2013年12月02日

乃木坂 萩原朔太郎の「乃木坂倶樂部」 (改訂)

1934年(昭和9年)6月1日に第一書房より刊行された、詩人・萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)の詩集「氷島」に収められた一篇「乃木坂倶樂部」に描写された<アパート乃木坂倶樂部>の写真です。

乃木坂倶樂部
十二月また來れり。なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み荒漠たる洋室の中壁に寢臺(べつと)を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや すでに人生の虚妄に疲れて 今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな。
我れは何物をも喪失せず また一切を失ひ盡せり。
いかなれば追はるる如く歳暮の忙がしき街を憂ひ迷ひて晝もなほ酒場の椅子に醉はむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く 情緒もまた久しき過去に消え去るべし。
十二月また來れり なんぞこの冬の寒きや。
訪ふものは扉どあを叩のつくし われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく煖爐もなく 白堊の荒漠たる洋室の中 我れひとり寢臺に醒めて
白晝もなほ熊の如くに眠れるなり。
殺せかし! 殺せかし!
いかなればかくも氣高く 優しく 麗はしく 香はしく すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。
我れは醜き獸けものにして いかでみ情の數にも足らむ。
もとより我れは奴隷なり 家畜なり
君がみ足の下に腹這ひ 犬の如くに仕へまつらむ。
願くは我れを蹈みつけ 侮辱し 唾つばを吐きかけ また床の上に蹴り きびしく苛責し
ああ 遂に――わが息の根の止まる時までも。
我れはもとより家畜なり 奴隷なり
悲しき忍從に耐へむより はや君の鞭の手をあげ殺せかし。
打ち殺せかし! 打ち殺せかし!

荒廃と寂寥の心情が吐露された一篇です。詩人としての評価を決定づけた1917年(大正6年)2月刊行の第一詩集「月に吠える」、続いて1923年(大正12年)1月に上梓された詩集「青猫」によって、日本の口語詩表現の領域を大幅に拡大させ「口語自由詩の確立者」と称されるに至った萩原朔太郎。
「乃木坂倶樂部」の<去年はアパートの五階に住み荒漠たる洋室の中壁に>の「去年」とは、第一詩集の発表から12年後の1929年(昭和4年)の12月のこと。44歳の朔太郎は、家庭の不和(離婚)による精神的な苦悩と生活の荒廃の中、苦渋の年の瀬の日々をアパート乃木坂倶樂部で送っている。前年(1928年)からの稲子夫人の所業(男狂い)により、7月初旬には離婚を決意(10月14日付けで協議離婚届出)し、馬込(現・大田区)の家を引き払い、2児を伴って前橋(群馬県)の実家に帰っている。朔太郎の人生で最も苦渋に満ちた悲痛な日々となった時期です。10月下旬に至って上京の決意をし、11月14日に単身で<赤坂区檜町6番地(現在の港区赤坂8丁目 10番地か?)のアパート「乃木坂倶楽部」の2階28号室に入居>する。三好達治(世田谷代田に居住時代も近辺に住む)が探し出した「乃木坂倶楽部」は、近代的で高級なモルタル2階建ての大降りなアパート(メント)であったという。詩中の<去年はアパートの五階に住み>の5階は虚構だ。上京後、朔太郎は、辻潤(大杉栄と共に虐殺された伊藤野枝の女学校時代の語学教師であり元旦那)らとの交友も復活させている。詩集の「詩篇小解」(朔太郎自らの解説)に<乃木坂倶樂部>を語っている。
<<乃木坂倶樂部は麻布一聯隊の附近、坂を登る崖上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二兒を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白晝はベットに寢ねて寒さに悲しみ、夜は遲く起きて徘徊す。稀れに訪ふ人あれども應へず、扉に固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女等、ひそかに我が孤窶を憫む如く、時に來りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日辻潤來り、わが生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑ひ、共に酒を汲んで長嘆す。>>
あの辻潤が「荒蕪を見て唖然とせしが」のフレーズに驚いてしまう。辻潤の荒蕪しきった生活ぶりを知っている者には、その程度がわかりすぎる程理解できる・・・。
この「麻布一聯隊の附近」で「坂を登る崖上」にあるアパートメントについては、朔太郎の長女・萩原葉子の随筆集「父・萩原朔太郎」(1959年刊)においてもまったく触れられていない。参考になる「新潮日本文学アルバム」でも写真は掲載されていない。 
nogizakaclubr01.jpg  nogizakaclub02.jpg
(左写真)「坂を登る崖上」方向・・実際の「乃木坂倶楽部」は(写真右側の樹木の場所)崖下の坂の途中に存在していた この坂は明治期の地図にも記載されている (右写真)崖上から石段の下(北方向)を見る 左奥が「乃木坂倶楽部」
  nogizakaclubrmap01.jpg    nogizakaclub06.jpg
(地図)崖下は檜町10番地にあたる 山脇高女寄宿舎とアパート乃木坂倶樂部(6番地にまたがっていたかも)があった敷地は宗教法人(末一稲荷神社)の所有地となり立ち入りできない (右写真)檜町の町名が残る町内会連絡板  
       nogizakaclubr02.jpg
山脇高等女学校寄宿舎の旧門跡から南方向 手前が寄宿舎跡 奥にモルタル二階建の乃木坂倶樂部があった
   nogizakaclub07.jpg   nogizakaclub08.jpg

*参考
「現代詩読本 萩原朔太郎」思潮社1983年
「新潮日本文学アルバム 萩原朔太郎」新潮社1984年

萩原朔太郎リンク
鎌倉坂ノ下 萩原朔太郎の海月楼跡 http://zassha.seesaa.net/article/198000356.html
posted by y.s at 23:47| Comment(2) | 赤坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月27日

赤坂 高橋是清・蔵相私邸(2・26事件)

赤坂の高橋是清大蔵大臣の私邸襲撃の模様です。
「赤坂 近衛歩兵第三連隊跡(2・26事件)」http://zassha.seesaa.net/article/138528702.htmlの続きです。

1936年(昭和11年) 
2月26日 近衛歩兵第3聯隊第7中隊隊長代理(隊長は井上中尉)・中橋基明中尉は、午前3時40分に7中隊に非常呼集(ラッパ不使用)をかけ午前4時には7中隊舎前(隊舎は敷地の中央付近)に整列完了。呼集前に隊付き将校・今泉少尉を起こし、昭和維新断行を打ち明け参加打診。午前4時30分頃、隊列を揃え営門(西側の正門)を「明治神宮参拝」と称し通過。現在の道路でも弾薬配布場所までは10分以内で着くので雪道の下り坂を考慮しても午前4時40分〜50分にはシャム公使館北側脇に到着してるはず。
中橋基明中尉はこの地点で止まれの停止命令(ここで兵に昭和維新断行を告げている)。第1小隊(約60名)にのみ弾薬配布し、今泉少尉指揮の第2小隊(約60名)には同地点で待機命令。午前5時(一斉突入時間)に中島少尉を伴い第1小隊が行動開始。シャム公使館角のT字路を右折、すぐ左側の高橋是清私邸の塀(東門)を中島少尉指揮の兵が乗越え進入、北側表門(長屋門)の錠を内側から開かせる。中橋基明中尉指揮の兵が護衛警備の警視庁巡査(巡査3名+赤坂署の警部1名)を威嚇制圧しながら邸内突入。装備は小銃(実包約1000発)と拳銃のみ。
高橋是清邸は約6600平方m。当日は執事・書生(2名)・女中ら15名が邸内におり、年配の奥女中・阿部千代は2階の是清の居室の隣り部屋にいました。物音に眼を覚ました是清が屋根の雪が落ちたのだろうと告げたと千代は証言しています。裁判記録には蒲団をはがすまで寝ていたと記録されており食い違ってます。(同年3月22日付東京朝日新聞朝刊に娘・真喜の同様の談話が掲載・・又、未亡人となったしな子夫人(別棟の西洋館3階にいた)も詳細に蔵相の様子を述べてます)
午前5時5分に中橋中尉が「国賊!」と一声し拳銃発砲、中島少尉は軍刀で2突き(左腕・左胸)、高橋是清はうなり声のみで言葉なく即死絶命。部屋に入ったのは2将校のみ。後の家族の証言では蔵相の左腕は肩からとれそうなほどぶらぶら状態。
この暗殺シーンを描いた映画を1本だけ特筆。篠田正浩監督の「スパイ・ゾルゲ」(2003年公開)で高橋邸襲撃の短いシーンが挿入されてます。小金井の江戸東京たてもの園に移築された建物(実際の部屋)で撮影されており憲兵隊の調書に残る10畳の奥の部屋でなく階段上の手前の8畳間に向けて役者さんが発砲してます。
 
*蔵相襲撃部隊総員は137名・・近衛師団司令部から唯一人参加は下士官・大江昭雄曹長・・中島少尉は津田沼の鉄道第2聯隊付で歩1の栗原中尉の命令で参加・・中橋中尉は前夜10時30分頃に2名の曹長を連れて歩1の栗原中尉から襲撃用の弾薬を受領している。
蔵相襲撃終了後、中橋基明中尉指揮の部隊は半蔵門から宮城に入り坂下門警備に就きます。ここで2・26クーデタが成功したかも知れないチャンスが・・野中大尉指揮の警視庁襲撃の最大部隊との宮城内での合流(宮城突入占拠)です。坂下門警備の1時間30分の間に野中隊との連絡が不調に終わり失敗に・・決起からわずか3時間目のことでした。
nakahashi01.jpg nakahashi02.jpg
(左写真)近衛歩兵第3聯隊の営門を出て右に直進すると5〜6分で部隊はこの写真の位置に・・目の前の路地を左折すると弾薬配布・第2小隊待機位置です (右写真)奥の行き止まりを右に・・そこは高橋是清邸 手前のミラー付近が兵に維新断行を告げた場所
nakahashi03.jpg  nakahashi04.jpg
(左写真)右側石垣が高橋是清私邸・・東門付近
nakahashi05.JPG nakahashi06.jpg
東南側の当時からの庭に「高橋是清翁像」 公園として整備されていて無料公開(港区の管理)
nakahashi07.JPG nakahashi08.JPG
戦前建立の顕彰碑
nakahashi09.JPG nakahashi10.JPG
敷地は道路拡張(246号)で削られて狭くなってますが公園奥は人も少なく森閑としてます・・灯篭などは高橋邸にあったものなのだろうか
nakahashi11.jpg nakahashi12.jpg

*赤坂の高橋是清私邸の建物は都下・小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存されており内部見学可能です。以下は実際の建物内部写真で襲撃の模様をチェック。
続きの写真を全て見る
posted by y.s at 01:42| Comment(0) | 赤坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月20日

赤坂 2月20日・小林多喜二虐殺 (検挙場所) 

作家・小林多喜二は1933年(昭和8年)2月20日正午過ぎ赤坂區福吉町(旧町名)での連絡活動中、特高のスパイの罠に陥り今村恒夫とともに赤坂・田町6丁目の芸妓屋街を中心に逃走、溜池の市電通りで検挙され、連行された築地署の特高の激しい拷問により同夜・午後7時45分に絶命。今日が命日です。やっと花を手向ける代わりとしてこの写真と気持ちを捧げることができました。 *このブログは政冶的性格を有していませんし・・まして日共とは無縁です。
akasaka takiji01.jpg akasaka takiji02.jpg
道路右側が旧・福吉町です 左側は新町・田町になります 多喜二らの連絡場所といわれるそば屋「更科庵」は詳細な戦前の火災保険地図等で調べましたが・・田町6丁目のそば店「やぶそば田中」のみがチェックできたのみで不明です 空襲で赤坂一帯は灰燼に帰しており調査はストップしたままです 恐らく右側のどこかだと想像してます (右写真)道路左に樹木の辺りに「やぶそば田中」(地図の赤斜線) 
akasaka takiji03.jpg akasaka takiji04.jpg

akasaka takiji05.jpg akasaka takiji06.jpg
上段の右写真から田町芸妓屋街の細路地に・・現在も料亭街として・・夜は政治家の方々がお出ましです ほとんどビル化して風情は無くなってます 多喜二はこの路地を縦横に着物のすそをからげて疾走したに違いないです
akasaka takiji07.jpg   akasaka takiji08.jpg
「・・前の広い道を左に曲がれば市電の走る大通りに出れるぞ・・市電の通りだ・・多喜二は右の溜池停車場のほうに逃げろ・・私は山王下に逃げる・・さらばだ!・・(多喜二が一瞬だがこちらに顔を向けて微笑む)・・」
このシーンだけが夢の中によく現れます。場所もこの辺りのようで周囲の風景は戦前の木造2階建てが軒を並べている。何故だか多喜二と一緒に逃げている・・後ろには何も言わずに特高が迫っている。
文学者としての小林多喜二のファンです。それ以上に心優しい人間としての多喜二に寄り添ってしまいそうなくらい惹かれます。昨年、奈良駅から志賀直哉邸まで小林多喜二の辿った道を想像しながら歩みました。彼の視た風景を追体験するうちにいつものように涙が溢れ出て、前方から人が来る度に顔を見られないように苦労することに。死の前年(昭和7年)の4月上旬に多喜二は単独で志賀直哉を訪ね、帰京後に地下活動に入り隠れ家を転々としながら死に向かって行きます。なんの恐れもなく春の陽を浴びながら広々とした風景のなかを歩く多喜二。すぐそこに29歳の死が(満29歳)。
        akasaka takiji09.jpg
情報統制の中で資料そのものが限られてます ほとんどを想像するしかないのです 多喜二が視た街並みを当時の地図上で自分だけでも再現してみようと作ったものです もう管理人は細かな路地を走りだしてます・・多喜二の背中を追うように *地図のMの表記は「待合」のMです(三業地の内の1業態) 
akasaka takiji10.jpg  akasaka takiji11.jpg
右の新聞広告は、死の2ヶ月前に多喜二が特高の眼を逃れて鑑賞したコンサートの告知・・見つけたときは反射的にデジカメを取り出しそうに・・ここは都の中央図書館・・コピー申し込みコーナーに! *昭和8年2月22日(水曜)付け東京日日新聞の多喜二の年齢は31歳と数え年齢で表記してますが、満では29歳です

*参考資料等は「多喜二の死 築地署」でまとめて表示します・・早目にアップします。

posted by y.s at 22:22| Comment(0) | 赤坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月22日

赤坂 向田邦子・和子の小料理ままや跡

作家・脚本家の故・向田邦子が実妹・和子とともに、1978年(昭和53年)に赤坂の街に開いた店が
小料理「ままや」。以後、向田邦子の事故死を乗り越え、20年間にわたり営業を続けてきた。
開店のいきさつは、向田邦子のエッセイ集「女の人差し指」に収められた「ままや繁盛記」に詳述されている(初出「ミセス」昭和53年11月号) 。
<<おいしくて安くて小奇麗で、女ひとりでも気兼ねなく入れる和食の店はないだろうか。切実にそう思ったのは、三年前からである。仕事が忙しい上に体をこわしたこともあるが、親のうちを出て十五年、ひとりの食事を作るのに飽きてくたびれたのも本音である。
(略)
幸か不幸か、我が家は食いしん坊と同時に、嫁き遅れの血統もあるらしく、末の妹の和子が適齢期を過ぎたのに、苗字も変らずに居る。この妹を抱き込んで、店を出そうと決心した。
妹は、火災保険の会社に勤めるOLであったが退職し、一年ほど前から五反田で「水屋」という小さな喫茶店をやっていた。どうにか常連の客もつき、女ひとり食べてゆくのに不安はなさそうだったが、場所が大通りから離れていることもあって、活気という点では、いまひとつ、面白味がないように思っていた。
赤坂に十五坪の出物があると知らせが入ったのは、この一月末であった。
その前に六本木表通り角の靴屋の地下に、十二坪の居抜きのはなしがあったのだが、これは見送っている。理由は、この道五十年というベテラン不動産屋の、「履物屋の下の食べ物商売というのはねえ」というひと言と、その頃、私の知人の間で起った二件の酒の上の転落事故である。万一の時、寝覚めの悪い思いはしたくない。
その点、赤坂は一階である。場所も広さも申し分なかったが、その代り権利金もいいお値段であった。これだけで、予算をオーバーしている。しかし−「店は場所である」。ローンを払い終った私のマンションを抵当に銀行融資の詰もまとまったことだし、思い切ってここで勝負してみようということになった。三月一日大安吉日を選び正式契約。設計は高島屋設計部。工事は北野建設が引受けて下さった。
(略)
細長いウナギの寝床なので、従業員の更衣室は犠牲になったが、カウンター八席。四人のテーブルが三つ。奥に人数の融通の利くテーブルが二つ。定員二十八だが詰めれば三十二人は入る。従業員は妹と板前さんとあと三人。店の名は「ままや」。社長は妹で私は重役である。資金と口は出すが、手は出さない。黒幕兼ボン引き兼気の向いた時ゆくパートのホステスということにした。開店は予定より一月遅れて五月十一日となった。
  おひろめ
  蓮根のきんぴらや肉じゃがをおかずにいっぱい飲んで おしまいにひとロライスカレーで
  仕上げをするーついでにお惣菜のお土産を持って帰れるーそんな店をつくりました
  赤坂日枝神社大鳥居の向い側通りひとつ入った角から二軒目です 店は小造りですが味は
  手造り 雰囲気とお値段は極くお手軽になっております ぜひ一度おはこびくださいまし
案内状の文面である。開店当日は、みごとな大雨であった。しかも、開店時刻の午後五時には、暴風雨である。それにしても、客が入らない。本日開店粗品差し上げますの看板は、雨に打たれているとはいえ、入口には、スターさんたちの生花が飾ってあるのに、みな、店内をのぞくだけで通り過ぎてしまう。
(略)
はじめて四カ月。雨の日も風の日もあったが、思いがけずお客がつき、おかげさまで、まだ大の字はつかないまでも、繁昌している。>>
以上、「向田邦子全集第10巻 女の人差し指」文芸春秋2010年より抜粋。
mukouda k mamaya01.jpg mukouda k mamaya02.jpg
「ままや」が入居していたビルは、現在もそのまま残り、2011年11月時点で、「ままや」があったスペースには寿司店が入居している。

<<遺品の嫁入り〃が終わった平成十年三月、姉と始めた「ままや」を閉店した。二十年やったことになる。最初の三年三か月は二人三脚だった。いざとなれば、自称「黒幕兼ボン引き」に責任をとってもらえる。無意識のうちに甘えていた。「黒幕兼ボン引き」 にスパッと去られて、ひとりでやるしかない状況になった。
十年、店をつづけたら、姉の意志に応えたことになると勝手に思った。「よくがんばった」と褒めてもらえそうな気がして、どんな事があっても十年はやる、と誰に相談するともなく決めていた。そして十年経った時、ひょんなことで病気になり、入院するはめになった。「ままや」をたたもうと思った。母も、姉の迪子(みちこ)も賛成してくれた。ところが、店で働く人が賛成してくれない。
「ままや」は閉めないで欲しい、自分達でやって、うまく行かないなら、あきらめるが、一か月でも二か月でもやりたい、と言われた。これもいい経験だろう、と口出しせず、おまかせすることにした。私も退院後は店にこれまでの半分の労力しか傾けず、少しずつ体をならして行った。
(略)
余裕や余韻をたっぷり残して、きれいさっぱり幕をおろしたい。私の意地と見栄だったが、誰になんと言われようと、その決心は変えたくなかった。
よくつづけた、よくやった、という自己満足と肩の荷がおりる解放感、時間の自由……数えあげれば、きりがないが、熱い思いが胸のうちでうず巻いていた。
邦子が死んで十七年目。母九十歳、私は六十歳を迎えようとしていた。平成十年三月末、惣菜・酒の店、「ままや」の暖簾をたたんだ。>>
向田和子「向田邦子の恋文」新潮文庫2002年収録の「ままやの暖簾をたたむ」より抜粋(単行本1999年平成14年7月新潮社刊)
mukouda k mamaya03.jpg mukouda k mamaya04.jpg
「ままや」は、1998年(平成10年)3月31日に営業終了。その後「ままや」跡には、店内改装をすませた焼肉店が入居、さらに寿司店に変っている。向田邦子がカウンターに座り、妹和子が厨房に立つ写真に残る「ままや」の店内の面影はなにも残っていない。
寿司店「寿司むらまつ」の店主の話によると、和子さんが食事がてら訪れているとのこと(複数回来たのかどうか、記憶があいまい)。向田邦子が生前に購入して、母親と和子が暮らす赤坂氷川神社下のMSから散歩がてらやってきたのだろうか。
寿司むらまつ
  港区赤坂3-6-20 第9ポールスタービル1階
  定休日 日曜・祝日
  営業時間 平日11:30ー14:00 17:30ー23:00  土曜17:00ー22:00

<<火災保険の会社に勤めるOLであったが退職し、一年ほど前から五反田で「水屋」という小さな喫茶店をやっていた。>>
「ままや」を始める前に向田和子が経営していた喫茶「水屋」の場所は、確定とはいえないが、写真を掲げてみる。
gotanda mizuya01.jpg gotanda mizuya02.jpg
(左写真)右奥のトラックが停車している付近が「水屋」跡(推定、西五反田2-24付近)。 (右写真)「水屋」跡(=左後ろ)近くに流れる目黒川。
<<迪子(みちこ)姉は私と同じ実践女子学園の出だが、学校でも目立たない生徒だった私と違って、小さい頃から社交家で、利発で、勉強のできる元気のいい子だった。私が「ままや」を始める前に五反田でやっていた喫茶店「水屋」を開店するときにも、夫の仕事の関係で名古屋に住んでいたのにわざわぎ上京してきて、什器の準備や厨房の整理、メニューの用意などを率先しててきぱきと実行してくれた人で、すごく勘がいいというか、私と違って目ざとい人である。
「一千万円は私が出すから、自由に使って。ほかに五百万円、融通してもいい」
それで、ドジで不慣れな私が、迪子姉や友達の協力を仰ぎながらスッ夕モンダの末に開店にこぎつけたのが、五反田の喫茶店「水屋」(みずや)だった。
昭和五十年四月二十八日。「水屋」は、姉の命名である。開店した当座は案の定、ドジな私らしい失敗の連続で、舞い上がりっばなしだったが、幸い、気のいいお客さんに恵まれて、徐々にそれらしくなっていった。
五反田で開店したのは特に地縁があったわけではなく、たまたま手頃な物件が見つかったからここに決めたのだったが、周りに小さな会社や事務所が結構多く、そこの人たちが利用してくれた。
(略)
半年前、私の「脱サラ」に共鳴してくれた姉は、頼りない私をサポートして、この五反田の物件を決めるときにも同伴してくれたし、開店準備の作業にも何かとアドバイスしてくれたのだったが、本人はまさに仕事に脂が乗りきった時期だった。「寺内貫太郎一家」「じやがいも」などの脚本のほかにもエッセイや対談をたくさん抱えて超多忙の毎日だったから、「水屋」に顔を出したのも、ほんの二、三回だったと思う。
十月の初め、昼どきの忙しい時間が終ってカウンターでボケッとしていた私に、その姉が電話してきたのだ。「明日の朝、店に行く前に、青山のマンションに寄ってください。お母さんには、そのことを言わないでね」
翌日、言われたとおり朝早く姉に会いにいった私は、乳癌を告白された。>>向田和子「姉 向田邦子の遺書」文芸春秋2001年11月刊より
posted by y.s at 16:37| Comment(0) | 赤坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月17日

赤坂 近衛歩兵第3聯隊跡(2・26事件)

昭和11年2月26日(水曜)未明、現在のTBSテレビの敷地とほぼ同じ場所にあった近衛
歩兵第3聯隊の兵営から陸軍中尉中橋基明に率いられた第7中隊が出撃しました。
同日午後8時15分陸軍省発表、「本日午前5時頃一部青年将校等は左記箇所を襲撃せり。
・・(略)・・高橋是清大蔵大臣私邸、大蔵大臣負傷。」
翌日2月27日午後4時大蔵省発表、「高橋大蔵大臣は26日不慮の災禍にて重傷を負い
同日逝去。」
2・26事件時の出撃経路になった道路がそのまま残っています。
中橋中尉指揮の第7中隊の詳細は高橋是清蔵相邸のほうで紹介。
akasaka konoe01.jpg akasaka konoe02.jpg
 近衛歩兵第3聯隊記念碑(平成5年9月建立)  近歩3跡地大部分はテレビ局TBS(東京放送)敷地
    akasaka konoe03.jpg    akasaka konoe04.jpg
    円通寺坂の古い側壁に埋め込まれたように残る陸軍用地の境界石 
    円通寺坂の一般道に出る営門(東通用門)付近だと思われます
続きの写真を見る Article of the continuance
posted by y.s at 10:01| Comment(0) | 赤坂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする