2018年01月16日

大阪 大坂城天守前広場の作家・海音寺潮五郎 井伏鱒二「入隊當日のこと」より

戦時中の昭和16年11月、大坂城本丸天守前広場での海音寺潮五郎の背につるした日本刀のエピソード。そのエピソードは、薩摩を故郷とする歴史作家・海音寺潮五郎の諸作品に流れる基調(気概)に相通じるものがある。
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大坂城とその一帯は、戦前においては国内でも屈指の陸軍施設(第四師団基幹の第八聯隊、第三十七聯隊・陸軍砲兵工廠=軍需工場・大阪憲兵隊本部・陸軍病院等)が集結するエリアであった。天守前広場には陸軍第四師団司令部庁舎の建物が今日まで残されている(市立博物館として使用されていたが2001年に閉鎖)。

井伏鱒二「入隊當日のこと」より抜萃。
<<最近の海音寺潮五郎さんのことは知らないが、戦争中に陸軍徴用で入隊した當(当)時のことなら知つてゐる。昭和十六年の秋から翌年の秋にかけ、私は海音寺さんと同じ徴用仲間であつた。そのころの軍隊用語で云へば戦友である。
 十六年十一月中旬、徴用令状を受けた私たちは大阪城の天守閣前の廣(広)場に集結し、陸軍中佐の輸送指揮官に引率されて大阪市の兵隊屋敷に入隊した。一同百二十餘名、職業は種々さまざまであつた。新聞記者、雑誌編輯者、映畫(画)のカメラマン、新聞社の寫(写)眞部員、外地勤務の経験ある商社員、小説家、詩人、評論家、歯科医など。
 徴用者心得書には、なるべく目立たぬ服装で軍刀を持参せよと書いてあつた。たいていの人はジャンパーまたは背廣を着て軍刀を紫の袋に入れて持つてゐたが、私は釣師の服装をして細身の軍刀を入れた竿袋を持つてゐた。(略)>>
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大坂城本丸復興天守(徳川氏が再建した天守位置・昭和6年築)から見る天守前広場と旧第四師団司令部庁舎。

<<歴史小説家で日本史に詳しい海音寺潮五郎は、朱鞘の大刀を眞田紐で不断着(普段着)の背中へぶら下げてゐた。これにはみんな驚いた。今ならテレビでよく見る忍者の風體(体)だが、當時のことだから中国の物語にある股くぐりの韓信みたいだと云ふ人がゐた。宮本武蔵と對決した佐々木小次郎みたいだといふ人もゐた。海音寺白身は超然として長い刀を背負つてゐた。徴員たちは兵舎に入ると宣誓式をさせられて、宣誓書に判を捺させられた。これでもう地方人ではなくて軍籍に身を置いた者といふことになる。生命は指揮官の掌中に握られてしまつた。ところが指揮官の訓辞が強引にすぎた。宣誓式がすむと壇上に出て、いきなり居丈高にかう云つた。
「お前たちの生命は、今からこの俺が預かつた。ぐずぐず云ふ者は、ぶつた斬るぞ・・・」
すると徴員たちの誰か一人が、
「ぶつた斬つて見ろ」と大きな聲(声)で云つた。一同騒然となつた。途端に卒倒して医務室に擔(かつ)ぎ込まれる者がゐた。これは癲癇(てんかん)の發作を起して倒れたといふことで、即日歸(帰)郷になつたので、みんなから大いに羨やまれた。
 「ぶつた斬つてみろ」と云つたのは海音寺潮五郎であつた。當時、軍人に向つて、しかも自分の直属指揮官に向つて、そんな發言するのは容易な覚悟ではない。背中の日本刀がそれを發言させたわけでもあるまいが、常識では考へられぬことである。海音寺さんは戦地に着いてからもずつとそんな態度を崩さなかつた。朱鞘の大刀も相變らず背中にぶら下げてゐた。自分で納得が行かないと梃子(てこ)でも動かない人に見えた。>>

井伏鱒二「入隊當日のこと」海音寺潮五郎全集月報十三より(昭和45年10月)。
「文士の風貌」井伏鱒二1991年福武書店刊に収録。

井伏鱒二リンク
兵庫篠山 篠山城 井伏鱒二「篠山街道」と立原正秋「謎を秘めた篠山城跡」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/442950773.html   
山梨 甲府城址の目ざわり石塔 井伏鱒二「甲府−オドレの木の伝説」よりhttp://zassha.seesaa.net/article/447573364.html
難司ケ谷 夏目漱石墓改葬式典 井伏鱒二「五十何年前のこと」から http://zassha.seesaa.net/article/448168179.html
荻窪清水町 井伏家に身を寄せる太宰治の元妻小山初代 井伏鱒二「琴の記」より http://zassha.seesaa.net/article/443372590.html
滋賀 安土セミナリヨ跡 井伏鱒二「安土セミナリオ」より http://zassha.seesaa.net/article/453810803.html
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posted by t.z at 23:58| Comment(0) | 大阪osaka | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする