱八幡宮の新旧写真

国の重要無形民俗文化財「長浜曳山まつり(曳山行事・昭和54年指定)」で知られる滋賀県長浜市宮前町に鎮座する長濱八幡宮の約40年の歳月をまたいだ新旧写真(2014年カラーと1977年頃モノクロ)。
長濱八幡宮の創建は、社伝に基づけば延久元年(1069年)に源義家(玄孫が源頼朝)の奏請により、後三条天皇の命で、石清水(いわしみず)八幡宮(京都八幡市)から分祀、勧請されたという。鎌倉後期から現れる八幡荘の鎮守とされる。戦国期の兵火により社殿の多くが焼失したが、織田信長から浅井(あざい)氏旧領を拝領した羽柴秀吉が、居城とする長浜城を築城する頃(社地免除は天正2年)には、城下に社坊70を数えたという。元和3年(1617年)、2代将軍徳川秀忠は、八幡庄内(11郷)の社地170石を安堵(20石は舎那院)している。明治新政府の神仏分離政策により、八幡宮と舎那院(八幡宮の東隣)に分離され、他の社坊は消滅した。
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時間がゆったりと流れる参道口。右奥の郵便ポストが四角い形状の今風なポストに変わっている。
もう少し古写真のアングルに合わせればよかった。
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長い参道の傍らには芭蕉(はせを)句碑が建つ。碑陰に建立年は刻まれていない。
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春の例祭「長浜曳山まつり」(4月15日)。
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境内の何処に曳山が勢揃いしていたのか、まったく記憶に残っていない。
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能舞台を構える長浜八幡宮は江戸期の能装束(紅地扇面散文様唐織能装束など2領・県指定有形文化
財)を所蔵している。
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長浜曳山祭の江戸期の山車13基(長刀山・月宮殿・春日山など)は県の有形民俗文化財に指定。 
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天満宮(祭神・菅原道真)。誰でも知っている学問守護の神。
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金刀比羅宮・河濯(かわそぎ)神社(祭神・瀬織津姫命せおりつひめのみこと) 。6月・12月の晦日に
斎行される信仰神事(大祓の神)は本邦最古。
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小さい子供も今では40歳代となっている。元気にしていられるだろうか。
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放生池。
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明治維新で分離された真言宗勝軍山舎那院。平安・鎌倉期の3点の国指定重要文化財を蔵している。
本尊愛染明王坐像、阿弥陀如来坐像を国宝とする石柱が門前に建っている。他の1点は画像で絹本著色
三月経曼荼羅図。参考にした「寺院神社大事典」では、県指定文化財の絹本著色不動明王像(画像)も
重文扱いにしている。
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参考:「寺院神社大事典 近江・若狭・越前」1997年刊
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2018年01月04日

長崎・鍛冶屋町 レストラン銀嶺 「荒木陽子全愛情集」より

写真家荒木経惟(のぶよし)と陽子夫人の新婚旅行(センチメンタルな旅・1971年7月)は、青山での挙式・披露宴の後、まずは京都に移動し1泊。翌朝から京見物に繰り出し、行き違いはあったもののどうにか大阪港に移動し、別府行きの関西汽船に乗り込む。夜の瀬戸内海をすべるように進む新婚夫婦を乗せた客船は、翌朝早く別府港に入る。大牟田経由で柳川に移動した夫妻は、旧・立花藩の武家屋敷跡を利用した和風旅館にチェックイン、鰻(うなぎ)の蒲焼を食したあと(連チャンで鰻を食べまくったようだ)、陽光降り注ぐ広い庭園でさっそくヌード撮影、新婦陽子さんはさっとTシャツを脱ぎ棄てる(上半身裸のジーンズ姿の数葉が写真集に組入れられている)。宿の裏門を抜けた先の小さな木橋から船下りの光景を目にした陽子さんは、さっそく翌日のプランに組み込む。

以下、荒木経惟写真集「わが愛、陽子」収録の荒木陽子書下しエッセイから抜粋。
<<船下りを終えて宿に帰り、風呂の帰りに売店に寄ると、白秋の「思ひ出」の復刻版を売っていた。近くにある白秋の生家にも立ち寄らなかった私達は、柳川を出て長崎に向かう汽車の中で、その色硝子のような言葉の世界に魅せられていた。
 最終目的地の長崎に着いて「銀鈴(ママ)」というレストラン(*正しくは「銀嶺」)に入った。装飾的な古いランプやギヤマンの器などが、礼拝堂のような感じのするうす暗い室内にたくさん飾られており、その長崎的雰囲気の中でステーキを食べた。>>
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当時、市内鍛冶屋町にあった「レストラン銀嶺」。1930年(昭和5年)創業の老舗レストランで
全国的に知名度が高かった。そのようなレストランを陽子さんが見逃すはずがない。
写真は、1970年代後半にTV番組ロケで長崎を訪れた際にキャスト(女優吉行和子さん)・スタッフ一同で
夕食に立ち寄った時のもの。店頭などを撮影した記憶があるがネガが見つからない。白い台紙に貼った
コースター(上写真)が残っているだけ。
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市内を流れる中島川に架かる眼鏡橋(国内最古の石橋。長崎大水害で損壊する前の旧橋と両岸の風景)。長崎大水害(1982年7月23日〜24日、1時間187mmの猛烈な降雨を観測)で市内は激甚な被害を受け、この時に「レストラン銀嶺」も閉鎖されたと思える。右手やや後方300mほどの所に店があった。現在は長崎歴史文化博物館内に移って営業中。
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<<帰路は、寝台車で十何時間も揺られ、やっと東京に着く。二人ともさすがにクタクタに疲れていた。
これが以前だったら、それではさようなら、とお互いの家に帰るところだが、今日から旅に出ても同じ家
に帰るわけだ。フシギな気持ちがする。新居はアパートのlKの部屋(*三ノ輪)である。狭い部屋では
あるが、新しい生活のベースキャンプである。(略)>>

荒木経惟写真集「わが愛、陽子」1978年朝日ソノラマ刊(荒木陽子書下し7篇収録)より。
「荒木陽子全愛情集」2017年港の人(鎌倉市)刊

荒木経惟リンク
世田谷 写真家荒木経惟(アラーキー)の陽子もチロもいない新家http://zassha.seesaa.net/article/400445825.html
豪徳寺 写真家荒木経惟(アラーキー)と陽子とチロの遺家http://zassha.seesaa.net/article/284210221.html
原宿 荒木経惟「文化写真」 展(ミニギャラリー) http://zassha.seesaa.net/article/454860200.html
京都・四条河原町 喫茶・築地http://zassha.seesaa.net/article/455847835.html
渋谷 青学会館 荒木経惟・陽子夫妻の挙式会場http://zassha.seesaa.net/article/455890811.html
鎌倉 近代美術館付属カフェ<ラ・ミュゼ> 「荒木陽子全愛情集」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/456022608.html
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2017年12月14日

静岡 旧制静岡高校 吉行淳之介「焔の中」より

作家吉行淳之介は、昭和17年、麻布中学(麻布区、現港区)を卒業後、旧制静岡高等学校(静岡市)文科丙類に入学する。翌昭和18年4月心臓脚気と偽り静高を休学(1年間)。時に対英米戦争は苛烈を極め、ガダルカナル島の守備隊は全面撤退、連合艦隊司令長官山本五十六は戦死、アッツ島守備隊は全滅、国内では女子学徒の動員も決定される。昭和19年4月、吉行は静高2年文科甲類に復学するが、8月になると召集令状を受け、陸軍2等兵として故郷岡山の聯隊に徴兵(甲種合格)される。玉砕確実視された部隊への入営直後から、狂喜の「生還」までの過程が小説「焔の中」で語られている。
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旧制静岡高校跡地(戦後、新制静岡大学文理学部キャンパスとして継承、現在は市立城北公園)。

「焔の中」群像1955年4月号初出、単行本「焔の中」1956年12月新潮社に収録。
<<昭和十九年の初春に徴兵検査を受けた僕ならびに友人たちは、翌年の春までのほぼ一カ年のうちに次々と入営の令状を受取った。令状を受取る時期は、全く予測できなかった。一時間後に舞い込むかもしれないし、あるいは一カ年後まで学生生活を続けられるかもしれない。僕たちの大部分は、令状が届くのが一日でも遅いことを願っていた。といって、学生生活が楽しかったわけでもない。飲酒退校、喫煙停学、という校則がことごとしく設けられていたし、一挙手一投足が監視され口喧しく指図されていた。そうなると、一つ一つ僕たちは相手が静め込もうとする枠からはみ出した行動をしたくなってしまう。そして、その結果として不愉快な苛立たしい気分に陥ることになるのだ。そういう気持を、毎日繰返しているのが、僕たちの仲間の学生生活だった。しかし、それは一つには反抗する余地があるから、そういうことにもなるのである。反抗すれば死刑、という動かぬ規則があれば、事情は余程違ってくる筈だ。なまじ僅かながら自由のようなものが残されているから、かえって煩わしいことになってしまうのだ、と、
「これで、かえってサッパリしたよ」
と入営令状を手にして言う友人も、稀にはあった。一種、自暴自棄の状態ということができよう。僕に令状が届いたのは、八月中旬だった。九月一日に0市の連隊に入営せよ、という通知である。友人たちの一人も、同じ月に別の連隊に入営することになった。(略)
 0市(*岡山市)へ向って出発する時には、友人たちは駅まで見送ってくれた。僕を乗せた汽車が遠ざかって行けば、それっきり僕と友人たちと会う日は来ない筈なのだ。なにしろ、僕は甲種合格の現役兵として入営するのである。特殊な部隊へ入れられて、危険な戦線へ向けられることは、確実といってよい。友人たちは、惜しみなく別離の情をそそいでくれた。果して、僕の所属した歩兵部隊は「突部隊」という名称で、数カ月の猛訓練ののち現地へ派遣されるという話であった。>>
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かっての正門脇に設置された留魂記に刻れているように旧制静岡高等学校の創立は1922年8月。廃絶は1950年(1949年5月新制静岡大学発足により学部包括)。その後、国立静岡大学は1968年に同市駿河区大谷に全面移転。跡地は整備され、静岡市立城北公園として1985年に市民に開放された。

「焔の中」続き。
<<「風邪をひいた、とおもうのであります」
「カゼだと、ふん緊張が足らんから風邪などひくのだ。」
医務室の軍医も、咎(とが)めるような鋭い口調で言った。
「どこの学校だ」
「S高であります」
「何年生だ」
「二年です」
「あと半年で、大学へ進むところだったんだな」
会話の途中で、不意に軍医の語調から巌しさが消えた。
その変化は、驚くほど際立っていた。
S高に、軍医が個人的因縁を持っているのかもしれぬ、と僕は考えた。
「ともかく診てみよう」
と軍医は気軽な調子で言った。僕はほっとしてシャツを脱いだ。この按配では、一日ほど寝ていることができるかもしれない、と聴診器の先がヒヤリと皮膚に当るのを感じながら、大きな呼吸を繰返した。その度に、気管支でかすかに鳴る音が聞えるようだ。もっと大きな音で鳴れ、と僕は一層深く息を吸い込んだ。
軍医は聴診器を耳から外し、隣の椅子に坐っているもう一人の軍医の方を向いて、低い声で話しかけた。その囁くような声は、僕の耳に届いた。それはまったく思いもかけぬ、夢想さえすることのできなかった内容なのだ。
「これは、気管支ゼンソクですな。隊は『突部隊』ですから、ちょっとムリでしょう。どうしましょう、帰しますか」
喘息という病気の名前は知っていたが、それに関する知識は皆無だった。その病気と僕とは、無関係だとおもっていたからだ。しかし、そのことよりも遥かに衝撃を受けたのは、即日帰郷になるかもしれぬ、ということだ。表情が変りそうになるのを、辛うじて押しとどめた。軍医は、僕の方に向き直って訊ねた。
「おまえは、自分がゼンソクだということを知っていたか」
「知りませんでした」
「呼吸が苦しくなるときには、吸う息が苦しいか、それとも吐く息が苦しいか」
「たぶん、吸う息です」
すると、軍医はちょっと首を傾げ、ふたたび隣の椅子の軍医の方へ顔を寄せて、相談をはじめた。二人の軍医の囁き交す声は、今度は僕には聞き取ることができないのだ。
やがて、軍医は僕の眼を覗き込むようにしながら、言った。
「おまえは気管支ゼンソクだからな、帰すことにする。隊へ戻って、命令の出るのを待機しておれ」
すこしも表情を変えることなく、僕は隊の方へ歩いて行った。しかし、堅い筈の地面を踏む足に、ひどくふわふわしたものを踏みつけている感触が伝わってくるのだ。兵舎へ戻ると、軍服を脱いで学生服に着替え、自分の寝る場所の上に正坐した。(略)
 軍医の診断を受けてから、一昼夜経って、やっと命令が届いた。兵営の広い庭を横切りながら営門へ向って歩いていると、どこからともなく兵長が再び姿をあらわして、僕の耳に囁いた。
「しっかりがんばれよ。ヤマモトさんに伝えておくぞ。しつかりした同志に会ったとな」
兵営の門を通り抜けて、振向くと、兵長の小さな姿が大きく手を振って別れを告げているのだ。営門から0市まで約四千メートルの道を、僕は急ぎ足に歩いて行った。このときはじめて、嬉しさが爆発したように、胸の中に渦巻いた。途方もなく大きな声で、やたらに叫びたい気持だった。僕はあたりに人影のないのを見定めて、ケ、ケ、ケ、一ケッ。と、わざとはっきり発音して、笑い声とも叫び声ともつかぬ声を出しつづけながら、前のめりになって歩いた。(略)>>
抜粋は「吉行淳之介全集第5巻」1998年新潮社より。
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吉行淳之介は旧制高校時代のエピソードを様々な角度からエッセイ等で描写している。
<<私の入学したのは静岡高校で、市のはずれの賤機(しずはた)山の麓のところに校舎があった。旧制度では中学が五年まであったから、高校一年生の年齢は現在の制度の大学一年生とほぼ同じに当る。
静岡高校の場合、一学年の総数は文科三クラス理科二クラス合わせて二百人、一年生は六つの寮に入って、寮生活を送ることになっていた。校庭に出て、校舎を背にすると、真正面に富士山がある。視野いっぱいになるほどの大きさで眼の前にあり、富士山は日常生活の中に入ってしまった。その上、その富士山に厭な色の膜がかかるようになってきた。
私の静高在学は、昭和十七年四月から二十年の三月、つまり太平洋戦争の期間にほぼ等しい。高校生括にも軍国主義は這入り込んできていた。毎朝、校庭に集団で富士山へ向って整列した。体操をさせられて、軍事教練の教官が指導に当っていた。生徒が代表になって、手本を示したこともあったような気がする。整列した私たちの前に台が置かれ、その上に選ばれた生徒が立って、威勢のよい号令とともに体操の手本を示す。その向うに富士山がある。厭な光景だった。旧制高校に入学すれば、一人前の大人と見倣された時代がつづいていた。生徒が体罰を受けることは有り得ない。しかし、時代は変ってきた。心理学の教授が、授業中に一人の生徒を殴った。講義を聞かずにぼんやり窓の外を眺めていたという理由である。その生徒ほ憮然とした表情のままでいたので、その教授は気が狂ったように殴りつづけた。
 二学期になって、現役の陸軍大佐が教練の教官として配属された。この大佐は、軍服姿で校内を歩きまわり、しばしば生徒を殴るのである。入学してからの一年間、私はほとんど毎日のように街に出て、映画を見たり酒を飲んだりした。東京よりはかなり物資が豊かであったが、それでも酒は一人につき銚子二本まで、ときめられていた。そこで馴染みの飲屋をようやく四軒つくり、都合八合、あとは酸っばい葡萄酒を飲ませる店を見つけて、そこで仕上げをした。自分では酒に強いつもりでいたが、それらの酒はかなりの水で薄めてあった筈だ、ということに後年気づいた。静岡は城下町で、町はずれの寮から濠端を歩いて街まで往復する。燈火を暗くするきまりの時代だったので、濠端の道は真暗だった。(略)>>
「富士山」群像昭和56年10月号初出。吉行淳之介エッセイ集「犬が育てた猫」1987年潮出版から抜粋。

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かっての旧制静岡高等学校の広大な敷地には、曇天から雨に変わるのか、グレーの靄がかかり始め、見通しがきかない。「富士山へ向って整列した」光景も求めようがない。
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徴兵を免れた吉行淳之介は敗戦の年の4月、東京帝国大学文学部英文科に進学する。翌月25日の東京山ノ手大空襲で市ヶ谷新坂の実家(吉行あぐり家)一帯は全焼、焔の中を逃げ回る。小説「焔の中」にこの間の詳細が語られている。

参考:吉行淳之介随筆集「街角の煙草屋までの旅」講談社文庫収録の年譜。
吉行淳之介リンク
岡山 作家・吉行淳之介の墓http://zassha.seesaa.net/article/346550974.html
北青山 特法寺 吉行家の墓地http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html
世田谷 作家・吉行淳之介 終焉の地http://zassha.seesaa.net/article/387061049.html 
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2017年12月13日

姫路 白鷺城(姫路城)天守 泉鏡花「天守物語」より

泉鏡花作「天守物語」の舞台は、白鷺城(姫路城)の本丸天守で、主人公は人間界と隔絶された天守最上階に住みつく妖怪・富姫。「天守夫人」富姫とその侍女たちが侍る最上階に、富姫を慕う会津猪苗代城天守に住む天真爛漫な亀姫が天空を翔び越えて現れる。富姫と亀姫の邂逅を祝う宴は異様なまでに華やぐ。妖怪亀姫の手土産は猪苗代城主の血にまみれた生首であった。
若き鷹匠・図書之助(ずしょのすけ)は大殿の放った鷹を追い、天守最上階へ上り、富姫と相まみえる。互いに許されるはずのない恋心を抱き始めるのだが・・・・
夫人 (間)誰(たれ)。
図書 はつ。(と思はず膝を支く)某(それがし)。
夫人 (面のみ振向く、無言)
図書 私は、当城の大守(たいしゅ)に仕(つか)ふる、武士の一人でございます。
夫人 何しに見えた。
図書 百年以来、二重三重(*本丸天守閣)までは格別、当お天守五重までは、生(しょう)あるものゝ参つ
   た例(ためし)はありませぬ。今宵、大殿の仰せに依つて、私、見届けに参りました。
夫人 それだけの事か。
図書 且(か)つ又、大殿様、御秘蔵の、日本一の鷹がそれまして、お天守の此のあたりへ隠れました。
    行方を求めよとの御意(ぎょい)でございます。
夫人 翼あるものは、人間ほど不自由ではない。千里、五百里、勝手な処へ飛ぶ、とお言ひなさるが可
   (よ)い。用はそれだけか。
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図書 御天守の三階中壇(ちゅうだん)まで戻りますと、鳶(とび)ばかり大(おおき)さの、野衾
   (のぶすま*コウモリ・ムササビのような妖怪)かと存じます、大蝙蝠(こうもり)の黒い翼に、
   灯を煽(あお)ぎ消されまして、いかにとも、進退度を失ひましたにより、灯を頂きに参りました。
夫人 たゞそれだけの事に。・・・・二度とおいでゝないと申した、私の言葉を忘れましたか。
図書 針ばかり片割月(かたわれづき)の影もさゝず、下に向へば真の暗黒、男が、足を踏みはづし、
    壇(だん)を転がり落ちまして、不具(かたわ)になどなりましては、生効(いきがい)もないと
    存じます。
    上を見れば五重の此処より、幽(かすか)にお灯がさしました。お咎(とが)めを以つて生命を
    めされうとも、男といたし、階子(はしご)から落ちて怪我をするよりはと存じ、御戒(おんいま
    しめ)をも憚らず推参(すいさん)いたしてございます。
夫人 あゝ、爽(さわや)かなお心、そして、貴方はお勇しい。灯を点けて上げませうね。(座を寄す)
図書 いや、お手づからは恐(おそれ)多い。私が。
夫人 否々(いえいえ)、此の灯は、明星、北斗星、竜の灯(りゅうのともしび)、玉の光もおなじこと、
    お前の手では、蠟燭(ろうそく)には点きません。
図書 はゝツ。
夫人、世話めかしく、雪洞(ぼんぼり)の蠟(ろう)を抜き、短檠(たんけい)の灯を移す。
燭(しょく)をとつて、熟(じつ)と図書の面(おもて)を視る。恍惚(うっとり)とす。
夫人 (蠟燭を手にしたるまゝ)帰したくなく成つた、もう帰すまいと私は思ふ。

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姫路城天守最上層の木組み。富姫、亀姫、侍女たち、女の童、禿(かむろ)ら妖怪が集い、さんざめく「天守物語」の異様な物語がこの空間で展開する。天守最上層の広さは、登場人物らの配置、動きに過不足なくぴったりと収まる。狭い回廊の端に黒蝙蝠(こうもり)のように張り付いて人物の動きにしばし想いをめぐらすのも興がある。
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しかし、のんびりと天守に滞まることは許されない。観光客がひっきりなしに上ってきて人熱(ひといき)れするほどの混雑が続く。最上層の板張りを撮影しようにも無数の足が入り込むだけ。よってまともな写真は天井だけになってしまった。

泉鏡花「天守物語」新小説大正6年9月初出
「鏡花幻想譚5」(天守物語の巻)1995年4月河出書房新社刊より抜粋
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2017年11月22日

穂高連峰 上高地 芥川龍之介「河童」より

長野県松本市の西方に聳える日本アルプス穂高連峰(槍ヶ岳・焼岳など)、その麓を流れる梓川流域の平坦地が上高地(かみこうち)。戦前から上高地は、観光名所であるとともに槍ヶ岳などへの登山口となっている。
この地を舞台にした短編「河童」を執筆した芥川龍之介には、つねに狂気をまとった繊細なイメージが付きまとうが、青年期(旧制中学時代=府立第三中=現・都立両国高校)の彼の素顔は、国内有数の山岳地帯を縦走した精悍なアルピニストとしての顔であった。日本人登山家として初めて槍ヶ岳登頂に成功(明治35年)したのは小島烏水(うすい)だが、芥川は、わずか7年後に槍ヶ岳に挑み成功している(小説「槍ヶ岳紀行」)。明治42年(1909年)8月8日、同級の中原安太郎ら5人のパーティでの挑戦であった。
この時、ベースキャンプ(温泉宿)とした上高地での体験が、後年(昭和2年初頭)の「河童」執筆に多くの材をもたらしている。「河童」脱稿は昭和2年2月4日、同年3月1日「改造」誌に発表。
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穂高連峰を望む上高地の梓川と河童橋。
写真は、母親の実兄でありビルマ戦線で戦死した叔父が残したもの。撮影時期は昭和10〜14年頃と推測。

「芥川龍之介全集第9巻」1996年岩波書店より抜粋。
<<三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川(あずさがわ)をさかのぼるほかはありません。
 僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登つてゆきました。朝霧の下りた梓川の谷を――しかしその霧はいつまでたつても晴れる景色は見えません。のみならずかえつて深くなるのです。僕は一時間ばかり歩いた後、一度は上高地の温泉宿へ引き返すことにしようかと思いました。けれども上高地へ引き返すにしても、とにかく霧の晴れるのを待った上にしなければなりません。といつて霧は一刻ごとにずんずん深くなるばかりなのです。
「ええ、いつそ登つてしまえ。」――僕はこう考えましたから、梓川の谷を離れないように熊笹の中を分けてゆきました。(略)
 僕は水ぎわの岩に腰かけ、とりあえず食事にとりかかりました。コオンド・ビイフの罐を切つたり、枯れ枝を集めて火をつけたり、――そんなことをしているうちにかれこれ十分はたつたでしょう。その間にどこまでも意地の悪い霧はいつかほのぼのと晴れかかりました。僕はパンをかじりながら、ちよつと腕時計をのぞいてみました。時刻はもう一時二十分過ぎです。が、それよりも驚いたのは何か気味の悪い顔が一つ、円い腕時計の硝子の上へちらりと影を落としたことです。僕は驚いてふり返りました。すると、――僕が河童(かっぱ)というものを見たのは実にこの時がはじめてだつたのです。僕の後ろにある岩の上には画にあるとおりの河童が一匹、片手は白樺の幹を抱え、片手は目の上にかざしたなり、珍しそうに僕を見おろしていました。
 僕は呆(あ)つ気にとられたまま、しばらくは身動きもしずにいました。河童もやはり驚いたとみえ、目の上の手さえ動かしません。そのうちに僕は飛び立つが早いか、岩の上の河童へおどりかかりました。同時にまた河童も逃げ出しました。(略)
 それから僕は三十分ばかり、熊笹を突きぬけ、岩を飛び越え、遮二無二(しゃにむに)河童を追いつづけました。河童もまた足の早いことは決して猿などに劣りません。僕は夢中になつて追いかける間に何度もその姿を見失おうとしました。のみならず足をすべらして転がつたこともたびたびです。が、大きい橡(とち)の木が一本、太ぶとと枝を張つた下へ来ると、幸いにも放牧の牛が一匹、河童の往く先へ立ちふさがりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛(おうし)なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴をあげながら、ひときわ高い熊笹の中へもんどりを打つように飛び込みました。僕は、――僕も「しめた」と思いましたから、いきなりそのあとへ追いすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいていたのでしょう。僕は滑らかな河童の背中にやつと指先がさわつたと思うと、たちまち深い闇の中へまつさかさまに転げ落ちました。が、我々人間の心はこういう危機一髪の際にも途方もないことを考えるものです。僕は「あつ」と思う拍子にあの上高地の温泉宿のそばに「河童橋」という橋があるのを思い出しました。それから、――それから先のことは覚えていません。僕はただ目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つていました。>>

参考:「芥川龍之介 年表作家読本」1992年河出書房新社刊

芥川龍之介リンク
鎌倉 芥川龍之介の野間洗濯店下宿跡(和田塚) http://zassha.seesaa.net/article/22009376.html?1475175742
横須賀 横須賀線と芥川龍之介「蜜柑(みかん)」 http://zassha.seesaa.net/article/442379617.html
日比谷 日比谷公園 芥川龍之介「東洋の秋」より  http://zassha.seesaa.net/article/133612257.html  2009年11月22日
京都 芥川龍之介と宇野浩二の女買いの顛末記 http://zassha.seesaa.net/article/394984566.html
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能登 御陣乘太鼓 安西水丸「ちいさな城下町」より

石川県輪島市名舟町に、戦国時代の故事にまつわる伝承が奥津姫神社(名舟の港近く)の祭事として残され、今日まで継承されている。漁師の装束に仮面をつけた氏子たちが太鼓を打ち鳴らしながら乱舞するこの行事は「御陣乗太鼓」(ごじんじょだいこ)と称され、1963年(昭和38年)に石川県無形文化財に指定されている。
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荒涼たる風景が広がる真冬の能登の海岸。輪島の西保海岸。

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輪島キリコ会館を取材(TV番組だったか)した際に、御陣乗太鼓を紹介され、近くの海岸までご足労をお願いし演じていただいた、その時のリハーサルでのスナップ。30数年前のことで番組名などは記憶に残っていない。

イラストレーター安西水丸が、この祭事についてエッセイ「ちいさな城下町」に書いている。
<<(略)また余談になるが、能登に伝わる御陣乗太鼓という勇壮な太鼓がある。ぼくは好きでよくCDで聴いている。何でも上杉謙信が能登を攻めた時、数少ない守備軍が、大勢いるように見せかけるため、木の皮を剥いで作った面をかぶり、太鼓を打ち鳴らしたのがはじまりだという。上杉軍はこの太鼓に驚き退陣したと歴史は語っている。素人考えで申しわけないが、上杉謙信ともあろう武将が、太鼓の音ごときで軍を退(ひ)くだろうか。「田舎臭い太鼓など叩きおって」きっと謙信は馬鹿ばかしくなったのではないか。ぼくはおもっている。歴史や歴史本はことさら劣勢側に味方して書かれている場合が多い。(略)>>
「ちいさな城下町」2014年文藝春秋刊より抜粋。
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「御陣乗太鼓」は、上杉謙信の七尾城攻略から能登全域の支配が完了した天正5年(1577年)9月までに、上杉勢に反抗した地元の郷士・神官らを中心にした漁師らの間に生まれた言い伝えが、名舟の神社の祭事として取り込まれていったものだろう。織田信長は、8月に上杉への手当として柴田勝家を大将にした軍団(傘下に秀吉、滝川一益ら)を北国に送り込むが、10月始めには謙信に追い立てられ、あえなく撤収している(「信長公記」巻10)。
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2017年10月17日

山梨御坂峠 御坂隧道と天下茶屋 太宰治「富嶽百景」より(再作成)

太宰治の「富嶽百景」執筆の周辺。
<<「文體」(*)から、二十日までに二十枚書け、と言つて来ましたが、これも年内には、稿料もらへる見込みもなし、「文體」には稿料、全くあてにせず、いい短篇とにかく逸らう(*)と思つてゐます。>>
昭和13年12月16日付井伏鱒二宛書簡より。
(*)文體(=文体) 新創刊の文芸誌、三好達治編集、発行者は宇野千代。
(*)逸らう=早く実現させたいの意。

太宰治傑作短篇集「思ひ出」に付けられた「前書き」には、
<<「富嶽百景」は、昭和十四年に書いた。スケッチの連続である。>>

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御坂峠の天下茶屋前より。右下に霞むのは河口湖。

短編「富嶽百景」。「太宰治全集第3巻」1998年筑摩書房刊収録より抜粋。
<<昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗(す)ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠へたどりつく。
御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから(*1)、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。
 井伏氏は、仕事をして居られた。私は、井伏氏のゆるしを得て、當分(とうぶん)その茶屋に落ちつくことになつて、それから、毎日、いやでも富士と眞正面から、向き合つてゐなければならなくなつた。
この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に當(あた)つてゐて、北面富士の代表観望臺(かんぼうだい)であると言はれ、ここかち見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞへられてゐるのださうであるが、私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり蹲(うずくま)つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。
私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂星のペンキ畫だ。芝居の書割だ。どうにも注文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。>>
 (*1)8月4日頃からで、井伏は長期滞在の予定で天下茶屋に滞在していた。太宰の訪問は9月13日、
  9月18日に井伏は太宰を伴って結婚相手の石原美知子の家(甲府市内)を訪れている。
  翌19日、井伏は40日余にわたる茶屋籠りを終え、節代夫人と共に帰京する。
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現在の天下茶屋。規模を拡張して建替えている。すぐ奥に御坂隧道(トンネル)がある。

<<(略) その翌々日であつたらうか、井伏氏は、御坂峠を引きあげることになつて、私も甲府までおともした。甲府で私は、或る娘さんと見合することになつてゐた。井伏氏に連れられて甲府のまちはづれの、その娘さんのお家へお伺ひした。井伏氏は、無雑作な登山服姿である。私は、角帯に、夏羽織を着てゐた。娘さんの家のお庭には、薔薇がたくさん植ゑられてゐた。母堂に迎へられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかつた。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押(なげし)を見あげた。私も、からだを捻ぢ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰寫眞が、額縁にいれられて、かけられてゐた。まつしろい水蓮の花に似てゐた。私は、それを見とどけ、また、ゆつくりからだを捻ぢ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があつても、このひとと結婚したいものだと思つた。あの富士は、ありがたかつた。井伏氏は、その日に歸京なされ、私は、ふたたび御坂にひきかへした。>>
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天下茶屋の品書き板。

<<私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見度くもないといふ、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思つて、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴の素振りを見せてあげたく、老婆に甘えかかるやうに、そつとすり寄つて、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖の方を、眺めてやつた。老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花辨(かべん)もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相對峙(あいたいじ)し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。
富士には、月見草がよく似合ふ。>>
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太宰が草花を摘む痩せた遊女を見たのはどちら側だろうか。反対側の口がみえない御坂隧道(みさかずいどう)を大股で太宰は歩き入った。中央部が高くなっているこのトンネルは、昭和5年10月に着工、昭和6年
11月の竣工。全長396m。

<<(略)朝に、夕に、富士を見ながら、陰鬱な日を迭つてゐた。十月の末に、麓の吉田のまちの、遊女の一圃體(*団体)が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらゐの開放の日なのであらう、自動車五臺(*台)に分乗してやつて来た。私は二階から、その様を見てゐた。(略) 
茶店の六歳の男の子と、ハチといふむく犬を連れ、その遊女の一團を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出掛けた。トンネルの入口のところで、三十歳くらゐの痩せた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまつて摘み集めてゐた。私たちが傍を過つても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでゐる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願ひして置いて、私は子供の手をひき、とつとと、トンネルの中にはひつて行つた。トンネルの冷い地下水を、頬に、首筋に、滴滴と受けながら、おれの知つたことぢやない、とわざと大股に歩いてみた。>>
 *原文には無いルビも振っています。

昭和14年1月8日に井伏夫妻の媒酌で太宰と祝言をあげた津島美知子(旧姓石原美知子)が、「御坂峠」と題したエッセイを残している。
<<御坂トンネルの大きな暗い口のすぐわきに、国道に面して、この天下茶屋は建っている。茶店といっても、かなり広い二階家で、階下には型通りテーブルや腰掛を配置し、土産物やキャラメル、サイダーなどを並べ、二階は宿泊できるようになっていた。
御坂トンネルが穿(うが)たれて甲府盆地と富士山麓を直結する国道八号線が開通したのが昭和五年頃で、河口湖畔に住むTさんがこの茶店を建てたのはその後のことであろう。甲府盆地では御坂山脈に遮られて富士は頂上に近い一部しか見えない。盆地からバスで登ってきてトンネルを抜けると、いきなり富士の全容と、その裾に拡がる河口湖とが視野にとびこんで、「天下の絶景」に感嘆することになる。トンネルの口の高いところに「天下第一」と彫りこまれている。それでこの茶店は「天下茶屋」とよばれていた。(略)>>
「太宰治全集3」1998年筑摩書房刊に収録。
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隧道(トンネル)に掲げられた扁額「天下第一」。天下茶屋の命名由来となった。

井伏より太宰への昭和22年9月4日付の書簡。太宰の死の約9ヶ月前の手紙。
師である井伏鱒二の太宰に対する慈愛にあふれる眼差しがそそがれている文章。
<<先月二十日すぎに岳麓から御坂峠に行って一泊、甲府におりて一泊の旅行に出かけました。御坂峠の茶店では次女が電線の切れて垂れさがってゐるのに触って即死したといふことです。うちの比奈子と同じ年で、君のことをタダイさんと云つてゐた子供です。茶店のおやぢさんは甲府の町で君の小説を買つて来て読んだと云つてゐました。君が原稿を書きにこの山に来ないものかと心待ちにしてゐました。(略)>>

昭和23年6月19日朝、玉川上水から山崎富栄と入水した太宰の遺体があがる。
昭和27年12月31日(大晦日)、太宰文学碑建立のため、井伏は石探しのため片山の採石場を訪れる。
昭和28年7月21日、井伏は太宰治文学碑が建てられる予定の御坂峠の現地を小沼丹らと下検分する。
同年10月31日、御坂峠に建立された太宰文学碑の除幕式。井伏が開会の辞を述べる。
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太宰文学碑。「富士には月見草がよく似合ふ」の撰文は井伏鱒二による。

井伏鱒二「御坂の文学碑」(昭和38年7月「マドモアゼル」誌初出)より。
<<太宰治の「富嶽百景」によると、御坂峠から見える富士山は絵葉書向きで、この風景は見ていると顔が赫(あか)くなるそうである。しかし皮肉なもので、この峠の茶店の前に太宰治の文学碑が建てられた。これは甲府の野口二郎さんの肝いりで、太宰の友人であった我々がそれに賛成したからである。この文学碑には、「富嶽百景」の太宰の自筆稿本からとった富士には月見草がよく似合ふ≠ニいう文句が刻んである。しかし富士に似合うのは月見草に限らない。路傍に咲いているイタドリの花でも何の花でもよく似合う。
御坂峠の茶店にいた頃の太宰君は、あの場合、一ばん雑で月並な野草の花を持ち出したまでであった。
たぶんそうであったろうと私は思っている。>>(以上全文)
「井伏鱒二全集第22巻」1997年筑摩書房刊に収録。
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2017年10月08日

静岡 アナーキスト大杉栄の墓 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら終り」より

瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら終り」(第3巻に相当)に、虐殺された大杉栄と伊藤野枝を取巻く状況が端的にまとめられている。
<<大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災直後、どさくさまぎれに憲兵大尉甘粕正彦(あまかすまさひこ、*渋谷憲兵分隊=現在の道玄坂TOHOシネマズ渋谷の位置)と部下五名によって虐殺され、死体を古井戸に投げこまれていた大杉栄とその妻伊藤野枝と彼等の甥(おい)六歳の橘宗一の被害のニュースは、日本国中に驚愕と憤りと恐怖を与えた。大杉栄はアナーキストの第一人者で、フリーラブの唱導者でかつ実践者でもあった。妻の野枝は日本のダダイストの元祖辻潤(つじ じゅん)の妻で二人の子まで産んだのに、大杉との不倫の恋に走った。それを嫉妬した大杉の情人神近市子が大杉を刺し、獄に下るという事件もあった。
野枝は殺された時二十八歳で、辻との間に二人の男の子、大杉との間に五人、十年間に七人の子を産んでいる。大杉は子煩悩だったが、特に長女の魔子(まこ)を溺愛していた。魔子などという変った名前をつけたのは夫婦の共通の反社会的な思想の趣味だったが、二人の他の子供も、エマ、ルイズ、ネストルなど変った名前ばかりつけている。外国の革命家や思想家の名をもじったものばかりであった。(略)>>
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大杉ら3名の絞殺事件を報じる大正12年10月9日付の東京日日新聞夕刊。

大杉栄と伊藤野枝夫妻の大震災前後の行動を時系列でまとめた。
1923年(大正12年) 
 5月1日 大杉栄、パリ郊外のサン・ドニのメーデー集会で演説し当局に逮捕される。
 5月3日 ラ・サンテ監獄に収監される。
 7月10日 野枝神戸へ。翌11日、仏から国外追放処分を受けた大杉栄の帰国を娘魔子とともに
     神戸港に出迎える。翌日帰京。
 8月5日 豊多摩郡淀橋町字柏木371番地に移転。直後の9日、野枝は大杉との長男ネストルを出産。
 9月1日 関東大震災発生。
 9月16日 大杉と野枝、大杉勇の避難先だった神奈川県橘樹(たちばな)郡鶴見町字岸1858番地
     大高芳朗方に寄り、次いで勇の移転先の鶴見町東寺尾796番地を訪ねる。
     大杉の未妹橘あやめの子宗一を連れて帰宅の途中、自宅付近(南側)の路地で待ち構えていた
     憲兵大尉甘粕正彦らに拘引され、連行された九段の憲兵司令本部庁舎において、大杉栄、野枝、
     橘宗一(6歳)の3名が虐殺される。
 9月24日 虐殺事件が第一師団軍法会議検察官より発表。
 9月25日 3人の虐殺記事が禁を解かれ報じられる。午前、大杉勇、安成二郎、服部浜次らが陸軍第一
     衛戍(えいじゅ)病院(三宅坂)に3人の遺体を引取りに来る。
 9月26日 落合火葬場で茶毘。翌27日午前8時、骨上げをする。
      同夜、柏木の大杉宅に文壇思想界の友人らが集まり告別式を行なう。
 11月 「婦人公論」「女性改造」が追悼特集、「改造」は「大杉栄追想」特集を組む。
 12月8日 甘粕ら虐殺関係者の判決公判。甘粕正彦は懲役10年、曹長森慶次郎は懲役3年、
     伍長平井利一、上等兵鴨志田安五郎、上等兵本多重雄は無罪。
 12月16日 谷中斎場にて葬儀。参会者約700人。その朝、労働運動社を訪れた右翼団体
     大化会会員3名に、3人の遺骨が奪われたため、遺骨なしの葬儀となる。

1924(大正13)年
 5月25日 静岡市共同墓地(現在は市営沓谷くつのや霊園)において3人の密葬が行なわれた。

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大杉栄の墓。静岡市共同墓地(現在は市営沓谷くつのや霊園)に眠る。

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大杉栄に捧げられた荒畑寒村の撰文。
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上に同じく、墓碑建立委員会の碑。
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沓谷くつのや霊園の大杉栄墓域付近。

「奇縁まんだら終り」瀬戸内寂聴2011年日本経済新聞
参照:「伊藤野枝全集第4巻」2000年学芸書林
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2017年10月05日

姫路 お菊神社 志賀直哉「暗夜行路」より

志賀直哉は、大正2年(1913年)11月初旬、尾道への帰途、姫路で途中下車し、駅前で宿(一泊)をとっている。すでに陽は落ち、月あかりをたよりに数時間姫路駅周辺を散策する。
志賀直哉全集第12巻収録分「日記」より。
<<十一月七日 金 午后二時半頃の氣車にて出発 紅葉が、美しかつた。生野あたり殊(こと)に美しかつた。姫路駅下車、直ぐ夜の町に散歩に出る 「お菊神社」を暗い所に見た、月あかりにお城も見た。十一時頃、停車場前の宿屋へかへる
 十一月八日 土 姫路午前八時半出発、十二時半尾道着、>>
この月夜の姫路駅近辺の散策が、代表作「暗夜行路」に形を変えて描写されている。
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現在の姫路駅前(姫路城口)。2017年撮影。

以下、「暗夜行路」より。
<<謙作は疲れてゐた。彼は又いつか眠つてゐた。
姫路へ着く一時間程前から漸く彼は本統に眼を覚ました。其汽車は京都止りの列車だつたから、彼は京都で急行を侍ち合せてもよかつたのだ。然し、姫路の白鷺城を見る事も興味があつたし、それに出掛にお栄から明珍の火箸を買つて来て呉れと頼まれた、それを想ひ出してゐたからであつた。(略)
五時頃姫路へ着いた。急行までは尚四時間程あつた。彼は停車場前の宿屋に入り、耳の葛法(あんぽう)を更へ、夕食を済ますと、俥(くるま*人力車)で城を見に行つた。老松の上に聾(そび)え立つた白壁の城は静かな夕靄(もや)の中に一層遠く、一層大きく眺められた。>>
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志賀直哉が月あかりに眺めた姫路城は、もうすこし離れたところからだったような気がする。

<<車夫は土地自慢に、色々説明して、もう少し側まで行つて見る事を勧めたが、彼は広場の入口から引き返さした。それから、彼はお菊神社といふのに連れて行かれた。もう夜だつた。彼は歩いて暗い境内を只一卜廻りして、其処を出た。お菊虫といふ、お菊の怨霊の虫になつたものが、毎年秋の末になると境内の木の枝に下るといふやうな話を車夫がした。>>
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姫路駅(志賀直哉が泊った宿)から徒歩数分の場所にあるお菊神社。神社の外塀には、
「播州皿屋敷・お菊物語」の看板が掲げられている。祭神は菊姫命。お菊虫の画像(資料)は、
ドロドロの溶けた液体がたれているエイリアンのようで気味悪いので省略。

「暗夜行路」1976年筑摩現代文学大系より抜粋。

志賀直哉リンク
京都 山科 志賀直哉邸跡 「山科の記憶」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447362573.html
茗荷谷 切支丹坂 志賀直哉「自転車」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447574437.html
京都円山 左阿弥 志賀直哉「暗夜行路」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/422883782.html
奈良 幸町 志賀直哉旧居跡 「転居二十三回」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/444651650.html
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2017年09月29日

滋賀 安土セミナリヨ跡 井伏鱒二「安土セミナリオ」より

天正8年(1580年)3月16日、イエズス会の希望が入れられ、織田信長より安土城下に伴天連(ばてれん)屋敷用地が下附される。イエズス会の伊人オルガンチノ神父は直ちに高山右近ら信者武将の援けを受け、3階建ての会堂と住院を建て始める。この教会を用いて(3階が生徒の教室と寄宿寮であった)、セミナリヨ(seminario、小神学校・初等教育)が開設される。
「信長公記」(著者、太田和泉守)天正八年庚辰(1580年)巻十三に、この経過が短く記されている。
<<天正八年閏三月十六日より菅屋九右衛門(*長頼)・掘久太郎(*秀政)・長谷川竹(*秀一)両三人御奉行として、安土御構(かまえ)の南、新道の北に江(*入江)をほらせられ、田を填(うめ)させ、伴天連(ばてれん)に御屋敷下さる。>>(角川日本古典文庫より)
完成したセミナリヨには諸国より20数名の少年が集まり、寄宿して勉学に勤しんだ。教会堂の屋根は、安土城と同じ水色の瓦で葺くことが許された。
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安土セミナリヨ跡(画面右)。「新道の北に江を掘らせ」の入江。

井伏鱒二「安土セミナリオ」より
<<治郎作は信長の家臣であつて安土セミナリオの謂はば遠侍の筆頭である。しかるに信長の薨去、本能寺の炎上、二条城の炎上、信忠の軍は全滅の憂目をのがれない。明智が天下をくつがへした。この天変地異のごとき災厄に際し、安土セミナリオの学生の危難を護るのは治郎作の任務である。
 馬は天主堂(*南蛮寺)のわきの棕櫚林のなかにつないであつた。鏡鞍を置き、なめし革の手綱をつけた栗毛の逞(たくま)しげな馬である。宗湛と弥助(*信長の黒人従者)のほか、ロレンソ了西やポルトガル人のイルマンなど、門のところまで治郎作を見送つて来た。そこへ日本人のイルマンが外から帰つて来て、馬にまたがつた治郎作に明智の兵の動勢を伝へた。謀反人は織田方の首級の山の実見(*首実検)をすませ、一万何千ほどに及ぶ兵に勢揃ひをさせて、いま安土へ向けて進発する寸前だといふことであつた。
「治郎作殿、明智の先を越して、はやはやと御座れ」と宗湛が云つた。
治郎作は根限り馬を駆けさせて洛外に出ると、明智の先手の兵よりも先に逢坂山を越えることが出来た。途中、味方の落武者がとぽとぽ歩いて行くのを追ひ越して、瀬田の城下を駆けぬけるところで駒留めを喰らはされた。御上洛道(*信長が京への往還の為に造成した道)のまんなかに二十人ばかりの鎧武者が二段に構へて鎗(やり)ぶすまをつくつてゐた。道ばたには、火縄に火を点じた鉄砲を持つてゐる武者の一隊がゐた。治郎作は馬を留めた。
鎗を持つ兵の旗頭が、「下乗、下乗、名告れ。」と呼ばはつた。
治郎作は馬から降りて、相手の云ふままに正式の名告をした。
日く「信長公の仰せにより、安土セミナリオの遠侍カルサン屋敷へ出仕の番所頭、逸物治郎作で御座る」といふのが正式の名告である。
「おお、おぬしは逸物治郎作殿、その名は我らもかねて聞き及ぶ」と鎗組の旗頭が云つた。
「ついては、おぬしに云うて聞かせよう。いま我らは、瀬田の大橋を焼きすてる急支度のところぢや。依つて、おぬしは橋をば渡れぬものと思へ。謀反人の明智が勢を、一兵たりとも安土へ行かせぬためなのや。しかと合点か。」
「はあ、いかにも。」
「あたら瀬田の名橋を、謀反人がために焼かざあならぬ。おぬしは、橋のほとりの渡船にて渡れ。」
「はあ、心得ました。」
「極道者の明智がため、瀬田のお城にも火をかけざあならぬ。このやうな不祥事は、前代未聞と云はざあならぬやろ。はて、語るも愚痴ぢや。いざ行け。」
「まつぴら御免。」
組頭の目くばせで、鎗を持つた一人の足軽が治郎作の案内に立つた。治郎作は馬には乗らないで、その足軽と肩をならべて御上洛道を瀬田橋の方へ歩いて行つた。道ばたの人家はみんな雨戸をしめてゐた。瀬田の城山の方から、大勢の人夫たちが蟻のやうに引きもきらず荷物を運んで来て、瀬田川の岸につないである幾艘もの船に積みこんでゐた。お城にはまだ火を放つてない。(略)>>
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安土セミナリヨ跡から望む安土城址(安土山)。

<<治郎作が安土に帰つたのは、六月三日(バテレンたちの云ふ金曜日)の深更であつた。くたくたに疲れてゐた。カルサン屋敷の前戸のなかにはひつても、冷たい水を飲むまでは咽喉が引きつつて、殆ど口をきく気力を失つてゐた。
「於花女郎は息災か。」
と治郎作は、敷台に尻餅をついて水を飲み終ると、始めて不断のやうな声を出した。
「はあ御番所頭殿、申しわけ御座いませぬ。」治郎作の草鞋(ぞうり)を脱がしながら、番人衆の左内之助が云つた。「於花様は、人に淩(さら)はれました。狼籍者が四五六十人も来て淩つて行きました。かくてはならじと、私、後を追ひましたところ、言語道断、泣き叫ぶ於花様を、狼籍者は岸の船に抱き込んでしまひました。」
「やいやい左内之助、何たることや。」治郎作は敷台にあがつて、また尻餅をついた。
 左内之助は面目なささうにうつむいて詳しく話した。それは時刻から云つて、狼籍者がこのカルサン屋敷へ押しかけたのは、安土山の中腹にある阿閉淡路守の別邸が燃えあがつてゐるときであつた。淡路守は信長が本能寺で討死したと知ると、時をうつさず兵を引きつれて羽柴秀吉の居城である江州長浜城に攻めて行つた。その道すがろ、三四五十人の兵を安土に残して安土山の自分の別邸に火をかけさせ、行きがけの駄賃にカルサン屋敷を襲つて於花を淩はせた。もともと於花は河内三箇(さんが)の大名白井家から信長の命令でカルサン屋敷へ養女に来た。このたび白井一族が明智に荷担することになつたので、明智方の淡路守に於花を淩はせたのであつた。(略)
「おん頭(かしら)。御覧のごとく、暴徒のために剥ぎとられ候。セミナリオにても、天井板、畳、鐘楼の鐘など、昨日と今日の二日のうちに、ことごとく剥ぎとられたと思召せ。」
「おお、鐘楼の鐘まで奪はれたか。さすれば、アベ・マリアの鐘も鳴らぬやろ。」
「はあ、おん頭。アベ・マリアの鐘はおろかなこと、セミナリオにては大乱で御座る。バアデレ様は学生もろとも、湖賊にだまされて奥ノ島へ連れて行かれ、今日、夕景にその密使がセミナリオに参りましたげな。」
見るもの聞くもの、みんな意外なことばかりである。セミナリオの学生は、バアデレやイルマンに連れられて避難する道すがら、親切げに話しかける見知らぬ人にすすめられ、船に乗つて湖水の沖の島に渡つた。その親切さうな人は湖賊であつた。二十数人の学生一同とバアデレたちは、いま賊の家の馬小屋に閉ぢこめられてゐる。賊はバアデレの持つてゐる儀式用の銀の道具類に目をつけて、それを奪つた上で場合によつては命も奪ひかねない様子らしい。(略)>>
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撮影は2014年7月。

<<翌朝、治郎作がセミナリオヘ出かけると、正面の出入口の扉が無残にも、がたがたに叩き割られてゐた。暴民の仕業である。二階のロレンソ了西のゐた部屋をのぞいて見ると、畳も天井も剥ぎとられて襖の引手もみんな抜きとられてゐた。この襖の引手は、了西法師と昵懇(じっこん)の後藤祐乗(すけのり)の門弟が四季の花を彫つて納めたものである。金の象眼を施した分厚い赤銅(しゃくどう)づくりの引手であつた。二階には、どの部屋にも人影がなくて、荒廃の様は目も当てられなかつた。治郎作は三階の広間をのぞいて見た。すると日本人の数人のイルマンたち居残りの者が、飾を取除いた祭壇の前に集まって朝の祈祷をあげてゐる最中であつた。治郎作は部屋の隅にかしこまつた。(略)>>
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セミナリヨ址推定地。信長自身も城下巡察の折、セミナリヨに立ち寄り、少年の奏でるオルガンの音色に
きっと耳を傾けただろう。

<<治郎作は夜になつて日野城(*滋賀県蒲生郡日野町)にたどりついた。翌六月五日、光秀は信長の居城であつた安土城に入つた。光秀の兵がセミナリオを襲つて、三階の広間のハープやオルガンやリュートなどすつかり奪ひとつた。その噂が日野城に伝はつた。鐘楼の鐘は先に暴民が奪ひとつたといふことである。七日には、京から神祇大副の吉田兼利が天朝からの使者として安土城に赴いた。内裏の所在地たる京の町を荒らさないやう、宜しく取りはからへといふ勅命を光秀に伝へに来たのであつた。(略)>>

(*)は原文には無い。ルビは適宜振りました。
「別冊文藝春秋」昭和28年12月より5回連載、初出
「井伏鱒二全集」第5巻1965年新潮社刊より抜粋

井伏鱒二リンク
兵庫篠山 篠山城 井伏鱒二「篠山街道」と立原正秋「謎を秘めた篠山城跡」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442950773.html
山梨 甲府城址の目ざわり石塔 井伏鱒二「甲府−オドレの木の伝説」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447573364.html
難司ケ谷 夏目漱石墓改葬式典 井伏鱒二「五十何年前のこと」からhttp://zassha.seesaa.net/article/448168179.html
荻窪清水町 井伏家に身を寄せる太宰治の元妻小山初代 井伏鱒二「琴の記」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/443372590.html
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2017年03月04日

山梨 甲府城址の目ざわりな石塔 井伏鱒二「甲府−オドレの木の伝説」より

徳川幕府の甲州経営の拠点であった甲府城の本郭址に、違和感を感ぜざるを得ない、一見、ゴミ焼却場の煙突のような塔がニョッキリ建っている。塔下の説明板によると、名称は「謝恩塔」といい、明治44年3月に天皇料地が山梨県に下賜(払下げ)せられたことへの感謝記念碑という。
ごちゃごちゃと払下げの理由(わけ)が並べられているが、何故そうなったかは、なぜか避けられている。
井伏鱒二のエッセイに、その経緯(いきさつ)が書かれている。
「週刊朝日」昭和29年10月発行の「日本拝見」欄から。
<<甲府城址に大きな記念碑が建つてゐる。遠く車窓からも見える。一体あの大きな棒のやうなものはなんだ。はじめて甲府に来た旅の者は、たいていさう思ふだらう。もと天主閣があつたと思はれる基礎のあとに、六十尺あまりの途方もなく大きな石造の四角い塔のやうなものが建つてゐる。山を背景にしても雲を背景にしても、あたりの風景と対照しても、相当に目ざはりな存在である。てつぺんが矢の根のやうにとがつてゐる。>>
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<<この大きな塔のやうなものは、「謝恩碑」といつて記念碑である。それくらゐのことは、甲府の住人なら宿屋の中気の風呂番でも知つてゐる。ただ当りさはりがあるので話をごまかすだけである。明治四十年前後のこと、甲州では再三にわたつて山崩れを伴ふ大洪水が出て、ことに笛吹川筋と釜無川筋は田畑が砂原になつてしまつた。笛吹川のごときは水流が十町も東に寄つた。そのときに県庁から出た助成金を、先年の大戦争前まで支払へない村もあつた。
原因は理山治水といふことを疎んじてゐたためである。明治の廃藩置県のあと、政府が人民の私有山林に対して、ものすごい税金をかける気配を見せた。これに威かされた甲州の人たちほ、せめて薪を採る裏山ぐらゐだけでも残すことにして、あとはみんな自分の持山ではないと県庁に申し出た。
これが政府の思ふ壷である。所有者のなくなつた三十何万町歩の山林を、みんな政府が没収して御用林にしてしまつたので、一ばい食はされた人民は政府に恨みを持つた。その結果は山林の盗伐と濫伐が始まつた。大水が出たら一とたまりもない。今でも甲州の山に行くと密林のなかに、根元から伐り倒された大木が青ゴケに覆はれてころがつてゐるのを見ることがある。また、大きな栂(つが)の立木が、ヘギを採る試し伐りの鋸(のこぎり)を入れたあとをつけたまま、なかば立枯れになつてゐるのもある。山崩れしたあとの赤土肌も残つてゐる。当時の濫伐盗伐の名残である。これには政府もびつくりしたに違ひない。さつそく天皇の御名のもとに、県内の御料林を県に下賜することで人民の気持をゆるやかにして、あとは時に応じて入札で県内のものに伐らせることにした。その聖恩に感激した県庁の役人が、謝恩碑を建てる発頭人になつたといふことだが、こんなのは明治の悪政の一端を後代に伝へる記念塔だと云つて、街頭で建碑反対の演説をするものもゐた。その者は狂人として牢に入れられた。(略)>>
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(写真)甲府城址は、歴史公園として石垣等の遺構保存、城門などの再建が進められている、が、この石塔が、甲府の古(いにしえ)への想念を掻き乱そうとする。写真の下方に、かっての城門の礎石が残っている。鉄鋲が打たれた門をイメージして楽しむにも、あの塔が邪魔をする。どこか本郭外の、せめて電波塔の向こう側にでも移してほしい。
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(写真)「謝恩塔」。設計(共同設計)は、明治大正期の建築界の重鎮伊東忠太。代表作は、平安神宮・明治神宮・築地本願寺・湯島聖堂等々。帝国時代の産物だが、伊東忠太のものを壊すには忍びない。解体移動保存できないものかと、しばらく眺めていると、地底から湧きあがってくる「万歳」「万歳」の幻聴に包まれてしまう。まとわりつくものを振り払うように、そそくさと城外に逃れ出た。
*新旧仮名遣い混合有り。
「井伏鱒二全集第17巻」筑摩書房1997年刊より抜粋。

兵庫篠山 篠山城 井伏鱒二「篠山街道」と立原正秋「謎を秘めた篠山城跡」http://zassha.seesaa.net/article/442950773.html
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2017年02月27日

静岡 駿府城 遠藤周作「ユリアとよぶ女」より

<<この小説のユリアと呼ばれる女は、ジュリアおたあと呼ばれている高麗生まれの大奥の侍女がモデルである。ジュリアおたあは、出自も生年も不明だが、秀吉の朝鮮出兵の時、戦場の動乱の中から小西行長によって連れてこられ、受洗して、行長夫人の侍女となり、関が原の戦い後、小西家が滅んでからは徳川家康の侍女となる。一六一二年、家康はキリシタン禁令を出し、侍女たちにもキリシタンをやめるように命じたが、ジュリアはそれに従わず、伊豆大島へ追放され、さらに新島、神津島へと流され、一六一九年、神津島で死去する。
(略)
家康は江戸城を三男の秀忠にまかせ駿府で表向きの隠居生活を送っていた。
武蔵野の黒い土や冷たい風よりも温暖な駿府のはうが体に心地良かったからだが、長年の戦いで鍛えた小肥りの体はまだ時折、江戸の近郊で鷹狩を楽しむことができた。鷹狩は口実だった。家康はまだ秀忠を頼りなく思っていたのである。家康は晩年に至るまで、「後家好きの襤褸(ぼろ)買い」だったと言われている。彼の正室、築山殿は今川義元の養女で立派な家系を持っていたが、家康の妻妾になった他の女性はほとんど身分の低い武士や家臣の娘だった。阿茶(あちゃ)の局は遠州金谷の鍛冶の女房であり、阿亀(おかめ)の方は石清水八幡の修験者の女(むすめ)である。駿府に移ってからも家康はさまざまな女に手をつけた。侍女のなかにも気に入った者があるとすぐ枕頭に侍(はべ)らせた。>>
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(写真)駿府城址。徳川家康の隠居城として普請(拡充修築工事)された城で、「慶長12年7月3日に神祖(家康)御移徒」と幕末慶応年間の駿府城下地図に墨書されている。また本丸入城間もない同年12月12日に炎上、翌慶長13年3月11日に再営成ると普請経過も添えられている。また家康は上方大名の人質を駿府に集めて監視下に置く処置をとっている。

<<家康は気に入った女がいると近習に命じて寝所に呼ばせた。
ある日、鷹狩と称して江戸から駿府に戻った彼は突然、近習二、三人をつれて庭の築山を歩いた。そして庭で恐縮して身をかがめている稗(ひ)たちの横を通りすぎた時、彼はそのなかに小石のように小さく色の白い女を見た。家康は近習の笠原主膳に老女を通してあの女を侍女に取りたてろと命じた。
主膳は平伏して答えた。
「あの女は鮮人の娘でどざいますゆえ・・・」
すると家康はそうかと言っただけで、もはやその娘のことは忘れたように口に出さなかった。>>
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(写真)駿府城天守台跡西側付近の土塁状の一帯。本丸を取り巻く二の丸の一部か。清水門北側付近。

<<主膳は駿府に戻ると、手をまわしてユリアをここで働かせることにした。ただ彼女が切支丹であることは、自分も亦(また)、信徒であると同じように、かくさねばならぬ秘密だった。
ユリアが駿府に来た時、家康はまだきびしい切支丹追放令は出していなかったが、それを城内で公にすることはできなかったのである。家康からユリアを侍女にとりたてるように命ぜられた時、主膳はうまく事を処理することができた。侍女となることは、やがては家康の夜伽(よとぎ)をするということである。切支丹を信ずる女にとっては夫ときめた男以外に身を委すことは許されぬ。主膳はそれ故にユリアの身をかばったのだが、しかし主人の一言は彼の心をふかく傷つけた。
(略)
十月九日、明後日が出陣の日(*慶長19年大坂冬の陣)、老女に連れ出されたユリアは庭の砂の上に平伏していた。そのうしろに老女と二人の侍女が休を固くして身をかがめている。本多正純と出陣の打合わせをするため家康は近習一人をつれて廊下に姿をあらわした。彼は平伏しているユリアを見て、自分が何げなく言った言葉を思いだし、笑いながらその顔をあげさせた。この女の白い小さな、そして表情のない顔は老人の肉欲をいたく刺激した。彼が今日まで夜伽を命じた数多くの日本人の女たちとは違った顔だちである。
「参るか、京に」
と老人はやさしい声で訊ねた。ユリアは手をつき顔をあげたまま、家康を見あげ、首をふった。何故じゃと家康が更に問うと、うつむいて小さな声で答えた。
「デウスさまが、そのようなことを、お禁じになります故。わたくし切支丹にござりまする」
家康は黙ったまま、廊下を去っていった。彼の顔には相変らず機嫌よさそうな笑いが漂い、平伏している正純にねぎらいの言葉をかけながら姿を消したが、庭に残った人々は茫然自失して、しばし、そこに頭を下げたきりだった。近くこの天下を凡(すべ)て握る権力者に一人の稗(はしため)が公然と反抗するなど、想像もできぬ出来事だったからである。>>
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(写真)駿府城本丸跡に建つ家康像。

<<大島に流されたユリアは仮小屋で孤独な祈りの生活を送っていた。一カ月ほどたった時、一隻の舟がユリアに大御所からの命令を伝えてきた。もし切支丹の教えを棄て大坂に来るならば、今日までの罪は許すというのである。それを聞くとユリアは、無表情な顔をただ横にふっただけである。
そのため彼女は、大島から十五里、南にある新島に送られた。この島でもユリアはただデウスだけに語りつづけながら日を送った。頭に加茂の河原で切られた小西行長や、火あぶりの刑に処せられて煙のなかで棄教を叫んだ主膳の姿が浮ぶ時、ユリアは彼等のためにも祈った。
新島にまた、家康からの命令が伝えられた。その命令はこの前のものと同じである。ユリアの返事に変りないので、彼女は、新島から八里離れた神津島に移されることとなった。
島には七、八人の漁師が住むのみである。藁(わら)小屋に起伏したユリアは漁師のくれる魚でわずかに飢えをしのいだ。そしてある日、魚を持っていった一人の漁師が藁小屋の中を覗くと、ユリアは壁に靠(もた)れ、祈るように手を組んだまま死んでいた。漁師は彼女の顔がひどく浄らかで美しいと思った。>>
「ユリアとよぶ女」1968年2月号「文藝春秋」誌初出。
「遠藤周作文学全集7 短編小説」新潮社1999年刊より抜粋。
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*実在の「ユリア(ジュリア)おたあ」の、その後の消息に関しては、唯一、イエズス会日本管区長Fパチェコ師Francisco Pachecoのイエズス会宛ての書簡(ローマに保管か?)に残されているのみ(大坂で庇護)。「ユリアとよぶ女」は、戦国時代を信仰に支えられて生き抜いた一人の女性クリスチャン(生没年、没地不明)を描いたロマン(小説)として読めば、その結末に何ら問題はない。
遠藤周作リンク
府中 遠藤周作の墓 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/239444707.html?1486614633
長崎・平戸周辺 遠藤周作「沈黙」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447360739.html
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2017年02月26日

長崎・平戸周辺 遠藤周作「沈黙」より

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(写真)長崎地方(平戸・西海・長崎・島原・天草など)を数度にわたり訪れた折に、フィルムカメラを携えて各所の教会や切支丹遺跡を巡り、「沈黙」に描写されているような急斜面の山畠や藪の中に、忘れ去られ朽ち果てたような十字架が刻まれた墓石を撮影してまわった。1984〜1985年頃の撮影なのだが、ネガ(200コマほど)をいい加減に放置しておいたため、劣化が激しく、ポジ写真でアルバムに貼り残しておいた内から数枚を今回取り込んでみた。剥がし痕が残っているものもある。細かい撮影データどころか何処で撮ったかえさへ記憶が失われいる。なにしろ山中で道もないようなところばかりだった。

「沈黙」1966年3月初出。「遠藤周作文学全集」第2巻1999年新潮社刊収録より抜粋。
<<最初の丘の頂まで露にぬれた泥で足をよどしながら、段々畠を登りつづける。地味のうすい土を丁寧に耕し、古い石垣で区わけした山畠は信徒たちの貧しさをはっきり感じさせます。
海沿いの狭隘(きょうあい)な土地では彼等は生きることも年貢を収めることもできない。貧弱な麦と粟に肥の臭いが一面に漂っていました。そしてその臭気にむらがる蝿が顔のまわりをかすめながらうるさく飛んできます。ようやく明けはじめた空に向うの山々が鋭い剣のような姿をみせ、今日も白い濁った雲には烏の群れが嗄(しわが)れた声をあげて舞っています。
丘の頂に来た時、足をとめ、眼下の部落を見おろしました。
褐色の一握りの土塊のように藁屋根と藁屋根との集まった部落。泥と木とでねりあわせた小屋。道にも黒い浜辺にも人影はない。一本の木に靠(もた)れ、私は谷あいにたちこめる乳色の靄(もや)を眺めます。
朝の海だけが綺麗でした。海は幾つかの小さな島をその沖あいに点在させて、うす陽をうけて針のように光り、浜を噛む波が白く泡だっていました。
私はこの海をザビエル師、カブラル師、ヴァリニャーノ師を始めとする多くの宣教師たちが信徒たちにまもられながら往復したのだと思いました。平戸に来たザビエル師はきっとここを通られたことでしょう。>>
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(写真)陽光にきらめく海を遠望できる急斜面の段々畠にあった切支丹墓。
<<彼等はどの家にも切支丹の証拠が見つからないのを知っても、この前のように諦めて引き揚げようとはしません。武士は百姓たちを一箇所に集めて、もしすべてを白状しないならば人質をとると通達しました。しかし誰一人として口を割る者はいなかった。
「わしら、年貢も怠ったことはござりません。公役(くやく)もよく務めましてござります」
じいさまは武士に懸命に申しました。
「葬式もみなお寺でいたしとります」
武士はそれには答えず、鞭の先でじいさまを指さしました。瞬間、一同のうしろにいた警吏が素早くじいさまに縄をかけました。
「見るがいい。つべこべと詮議はせぬ。近頃、お前らの中には禁制の切支丹をひそかに奉ずる者があるという訴人があった。誰と誰がさような不屈(ふとどき)をしておるのか、まっすぐに申したる者には銀百枚を与える。しかしお前たちが白状いたさぬ限り、三日後にまた人質をとっていくがどうだ。よく考えておくがよい」>>
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<<「バードレ、わしらは踏絵基督(キリスト)ば踏まさるとです」
モキチはうつむいて自分自身に言いきかせるように呟きました。
「足ばかけんやったら、わしらだけじゃなく、村の衆みんなが同じ取調べば受けんならんごとなる。ああ、わしら、どげんしたらよかとだ」
憐憫の情が胸を突きあげ、思わず私はおそらくあなたたちなら決して口にしない返事を言ってしまった。かつて雲仙の迫害でガブリエル師は日本人から踏絵をつきつけられた時、「それを踏むよりはこの足を切った方がましだ」と言われた話が頭をかすめました。
「唾かけぬか。言われた言葉の一つもロに出せぬか」
イチゾウは両手に踏絵をもたされ、警吏にうしろを突つかれ、懸命に唾を吐こうとして、とてもできぬ。
キチジローも頭をたれたまま身動きしない。
「どうした」
役人にきびしく促されるとモキチの眼から遂に白い泪(なみだ)が頬を伝わりました。
イチゾウも苦しそうに首をふりました。
二人はこれで遂に自分たちが切支丹であることを体全部で告白してしまったのです。
キチジローだけが、役人に脅され喘ぐように聖母を冒頭する言葉を吐きました。>>

長崎市歴史民俗資料館で撮った「踏絵」の写真が出てこない。カビで覆われたネガから探しださなければならないか。
遠藤周作リンク
府中 遠藤周作の墓 瀬戸内寂聴「奇縁まんだら」より http://zassha.seesaa.net/article/239444707.html?1486614633
静岡 駿府城 遠藤周作「ユリアとよぶ女」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447386600.html
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2016年11月04日

名古屋・栄 白川尋常小学校跡 江戸川乱歩 「私の履歴書」より

明治34年4月、8歳の乱歩が小学校に入学した当時の住居(入学3ケ月後から)は、学校から600mほど離れた名古屋の繁華街の一角にあった。父(繁男)母(きく)が暮らす南北に細長い二階家から乱歩は、毎日、なにかを空想しながら、なにかをぶつぶつと呟きながら通学していた。
現在、その住居の周りには、三越・メルサ・松坂屋・ロフトが建ち並び、住居表示も南伊勢町から栄(さかえ)と変わっている。伊勢町通りに面した家(通りの西側)からの乱歩の通学路を想定して、夢想しながら歩くこともできそうだ。
江戸川乱歩「私の履歴書」日経新聞昭和31年5月(5回連載)から抜粋。
<<小学校は名古屋市南伊勢町の白川尋常小学校、その近くの市立第三高等小学校、中学は愛知県立第五中学校(後に熱田中学と改称)の第1回卒業生である>>
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(小白川尋常小学校が存在した寺町一帯は、空襲で焼土と化した。戦後、米軍住宅用キャンプとして土地接収を受けたが、昭和33年の返還後、名古屋市により白川公園として整備され、現在、広い公園の一角には市立の科学館・美術館などが設けられ、市民の憩いの場となっている。)
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<<二、三歳のころは、ひどくおしゃべりで、物真似などが上手だったそうだが、物心つくにしたがって、あまりしゃべらなくなり、独りで何か空想して、夕方など町を歩きながら、声に出してその空想を独白するくせがあった。会話を好まず、独りで物を考える、よくいえば思索癖、悪くいえば妄想癖が幼年時代からあり、大人になっても、それがなおらなかった。
お婆さん子の、甘えっ子の、内弁慶だから、小学校に入って、はじめて社会に接したときには、校庭の隅っこの桜の木の下にポツンと立って、みんなの駆け回るのをボンヤリ眺めているようないくじなしであった。しかし物の理解力はあるほうで、当時の尋常小学校四年(注1)を通じて、いつも級長か副級長であった。>>
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(跡碑の横の桜の木の傍らにポツンと立っている丸眼鏡の乱歩少年像・・・は無い)
(白川小学校碑文から ソモソモ白川小学校ハ、明治五年白川町ノ西光院(注2)ニ白川小学校、前身トシテ第十三義校ガ此ノ地ニ開校サレタリ、ソノ後本校ガ明治十八年二落成サレシガ、明治二十年教育令改正ニヨリ尋常小学白川学校トナリ、ツイデ明治二十六年白川尋常小学校ト改正サレタリ、ソノ後大正二年ニ当地ヨリ、二百米北方ノ横三蔵町ノ地ニ新校舎ガ・・・以下略 昭和54年9月昭和3年卒業生有志一同建立)
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(乱歩が通っていた明治34〜38年当時の白川尋常小学校は、未だ横三蔵町に移転する前で、寺町の一角に校舎があった。美術館の裏側附近辺り。)
注1 尋常小学校は4年制、高等小学校は2年制であった。
注2 西光院は、織田信長の入城以前の大永年間、清洲城城内で創建され、関ケ原戦まもない慶長9年に石切町(=白川町)に転寺。戦時中の昭和18年に再び転寺した。 

参考 平井隆太郎「乱歩の軌跡 父の貼雑帖から」東京創元社2008年刊
   西光院ホームページ・名古屋市中区史1991年刊 他

江戸川乱歩リンク
谷中 煉瓦塀の荒屋(あばらや) 江戸川乱歩「妖虫」からhttp://zassha.seesaa.net/article/381026359.html
麻布竜土町 明智探偵事務所をさがしてhttp://zassha.seesaa.net/article/381667672.html
上野 上野動物園 江戸川乱歩「目羅博士」より http://zassha.seesaa.net/article/447350572.html
大阪守口 天井裏への誘い 江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」より http://zassha.seesaa.net/article/294747121.html?1494000764
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2014年04月29日

倉敷 蔦のからまる喫茶店 エル・グレコ (EL GRECO)

倉敷を訪れたのは、遠い昔、高校を卒業する早春の頃だったと記憶している。それ以来、訪れていないので確かだと思う。ただ、夜行寝台車に乗った記憶はよみがえるが、倉敷の町並みは何ひとつ思い出せない。
池波正太郎の随筆集「よい匂いのする一夜」の一章「倉敷市 倉敷アイビースクエア」より
<大原美術館、民芸館、郷土玩具館などが、石造りの見事な調和を見せている一角に、コーヒー店〔エル・グレコ〕は健在だった。蔦(つた)に埋もれた二階建ての民家を改造した、このコーヒー店はあまりにも有名になってしまったけれど、いまも、むかしのままで、少しも変っていない。分厚い木製のテーブルとベンチ。温かいコーヒー。親切なもてなし。うるさい音楽も使わず、若い人たちのひかえ目な会話がきこえるのみだ。はじめて倉敷を訪れたとき、私は、この店へ旅行鞄をあずけて、町を歩き、大原美術館や民芸館を見てまわったものだ。当時は、たしか、こうした店は〔エル・グレコ〕だけだったような気がする。>
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中学3年から単独で旅行(関東からは外には出ていない)に出かけ始め 高校時代は3日間ほどだが遠方に自由きままに出かけるようになっていた(現在と同じ) (左写真)大原美術館表門の脇で長年にわたり営業を続けるエル・グレコ 1959年(昭和34年)の開業だからゆうに半世紀を越えている (右写真)いまも四角い大テーブルは残っているのだろうか(他の写真にはテーブルが写っている) 年上(!)のきれいな女性だったので撮ったのだと思う(これも現在と同じ この頃は無断で撮っても怒られた記憶はない 子供と思われていた為だろう) 
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倉敷川とその周辺は当時から人気観光スポット 「倉敷川畔伝統的建造物群保存地区」として選定され その中心は 1930年(昭和5年)にオープンした日本初の西洋美術館である大原美術館 入ったはずだが・・・
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中学時代に親に買ってもらった愛用のフィルムカメラは現在も手元にある この倉敷旅行で残した画像はほとんど女ばかりが写っている(これも現在とまったく同じ傾向だ) 公開できそうな風景画像はほんのわずかで恥ずかしい
参考
随筆集「よい匂いのする一夜」池波正太郎 講談社文庫1986年刊
     (単行本初版1981年平凡社)
  
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2014年03月03日

丹波篠山 篠山城 水上勉「負籠の細道」から

水上勉の「負籠(おいご)の細道」文庫版に収められた一篇「古城の町・丹波篠山(ささやま)」から。
<翌朝、中山図書館長さんの来訪をうけ、このかたの案内で、私は篠山市内を見物してまわった。なんといっても、感動したのは城跡の見事さである。美しい石垣だけをのこした城郭は、昔のままだった。城閣こそないけれど、石垣をめぐる外濠、この城だけに残っているといわれる馬出の土塁が、蓮の葉のまばらに浮んだ濠にかこまれて、欝蒼たる枡形(ますがた)の松林をみせている。土塁と濠との静かなたたずまいは、町の中心部に厳然とあるだけに、ああ、篠山は、この城と共に生き、この城の古さと共に在るのだなという感じがふかい。(*以降は中山図書館長の話)「この城は、別名桐ヶ城といわれました。松平康重の築城で、二条城の遠侍の間を模倣したといわれる大書院も建っていました。天守閣はもともとなかったそうです。篠山は、もと八上(やがみ)に城がありまして、関が原戦以後に、家康が西国の外様を抑える目的で、篠山の地を重要視して、自分の実子である親藩格の松平をこの地に封じたのです。八上城を廃してここに築城させたわけです。天下普請といわれるこの城の工事は大々的で、突貫工事だったそうです。(略)>
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     篠山城の南馬出の濠(地図1)
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舞鶴若狭自動車道(篠山口IC近く) 南馬出の不明門跡付近の表示板(地図2) 
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北側の内濠と本丸石垣・石垣下の犬走り(左右とも 地図3と4) 右写真の右方向の外濠に大手門と大手馬出跡 三の丸(旧二の丸)広場付近から 
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(左写真)広い西外濠 (右写真)馬出のある南外濠・不明門跡(地図5)
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南馬出は土塁が設けられている(地図6) (右写真)篠山藩校振徳堂(址)の説明版
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西外濠側に茅葺屋根・白塀の武家屋敷が並んでいる (右写真)岩茶房丹波ことり

かたわらにいる水上勉に中山さんの熱っぽい説明はまだまだ続く。水上は「ここには、昔からの花街はなかったんですか」と図書館長に質問する。篠山連隊といわれた兵隊のために繁栄した遊郭の話が紹介されるが、「阿部定」の話題はもちろんここには出てこない。その遊郭(京口新地)があった場所は、篠山城址から東方に数キロ離れた田圃の中。図書館長が説明した「廃された八上城」は、元遊郭のあった町並みの背後に遠く霞む高城山(朝路山)に築かれていた。連郭式山城で戦国時代の凄惨な記憶をまとって現在までその遺構を残している。八上城は、廃城と決まった後、1609年(慶長14年)3月9日の篠山城着工に際し、多くの資材(石垣など)を提供することになる。
八上城の「凄惨な記憶」を「信長公記」から拾いだしてみる。
(巻十一)の天正六年十二月十一日の日付けが記された後から<維任(これとふ)日向守(=明智光秀)は直に丹波へ相働き、波多野が館取巻き、四方三里がまはりを維任一身の手勢を以て取巻き、堀をほり塀・柵幾重(いくへ)も付けさせ、透間もなく塀際に諸卒町屋作に小屋を懸けさせ、其上、廻番を丈夫に、警固を申付けられ、誠に獣の通ひもなく在陣候なり。>
播磨(兵庫県)に出陣していた明智光秀は、丹波の八上城攻略の命をうけ、ただちに配下の軍勢を率いて反織田の波多野氏が籠もる八上城に取掛る。堀を掘った上に幾十にも柵を立て、小屋を透間なく建並べて完全包囲して駐留し、山城に籠もる敵勢全てを餓死させる作戦に入る。この包囲状態が半年間続いた後の翌天正七年六月 <去程に、丹波国波多野の館、去年より維任日向守押詰取巻き、(略)責められ候。籠城の者既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、後には牛馬を食し、了簡尽果無体に罷出候を悉く切捨、波多野兄弟三人の者調略を以て召捕り、六月四日、安土へ進上。則、慈恩寺町末に三人の者張付に懸けさせられ、さすが思切りて、前後神妙の由候。>
光秀勢は餓死せず生き残っているものを残らず切り殺し、波多野氏の血筋も安土城に送った上で実験にかけ城下で根絶やしにしている(「凄惨な記憶」と書いたがこの時代には枚挙に暇がないほど大量虐殺の伝えが残されている)。すでに天下の趨勢が決したあとに築城された篠山城には、実戦の気配は書き残されていないが、石垣などの一部には戦国の記憶(八上城の資材)が染み込んでいる。
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地図の左側(西外濠)に茅葺屋根の武家屋敷群や史料館が並び古城の雰囲気を楽しめる散策路になっている 水上勉が泊まった旅館は地図最上部 城内は明治5年の城郭取払令により櫓・門など建築物は棄却され 大書院のみが保存されてきたが 昭和19年1月の失火により焼失 この火災により建築物の遺構は皆無になる 昭和31年12月に国指定史跡に登録
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高城山(標高462m比高210m)の八上城址を遠望(中央に鉄塔が写り込んでいるこの写真だけ保有・・許して下さい) 山頂に波多野秀治の顕彰碑が建立されている 光秀軍による占領から曲折を経て 最後の城主となったのは篠山城を築いた松平康重 着手は慶長14年3月9日で同年12月に完成 康重は篠山城初代城主として入城した(篠山城の縄張は伊勢国津の藤堂高虎 普請総奉行は播磨国姫路(旧地名=書与)の池田輝政)
水上勉は、篠山城の大手門筋(城の北側)の旅館「潯陽」に宿泊し、旧(ふる)い城址、濠、それを取り囲む茅葺(かやぶき)屋根の武家屋敷群を散策し、その印象を書きとめている。最後に<(そうだ、わたしは、これから、暇をみてこの城を見にこよう)と思った。篠山は古城跡の生きている珍しい町である。>
参考
「負籠(おいご)の細道」水上勉1965年6月中央公論社刊(集英社文庫版は1997年刊)
「織田信長家臣人名辞典」1995年刊
「戦国合戦大事典6」1989年刊
「日本城郭体系12」1981年刊

兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
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2014年02月17日

岐阜 織田信長の稲葉山城攻略 「信長公記」から

<四月上旬、木曽川の大河打越し、美濃国加賀見野(=各務原市)に御人数立てられ、御敵井口(=岐阜)より竜興人数出だされ、新加納の村を拘へ、人数を備え候。其間節所にて馬の懸引きならざる間、其日、御帰陣候なり。>
前年(永禄9年)、織田信長は軍勢を率いて8月28日木曽川を渡り、河中島に陣したが洪水のため閏8月8日未明に信長軍は大敗している(「中島文書」)。同じく前年の9月5日、織田軍は北方の渡しから水路を墨俣に入り、柵を廻し築城(墨俣一夜城)。斎藤竜興の妨害を排除し、木下秀吉は三千の手勢で守る。9月25日、秀吉は飛報を信長に入れる(「武家事紀」古案)。「武家事紀」は江戸時代初期(1673年)に山鹿素行が著した歴史書(全58巻)。こうして足懸りを築いた信長は、美濃井口(岐阜)へ攻め込んでゆく。
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      稲葉山城(岐阜城)天守からの城下井口(=岐阜)の眺望

<八月朔日(=1日のこと)、美濃三人衆、稲葉伊豫守(=一鉄)・氏家卜全(=直元)・安東伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方に参るべき間、人質を御請取り候へと申越し候。然る間、村井民部丞・嶋田所之助人質請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参らず候に、俄に(にわかに)御人数出され、井口山のつゞき瑞竜寺山(稲葉山の南麓)へ懸上られ候。是は如何に、敵か味方かと申す所に、早(はや)町に火をかけ、即時に生(はだ)か城になされ候。其日、以の外風吹き候。翌日、御普請くばり(土木工事の分担)仰付けられ、四方鹿垣(ししがき)結ひまわし、取籠めをかせられ候。左候処へ美濃三人衆もまいり、肝を消し御礼申上げられ候。信長は何事もか様に物軽に御沙汰なされ候なり。>

<八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつゞきにて候間、舟にて川内長嶋へ竜興退散。去て美濃国一篇(美濃国全体を支配)に仰付けられ、尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と(井口の旧名は岐阜であるので信長が新しく命名したのでなく旧名に復しただけ)名付けさせられ、明る年の事、(=永禄11年)>
以上は、1567年(永禄10年)4月から8月にかけての織田信長による岐阜攻略における「信長公記」 の全記述(太田牛一「信長公記」四十四 「いなは山御取り侯事」 P80〜81)です。
美濃国の支配者斎藤氏の要害・稲葉山城を斎藤家の家臣(美濃三人衆)の内応を得て攻め落とした織田信長は、直ちに城普請を開始する。井口を旧名の岐阜に戻した信長は、稲葉山城も岐阜城と改め居城とする。信長はこの城を根拠地とし、「天下布武」の朱印を用い、いよいよ天下統一を目指し始める。
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(左写真)岐阜市内を眼下にする岐阜城天守(1956年築の鉄筋コンクリート模擬天守) (右写真)本丸天守より北方(長良川上流)
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織田信長の居館跡周辺 1984年より岐阜市教育委員会による発掘調査が開始され 土塁や石積みなどが発見されている
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JR岐阜駅前の黄金の信長像   「信長公記(しんちょうこうき)」角川日本古典文庫 昭和44年初版(著者は信長・秀吉の家臣であった太田牛一)

*発掘調査資料等を参照して さらに追加更新する予定です。
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2013年12月21日

能登・輪島 冬景色の輪島と真夏の朝市通り 水上勉「負籠の細道」から 

表題のように、能登半島の日本海側に港を開く輪島の町を、過去2度、夏と冬に訪れている。最初に輪島を訪れたのは夏の季節で、10代後半の学生時代の夏休みだった。朝市と海水浴を楽しむ人々で賑わう輪島の町を、真夏の日差しを浴びて歩き回った記憶が残っている。2度目は、TV番組の「輪島塗り」のロケ取材で、スタッフの一員(下っ端)として1週間ほど輪島を訪れたのだ。ねずみ色の暗い雪雲に覆われ、時折、横殴り吹雪に見舞われる厳冬の頃で、こちらは寒さに震えていたことと、宿泊していた旅館で借りたゴム長靴のことばかりを思い出す。
この冬の記憶と重なる文章を、水上勉の紀行文のなかに見出したのだ。作家水上勉は、雑誌「旅」に連載中の「日本の底辺紀行」の執筆のために昭和39年6月に奥能登を旅行しており、「奥能登の海石」と題する紀行文を発表している。輪島について記述している部分を抜粋。
<<六月のはじめに、金沢から能登へ廻った。(略)「木地屋(きじや)さんでっしょ」と女中さんはいう。「木地屋って・・・」「輪島塗りの下地をつくるところです」 私は、輪島塗りの作業そのものは一貫していて、製造工場でつくられるものと思ってきたのだが、きけば、輪島には、この種のうす暗い二階で仕事をする木地屋とか、沈金師とか、蒔絵師や大工などが無数にあるということであった。根をつめ、時間をかけて塗りあげねばならない精巧な漆器のことである。いくつもの分業を経て完成するのか、とあらためて・・・・(略)翌朝、私は輪島市内を歩いて、塗師土蔵を見た。その土蔵も暗かった。十畳ほどの板間の中央に、うすい座布団にすわった六十すぎと思える職人が、三味線のバチのようなヘラで、漆黒のうるしをこねていた。うしろの押入れに、何枚かの塗り終えた盆が見えた。そこが乾燥室らしかった。ゴミが入らないようにしているのだと老職人がいった。>>
水上勉の紹介した通りの同じ工程を、「輪島塗漆器 稲忠」の紹介により、沈金師や蒔絵師の自宅兼仕事場を訪ね回り撮影したことを思い出したのだ。その当時はすでに、水上勉が描写した「うす暗さ」は過去のイメージとなっていた。どの工程でも、一般住宅の一部を作業場として兼用していたことによるのだろう。
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上に記した「輪島塗漆器 稲忠」。撮影期間中は連日、日に数回も訪れていた。現在も同じ場所で変わらずに営業中のようだ、(右写真)雪景色の輪島港
*輪島塗漆器 稲忠HP http://www.inachu.jp/
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雪深い市内を各所撮影で廻ったのだが、この寺名は?思い出せない。(右写真)輪島・名舟町に伝承される「御陣乗太鼓」(キリコ会館近くの海岸で撮影)
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輪島市内から西方3kmほどの暗い荒涼とした真冬の西保海岸 雪混じりの寒風に晒されて、何時間この岩礁にいたことだろうか

水上勉「奥能登の海石」より
<<塗師土蔵を出て、町のはずれにある重蔵神社という名前がおもしろくて、立ち止まって御影石の鳥居を眺めていた。(略)小さな社のよこをぬけて海の方へ歩いた地点に、観音町というむかしの遊郭の町があった。「輪島観音町」という名も、私好みにすぎるかもしれないが、観音の町というのがおもしろい。素通りしてみるのも惜しい気がしたので、車を止めて、とある喫茶店をみつけて入っていった。小雨の中に煙っている町なみは、すべて昔の遊郭の面影をのこしていた。>>
この旧遊郭一帯は、撮影で訪れた当時は、輪島の唯一(だった気がする)の夜の歓楽街(小料理店・飲み屋・スナック等が灯りを点していた)となっており、毎夜のように旅館で借りたゴム長靴で雪を踏みしめて通ったことを思い出す(スナックのお姉さんのことは覚えているが、赤線があった頃と同じスタイルの店はなかったと思われる)。約1年にわたって連載された紀行文「日本の底辺紀行」を1冊にまとめて単行本として出版されたものが「負籠(おいご)の細道」(1965年6月中央公論社刊、1997年文庫版が集英社から発行)

以下は学生時代の旅行で撮った輪島朝市。長い歴史を誇る輪島の朝市は、全国の朝市を代表する存在と言ってよいだろう。その起源は千年以上も遡ると伝わっている。元旦から3日間と毎月10日・25日が休業日。
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当時 朝市のアイドルだったKMさん(撮影許可は得ていたが、ネットやブログなど想像もできない世の中となっており、海辺の写真などの公開は自粛・・彼女はその後、平凡パンチ(廃刊)のグラビアモデルとしてページを飾っている)
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参考
「負籠(おいご)の細道」1997年集英社文庫
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2013年12月20日

能登・輪島 国鉄七尾線 輪島駅(廃線・廃駅)

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    撮影年月日(月日不明・・8月初旬?)は下記年表に記載

1935年(昭和10年)7月30日 国鉄七尾線 穴水駅〜輪島駅 開通開業
 <<1975年8月初旬? 国鉄・輪島駅前広場から駅舎撮影(モノクロフィルム)>> 
1987年(昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化によりJR西日本所属の駅に
         4月30日 「のと鉄道(株)」設立(石川県等の出資)
        (のと鉄道能登線 昭和63年3月25日開始〜平成17年4月1日営業廃止)
1991年(平成3年)9月1日 七尾駅〜輪島駅 JR西日本から引き受け「のと鉄道(株)」七尾線の配属路線に
2001年(平成13年)4月1日 のと鉄道七尾線・穴水駅〜輪島駅 路線廃止・廃駅に

*参照 のと鉄道(株)HP http://www.nototetsu.co.jp/
    Wikipediaの各路線ページ
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2013年11月21日

広島 井伏鱒二の「黒い雨」

井伏鱒二の「荻窪風土記」(1982年刊)を時折、読み返している。
井伏は荻窪北口(清水町)に居を構えており、その住まいの近辺には弟子・太宰治がまとわり付くように下宿住まいをし、師のもとを度々訪れていた(戦前のことだ)。井伏の家(木造平屋建て)は現在も生前とかわらぬままに残っており、太宰が借りていた下宿のうちの1軒も当時のままの姿をみることができる。最近、井伏鱒二の晩年を代表する作品「黒い雨」(1965年「新潮」誌に発表)を原作とした映画(同タイトル・今村昌平監督)をDVDで観る機会があり、広島を撮った古い写真の存在を思い出した。
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1945年(昭和20年)8月6日・・・小説「黒い雨」(新潮文庫版)より抜粋。
<<・・・私が外の築山を見ていると、警戒警報解除のサイレンが聞こえてきた。時計を見ると八時であった。いつもこの時刻になると、アメリカの気象観測機がやって来て広島市街の上空を素通りする。例によってそれだろうと私たちは別に気にもとめなかった。(略)そのとき戸外で青白い光が凄く閃いた。東から西に向け、つまり広島市街から古江の裏山に向って飛び去ったようであった。太陽の何百倍もの大きさを持った流れ星のようであった。間髪を入れず大きな音が轟いた。(略)広島市街の方角に空高く煙が立ちのぼっていた。それが白い土塀の上に見えた。火山の噴煙のようにも見え、輪郭のはっきりした入道雲のようにも見え、とにかく只ならぬ煙であることだけは確かであった。>> p17〜18
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<<白い半袖ブラウスも同じように汚れその汚れているところだけ布地が傷んでいた。鏡を見ると、防空頭巾で隠されていたところ以外は同じような色で斑点になっているのが分った。私は鏡のなかの自分の顔を見ながら、能島さんの誘導で闇船に乗りこんで、もうそのときには黒い雨の夕立が来ていたことを思い出した。午前十時ごろではなかったかと思う。雷鳴を轟かせる黒雲が市街の方から押し寄せて、降って来るのは万年筆ぐらいな太さの棒のような雨であった。>> P31 
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文庫版のP237で主人公の一人・矢須子の被爆症状(発熱・脱毛)が描写される。映画では高丸矢須子役は元キャンディーズのメンバー田中好子(故人)が演じている。風呂場で髪が抜けることに気付くシーン(ヌード)は、いつまでも強烈に印象に残り続ける。
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原民喜の原爆小説を読みながら、この写真を載せる予定でいたが、井伏鱒二の「黒い雨」になってしまった。
(右写真)東京・多磨霊園の小達家墓所に眠る田中好子・・・2011年4月21日に55才で死去。本名は小達好子(おだてよしこ)。義妹の女優・夏目雅子(27才で死去)も防府市の大楽寺からの分骨を受け共に眠っている。
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2013年11月14日

高知 坂本龍馬生誕地

坂本龍馬は、1835年(天保6年)11月15日(旧暦)に土佐山内家の城下・本丁筋一丁目(現・上町1丁目)にて下士(郷士)坂本八平直足の次男として誕生。没年も同月同日。長兄・権平と姉3人(千鶴・栄・乙女)がいた。本丁筋の西方に質屋・酒造業などを営む本家の商家・才谷屋が在る。龍馬は手紙などで本家の姓を冠した変名「才谷梅太郎」を重ねて使用している。
坂本龍馬の名が死後、広く認知され始めるのは維新からかなり遅れて、明治16年に地元の土陽新聞に「汗血千里駒」(作・坂崎紫瀾)が発表されてから。その効果が出たのか明治24年4月になり贈正四位が授けられている。幕末のトップランナーに躍り出るのは、司馬遼太郎の長編時代小説「竜馬がゆく」(1962年6月〜産経新聞に長期連載)の主人公として西へ東へ奔走し始めてから。いつの間にか花街から抜け出てきたかのような「美人」のお龍も定着してきている。
先日、高知県立坂本龍馬記念館からメールで、11月の「龍馬月間」イベントの知らせが届いた(月1回の定期メール)。写真は昨年(2012年11月)の「龍馬まつり」で撮影した分です。毎年の参加などとても無理・・・土佐勤王党のリーダー武市半平太瑞山のファンなんだから・・・幕末土佐といったら「武市半平太」。
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桂浜公園(市内からかなり遠い)の巨大なブーツをはいた龍馬銅像(龍馬祭開催中は脇に櫓が組まれブーツが見れる)海は土佐湾(太平洋)
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高知城本丸からの城下  (右・下段写真)龍馬生誕地にて
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「11月15日」・・・土佐では生誕祭 京都では東山・霊山(りょうぜん)に並ぶ坂本龍馬・中岡慎太郎の墓前に毎年100名を越える人々が黙祷・合掌に参じます
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生誕地の場所に赤丸印  右写真は坂本龍馬も訪れていた武市半平太小楯の屋敷跡 公園の一角に石碑(屋敷跡碑と夫婦碑)が並んでいる

<<年月日は不明 慶応元年? 龍馬から土佐の姉・坂本乙女あて書状
西町蔵母ハいかゞ、定きづかいなるべし。然レバ蔵ハ此頃相不レ変一軍の参謀となり、戦場ニも鞭をとり、馬上ニて見廻りなど仕候。事なき時ハ自ら好て軍艦ニ乗組候て稽古致し候。勢盛なる事ニて候。先日もはからずあい申候て色**大はなし致し候。むかし西町のさハぎなどたがいニ申、実ニおもしろし。かの方へ御申し。かしこ。>>
<<文久三年五月十七日 龍馬から土佐の姉・坂本乙女あて書状
此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先(まず)きやく(客)ぶんのよふなものになり申候。ちかきうちにハ大坂より十里あまりの地ニて、兵庫という所ニて、おゝきに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしどもニも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時*船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船ジヨウキセンをもつて近*のうち、土佐の方へも参り申候。そのせつ御見にかゝり可レ申候。私の存じ付ハ、このせつ兄上にもおゝ(大)きに御どふい(同意)なされ、それわおもしろい、やれ/\と御もふ(申)しのつがふ(都合)ニて候あいだ、いぜんももふし候とふり軍サでもはじまり候時ハ夫までの命。ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいゝし事を御引合なされたまへ。すこしヱヘンニかおしてひそかにおり申候。
達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれ/″\ニもこれあり。
猶ヱヘンヱヘン、かしこ。
五月十七日 龍馬
乙大姉御本
右の事ハ、まづ/\あいだがらへも、すこしもいうては、見込のちがう人あるからは、をひとりニて御聞おき、  かしこ。>>
<<文久三年八月十四日? 江戸の龍馬から 姉・坂本乙女あて書状
此は(な)しハまづ/\人にゆ(言)ハれんぞよ。すこしわけがある。
長刀順付ハ千葉先生より越前老公へあがり候人江(へ)、御申付ニて書たるなり。此人ハおさなというなり。本ハ乙女といゝしなり。今年廿六歳ニなり候。馬によくのり劔も余程手づよく、長刀(なぎなた)も出来、力チカラハなみ/\の男子よりつよく、先たとへバうちにむかしをり候ぎんという女の、力料斗(ばかり)も御座候べし。かほかたち平井(加尾)より少しよし。
十三弦じうさんげんのことよくひき、十四歳の時皆傳カイデンいたし申候よし。そしてゑもかき申候。
心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず。夫ニいたりてしづかなる人なり。ものかずいはず、まあ/\今の平井/\。
○先日の御文難レ有拝見。杉山へ御願の事も拝見いたし候。
其返しハ後より/\。十四日
乙様    龍>> *江戸・千葉道場の「おさな」(さな)が登場

  *「龍馬の手紙」講談社学術文庫を底本にした「青空文庫」より

横須賀・京急大津 お龍の墓 信楽寺http://zassha.seesaa.net/article/135995149.html
横浜 料亭・田中家の「おりょう」http://zassha.seesaa.net/article/380154207.html


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2013年09月27日

山梨・田野 武田家滅亡の地 「天目山の雲」井上靖より

甲斐武田氏(武田勝頼)が、織田・徳川軍に滅亡に追い込まれる数ヶ月を、井上靖の短編小説「天目山の雲」の後半部分から抜粋して紹介する。短編「天目山の雲」は、1953年に文芸誌に発表された後、短編集「異域の人」(6篇収録・角川文庫)に収めらたが絶版に。角川文庫から再版された短編集「天目山の雲」(6篇を含む全12篇収録・1975年刊)に表題作として再び収められた。
<<勝頼は、半造りではあるが、新府の城で最後の一戦を試みようと思った。ところが三月三日の朝、最後の頼みとしていた高遠城の落城が伝えられた。三月三日に高遠城は、信忠の五万の大軍に包囲され、守将の仁科五郎盛信以下、城中の婦女小童に至るまで、よく防ぎ闘い、全員華々しく討死したのであった。高遠の城が落ちれば、最早これまでと、勝頼は、時を移さず、その日、去年十二月末に行列の装い美々しく移った許りの新府の城に火を放って、ここを退去することにした。主従は男女併せて僅か二百人を数えるだけであった。>>「天目山の雲」P114より
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甲斐武田氏の守神・武田八幡宮参道付近から新府城址を望む。周囲は武田氏初代・武田信義(のぶよし)の館跡。1582年(天正10年)3月3日朝、武田勝頼は新府城廃棄を命じ、城内の館に火を放つ。先立つ2月19日、勝頼の室・九条夫人(北条氏康娘19歳)は、武田八幡宮に武田家安泰の祈願文を奉納している(残存=県指定有形文化財)。写真の左後方に武田八幡宮がある。 
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(左写真)小山田信茂の居城だった岩殿城 (右写真)JR中央線大月駅ホームに置かれた岩殿城案内板
<<勝頼は小山田信茂の勧めで、彼の居城である岩殿が要害の地であることを知って、そこへ退くことにした。漸く火の手が高く上ろうとしている城を出た時、勝頼はまだこの時再起を諦めてはいなかった。(略)勝頼は駒飼を出発して、岩殿へ向おうとしたが、意外にも笹子には関が設けられてあり、鉄砲を打ちかけられ、この時、初めて、勝頼は小山田信茂に騙されたことをしった。>>「天目山の雲」P115より

ここで、甲斐・田野で武田家(武田勝頼・信勝)が滅亡する直前1ヶ月余の経過を時系列で略記しておく。
1581年(天正9年)
 12月24日 武田勝頼は、古府中・躑躅ヶ崎館から釜無川の北岸に切立つ七里岩の上に築いた新府城(現・韮崎市)に移る。(月日は「理慶尼記」より・「甲陽軍鑑」では1月)
1582年(天正10年)
 2月1日 勝頼の義兄・木曽義政(昌)が武田家から離反し織田方に内通する。(その日中に信長に使いが走る) 
 2月2日 武田勝頼、木曽の謀反を知り新府城を発し、諏訪・上原城に1万5千の人数で陣をはる。
 2月3日 信長、信州・甲斐への諸口より乱入を下知する。三位中将(織田)信忠軍は、伊那口、徳川家康は駿河口、北条氏政は関東口、飛騨口からは金森五郎八を大将にした軍を配す。ただちに森勝蔵らの先陣が木曽口・岩村口から武田領に侵攻開始。
 2月9日 信長、武田氏討伐の全軍への(戦略配置)指図書を発する。
 2月14日 先陣が木曽峠を越える。
 2月16日 木曽谷への要地である鳥居峠で戦闘始まる。
 2月18日 徳川家康軍、浜松を出陣。
 2月19日 勝頼の妻(九条夫人)が、武田八幡宮(韮崎市神山町北宮地・新府城の南約4km)に願文を奉じる。 
 2月25日 駿河国江尻(現在の清水市江尻)で遠州口の押さえを担っていた武田家親類衆の穴山信君(梅雪)が、家康の調略によって寝返る。梅雪は夜、雨のなか古府中に人質になっている妻子を脱出させる。穴山信君は、勝頼の姉(見性院)の夫であった。
 2月28日 武田勝頼、諏訪の上原城を引き払い新府城に帰る。新府城内で軍議。新府籠城・上州吾妻の真田昌幸領への転出・小山田信茂の岩殿城籠城の各案が討議される
 3月1日 穴山信君が江尻城を徳川家康勢に開城。三位中将信忠は、飯嶋より天竜川を越え伊那・高遠城を包囲。
 3月2日 未明から織田勢が高遠城に取り掛かる。織田信忠自ら武具を持って斬り入る。仁科盛信以下城兵四百余名(=首級数)は全員討死に。武田方の諏訪勝右衛門の女房が城中で男勝りの奮戦。「信長公記」に特記される。
 3月3日朝 勝頼は新府城廃棄を命じ、城内に放火。同時に人質も多数焼き殺す。三位中将信忠軍は諏訪表に至り各所に放火。家康は穴山信君を案内人として、駿河から甲斐河内領に乱入。この日の武田方のパニック状態を「信長公記」は克明に記している。夜 勝頼一行は古府中を通り抜け、勝沼の大善寺に宿泊。(「信長公記」には「落人の哀れ」の語有り)
 3月4日 勝頼、駒飼に移動。
 3月5日 信長が出陣。翌日、高遠城主仁科盛信の首を検める。
 3月7日 三位中将信忠が、諏訪より古府中(甲府)に陣を進める。一条蔵人邸に宿陣。武田一門の捜索・成敗を命令。岩殿城の小山田信茂が逆心し、勝頼一行の郡内への通過を阻止する。「武田三代軍記」に<小山田、鶴瀬から郡内の間に逆茂木(さかもぎ)を引き、城戸を構う。>の記述。
 3月8日 信長、岐阜より犬山に着陣。
 3月10日 勝頼の使番が笹子峠を偵察。小山田配下が発砲する。勝頼一行の駒飼(東山梨郡大和村)の山中への逃亡を滝川一益が知り捜索を開始。勝頼は天目山栖雲寺を死地と定めて移動。田子(田野)の平屋敷に居陣するところを、滝川勢に発見される。
 3月11日 朝、滝川勢の先陣に包囲され、勝頼親子以下41人の侍分と50人の女房衆、すべて自刃討死する(巳刻=午前10時頃)。勝頼親子の首級は、三位中将信忠の元に差し出され、直ちに信長のもとに進上される。信長は岩村に着陣。
 3月14日 信長は浪合(長野県下伊那郡)の陣で勝頼親子の首を検分。 
 3月16日 飯田の陣にて、信長のもとに勝頼が最後に差していた刀と仁科五郎の芦毛馬などが差し出される。
     *「信長公記」角川文庫版から年譜作成
<<勝頼は天目山に入ろうとした。勝頼が最後に選んだ拠点であった。併し、村人は一団となって、山上から鉄砲を放って、勝頼の入るのを拒んだ。勝頼は天目山で再起の機会を掴むつもりだったが、それも許されなかった。この時勝頼につき従う者は四十四人になっていた。田野という山中の部落に入った。そこの平屋敷に名ばかりの柵を造って休憩した。三月十二日の午(ひる)下りであった。織田方の滝川一益(かずます)の部隊が山中を捜索していた。その気配を知って、勝頼はこの時初めて自刃を決意した。>>「天目山の雲」P116より

以下の写真は、勝頼主従が自刃或は討死した田子(田野)の平屋敷。甲斐武田氏滅亡の地。寺院は後に家康の命によって建立された。
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山門は、1779年(安永8年)に再建されたもので景徳院では最も古い伽藍といわれる。
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景徳院本堂前の旗竪松。武田家累代の重宝旗(日の丸御旗=日本国旗の元になった)を世子である信勝の元服の折りに竪(た)てかけたことからと伝わる。
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信長が本能寺に倒れた後、徳川家康は甲斐国を手中に収め、勝頼が自害した最期の地に、勝頼親子の菩提を弔うため寺院を建立する。甲斐・中山広厳院の僧・拈橋(ねんきょう)に命じ、1588年(天正16年)に創建した田野寺がそれに該当する。後に寺名を勝頼の戒名である景徳院に改めている。田野寺を開いた僧・拈橋は、戦闘が終った直後に田野の山中に入り、討たれた武田家臣に戒名をつけて回ったと伝わる。(左写真)本堂の方向からの甲将殿。甲将殿には勝頼・信勝・九条夫人の三体の坐像と従者の位牌が祀ってある。甲将殿の左側(裏手)に勝頼主従の墓が見える。(右写真)甲将殿の正面。武田菱に注目。
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(左写真)中央が勝頼墓・右奥側が九条夫人の墓・左手前が信勝墓。その外両側に殉難従者を祀っている。この墓は、1775年(安永4年)に設けられたと伝えられていたが、1779年(安永8年)3月15日から21日までの7日間に執り行われた「200年遠忌」の際に建立されたものと判明。(県指定史跡=昭和33年6月指定) (右写真)発掘調査の説明板。
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(左右写真)没頭地蔵尊。後年、勝頼親子を偲び、地元の人々により首のない三体の地蔵尊が置かれた。

<<敵が間近に迫った気配を察して、勝頼は己が室の介錯を土屋に頼んだ。勝頼の室は法華経五ノ巻を誦し、誦し終ると小刀を口に含み前に倒れた。土屋が刀を降しかねている間に、勝頼自ら介錯した。勝頼の室は十九歳であった。(略)間もなく、山下から攻上って来る敵方の声が聞えて来た。勝頼、信勝、土屋三兄弟を初めとして、三十数人の武田勢は最後の合戦をし、敵の最初の攻撃を撃退、次の攻撃を仕掛けられるまでの僅かな時間をぬすんで、勝頼は、「土屋、敷皮を!」と言った。土屋は言われるままに敷皮を直した。勝頼はその上に座った。その背後に土屋は立った。勝頼は三十七歳であった。信勝の介錯は弟の土屋が承った。信勝は十六歳であった。>>「天目山の雲」P116より

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(左右写真)武田勝頼の生害石(享年37歳)。「信長公記」の記述は<歴々討死相伴の衆、武田四郎勝頼、武田太郎信勝、・・>とある。文字通り討死と取ってよいのだが、江戸期に成立した軍記(物語)は混乱状態だ。討死説を採る「甲陽軍艦」(江戸初期成立)や「武田三代軍記」(正徳5年成立)、自刃説は「理慶尼記」「甲乱記」(成立不明・刊行は正保3年)等である。また「甲乱記」の九条夫人の自害の様子は<腹に脇差を突き立て>と記している。
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(左右写真)九条夫人(北条氏康の六女・享年19歳)の生害石。勝頼と信勝の説明板が読めたことから、九条夫人のものと判明。 
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(左右写真)嫡男・信勝(享年16歳)の生害石(実母は死別した織田信長の養女・遠山夫人。信の一字は信長から)
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九条夫人の辞世の句碑 <黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒> 小田原の実父にすがることなく勝頼とともにこの地にて果てた。

甲州市塩山の武田氏の祈願所である雲峰寺に、日の丸の御旗・孫子の旗(風林火山)・諏訪神号旗などの武田家家宝が、家臣に託され運び込まれた。現在、雲峰寺の寺宝として宝物殿に展示されており見学可能。月曜休館。
*雲峰寺宝物殿HP http://unpoji.ko-shu.jp/treasure.html

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(左写真)「理慶尼記」の写しが景徳院境内に置かれている。江戸後期1809年に勝沼で発見された<史料>(?)。理慶尼(りけいに)は武田信玄の従兄妹(いとこ)で、1611年(慶長16年)に82歳で没(墓は田野に近い大善寺にある)。山深い渓谷の崖道での戦闘を尼が見聞していることが疑われ、価値は疑問視されている。勝頼の府中から新府城への移転の日付けは、この書では12月24日と記されている(江戸期に成立した甲陽軍鑑には1月)。(右写真)田野から南方(大善寺方向)を見る。
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田野から県道218号を日川渓谷沿いに遡った道路沿いに<土屋惣蔵片手切碑>が置かれている。勝頼一行は、田野よりさらに山中の天目山栖雲寺を目指したが、滝川左近(一益)の軍勢に阻まれ退却する。土屋惣蔵昌恒が殿(しんがり)を務め、崖道の狭所で片手で藤蔓につかまりながら もう片方の手で長刀を振るって奮戦する。討たれた滝川勢の血で日川は赤く染ったという伝説が残る。県道開通以前は、説明板の写真のように細い崖道であったようだ。

勝頼親子の首級の行方を追ってみる。
3月11日、勝頼親子の首級は、三位中将信忠の元に差し出され、直ちに信長のもとに進上。信長は岩村に着陣。
3月13日 信長、岩村から根羽村(穪羽根)へ移陣。は浪合の陣で勝頼親子の首を検分。 
3月14日 信長は平谷を越え、浪合(長野県下伊那郡)に陣。勝頼親子の首を検分。矢部善七郎が飯田へ首級を運ぶ。 
3月15日 信長 飯田へ陣を移す。勝頼親子の首を飯田で晒す。
3月16日 飯田の陣にて、信長のもとに勝頼が最後に差していた刀(滝川左近が差出)と仁科五郎の芦毛馬などが差し出される。勝頼親子、武田典廐、仁科五郎盛信の四人の首級、長谷川宗仁によって京都へ運ばれ。後日、六条河原(正面橋の約150m上流付近)で獄門に懸けられる。
<<法泉禅寺の三世・快岳禅師は、京都妙心寺塔頭の玉鳳院の南化和尚(後の定慧円明国師)の助けにより、勝頼の首級(歯髪とも)をもらい受けることに成功する。甲斐の法泉禅寺に持ち帰り、勝頼の首級を葬ろうとするが、当時は法泉禅寺は織田勢の陣所として使われていたため、寺内への首級の持ち込みは困難で、法泉禅寺よりさらに北の山中にあった上帯那の三上家を頼ってゆく。快岳禅師の様子に不審を抱いた織田家の家来衆によって、あやうく首級が見つかりそうになったという。禅師は咄嗟に三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中に首級を隠し、難を逃れたと伝わる。禅師はさらに山奥の大馬籠という栗林の中に仮の庵(信向庵)を建て、首級を守り通す。織田信長が本能寺に倒れた後、法泉禅寺に陣していた織田勢は引き払う。その機会をもって禅師は勝頼の首級を寺に移し、丁重に葬ったという。これが現在、「勝頼公首塚」と呼ばれている。>>法泉禅寺のHPから要約。
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(左右写真)甲府五山・臨済宗妙心寺派法泉禅寺(甲府市和田町)。武田勝頼廟所にある説明板には、勝頼公の首級を塡(うず)めと明記されている。
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     法泉禅寺の武田勝頼の墓。甲府市指定史跡。首塚の脇に山桜が植えられている。
*武田勝頼の菩提寺・甲府五山法泉禅寺 http://www4.nns.ne.jp/pri/hosenji/

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参考(引用)
短編集「天目山の雲」井上靖 角川文庫1975年刊
「信長公記」太田牛一 角川文庫版
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2013年09月23日

名古屋 映画館 シネマスコーレ

2012年2月19日に開館30周年を迎えた映画館「シネマスコーレ」(名古屋駅・新幹線口=中村口から徒歩2分)。「スコーレ」と聞いただけで反応してしまうあなたは超絶映画通です。千駄ヶ谷5丁目に本社を置くスコーレ(株)・・今は亡き若松孝二氏の本拠地・若松プロの建物に、その会社名の表札が掲げられています。
映画館「シネマスコーレ」(映画の学校の意)は、1983(昭和58年)年2月19日に映画監督・製作者である若松孝二氏(当時47歳)をオーナーとして開館しました。以来30年にわたり、メジャー系列では発表の場を得られない作品にスポットをあて、アジア系映画・インディーズ作品などをも巻き込んで上映プログラムを組んできてます。また上映だけでなく外国映画の配給にも積極的に進出。小さい館でありながら有名監督・俳優らが度々舞台挨拶に訪れていることを付記。
1983(昭和58年)の開館第1回目のプログラムは
 2月19〜28日 「犯された白衣」若松孝二+「テロルの季節」若松孝二+「聖少女拷問」若松孝二
 オーナーである若松孝二のピンク映画製作時代の若松プロ作品3本で幕開け。同年の以降のラインアップは長谷川和彦・高橋伴明・黒木和男・横山博人・東陽一らの監督作品が上映され、4月からは「愛のコリーダ」の大島渚・「セーラー服と機関銃」の相米慎二・「転校生」の大林宣彦ら人気監督作品が続いて上映されました。
全上映作品と若松氏のインタビューなどが同館のHPに掲載されており、地図・上映予告等の情報もあわせて確認できます。シネマスコーレ http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/
客席数 51席
名古屋市中村区椿町8-12 アートビル1階
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続きの写真を全て見る
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2013年09月20日

名古屋 名古屋駅前(桜通口)の風景

1973年(昭和48年)当時の名古屋駅前の風景写真を現在(2012年撮影)と並置してみました(2枚だけです)。
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1973年の名古屋駅前の毎日新聞中部本社ビル(右端・屋上に毎日新聞の広告)です 2006年に高層ビル「ミッドランドスクエア」竣工に伴い再度同じ場所に移転してきました(右写真の高層ビル)
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左写真は1973年撮影の桜通口・・駅ビル(右端)と奥の名鉄百貨店 右写真は外装は変化してますが現役で活躍中の名鉄百貨店ビル・・駅ビルは解体され現在はJRセントラルタワーズがそびえてます
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1965年5月竣工の「名古屋ビルヂング」(設計・三菱地所 12階建 地下4階) 2013年に解体・新高層ビルは2015年10月に完成予定
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左右共に桜通口 駅前ロータリーに1989年完成のステンレスのモニュメントが設置 左端は解体された名古屋ビルヂング 右写真は2段目左の古写真に対応・・タクシーロータリーに大きな樹が植えられている
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右写真は駅前で注目のモード学園スパイラルタワーズ(専門学校 HAL名古屋等入居)2008年3月竣工・・新宿西口のモード学園コクーンタワーと比べるとだいぶ小振りです
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2013年09月16日

金沢 兼六園・霞ヶ池 三島由紀夫「美しい星」より

三島由紀夫の異彩を放つ小説「美しい星」を読み進むうちに、金星人や円盤の世界に引き込まれ始めます。すると季節は12月に。舞台は金沢に移り、兼六園の霞ヶ池を訪れる場面で三島の美しい描写に読み進めなくなります。繰り返し、繰り返し読み返してしまいます。その描写に陶酔するうちに幸福感に包まれてゆきます。
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小説「美しい星」で兼六園を訪れる季節は遠い紅葉の落葉が届いている12月・・未だ雪の到来は先ですが、写真は雪の霞ヶ池・・まあ冬ということで
デジャブ(いつか視たことがあるという感覚)にとらわれながら女主人公暁子は丘の頂きの霞ヶ池のほとりに達します・・「目(ま)のあたり三羽の白鳥は、それぞれあらぬ方へ朱(あか)い嘴(くちばし)を向けて、ゆるやかに泳いでいた。池の対岸に張り出した内橋亭の茶室の、閉(た)て切った障子の白さが目にしみた。琴柱燈籠(ことじとうろう)のところで池と接する細流(ささなが)れは、清らかな水を運んで倦(う)まなかった。・・・」(P93より)霞ヶ池の描写は続きます。たまたま以前、フィルムで撮影した兼六園のポジに該当するかもと思えるカットがありましたので公開です。
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小説をコピーするのは苦痛なので、この先は読んでみてください。刊行は1962年(昭和37年)10月に新潮社より。文庫化は5年後で重版されてます。
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2013年03月14日

岡山 作家・吉行淳之介の墓

1994年(平成6年)7月26日午後6時半、吉行淳之介氏は永眠しました。
肝臓がんのため、入院中の築地の聖路加国際病院で亡くなりました。70歳。
故人の遺志によって葬儀・告別式は行われなかったようです。
吉行氏は、老いや病気を前にしても「男のダンディズム」の粋(いき)を貫き、その人生は最後まで「余裕」を失うことはありませんでした。
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岡山県岡山市北区御津金川(岡山駅から約15キロ北)の作家・吉行淳之介の眠る吉行家墓地(近年、母あぐりさんにより都内・メトロ外苑前駅近くの寺院に分骨)

1924年(大正13年)4月13日に、ここ岡山の地で吉行エイスケ(詩人)とあぐり(美容師)の長男として誕生。戦後、大学(東大英文科)を中退して雑誌社に入社。1952年「原色の街」が芥川賞候補作品になるが、肺結核を患い入院生活に。会社を休職・退職。清瀬病院に入院中の1954年、娼婦との交情を描いた「驟雨」で第31回芥川賞を受賞。「娼婦の部屋」「寝台の舟」「星と月は天の穴」「暗室」「夕暮れまで」(夕暮れ族という流行語を生む)・・主な文学賞をほとんど受賞したその作品群のなかからこの一篇をと問われれば、「砂の上の植物群」と即答。管理人が最初に吉行氏にふれたのは、作品が映画化されたスクリーンで。映画を観てから「砂の上の植物群」の活字をおったのです。小説・エッセイ・対談集などの読者から、とうとう「吉行家」全体のファンに。妹の吉行和子さんに初めてお会いした時の顛末は別項目で紹介済み。
吉行氏は容態悪化で、最初は5月9日に都内港区の虎ノ門病院に入院、亡くなる1週間前に重篤な状態となり聖路加国際病院に転院。最後を見守ったのは家族(母あぐり・妹の詩人吉行理恵・和子は海外滞在中で間に合わず)や親友の作家阿川弘之氏、実質の伴侶であり寝ずの看病をしていた女優・宮城まり子さん。
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(左写真)JR岡山駅の一番西北側(判り易く云うと賑やかで無い方)の津山線のホーム・・この列車に乗って金川駅を目指しました (右写真)その金川駅のホーム・・降りたのは数人
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きれいに整備された金川駅前前には3台のタクシー・・実は吉行淳之介の墓地の場所ははっきりと把握しておらず・・有名人なので訪れる方も多いはず・・地元のタクの運転手ならもちろんご存知・・先頭のタクシーに乗り込む・・(衝撃のお言葉)「知りません」・・「テレビ(NHK朝ドラ「あぐり」)でやってた頃はよく来てたみたいだけど、最近は・・・」・・ど、どうすれば
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(左写真)やっと辿りついた吉行家墓地・・小高い山すそに白塀に囲われた吉行家墓地が見えます(右写真)同じ位置から吉行家本家がある方向・・生家は岡山市で土建「吉行組」を経営しており叔父が後継ぎに・・
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坂下でタクシーを降りて一気に坂を駆け上り(たかったのですが・・実はゆっくり写真を撮りながら歩く)・・吉行家墓地入口に・・やっとお会いできました 右写真の中央後方に見える本家の付近
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(左写真)墓誌に刻まれた淳之介氏の戒名・・隣りには最後まで離婚に同意しなかった夫人の名・吉行文枝・・淳之介氏の死後までも果てしなく続く女の自我の争い・・実質的伴侶の宮城まり子さん(上野毛の多摩川に下る坂の途中の自宅に淳之介氏の遺体は病院から戻り、棺の中でなく書斎兼寝室のベッドに横たわって親しい方の弔問を受け付け、京都から駆け付けた瀬戸内寂聴さんの読経・散華の後、7月27日午後3時に出棺・・宮城さんは母あぐりさんの許可で葬式の一切を取り仕切ったのです)の住まいには現在も「吉行淳之介」の表札・・ほかの愛人もそれぞれ淳之介氏との日々を本にして出版してます・・読んだのは大塚英子の「暗室のなかで」だけ・・渋谷のMSにその部屋はあったようだがあいまいにしか記述されてなく場所は不明 (右写真)吉行家墓地からの眺め・・この崩された山が唯一の目印(それと草生の地名)・・この風景を目指してタクシーは出発したのです・・あとは近所(勝手に近くまで来たと判断)で農作業中の方に訊いたら「そこだよ」と指さしてくれたのです
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(左写真)JR金川駅の岡山方面の時刻表・・本数が少ないので注意

*吉行淳之助氏と宮城まり子さんが生活していた上野毛の住所は、1994年(平成6年)7月27日付けの訃報を伝える朝刊各紙に掲載されてます。妹の詩人・吉行理恵(子)さんは2006年(平成18年)5月4日に逝去され、墓は青山(外苑前)の寺院・・下記リンク参照。
*参考資料 
 上記日付けの朝日新聞朝刊
「吉行淳之介 街角の煙草屋までの旅」講談社文芸文庫2009年刊(P214に岡山の叔父の会社の記述)
「お墓参りは楽しい」2005年刊 (吉行淳之介墓地の項目・・地図はおおまか)

リンク
「北青山 特法寺 吉行家の墓地」http://zassha.seesaa.net/article/312370517.html
「市ヶ谷 あぐり美容室(閉店)」http://zassha.seesaa.net/article/17595273.html

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2013年01月27日

大津 阿部定の足跡 地蔵寺

阿部定が千葉県市原市の「勝山ホテル」(従業員勤務)から姿を消して以来、その消息は全く掴めない状態になります。行方不明なのです。
昭和50年前後になると、その「噂」があちこちから聞こえ始めます。
滋賀県の琵琶湖のほとりでの死亡説。同じ滋賀県の尼寺での死亡説。名古屋市内の尼寺での死亡説。熱海の保養所で変名で暮らしている説。
根拠のない「噂」が流れるなかで、「週刊文春」昭和50年3月12日号にかなり確実な情報の記事が掲載。昭和48年11月下旬に滋賀県大津の尼寺「地蔵寺」に尼になりたい者がいてそちらに向かうので宜しくというハガキが舞い込み、翌月の12月中旬になると実際に「阿部定」と名乗る老女が現れたという内容。そして尼である住職へのインタビュー。当日は住職本人は留守でお茶の稽古に来ていた若い女性が応対したと延べ、その老女の写真等による確認は拒否しているのです。「週刊文春」の記事は要領を得ない形で終わっているのですが、参考にしている「阿部定正伝」の筆者は追加確認取材で平成9年に地蔵寺を訪れるのです。健在でいる当時の住職に再取材し、実は留守ではなく、(5人も抱えていて)受け入れられない為に直接応対に出なかったことと京都の寺からの紹介だったことを明かし、さらにその老女は2度と現れてはいないと断言するのです。「阿部定」と本人が名乗ったことが唯一の証しで、それ以上の確証は得られないまま現在に至っているのです。
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地蔵寺の近くを流れる早朝の瀬田川 右後方の山の麓に有名な石山寺 紫式部が「源氏物語」の着想を得た地との伝承があります (右写真)石山寺駅に向かう京阪・石山坂本線のローカルな電車
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奥正面が阿部定が訪れたと推測される地蔵寺 最寄駅の唐橋前駅方向から撮影・・阿部定もこの方向から来たものと想定できます(右写真)左写真の反対側からの地蔵寺(画面切れの左に墓地)
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地蔵寺の玄関 阿部定はこの扉戸を明けた所まで尼になる希望を抱いて・・・・以後全くその消息は途絶えてしまいます

1905年(明治38年)5月28日生まれの阿部定、2012年現在で107歳。地蔵寺の山側(東南側・道路沿い)にある墓地を「もしかしたら」とつい立ち入りたい気持ちになってしまいました。実は「阿部家之墓」と刻まれた墓石が!?奥中央のコンクリ壁の手前にあるのです(もちろん没年等未確認)。また人騒がせなことを・・失礼。

*今回の地蔵寺訪問は早朝というか未明で、主目的は明智光秀の謀反時の唐橋での戦闘の場所の撮影(幕末どころか戦国時代の合戦があった場所にも趣味拡散気味の管理人なのです・・興味ある人も少なく誰も撮影に付き合ってくれないのが現状(特に女性・・甘いものスポットには次は何処とか積極的なのに))。この日は琵琶湖南岸を廻る楽しい?企画の最初のスポット・・で、早朝なのです。阿部定らしき老女が訪れたのは午後・・時間も合わせてシャッターを押したかったのですが。

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html

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2013年01月15日

名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭

阿部定が名古屋の中村遊郭に娼妓として紹介屋を介して住み替えて来たことは間違いないのですが、「予審尋問調書」だけ読んでいると混乱が生じて年月日があいまいになってくるのです。年表を作成したいのですが、「22歳の正月に」とかが満年齢なのか数えで言ってるのか・・・資料によっては別の場所で短期間だけ働いていたり・・その期間があいまいだったりして・・時間経過がゆがんでくるのです。
1927年(昭和2年)の正月から大阪・飛田遊郭の御園楼に約1年間住み込み、その後、同じ大阪の朝日席で約半年間働く(調書ではこの間が欠落してる)・・1929年(昭和4年)1月には満年齢で23才・・調書では「翌年早々、23歳の時名古屋市西区羽衣町の徳栄楼に前借二千六百円くらいで住み替えました」・・ここでは翌年早々を「1929年(昭和4年)1月」にしておきます。
阿部定は調書で「徳栄楼では二年ぐらい働きましたから、この頃は思い出の多かった時代です」と述べ、「貞子という源氏名で一生懸命働きましたので、売れっ子になり、可愛がられるようになりました」と続ける。この中村遊郭で働くうちに「チフスを患ったりして、だんだん商売が厭になったので、どこかえ住み替えようとして、無断で店を出て・・・」となり結局その後、大阪の松島遊郭に流れて行きます。

当時、この中村遊廓は、大須観音の近くにあった旭遊郭が廃止になり1923年(大正12年)4月に移転・開設されたもので、阿部定が住み替えてきた時はまだピカピカの状態。遊郭内は南側から順に賑町・羽衣町・大門町・寿町・日吉町の5町で構成され、この町名は現在もそのまま存続してます。阿部定の「羽衣町の徳栄楼」は下図で見ると下から2段目の通り・・通りの両側の建物がその町名となるのですが・・調査不足というか資料が見つからないまま。戦後の妓楼名はかなり詳細に判明してるのですが・・・。ここでまた永井荷風を尊敬してしまいます。空襲で焼け野原となり灰燼にきした玉の井の姿を見取り図に残していたのですから。昭和初期の妓楼名・位置が判る資料はあるのだろうか。
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中村遊郭跡の羽衣町の通りを名古屋駅方向(東向き)を奥にして撮影 かってはすぐ左側に遊郭「金華」その先には「第2松岡」がありました 現在は後ろにソープ・アラビアンナイトとハーベストムーンが向かいあって営業中 阿部定が在籍した「徳栄楼」は・・・この通りの前なのか後ろの方なのか・・・辿りつけません
(右)地図は上が北方向・・中村遊郭の敷地面積は約3万2千坪で東京・新吉原より広いといわれてます・・樋口一葉が描写した「お歯黒どぶ」と同様の堀が、この中村遊郭でもかっては存在してました。現在は全て埋め立てられ細い路地がその痕跡として残ってます・・その路幅は吉原とほとんど同じです。
中村区史には、大正12年の客数65万5千・・昭和12年が全盛で貸座敷数138軒・娼妓2千人。戦後はすぐに「名楽園」と改称し、売防法施行前の昭和32年12月27日に一斉に廃業。現在はその遊郭跡の所々で10軒ほどのソープランドが営業してるのみです(地図にSのマーク)。
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現在は営業形態を料理店や一般の会社などに変更して存続しているかっての独特の建物・・「中村遊郭跡」として別にアップする予定です。

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html

参考資料
 裁判予審調書
「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局
 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」)
「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」)
 その他
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2013年01月14日

高知・室戸岬 中岡慎太郎像

管理人のアルバムに眠っている古写真の公開です。
「秘蔵ネガフィルム発見!ついに近日公開!」とか言ってもったいぶりたいのですが・・・それほどの価値は無くただ古いだけの写真。過去の街並みなどの変遷がわかる古写真等もあるので関連する機会があればアップする予定です。今回は「なんのために・・いつ」撮ったかも失念している室戸岬のモノクロ写真。

幕末の京都で坂本龍馬と会合中に急襲され殺害された土佐・陸援隊を組織し隊長にも就いていた中岡慎太郎(変名・石川誠之介 行年30歳)。高知県室戸岬の突端に昭和10年4月7日にその栄誉を留め置くための像の除幕式が行われ、現在でもその中岡慎太郎像は太平洋に向いて屹立しています。
中岡慎太郎に関する知識は上っ面だけで、昨年11月に高知を訪れた際も「中岡慎太郎館」はパス。京都・四条河原町を40mほど上ったあぶらとり紙屋の前にある「寓居の地」碑には通る度に必ず視線を向けるほど気にはなるのですが、すぐ近くの近江屋に(大声なら会話可能な距離)事件当日、この家から出かけたのかどうかも判らないでいる。陸援隊屯所が置かれていた白川土佐藩邸(百万遍の京大農学部敷地)から近江屋にやってきたのだろうか。幕末期の河原町通は現在の3分の1ほどの狭さで近江屋はほとんど道路の上。「寓居の地」碑を見る度に当時の通りの狭さを何故か意識してしまいます。
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室戸岬に立つ中岡慎太郎像 現在とは周囲の様子がかなり違ってます 磯釣りセンターの建物は無くなり駐車場に 写真のおばちゃんは今でもお元気にしてますでしょうか?
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像の台座には「贈正四位中岡慎太郎」と縦書きで記され、台座脇のプレートには安芸郡連合青年団と室戸岬町連合青年団の2団体が建立者として並記。慎太郎は脱藩後に長州に逃亡してます。 (右)写真は室戸岬の岩場に砕ける波・・磯釣りに行った記憶無いし・・・??

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(左)四条河原町交差点近くの中岡慎太郎寓居の地碑 (右)白川土佐藩邸跡=京都大学農学部の駐車場脇にある石仏群

参考:ブログ「よさこい高知歴史木漏れ日」http://noburu.blog92.fc2.com/blog-entry-98.html 除幕式のあった月日が不明だったので参考にさせてもらいました。昭和10年とだけプレートには記述されています。
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2013年01月13日

丹波篠山 阿部定の足跡 京口新地

阿部定が17才の時、両親は神田新銀町19番地の家を売り払い、埼玉県坂戸町に移り住む。まもなく定の周辺には近所の男との情交の噂が流れ始める。父親の怒りは収まらず、母親らの反対を押し切り、定は横浜に娼妓として売り払われる。だが年齢不足のため当面は芸妓としての扱いとなる。大正11年7月のことであった。芸妓を手始めとしたが、18才を迎えるとすぐさま娼妓に身をやつし客を取り始めている。各地の妓楼を流転する日々がここから始ったのだ。横浜から富山へ、東京に一度は戻るが、次は信州飯田町の妓楼へ移り住む。その後は大阪に新設されて間もない飛田遊郭に住み込み、名古屋の中村遊郭、再び大阪の松島遊郭に移った。阿部定が娼妓として最後の生活を送った地が、山々に囲まれた丹波篠山(ささやま)だったのだ。
1932年(昭和7年)、すでに東京を離れて10年が過ぎ去り、阿部定は27才も終わろうとする年齢になっていた。阿部定の名が全国に喧伝されたあの猟奇事件まで、あと3年と数ヶ月・・・。
*阿部定の出生地は上記のように東京市神田区新銀町19番地で、出身小学校は実家(畳屋「相模屋」)のすぐ西側にあった神田尋常小学校(現在の千代田小学校)。阿部定は15才の時に、この町(神田多町)で始めて男を経験した。これが契機となり奔放な男遊びを繰り返すうちに、17才で父親の怒り買い売り飛ばされることになったのだ。
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篠山・京口新地の南方向に位置する御刃代神社前の細道から。現在も田畑に囲まれている。現在の表記は兵庫県多紀郡篠山町。
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(左写真)阿部定が在籍していた大正楼。現存している。建物の痛みは顕著だが、所々修理の形跡が見える。(右写真)南に向いた玄関口。大正楼の地番は379-26。現在の住宅地図を調べると所有者名は無記載になっている。
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(左写真)正面玄関に向って左の壁面に瓢箪形の明り取りがある。(右写真)向って右の東側の壁面(奥に風呂場がある)
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(左右写真)上の右奥角の風呂場 ガラス窓は割れたままで内部が見える。アルミサッシ製ドアが確認できる。近年の改修のようだ。

京口新地(遊郭)時代の建造物・遺構はほぼ失われている。新地時代の意匠が残る建物は、大部分が個人の住居として使用されているため位置情報は削除する。27才の阿部定は、この妓楼で最初は「おかる」、その後は「育代」の源氏名を使っていた。近くに駐屯地を設けていた陸軍歩兵第170聯隊の兵隊が主な客であったという。阿部定はこの妓楼で数多くの兵隊の相手を勤めていたのだ。
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(左写真)京口新地南側の新地端の用水路 (右写真)かって妓楼として使用されていたと思われる建物
阿部定は、取調べのなかで大正楼では玉ノ井の淫売以下の扱いを受けていたと述べている。27才の阿部定は、極寒の季節にこの妓楼から逃亡した。未明の足元も覚束ない道を3キロ以上離れた駅を目指し歩いたのだ。追手の姿に恐怖し、寒さに震えながら始発の列車に乗り込んだのだ。逃げた先は神戸だった。
*参考にした「阿部定正伝」(1998年刊)P76の「陸軍歩兵第70連隊」の記述は、陸軍第104師団隷下の「歩兵第170聯隊」の誤記だと思われる。
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参考
 裁判予審調書
「阿部定正伝」情報センター出版局1998年刊 
 映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」(「阿部定さんの印象」)筑摩書房1998年刊
「織田作之助全集5」(「妖婦」)講談社1970年刊

「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭」http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html
「浅草 阿部定の足跡 百万弗劇場」http://zassha.seesaa.net/article/319694968.html
「渋谷 円山町 阿部定の足跡 待合みつわ跡」http://zassha.seesaa.net/article/328923946.html
「宇治 阿部定の足跡 菊屋旅館跡」http://zassha.seesaa.net/article/381905711.html
「大阪 阿部定の足跡 飛田遊郭・御園楼」http://zassha.seesaa.net/article/385605810.html 
posted by t.z at 16:42| Comment(2) | 各地various parts of japan | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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